第七章83 『戦乱と戦場』
――着々と、ヴォラキア帝国を反乱の火の手が燃え広がっていく。
ここ数日、帝国はこの数年の安寧が嘘だったかのように賑々しく、その内にドロドロになるまで溜め込んだ血の渇望を訴えている。
これまで代を重ね、血の大河を築いてきたヴォラキア皇族の歴史――今代の皇帝は、そのおぞましい因習に終止符を打つ存在と期待されていたはずだ。
事実、皇帝の治世では小競り合いこそあれど、大乱とされる事態は避けられた。
帝国民は建国以来、初めての『平穏』を甘受していたはずだったのだ。
しかし――、
「蓋を開けてみれば、帝国の人間は平穏無事な日々なんて求めちゃいなかったと」
椅子に座る膝の上、戦況を示した地図を眺めながら同情的な気分で呟く。
皇帝であるヴィンセント・ヴォラキア、彼がどんな理念を以て国家運営を行っていたのか知る由もないが、たまたま平穏が勝ち取れましたなんて話ではないだろう。
年単位で心身を消耗し、これまで帝国で前例のない平和な時代を築いた。
それがこうもあっさりと望まれていなかったとわかれば、その心中の落胆は想像に余りある。――まったく、国民は愚かで、皇帝は哀れだ。
「俺からすれば、なんでわざわざ死ぬかもしれない可能性を増やすのやら……頭のイカれた奴らの考えはわからん。あいつも……あー、えー、そう、ジャマルとかも」
暇さえあれば、帝国民の誇りがどうとか主張していた覚えがある。
もはや顔もぼやけている男の記憶を辿りながら、トッド・ファングは気を引き締めた。迂闊な発言をして、ジャマルを忘れているとバレたら面倒だ。
少なくとも、大事な女と丁重に扱うべき女の前で、まだジャマルには心の中で生きていてもらわなくてはならないのだから。
「――トッド、疲れてる?」
ふと、地図を広げるトッドの視界の端、体を傾ける女の顔が見えた。
正直、心臓に悪い。彼女は直前まで、馬車の屋根の上にいたはずだ。いつの間に隣にやってきたのか、トッドの知覚では把握できなかった。
もっとも、そんな達人は世の中に数え切れないほどいる。まともにやり合って勝てない相手の存在に怯えていたら、世界はとても生きづらい。
大抵の人間が躓くのは、勝てないと殺せないを混同しているからだ。
絶対に勝てなくても、容易く殺せる相手はいる。
トッドはそんな相手を脅威だとは思わない。故に、隣の女――アラキアもそうだ。
「トッド?」
開いた窓から滑り込み、アラキアが馬車の長椅子に座る――否、行儀悪く、座席に膝を畳んでしゃがんだ。
それなりに帝都暮らしが長いと聞くが、ちっとも都会の行儀が身についていない。
これは当人にその手の教養がないか、周りがちゃんとしなかったのが原因だ。彼女のような強者にありがちなのが、強いのを理由に放っておかれること。
ヴォラキアでは強者こそが全ての条件で優先される。
それ故に、強いアラキアが見苦しいことや無礼な振る舞いをしても、誰もそれを咎められない悪循環が成立する。無論、彼女よりも強い存在であれば、その作法に関して苦言を呈することが許されるはずだが――、
「名にし負う『青き雷光』は、アラキアに輪をかけて異常者って話だからな」
ヴォラキア帝国にいれば、帝国最強の『壱』の噂はいくらでも聞く機会がある。
良くも悪くもと言いたいところだが、『壱』の噂なんて人外魔境の帝国の価値観でも悪いとされるものばかり。とても、アラキアの教育に適しているとは思えない。
その結果、アラキアのこうした振る舞いは強制されずにきたのだろう。
無論、トッドもそれを是正してやる理由などないが――、
「アラキア、ちゃんと座れ。見苦しい」
「座る? わたしが椅子に?」
「他にあるか? 椅子をなんだと思ってるんだ」
きょとんとした顔で聞き返され、トッドはそう苦言を返す。それを受け、アラキアは不思議そうにしながらも、素直に椅子の正しい座り方をした。
ただし足を開いていたので、膝を叩いてそれも閉じさせる。
「下の人間は強者の振る舞いを見てる。帝国じゃ強ければ何でもまかり通るが、それはそれとして兵にも心があるんだ。好感と嫌悪、上官にどっちを抱いてる方が戦いやすいか、お前さんでも考えるまでもないだろ」
