第七章77 『運命の悪戯』
「――以上が、飛竜の襲来による被害の報告です」
そう言って、手元の資料を叩いたオットーの説明にエミリアは痛ましく眉を下げる。
城郭都市グァラルを襲った『飛竜災害』――街の修復と負傷者の対応に追われ、一段落したと言えるまでかかった数日、その結果が知らされたのだ。
エミリアの目から見ても、都市の状況はひどいものだった。
都市を囲っていた立派な防壁は壊され、市内のあちこちに高いところから落とされた大岩が何個も転がったままになっている。建物の被害も大きく、無傷で済んだものは半分も残っていない。死んでしまった人も少なくなく、エミリアたちが寝泊まりする二階の潰れた民家も、帰ってくる住民のいなくなった一軒だった。
「もう少し……」
早く、自分たちが駆け付けていれば。
そんな後悔がエミリアの胸を鋭く針のようにつついてくるが――、
「僕たちがあと少し早ければ、という仮定は無意味なのでやめましょう」
そのエミリアの心中を読み取り、しかしオットーはぴしゃりと切って捨てた。その鋭さに鼻白むエミリアだが、オットーは顎をしゃくって窓の外を示し、
「あのとき、先行するのを許したのも飛竜の群れに頭を追い越されたのが切っ掛けです。あれがなければ急ぐ選択肢自体がなかった。つまり……」
「つまり?」
「未然に防ぐ手立てはなかった、ということですよ。因果関係の問題です。あちらを立てればこちらが立たない。それで悩むのは不合理というものでしょう」
ゆるゆると首を横に振り、そう述べるオットーにエミリアは苦笑した。
エミリアの胸の内を読んだような意見、それ自体は驚くことではない。オットーはとてもよく人を見ているので、そのぐらいのことは普通のことだった。
その上で、オットーがエミリアにかけた言葉は彼なりの慰めなのだと思う。
もしもの話で悩んでも、そんなの現実的な反省にならないと言ってくれているのだ。
そうエミリアは納得しているが――、
「でも、言い方ってものがあります。今の言い方、わたしは嫌いです」
ぷいと、顔を背けたペトラはご立腹な様子だった。
エミリアの手前、椅子に座っているペトラは、その明るい茶髪に櫛を通され、普段からの可愛さに磨きをかけている真っ最中。このところエミリアが任されているお役目だが、旅の間も手入れを欠かさないペトラの姿勢には感心しきりだ。
昨日も、街のあちこちを駆けずり回って疲れ果てていたはずなのに、新しい一日には新しい自分をちゃんと作り直している。
それも、ペトラの自覚している立場と責任感の賜物だった。
なにせ彼女は――、
「――主人であるペトラお嬢様にそう言われると、僕としても心苦しいですよ」
と、そうオットーがこぼした通り、ペトラはエミリア一行をまとめる『雇い主のお嬢様』という立場を任されているのだから。
――消えたスバルとレムの行方を捜し、ヴォラキア帝国に入ったエミリア一行。
紆余曲折と様々な苦難を積み重ねて辿り着いた帝国だが、元々わかっていた通り、国境を正規の手段で越えるのは難しくて、こっそりと密入国する結果になった。
その際、エミリアやロズワールの正体がバレるととても大変なことになってしまうので、それぞれ偽名を名乗った上で、旅の目的も嘘のものを作り上げたのだ。
その結果、エミリアは『エミリー』として護衛の役割を任され、そのエミリーが守らなくてはいけない相手というのが――、
「ペトラお嬢様と、ベアトリスお嬢様の二人」
「あくまで、僕たちが帝国へきた目的はベアトリスお嬢様の体調回復のため……実際、本命を回収すれば叶う目的ですから、まるっきり嘘ってわけでもありません」
「わかりますけど、なんだか……あ、やっぱりいいです」
「途中で止められると気になるので、いっそ言ってもらった方がいいんですが」
「そうですか? なんかオットーさん、旦那様の悪いところがうつってませんか?」
「やっぱり聞かない方がよかった……!」
オットーが頭を抱えてしまったので、エミリアは言いかけた言葉を慌てて引っ込めた。
オットーはとても嫌そうだが、エミリアはロズワールの頭の良さをとても頼りになると思っている。ので、陣営でも特に頭のいい二人が一緒のことを考えてくれているのはとても頼もしかった。
それを言うと、余計にオットーを苦しませてしまいそうだったけれど。
とにかく――、
「街の怪我した人たちも、ガーフィールのおかげでずいぶん減らせたのよね」
