第七章73 『ヴァイツ・ログン』
――ヴァイツ・ログンは、自分が真っ当な生き死にをできるとは思っていない。
とかく、世の中というものは人並みという言葉を過小評価している。
人並みというのは、普通や平凡、目立ったところのないという意味で使われるが、そんなのはそれこそ人以下の存在からすれば、雲の上の基準だ。
鉄血都市『グララシア』、それがヴァイツの生まれ育った故郷の名前だ。
帝国全土で使われる武器や防具、戦いに必要な道具の数々が製作され、日夜他人を傷付けるための武具作りに精を出す職人が鋼を鍛えるイカれた街である。
住民の半分ほどは何らかの形で武具作りに関わっており、ヴァイツも例外ではなかった。もっとも、物心ついた頃には親はなく、職人の工房で雑用を押し付けられる立場だった彼には、そうした仕事への関心も誇りもなかった。
仕事をするのは食っていくためであり、工房で雑用係をしているのは、自分が生まれた場所が鉄血都市であったからという理由以外にない。
もしも主要な産業が馬具ならそれを作るのを手伝い、農業なら鍬を持っていた。
拘りも関心もなく、鋼を鍛える職人を横目に黙々と仕事をするヴァイツ。付き合いが悪く、何を考えているかわからないヴァイツを働き者と呼ぶものもいたが、大抵の人間はヴァイツのことを得体の知れない不気味な奴と思っていただろう。
ヴァイツも、それで構わなかった。誰かと馴れ合いたいとは思わない。
生まれたときから一人だったのだから、死ぬときも一人で当然だろうと。
そんな、他者に無関心の刹那的な生き方が嫌われたのだろう。
出入りしていた工房で、仕入れた資材が横流しされている疑惑が生じたとき、真っ先に疑いの目を向けられたのがヴァイツだった。
一人で行動することが多く、庇ってくれる関係性の相手も皆無だったヴァイツに、かけられた疑いを晴らす手段はなかった。
結局、冤罪を晴らすことはできず、ヴァイツは身に覚えのない罪で裁かれ、罪人となった。――最初に入れられた刺青は、一目で罪人を見分けるための刑罰の証だ。
自分の両腕の肘から先、鋼の鍛造で常に熱気に包まれる都市で、袖の長い服を着ているものなどいないから、刺青は常に剥き出しだ。
仮に袖の長い服を着ても、後ろめたいことがあるからだとすぐにバレる。
罪人の証を入れられた時点で、もはや以前と同じ暮らしは送れなくなった。
それまでも上等な暮らしではなかったが、『人並み』を手放したのはそのときだ。
真っ当に運営される工房の仕事はできなくなり、日銭を稼ぐためにヴァイツは盗みに手を染めて、資材の盗難や横流しを始め、結局本当の犯罪者になった。
――要するに、罪はあとから追いついてきた。
横流しを疑われ、誰もヴァイツの言い分に耳を貸さなかったとき、ヴァイツは罪人ではなかった。だが、その後、結局ヴァイツは罪人になった。
なるべくしてなったと、そういう話なのだろう。
「オレがおぞましいものなら、それでいい……」
刺青を入れられて罪人となり、誰の目から見ても『人並み』を外れた自分。悪事を働いて日銭を稼ぎながらも、以前と同じで他者とうまくやれもしない。
だったら、煩わしい付き合いなど、全部最初から切り捨ててやればいい。
腕の、肘から先だけだった刺青を、肩に胸に、自分の手で大きく入れていく。やがてそれは上半身を覆い、足に、そして顔と頭にまで及んだ。
腕の刺青は罪人の証、だが、全身の刺青は近付いてはいけない危険の証だ。
全員、恐れ怯えて道を開けろ。かつての、誰もに見捨てられて罪人に落ちた情けない男はもうおらず、いるのは失うモノのない厄介な『人以下』だけだ。
だから――、