「……意味ある? それ。どうせ、わたしは一人で戦うのに」
「お前さんが戦場を荒らしたあと、生き残りを狩り尽くすのは? 死体を片付けるのは? 降伏した連中と交渉するのは誰だ?」
「――――」
「大体、一人でいいならなんで俺がいる? お前さんの言葉は矛盾だらけだ」
適度に論破してやると、難しい顔をしたアラキアが黙り込む。
幸い、それが帝国二位の実力者が虎視眈々と不満を溜め込んでいる顔ではなく、こちらの意見に一理あると受け止めている顔だと今はわかっている。
最初の頃は指摘にもいちいち注意がいったが、今ではそこに遠慮はない。
扱いに慣れれば、アラキアも牧羊犬を躾けているようなものだ。
牧羊犬と違うのは、その犬自体が途轍もなく強い力を持った狼でもあること。
などと、そんな風に考える自分に嗤ってしまうが。
「トッド、疲れてる? やっぱり」
「もしも疲れてるとしたら、移動続きの旅疲れだ。お前さんは働き者だな。皇帝閣下やら宰相やらが重宝するのもよくわかる」
「……必要、だから」
押し黙ったトッドを案じて、再度心配を口にしたアラキア。その彼女の憂慮を真っ向から否定して、切り返したトッドにアラキアが俯く。
アラキアも、自分が便利に使われている自覚はあるのだろう。
自分から身の上話を振ってくる性質ではないし、トッドも興味がないので話題を掘り下げてこなかったが、今後の扱いを考えると聞いておくべきかもしれない。
知った方がトッドを勝手に身近に感じてくれるなら、聞いて損のない取引だ。
「お前さん――」
「地図、何を見てたの?」
しかし、話をしようとした出鼻を、話題を変えたアラキアにまんまと潰された。「む」と言葉を詰まらせ、トッドはアラキアにも見えるように地図を傾ける。
ヴォラキアの全土を示した地図だが、主要都市と地形がわかるだけの簡易的なもので、そこにトッドが自分の感覚であれこれと書き込んでいるものだ。
それをじっと眺め、アラキアが形のいい眉を大いに寄せると、
「……わからない」
「だろうな」
無理解を口にするアラキアだが、それを無教養だとトッドは責めなかった。
それはアラキアの学習能力への諦めではなく、単純に地図の書き込みがトッド以外には読み解けないように書かれたものだからだ。
特別な言葉や記号が使われているわけではないが、意味の読み替えや意図的に間違った記号を使って、他人が見ても情報を取り出せないようにしてある。
うっかり地図を落としても、ここからトッドの行動が割れることはない。また、万一捕虜にされても、地図の解読を目当てに生かされる可能性もある。
やっておいて損のない、躓かぬための三本目の手というやつだ。
「意味のある書き込みは、戦いの起こった場所と規模の記録だ。意味のない書き込みは単なる目くらまし。どれがどれか、お前さんに説明はしないが」
「わからないから、言われても。……多い?」
「ああ、今の皇帝閣下になってから、ここまで手の付けられない状況は初めてだ」
主語のない問いかけだが、アラキアの疑問は帝国全土で起こった反乱のことだ。
皇帝への叛意の表明にとどまらず、実際の帝国兵と反乱軍との衝突もたびたび発生しており、各地に反乱の呼び声が高く広まっている。
その呼び水となったのが、帝位の簒奪を目論む反乱軍の大義の象徴――、
「皇帝閣下の御落胤、黒髪の皇太子」
「閣下に子ども……本当に?」
「さてな。重要なのは事実かどうかじゃなく、そういう風聞が流布されて、挙句に立ち消えずに火勢を強め続けてるところにある」
「――――」
「だから、働き者が各地に駆り出されるんだ。ついでに俺もな」
皇帝が直々に選んだ『九神将』の一人であるアラキアは、当然ながら雲の上の存在のはずのヴィンセント・ヴォラキア皇帝とも話せる間柄だ。
アラキアの価値観をどこまで信じていいのか謎だが、彼女の目から見ても、反乱軍が掲げる皇帝の御落胤の存在は眉唾であるらしい。
ただ、その是非はトッド自身も口にした通り、重要ではない。
