第七章79 『緋色の大笑』
――突如現れたプリシラは、言霊の大旋風を巻き起こした。
「――――」
その瞬間、確かな沈黙と空白が大広間を支配し、時が止まった錯覚を皆が味わう。
聞き間違えようのない発言だが、それが意味するところをイマイチ理解できない。音から正しく意味を汲み取れない、そんな感じの印象だ。
『ハハウエ』と、その音が意味する言葉を、頭の中で探し回るような時間が生まれる。
しかし――、
「――? ヨルナが、プリシラの母様なの?」
不思議そうに首を傾げ、別の『カアサマ』という音がエミリアから飛び出した途端、『ハハウエ』と『カアサマ』が結び付き、『母上』と『母様』の実体を得た。
自分の頭の中がバタつく感覚を抑え込み、オットーは注目を集める両者――プリシラとヨルナの二人を見比べる。目を見張り、動けないでいるヨルナと、そんな彼女を見据えて平然とした様子でいるプリシラ。
髪の色も瞳の色も違うし、そもそも人種も違っている二人だ。
もちろん、混血の場合、父母のどちらの血が濃く出るかは個人差があるが、プリシラとヨルナの外見的特徴には似通った部分がまるでない。
強いて言うなら、二人とも艶っぽい美貌の持ち主だが――、
「その程度で家族扱いしていたら、この世は大家族だらけですよ」
そう結論付けて、オットーは自分の混乱を抑え留める。
とはいえ、プリシラとヨルナの関係性を聞いて、合点がいくこともあった。――プリシラの苛烈な姿勢と性格は、確かに帝国流が色濃く感じられると。
「妾を見定める不愉快な視線を感じるが、まぁよかろう」
視線の意を読み解き、警告するプリシラの眼差しにオットーは息を呑む。と、そんなオットーを余所に、プリシラはエミリアの方を見やり、
「半魔、貴様の言いように相違ない。よもや、『九神将』の一人になっておったとはな。幼少のみぎりから思ってはいたが、何とも奇妙な在り様よ」
「そうなの、驚いちゃった。でも、言われてみたら二人ともよく似てるかも」
手にした扇で己の顎先を支えたプリシラ、その答えにエミリアが頷く。
直前、オットーが内心で否定した外見的特徴の似てなさに、エミリアが真逆の判断を下しているのは気になったが、それはひとまずさて置こう。
問題は――、
「――待つでありんす」
プリシラの物言いに、思わぬ指摘を受けたヨルナ自身が待ったをかけた。彼女は一度目をつむり、それまでの動揺を表情から打ち消してみせると、
「少々驚きはしたでありんすが、いただけぬ言いようでありんしょう。何ゆえ、わっちが主さんの母などと……」
「つまらぬ言い逃れはやめよ。妾を謀るつもりがあるのなら、魂の在り様を変えねば話にならぬぞ。姿形が変わろうと、妾の緋色の瞳は欺けぬ」
「――っ」
平静を装ったヨルナの表情が、プリシラの断固たる返答に再び強張る。
プリシラの言葉は概念的で、おまけに他者に歩み寄る意思が全くない。そのせいで正確な意味を取りづらいが、ヨルナには致命的に響いたらしい。
プリシラの眼差しと舌鋒の切れ味に、ヨルナは明らかに動揺していた。
ただし、この場で強い動揺を露わにしたのはヨルナだけではなく――、
「――馬鹿な」
はっきりと、眼前の状況への驚嘆がこぼれる。
微かな、聞き逃してしまいそうなほど微かなものだったが、発した相手が相手だ。鬼面の向こうからこぼれた一声を、オットーは聞き逃さなかった。
冷静というより冷徹で、動揺と無縁の印象があった人物、アベルのその一言を。
「プリシラ」と、彼は直前の微かな動揺を面の裏に隠し、件のプリシラを呼び、
「貴様、本気で言っているのか? ヨルナ・ミシグレが、サンドラ・ベネディクトだと」
「――なるほど、貴様もそれを知らなんだか、アベル。無理もないがな。自己申告以外で知る方法など持ちようもない」
「でも、プリシラは何にも言われてないのに気付いたのよね?」
「話の腰を折るでない。半魔は黙っておれ」
「そんな言い方しなくても……」
アベルの問いに淡々と応じたプリシラが、口を挟んだエミリアを睨んで黙らせる。
どうあれ、オットーを含めた王国組と、帝国組でも事情のわからないものたちは置き去りのやり取りだ。プリシラの内情へと踏み込む内容に、同じ王選候補者を擁する立場としてオットーも興味はあるが――、
