第七章76 『帝都にて邂逅す』
その女性をレムが見かけたのは、軟禁された屋敷の中を散策していたときのことだ。
城郭都市グァラルの攻防の最中、負傷したフロップ・オコーネルの治療のため、彼と一緒に都市から連れ去られたレム――その身柄は帝都へ連行され、都市でも有数の荘厳さを誇るだろう屋敷の中に軟禁された状態にある。
ただ、軟禁といっても、レムの置かれた状況は比較的自由の多い立場だ。
狭い部屋や牢獄に閉じ込められていたり、過剰な暴力や暴言といった待遇に晒されることもない。平穏とは言い難いが、平坦ではある扱いと言えるだろうか。
食事は毎食用意され、湯浴みの時間も提案される。ある意味、『シュドラクの民』の集落での暮らしよりも住みよいのは間違いなかった。
とはいえ、閉じ込められていなくとも、屋敷の外に出入りできるわけではなく、その行動は警備を担当している兵士――屋敷の主であるベルステツ・フォンダルフォンの私兵に見張られており、不自由を忘れられるほどではなかったが。
ともあれ、自由と不自由の均衡に拘らず、置かれた状況はレムの不本意だ。
当然、クーナやホーリィには力不足を味わわせてしまっただろうし、勝手にいなくなったとプリシラが憤慨していてもおかしくない。
何より、東の地へ旅立ったものたちが戻ったあと、どんな反応をするものか。
ルイやミディアム、そしてナツキ・スバルという少年は――。
「――ぁ」
と、そんなか細い声を聞いたのは、レムが考え事に胸を痛める最中のことだった。
声の方向に顔を向ければ、屋敷の中央にある庭園――緑豊かな景観の維持が目的というより、飛竜の乗降が目的だろう中庭に、見慣れない人影があるのがわかる。
屋敷で働く兵士や使用人、その全員と顔を合わせたわけではないが、その人物がそれらのいずれにも当てはまらないのは一目でわかった。
何故なら、その人物は自分の足で歩かず、車輪の付いた椅子に座らされていたから。
「く、う……っ」
濃い発色をした癖のある茶髪、それを頭の左右で二つに分けた色白な女性だ。睫毛の長い青い瞳を揺らし、彼女は華奢な肩に力を込めて前のめりに体を倒す。
その震える腕が力を込めているのは、彼女の座る車輪付きの椅子――車椅子のまさに車輪部分だった。車輪の骨組みは大きな枠を取っていて、座る当人が手で回すことで前にも後ろにも進める仕組みとなっている。
ただ、その車輪の片方が通路の隅にある溝に引っかかり、にっちもさっちもいかずに立ち往生している状態であるらしかった。
「――――」
きゅっと薄い唇を噛んで、女性は何度も懸命に車輪を回そうと試みる。
それでも、彼女の細い腕では必要な力が入らず、車輪は空しく小刻みに前後するだけ。声を上げて助けを求めれば誰かが駆け付けるだろうが、彼女はそれをしなかった。
誰かに頼るのを良しとしない。そんな頑なさに、レムは親近感めいたものを覚える。もちろん、それが彼女のどんな心情によるものかはわからなかったが――、
「――お手伝いしますね」
「あ……」
放ってはおけず、レムは溝に嵌まった女性の下へ歩み寄り、後ろから声をかけた。
とっさに目を丸くして、首だけで振り向く女性がレムの存在に息を呑む。が、すぐに彼女はバツの悪そうな顔になり、唇をもごもごさせて押し黙った。
その反応に、レムはまたしても親近感を覚えながら、車椅子の背もたれに手を置いた。
車椅子の背もたれ部分には左右に取っ手がついていて、そこから後ろに立った人物が車椅子を押せるようになっている。その部分を手で押して、前へ。
「せーのっ」
力を込めると、ガタンと音を立てて車輪が弾み、嵌まった溝から車椅子が脱出する。
勢い余ってわずかに前に進んだ車椅子、それを女性が手で止めると、彼女はその場でくるりと車輪を回転させ、レムの方に振り返った。
そして――、
「……余計な真似、しないで」
と、ずいぶんな挨拶を投げかけてきた。
「――――」
思わず、レムは丸い目をぱちくりさせ、彼女の言葉に呆気に取られてしまう。
その間にも、女性はレムから目を逸らし、唇をもごもごさせて、
「あれぐらい、手助けされなくても大丈夫だったから。大体、そっちも杖ついてるくせに何なの? じ、自分のこと精一杯やってなさいよ」