「重要だと思われたくないなら、噂は小火の間に消すべきだった。それの後手に回った結果が、このどんちゃん騒ぎなんだから」
「――。関係ある? 剣奴孤島のこと」
「それは……」
片目をつむったトッドの傍ら、アラキアの呟きに言葉が途切れた。
彼女の口にした剣奴孤島ギヌンハイブの一件、それは帝国宰相であるベルステツから秘密裏に命令され、そして華々しく失敗したトッドたちの初仕事だ。
ほんの数日前の出来事だが、トッドとアラキアは剣奴孤島の剣奴の皆殺しを命じられ、意気揚々と現地に向かい――上陸寸前に撤退し、事なきを得た。
当然、役目を果たせなかったことでベルステツの叱責は受けたが、危険を嗅ぎ分けるトッドの本能が、あの島への上陸を断固として拒否した。
絶対に対峙してはならない脅威が、あそこにあったと感じ取ってしまったのだ。
「――――」
この感覚に絶対の信頼を置くトッドは、島に上陸しなかったことを悔いていない。
その後、あの剣奴孤島が剣奴に支配され、各地で起こる反乱の一個として広がる火の手に貢献している事実も、自分の命とは比べるべくもない。
もしも仮に、トッドがあのときの判断を悔やむとしたら、それは――、
「馬鹿馬鹿しい。俺らしくもない」
「トッド?」
「何でもないさ。お前さんの心配しすぎだ。反乱なんてあちこちで起こってるが、どれも長続きしやしない。――夢を見てるだけだ」
先のアラキアの問いかけ、それを時間をかけて否定して、トッドは肩をすくめる。
誤魔化すつもりも、お為ごかしのつもりもない。真実、反乱軍は夢を見ている。それは夢見心地の間は気分がいいが、覚めれば自己嫌悪で死にたくなる類の悪夢だ。
あるいは、覚める間もなく終わりへ堕ちる悪夢かもしれなかった。
「――アラキア一将! ファング上等兵! 到着します!」
馬車の御者台から鋭い声が届いたのは、トッドが吐き捨てた直後のことだった。
尻の下から伝わる揺れが徐々に収まり、目的地に向かっていた馬車の速度が緩む。そうしてゆっくり馬車が止まると、トッドとアラキアが扉の外へ。
「――――」
二人が並んだのは小高い丘、厚い雲のかかる空模様はどんよりと暗く、それがひっきりなしの内乱へ突入する帝国の先行きを空が不安視するようにトッドは思えた。
そんな詩的な印象を抱く視界を下げれば、見えてくるのはだだっ広い平原を戦場に、猛然とぶつかり合う見慣れた兵装の集団と、見慣れない武装をした集団。
――帝国軍と反乱軍、西の平原を戦場とした衝突はすでに始まっていた。
「相手は?」
丘の上の二人のところに、すでに陣を敷いていた帝国兵の一人がやってくる。
開口一番、トッドの問いかけを受け、その人物は鼻白む。マント付きなので、おそらく『将』だろう。上等兵に過ぎないトッドから居丈高な口を利かれ、戸惑ったのだ。
しかし、彼はトッドの傍らのアラキアの姿に気付くと居住まいを正し、
「クノエレメンテの住民、執政官を殺して気勢を上げている。執政官は赴任したばかりだったそうだ」
「情勢の悪いときに動かされたな。その執政官も運がない……それで、やる気に燃えるあの集団に例の疫病神は?」
「確認されていない。我々はいないと考えている」
「いるなら最初から顔見せしてくるはずだしな。――アラキア一将」
「ん……」
『将』からの報告を受け、顎を引いたトッドがアラキアを呼ぶ。吐息のような返事をして振り向く彼女、帝国第二位の性能を遺憾なく発揮できる場面だ。
ともなれば、あとは余計な障害が入らないよう、トッドの方で取り計らうだけ。
「合図を出して、兵を撤退させてくれ。脇目も振らずに下がるのをおススメする。そうでないと――」
「そうでないと?」
「アラキア一将の炎は、焼き尽くす相手を選ばない」
特段、脅しつける目的でもない発言だったが、それを聞いた『将』にとってはそれに等しい効果を生んだようだった。
相手はわずかに息を呑むと、その視線をちらとアラキアに向ける。相変わらず、何を考えているのかわからない顔のアラキアが、視線に気付いて『将』を見た。
その、眼帯に覆われていない紅の瞳と向き合わされ、『将』は頬を硬くして、
「太鼓を鳴らせ! 兵を引かせろ!」