「それは間違いなく、そうですね。ペトラお嬢様やフレデリカさん、もちろんエミリーが手伝った功績も大きいと思いますよ」
頷いたオットーの答えに、エミリアもようやく頬の強張りを解くことができる。
ガーフィールの頑張りも、フレデリカやペトラのお手伝いも、全部がエミリアにとって誇らしい。自慢の、大切な仲間たちの奮闘だった。
「オットーくんも、ズィクルさんたちと話し合うのにすごーく頑張ってくれたのよね」
「幸い、ズィクルさんは話のわかる方でしたので、苦労は最小限でしたよ。たまたま出くわして、話を通してくださったミゼルダさんには感謝ですね」
「ミゼルダさん、オットーさんの顔がお気に入りだもんね」
「あそこまであけすけに言われることってないので、かなり戸惑いましたけども」
小さな拳を掲げて、そう微笑むペトラにオットーが苦笑した。
エミリアも言葉を交わしたミゼルダは、とても強くて親しみやすい女の人だ。知り合った最初からこちらに優しく、色々と配慮もしてくれている。
何故か、オットーとガーフィールで扱いが違っているのが気になるところだが。
「オットーくんの顔が好きなのはわかるけど、ガーフィールも可愛いのに……」
「ガーフさん、眉間とお鼻のところに皺を寄せてることが多いからかも。あと、ラム姉様と離れ離れでイライラしてるから」
「……僕は何も言わないでおきましょうかね」
ペトラが自分の形のいい鼻にちょんと指を置いて、ガーフィールをそう評する。
エミリアはコロコロと変わるガーフィールの表情も愛嬌だと思っているので、もっとミゼルダにガーフィールのこともちゃんと見てほしいと思った。
そうした余談はさて置いて――、
「でも、街のお片付けが一段落したなら……」
「ええ」
エミリアの言葉にオットーが頷いて、それからもう一度窓の外を見やる。そのオットーの視線の先に、被害を受けながらも佇んでいる都市の顔――都市庁舎があった。
そこに集まるのは、この城郭都市グァラルの有力者たちだ。
つまり――、
「ようやく、先へ進むための話し合いを始められそうです」
と、オットーが言ってくれた通り、話し合いが始まるのだ。
△▼△▼△▼△
「そォいやァ、礼を言われッてねェなァ、オッサン」
半壊した都市の城壁に上がり、ガーフィールは先客の背中にそう声をかけた。
正直、声をかけたい相手ではなかったが、背中が見えた途端に回れ右するのは負けた気分になるので、負けん気の方が嫌気に勝った。
そもそも、なんでこっちが引き返さなくてはならないのか。
気まずさに耐えかねて逃げ帰るなら、自分より相手の方であるべきだろう。
そんな思いから、まるでチンピラみたいな冒頭の一言があったわけだが――、
「――ちっ」
返ってきたのが盛大な舌打ちで、ガーフィールは早々と自分の選択を後悔した。
つまらない意地を張った結果、より嫌な思いを味わう羽目になった。頭の中でオットーが「そりゃそうでしょう」と呆れた反応をするのがわかる。
そうでなくても嫌いな相手だ。
直接、この先客が身内に無礼を働くところにガーフィールは居合わせなかったが、あとから聞いた話だけでも嫌いになるのは十分すぎる。
それが、ガーフィールのハインケル・アストレアへの動かざる印象だった。
「――――」
腰に立派な剣を下げ、革鎧の軽装姿でいるハインケルは物見に立っている。
ただ、それは都市の平穏を守るためという見上げた思いより、手持ち無沙汰と居場所のなさを誤魔化すためのカッコつけだとガーフィールは判断する。
その背中から漂ってくる酒気と、周りに転がる空の酒瓶がその証だ。
飛竜災害の折、押し寄せる飛竜相手に獅子奮迅の働きをしたらしいハインケルは、しかし『九神将』相手には手痛い敗北を喫したそうだ。
あのちんまいシュルトは色々と言葉を尽くしてハインケルを擁護していたが、ウタカタは「手も足も出てなかっタ」と率直だったので、それが事実だろう。
その証拠に、ガーフィールが負傷者に治癒魔法をかけて回る中、特に手がかかった重傷者の一人がハインケルだった。かなり手ひどいやられ方をしたようで、ガーフィールの治癒魔法がなければいまだにベッドの上で寝たきり状態だったろう。
「今の舌打ちが礼代わりだってのかよォ。そりゃァ、ずいぶんと俺様の知ってる常識と違っちまってるッもんだなァ、オイ」
そんな相手の事情を鑑みながらも、ガーフィールはそう悪態をついていた。