「ええと……ご心配、ありがとうございます」
「心配とかじゃない! 耳が腐ってるんじゃないの? そうじゃないなら、問題は頭の、そう頭の方でしょうね」
たどたどしく言われるそれが、どうやら嫌味であるらしいとレムは遅れて気付く。
口調は刺々しいが、微妙に言い慣れていない雰囲気が漂っているせいで、嫌味にしては傷付ける才能に欠けていた。
正直、プリシラと接していたレムからすれば、子犬とミゼルダぐらいの迫力差だ。
「さ、さっさと消えなさいよ。私はあなたに……あんたに構ってるほど暇じゃない」
「暇じゃないということは、何か役目を果たされているということですか?」
「役目……!? そ、そうよ。ちゃんとした役目があるの。あんたとは違って……」
レムに聞き返され、頬を強張らせながら女性が答える。と、その答えの途中で彼女は細い眉を顰め、レムを上から下までじろじろと眺めた。
そして、口元に運んだ右手の親指を軽く噛むと、
「……見ない顔で、見かけない雰囲気ね。あんた、誰なの」
「――。レムと言います。事情があって、こちらの屋敷に誘拐されてきました」
「誘拐……」
「はい。あの、お名前をお伺いしても?」
爪を噛みながら呟いた女性に、レムは歩み寄るように名前を尋ねる。
もしかしたら、冷たく突っぱねられる可能性の方が高いかとも思われた。
「――カチュア」
しかし、意外なほどあっさりと、彼女――カチュアは自分をそう名乗ってくれた。
それが何かの思惑があってのことなのか、あるいは考え事の最中で反射的に名乗ってしまったのかはわからないが、カチュアは思案げに爪を噛み続けて、
「誘拐ってことは、あんたも人質ってこと?」
「人質……そう、なるでしょうか。あまり私にそういう役目を求めるのが適切とは思えませんけど……」
それこそ、レムがいなくなったことで気を激しく揉むのはスバルくらいだろう。
もちろん、シュドラクの人々やオコーネル兄妹が気に病んでくれるとも思うし、プリシラも眉くらいは動かすかもしれないが、大局に影響はない。
レムの存在が大局を左右するとしたら、それはスバルが大局を左右するときぐらい。
でも――、
「あの人に、そこまでのことなんて」
できるとは思えないし、できるべきともレムは思わなかった。
力不足の中で不条理に苛まれ、懸命に抗い続ける姿を短い間で何度も見せられた。何もかも自分でやらなくちゃいけないと、そう背負い込み続ける彼の姿を。
レムは、それがどうにも耐え難かった。彼を嫌い、憎んでいたりするからではない。
それがどうしてなのか、言語化はまだ難しいのだけれど。
「――――」
「……ちょっと、黙らないでくれる?」
「あ、すみません。少し考え事を……カチュアさんは、ベルステツさんとは?」
目つきを鋭くしたカチュアに呼ばれ、レムは沈黙を詫びながら質問する。
この屋敷にいる以上、カチュアもベルステツの関係者なのは間違いあるまい。ただ、その関係性は想像しにくかった。
これがマデリンのような戦力だったり、見るからに帝国兵然としていれば関係性も明白だが、カチュアの見た目からはそうしたことと繋げにくい。
思いつくことがあるとすれば――、
「ベルステツさんの娘さんやお孫さん、とか?」
「宰相様の? やめてよ、そんな勘違い。第一、ベルステツ様は独り身で、ご家族はいらっしゃらないはずよ。私は、そんな大それたもんじゃない」
「そうなんですか? それは意外でした」
「意外?」とカチュアが首を傾げるが、その真意をレムは首を横に振って誤魔化す。
一度、レムと正面から相対したベルステツは、自分に皇帝への叛意の理由――それが、世継ぎを作らない皇帝への不信感だったと説明した。国を支えるベルステツの立場からしたら、皇帝のそれは職務放棄に思える不義理だったのだろう。
その理屈に、巻き込まれた側のレムは共感しづらくとも納得はできた。
ただ、そうした理由で叛逆を起こしたベルステツが、自身は皇帝と同じで家族を作っていないというのは、なんだか腑に落ちない。
もちろん、ベルステツなりの理由があるのだとは思うけれど。
「でも、そのどちらでもないならカチュアさんは何故お屋敷に?」
「……勘の鈍い女ね。私は、あんたも人質かって聞いたわよ」