「――思わぬッ再会の話ァ後回しにしろや。今ァ、このガキの話が優先だろォが」
空気の変化に呑まれず、牙を見せるガーフィールがそう唸る。
その翠の瞳が突き刺す相手は、なおもヨルナとミディアムに庇われるルイだ。ガーフィールの言う通り、彼女の扱いを決めなくては前にも後ろにも進めない。
無論、ルイを拘束し、自由を奪うべきというオットーの中の結論は揺るがないが。
「息の根を止めろたァ言わねェ。ッけどなァ、ふん縛って転がしッとくってのが俺様の譲れねェ一線……『ティノスの手足は遠ざかる』って話だ」
「――そいつはたぶん、兄弟の望まねぇ話になるぜ」
「あァ?」
オットーと同意見のガーフィールが、その物言いに牙を鳴らした。
口を挟んだ相手、それはプリシラと一緒に最上層に上がってきたアルだ。変わらぬ奇抜な外見の彼は、どこか気乗りしない風に隻腕で自分のうなじを掻きながら、
「まずは一個、先に嬢ちゃんに謝っとくわ。――一緒にカオスフレームくんだりまでいったってのに、兄弟を連れ帰れなくてすまねぇ」
「アル……ううん、謝ってくれてありがとう。でも、スバルと会えなくてガッカリしたのは私だけじゃないし、一番はベアトリスだから」
「あー、ならその子にも、他の連中にも一緒にごめんなさいだ」
不在のスバルの件について、謝罪を口にするアルが頭を下げる。
普段のアルの軽薄な態度はともかく、その謝罪の念には嘘がないように思われた。ただし、誠実な謝罪が必ずしも許しや好印象に繋がるわけではない。
「むしろ、安易な謝罪は付け込まれる要因を増やすだけですよ。実際、謝罪する気持ちがあるなら口出ししないでもらいたいと僕は思いますから」
「手厳しいね。けど、さっきも言ったが、このチビッ子をどうこうするってのは兄弟……ナツキ・スバルは望まねぇ話だぜ」
「だァから、なんでッだよ! 適当なこと抜かしてやがると……」
「――オレも、そのチビを殺そうとして兄弟に邪魔されたからさ」
いきり立ったガーフィールの言葉が、渇いたアルの一言に封じ込められた。息を呑んだこちらの反応に、アルは肩をすくめながらルイを顎で示し、
「お前らがそうなんだ。オレが殺そうって考えるのも当然だろ? だってのに……」
「ナツキさんはそれを拒んだ?」
「正直、耳を疑ったね。元々、知らねぇチビを連れてるなぐらいの気持ちでいたんだが、その正体が大罪司教ときたもんだ。それを体張って守ろうとしやがる。兄弟の考えが色々とアレなのはわかってたつもりだったが、想像を超えてったぜ」
言いながら、アルの兜越しの視線がルイを射抜く。その視線を浴びながら、ルイは「うー……」と小さく唸り、しかしミディアムらに隠れず、真っ向から見返した。
その青い瞳に宿った光は、卑屈でも貧弱でもないものだ。
「――――」
その様子を眺めながら、オットーはアルの証言を吟味する。
彼の言葉が口からの出任せでないのは、スバルをよく知る陣営の人間なら頷ける話だ。オットー自身、スバルがルイに手を下せなかった理由は『甘さ』だと捉えている。
そのスバルやエミリアの持ち合わせる『甘さ』は、弱味であると同時に強味でもある。
一度手放せば取り戻せないそれは扱いづらく感じても、なくしてほしいとオットーは決して思わなかった。
「そういう『甘さ』の介在しない判断は、僕たち周りがすればいいことですから」
「わかるぜ、お兄ちゃん。けど、もう難しいだろ。なんせ、これだけ大勢が見てるところで話してんだ。取り返しがつかねぇよ」
「……オットー様」
じり、と靴で床を踏みしめ、フレデリカがオットーの横顔に呼びかける。彼女の美しい瞳を揺らがせるのは、ここで事を起こすことへの懸念と不安だ。
オットーも、ここでルイの正体に言及したのは失敗だったと感じている。――否、それを言い始めれば、すでにルイが関係者に受け入れられていたことが問題だ。
タリッタとミゼルダが語った結論、それが城郭都市ではまかり通ってしまっている。
故に――、
「では、彼女を野放しにすると?」
「もちろん、何かしでかすならオレだって容赦しなかったさ。だが……」