すぐさま切り替え、陣内の部下たちに鋭い声の指示を飛ばす。
聞き分けのない兵卒たちと違い、真っ当な『将』がいる戦場は話が早くて助かる。とはいえ、それで戦場が楽しいとはならないので、嫌な役目は早々に終えよだ。
「アラキア、太鼓の音を聞いて下がってくる兵には当てるな」
「他は?」
「好きにしていい」
好きに、と言われてアラキアがわずかな困惑で瞳を揺らがせる。
言い方が悪かったと、すぐにトッドは自省した。とんでもないことをやらかす力を持った女だが、アラキアは別に戦いが好きではないらしい。
なので、戦場で好きにしろというのは適切ではなく――、
「――逆らう相手は全員殺せ」
こう、命じるのが一番正しい。
「――――」
太鼓の音が響き渡り、途端、丘から見下ろせる戦場に変化が生じる。
聞こえていた鋼と鋼の打ち合う剣戟の音が遠ざかり、代わりに怒号と雄叫び、追うものと追われるものの大音量が戦場を席巻し始める。
しかし、それも長くは続かない。
――降り注ぐ爆炎が、逃げ出す背中を追いかける狩人気取りを灰へと変える。
目の前の味方が、すぐ横にいた同胞が、自分の手足のいずれかが、炎に呑まれ、狂奔から解き放たれて彼らは気付くのだ。
自分たちが狩るものではなく、狩られるものに過ぎない立場であることを。
「――――」
その片手に子どもが遊ぶような木の枝を握り、その両膝から下を炎と変えながら、丘の上へ、上へ上へ、高い高い空へと上がるアラキアが、空から炎を降り注がせる。
世界の色を変えるような恐ろしい戦術兵器、この光景の表現にはそれが相応しい。
炎はまっしぐらに地上へ向かい、トッドの命じた条件付けに従って敵を焼く。焼かれる敵を見て、足を止めて色気を出したものは判断を誤った。
足を止めれば、アラキアの炎は焼き焦がす相手を選別できない。
「鳴らせ鳴らせ鳴らせ! 太鼓を鳴らせ! 全員戻れ――ッ!!」
塗り替えられる戦況を目の当たりにして、『将』が全力で声を上げる。
帝国兵、いずれも死ぬることを覚悟して戦場へ臨むとは言うものの、それは無駄死にを恐れないこととはまるで異なる。
その場に残っても、まさしく野良犬が焼け死ぬ以上の評価は得られないのだ。
故に――、
「――ファング上等兵! アラキア一将を止めてくれ!」
反乱軍の陣形が崩壊し、戦場が炎の悪魔に舐られていくのを眺めながら、すでに仕事を果たした気分でいたトッドの鼓膜を怒号が打った。
振り向けば、兵の撤退を指示する『将』とは別の帝国兵が、その顔を煤で黒く汚しながら必死の形相で叫んでいた。
何事かとトッドが顔をしかめると、兵は炎に顔を赤く照らされながら、
「相手が降伏を訴え出てきた! 戦いは終わりだ!」
「そんな都合のいい申し出を許していいのか? こう言っちゃなんだが、手を引かなきゃこっちにも被害がある状況と違って、今なら一方的に全滅させられる。余計な禍根を断つのと、見せしめはしておいた方がいい」
アラキアの実力をうまく使えば、こちらは一兵も損なわずに勝ちを得られる。
降伏を許して相手を調子に乗せるぐらいなら、見せしめにして反乱に与したことを後悔させた方が適切ではないか、とトッドは思うのだが。
しかし、そんなトッドの意見は、続いた兵の訴えでひっくり返る。
「ダメだ! 降伏した奴らが、『皇太子』を連れてる!」
「――なんだと?」
その帝国兵の報告に、トッドは思わず相手の胸倉を掴んだ。兵が「ぐっ」と喉を詰まらせるが、トッドは構わず顔を近付け、
「どうしてここで『皇太子』が出てくる。いないって話だっただろう」
「や、奴らが隠していた……今さら、出てきたんだ……」
「ちっ、切り札のつもりだったのか? 手札の価値もわからない奴らめ」
胸倉を掴んだ兵を解放し、トッドは深々と息を吐いた。
それから、頭上を旋回しているアラキアを見上げ、彼女に呼びかけるか逡巡する。そうしてしばし思案し、
「使者を引っ張ってこい」
「え? だが……」
「連れてこい。全滅したくないならって、必死に走らせろ」
トッドの淡々とした指示に、兵は反論しかけ、すぐに無意味と悟って背を向ける。
