第七章84 『茶室』
――ヴォラキア帝国各地に反乱の火が広がり、日に日に不穏の気配は増していく。
ヴィンセント・ヴォラキアが皇帝に即位し、九年余りの月日が流れたが、国内の情勢がこれほど焦げ臭くなったのは初めてのことであり、人心は大いに乱れている。
ヴォラキア帝国の歴史とは、戦乱の歴史だ。
たとえ、史上類を見ない平穏な時代が訪れたとしても、帝都の目や耳の届かぬところで起こる争いまでは防ぎ切れない。故に、全ての民が安堵していたわけではない。
だがそれでも、帝都ルプガナで暮らす民にはある種の安寧があった。
皇帝の膝元である帝都、その雄大な都市でだけは争い事は起こらない。そんな、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝の威光への安堵――しかし、それも過去の話。
一昨年の皇帝暗殺未遂、それは他ならぬ帝都で起こった出来事だ。皇帝が傷を負い、命を危うくし、その実行犯は『九神将』であったと。
その出来事があって以来、人々は帝国に真の安堵が訪れることなどないのだと、そう学んだ。学んだ上で、期待もしていた。
帝国の武、その頂点である『九神将』の叛意にも揺るがなかった皇帝の在り方、それはどれほどヴォラキア帝国が揺れようと瓦解しないのだと――。
「――そんな民の安堵と期待が、このところ大いに揺らいでおります」
帝国に敷かれた大前提、そこに亀裂が見られるとの報告。
耳心地の悪い言葉は全て撥ね除ける相手であれば、容赦なく首を斬られかねない報告だと、そう躊躇するものがいて不思議のないそれが、堂々と玉座の間で音になる。
居並ぶ文官と武官、ここ帝都の水晶宮――ヴォラキア帝国の本丸に集められたものたちは、その戦場を違えようといずれも兵には違いない。そのものたちですら逡巡を禁じ得ないのは、ここで弱卒とみなされることがすなわち死へと直結するから。
いずれも、死を恐れているわけではない。彼らが恐れるのは犬死にだ。
ヴォラキアの勇士として、相応しく在れない死を迎えること、それを恐れるのだ。
故に、将官たちはそう進言した白髪の賢老、宰相ベルステツ・フォンダルフォンに一目を置く。そして、宰相の報告を向けられた相手、ヴィンセントの返答を待つのだ。
「――――」
大きく、その細身の体全体を押し包むような玉座は、初代のヴォラキア皇帝時代から綿々と受け継がれてきた権威の象徴でもある。
玉座の背後には国旗が掲揚され、剣に貫かれた狼の国紋が雄々しく将兵を見下ろす。その剣狼を背後に従え、ヴィンセントは悠然と佇んでいる。
ゆったりと、玉座に背を預けるヴィンセントには武の気配はない。
事実、この深遠なる智謀を有する皇帝が、武芸に優れる噂など誰も聞いたことがない。剣を振るう姿を見たものもいなければ、狩りを嗜む姿を見たものもおるまい。
皇帝とは帝位にあり、そして帝国全土を遍く治めることが求められる。
実力が尊ばれる帝国にあろうと、その頂たる皇帝にまで武芸の腕は求められない。従える無双の実力者、それこそが他ならぬ皇帝の剣であるのだから。
しかし――、
「――っ」
押し黙り、そうして腰掛けるだけの皇帝に、多くの将兵が気圧される。
斬り合えば負ける理由などなく、玉座までの距離を詰めるのも数秒と不要。およそ、強者が弱者を虐げるのが当然の理なら、将兵がこの皇帝に怖じる理由など微塵もない。
にも拘らず、この距離は、そして抗い難い皇帝の存在は、不落だった。
「民の安堵、か」
不意に、それまでの沈黙を破り、皇帝の唇が言葉を発した。
途端、玉座の間に蔓延する緊迫感が緩むかと思えば、それは張り詰める代わりに重みを増して、将兵たちの心の臓を締め上げる。
ヴィンセントはその切れ長な黒瞳を細め、胸の前で掌と拳を合わせる臣下の礼を取り続けるベルステツを眺めやると、
「いつから、余の国では皇帝が民草の顔色を窺うようになった?」
「……閣下の仰りようもわかります。しかし、民草の噂に閣下の治世の不安が上っているのは事実。これを放置すれば、病を孕んだ毒の血は帝国全土を巡りましょう」