「――。それなら、カチュアさんも人質として?」
レムが聞き返すと、カチュアは渋い顔をしたまま、不承不承といった様子で頷く。
カチュアも、誰かの人質として屋敷に囚われている。――その事実に、レムはわずかな驚きを得ながら、ぐるりと屋敷の様子を見回した。
広く、荘厳な雰囲気に包まれた帝都の大邸宅。
しかし、その内にはレムとカチュア、それに怪我をしたフロップも含めて、他にも多くの秘密が眠っているのだろう。
ベルステツと直接対峙して、レムはあの老人が理知的な傑物であり、帝位を取り戻そうとするアベルに立ちはだかる強大な壁であると認識した。
だが、搦め手も謀略も辞さないベルステツの恐ろしさは、レムの想像や推測で測り切れるものでは決してないのかもしれない。
「カチュアさんを人質に取られて、ご家族はさぞ心配されているでしょうね」
「……どうかしらね。あいつからすれば、私なんて取り換えの利く道具かもしれない。じ、邪魔になったら、それこそすぐに手放しても」
視線を逸らし、レムの言葉にカチュアがそんな風に吐き捨てる。
が、悪態めいたそれが彼女の本心ではないのが、そのたどたどしい言い方を抜きにしてもレムにはわかった。カチュアの態度、それには心当たりがある。
「――――」
だってそれは、他ならぬレムと同じような色合いの頑なさだ。
カチュアが悪態をついて、そう遠ざけようとするのがどんな相手なのかはわからない。ただ、今の言い分はレムに聞かせるより、自分に言い聞かせるためのもの。
自分が過剰な期待や信頼を、その相手に抱きたくないからつかれた嘘だった。
その相手が、自分をかけがえのない存在だと思っていることも、自分にとってその相手がかけがえのない存在であることも、認めたくないからこその嘘。
誰かをではなく、明確に『自分』を騙すための嘘だった。
「カチュアさん、もう少しお話しませんか?」
「な、何よ……そんな勝手なことして、宰相様に……」
「怒られることはないと思います。もしも怒られても、そのときは私が無理やり押し掛けたんだと言ってください」
「実際、そうじゃない……あ、ちょっと!」
唇を震わせ、レムを拒もうとしたカチュア。そのカチュアの後ろに素早く回り込み、レムは杖を小脇に挟むと、そっと彼女の車椅子の取っ手を握った。
車椅子を押すついでに、レム自身も相手の体を支えにできる。これなら杖なしでも転ばないで済むし、案外悪くない立ち位置だ。
「か、勝手なことばかり……私はあんたとなんか」
「カチュアさんのお部屋はどちらなんですか? 私の部屋は西側ですけど」
「……は、反対の東側」
「わかりました。では、向かいましょう」
弱々しいカチュアの返事を聞いて、レムは車椅子を押して歩き始める。最初だけわずかな抵抗があったが、カチュアの指はすぐに車輪を離れ、されるがままに。
少し、強引に話を進めている自覚はあったが、レムは押しどころを躊躇わなかった。
カチュアが、この屋敷の重大な秘密を握っているだとか、彼女と仲良くなることで袋小路の脱出方法が見えるだとか、そうした打算的な考えはあまりない。
たぶん、カチュアの存在は、状況を動かすそのために役立つことはないだろう。
レムやカチュアの存在を人質にするベルステツ、彼が家族を持たない理由は、彼自身が弱味を持たないためだとぼんやりと理解できたから。
それでも、レムがカチュアとこうして歩み寄ろうとする理由はいくつかあるが――、
「――私は、知らなくちゃいけないことがたくさんある」
囚われの人質となり、自分を知る人たちに不安と心配の種をばら撒くだけの、そんな弱い自分でいてはならないのだと、そうした思想と覚悟があった。
故に、レムは足掻く。方法がわからなくても、自分なりの方法で。
『――誰しも、自分からは逃れられぬ。努々、妾の言葉を忘れず、精進せよ』
無力な自分を否定するよりもやるべきことがある。
そう、明瞭に言ってくれた人の言葉を実践し、足踏みしたままでいないために。
△▼△▼△▼△
――人の気配を室内に感じて、フロップはゆっくりと瞼を開けた。
「――――」
絡みついてくる眠気の手を振りほどいて、フロップの意識が現実に戻ってくる。