「ルイちゃんは、ずっとスバルちんを守ろうとしてたよ。あたしたちといる間も、一回も悪さしてなかった。これからもしないよ!」
アルの言葉を引き取り、ミディアムが必死な声を上げる。
彼女の言い分は希望的観測であり、これまでのルイの行動が未来のルイの行動を約束できるわけではない。それこそが、この問題の最大の焦点なのだが。
「わたし、旦那様がやるの見てたから、誓約の呪印できるかも……」
「――。やめましょう。一瞬、それもありかと思いましたが」
おずおずと提案したペトラだが、その案をオットーは却下した。
ペトラの話した『呪印』とは、対象に約束事を守らせるための魂の縛りだ。ロズワールがその身に刻んでいるものであり、破れば彼は命を落とすことになる。
『聖域』と旧ロズワール邸で起こった被害に際し、それを企てたロズワールが陣営に対する降伏を示すため、自ら刻んだモノだった。
その字が示す通り、呪印とは明確に『呪い』だ。
迷信めいた考えだが、呪いとはいずれ使い手に跳ね返るものという話もある。便利さにかまけて他者を呪いで縛り続ければ、いずれ呪縛は自らの魂も焼くだろう。
ペトラにそんな宿業を背負わせるつもりはないし、仮に実行してルイの行動を縛る呪印を刻めたとしても、それは保険以上の意味合いを持たない。
「何故なら、何を縛れば安心を買えるのか、僕たちは全容を把握できない」
大罪司教の権能、その全貌は誰にもわからないことだ。
どんな隠し球が飛び出すかわからない以上、究極的には何を縛ったところでオットーのルイへの警戒は解けない。それこそ、命を取らない限りは。
だとしたら、油断に繋がりかねない呪印などない方が警戒は安定する。
「口惜しいですが、それが僕の結論です」
「オットー兄ィ! それッでいいのかよ!? 大罪司教だぞ!?」
オットーの考えを聞いて、ガーフィールが悲鳴のように声を張り上げる。
絶対に自分が正しいのに、無理やり封殺されそうな空気を嘆く気持ちはわかる。オットーも弟分の悲痛な気持ちを汲んでやりたい。
「ですが、この場で議論しても賛同は得られません。聞くべき話が残っている現状、皆さんと決裂するのも避けたい」
「故に、実力行使するならば話を聞き終えたあと、か。強かなものよな」
「そんな物騒なことはしないつもりですが、それ自体は褒め言葉と受け取っておきます、プリシラ様」
オットーの心中を見事に言い当てるプリシラに、せめてそう強がっておく。
どうあれ、ガーフィールに答えたことが悔しいながらも実状だ。
この都市で発言力を有するアベルと、ルイの扱いに対する譲らない姿勢を示している『シュドラクの民』――それらの考えを崩す方法がない。
大罪司教であるという以上に、ルイを排除する根拠は存在しないのだ。
それが通用しなかった時点で、こちらには実力行使以外の手段がなくなる。だが、ルイを殺しても『暴食』の権能の影響が消えるとは限らないのと、以降、帝国の全てを敵に回すことの瑕疵を抱えてまでやる価値があるだろうか。
「そんな風にケンカしても、私たちの不安が少し減るだけ。そういうことよね?」
「――――」
牙を軋らせるガーフィールと、片目をつむったオットー。
その話の流れを辿りながら、そう結論へ至ったエミリアの紫紺の瞳が揺れる。彼女の腕の中、抱かれるベアトリスが「エミリー」とその名前を呼んだ。
「ごめんね、ベアトリス……お嬢様。心配してくれてるの、わかってるから」
「……ちゃんとわかってるなら、いいかしら」
すぐ間近で視線と言葉を交わし、ベアトリスが丸い瞳を伏せる。そのベアトリスの気持ちを汲んで、頷いたエミリアはじっと、ルイとミディアムの方に向けた。
その視線を、姉妹のように寄り添う少女が見返す。
「その子……ルイはすごーく危ない子かもしれない。それはオットーくんたちが言ってくれた通りで、そのことはわかってるのよね」
「……うん、わかってる」
「でも、あなたはルイが危ないこととか悪いことをするところを見てない。ルイはあなたのことも、スバルのことも?」
「うん、守ろうとしてくれたんだ。本当に、嘘じゃないよ。アベルちんもアルちんも、タリッタちゃんもヨルナちゃんも、知ってるよね?」