「そのために毒の血を流し切れ、と余に進言するか」
「恐れながら、帝国を統べる皇帝閣下ですら、首を落とせば命が落ちる。手足を落とすのを惜しんで首を落とすのは、心得違いというものでは?」
「――――」
「無論、指や耳、爪で済むうちに抑えられればこれに越したことはありません」
最後の一声に一礼を添えて、ベルステツが自らの意見をそう述べる。
その忌憚のない、言い方を変えれば忖度抜きの発言は将兵たちを慄かせる。しかし同時に、言うべきことを代弁してくれたと感嘆することもできた。
ベルステツの言いようは、帝国に広がる反乱に対する将兵たちの総意だ。
これまでヴィンセントの治世に甘んじてきたものたちが、ひとたび声を上げたものに便乗し、次々と各地で反乱の声を上げる姿に帝国兵たちは怒りを覚える。
その最初の一人であれば、勇猛なる敵として舞台に上がる資格もあるだろう。だが、それに続いたものたちの浅ましさはどうだ。
戦い、勝利し、手に入れるのは帝国民の基本原則。
帝国民は精強たれ、その志を履き違え、いいように利用するものが多すぎる。それを撃滅してこそ、帝国民は精強たれの志を真に体現できるのではないか。
しかし、ヴィンセントはこれらの反乱に対し、各地の守備兵による防衛に徹し、積極的な対策を打っていない。もっとも――、
「一将各位を派遣し、反乱の芽を摘むばかりでは根本的な解決にはなりませぬ」
「――ずいぶんと弁が立つな、ベルステツ。居並んだ将兵を味方に付けて余に相対するとは、まるで貴様こそが反乱の筆頭のような顔つきだ」
「お戯れを。私奴に謀反を主導し、閣下を玉座から追いやる気構えなどございません」
「ふん」
小さく鼻を鳴らし、ヴィンセントがベルステツの抗弁を聞き流す。
とはいえ、ヴィンセントがああした言を発する理由もわかろうというもの。なにせ先ほどから、ベルステツの言葉はいずれも将兵の心の代弁だ。
先んじて一将の派兵に触れ、それでは足りないと諌めた点も含めて。
その後の、血で濡れたような鋭い舌鋒のやり取りはともかく――。
「閣下、此度の反乱は……」
「貴様の進言は聞きとどめた。だが――」
「――――」
「――余にも考えがある」
一言、片目をつむり、そう述べたヴィンセントの視線がベルステツを、そして集められた将兵たちをなぞり、もたげかけた皇帝への不信がへし折られる。
招集がかかり、玉座の間に集められた当初、将兵たちの間にはこの反乱に対するヴィンセントの消極的な姿勢に、それぞれ思うところがあった。
実際、将兵たちの代わりに進言したのはベルステツだったが、彼が伝えた言葉と同等の思いがいずれの将兵にもあり、それは進言を聞いてより肥大化した。
その、ある意味で反乱と同じように燃え広がりかけた思いが、消される。
大火が風や水を浴びたように、その火勢を緩め、弱らせ、掻き消された。
そして――、
「それとも、余の言葉を疑うか?」
そう、深遠なる智謀の持ち主たる皇帝に問われ、ベルステツが眉を震わした。
糸のように細い目の奥、余所からは窺えない感情はどんな揺れ方をしたのか、それは居合わせる誰にも定かではない。
確かなことは一つだけ。
「「――断じて、否!」」
将兵が声を揃え、皇帝の問いかけに雄々しく答えたことだ。
足を踏み鳴らし、武官は腰の剣を抜いて掲げる。文官は胸の前に掌と拳を合わせ、それぞれが立場に応じた最敬礼をし、皇帝閣下の問いにそう応じる。
ヴィンセント・ヴォラキア皇帝の考え、それは誰にも読み解けない。
しかし、理解できないものを信用ならないと切り捨てるのか問えば、それは否だ。
信頼に必要なものが言葉と実績だとすれば、ヴィンセントは実績を示してきた。
始まりは皇帝の座に就くための『選帝の儀』であり、その後の大乱のない治世を実現せしめた手腕こそが、その実績に値する。
その実績を示してきた皇帝が、信頼に必要な言葉をも口にした。
――余の言葉を疑うか、と。
「この反乱に際する対処も、余に考えあってのこと。それを一から十まで言って聞かせてやらなければ、従うことさえ満足にできぬのか?」
「「――断じて、否!」」