開かれた瞼の先、見えるのは清潔な白い天井で、自分が監禁されている屋敷の一室であるとすぐに理解が追いついてきた。
さすがに、もうそのことで慌てふためく期間は過ぎている。いきなりのこととバタバタ手足を動かそうとして、大変痛い思いをしたのも過ぎたことだ。
とはいえ、この状況を慣れたと呼ぶのはまだ少し違和感が残っている。
「こう何日も寝たきりで過ごすというのは、商人の立場としては焦りを覚えてしまうな」
その日の働きが、行商予定が稼ぎに直結する行商人だ。
あまり得意とは言えないが、綿密な商いの計画こそが成功の近道。仮に成功ではなかったとしても、わずかでも稼ぎを得るには働き続ける必要がある。
なので、こうして寝台に縛り付けられた生活というのは、そののんびりとした過ごし方と裏腹に心がバタバタと慌ただしくなってしまう。
自分が囚われの立場でいることを知れば、妹のミディアムがどんな反応をするだろうかと、そんな風に思ってしまえばなおさらに。
ともあれ――、
「すぐさま、万全の状態に治してくれとも奥さんには言えない。歯痒いものだね」
怪我をしたフロップの治療のため、同じく屋敷に囚われの身となったレム。
スバルや、彼女を心配する大勢の人のために、何としても無事に帰さなくてはならないレムだが、その立場は安泰とは言いづらい。
現状、レムの立場はフロップの癒者であり、フロップの傷が完治してしまうと、途端にその後の身の置き所が不安になる立ち位置なのだ。
まさか、即座に用済みだとレムが処分されることはないと考えたいが。
「それこそ、君の考えやご機嫌次第と言えるんじゃないかな、マデリン嬢」
整理された考えをまとめ切り、それからフロップが話題を部屋の入口に投げた。
最初、人の気配を感じて目覚めたのだ。相手の声は聞かれていないが、誰かが部屋にいるのは明白で、そしてフロップを訪ねる相手は大概、二人しかいない。
治療にやってきたレムか、たびたび顔を見せるマデリンの二人だけ。
屋敷で思いがけない自由を与えられているレムはともかく、マデリンとの相対にはフロップも大なり小なり気を引き締める必要があった。
なにせ、幼く見える彼女の腕力は途轍もなく、その爪でフロップを引き裂くことがとても容易だ。おまけに、彼女は誇り高い竜人――どんな対応が正解なのか、これまで色んな世渡りをしてきたフロップにも計り知れない。
それに、状況が見えていないと叱咤されそうだが、フロップはあまりマデリンを欺いたり、嘘で騙くらかすような真似をしたくなかった。
フロップだって、嘘をつかずにこれまで生きてきたわけではない。力がない分、言葉の力には帝国で人一倍頼ってきたという自負もある。
それでもマデリンを丸め込むような真似をしたくないのは、ひとえに彼女が純粋に、フロップのよく知る『身内』のことを大切に想ってくれているから。
頭の悪い生き方だと、また別の『身内』には呆れられてしまうのだろうが。
「それが、僕というものの生き方だからしょうがない」
開き直りと言われればそれまでの覚悟で、フロップは屋敷での時を過ごしている。
故に、この日もマデリン相手に嘘のない、かといって彼女の興味がそこで尽きないよう話術と話力を駆使した戦いが要求される――はずだった。
しかし、そうはならなかった。何故なら――、
「マデリン嬢? 昨日の話の続きをせがみにきたんじゃないかい? 初めてカリヨンが空を飛んだとき、バルロイは言った驚きの一言とは? といったところで話を切ってしまったわけだけど――」
「――興味深い話題ではあるが、今すべき話ではないな」
「――――」
寝台に寝そべったまま、いるだろう相手に話しかけていたフロップは、思った相手と違った声音に返事をされ、黙り込んでしまう。
入口にいるのはマデリンとばかり思っていたが、返ってきたのは男の声だ。それも、フロップの聞き覚えのある男のものだった。
これは素直な自慢だが、一度聞いた声をフロップは忘れない。
賑々しい市場の端っこから聞こえた声だとしても、一度聞いた声ならしっかりとそれが誰なのか聞き分けられる。なので、その声も間違いようがなかった。
ただし、その声を聞いたときのフロップの心情は、とても複雑を極めるものだった。