ガーフィールも、負けた経験はある。その悔しい気持ちはわかるつもりでいるから、殊更に敗北した事実を性格悪くつつきたいとは思わない。
が、相手が礼を尽くさないとなると、嫌味の一つくらいは言いたくなる。ましてや、ガーフィールにはハインケルへの好印象がまるでないのだから。
「ここァ帝国だ。俺様の知らねェ常識もあるッかもだが……てめェは王国の人間じゃァねェか。それも、あの『剣聖』の親父って話だろォが」
「――――」
「俺様も話したが、ありゃァとんでもねェ野郎だぜ。あんッだけ強ェなら、さぞかし親もすげェと思いきや、礼儀もなってねェたァ――」
「――親がどれだけすごかろうと、子がそうとは限らねえだろ」
振り向きもしない背中に、ガミガミと嫌味を続けたガーフィールが鼻白む。
そのまま無視を決め込むかと思いきや、不意の反論があったからだ。そうして目を丸くしたガーフィールに、ハインケルは振り向かないまま、
「逆もおんなじだ。化け物の親が化け物でなきゃいけない理由なんざない」
「お……」
「お前、悪態つくのが下手くそすぎるぞ。誰かを挑発したいならプリシラ嬢を見習え。その調子じゃ落第だ」
「ぬがッ」
悪態で優位に立とうとしたのを見透かされ、挙句に綺麗にやり返される。
真の挑発とはこういうモノだとばかりに言い返され、ガーフィールは口ごもった。そのまま会話が終わるが、背中を向ければ本当に完敗する羽目になる。
結局、ガーフィールは意固地を貫いて、ハインケルから少し離れたところに腰を下ろすと、城壁のない南の地平を眺め、無防備な都市の備えとなる。
無数の飛竜に襲われ、城郭都市と名高いグァラルの城壁は大打撃を受けた。
高空から落とされる投石の被害は大きく、崩れ、壊された城壁は急いで補修が進められているが、都市の防御力は著しく低下している。
とりわけ、都市で最大の被害を被ったのが、この南側の城壁だった。
最初の攻撃を受けた西の城壁もなかなか惨憺たる状態だが、こちらはその比ではない。壁どころか、区画丸ごと更地にされている有様だ。
「エミリア様……じゃなく、エミリーとプリシラってお姫様が『九神将』とやり合ったって話ッだったが」
その戦いの激しさは、眼下の惨状がありありと教えてくれている。
建物の大半は原形をとどめておらず、凄まじい衝撃波が一切合切を薙ぎ払っている。
『九神将』たる竜人との戦いと、その決着を演出した白い光――ガーフィールも、都市の中であの衝撃波に揉まれたが、その正体をエミリアはこう語った。
「――龍の咆哮」
地竜や水竜、飛竜などの竜種でありながら、その一段上の存在である『龍』。
いずれも理の外側にあるとすら言われる力を有する龍が、たった一度の息吹きで何もかもをちゃぶ台返ししていった。
エミリアとプリシラ、両者が抗わなければもっと被害は拡大していた恐れがある。
「……どこッまでも、俺様ァ間が悪ィ」
エミリアと、ついでにプリシラの功績を称賛しつつ、苦々しい思いが胸にある。
プレアデス監視塔に同行できなかったことで、ガーフィールはエミリアが相見えた『神龍』ボルカニカと対面する機会を逃した。それだけにのみならず、今度は同じ都市にいながら別の『龍』とも接触し損ねたのだ。
スバル流の言い方をすれば、引きが悪いと言わざるを得ない。
「――――」
何も、古から語られる存在である『龍』と会えなかったから拗ねているのではない。
強敵と戦い、これを打ち倒すのがガーフィールの役割だからだ。陣営の目的を挫こうとするものを倒し、武官としての役目を果たすことこそが。
断じて、傷を負ったものの治療をして回ることが役割なのではないのだ。
「ただでッさえ、帝国入りの何の役にも立っちゃいねェってのに」
ヴォラキア帝国への密入国において、ガーフィールは何の役にも立っていない。
国境を越える手引きをする輩との接触には、オットーの実家であるスーウェン商会を頼ったし、道中で彼らと揉めたときにはペトラが堂々と交渉をまとめた。
その後、帝国入りしてすぐに起こった問題に際して、自らに流れる血を用いて状況を打開したのはフレデリカであり、ガーフィールがしたことと言えば、最後に気に入らない奴を殴り倒して相手を黙らせただけ。
せめて、城郭都市で噂になった黒髪の戦乙女、『ナツミ・シュバルツ』の名前に希望を見出し、スバルとの再会が叶うと思えば――、
「大将ァ入れ違いで出てったあと……とことん間が悪ィのも、全部が全ッ部、俺様のせいに思えてッくるぜ……」
