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第七章95 『頂点楚歌』



 その瞬間、白い雲を纏い、地上へ降臨した存在を戦場の誰もが眼に捉えた。

 あまりに雄大で勇壮、存在の根本から塵芥たる凡庸と異なる次元にある超越の生体――誰もが一目で理解する。


「――あッれが、龍」


 翠の瞳を見開いて、崩落する城壁の傍らでガーフィールが呟く。

 カフマ・イルルクスとの死闘を終え、肩で荒く息を吐きながら、自らの次なる役目を求めて戦場に目を巡らせた途端、それは起こった。

 遠方、空が落ちてきたのかと錯覚するような巨大な存在感は、この帝国で最も多くの戦意が燃え上がる戦場を、白く凍てつかせていく頂点決戦の一角に現れた。


「エミリア様……ッ」


 馬鹿げた容量のゲートを有し、繊細さと無縁のマナ運用で世界から熱を奪い去っていくのは、間違いなく本気になっているエミリアの所業だ。

 五つある城壁の頂点、その一角を守っている敵と戦っているなら、相手は『九神将』かそれに匹敵する存在であり、最低でもカフマと同格の相手になる。

 それだけで十分、エミリアを戦わせたくない敵だというのに、そこに現れる追加戦力が神話の存在とは、それこそ馬鹿げたことだった。


「呼んだのァ『飛竜将』か? クソ、今ッすぐ下がらせねェと……!」


 牙を軋らせ、ガーフィールは戦場の交代を心に決める。

 エミリアが戦えることと、エミリアを戦わせることとは単純に結ばれない。エミリア自身は反論するだろうが、彼女を戦わせるのは陣営にとって苦渋の決断なのだ。

 本来、エミリアは傷付く心配のない場所で、全てを見届けるべき立場なのだから。


「大将に顔向けできなくッなる」


 誰かに状況を任せ切りにしたくないと、そうエミリアが思うのは当然のことだ。

 そのいい意味での目線の低さも、思いやりも好ましいと思う。でも、その全部を許し、思った通りにさせてやることはできない。

 ましてやガーフィールはエミリア陣営の武官であり、陣営に降り注ぐ火の粉の全部を打ち払い、立ちはだかる敵を薙ぎ倒すことが役割なのだから。


「――――」


 目をつぶり、ガーフィールは静かに己の調子を確かめる。

 カフマとの戦いで負った重傷、全身を切り刻まれ、体の内側を押し広げられ、巣食った『虫』を殺すために自分の体を燃やし、しかしガーフィールは健在だった。

 健在と、そう嘯けるだけの状況だった。


「ピンピンしてるってなァ言いすぎだが……やれるッ」


 今も、足裏を付けている大地から力を吸い上げ、全力で発動させている治癒魔法の効果がガーフィールの肉体を、内外問わず猛烈な速度で癒していく。

 本来なら寿命を削りかねない負荷が肉体にかかるはずだが、水門都市の出来事は肉体的にも精神的にもガーフィールに殻を破らせた。

 目には見えない、確かにあったはずの薄皮を破り、ガーフィールは立つ。


 血の蒸気をおびただしい傷から上げながら、まるで燃えるように熱い体を動かし、ガーフィールは遠く、龍へ臨む覚悟を決める。


「てめェら! 城壁は俺様が崩した! とっととッ突っ込めやァ!!」


 口を開け、ガーフィールが吠えるのは遠目にこちらを見ていた叛徒の群れだ。

 ガーフィールより先にカフマに挑み、薙ぎ払われた一団。負傷し、仲間に支えられるものも含め、相当数がまだ戦力として機能するはずだが、彼らは一様にガーフィールとカフマの戦場から離れ、決着後にも動かないままでいた。