エミリアに真っ直ぐ見つめられ、ミディアムが一生懸命言葉を選んでいる。選びながら彼女は、一緒に魔都から戻った面々に同意を求めた。
アベルとヨルナ、先ほどのプリシラとのやり取りから立ち直り切れていない二人の反応は鈍いながらも、アルは肩をすくめ、タリッタは頷いてみせる。
「えエ、ルイは確かに皆を守ろうとしていましタ。中でもスバルにはよく懐いていたト、私はそう考えていまス」
「さすが『幼女使い』の面目躍如、なんて茶化せる空気じゃなかったがな」
「……その異名、ベティーはあまり気に入ってないのよ。気を付けるかしら」
不満げなベアトリスの低い声は、直前までの戦意をわずかに緩めている。ルイの扱いについて、ベアトリスはエミリアの判断に委ねると決めたのだろう。
同じ結論でも、オットーやベアトリスの出したそれを、エミリアは柔らかく整える。
だから、とエミリアはルイの方を見て、
「あなたは、スバルを心配してくれてた。私はそれが嘘とは思えないの。だから、あなたを一生懸命信じてあげてるこの子みたいに、私もあなたを信じたい」
「――ッ、エミリア様、そいつァ」
「ガーフィールだって、最初は私たちにすごーく噛みついてきたじゃない。でも、今は私たちと仲良しでしょう?」
エミリアの言説はやや卑怯で、ガーフィールとルイとでは立場も事情も違う。が、エミリアがそう言い切ると、言い返し難いものを感じるも事実だ。
状況がそれを手伝うのもあり、ガーフィールは苦しげに頬を硬くした。そんなガーフィールの反応に、エミリアは「ごめんね」と小さく謝り、
「難しいことかもしれない。でも、私は最初にえいってぶちにいくんじゃなくて、ちゃんとお話しできるならそこから始めるのが一番いいと思う。もちろん、そうじゃなくて、いきなりぶつからなきゃいけないこともあるけど……」
「――――」
「私はここにいるみんなと、仲良くできたらいいなって思うの。そのために、仲良くしたいってちゃんと伝えたい。だったら、先にぎゅって握った手を開かなきゃ」
そう言いながら、エミリアは自分の腕の中のベアトリスを見下ろした。その視線にベアトリスは軽く目を見張り、それから小さく頷く。
そのベアトリスの頷きを見て、エミリアはゆっくりと前に進み出た。
ヨルナの目の前、彼女と睨み合うガーフィールの横を抜け、小さなルイを背に庇っている小さなミディアムの前に。
そして――、
「すごーく回りくどいけど……私は、スバルとレムによくしてくれたズィクルさんやミゼルダさんたちを信じてて、そのみんなが信じてるミディアムちゃんたちを信じたい。だから、ミディアムちゃんが信じてるあなたを、信じさせてほしいの」
「……あ、うー」
「私たちじゃなくて、あなたにうんとよくしてくれてるこの子たちのために、信じてくれてる人がいるのって、すごーく嬉しいことだから」
言いながら、エミリアがそっとルイへと右手を差し出した。
左手にベアトリスを抱えたまま、腰を落としたエミリアがルイの方へと。そのエミリアの行動に、ルイを守ろうとしていたミディアムも振り向き、
「ルイちゃん」
と、そう声をかける。
その呼びかけが切っ掛けか、あるいはエミリアの言葉が人の心を持たない大罪司教にも何らかの意味を働きかけたのか、ルイがおずおずと手を伸ばした。
差し出されるエミリアの右手に、ルイが自分の右手を重ねる。
一瞬、そこからエミリアへ権能が振るわれる可能性を懸念するが、それを懸念する自分をオットーは心底軽蔑すべきだなと弁える。
いずれにせよ――、
「うあう」
「ん、私もスバルのこと、心配」
手を握り合い、そう答えたエミリアの微笑が、オットーにとっても、エミリア陣営にとっても結論になる。あくまで、『保留』という結論だ。
――だが、同じ落とし所でも、エミリアが言うのと自分が言うのとでは落とし方が違っただろうと、オットーはエミリアを誇らしく思うのだった。
△▼△▼△▼△
「――俺様ァ、目ェ離さねェからなァ」
ルイの扱いについて、いったん『保留』が確定した。
それに対し、最後まで納得できないと言い張ったガーフィールは、エミリアと握手を交わした少女にもそう強く言い放つ。