「であれば、耳をそばだて、視線を彷徨わせる前に為すべきを為せ。すべきことを果たせぬものに、立場という衣を着せたつもりはないぞ」
皇帝の物言いは冷たく鋭利で、だからこそ将兵たちには身近に感じられた。
ヴィンセントの眼差しと声色には、他者の魂の熱を操る力がある。熱くもなれば冷たくもなり得るその魔性は、このときは将兵たちの胸を熱くした。
何を考えているのかと、そうした不安と疑念が将兵の目を曇らせた。
それに対する具体的な回答は得られなかった。が、将兵の曇った目は晴れた。――彼らの皇帝が、その深謀遠慮を働かせていると明言してくれたから。
それだけで、多くの帝国兵は勝利を信じて戦える。
「その胸の内、私奴や将兵にわずかばかりでも明かしていただくことは?」
「何のためにだ? 明かせば余の方策に陰りが生じる。代わりに得られるのは、先々に怯える貴様や将兵の安寧か?」
比べる価値もない、とヴィンセントは酷薄な口調でベルステツを払いのける。
だが、そのヴィンセントの返答を将兵は支持する。先ほどまでの、ベルステツの言葉が自分たちの代弁だと、そう感じた心はすでになかった。
むしろ、ベルステツの進言に怒りや苛立ちさえ覚えてしまう。ヴィンセントは自らに考えがあることを明かした。それで、十分ではないかと。
「不服はあろう。余も、帝国の威光のみで全ての説明を付けるつもりはない」
沈黙したベルステツを見据え、ヴィンセントは言葉を重ねた。
納得できない相手に言い聞かせる皇帝の声音に、将兵の多くが内心で首を横に振る。それ以上の言葉は必要としない。それなのに、皇帝は続ける。
「だが、告げた通りだ。余の思惑をつまびらかにするつもりはない。その代わり、余から貴様たちにかける言葉は一つだ」
「閣下……」
「帝国民は精強たれ」
「――――」
「――その剣狼の在り方に相応しい、戦場をこそ用意してやろう」
深く頷いて、ヴィンセントがベルステツの向こう、将兵たちにそう約束した。
一拍遅れ、身を焦がすような熱情が将兵たちの全身へと燃え移る。それは帝国全土に広がる反乱の火に劣らず、猛々しさを纏った業炎だ。
反乱が皇帝への不信の炎なら、将兵を焼くのは皇帝への信頼の炎となった。
「――――」
静かに熱を増していく将兵の中、ヴィンセントとベルステツが無言で視線を交わす。
皇帝と宰相、どちらもその智謀で帝国の最上位にある両者、その二人が交わした視線の意図を、周囲の将兵が察することはできない。
ただ、ベルステツはそれ以上の、皇帝の意を損ねる発言を重ねなかった。
その代わりに――、
「――閣下、恐れながら、もう一つだけお伺いしたきことが」
「問いと疑惑を重ねるか? 初めのときと違い、背後のもの共は貴様の味方という目つきでもないようだぞ」
「味方の有無で進言するしないを決めるのは、宰相の立場にあるものとはとても」
「口の回る。言ってみろ」
細い顎をしゃくり、ヴィンセントがそう促す。
それを受け、ベルステツは「では」と前置きしてから続けた。
それは――、
「――黒髪の『皇太子』」
「――――」
「各地で反乱を起こすものたちが、自分たちの旗頭として標榜する存在です。黒髪に黒瞳の男児で、その出自は……公にされていない閣下の御子であると」
マナを注いだ火の魔石、それを投げ込むようなベルステツの行いに、良くも悪くも周りの見えなくなっていた将兵たちが再び絶句させられる。
件の噂、それについては将兵たちも聞き及んでいた。その真偽は彼らにとっても、気にならぬと言えば嘘でしかない風聞だ。だが、確かめる勇気などなかった。
それを真っ向から問い質したベルステツに、反感の勝っていたはずの将兵たちが掌を返したようにまた期待がかかる。
今や、帝国民の全てが注目している『皇太子』の存在。
それがヴィンセントの目にどう映り、耳がどう聞いて、口がどう語るのか。
しばしの沈黙のあとで、ヴィンセントは「ベルステツ」と宰相を呼んだ。
そして――、
「くだらぬ噂に振り回されるな。余に子などおらぬ。どうせなら、その風聞の出所を押さえ、世継ぎとやらを余の前に連れてこい。遊興ついでに道化として飼ってやろう」