「――止まれ、罪人が! タダで済むと思うな!」
都市の衛兵に囲まれ、武器を向けられたヴァイツはすぐに投降した。
足下に血塗れで倒れているのは、かつての工房――ヴァイツが初めて罪人となった場所で、職人の見習いとして働いていた男だ。
耳を食い千切られ、血と涙を流しながら泣き叫んでいるその男こそが、あの日、ヴァイツに被せた冤罪の犯人だと、酒の席で漏らした噂を聞きつけ、報復した。
口に含んだ耳を吐き捨てて、ヴァイツは衛兵に捕らえられ、牢に入れられた。
鉄血都市では札付きと知られたヴァイツだ。救いの道なんて与えられず、程なく決まった処遇は犯罪奴隷として、悪名高き剣奴孤島へ送られること。
逆らう気力もなく受け入れた。抗う意思もなく、湖を渡った。
送り込まれたその場所で、同じ境遇の貧相な奴らと組まされ、世にも恐ろしい魔獣と戦う儀式への参加を余儀なくされた。
どうあろうと構わない。死ぬつもりは毛頭ない。
たとえ、誰を犠牲にしたとしても、出し抜いてでも、生き延びて、いつか。
いつか、『人並み』の――。
「――ヴァイツ! 剣を取れ! お前が頼りだ!!」
――『人並み』の、人間として、扱われたかった。
△▼△▼△▼△
「庇え……!」
くるくると、蹴られた看守の頭が血を撒きながら飛んでくるのを見た瞬間、ヴァイツはすぐ横にいたシュバルツをタンザに突き飛ばしていた。
このキモノ姿の少女は、その幼い見た目に反して強靭な力を持っている。
しかし、彼女はその力を使いこなせていない。体と心の強さがちぐはぐで、頼りにするには危うすぎる。――シュバルツとは、いい組み合わせだ。
体は弱いが、心が強いシュバルツ。彼なら、タンザをうまく使えるだろう。
だからこの瞬間、体は強いが心は弱いタンザに彼を突き飛ばしたのは正解のはずだ。
そして、それをしたヴァイツ自身は――、
「お、おおおお……っ!!」
前に走り、飛んでくる看守の頭を振り上げた腕で通路の床に叩き落とす。
一瞬で味方の首を刎ね、それを蹴り飛ばすという衝撃的な行いでヴァイツたちの思考を停止させる策――だが、それだけとは思えない。
事実、ヴァイツ以外の四人の判断は一拍遅れたが、ヴァイツは動けた。
シュバルツがあれだけ警戒する男の狙いが、それだけとは思えない。
そう、ヴァイツが考えた次の瞬間だ。
「――ッ!?」
正面、斧を手に踏み込んでくる男を睨むヴァイツの真横で、通路の壁をぶち壊しながら黒い怪鳥――剣闘獣が突っ込んできたのだ。
それはヴァイツの半歩後ろの壁を砕いて、島上層の通路を真横に蹂躙する。
ヴァイツたちを狙った、空を飛ぶ剣闘獣による攻撃――否、違う。剣闘獣には違いないが、その鳥が狙ったのはヴァイツたちではなかった。
「――――ッッ!!」
壁を砕いて現れた怪鳥、その嘴が貫くのは床に転がった看守の頭だ。
首を斬られた看守の頭、それを狙って怪鳥は通路に突っ込んできた。その意味はわからないし、考えている暇もない。
「お前を……っ!」
半歩後ろで起こった凄まじい衝撃、背中に爆ぜた壁の破片や剣闘獣の鋭い翼の傷を浴びながら、ヴァイツは歯を噛みしめ、男から視線を外さない。
シュバルツの素性を聞いても、ひれ伏すどころか殺意を高めた男――危険だ。
ヴァイツの、刺青で作った見せかけの危なさと違う、本物の脅威。
それを、何としても食い止める。
「――――」
前進するヴァイツを見て、男がその目を残酷に細めた。
何も言わなくても、その目つきだけで相手が自分を殺す気だとわかる。そのまま、男が左腕で斧を振り上げるのを見て、ヴァイツは自分の左腕を上げた。
最初に刺青を入れられ、罪人の証となり、この地に流れ着く切っ掛けになった腕。