もちろん、それが考えすぎの被害妄想なのは重々承知だ。
ガーフィールたちが大冒険して帝国にやってくるのと同じぐらい、スバルも飛ばされた帝国で大冒険していたというだけの話。
飛ばされた先ですら、落ち着きなく大ごとに巻き込まれているのは、いかにもガーフィールの知っているスバルらしい状況だったが。
「――帝国のてっぺんの取り合いたァ、話がでけェよ、大将」
城郭都市――否、ヴォラキア帝国全土を巻き込む大いなる戦乱の兆し。
どんな因果が結ばれれば、そんな事態のど真ん中に入り込むことになるのか。だが、ガーフィールは思う。きっと、スバルが彼らしくあった結果のことだと。
懸命に、王国のエミリアたちの下へ戻ろうと必死に足掻き、その途中で出会った人々と心を通わせ、その人たちを見捨てておけなくて、走り続けているのだ。
今は遠く、南東にある大都市に有力者との交渉に赴いているらしい。
その成否に拘らず、無事に戻ってくれればいいのだが――、
「――おい、ガキ」
「あァん?」
「さっきからカチカチうるさいんだよ。大人しく口閉じてられないのか?」
考え事をしていたガーフィールに、いきなりハインケルがそう吐き捨てた。
忌々しげにこちらを睨む赤毛の男は、自分の口に指を引っ掻けて犬歯を見せてくる。牙を噛み鳴らすガーフィールの癖、それが癪に障るとのご意見だった。
「ハッ、なんで俺様が言うこと聞いてやんなきゃなんねェんですかァ? 耳障りってんなら、てめェの方が勝手にいなくッなれや」
「口の減らねえガキが、精一杯の嫌味か? 先にいたのは俺だ。お前が弁えろ」
「――ッ、『九神将』相手にビビった奴が、偉そうにぬかすんじゃねェ!」
先ほどと同じようにやり込められるのを嫌って、ガーフィールが強くそう怒鳴り返す。
言い放ってから、ガーフィールは自分がかなりの暴言を口にしたと自覚した。だが、相手が相手だ。このぐらい言い返しても、気を咎める必要は――。
「ああ、そうだな。――俺はビビった。だから、この様だ」
「オッサン……?」
「プリシラ嬢のご機嫌も損ねて飲んだくれてる。あぁ、救いようがねえ」
だのに、ハインケルから返ってくる言葉は弱々しく、ガーフィールは大いに戸惑った。
手にした酒瓶に口を付け、中身を煽りながらハインケルは低い声でこの世を――否、己を呪うようにそうこぼす。
まるで、世界そのものから見捨てられ、やけっぱちになったような態度で。
「……相手ァ『九神将』だ。帝国最強の武闘派連中で、オッサンが勝てねェのは当然じゃァねェのか」
その悲愴な様子が見ていられず、そんな慰めが口をついた。
自分で言っていて、どの面を下げて発言したのかとガーフィールは呆れる。直前に『九神将』に負けたことを罵って、今度は負けて当然だと慰める。
支離滅裂だし、たぶん慰めになっていない。もし、ガーフィールがハインケルと同じ立場だったら、同じことを言われたら怒り狂うかもしれなかった。
しかし、ハインケルはガーフィールの慰めに卑屈に笑い、
「勝てなかろうが、果たす役割があった。プリシラ嬢の道行きのおこぼれに与ろうって立場ならなおさらだ。……くく、傑作だな」
「傑作、だァ?」
「十何年も追いかけてるもんが指の間をすり抜けてく。どこまでいっても、小便漏らしの性根は変えようがねえってこった」
自嘲の止まらないハインケルに、ガーフィールは彼を見る目が変わる。
最初、ガーフィールが彼に持っていた印象は、水門都市でハインケルが働いたという暴挙に対する嫌悪感と敵愾心だった。それがほんの短い間で裏付けられたと思った矢先、自らを呪う彼の様子を見て再び印象が変化する。
そこにいたのは弱々しく、くたびれてしまった憐れな男だった。
口から吐かれる言葉は自分にも他人にも向けられた刃で、その刺々しさが痛々しい。それが他者にだけ向けられるものなら、ガーフィールも軽蔑するだけで済んだ。
だが、それが自分にも向けられたものとわかると、胸の悪い感覚を覚える。
「なんだって、てめェはそんな風に腐ってやがる。まァだ生きてんだ。だったら……」
「――。なんで、まだ生きてるんだかな」
「――ッ、よくもまァ、助けた相手の前でそれッが言えるじゃァねェか」
ぶちぶちと、続けられる自暴自棄な言葉がガーフィールの憤怒を呼び込む。
そのガーフィールの反応に、ハインケルはちらとこちらに視線を向けると、そこで初めて思い至ったような顔で「ああ」と呟く。