と、酷薄な笑みさえ湛えて、黒髪の皇帝はそう言い切ったのだった。
△▼△▼△▼△
「――本当に、『皇太子』は閣下の御子ではないのですな?」
数刻前、大勢のいる場で放たれたのと同じ問いかけ。
しかし、声に込められた感情の色はわずかに違い、その分だけ重みが増していた。それだけ本気の問いかけと、聞いたものにだけわからせる一声だ。
それもそのはず、問いを発した老人にとって、それはまさしく死活問題だった。
場所は玉座の間でも水晶宮でもなく、帝都内にある宰相の邸宅だ。
共に帝国の政を執り行う関係だが、ヴィンセントとベルステツの間には油断ならない緊迫感が常に張り詰め、有体に言えば両者は不仲というのが周囲の認識だった。
それだけに、見るものが見ればその対談には大いに仰天することだろう。
ベルステツ・フォンダルフォンの邸宅を、密かにヴィンセント・ヴォラキアが訪問し、こうして一室で向かい合っている場面など。
もちろん、仰天という意味で言えば、その実態の方がよほどであるだろうが。
「――――」
問いに黒瞳を細め、じっと相手を見据えて押し黙るヴィンセント。思案というより、相手を追い詰めるための間を取る皇帝の態度に、ベルステツは急がない。
沈黙と間、いずれの効果も熟知した老人だ。
実際のところ、『死活問題』などと称しはしたが、問いを発し、答えを待つベルステツの姿には不安や動揺、あるいは保身的な色は微塵も見当たらなかった。
そう、保身など微塵もない。それが、この老人の最も警戒すべきところでもある。
「無論」
「――――」
「答えは変わらん。余の世継ぎなどおらぬ。全ては世迷言の類であろう」
「以前にもお伝えした通り、ここでの話は外に漏れません。たとえ、オルバルト一将であろうと聞き耳は立てられない。ご存知でしょう」
たっぷりと間を持たせ、応じたヴィンセントにベルステツがそう返す。
ベルステツの邸宅に用意された『茶室』と呼ばれる部屋は、ただ密談を交わすためだけにあらゆる儀礼が施された小さな砦だ。ヴォラキアでは稀有な魔法を用いた結界に、得体の知れない呪術や『ミーティア』の類も使われていると聞く。
聞いた話では、この『茶室』だけで都市一個買い取れるだけの金がかかっているとか。
「必要な俸禄はいただいております。私の亡き後は献上いたしますので、有効活用されるとよろしいでしょう」
「水晶宮に茶室などという名の部屋が似合うと思うか?」
「名前や内装が重要ではありませんので、好きなように模様替えされるといい。大事なのはその機能……ここでは、偽りの皮を被る必要もないのです」
言外に意味を含めるのではなく、ベルステツは端的な物言いで仮面を剥ぎにくる。
そう言われ、ヴィンセントは片目をつむった。思案、ではない。答えは決まっている。これもまた、間を持たせるだけの沈黙だ。
その効果が目の前の老人にないことはわかっているが、手は抜かない。
すでに決めたことを曲げるつもりはない。それを遊びがないと、気楽な古馴染みにはあけすけに言われたものだが、性分だ。
「貴様の言いように従ってやる理由はない。余と貴様とは、あくまで利害の一致による共闘関係だ。それを見誤るな」
「なるほど。であればなおさら、私奴の疑念をしかと払っていただきたいものです」
「――――」
「重ねて問います。皇帝閣下に御子はいらっしゃらないのですね?」
「――。答えは変わらぬ」
度重なる質問にヴィンセントも同じ答えを重ねる。それを受け、ベルステツは「そうですか」と短く応じ、落胆も安堵も表情に滲ませなかった。
この老人の目的を思えば、なんと言い返されるかわかっていたが、ヴィンセントの方も問われた事柄に関連し、聞き返す。
「仮に、余の子がいたとすれば貴様はどうする」
「閣下に御子がいたのであれば、閣下には皇帝の務めを果たされる意思があったということ。早々に御子の身柄を確保し、本物の閣下に玉座に戻っていただく」
「ふ。ならば、余はどうなる?」
「逆賊が如何なる最期を遂げるか、あなたも私奴も承知の上では?」
淡々と、当然のように答えるベルステツの姿勢は徹底していた。