 それはガーフィールたちの戦いに圧倒されて、という向きもあるだろう。

 しかし、それだけではない。


「城壁を抜いたのはお前だ! なら、最初に抜けるべきはお前だ!」


「――――」


「勇壮なる戦士、我々はお前の武威を尊敬する! 何人たりとも、それを冒すことなどあってはならない!」


 半人半馬の男の一人が、ガーフィールの言葉にそう猛々しく答えた。

 カフマを打ち倒したガーフィールにこそ、最初に城壁を乗り越える資格がある。だから彼らは足を止め、こちらが城壁を跨ぐのをまんじりと待っていたのだ。

 それは彼一人の意見ではなく、直前の決闘を見た全員の意見であるらしい。身勝手な理由で戦いを起こしたものたちは、その内に秘めた戦士の誇りを史上とする。

 その彼らのお眼鏡に、どうやらガーフィールの戦い方は眩しく映ったらしい。

 彼らの心遣い、それ自体は胸を熱くするものがあるが――、


「悪ィが、俺ッ様ァいかなきゃならねェとこがあんだよ。『出戻ったウィップフロック』ってんじゃァねェ。――あいつだ」


 顎をしゃくり、ガーフィールは遠い空に君臨する白い龍を示す。

 プレアデス監視塔でも城郭都市グァラルでも、出くわす機会はあった。それを間の悪さで逃し続けてきたガーフィールが、ようやく噛みつける位置に龍がいる。

 戦いたいのではない。戦わなくてはならない相手なのだ。


「――――」


 ガーフィールの仕草を見て、叛徒たちも白い龍の姿に息を呑む。

 当たり前だが、彼らも同じものの存在は意識していた。それに怯え、膝を屈して頭を垂れないのが帝国民の異常な心意気だが、挑むか否かはまた別だろう。

 ガーフィールは、挑む。だから――、


「城壁越えは、てめェらに任せッてェ」


 崩れた城壁を乗り越え、叛徒が帝都に雪崩れ込めば状況が変わる。

 五ヶ所の頂点、いずれの防衛に立つのも帝国の最高戦力であるなら、水晶宮にいるだろうヴィンセント・ヴォラキア皇帝の周囲は守りが薄い可能性もある。

 文字通りの決定打が、この城壁に空いた大穴から放たれる可能性だって。


「だァから――」


 帝都攻めの先鋒を叛徒たちに譲り、ガーフィールは白い脅威との戦いを始める。

 そう、龍のいる頂点へ踏み出そうとしたところだった。


 ――ゾッと、ガーフィールの全身が総毛立ったのは。


「――ッ」


 無心。無心だった。

 躊躇なく、問答無用で、脳が訴える感覚に従い、渾身の一撃が放たれる。

 岩をも砕く鋼鉄の裏拳、それが風を殴り殺し、本能の導く先へと叩き込まれ――、


「――おお、ワシの隠形見抜くかよ。ヤバくね?」


 そんな、しゃがれ声が剛拳の向こうで聞こえた。


「か」


 刹那、背後の影に裏拳が当たったはずだった。

 間違いなく、手甲の表面に何かが触れた感覚があった。にも拘わらず、苦鳴が漏れたのが自分の口で、ガーフィールは思考を衝撃に打たれながら瞠目する。

 衝撃が突き抜けたのは背中だ。ガーフィールの背中に、ちょんと誰かの小さい足が、爪先が当てられている。とんでもない蹴り――否、違う。


「丸々、お前さんの一発じゃぜ。ワシの体通して、戻しただけよ」


 疑問に答える声があって、目を剥くガーフィールの全身の骨が軋んだ。

 嘘か真か、渾身の一撃に相当する威力に内臓と脳を揺すぶられ、ガーフィールの視界が大きくブレる。切り傷、打ち身、骨折や内臓破裂の類なら、即座に治せた。

 治り切らなくても、強引に動かすまでは持ち込めた。


 だが、体の芯に響く攻撃は、打ち消せない。


「――ッ」


 全身の痺れに奥歯を噛んで、ガーフィールの全身が追い打ちを警戒する。とっさの反応が遅れる手足を動かして、どうにか首と頭の急所を守った。

 しかし、恐れた追い打ちはこない。

 代わりに、追い打ちできた時間を使って行われたのは、牽制だった。


「実際、壁抜かれて中入られっと面倒じゃからよ」


 ため息まじりの言葉には、十人単位の苦鳴が重なっていた。

 崩れかける膝を叱咤し、上げた顔の視界に飛び込んでくるのは、ガーフィールの呼びかけを受け、帝都へ押し込もうと動きかけていた叛徒の一団、その先頭の横列に並んでいたものたちが倒れる姿だった。