「そう言えば、俺を治したのはお前か。次からは気を付けろ」
「あァ!?」
「気に入らない奴を、後腐れなく見捨てられる機会を逃すなってな」
卑屈に笑い、ハインケルがそう言い放つ。
それを聞いた瞬間、ガーフィールは視界が真っ赤に染まる感覚を覚え、気付いたときには相手の胸倉を掴み、酒臭い男の顔を間近から睨みつけていた。
パリンと、軽い音を立てて酒瓶の割れる音が足下から聞こえた。
ガーフィールに胸倉を掴まれ、強引に体を起こされたハインケルの手から、中身の残った酒瓶が城壁の下に落ちていったからだ。
その落ちた酒瓶の行方を視線で追いかけ、ハインケルが嘆息する。
「もったいないじゃねえか」
「てめェ、言うッことはそれだけッかよォ?」
無抵抗のハインケルが、無気力な目をガーフィールに向ける。
覇気のない青い瞳、それはガーフィールも言葉を交わしたラインハルトや、共に視線を潜ったヴィルヘルムと起源を同じくするものだ。
にも拘らず、ガーフィールにはそれらが同じものととても思えない。
どうすれば、人間の瞳とはここまで濁ることができるのか。
その双眸の奥深くで渦巻く感情は、どれだけの年月をかけて貶められてきたのか。
「何がどうなりゃァ、そんな目ェすることになんだ」
『九神将』相手に喫した敗北が、プリシラの機嫌を損ねたとハインケルは語った。
実際のところは不明だが、『九神将』に善戦できなかったことを実力不足と責め立てられるのは、あまりにも心無い意見だともガーフィールは思う。
少なくとも、戦う機会にすら辿り着けなかったガーフィールからすれば、だ。
そのガーフィールの眼差しと言葉に、ハインケルの瞳がわずかに揺れた。
すぐ目の前にいるガーフィールにすら焦点の合っていなかった目が、ようやくはっきりとガーフィールを映し出したように像を結ぶ。
そうして――、
「――女房を」
酒を呷っていたにも拘らず、掠れた声をこぼしたハインケルの唇は渇き切っていた。
だが、ようやく意味のある言葉が続いたと、ガーフィールは奥歯を噛み、揺れる男のその先の言葉を聞こうとする。
しかし、ガーフィールの期待した言葉は、またしても聞かれなかった。
「――ぁ」
「オイ?」
胸倉を掴まれているハインケル、その瞳の焦点が再びガーフィールから外れた。彼の視線はガーフィールを飛び越え、その背後へと向けられる。
それがガーフィールには口惜しくもどかしく思われたが、
「馬車だ」
そう続いた言葉に、ガーフィールも振り返らざるを得なかった。
「――――」
ハインケルに掴みかかるため、ガーフィールが背を向けた都市の南側――その地平線の彼方から、確かに小さな影がこちらへ向かってくるのが見える。
目を凝らしたガーフィールにも、かろうじて竜車か馬車か区別がつかないそれだが、ハインケルが馬車と言ったのを信じるなら、それは――、
「――は、出かけた連中の御帰還ってわけか」
息を呑むガーフィールの考えを、ハインケルが違った言葉で肯定する。
まだ爪の先ほどの大きさにしか見えない影だが、わずかに輪郭の見えつつあるそれは、ガーフィールにとって待ち焦がれた探し人を乗せた馬車かもしれなかった。
「おい、離せ、ガキ」
期待と興奮に目を輝かせるガーフィール、そこに酒臭い息がかけられる。しかめた顔で正面を見れば、ハインケルの不機嫌な目つきに出迎えられた。
直前の、自分の胸中を吐露しかけた男の姿はそこにはなく、あるのは周囲に暴言と嫌気を振りまく憎たらしい相手の面構えだけ。
それに気付いた途端、ハインケルが首をひねってガーフィールの手から逃れた。
それが物理的にも、そして精神的にも逃げられたとガーフィールは感じる。指の先に引っかけたはずのものが、無情にもすり抜けていったのだと。
「待ち人来たるだろ。とっとと迎えにいったらどうだ?」
「……てめェは」
「物見の役目を果たすさ。何か見えたんなら報告するのが仕事だろ。酔っ払いだろうとそのぐらいはできる。……点数稼ぎにもならんだろうがな」
ひらひらと手を振り、ハインケルが千鳥足でガーフィールに背を向けた。
一瞬、その背を呼び止めようかと迷ったが、結局言葉は出てこない。ハインケルの示した通り、ガーフィールの心はすでに逸り始めていた。
今すぐにでも、地平線の向こうからやってくる影へ駆け寄りたいと。
「機会を逃すと悲惨だぞ? 最後の言葉を、延々と追いかけることになる」