そこに思い切り力を込めて、放たれる男の一撃を受けようと――、
「ぐ、ぎ……ッ」
容赦なく、振り回される斧がヴァイツの頭を左から狙った。
上げた腕をその軌道に割り込ませ、ヴァイツは縦ではなく、横にした腕を斧の刃に合わせる。命中の瞬間、肘の骨が砕け、二の腕と肩の骨も肉ごと押し潰される。
衝撃と痛みで視界が真っ赤になり、左腕が刺青と全く違った色でどす黒く染まった。
だが――、
「耐えたぞ……っ」
待ち構えるのではなく、踏み込んだことで斧の威力がわずかに弱まった。
それがヴァイツの頭を砕かせず、命を終わらせなかった最大の理由。異常と、そう言われるような度胸は元々あったが、それに見合った判断力はなかった。
度胸と判断力が合わさったのは、自分以上に無鉄砲な子どもと出会った結果だ。
故に、その出会いがヴァイツの腕を男に届かせ――、
「耐えてないぞ」
左腕を壊され、残った右腕で男を取り押さえようとした瞬間、男の姿が消えた。
――否、男の姿は消えたのではなく、見えなくなったのだ。
視界の外側に入られると、暗くぼやけた空間に相手の姿は見えなくなる。
あれと同じようなことが起こった。だが、おかしい。おかしかった。急に、ヴァイツの視界の右側、そこに見えない部分が一気に広がって。
まるで、ヴァイツの視界の右側が、急に何かに潰されたみたいに。
「ヴァイツ――!!」
消えた男の姿が見つからないまま、違和感を抱えるヴァイツを誰かが呼んだ。
ゆっくりと、後ろを振り返ると、壊れた通路と噴煙があった。そして、通路を壊した怪鳥の首を、消えた男が振り下ろした斧で撥ね飛ばす姿が。
「――――」
その、怪鳥の首を刎ねる男の向こう、崩れかけの通路の上に四人が見えた。
後ずさり、尻餅をついているものもいるが、全員、怪鳥の横槍は免れたらしい。そのことに安堵する自分に、ヴァイツは少し驚いた。
驚きながら、呆然とこちらを見ている彼らに、一言かけてやりたくなる。
壊れた左腕が痛い。何故か、顔の右側も痛くなってきた。
その痛みで、どうしてか遠くなりかける意識を引っ張り寄せながら、
「初めてだった……」
「ヴァイツ……!」
「オレを、信じると、そう言った奴は……」
呟いて、ヴァイツは胸の内につかえるものが、それだったのだと理解した。
理解して、膝から力が抜けて、その場に倒れて。
「ヴァイツ――!!」
またしても、感情的に自分の名前が叫ばれるのを聞きながら、目を閉じた。
なんだかやけに、いい気分だった。
△▼△▼△▼△
倒れたヴァイツの下へ駆け寄ろうとするのを、伸びてくる細い指に止められる。
振り返ったスバルに、キモノ姿の少女は涙目で首を横に振って、衝動的なスバルの行動を許してくれなかった。
そして、その指を振り切るよりも早く――、
「――――ッッ」
耳を引き裂くような不細工な鳴き声がして、通路の天井が上から押し潰される。
それは倒れたヴァイツの頭上、重量に負ける通路が激しい音を立てながら潰れて、落ちてくる天井の下にいるヴァイツを呑み込み、床が抜ける。
壊された通路が階下に抜けて、ヴァイツと、そして天井を押し潰した灰色の巨大な蛙が一緒に真っ逆さまに落ちていくのを目撃させた。
その左腕に斧を受け、右目にナイフの一撃を浴びたヴァイツを。
「ヴァイツ――っ!!」
崩れていく床と天井、落ちていく通路に手を伸ばしながらスバルは絶叫する。
ヴァイツが落ちた。スバルたちを守ろうと、前に飛び出したヴァイツが。早く、早く飛び降りて、ヴァイツを助けにいかないと。
「二匹目が落っこちたのは運がよかったな。魔獣は殺すのも一苦労だ」