トッドも、アラキアの武力を背景にした強権は振るいたくないが、話を早く進めるのに役立つうちはどうしてもそうせざるを得ない。
――『皇太子』を相手が抱えている、なんて最悪の事態に際しては特に。
「ファング上等兵」
そうかからず、トッドの下へ先ほどの兵が戻ってくる。
その傍らにはボロボロの格好をした若者がおり、身に着けた具足の勇ましさと裏腹に、敗北を悟った表情はみっともなく落ち窪んで見えた。
無理もない。トッドだって、相手方でアラキアの暴力を見れば同じ気分になる。
そんな彼を憐れむ気持ちはあるものの、確かめるべきことがあった。
「お前さんたち、『皇太子』を抱えてるそうだな。それが反乱の大義名分か?」
「そ、そうだ。『皇太子』は、帝位を望まれている。自分たちはその志に共感し、あの御方の道を切り開くために……」
「――嘘だな」
「あ?」
じっと、意義深いことを口走る相手の顔を覗き込み、トッドは一言口を挟んだ。そう言われ、男の表情が戸惑いと、それ以上の戦慄が走る。
その反応が、トッドに確信させた。――言いがかりは、言いがかりでないと。
「か」
次の瞬間、トッドは腰に下げた斧を振るい、棒立ちの男の頭を叩き割る。
頭頂部に斧を刺した男は小さく呻くと、目をぐるりと回してその場に倒れ込んだ。使者を即座に討ったトッドの行為に、兵が軽く目を見張り、
「上等兵! 勝手な真似を……」
「こいつは嘘をついた。相手に『皇太子』なんていない。降伏するにしても下策を選んだ連中だ。――アラキア一将には、あのままやらせる」
「ぐ……もしも、もしも本当に『皇太子』がいたら」
「いない」
断言するトッドに、それ以上の言葉を継げず、兵は押し黙った。そのままトッドが顎をしゃくると、足下に倒れ伏した敵の亡骸を引きずって運び出す。
トッドは斧に付着した肉と血を指でこそぐと、長く息を吐いた。
アラキアと共に、こうして各地を巡って反乱の芽を潰して回っているが、そのたびに立ちはだかるのが『皇太子』の存在だ。
ヴィンセント・ヴォラキアの落とし胤であり、帝国の各地で起こった反乱に正当性を与える唯一の可能性――その御落胤を名乗り、反乱を企てるもののなんと多いことよ。
もっと扱いが悪いのは、その『皇太子』を可能な限り生きて捕らえ、帝都に連れ帰れと命令する宰相ベルステツの指令にあった。
「ああ、まったく、お話にならん。――いつになったら帝都に戻れる」
帝都に戻るための企てはことごとく外れ、どうしてか帝国全土を回る旅路になった。
今も、帝都で帰りを待たせている婚約者のことを思い、トッドは唇を噛む。
炎が、戦場を何もかも舐め尽くし、抗いを選んだものたちを後悔で焼き尽くす。
そうなる未来が見えず、立ち位置を誤ったものたちを憐れみ、同時に軽蔑する。
反乱は潰える。どれだけ気勢を上げようと、帝国という重みには勝てようはずもない。
そのことに一切の疑いはないと、そう考えていながら、トッドはふと思う。
「――――」
本格的な内乱の始まりと、各地で広がる反乱の火の手。
まるで誰かが意図したように、燃え広がっていく戦乱の炎の向こうに、誰かがいる。
延々と、延々とトッドの生存本能を疼かせる、誰かが。
「――――」
燃え広がる戦乱と、実際に燃え上がる戦場を眼に収めながら、トッドは佇む。
この、ヴォラキア帝国を呑み込む戦乱を、いったい誰が望んでいるのか。どうあれ、それを読み切り、トッドは何としても望みのモノを手に入れる。
そのための手段も、思案も何も惜しまない。強いて、気掛かりがあるとすれば。
『――。関係ある? 剣奴孤島のこと』
脳裏を過る、戦場へ到着する寸前のアラキアの問いかけ。
基本的に、過ぎたことをトッドは振り返らない。自分の行いがどうあれ、それが正しかったと後々に正すだけ。にも拘らず、あの出来事だけは引っかかり続ける。
上陸せずに、トッドは剣奴孤島を放棄し、撤退した。
あの判断は正しかったはずだ。悔やむはずもない。
だが、もしも、万一、何かの理由で悔やむことがあるとすれば、それは――。
「――あの日の撤退が、俺の人生を詰ませたときだけだ」