 人馬人や獣人、彼らはその額や胸に黒鉄の飛刃――クナイと呼ばれる投擲用の刃を突き刺され、一瞬でその命を奪われている。

 仮に駆け付け、治癒魔法をかけても間に合わない。刹那の深手だ。

 彼らも戦士として、帝都へ挑むために相応の実力を備えていたはず。たとえカフマのような『将』に遠く及ばなかったとしても――、


「死んだら雑魚じゃぜ。戦士なんて関係あるかよ」


「――――」


「かかかっか! 気に入らねえって目ぇしとるんじゃぜ、若ぇの。城壁ぶち抜いたのもお前さんじゃろ。次から次へと、やべえのが出てきて困ったもんじゃぜなぁ?」


 口を開けて笑い、そう言いながら長い白眉を指でなぞる小柄な影。

 ようやく動いた足で地面を蹴り、距離を取ったガーフィールの視界に収まったのは、矮躯とされるガーフィールよりもさらに背の低い老人だった。

 だが、小柄な老人なんて表現、とても似つかわしくない怪物だ。


「てめェ……ッ」


「おお、待て待て、お前さんの相手はちょっちあとじゃ。ええと、そら」


「あァ?」


 敵意満面で睨みつけ、全身の毛を逆立てるガーフィール。しかし、老人はそのガーフィールに手を、手首から先のない右手を突き出し、押しとどめる。

 その腕の欠損にガーフィールが眉を寄せるのと、老人が足を振るのは同時だ。


 瞬間、何をしたのかわからないが、横一線の蹴撃が大地に深々と一線を引いた。それもガーフィールと老人と、背後の叛徒たちとの間を割るように。

 そして、線の向こう側にいる叛徒たちへ向け、老人が告げる。


「その線跨いでこっちきてみ。全員死ぬんじゃぜ」


「――っ」


「おうおう、聞き分けのいい奴らで助かるわ。里の若ぇ奴らにも見習わせてえのよ。このところ、ワシの言うことにいちいち逆らいよんのな。里長じゃぜ、ワシ?」


 細い肩をすくめて、老人が白い歯を見せながらにやりと笑う。

 直前の、叛徒たちにかけた脅しのことなど一切気にかけていない態度。だが、その脅しが嘘でも何でもないことは、この場の誰もが本能で理解させられた。

 ガーフィールも、理解する。――目の前の老人が何者なのか。


「オルバルト・ダンクルケン……『悪辣翁』だな」


「その呼び名、言われるたんびに言っとるんじゃけど、好きじゃねえのよなぁ。ほぼ悪口じゃね、それ」


「――。何ッしに、ここにきやがった」


 首を傾げた老人――オルバルトに、ガーフィールは低い声で問いかける。

 のんべんだらりと、自然体に見えるオルバルトだが、だからこそガーフィールの警戒は微塵も解けない。オルバルトは気配なく、ガーフィールの背後に立った。

 この、見晴らしのいい平原のど真ん中でだ。


「――――」


 気配を消し、建物の陰に隠れ、密やかに近付いてきたならまだわかる。

 それでも十分以上に脅威だが、それなら起こった出来事に納得できるのだ。しかし、この空間に気配なく割り込んでくる存在を、なんと捉えればいい。


 ただ、脅威としか捉えられない存在だ。


 そう戦慄するガーフィールの前で、オルバルトは変わらぬ態度のまま「ほ?」と片眉を上げると、


「何しにきたって、そんなもん決まってんじゃろ。逆賊共を中に入れねえのがワシらの仕事じゃってのに、カフマがしくじりよったから尻拭いよ」


 そう言って、老人は欠損した方の手で地べたに横たわるカフマを示す。それから、「おっと」と右手を引っ込め、代わりに左手で正しく指差し、


「貧乏くじじゃぜ、まったく。だから、チシャを出すなり、グルービーを呼び戻すなりせんとやべえって言ったのに、案の定、負けよるからよ」


「案の定だァ? ジジイ、てめェにこいつを笑う資格なんざねェぞ」


「ほ?」


 片目をつむり、不満げにするオルバルト。その視線を遮るように、ガーフィールは老人とカフマとの間に割って入り、熱のこもった息を吐く。

 カフマとは敵だ。それは変わらないが、真正面から拳を交えたガーフィール以外に、カフマの戦いぶりに、その在り方に口出しする資格はない。


「こいッつァ強かった。それ以上に俺様が強かっただけだ」


「――? いやまぁ、そりゃ見りゃわかるんじゃぜ? ワシもそれは否定しとらんじゃろ。何が言いてえのよ、お前さん」


「てめェの態度が気に喰わねェって言ってんだ! それがおんなじ側の、それもおんなじ『将』相手にかけるッ言葉か!? あァ!?」


 大口を開け、ガーフィールが噛みつくように吠える。その獰猛な唸り声に、オルバルトは眉を寄せ、首を傾げた。

 本気で怪訝そうに、老人は「あのな?」と言葉を継いで、


「ワシは一将、カフマは二将。全然、おんなじでも何でもねえんじゃぜ」


「――ッ」


 悪びれず、当然の事実を伝えるとばかりのオルバルトの発言。そこにわかり合えない断絶を感じて、ガーフィールの瞳孔が細くなった。

 肉食獣が獲物を定めた瞬間の形相、それが尾を引いて老人へと飛びかかる。

 カフマには、払うべき敬意を感じた。だが、目の前の敵にはそれがない。


 老人も、それを望んでも認めてもいない。

 戦いにおける、重要視するものの比重が違う相手と、そう認めて――、


「ぶっ潰すッ!!」


 振り上げた両腕がオルバルトへ迫る。

 手加減無用の剛腕、それは城壁を打ち砕いたのと変わらないか、あるいはそれを上回るほどの渾身、小柄な老躯などぶち抜いてお釣りがくるような破壊力が込められていた。

 それが、余すことなく、オルバルトの頭部へとぶち込まれる。


 ドン、と突き抜ける衝撃が大地を揺らし、砕かれる地面が爆発したような土煙を上げ、粉塵がオルバルトに足止めされた叛徒たちの頭上から降り注ぐ。

 あるいは、バラバラになったオルバルトが降りかかっても不思議ではない火力だ。

 しかし――、


「な、ァ」


 目の前の、その光景にガーフィールは目を見張る。

 眼前、オルバルトの頭部を左右から挟むように、ガーフィールの拳は打ち込まれた。確かな衝撃と手応えが、ガーフィールの腕にも跳ね返っている。

 なのに、老人はガーフィールの拳に頭を挟まれながら、白い歯を見せて笑い、


「すげえじゃろ? お前さんの攻撃の威力、そのまま地面に逃がしてんじゃぜ」


「――ぁ」


「ま、地面が大爆発してんのはお前さんの腕力がやべえからじゃけどもよ」


 言い終えた直後、拳に挟まれた老人の顔が下に抜ける。それを視線で追ったガーフィールだったが、


「ごっ!?」


 下に抜けたはずのオルバルトを目で追う、その頭頂部を衝撃が打った。

 オルバルトはしゃがんだはずなのに、何かに上から殴られた。


「下かと思ったら上、上かと思ったら下、基本よ、基本」


「が、あぁぁぁ――!!」


 しゃがんだオルバルトの軽々な言葉に、ガーフィールが猛然と拳を振り下ろした。それがオルバルトの白髪の頭部へと突き刺さる。

 瞬間、ガーフィールの後頭部を、背中を、臀部を、鋭い衝撃が貫く。


 ガーフィールの打ち下ろした拳は空振りし、地面に突き刺さった。

 代わりに、一瞬で姿をくらましたオルバルトの声が、すぐ真上から聞こえて。


「じゃから、下かと思ったら上じゃって。学びのねえ奴は置いてかれんぜ?」


 身を振るい、声に向かって腕を振り上げる。その指先が何かを引っかけた瞬間、ガーフィールはそれを強引に振り下ろし、地面に叩き付けようとする。

 地面に叩き付けて、身動きを封じて、そこに渾身の一撃を叩き込む。足が離れていればさっきのような曲芸はできないと――、


「――――」


 その闘争本能の訴えが、指に引っかけたのがオルバルトではなく、老人がガーフィールの頭上に投げたカフマの体だったと気付いて、停止する。

 地面に投げ落とす動きが停滞し、ガーフィールの唇がわななく。

 刹那――、


「あのな、お前さん、なんで二将は五十人からいて、一将はたったの九人ぽっちしかいねえんじゃと思う? ――ワシらがクソ強いからじゃぜ」


 声と衝撃が、ガーフィールの頭を左右から穿つように突き抜けていった。



                △▼△▼△▼△



 ――落ちてくる大質量の炎、それは世界を丸ごと焼き尽くさんとする天空の怒り。


 その赤く染まる世界を目の当たりにし、ヨルナはそう錯覚する。

 あるいはよほどの怒りを買えば、世界とはちっぽけな個人へここまでの怒りをぶつけてくるものなのかもしれないと。


 すでに焦土と化した大地、同じ方法で焼かれた叛徒と草木、それらと同じように内腑まで焦がされた死体と成り果てる壮絶な火力が降ってくる。

 しかし、それに対してヨルナは身じろぎせず、


「――陽剣」


「何とも、娘使いの荒いものよ」


 ヨルナの唇が紡いだ音、それを合図に真紅の宝剣が縦に振られる。

 見るものの目を奪い、心を焼いて、魂さえ虜にするだろう美しい剣。その魔性は宝剣にとっては添え物に過ぎず、本来の存在理由の片鱗ですらない。

 すなわち、本来の存在理由を果たすとき、その宝剣の輝きは一層強くなる。


「――――」


 下から上へ、大地から空へ、その剣先を振り上げられる『陽剣』が、まっしぐらに落ちてくる凄まじい大火を迎撃する。

 刹那、視界を埋め尽くした強大な炎が立ち消える。――断ち切られたのではない。文字通り、その存在がなかったの如く立ち消えたのだ。


「陽剣は妾の焼きたいものを焼き、斬りたいものを斬る」


 あまりにも暴力的で、理不尽で、不条理な理の押し付け。

 だが、その成立が眼前の光景であり、世界さえ滅ぼすように思えた業火の消失だ。

 相応の力を注ぎ込み、こちらの先手を挫くつもりで放たれた大火力、それが剣の一振りで掻き消される光景には、さしもの相手も平静ではいられまいと――、


「侮るでない、あれは『精霊喰らい』じゃ」


 説明としても忠告としても不親切、その一言を置いてプリシラの姿が右へ飛ぶ。

 同じく、飛んだプリシラとは反対の左へ飛んだヨルナ――その両者の間を、凄まじい勢いで突き抜けたのは大質量の鉄砲水だ。


「――っ」


 まるで、井戸の中身を丸々放出したような水量を目の当たりにし、回避に成功しながらもヨルナは敵の――アラキアの実力を、以前の感触よりも上方修正する。


 ヨルナがアラキアと戦うのはこれが初めてではない。

 以前にも一度だけ、ヨルナが起こしたとされる『謀反』の際に矛を交えた。

 あのときはアラキアの背後でヴォラキア最強が睨みを利かせてきていたことと、ヨルナ自身も万全の状態で迎え撃てるカオスフレームが舞台だったこともあり、すでに前提条件が様々に違ってしまっている。