そうして考えが迷走するスバルの前で、崩れた通路を横目にするトッドが呟いた。
彼の足下には、首を刎ねられた黒い大鳥の死体が転がっている。通路に突っ込んできたあと、トッドに斧で殺された魔獣だ。
起こった出来事が、あまりにも急ぎ足すぎて消化できない。
トッドがしでかしたことも、目の前で起こったことも、何もかも。そいつらの処理が終わらないと、別のことは考えられない。――ヴァイツのことは、考えられない。
ヴァイツに何が起こって、彼がどうなってしまったのか、考えられない。
考えられな――、
「――魔獣ってのは、角を折った奴の死体を食うんだよ」
「――――」
不意に、斧を肩に担いだトッドがそう言った。
まだ、目の前の状況を受け止め切れていないスバルも、スバル以外の面々も、そのトッドの言葉に息を呑んで、彼の方を向く。
トッドはその四人の視線を受けながら、足下の死体を指差した。
「角を折ると魔獣を従わせられるが、命令されてる間、さぞ鬱憤が溜まるんだろうな。そいつが死ぬと、魔獣は腹いせに死体を食う。気持ち悪いだろ」
肩をすくめて、トッドが話すのは知られざる魔獣の生態だ。
どうやってそれを知ったのか、知りたくもないし、そもそもその情報自体が知って得するタイプのものでもない。
ただ、それで何が起こったのかは説明がついた。
あの、大鳥が通路に突っ込んだのは、首を刎ねられた看守が角を折った相手で、その死体を狙うとトッドは事前にわかっていたからだ。
首を蹴り飛ばして、大鳥がそれを狙うのにスバルたちを巻き込もうとした。
でも、そうはならなかった。何故なら、何故なら、何故なら。
何故、なら――。
「ヴァイツが」
「あんな見た目で仲間想いの奴だったな。――だから死んだ」
「――ぁ」
トッドらしくない、起こった出来事の丁寧な説明。
何も聞かせず、知らせず、教えず、一切情報を与えないで殺すのがトッドの流儀。それなのに、どうしてぺらぺらと、今は話を聞かせたのか。
聞かせて、わからせて、スバルの頭を次の疑問に向かわせるためだ。
殺された二人の看守と、飛び込んできた魔獣との関連性。
それが解決してしまえば、スバルの思考は次に、向かう。次の、ヴァイツのことに。
ヴァイツが、もうどうしようもないぐらい、死んでしまったことに。
「あ、ああああ――っ!!」
死んでは、いけなかった。ヴァイツは、死んではいけなかった。
スバルたちを守ろうとして、この恐ろしいトッドに立ち向かってはいけなかった。歯向かえば殺されるこの怪物に、歯向かってはいけなかった。
だって、ここで死んでしまったら――。
「ようやく、ガキっぽい顔になったな」
ヴァイツの死を理解した瞬間、スバルの頭が後悔と焦りで埋め尽くされた。
その反応を目にして、トッドは狙い通りと微笑み、斧を振りかざす。
丁寧なトッドの説明は、スバルに思考を整理させるのが目的だった。
スバルが無意識に考えないようにしたヴァイツの死、無理やりそれと向かい合わせて、心を砕くための、得体の知れない敵から、血の通った人間にするための。
「シュバルツ様――!」
驚愕に足が止まったスバル、まだ精神的に立て直せていないヒアインとイドラ。その三人に先んじて、体を動かせたのはタンザだった。
タンザは向かってくるトッドを見据え、両手を広げてスバルの前に立つ。
だが、そのタンザの行動にトッドは顔をしかめて、
「やることちぐはぐだぞ、お前さん」
「え」
立ちはだかるタンザの前で言って、トッドがその場に膝を落とす。その動きに目を奪われるタンザの股下、しゃがんだトッドが伸ばした腕を差し込み、振り上げる。