それだけ言い残して、ハインケルがガーフィールより先に城壁から飛び降りる。意外と危なげなく都市の中に着地した彼は、その足で街の中心へ向かった。
最後の一言、そこに込められた切実な感情、それがガーフィールの中に棘のように突き刺さって存在を主張する。
しかし――、
「今は――」
棘の存在を棚上げにして、ガーフィールは城壁をハインケルの反対側に飛び降りる。
都市の外側に着地し、曲げた膝を伸ばす勢いでガーフィールは走り出した。蹴り足を爆発させ、風よりも速く、向かってくる影に一直線に走る。
「大将……ッ!」
鋭い牙の隙間から、ガーフィールの堪え難い感慨が漏れる。
エミリアやベアトリス、ペトラたちの心情を考えれば気後れするが、ガーフィールもスバルとの再会を待ち望んでいた一人だった。
だから、逸る気持ちを脚力に変えて、猛烈な勢いで馬車へと向かう。
あと少し、ほんの数十秒走るだけで、スバルとの再会が叶うと――、
「――あ?」
その、溢れかけた期待が、不意打ち気味に戸惑いへと変わる。
風を置き去りにする速度が緩やかになり、やがて風に追い抜かれる。それどころか、風以外のあらゆるものに置き去りにされる速度になり、ついには立ち止まる。
揺れるガーフィールの翠の瞳に、地平線の向こうからやってくる一台の馬車――否、多数の馬車や牛車が押し寄せてくるのが映っていた。
「こ、こいつァ……」
迷わずスバルと対面できると、そう期待したガーフィールは目を瞬かせる。
その光景は、スバルたちが城郭都市を発った目的を考えれば、ありえる可能性の一個ではあったのだが、このときのガーフィールにはそこまで考えが及ばなかった。
いずれにせよ、圧倒されて足を止めたガーフィールの前に、道なりに都市へと向かう一団の先頭、立派な疾風馬の引く馬車が堂々とやってくる。
そして――、
「――貴様、何を呆けている。都市の使いなら、すべきことがあろう」
そう、馬車から顔を覗かせる鬼面の男が、ガーフィールに息を呑ませるのだった。
△▼△▼△▼△
「フレデリカ嬢、お疲れ様です」
そっと、疲れと喉の渇きを感じたところへ差し出される紅茶の香りに、フレデリカは微かな驚きを得ながら相手の顔を見た。
柔和な顔つきに微笑みを湛え、フレデリカをねぎらったのは目線の低い男性だ。
元々、長身のフレデリカは男性と比べても背の高さで勝ることが多いが、目の前の相手はそれを抜きにしても背丈が低い小柄な人物――しかし、背丈と対照的に懐の大きく、好感の持てる相手であるとこの数日でフレデリカは見知っていた。
「――ズィクル様、お気遣いありがたくいただきますわ」
都市庁舎の最上階、忙しく動き回る面々の中、男性――ズィクル・オスマンが手ずから淹れてくれたお茶をありがたく受け取る。
柔らかな温もりを孕んだ香りが鼻孔に滑り込み、フレデリカは思わず微笑んだ。
本来、こうした役割はメイドであるフレデリカがすべき役割のはず。しかし、帝国でのフレデリカの役回りが、長年染みついた仕事に従事するのを躊躇わせる。
一応表向き、帝国でのフレデリカの立場は要人の護衛役――今思えば、オットーやガーフィールの立場は変わらないのだから、フレデリカまでメイドの役目を離れる必要はなかったように思うが、気付くのが遅まきに失した。
なので大人しく、この場は責任の重い指揮官が自らお茶を淹れてくれたという好意に甘えて、そっと舌と喉を潤すのに集中する。
実際、率先して手を出すだけあって、ズィクルのお茶を淹れる手腕は見事なものだ。
「帝国の『将』の方は、こうしたこともお得意でいらっしゃいますのね」
「はは、お褒めいただき光栄です。ただ、他の『将』のお茶の味には責任を持ちかねますな。私の場合、実家で大勢の姉や妹に鍛えられましたので」
「まあ。でしたら、ズィクル様のお姉様や妹様に感謝しなくてはなりませんわね。こんな慌ただしい状況でも、お茶の味を楽しませていただけるのですから」
「ええ、世の中何が役立つかわからぬもので……無論、家族のためより、フレデリカ嬢のような美しい方のために用意する方が力が入りますが」
さりげないズィクルの言い回しには下心がなく、フレデリカもその称賛を自然と受け入れられてしまう。
その言葉に偽りなく、大勢の姉妹と一緒に過ごしてきた影響だろうか。女性を褒め称える彼の姿勢には、深い敬服の念が感じられてこそばゆいほどだった。