ガーフィールの懸念と警戒は当然のモノなので、オットーも口を挟まない。
「魔女教の、ましてや大罪司教の改心なんて想像もできませんから」
オットーの、渇いた現実的な思考はそんな風に結論付ける。
たとえ、エミリアとルイとの間に感動的で、歴史的な交流があったとしても。ただ、同時に自分らしくないとも思いつつ、オットーはこうも考える。
――白鯨や大兎、大罪司教の『怠惰』や『強欲』の討伐も、想像できないことだった。
それを、この一年と少しの時間で何度も起こしたのがナツキ・スバルだ。
世間はエミリア陣営の功績として見るが、陣営の全員がスバルの貢献こそが大きいと理解している。故に、可能性には思いを馳せてしまう。
また、ナツキ・スバルがとんでもないことをしでかしたのではないかと。
「嫌だな……」
実際にそれが起こったとき、周囲がスバルをどう評するのか、気が重い。
とっとと、スバルの本当の人間性を他の人も知るべきだと思うが――。
「一度、話が落ち着いたところで、よろしいですか?」
そう言って、議論の空気が緩んだ大広間に、ズィクルが挙手して話を始めた。
彼は自身に注目を集めると、「僭越ながら」と前置きして、
「プリシラ嬢とヨルナ一将、お二人の関係には私も大いに興味を引かれるところですが、いくつかアベル殿に確認しておきたいことが残っております」
「――。話すがいい」
「は」
話題の矛先を向けられ、口を閉ざしていたアベルが首肯する。
ルイの扱いに口を挟まなかった彼だが、先の衝撃には一旦の区切りを付けたらしい。呼びかけにズィクルを見やり、黒瞳が話の先を促す。
「ヨルナ一将の協力が得られたことと、魔都カオスフレームの崩壊……そのために、ナツミ嬢の身に危難が降りかかったことは承知しました。その上でお伺いしたいのは、ここ数日で広まった噂――」
「――噂」
「は。――皇帝閣下の御子、黒髪の皇太子がいらっしゃるという御噂です」
恭しく頭を垂れ、ズィクルがアベルにそう告げる。
その噂――皇帝であるヴィンセント・ヴォラキアの御子、その存在をちらつかせる噂が広まっていることは、オットーの耳にも入っていた。
それも、皇帝の息子は反乱軍――すなわち、この城郭都市グァラルに集結した一団の旗頭として、皇帝へ反旗を翻したなどという話だ。
もっとも、それらしい人物を、この都市で目にした覚えはないのだが。
「報告によれば、その噂は東の地から流れてきたと。すでに帝国の各地へ広まっているものですが、この出所は……」
「貴様の察する通り、魔都より広めたものだ。――玉座を脅かすには力がいる。そして力は大義の下にこそ集う」
ゆるゆると首を振り、腕を組んだアベルが淡々と答える。
その答えは納得がいくが、そもそも皇帝の座を脅かそうとする試み自体、こちらの陣営的にはあまり関わりたい問題ではない。
オットーとしては、エミリアが一度知り合った人たちを見捨てられないと、そう言い出す可能性をどうやって抑えるかに焦点が向いていた。
そのせいで、普段なら気付けた可能性に気付くのが遅れたと言える。
故に――、
「……黒髪の、皇太子」
ぽつりと、考え込むようにそう呟いたのはペトラだった。
彼女は可憐なかんばせの眉間に小さな皺を作り、何やら考え込んでいる。そして、その考えをおずおずと口にした。
それは――、
「あの、さっきのミディアムさんたちのお話だと、スバルって小さくなってるんですよね。わたしとか、ベアトリスちゃんくらいに」
「そう言われてましたわね。あまり想像がつきませんが、スバル様でしたらそうしたことに見舞われる可能性も……ぁ」
「――!」
ペトラの言葉に頷いて、情報を整理したフレデリカが目を見開く。そのフレデリカの気付きとほぼ同時に、オットーもペトラが何を考えたのかわかった。
そして、自分の考えがなんと的外れだったのかと、呪うべき事実にも。
「もしかして、噂の皇帝の子どもって、スバルのことですか?」
その可能性を呪うオットーに代わり、ペトラが真正面からそこに切り込んだ。
じっと、少女の瞳がアベルを見据え、鬼面越しの黒瞳がそれを受け止める。小揺るぎもしないアベルは、ペトラの追及に静かに顎を引いて、