途端、タンザの小さい体が浮き上がり、真横に放り投げられた。――大鳥が壊して、外と繋がっている壁の大穴へと。
「あ」
子どもと思えない身体能力があっても、重力や物理法則には逆らえない。当然、体が人より重いわけでもなく、タンザの重さは小さな女の子一人分だ。
とっさのことにタンザが手を伸ばすが、細い指先はどこにも届かず、彼女の体は島の裏側へと投げ落とされた。
「遊んでこい」
空に投げ落とされたタンザ、その悲鳴がどんどん下に遠ざかっていく。
そうやって、立ちはだかったタンザがいなくなってしまえば、トッドの斧からスバルたちを守るものはもう誰もいない。
「皇帝閣下の……」
「うん?」
「皇帝閣下の御子だぞ!? 正気なのか!?」
振り向くトッドを睨んで、そう叫んだのはイドラだった。
目を血走らせ、人の好い印象の顔立ちを怒りで燃やした彼の訴えは、スバルがヴォラキア皇帝の落とし胤だと、そう『嘘』をついても揺るがなかったトッドを責める。
しかし、その訴えに対するトッドの答えはシンプルだった。
――ただ無言で、イドラの頭を叩き割ろうと斧を振ったのだ。
「うおおわ!」
頭を割られる寸前、服を引っ張られたイドラが尻餅をつく。斧が空振りして、目を見開いたイドラの後ろで、彼を引っ張ったスバルが首を急いで横に振った。
無理だ、話なんて通じない。最初から、この脅し自体が間違いだった。
スバルは、安直な選択肢に頼ろうとした。
その報いとして、この状況に陥ったのだ。
「よけたか、失敗失敗。ただし――」
斧を構え直すトッドが、呆れた顔で横に向いた。その視線の先にいるのは、尻餅をつくイドラとスバルの傍ら、周囲の風景に擬態したヒアインだ。
壊れた床や壁と同化して、そこにヒアインがいるとは見てもわからない。
でも、高速移動したわけじゃないのだから。
「目の前で消えてどうすんだ」
「シュバ――」
トッドと目が合って、ヒアインが身じろぎした途端に擬態が乱れる。
それまで完璧だった風景との同化が、絵のその部分だけ握り潰したみたいに、とても不細工で見ていられないものになってしまう。
今度はそこに、ヒアインから噴き出した赤い絵の具が加わった。
「――――」
肩口から斧に一撃され、胸下まで斬られたヒアインが倒れる。だくだくと血の流れる彼の体の擬態は解け、灰色の蜥蜴人の亡骸がどうと転がった。
ヴァイツが死に、タンザが投げ出され、ヒアインも殺された。
次々と、スバルの目の前で。
そして――、
「け、決闘だ……っ」
震える声で、殺されたヒアインの死体から目を離し、イドラが立ち上がる。
今しがた、目の前で仲間を殺した男に指を突き付けて、イドラは歯を鳴らしながら、顔色を怒りで赤く、恐怖で青く、彷徨うように白くした顔でトッドを睨む。
『スパルカ』の場で、スバルたちを鼓舞し、自らを奮い立たせるためについた嘘。
スバルの、安直な嘘とは違う、嘘という名の彼なりの理想を携えて。
「君も、戦士なら――」
そのイドラの、理想が過ぎるかもしれない理想は裏切られた。
「わ!」
「――ッ」
か細い希望には違いなかったが、イドラの申し出は必死で懸命なものだった。
それを、トッドは遮るように大きな声で叫んで、虚勢だろうと強く在ろうとしたイドラの虚を突いた。そして、その生まれた虚に刃を差し込む。
「が」
「戦士じゃなくて、兵士だ」
膝をつくイドラが、震える手を自分の首に伸ばす。その喉の真ん中にトッドのナイフが突き刺さっていて、その鋭い先が首の後ろから突き出していた。
それを、抜こうとイドラの手がナイフの柄を掴む。そして、刺さったそれを引き抜くより早く、斧がイドラの頭を真上から叩き割った。