 無論、戦うという意味ではヨルナも本気だったが、殺し合うという意味では本気ではなかったというのが本音のところだ。

 過去の謀反、特にアラキアとぶつかる結果になった謀反の際、ヨルナの目的は魔都の住人に手出ししたものへの報復と、そうすることの正当性の周知だ。

 すなわち、ある種の示威行為が目的であり、盤面を挟んで対峙したヴィンセントもその意図を承知していたはずの、手打ちが見えたぶつかり合いだった。


 ただし、あの時点でアラキアはその事情を知らず、おそらくヨルナとの戦いにも手を抜いていなかったと考えられる。

 そこからヨルナは、アラキアの実力があくまで軍勢相手に秀でた、単体で一軍に匹敵する戦力としての役割を求められたものと想定していた。

 しかし、その認識は誤りな上、甘かった。


「オルバルト翁を差し置いて『弐』とは、こういうことでありんしたか」


 吐息と共にそうこぼし、ヨルナはちらと背後――放たれた水の圧力で、その地平線まで縦に割られた大地を見やる。

 圧力をかけられた水が脅威となる理屈はわかる。

 だが、その規格外さを見せつけられ、ヨルナは己のキモノの袂をまくった。


 決戦に備え、一番のお気に入りのキモノを着込んできた。

 それであっても、アラキアの一撃を受け止められたものかと。


「以前は火を使うばかりで、わっちの都を半分燃やしたこともありんしたが」


 一息に都市の半分を焼き、この日も叛徒を城壁ごと焼き尽くしたアラキアだ。

 石造りの建物との相性もいい炎による防衛線、周囲を顧みる必要のない戦場はアラキアにとっても都合がよく、今さら戦法を変えることもないと思い込んでいたが。


「これも誰ぞの入れ知恵、妾に向けねば可愛げもあろうがな」


 そうこぼし、地を蹴るプリシラがアラキアへと距離を詰める。

 星型の城塞、その頂点の一角を守るように背後に置きながら、アラキアはその足の膝下を燃やして宙を飛んでいる。

 ただ高空から、容赦のない火力が降り注ぐだけでも十分脅威だ。

 まず、アラキアを手の届く場所へ引きずり下ろす必要がある。


「母上!」


「――ッ、わかっておりんす!」


 駆け抜けていくプリシラの掛け声に、ヨルナの中に刹那の動揺が走る。

 まだ、再会した娘との距離感はちゃんとしたものが掴めていない。むしろ、姿形の変わった母に対するプリシラの、あの堂々とした態度の方が疑問だ。

 乳飲み子時代に別れた以上、プリシラの育ち方は知る由もなかったが。


「踊りなんし」


 煙管を口から離して、ヨルナはその先端を振りながら厚底の靴で地面を叩く。

 すると、前進するプリシラの正面、ゆっくりと震える大地が剥がれ、それがプリシラの行く手を支えるための足場となるために浮かび上がった。


 ヨルナの『魂婚術』は、無機物にも作用する。

 ただし、相応の思い入れと、過ごした時間とが効力の強さに比例する仕組み。それ故に不安はあった。――果たして、愛した男と過ごした大地を、どれだけ愛せるか。

 だが、結果は御覧の通りだ。


「大義である」


 母を母とも思わない発言を置いて、プリシラが正面の足場へ飛び乗った。

 無論、足場はそれだけにとどまらず、次々と浮かび上がってアラキアへの道を作る。一本道では的にされると、複数の道を形作る配慮も抑えた。

 それで――、


「――邪魔」


 枝を持った腕をアラキアが振るうと、放たれる大風が浮遊した大地を根こそぎに吹き飛ばして全ての道を薙ぎ払った。

 大風の威力は暴風どころか、巨大な掌に殴られたに等しい威力で、直撃されればプリシラさえも全身が潰される可能性のあったものだ。


「それを容赦なく妾へ打ち込むとは、妾の美貌が惜しくないか?」


「決めたの。手足がなくなっても、姫様は姫様」


「決めてもらった、の方が正しかろうよ」


 目を細め、高々と空から落ちてくるプリシラがアラキアへ言葉をぶつける。

 大風が足場を薙ぎ払う寸前、それより早くプリシラは空へ逃れた。かろうじて風の一撃は躱した勘の良さは大したものだが、二撃目に無防備なことは変わらない。

 事実、その瞳から迷いを消しているアラキアは、為す術なく落ちてくるプリシラの手足に狙いを定め、容赦なく戦闘力を奪おうと腕を上げた。

 そこへ――、


「わっちを忘れてもらっては困りなんす」


 頭上のプリシラを見上げたアラキアへと、真下から飛んだヨルナの蹴りが届く。

 長い足を蹴り上げたヨルナの足、履物の厚底は大層気に入って、丹念な手入れと修繕を重ねて時を積み上げてきた大事な逸品、まさしく精魂込めた一撃だ。


「年甲斐もなく、妾より目立とうとはな」


 そのヨルナの蹴撃に合わせ、プリシラも掲げた『陽剣』を真っ直ぐに振り下ろす。上下から、親子二代の攻撃に挟まれるアラキア。

 息の合った連携と、自賛したくなるような惚れ惚れする二撃、それが打ち合う。――そう、打ち合った。


「――っ!?」


 アラキアを捉えたはずの一撃、それが命中の反応を遅らせ、想定と刹那だけズレた衝撃は硬い音を響かせた。

 見れば、ヨルナの蹴り上げた厚底とぶつかったのは、他ならぬプリシラが打ち下ろした陽剣の刀身だ。

 挟み込むはずの攻撃が肝心の相手を外して、互い同士で打ち合う驚天動地。

 もっと驚くべきは、そのヨルナとプリシラの攻撃がぶつかり合ったのが、揺らめいて見えるアラキアの体の中だということだった。


「透過で、ありんすと?」

「小癪」


 ヨルナの驚愕とプリシラの苛立ち、それが同時にこぼれた直後、攻撃を体内に収めたアラキアの体が白く発光し、反撃が放たれる。