最初、『女好き』と称される人物が都市の代表と聞かされたときには、かなりの緊張と警戒心を持って接さざるを得なかったのだが。
「エミリーやペトラお嬢様、ベアトリスお嬢様に何かあっては困りますものね」
もっとも、それは実際のズィクルと会うことで払拭された懸念だった。
飛竜災害の憂き目に遭い、混乱に陥る都市で人命救助に当たったことの影響もあっただろうが、ズィクルたちは快くフレデリカたちを受け入れてくれた。
都市に到着して早々、街の代表者と話を付けたオットーの判断にも感謝だ。
「ミゼルダさんを会うなり口説き落としたそうですし、こういうときのオットー様は本当に頼りになりますわね」
オットー本人が聞いていたら、「やや語弊があると思うんですがねえ!」と声を裏返らせただろう感想を抱きながら、フレデリカは静かに頷く。
こんな風に考えるものの、フレデリカはオットーの存在にかなり助けられていた。
なにせ、現状のエミリア一行において、年長者であるフレデリカとオットーの二人が任されている責任はかなり重たい。――ロズワールとラムと、別行動中なのだから。
「――――」
スバルとレム、二人の行方を帝国で捜索するにあたり、密入国を果たした一行は二手に分かれて活動することとなった。
その内訳が、ロズワールとラムの二人と、それ以外のフレデリカたち六人だ。
地道な聞き込みでスバルたちを探すエミリア組と分かれ、ロズワールとラムの二人が向かったのは、ロズワールと交流があるとされる帝国貴族の下だった。
元より、誰と親しくしているのか把握できないロズワールだが、その手が帝国まで伸びているのはフレデリカも想像もしていなかった。
ともあれ、知人を頼る選択肢のあるロズワールはそちらへと交渉に向かい、フレデリカたちとは別方面から二人の行方を捜すこととなったのだ。
結果、必然的にフレデリカとオットーの役割が重たくなったというわけだ。
「エミリア様は、ご自分が頑張らなくてはと奮起なさっていましたけれど」
一番の年長者は自分だと、やる気と責任感に満ち溢れたエミリアの意気込みを思い浮かべて、フレデリカは唇を綻ばせる。
年功序列をエミリア陣営に厳密に適用すると、一番年上なのはパックとベアトリスになり、その次がエミリアということになってしまう。
スバルと離れ離れの状況に置かれ、マナの補給が厳しいベアトリスは消耗を抑えるための『ショウエネ』の状態が続いており、一日の大半を眠って過ごしている。そのため、次点で年上のエミリアが頑張ろうと奮起していたわけだ。
もちろん、最終的な決定権はエミリアに委ねるものの、そこまでの話し合いは主にフレデリカとオットー、それにペトラの間で慎重に検討が為された。
城郭都市へ足を運んだ理由も、耳を疑うような噂が飛び込んできたのが理由だった。
「帝国に反旗を翻した反乱軍、その首謀者を支える黒髪の乙女……」
それが『ナツミ・シュバルツ』という女性の名前だと聞きつけたとき、フレデリカは意味がわからなくて完全に思考が停止してしまった。
まさか、フレデリカも聞き覚えのある名前と同名の人物が帝国に存在していたのかと。
「オットー様が真意に気付かれなかったら、わたくしは思い至れたかどうか」
最終的に、噂で広まった人物の名前がスバルからの伝言と、そう解き明かしたのはオットーだった。
『あの人、女装が万能の解決策だと思ってる節がありますからね……実際、少なからず役立ってそうなのが思い込みに拍車をかけそうで怖いんだよなぁ』
とは、呆れと納得の狭間ぐらいの顔をしていたオットーの発言だ。
一応、スバルもルグニカ王国では知られた立場であるため、ヴォラキア帝国で名前が上がるのを避けるための措置だった、と一行は結論付けた。
エミリアだけは最後まで、「どうして、ナツミの名前……?」と知り合いの女性の名前が使われていた事実に首をひねっていたのだが。
いずれにせよ――、
「そう時を置かれず、ナツミ嬢も戻ってこられるでしょう。ようよう、エミリー嬢やペトラ嬢のお望みも叶うというものです」
「――ええ、本当に」
お茶の香りを楽しみながら、思惟に耽るフレデリカにズィクルが頷きかける。
彼の言葉通り、探している二人――少なくとも、スバルとの再会だけは遠からず叶ってくれる見込みだ。
ナツミ・シュバルツの名前が伝言と、そう受け止めたフレデリカたちの考えは正しく、確かにスバルはこの城郭都市に存在が確認された。