「――ぁ」
前のめりに倒れたイドラ、その体からトッドがナイフを引き抜く。無造作に転がされたイドラの死体と、ヒアインの死体とが悪夢みたいに並んだ。
その向こうでは、崩れ落ちた瓦礫の破片にヴァイツの死体が埋まっている。
投げ落とされたタンザが戻ってこないのは、高所から落とされた彼女に何かあったか。そう言えば、ヴァイツと一緒に落ちた蛙も下にいるのではないか。
だとしたら、タンザは、それにこの島の剣奴たちは――。
「実際のところ、どうなんだ?」
「え……」
「お前さん、本当に皇帝閣下の子どもなのか?」
虚ろな目でへたり込むスバルを、斧を肩に担いだトッドが見下ろしていた。
仲間たちを失い、逃げる気力も出ないスバルの様子を眺める彼に、スバルは自分が最後の一人になるまで生かされたのだと理解する。
スバルのついた嘘、皇帝の隠し子という話はトッドにちゃんと楔を打っていた。
彼も、スバルが本気で皇帝の隠し子である可能性は考えていたのだ。
「なら……」
「うん?」
「なんで、投降とか、しない? 俺が、皇帝の……」
息子である可能性を考えたなら、スバルたちの訴えには考える余地があったはずだ。
スバルがこの作戦に、タンザたちの勘違いにそのまま乗ろうとしたのは、『合』の仲間たちのメンタルを立て直せる一番の策だと思ったのと、一縷の望みがあったから。
トッドが、殺し合いよりも、生き残るための白旗を上げる方を選ぶ可能性が。
でも、結果、スバルは仲間を全員失い、トッドに命を握られた。
「なんで、なんだ? お前は……」
「投降なんてして、適当に理由付けて殺されちゃ敵わん」
「――――」
「事の真偽は、こっちが有利な状況にしてから聞いた方がいいに決まってる。判断に思考を割けるし、間違いもしづらい。――それと、安心できる」
最後の理由、それが一番重要そうなトッドの言い方に、スバルは息を吐いた。
まるでずっと、トッドに首を絞められているような、そんな気分だった。
「お前さんが皇帝の御落胤かどうかはともかく、気になる名前ではある」
「な、まえ……?」
「ナツキ・シュバルツ、それは俺が知ってる怖い奴の名前に似ててな。さらに言えばお前さんの臭いも、その怖い奴とよく似てる」
小さく鼻を鳴らして、トッドが冷たい目でスバルを見ている。
臭いがどうのと、それに関しては大虐殺の初回――剣奴孤島にトッドがやってきていると、そう知ることになったときにも聞かされた。
臭いと、そう言われるとスバルの頭には嫌な予感が浮かぶ。
「瘴気が、わかるのか?」
「瘴気? ああ、いや、違う違う、勘違いするな。本当に臭い、体臭だよ。ちょっとばかり鼻がいいんだ。だから、不思議なんだよ」
「――――」
「――お前さん、兄貴かなんかいないか? もしもいるなら、そいつとの交渉材料にお前さんを生かしておいてやってもいい」
スバルの疑問を否定して、続けられたのは驚きの提案だった。
生かしておいてもいい、なんて考えがトッドの口から出るなんて。それも、おそらくトッドが言っている兄貴とは、他でもないスバル自身のことだ。
手足の伸びたスバルを、縮んだスバルの兄弟だと思っている。
もっと言えば、トッドには女装しているときに名乗っていたような記憶もあるから、そっちの『ナツミ・シュバルツ』とも関係が疑われているかもしれない。
いずれにしても、トッドの中に『殺さない』という選択肢が生まれたなら。
「――――」
ヴァイツとヒアイン、それにイドラの死がすぐ傍に転がっている。
目をつむれば、グスタフとヌル爺さんの死も思い浮かぶ。他にも、道中で目にした大勢の剣奴たちの死が、その亡骸が、目に浮かんだ。