なにせ、相手との関係は以前と、少なくともフロップの中では激変してしまったから。
「村長くん……いや、皇帝閣下くんというべきか」
「言い直してそれか? いずれであれ、不敬な呼び名に代わりはないな」
静かに呼びかけながら、フロップは震える腕と体を酷使し、寝台で上体を起こした。まだかすかに上半身に痺れと肌の引きつりを感じたが、耐えられないほどではない。
そうして起こした視線、部屋の入口に佇む姿がようやく目に飛び込んでくる。
そこに立っていたのは、黒い髪に色白な肌が印象的な鋭い目つきの若者だ。
色濃い赤を基調とした装いとすらりとした立ち姿は、何度となく目にしたそれとぴたりと一致する。顔つきも目鼻立ちも、全てに見覚えがあった。
アベル――否、ヴィンセント・ヴォラキア。
それこそが、神聖ヴォラキア帝国の現皇帝にして、玉座を追われ、その奪還を目指している反骨の狼の名前であった。
その張本人から不敬と言われ、フロップは苦笑しながら頭を下げる。
「失礼、言い直すべきなのだろうね。いいや、言葉遣いも改めなくてはいけないだろうか。ううん、困った。最初からやり直させてもらっても構わないだろうか」
「不要だ。やり直したとて、行いが帳消しになるわけでもない。まして、貴様はヴォラキア皇帝に忠誠を誓い、信義を捧げる覚悟のある民か?」
「どうだろうか。自分の暮らしている国の皇帝なんだ。僕にも一応の愛国心と感謝の念はあるつもりだよ。ヴィンセント・ヴォラキア閣下の治世になってから、種族間の小競り合いを含めた諍いは激減した。暮らしやすい国になった感謝があるとね」
「含みのある言い方だ。余を前にして、よくぞ空言を弄せたものよな」
細い肩をすくめて、ゆっくりと歩みを進める皇帝。
その姿が間近でより鮮明に見えるようになって、フロップは軽く目を見張った。どこからどう見ても、その姿形はフロップが見知ったアベルそのものだった。
そして、目の前の彼がアベル本人でないことは、わかっている。
「勉強不足で甚だ恥ずかしいけれど、本当によく似せているのだね。それぐらいでなくては影武者なんて役目は務まらないと、そういうことなんだろうね」
「軽々に物を語るようでは、その口を塞がざるを得なくなるぞ。貴様がこうして匿われているのは、『飛竜将』たるマデリン・エッシャルトの望みに過ぎぬ。だが、一将の望みと余の気紛れと、天秤はどちらへ傾くか、容易に知れよう?」
「口は慎めと、忠告は受け止めるとも。だが、忠告を実践できるかは約束できない! なんせ、僕の心中とても複雑でね! 君のその顔に色々物申したいのさ!」
「――――」
ビシッと指差して、そう声高に主張するフロップに相手が沈黙する。
相手――この場合、アベルではない相手をなんと呼ぶべきなのか判断に困りつつも、便宜上、この相手こそをヴィンセントと呼んでおく。
そのヴィンセントが偽の皇帝であり、帝位の簒奪を目論む輩であることはフロップの知る事実だ。ただ、それ自体を糾弾する理由はフロップにはない。
フロップとアベルが固い友情で結ばれ、彼の代わりにあらゆる出来事に声を上げるだけの関係性が築かれているならまだしも、そうではなかった。
むしろ、そういう意味でも複雑な関係性にあるのがフロップとアベルの立ち位置だ。
「生憎、僕が本当に物申したい相手は、君と同じ顔をした別の彼の方なのだけどね。それにしても、本当によく似せてある……僕も旦那くんを手伝って、よく村長くんの化粧をさせてもらっていたものだけど、そのときの素顔と瓜二つだ」
「――。城郭都市の件は耳に入っているが、貴様も企ての関係者か。揃って、皇帝の治世を下らぬ方法で歪めようとしたとしか思えぬ暴挙よ。度し難い、暴挙だ」
「そうかな? 楽しい試みだった。何しろ、犠牲者が出ない」
「結果論だな」
頬を緩め、フロップは自分とスバル、それにアベルと協力した城郭都市の計画を思う。
あれはフロップですら度肝を抜かれる発想で実行された計画だったが、これまでフロップの関わったあらゆる作戦・計画の中で一番愉快なものだった。
あの作戦に関わったもの全員が、あの作戦の成功を望んでいたはずだ。
「タリッタ嬢もクーナ嬢も、僕もそうだ。――だからこそ、解せない」
「――――」