 アラキアの全身が爆ぜたかの如く――否、事実として爆ぜた。

 白い光の破片となって飛び散ったアラキアの体、それが恐ろしい拡散力を伴った散弾となって八方へ散らばり、水飛沫のようなそれがヨルナとプリシラを襲う。


「く……っ!」


 とっさに、ヨルナは先ほどの大風に薙ぎ払われ、細かな土の破片となった大地をかき集めて、粉塵のように自分とプリシラの周囲を纏わせた。

 纏う、と言っても体に張り付けて衣とするのではなく、その周囲を高速で巡らせて攻撃を弾くよう仕向ける小技だ。

 アラキアの散弾が見た目相応の火力しかなければ、十分威力を軽減できると。

 だが――、


「――っ!!」


 纏った土の衣を容易く貫いて、アラキアの破片はヨルナとプリシラを穿った。

 衝撃に吹き飛ばされ、苦鳴を上げながらヨルナは地上へ落ちる。とっさに伸ばした足先を地に付けて、無様に転がるような真似だけは全力で回避。

 倒れるわけにはいかない。ましてや、背を付けて惨めに転がるような真似はダメだ。


「わっちを、愛したものたちが惑うでありんす……っ」


 ヨルナの抱える魂の重みは、彼女を愛するものたちの存在によって維持される。

 なればヨルナは全力で、その愛情に応えなくてはならない。愛に応えるということは生半可なことではないのだ。

 その所作、言動、情動までも含めて、相応しくあろうとしなければならない。

 それは日常であろうと、閨であろうと、戦いの最中であろうと、同じだ。


 ――パン、と軽い音を立てて、ヨルナの結った髪に刺している簪が砕け散る。その簪に吊るしてある、幾重にも鱗を重ねて作った髪飾りごと。


「誰ぞの贈り物か? 母上」


「――。妾の愛し子たちからの贈り物でありんす」


 砕け、塵と化した髪飾りの破片を指に受け、ヨルナはそっと目を伏せる。

 ヨルナの身に着けた品々、その大半は贈り物だ。キモノも履物も、そして髪飾りの類でさえも、魔都で暮らす住人たちが己の手で織り、象り、あるいは身を削って作り出した逸品であり、魂のこもったもの。

 ヨルナの愛を受け、そしてヨルナを守るために代わりに砕ける資格を持つもの。


「主さんも?」


「生憎と、妾は母上ほど節操なしではない。元より持ち合わせたものと、すでに亡き夫からの貢物といったところよ」


 言いながら、プリシラが自分の耳をそっと見せる。すると、そこにあったはずの翠の宝石を付けた耳飾りがなくなっている。

 彼女もまた、自らの命の代償を、己を愛するものへと移し、永らえたのだ。


「夫でありんすか。プリシラ、主さんも――」


「神妙な顔をしたものよな。消えた耳飾りは、確か四人目の夫からもらったものじゃ」


「よ……っ」


「妾は八度、夫を得た。もっとも、母上には及ぶまいが」


 淡々と述べるプリシラ、その想定外の答えにヨルナは開いた口が塞がらない衝撃を覚える。が、その衝撃も、プリシラが握り直した陽剣の輝きに打ち消される。

 先ほどの、あの奇妙な現象は。


「プリシラ、陽剣であればどんな相手にも届くはずでありんしょう。それこそ、魂へ届かせる命剣以外に断ち切れぬ相手でなければ……」


「母上に言われずとも、その認識に相違ない。じゃが、思い違いがあろう」


「思い違い?」


「妾の陽剣は焼きたいものを焼き、斬りたいものを斬る」


 そう言って、プリシラがゆっくりと陽剣の剣先を掲げる。

 それをヨルナが視線で辿れば、陽剣の剣先の向こうに浮かび上がるのは、飛び散った白い光が寄り集まり、少しずつ形を成していくアラキアだ。


 喰らった精霊の性質を反映し、その肉体に力を宿すとされる『精霊喰らい』――実態の知れない希少な力ではあったが、その機能の拡張性には目を見張る。

 今も、その肉体が如何なる原理で光と化したのか――と、そこまで考えて気付く。

 陽剣は斬りたいものを斬る、万物へ届き得る宝剣だが――、


「――それは炎か、水か、はたまた風か? あるいは光とも影ともつかぬとなれば、届かせるのにさぞ難儀しようよ」


「――――」


 紅の瞳を細めたプリシラが、同じ瞳の色をしたアラキアと視線を交錯させる。

 万物へと届き得る陽剣の所有者と、万物へ変じる能を有する超越者の対峙――。


「なるほど、厄介な相手に育ったものでありんす」


 ここがカオスフレームであれば、ヨルナにも真っ当にぶつかってアラキアを削り切る見込みがあったかもしれない。

 しかし、ここはカオスフレームではなく、ヨルナの力も十全とは言えない。

 故に、決定打を有しているのはヨルナではなく――、


「――いつなりとでも、舞台の中心は妾ということよな」


 そう、置かれた苦境すらも自らの糧とする、太陽の如き紅の娘が嫣然と微笑む。

 その微笑の眩さに、並び立つヨルナさえも思う。


 プリシラの眩さに焼かれ、なおも燃え尽きぬ存在だけが彼女の傍にあれるなら、こうしてアラキアが立ちはだかる状況は、なんと皮肉な巡り合わせであるのかと。



                △▼△▼△▼△



 ――風向きの変化を、オットー・スウェンは感じ取る。


 それは最初は予感であり、やがては兆しと受け取り、ついには確信へ至る。

 徐々に徐々に、変わりつつ、動きつつ、傾きつつある戦況――自らの、閉じておくこと前提のチャンネルを開放し、あらゆる『声』を拾うという作業に没頭する中で、オットー自身が世界と混一するかのような全能感を揺蕩いながら儚んでいく。