みんなみんな、死んでしまった。死んでしまって、そして。
――そして、スバルは死ぬわけにはいかなかったから。
「……に、兄ちゃんのことを、知ってるのか?」
トッドの、その勘違いに乗り、話を進めようと意識を切り替えた。
どういうわけか、トッドが大きいスバルを警戒しているなら、その警戒を利用して小さいスバルを生き残らせる。
そうやって、この場を乗り切れば――。
「――待て」
「え?」
口を開いて、この場を乗り切る言葉を並べようとしたスバル。そのスバルの顔が、伸びてくるトッドの掌に掴まれて、指の隙間から彼の目が見えた。
しゃがんで、スバルの顔を掴んだトッドが、ひどく冷たい目をしている。
そして――、
「――お前さん、俺を操ろうとしたな?」
どん、と鈍い音がして、鋭い感覚が胸の中に滑り込んでくる。
その切っ先の冷たさを体の中身で感じて、スバルは目を見開いた。そして一拍遅れて、手足が痺れるぐらいの痛みが、頭の後ろで盛大に悲鳴を上げる。
その盛大な悲鳴に、スバル自身の口も悲鳴を上げた。
「ぎゃ、ぎぃぃっ」
「失敗失敗、油断も隙もあったもんじゃない」
スバルの胸に、大きすぎるナイフが深々と刺さっている。
抜くとか抜かないとか、そういう話じゃなく、大きすぎる。突き刺さった。刺されたそれが中身を、胸の中の、大事なものをたぶん壊してる。
口の端から血泡が浮かんで、赤い涎をこぼしながら、スバルの体が震える。
咳込んで、口の中から赤くなった包みが落ちた。
関係ない。それももう関係ない。使えない。使うわけにいかなかった。死んで、死んではいけない。死んだらマズい。死んだら、死んじゃ、ダメで。
「動くなよ」
転がって、その場から這いずって逃げようとするスバルの腹に、そう言ってトッドが自分の足を乗せた。動かないように、逃げられないように、止められる。
止めた状態で、トッドがスバルの前で斧を振り上げる。
痛いのと、怖いのと、マズいのと、ヤバいのと、とにかくとにかく、この赤を、この冷たい痛みを、この、これを、とにかく、止めて、やめ、ないと。
「し、んじゃ、ダメ……」
「せーのっ」
弱々しく、持ち上げた手で頭を守った。ダメだった。
落ちてくる斧の刃が、スバルの手も、その下の頭も、命も、叩き潰して――。
△▼△▼△▼△
「――ッ」
頭を叩き割られ、自分の中身が全部こぼれ出す。
そんな恐ろしい光景を見た気がして、スバルは喉の奥で悲鳴を爆発させた。震える手を頭に伸ばして、両手が自分の頭に触れる。
割れてない。割れてない頭、痛くない胸、死んでない命が、そこにあって。
それを確かめたスバルが、安堵の息を吐いて、その顔を上げたところに――、
「――ぁ」
ゆっくりと、こちらに振り返っている刺青だらけの男がいた。
その左腕が斧でぐしゃぐしゃになり、右目をナイフで突き刺されて、ものすごい量の血を流している、ヴァイツが。
「初めてだった……」
血に塗れたヴァイツの唇が震えて、言葉をこぼした。
それを目にして、スバルは「あ」と情けない、情けない息を吐いて。
「オレを、信じると、そう言った奴は……」
「ああああああ――ッ!!」
力ない言葉をこぼして、ヴァイツの体が斜めに倒れていく。
手を伸ばしても、何をしても、もう絶対に助からない、ヴァイツの体が。
死んでは、いけなかった。スバルは、死んではいけなかった。
確定させてはいけなかった。
後ろ倒しになり続ける、『死』からやり直されるスバルの開始地点――。
「ああああああ――っ!!」
――絶対に救えない人が出てしまったとき、ナツキ・スバルの『心』が壊れるから。