「村長くん、皇帝閣下くん……なんと呼べばいいのか定まらない彼が、どうして帝位を追放され、ああした立場に置かれたのか」
そこで一度言葉を区切り、フロップは「もっと言えば」とヴィンセントを見据える。
表情を小揺るぎもさせない、皇帝と瓜二つの顔をした帝位の簒奪者を。
「何故、君たちは盤石な帝国を揺るがしてまで、事を起こさなくてはならなかったのか」
「――。よくよく、口の回る男よな」
「それが商売道具なんだ。商人なものでね。あとは妹からもよく褒められるんだが、なかなか美形らしい。それも商売道具だ」
「なるほど。ならば――」
歯を見せて笑うフロップ、その言葉に鷹揚に頷くヴィンセントが、不意に伸ばした手でこちらの顔を掴み、引き寄せた。
無理に前のめりにされ、傷の痛んだフロップが「むぐっ」と呻く。が、ヴィンセントはその苦鳴を意に介さず、フロップを間近で睨みつけ、
「その顔と口、不敬の贖いにこの場で奪ってやってもいい」
冷たく鼓膜に滑り込んだ声は、頭から体に下って心の臓を凍り付かせる威圧感があった。
口の減らない相手への、皇帝への不敬を許し難いと考えるそれは、冷徹でありながらも微かな憤慨を交えている。
それが意味するところを考えながらも――、
「……口に気を付けろという意味なら、声を奪う方が理に適っているかもしれないね」
改めて、なおさら怒りを買いそうな答えを発し、フロップは掴まれた顔を不細工にしながらヴィンセントを見返した。
一瞬、その答えにヴィンセントが黒瞳を細めるも、その瞳の奥を過った感情は表に出されることなく、振り切られた。
フロップの顔が解放され、ヴィンセントが片目をつむる。ヴィンセントが模倣するアベルも、よくしていた相手を観察する眼差しだ。
「余の気紛れとマデリン・エッシャルトの希望、どちらが重いかは知れたことと明かしたが、あれの離反か叛意は免れ得ぬ。そこまで読んでの態度か?」
「え? あー、ああ、なるほど。確かにマデリン嬢は僕が死んだら怒りそうだね。それは君にとっても都合が悪い……そこまで考えてはいなかったが、確かに」
「――――」
「囚われの僕が、命懸けで皇帝閣下くんに報いようとすれば、マデリン嬢の離反を促すくらいのことはありえたわけだ。――残念だけど、今はやれないが」
ヴィンセントに言われ、フロップは自分の命の価値を改めて計上し直した。
マデリンの興味関心が自分に向いている現状、もしもみだりにフロップの命が奪われれば、獣のような危うさのある彼女を飼い慣らすことは難しくなるだろう。
マデリンがヴィンセントから離反すれば、反乱するアベル側は優位になる。
そのために挑発したのかと、ヴィンセントが疑うのもわかる話だった。
「脅しの類には屈さず、命を懸けるのも躊躇わぬと聞く。ベルステツの言う通り、貴様はどうやら厄介な災いの種であるらしい」
「どうやら、無自覚にそういう立場に置かれてしまったらしい。さあ、どうしてみる、偽皇帝くん。僕はとても扱いづらいぞぅ!」
「貴様と共に連れてこられた癒者の娘がいると聞く。その娘の身を案じるならば、余計な言葉も態度も慎み、大人しくしていることだ」
「完封されてしまった!」
レムのことを盾にされると、いきなりフロップに打つ手がなくなった。
だが、仕方あるまい。レムにはなんとしても、無事に帰ってもらわなくては。
それに――、
「僕自身、どうすべきかは決めかねているのだから」
究極、フロップの立ち位置はマデリンと同じになったと言える。
ならば、マデリンと同じように、彼女が与する反乱に加わり、追い落としたアベルを抹殺するべく悪辣な策謀を繰り出し、じわじわと彼に罪を償わせるべきか。
一介の、妹に顔の良さを褒められるぐらいしか取り柄のない商人が。
「マデリン・エッシャルトのことがなくとも、ベルステツは貴様を悪いようにはせぬ。身の程を弁え、せいぜい波風を立たせずに時を過ごせ」
押し黙ったフロップを見据え、ヴィンセントがそう言い放った。
その内容から、フロップは彼がこの場の対面を終わらせにかかっていると理解する。フロップから得られるものはないと判断したか、あるいはこの話し合いの目的を果たしてしまったのか、とそこまで考えて――、
「偽皇帝くん、君は何をしにこの部屋に?」
