第七章71 『水』
――あってはならない、『呪則』の発動による剣奴孤島の大虐殺。
最後の瞬間、スバルの命を奪ったのは冷たいナイフの鋭さだ。
しかし、その直前の、あのゆっくりと体の端っこから死んでいくような感覚は、疑う余地なくスバルを蝕んで、残酷に死なせようと働きかけてきた。
結局、スバル以外の人々――タンザたちを含めた剣奴に、島の管理側であるはずの看守や剣闘獣、そしてセシルスまでもが一瞬で死んだ理由はわからない。
例外的に、スバルだけが死に遅れるのは、いったいどうしてだったのか。
たぶん、それは考えても答えの出ない疑問だ。
聞いて答えてくれる相手じゃないし、時間と脳細胞を費やす価値はないと思う。
それよりも、確実に拾えた方の情報に注目しなくちゃいけない。
「トッドのあの反応……呪則が、答えだ」
死ぬ寸前の、血が足りない頭で選んだ二択だったが、正解を引いた。
もし、あそこで考え直さないまま、アラキアの魔法という考えに憑りつかれていたら、スバルは確信を持って戻ってこられなかった。
図星を突かれたからこそ、トッドはあの一瞬でスバルを殺すと決断した。
スバルを死にかけの子どもではなく、今すぐ殺すべき危険だと判断したから。
そのトッドの切り替えの速さこそが、スバルが呪則だと結論付ける根拠だった。
「ただ、なんで呪則なんだ?」
毒ガスの可能性を消して、呪則の可能性を裏付ける根拠が出た以上、呪則はただの脅しであり、存在しないという考えに拘るつもりはない。
でも、そうなると今度はグスタフの行動が不自然すぎるのだ。
スバルが呪則がないと判断した根拠は、剣奴孤島のルールに逆らい、秩序を壊そうとした危険なスバルに、グスタフが呪則の罰を与えなかったから。
確かにグスタフは剣奴を死なせたがっていないが、スバル一人と島の秩序とを比べて、呪則を使うのを躊躇うのは筋が通らない。
だから、逆に考えて――、
「――俺が挑発したとき、グスタフさんは呪則を使いたくても使えなかった。だけど、島のみんなが殺されるときは、使える条件を満たしてた?」
ひとまずのところ、それが今の情報で考えられる起こった出来事の整理だ。
「……グスタフさんは敵、か」
呪則が使われた以上、十中八九、管理者のグスタフはスバルたちの敵だ。
つまり、敵はトッドとアラキア、そこにグスタフを加えた三人と言える。セシルスが敵ではないと、そう確信できたのは収穫だったが、喜んでもいられない。
あの呪則は、セシルスさえも命を奪われる脅威だったのだから。
「――――」
手に入った情報と引き換えに、悪い材料も次々と鍋に投げ込まれる。
ぐつぐつと黒く煮え滾る鍋の中身を濾過して、底を見通すことができるだろうか。
そして、悪い材料というのは、畳みかけてくるものだった。
何故なら――、
「シュバルツ……っ」
「――っ」
「この揺れは……」
傷はなく、刺された衝撃だけが残った胸を押さえて蹲るスバル。
そのスバルを心配していたヴァイツが、足下から上がってくる揺れに驚く。もちろん、スバルはこれがくることも、この揺れの正体もわかっている。
わかっているが、大きな問題があった。
――跳ね橋が動き出すまでの猶予が、前回の『死』のやり直しより短かったのだ。
△▼△▼△▼△
考えたくないことから目を逸らして、耳を塞いでいれば気持ちは沈まずに済む。
でも、そうやって気持ちが負け犬になれば、近付いてくる負けに勝つ方法はなくなる。
だから、どれだけ嫌な現実相手でも、目をつむり、耳を塞いではいけないのだ。
――たとえ、リスタート地点が十数秒後ろ倒しになったとしても。
「――――」
スバルの持つ、『死に戻り』の権能がきたした異常は絶賛悪さを働きっ放しだ。
らしくないリスタート地点の設定はもちろんのこと、今回はわずかな時間のズレ――十数秒の猶予の短縮が発生した。
これまでの、猶予が極端に少ないケースとも違った異常であり、スバルの不安と絶望感を煽るにはもってこいの事態と言える。
今回は十数秒だったが、これがもっと短くならない保証はないのだ。
何度もこの異常が重なり続け、ついには死ぬまでの時間が一秒以下になったり、そもそも『死に戻り』ができなくなれば、スバルに何ができる。
『死に戻り』を前提にしたくなくても、『死に戻り』は計算に入れて作戦は考える。
小さくなった今、背丈が縮む前よりも無力なのがスバルなのだ。我が身可愛さに胡坐を掻いていられるほど、この帝国の大地は優しくない。
だから――、
× × ×
「お、おい、シュバルツ……本気で、ここに居座んのかよ?」
「本気だ。頼むから、この大一番でだけはビビらないでくれよ、ヒアイン」
「ビビっちゃいねえよ! ビビっちゃ、いねえが……っ」
そう、誰が聞いても強がりなのがわかるぐらい声を震わせて、スバルのすぐ傍にいるヒアインが歯を噛み、言葉を躊躇った。
ヒアインが怯えて、スバルに考え直させようとする気持ちはわかる。
見つかったらタダでは済まないし、こんな無茶をする理由が彼にはわからないのだ。