 そうした中でしか見出せないモノが、圧倒的な情報量の渦の中に沈み込んでいる。それを取り出すために、自らも深く深くへ潜る必要があり――、


「――オットーさん!」


「――っ」


 すぐ間近で大きな声がして、同時に渇いた衝撃が『声』の渦を打ち壊す。

 まるで、水を溜め込んだ水槽が壊され、中の水が外へ溢れ出すみたいに、砂場からすくい上げた砂粒が指の隙間を零れ落ちるみたいに、『声』が逃げていく。

 それを、もったいなく、未練がましく感じる自分がいる一方で。


「あ、っぶない……た、助かりました、ペトラちゃん……」


「今、またすごい顔色になってました。鼻血、拭いてください」


「あー、助かります。……なんか、戦ってなくても同じくらい出血してる気が」


 差し出されたハンカチを受け取り、オットーは自分の鼻にぎゅっと押し当てる。

 滴った血が足下の草を濡らしていて、限度を超えた加護の使用が自分にかかる負荷の重さを痛感する。実際、流れた血の量も冗句で済まなそうだ。

 さすがに、プリステラで足を刻まれたときほどではないにしても。


「遠くまで深く潜ろうとすると、かなりきますね……」


「わたし、役立ってませんか?」


「いえ、ペトラちゃんの支援がなかったら、たぶんもっとひどいことになってます。頭の中身の消耗……脳疲労とでも言いますかね。それが、かなり重たいので」


 加護者同士でもわかり合えないことだが、加護はその効果次第で負荷のかかり方が全く違う。例えば、地竜の有する『風除けの加護』は、展開時とそうでないときとの落差が激しいことを除けば、ほとんど欠点のない完璧な加護の一種だ。

 ガーフィールの『地霊の加護』も、大地に足を付けている間の好影響に与るものだが、一方で肉体に常に好調を維持するための高負荷がかかり続ける代物だ。

 たまたま、ガーフィールが肉体的に頑強な種族であるから悪さを働いていないが、普通の人間が持たされた場合は定期的に地べたから足を離すなど、負荷を和らげることが必要になるだろう。


 そうした目線で見れば、オットーの『言霊の加護』は負荷の大半を脳に集中している。

 耳から入った生き物の『声』を脳が変換して、オットーの理解できる声として出力しているのだから、そこに負荷が集中するのは自然なこと。

 この、普段はチャンネルを閉じて取り込まないようにしている部分の『声』を拾い、聞こえる全部を掌握しようとしているのが現状のオットーだ。


 そのために、ペトラには覚えたての陽魔法を用いて、オットーの身体的な強化――それも、頭部の働きに全振りしたものをかけてもらっている。

 熟達した戦士であれば、自然に行っているとされるマナによる肉体強化、それを外部干渉する形で行っているという状況だ。

 もちろん、頭部の働きを陽魔法で強化したところで、突然にエミリアがラムばりに察しがよくなったりはしない。ペトラの陽魔法に期待しているのは、オットーの脳の働きの向上というより、持続力の向上だ。


 心肺能力の強化が水に長く潜ることを可能とするように、脳機能の強化でオットーも長くチャンネルを開放したままでいられる。

 ペトラの協力がなければ、お世辞抜きに成果はこの半分以下になっていただろう。


「その分、深追いしようと欲を掻きそうになる場面も多いですが……」


「何となく危なそうだなって思ったら、思いっ切り引っ叩いていいんですもんね?」


 びゅん、と平手打ちの素振りをしながら、心強い気構えでいてくれるペトラにオットーは苦笑する。

 実際、オットーが危なくなった場合、ペトラに引き戻してもらうのが得策だ。そのときは力ずくで、無理やりチャンネルの接続を切るのが確実で最速。


 聞こえる『声』を深追いしていると、自分自身の最初の立ち位置を見失いかける。

 もちろん、オットーが当たり前のようにペトラと話している『声』が正解なのだが、この正解を見失った場合、オットーはおそらく言語を喪失するだろう。

 最も身近な『声』がわからなくなれば、オットーは誰かと会話するために永遠にチャンネルを開けていなくてはならなくなる。――そうなれば、いずれはただの風の音や衣擦れの音さえも『声』と錯覚し、正気を逸する未来が容易に見て取れた。


「そうなると、僕も数多の同じ加護の持ち主と同じ、自分の加護が原因で命を落とした人間の仲間入りってことですか……」


 運よく、死なない幼少期を乗り越えられたにも拘らず、今度は自分の意思でチャンネルを開放したのが原因で確立した自己を見失う。

 何とも、加護者の生き方には落とし穴が多い。

 ただ、困難な道を進まされる分だけ、相応の見返りがあるとも言えて――。


「それで、どうでしたか?」


「……第一と第二は、もうダメですね。僕が声を聞けそうな相手が残ってません。第一は焼き払われて、第二は……これ、エミリア様だな」


「あー、エミリア姉様……」


 鼻にハンカチを当てたままのオットーの呟きに、ペトラが複雑な顔をする。

 第一頂点を守護しているのは、『九神将』でも最上位の実力者であるアラキア一将、彼女の精霊を用いた力が一面を焼け野原にしてしまったせいで、オットーが『声』を聞くための生き物、それが根こそぎにされてしまっている。