「――――」
「謀反をしたことのない僕には想像もつかないことだが、それでも頑張って想像力を果たせてみる限り、皇帝閣下の立場は多忙だろう。ただでさえ大変な中、皇帝閣下くんのように諦めずに暴れ続けるものもいれば、忙しさはとどまることを知らないはずだ」
普段の行商が楽とは言わないが、買い手の要望とぴたりと嵌まる商品が積み荷にドカンと載っていたときなど、その忙しさは普段とは比べ物にならない。
偽皇帝の立場も、本物の皇帝が健在な間は決して安泰になることはないはずだ。
そんな状況下で、わざわざどうしてヴィンセントはフロップの下に足を運んだのか。
それは――、
「もしや、皇帝閣下くんがどんな様子だったのか、僕から聞きたかったとかかい?」
「仮に、余が貴様の戯けた呼び名の通り、簒奪者であったとするなら悪趣味なことよな。自らが追い落としたものがどうなったか、近々のものから聞き出そうとするなどと」
「情報収集の重要さは、商いでも戦いでもそう変わらないのではないかな。だとしたら、相手の状況を知ろうとするのが悪趣味と僕は思わない」
「――。だとしても、見当違いだ。わざわざ貴様の口から聞かずとも、あのものがどうしているかはこの目で見た。言葉も交わした上でだ」
「それは、そうなのか……」
図星を突かれた末の、苦し紛れの言い逃れ。
そんな軽薄な発言ではなかったと、フロップはヴィンセントの答えを受け止める。
直接、アベルを見て、言葉を交わしたというのがどういう状況だったのか、それは想像する以外に余地がないが、とても嘘とは思えなかった。
そのアベルの傍にいるはずのミディアムやタリッタ、スバルのことも気掛かりではあったものの、そこを掘り下げて答えをもらえる可能性は低そうだ。
少なくとも、直接対面したときにアベルをどうこうできたわけではないのだろう。
もしもそれができたなら、彼は早々に勝利宣言をしていておかしくない。わざわざそれをしにくるほど悪趣味とも考えにくいが、事実を伏せたまま話を続けるのも同じぐらい悪趣味だし、どちらでもないと思われたからだ。
つまり、ヴィンセントはフロップに話を聞きにきたわけではない。
だとしたら、思いつく可能性は一つだけ。
「聞きたいことがあったのでないなら、話しておきたいことがあったから、かな?」
「厄介と、そうベルステツが評したのは貴様の立場のことだったはずだが、余の目から見ても貴様の在り方は厄介の枠に置かれるものだな」
「それは褒められていると思っていいのかな? そう思った方が僕の精神的には前向きに働くから、そう思っておくことにするよ」
その言葉で、立ち去りかけたヴィンセントの足が止まったとフロップは考える。
「――――」
正直、ここでヴィンセントの足を止めたことが、自分自身にとって良いことなのか悪いことなのか、フロップにはわからない。
ヴィンセントの目論見が果たされ、帝位簒奪が完全に成った場合、アベルは帝国だけでなく、きっとこの世界からも立場を追われることになる。
それが、自分の望みなのだろうか。
自分の大事な『身内』であった、バルロイ・テメグリフの死に関わった人物、彼が全てを奪われ、命を失うことが自分の望みなのか。
「今まで、自分が何を欲しがっているのかわからなかったことなんて……」
あっただろうかと考えようとして、フロップはすぐに考え直した。
思い出すまでもない。他ならぬ、バルロイたちと出会う以前の自分は、ミディアムを守りたい一心で過ごし、それ以外の何も望めないでいた。
あのときの自分と同じだ。だったら、答えもあのときと、得方は同じだ。
『お前らは、なんだって選べるんだよ』
ぶっきらぼうな声が、そんな風にフロップの背中を押してくれたのが思い出される。
だから、何も知らないまま流されるより、何かを知って歩き出すのを選びたい。
「聞かせてもらえないだろうか、偽皇帝くん。君が、何を語りにきたのかを」
帝位の簒奪で多忙な偽皇帝を引き止め、フロップは真っ向からそう尋ねた。
その問いかけにヴィンセントは、フロップの見知った男と、ほんのわずかに印象の異なる歪みを口の端に湛え、言った。
それは――、
「――『大災』、それがもたらす滅びの理について、だ」