いっそここまで、滅私の果てに帝国の在り方に仕える姿は清々しい。一点の曇りも見当たらないせいで、かえって異常性というものは際立つものだ。
そんな、ベルステツの考えはともあれ――、
「――『皇太子』の風聞は、逃げ続ける当人が広めたものであろうよ」
「それが各地の反乱の呼び水になると考えて、ですか。あなたやセシルス一将にすら、知らせていない子がいたとは考えられませんか」
「ありえぬことだ」
「あなたとて、閣下の全てを知り得るわけではないでしょう」
「――ありえぬことだ」
細部を潰したがるベルステツ、彼の言葉にヴィンセントは首を横に振る。
これは希望的観測や願望、あるいは理解者を気取って言っているわけではない。起こり得ないことはありえない。一片の曇りもなく、断言できる。
真贋問わず、ヴィンセント・ヴォラキアに子はいない。
そうした疑惑や一片の可能性すら残さぬよう、あの男は徹底していたはずだ。その疑いを排除するため、女と閨を共にしたことさえ一度としてあるまい。
人前で決して両目をつむらぬようにする鋼の意志、それが彼に在り方を貫かせる。
故に――、
「――ヴィンセント・ヴォラキアに子はいない。貴様の行いは、正当なものだ」
「正当? これが正当と言うなら、私奴がこの手で玉座を簒奪すべきでしょう。それが叶わぬ時点で、正当ではない。第一」
「――――」
「この老木の枯れ木のような腕では、帝国の権威を守ることはできない」
狂気じみた執着が、老人の平坦な声音にはかえって滲んでいるように思われた。
多くの人は、自らの行いが正しいと信じて行動するものだ。そうでなくては実力を発揮し切れず、当然ながら己を肯定もできない。
いったい、どれだけの人間が自らが過ちを犯していると、そう気付いていながら迷わずにいられる。迷わず、これだけの成果を持ち帰れる。
そして――、
「――――」
――そして、過ちを犯しながら進んだ先に、何が待ち受けているのか。
「疑念が払拭されたなら、私奴の為すべきは変わりません」
思いを巡らせるヴィンセントを余所に、ベルステツが淡々とした声を漏らす。
元々、『皇太子』の存在など期待もしていなかったのだろう。その可能性はないと、そう最も身近な腹心から聞ければ、ひとまず引っ込められる程度の疑念。
故に、ベルステツの興味と話題も、すぐに次へと移っていく。
「では、御身に刃を向ける叛徒の対処ですが」
「玉座の間でのやり取りでは納得がゆかぬか?」
「あえて、将兵の代弁者を務めましたが、閣下の慧眼と威光を信頼し切った彼らと私奴とでは立場が違いますので。――アラキア一将と、マデリン一将の両名を各地へ派遣し、反乱の芽を潰してはいますが、それだけでは追いつきません」
「――――」
椅子に頬杖をついて、ベルステツの報告をヴィンセントは黙って聞く。
実際、玉座の間でのベルステツの振る舞いは打ち合わせたわけではなかった。だが、帝国の情勢とヴィンセントの立場を考えれば、最善の妙手だったと言える。
あれで、将兵の不満と疑念の矛先は逸らせた。ただし、玉座が空である事実を知るベルステツは、空位に尻を乗せただけのヴィンセントの威光では納得しない。
「本来なら、チシャ一将とゴズ一将の指揮能力が求められる局面です。その両名が動かしづらい以上、次善策……グルービー一将を戻されては?」
「――北西の動きがどうにも臭い。カララギか、あるいは別の思惑があるのか知れぬが、現時点であれを国境から動かす選択肢はない」
本来の一将の役目には、国内の治安の防衛と国外への牽制というものがある。
此度の事態はヴィンセントとベルステツが結んで引き起こしたものだが、それが帝国の足下を危うくすれば本末転倒――故に、身勝手な采配は首を絞める。
グルービー・ガムレットの派兵もまた、帝国防衛のために欠かせぬ要害だ。
「では、オルバルト一将はいかがです」
「あれを迂闊に帝都から離し、みだりに反乱軍と接触させるのも避けたい。あれは帝都に留め置いて、要所に投入するのが肝要だ。少なくとも、従う気の今は」
「魔都の一件で失った片腕の療養もあります。理由を付け、帝都に留め置くのは難しくはないでしょう。であれば、モグロ一将は」