「そうだ」
「――っ、そんなのっ」
短い答えに目つきを鋭くして、ペトラが声を高くしようとした。
しかし、そのペトラの反応より早く、
「――く、ははははは!」
そう、心底愉快そうな声が響き渡る。
状況を弁えない笑い声、それが大広間の空気を壊す。しかし、その暴挙にとっさに誰も声を上げられなかったのは、その大笑がプリシラのものだったからだ。
彼女はその口に扇を当てて、笑う己の歯を見せないようにしながら、
「あろうことか、あの凡愚を皇太子とは笑わせる。ああ、アベルよ、貴様、妾を笑い殺すつもりか? ずいぶんとやり口が変わったものよな」
「姫さん?」
「なんじゃ、貴様も笑え、アル。いいや、貴様はこの謀に加担した立場か。となれば、よくぞここまで妾を笑わせた。道化の務め、見事と言わざるを得ぬ」
驚いているアルに振り向き、プリシラが目尻を下げながら称賛を口にする。そのプリシラの反応の予想外さが、一時の熱を大広間から奪い去った。
もちろん、それで混乱の全部が消えるわけではないのだが。
「えっと、どういうこと? スバルが皇帝の子どもって、そんなはずないでしょ? だってスバルは、大瀑布の向こうからきたって」
「エミリー、それはスバル様の冗句ですわ」
「そうなの? じゃあ、ホントに?」
「皇帝の子どもなのか、という疑問については嘘ですよ。偽りです」
「え? え? え?」
わけがわからない、とエミリアが目を回している。
彼女の混乱も無理はない。つまるところ、スバルが見舞われた幼児化という事態と、アベルたちの目的とがうまい具合に噛み合ったのだ。
「正確には、そうなるよう利用したという方が適切かと思いますわ」
フレデリカの言いようにオットーも同意見、これは状況の有効活用だ。
アベルたちは反乱を起こすにあたり、それらしい大義名分を欲していた。そのための御輿として、皇帝の子ども以上の説得力は他にない。
もちろん、存在しないものを旗頭にするのは諸刃の剣となりかねないが。
「ナツキさんは実在するんですから、諸刃の剣も使いようですか」
「その物言い、無礼だが俺好みではある。ならば、貴様もわかっていよう」
「――悔しいですが」
本来、スバルの状況を利用されたと憤るのがオットーたちの正しい反応だ。
しかし、悔しいと言い返したことに偽りなく、アベルの仕組んだ流れに一定の価値が見出されるのは事実だった。
それというのも――、
「――行方のわからないスバル様が、命を落とされる可能性を大きく減らせる」
「……そうです」
フレデリカの理解に、オットーは渋い心情で頷いた。
そのオットーとフレデリカの考えに、エミリアやガーフィールの理解が遅れる。二人は困惑を顔に浮かべながら、「どういうこと?」と首をひねった。
「全然、話が分からないんだけど……」
「大将が妙な肩書きッ付けられてんのァわかった。けど、それが反乱の大将にされッてんだったら余計に危ねェんじゃァねェのかよ」
「いいえ、注目は集めますが、大なり小なり命の危機は薄くなる。この『皇太子』の価値は、生きていてこそ効果を発揮しますから」
ヴィンセント・ヴォラキアの治世を脅かす不穏分子である『皇太子』。
反乱軍の大義名分であるこの存在は、現皇帝の味方にも敵にも利用価値がある。反乱に与する側には言わずもがな、皇帝側にも生かしておく方が使い道が多い。
処刑して反乱軍の勢いを削ぐのも、調略して大義名分を失わせるのも、生きた『皇太子』を使えてこそだ。
「つまり、ナツキさんがどこへ飛ばされ、誰に身柄を確保されたとしても、その場で殺されるような事態は避けられる可能性が高い。その代わり――」
「その代わり?」
「……ヴォラキアの帝位争い、この大乱から逃げる道は消えました」
恩恵を受けるということは、それに伴う責任も負わされる。
望むと望まざるとに拘らず、スバルはヴォラキア帝国の大乱の真っ只中に、それも一番高い場所にある御輿に乗せられることになったのだ。
それ故に――、
「――どうじゃ、笑わずにはおれぬであろう?」
と、先んじて答えを得ていたプリシラが、意地悪く笑う理由をようやく察したのだった。