 鳥や小動物、あるいは虫の類が生き延びていなければ、オットーがいくらチャンネルを開放しても、そもそも拾える『声』が発されない。


「焼け野原なら、土の中は平気なんじゃ?」


「生き延びていても、地中の生き物は会話しないことが多いので。それに、ペトラちゃんには言いましたが、『言霊の加護』は……」


「聞こえる生き物の話がわかるだけで、耳がよくなってるわけじゃない」


「です」


 前のめりになったペトラの言葉に、オットーは力なく頷く。

 今しがたペトラが言ってくれた通りで、オットーの『言霊の加護』はあくまで、聞こえた『声』を理解できるようになり、会話できない相手と言語を合わせる加護だ。

 つまり、実際に『声』が聞こえる場所でなければ、加護は発揮されようがない。


 ペトラの陽魔法の効果で、頭部を強化してもらっているというのがここにもかかる。

 聴力、聞く力の機能を高めることで、普段よりも広く、『声』を拾えているのだ。

 ただし――、


「第一と第二の頂点は望みが消えました。アラキア一将に燃やされたのと、エミリア様が全部氷漬けにしてしまったので」


「え、エミリア姉様に悪気は存在しないからっ」


「わかってますよ。それにエミリア様がしでかさなくても、元々、第二頂点の反応はかなり悪かった。――竜人に、生き物が怯えるからでしょう」


 悪気がないではなく、存在しないというペトラの言い方は言い得て妙だ。

 エミリアに悪気は存在しないので、悪意を発揮しようがない。ともあれ、そんな共通見解はさておき、ペトラへの擁護も偽りない事実だった。

 第二頂点の守護者はマデリン・エッシャルトであり、城郭都市を半壊状態へ陥らせた彼女は竜人――実在を疑われるほど、存在の希少な亜人族だ。


 あらゆる存在の頂点に立つ龍、その龍に通ずるとされる竜人には、その大小に拘らず動物たちは恐れをなし、逃げるしかなくなる。

 エミリアが一帯の気温を極低温に下げたのは、最後のひと押しくらいの印象だ。

 ともあれ――、


「――第五頂点は、ガーフィールがうまくやるはずです。第四頂点は、光人の一団が絶えず攻撃を仕掛けている。指示通り、そこに刃金人と単眼族の生き残りが合流」


「第三は、シュドラクの人たちが先にいた人たちと一緒に石人形と戦ってる。探ってみるって話してた、頂点以外の道はどうでした?」


「本来、第一頂点から城に直通の道があるみたいなんですが、どうやら先に埋め立てられてるみたいですね。図らずも、アベルさんの推測通りで嫌になる」


「でも、誰かが見にいかなくて済む分、次の手が早く打てますから」


 頭の中で『声』の頒布図を整理し、それをペトラが手元で広げる地図と照合する。すでにいくつもの文字が描き込まれた地図に、オットーは得たばかりの情報を追加し、それをさらにペトラが矢印などを書き加えて補足してくれる。

 脳疲労で、頭の中に温水が溜まっているような妙な重たさすら感じる中、視覚で共有できていない図面を一緒に引いてくれるペトラの存在が本気で貴重だ。

 エミリア陣営にとって、最大の拾い物は彼女の存在かもしれない。少なくとも、オットーは今、ここにペトラがいることをスバル最大の功績としたい。


「もっとも、僕らがこうしてる理由がナツキさんなので、差し引きゼロですが……っ」


 深々と、血の臭いがする息を鼻から抜いて、オットーは鼻腔の開通を確認する。もうすっかり、ペトラのハンカチはオットーの鼻血でグシャグシャだ。

 新しいハンカチをあとで買い直して贈るとして、オットーは河岸を変えるべく、その場にゆっくりと立ち上がった。

 そこへ――、


「――オットーちん! ペトラちゃん!」


「あ、ミディアムちゃんっ」


 大きく手を振りながら、草原の二人のところに駆けてくる小柄な影。

 長い金髪を躍らせるのは、戦場を落ち着きなく駆け回る少女、ミディアムだ。彼女はその健脚で一直線にオットーたちの下へやってくると、


「すごい役立ってるよ、オットーちん! アベルちんが次の報告ちょうだいって!」


「絶対にそんな可愛げのある言い方してないと思いますが……役立ててもらえるなら幸いです。物の価値がわからない相手に渡しても、得るものがないので」


「オットーさん、辛辣。わかるけど」


 目を輝かせたミディアムの報告に、オットーとペトラは微苦笑する。

 意図せずして、間にミディアムが入ったことで柔らかく仲立ちしてくれている形になっている指揮系統――オットーも情報収集に集中し、その情報の運用はアベルたちに一任すればいい状態なのはやりやすくて助かる。