「奴には、奴にしか果たせぬ役割がある」
爪先で床を叩いて、ヴィンセントはベルステツの提言を次々切り捨てる。
並べられた『九神将』はいずれも動かし難い役目を与えられ、配置されている。唯一、その例に該当しない『九神将』もいるにはいるが。
「セシルス一将は、やはり未知数ですか」
「あれに敵味方の判別を付けさせるのは至難の業だ。あれの信条は主義主張、大義の有無で変わるものではない。故に、盤面から除いた」
付き合いは長いと言える。だが、理解できたと思ったことは一度もない。
おそらく、セシルスを理解できるものは、セシルス以外にはいないだろう。その剣力こそ確かでも、立ち位置の不確かなものを置いておく猶予はない。
大舞台に立つことを望むセシルスには、何とも恨まれそうな話だが。
「いずれにせよ、あれが戻る公算はない。使いこなせぬ上、使われれば厄介な手駒など計算を狂わせるだけだ。大方、叛徒共も同じような見方をしていようよ」
「――。盤面に戻ることがないのであれば、私奴も異論はございません。なれば、閣下の御子を騙る不届きな『皇太子』と、勢いづく叛徒。そして、ヨルナ一将を迎え撃つ戦力としては」
「アラキア、オルバルト・ダンクルケン、マデリン・エッシャルト」
「――――」
「不足と思えば、チシャ・ゴールドとモグロ・ハガネも加えておけ」
不足、の一言にベルステツは「まさか」と首を横に振った。
どこまで素直に受け止めていいか疑問だが、『九神将』を五人揃え、敵対者を迎え撃つ状況というのは破格だ。それ以外の二将にも、カフマ・イルルクスを始めとして戦力的に準一将とでもいうべきものは少なからずいる。
故に――、
「――帝都ルプガナにて、叛徒を迎え撃つ」
「叛徒も、数が揃えば戦い方を変えるかと思いますが」
「戦力集めに黒髪の『皇太子』を利用し、欺瞞の看板を掲げる輩同士でか? 実在しない皇太子の真贋を主張し、足並みなど到底揃えられまいよ。短期的に見れば、反乱の火を強める妙手だが、中長期的に見れば不備は増える」
この機に乗じて声を上げた叛徒たちは、その多くが偽物の皇太子を旗頭に据えた。
仮に各地の反乱軍が揃って帝都へ集おうと、足並みを合わせるなどできはしない。ただ、そのぐらいのこと、ヴィンセント・ヴォラキアが思い至らないはずもない。
そう思えば、いくらかの不安要素は残す。そして、不安要素と言えば――、
「――帝都での決戦、ですか。神聖ヴォラキア帝国建国以来、叛徒の群れが帝都へ押し寄せるようなこと、それこそ『マグリッツァの断頭台』の如く」
「ベルステツ」
「は」
「貴様、ずいぶんと愉しげのようだな」
ヴィンセントの指摘に、ベルステツは「は?」と極めて珍しく困惑した。が、彼は自分の頬を指で挟むように触れ、初めてその感情を自覚した様子になる。
じっくりと、わずかに滲んだ喜悦、その正体を彼は探り、
「大変失礼しました。私奴としたことが、心よりお詫び申し上げます」
「謝罪は不要だ。何ゆえに笑う」
「笑いなど。……ただ、やはりと思っただけです」
「やはり?」
「やはり、戦乱渦巻く絵図であってこそ、ヴォラキア帝国そのものだと」
それは、帝国以外の人間が聞けば、老人が口にするには馬鹿げた話と笑ったろう。
しかし、それはおそらく、ヴォラキア帝国の人間であるなら、おおよそほとんど老若男女が抱く感情であり、ベルステツが特別なのではなかった。
――否、もちろん、この地位に与ってなお、そう口走るものは稀ではあるが。
「そうあってこその、ヴォラキア帝国か」
「それぞれが描く未来の絵図がある。閣下……いえ、あなたもそうでしょう」
「――――」
茶室の中、周りに聞かれる余地がないとはいえ、少々喋りすぎている。
ベルステツらしくない多弁は、あるいは彼の如きものにも人の血が流れている証左。そうだとしたら、やはり自分には人の血が流れていないのかもしれない。
何故なら――、
「――口が過ぎるぞ、ベルステツ。余を誰と心得る」
そう、静かに応じる言葉には、あるべき高揚も悲嘆も、いずれもありはしなかった。