問題は、彼が別件を解決するために都市を発ったあとだったことと、もう一人の探し人であったレムを襲った事態――、
「……レム嬢を我々がお守りできていれば」
「あれほどの状況です。ズィクル様や他の皆様が責められる謂れはありませんわ。もちろん口惜しくはありますが」
目を伏せるズィクルの言葉に、フレデリカはゆるゆると首を横に振った。
フレデリカたちが都市に辿り着いたとき、いなくなったのはスバルだけでなく、レムもだった。それも、レムがいなくなったのは飛竜災害の只中のこと。
都市を襲った『九神将』を撤退させるため、自らを人質にしたというのだ。
「――。目覚めて早々に、ラムの妹だと確信させてくれますこと」
レムの身を案じながら、フレデリカの唇はそんな印象を口にする。
『暴食』の大罪司教の権能により、その『名前』と『記憶』を奪われたレムのことを、フレデリカは覚えていない。少なくとも、目覚めた彼女との思い出はないのだ。
知っているのはスバルの口から聞いた人となりと、その外見が双子の姉であるラムと瓜二つであったこと。だが、どうやら豪胆なところもラムと同じらしい。
そうでなくては、『九神将』相手に一歩も引かない交渉を行い、その存亡を危うくされた都市を救うなんて真似、決してできなかっただろう。
「――――」
その交渉を受け入れた以上、相手にはレムを生かしておく理由がある。
論理的に考えて、そう信じられることがせめてもの救いだった。それがなければ、フレデリカたちはすぐにでも消えたレムの行方を追いかけていたはずだ。
もちろん、本音を言えば今だって飛び出したくてたまらないけれど。
「ラムがいたらそうしていた……いえ、あの子は聡いから、そうしなかったかもしれませんわね」
どちらとも言えない、というのがラムをよく知るフレデリカの考えだ。
ラムは賢い。だが、同時に愛情深くもある。フレデリカは彼女が、毎夜、レムの下を訪ねるスバルと同じかそれ以上、妹の部屋に通い詰めていたのを知っている。
再会させてあげたかった。――どれだけ生意気でも、ラムは可愛い妹分だから。
「フレデリカ嬢、思い詰めすぎないでください。都市の状況もいったんは落ち着いた。ようよう、これからのことを話し合えるのですから」
そっと、自分の胸に手をやるフレデリカを気遣い、ズィクルがそう声をかけてくれる。
彼の言う通り、城郭都市を襲った飛竜の爪痕もようやく塞がり、先々のことを話し合える状況が整ってきた。無論、今後のことは話し合いの方向次第だが――、
「――ズィクル二将!」
ズィクルの言葉に、フレデリカが答えようとした瞬間だった。
鋭い、しかし切羽詰まっているのとは別の感慨に張り詰めた声が都市庁舎に響く。階段を駆け上がり、こちらへ駆け寄ってくるズィクルの部下だ。
彼は「何事だ」と振り向くズィクルに、自分の胸の前で手と拳を合わせながら、
「報告します。都市の南側に多数の馬車が到着、いずれも魔都からのものです」
「――! 魔都の。では!」
ズィクルへの報告に、思わずフレデリカが前のめりに反応してしまう。普段であれば気恥ずかしさが上回るが、このときばかりは気にならなかった。
そのフレデリカの勢いに、ズィクルも深々と頷くと、
「お戻りになられたか。さすがは、時を過たれない御方だ。すぐにプリシラ嬢や、ペトラ嬢たちをお呼びしろ」
「は!」
件の待ち人が帰ったと、その吉報にフレデリカも胸を高鳴らせる。
直前の、レムの安否を案ずることで沈みかけた気持ちが少なからず持ち直した。ひとまずせめてではあるが、目的の半分がこれで果たせるはずと。
「何よりです、フレデリカ嬢」
安堵に胸を撫で下ろすフレデリカの様子に、ズィクルも柔らかく微笑んでいる。
その彼の言葉に「ええ」と、フレデリカも感謝の言葉を返そうとした。
しかし――、
「――二将、実はそのことなのですが」
フレデリカの言葉を遮り、帝国兵の言葉が先に発された。しかもそれは、どこか不安になる切り出し方をされたもので、思わずフレデリカは息を呑む。
ズィクルも同じ懸念を覚えたようで、低い声で言った部下に目を向けると、「どうした」とわずかに声の調子を落として問い質した。
それに対して、部下はわずかな躊躇いを作ってから――、
「魔都から帰られた馬車ですが、ナツミ・シュバルツ嬢のお姿がなく……カオスフレームにて、行方がわからなくなられてしまったと」
そう、運命の悪戯がまた続くことを、残酷にも宣告したのだった。