 これも、ミディアムがいなければ成立しなかっただろう図式だ。


「やれてても、もっとぎくしゃくしてたよね、絶対」


「でしょうね。特に、僕とペトラちゃ……ペトラお嬢様は、アベルさんに厳しい立場を取らざるを得ない側ですから」


「――? あたし、褒められてる? やった!」


 オットーとペトラのやり取りに、両手を上げたミディアムが大喜びする。

 その彼女に遅れ、本陣との連絡のための兵が四人、オットーたちのところへ。アベルがオットーのもたらす情報の価値を重要視した結果だろう。

 本来であれば、アベルもオットーが本陣にいた方がやりやすいのだろうが。


「オットーちんはふらふら出歩いてないと、『声』が聞こえないんでしょ?」


「オットーさんは、そこまで耳が大きくありませんからね」


「どっちも違う意味で言い方!」


 ミディアムは悪気なく、ペトラは揶揄する意味合いで、それぞれ引っかかる言い方をしてくれた。おおよそ、事実なので否定もできないが。

 ともあれ、伝令たちに今しがた描き込んだばかりの地図を引き渡し、代わりに新しい地図を受け取って、現在進行形で変わっていく戦況に対応する形だ。


「これ、うまく使ってください。多少、字の乱れがありますが、お嬢様が加えてくれた矢印などで記号的にわかるはずです」


「承知しました。分析官殿も、斥候十分にご注意を」


「分析官……」


 交換した地図と一緒に渡された肩書きに、オットーは苦い顔をする。

 行商人に内政官、続いて武闘派内政官と呼ばれた挙句に今度は分析官だ。果たして、王選が決着するまでの間にいくつの職を渡り歩く羽目になるのか。

 あるいは、王選が決着したあとも、この悩みは尽きないのか。


「そんな幸せな悩みは、後回しにすべきでしょうね」


 少なくとも、目の前のことを完璧にやり遂げない限り、オットーが思い浮かべた明日というものも巡ってこない。

 明日は、オットーが一人で迎えても仕方のないものだ。

 だから――、


「オットーさん、移動しましょう」


「やれやれ、一休みする時間もくれませんか、お嬢様は」


「普段から、わたしが休んでって言ってもちっとも休まない人が何言ってるの。全部片付いたら、倒れるまでお酒飲んでいいから頑張ってっ」


「それだとまるで、僕がとんでもない呑兵衛みたいに聞こえるんですけどねえ!?」


 風評被害だとオットーが声を上げると、ペトラが舌を出して誤魔化してくる。

 そうやって、深刻になりすぎないよう配慮されているのを感じながら、オットーは血で汚れているのとは別個で、自分の頬を手で叩き、集中力を取り戻す。

 いったい、ペトラにもガーフィールにも、どれだけ自分の顔がおっかなく、余裕がないように見えていたのか、聞きたいような聞きたくないようなだ。

 その全部を、この場にいないスバルの責任だと投げつけて、


「勝利特典は、せっかくですからもらいますよ。そのためにも――」


 さらなる情報の確度を、とオットーがチャンネルを開いた直後だ。

 大きな雑音が、オットーの脳を揺さぶった。


「――――」


「――オットーさん?」


 と、オットーの横顔が強張ったのを見て取り、ペトラが名前を呼んでくる。

 しかし、ペトラの口にした呼びかけが、オットーの耳には届かない。それが塗り潰されるような勢いで、世界が悲鳴を上げていたからだ。


「う、ぁ……!?」


 一瞬で脳が煮立つような感覚に襲われ、オットーが衝撃に頭を抱える。が、危うく吹き飛びかけた意識の襟首を掴んで、オットーは寸前で踏みとどまった。

 凄まじい悲鳴はなおも、世界を遍く呑み込んでいる。

 その理由は――、


「――ぁ」


 突然の衝撃に打たれたオットーの傍ら、ペトラとミディアム、少女二人が空を見て、その口をぽかんと開けてしまう。

 その少女たちの視界、空から地上へまっしぐらに落ち、その墜落の寸前で翼を開いた巨大な威容――遠目にも、世界が悲鳴を上げた理由がありありと伝わってくる存在感。

 世界が、あらゆる生き物が悲鳴を上げるのも当然だ。


「龍……」


 そう口にしたのが、ペトラだったかミディアムだったか、はたまた伝令の兵のいずれかだったのか、定かではない。

 自分ではなかった、それだけは確実だとオットーは言える。

 何故か、それは――、


「――っ」


 現れた白い龍に戦場の全てのものが囚われた瞬間、その存在に意識を奪われなかったものがたった二人だけ――その内の一人であるオットーは、とっさにペトラの手を掴み、反対の手でミディアムの肩を突き飛ばしていたからだ。


「――きゃあ!」


 悲鳴を上げたペトラが、強引に後ろに倒れたオットーの胸の中に倒れ込む。視界の下の方では突き飛ばされたミディアムが尻餅をつく。

 そこまでが、この瞬間にオットーができた、せめてもの回避行動だった。


 ――倒れ込むオットーとペトラ、そして尻餅をつくミディアムの頭上を、赤々と燃ゆる炎の塊が大気を焦がしながら通り抜けていく。


「~~っ!」


 引き倒されたときに続いて、ペトラの細い喉が悲鳴を上げた。

 だが、悲鳴を上げられるのはある種の無事の信号だ。それよりもとんでもない状況になれば、悲鳴を上げる暇さえ与えられない。

 事実、オットーの手が届かなかった伝令の兵たちがそうだった。


「――――」


 オットーたちの頭上を抜けた炎塊、それが地図を持った伝令の兵へ命中する。

 次の瞬間、赤と黒を基調とした軍服を纏った兵が、その全身を一気に焼き尽くされる。手にした地図ごと、止める暇もない。

 そして、その惨状を目に留めて、驚愕の声を上げることも許されなかった。


「――っ、危ない!」


 少女の高い声がした直後、鋼と鋼の打ち合う音が響き渡る。

 声を上げたのは、オットーに突き飛ばされたはずのミディアムだ。彼女は尻餅をついた姿勢から子どもながらに長い足を伸ばし、低い姿勢で腰の裏の蛮刀を抜いていた。

 それでもって、オットーへと振り下ろされた凶刃を力一杯に跳ね返したのだ。


「立って、オットーさん!」


 腕を引かれ、ペトラに起こされたオットーが前につんのめる。

 踏みとどまって背後を見れば、小柄な体には大きすぎる蛮刀を両手で握ったミディアムが、その襲撃者と真っ向から対峙し、睨み合っていた。

 そして――、


「――失敗失敗、今のでいっぺんにやっちまうつもりだったんだが」


 言いながら、ミディアムと向き合う男――白い龍が戦場に現れた異常事態で、オットーとは別に唯一、龍の存在感を意識的に無視した存在がそうぼやく。

 それは、頭にバンダナを巻いた帝国兵だ。手には片手でも扱える長柄の斧を手にしており、腕章からして位の高い相手でもない。

 一般兵だ。問題があるとすれば、何故、その男がここにいるのか、だ。


 チャンネルは絞っていたが、それでも警戒は怠っていなかった。

 どうやって、この男はオットーの、『声』による索敵を回避してきたのか。

 可能な限り、最大限の警戒をしながら、オットーは背後のペトラを腕で庇い、ミディアムと並んで男を睨みつける。


「女子供も容赦なく、ですか? ずいぶんと野蛮じゃありませんか」


「戦場にいるのに女も子どもも、って答えるのは簡単だが、それだと帝都の住民がとばっちりすぎる話だな。それに、ちょっと都合がよすぎるだろ」


「都合?」


「戦場に取り残されただけの非戦闘員なら、お前さんの今の理屈も通るかもしれんな。だが、戦場で仕事してる奴を非戦闘員とは認めんよ」


 容赦なく奇襲し、こちらの命を狙った手合いだ。

 最初から穏当な交渉が通じる可能性は低かったが、その徹底した姿勢の前で完全に希望は断たれたと言えるだろう。

 それにしても、腑に落ちない。


「僕やこの子たちが仕事を? 陣から離れたここで、どんな仕事を……」


「さあな。ただ、俺の勘が言ってる。お前さんたちが、この戦争で悪さを働いてる一番の根っこだ。それと、俺の勘はこうも言ってる」


「……なんて?」


 淡々と、値踏みするようにオットーたちを眺める男が、一度そこで言葉を切った。

 その先をオットーが促すと、男は三人を順繰りに眺めて、


「――お前さんたちも、時間をやらない方がいい奴らだってな」


 宣告と共に振りかぶられる斧が、容赦なくオットーたち三人の命を奪いに閃いた。



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― 新着の感想 ―
まあ結局は素人だからやっぱ編集者ついてないと駄目だわな
Nossa, que vilão ou anti herói chato mano!!! Morra logo Todd Fang !!!!!!
[気になる点] オルバが一なのに差し置いてはおかしくないか?
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