ただ、起こる出来事を素直に話せば、信じてもらえてももらえなくても、ヒアインがスバルに協力してくれる道がなくなるのは間違いない。
そのために、スバルはヒアインを騙し、嘘の理由で協力させた。
ヒアインが多少の無茶をしてでも、無視できない情報を手に入れるためだと。
その、ヒアインも無視できない情報というのが――、
「クソ、帝都の使いが興行の話を持ってくるだと……? ふざけやがって……!」
「――。ヴァイツに時間稼ぎを頼んである。俺たちは、詳しい話を仕入れるんだ」
「わかってる、わかってんだよ、んなこたぁ……っ」
焦りと苛立ちが強いヒアイン、彼が気にするのは島の興行――剣奴たちの死合いを見せ物にする、ギヌンハイブが運営される一番の理由だ。
『スパルカ』を生き延びて、剣奴同士の修練が目的の死合いでも死ににくい環境が用意されている以上、一番命の危機があるのはその興行となる。
その興行の情報があると偽って、スバルはヒアインに協力を求めた。
その結果――、
「――入ってくれ。話を聞かせていただこう」
厳めしいその声と共に、扉が開かれる音が室内に響く。
丸太のような二本の腕が入口を開け放ち、部屋の主の帰還に空気が重くなった。
「――――」
その登場にスバルは口を閉ざし、傍のヒアインの肩を叩く。ヒアインも無言で応え、もはや引けない状況が用意されたと覚悟を決めたようだ。
当然だろう。スバルとヒアインは、もう下手な真似はできない。
何故なら――、
「アラキア一将、それと……」
「トッド」
扉を開けた大柄の人物、グスタフの言葉に端的な女の声が答える。その短くて不親切な答えに苦笑する気配があり、
「トッド・ファング上等兵だ。一応、今回の仕事が片付くまでは」
そう、スバルの魂を握り潰すような男の声が続けて言った。
そんなこちらの気持ちなんてお構いなしに、案内された二人――トッドと、褐色肌に眼帯をした女、アラキアが部屋に入ってくる。
ここはグスタフの執務室だ。先日、スバルも厳重注意のために呼ばれた一室に、帝都からの使者としてトッドたちが足を踏み入れた。
「総督なんて立場のわりに、ずいぶんと質素な部屋だ」
部屋の真ん中、応接用のソファの傍に立ったトッドが周囲を見回す。
確かに、グスタフの部屋には物が少ない。仕事用の机と書棚、執務室の名前に見合った執務用の必要品しかない一室と言える。
その点に目がいくのもわかる。でも、周りを見渡さないでほしかった。
部屋の片隅にある書棚、その方向なんて特に、だ。
× × ×
「――。執務室だ。本職にとって必要なものは揃っている。君は監査が目的か?」
「とんでもない。アラキア一将の傍付きですよ。『将』は人の選り好みが激しくて、俺以外には部下がいないもので」
「少数、精鋭」
「精鋭なんて、畏れ多い評価ですよ」
部屋の扉を閉めて、執務机に向かったグスタフにトッドが肩をすくめる。彼は続いたアラキアの言葉にも表情を崩さず、ソファにゆっくりと腰掛けた。
それで視線が書棚の方から外れ、スバルは内心で大きな、大きなため息をつく。
とんでもなく、緊張の一瞬だった。
いくら何でもと思っていても、その最悪を塗り替える怖さがあるのがトッドだ。
だから、また気付かれるのではないかと心底怖かった。
――書棚の傍ら、周囲の景色に擬態するヒアインに覆い被さられ、この状況に耳を澄ましているスバルの存在に。
「――――」
ヴァイツに頼んで訪れた竜車の足止めをしてもらい、その間にヒアインと一緒にグスタフの執務室に侵入、擬態して隠れ潜んだというのがスバルの現状だ。
足止め自体はうまくいく前例があったが、擬態が見破られないかどうかはやってみなくてはわからないこと。ヒアインの擬態、そのメカニズムについては初回の『スパルカ』やその後の対話で把握したつもりでも、確信はまた別だった。
ヒアインの擬態の精度は、彼の心身の状態よりも、動かずにいられる度胸があるかの方が影響を受ける。じっとその場にとどまる根性があれば、景色に同化した彼はほとんど透明人間だ。小さい体を抱きしめられるスバルも、同じ効果を受けられる。
ただし、動いた途端に擬態した鱗の雰囲気はめちゃめちゃになり、そこにいるのが丸見えの子どものかくれんぼ状態になってしまうのだ。
あのライオン似の剣闘獣との戦いでは、その臆病さが彼を何度も死なせた。せっかくのヒアインの強みを殺すのは、ヒアイン自身の弱い心というわけだった。
――でも、今回の擬態はその弱点の改善に取り組めているはずだ。
『見つからなければ、俺たちが何かされる心配はない。やってくる使者は『九神将』と目聡い副官だけど、お前の擬態がブレなきゃ大丈夫だ。それに――』
『そ、それに……?』
『――俺がついてる』
事前に、執務室に乗り込む前に、しっかりと目を見てそう告げた。
手も足も短い、声変わりも済んでないような生意気な子どもの言葉でも、自分と、仲間の命を救われたヒアインには届いた。確かに、響いたようだった。
――だから、今回のヒアインの擬態は『初めて』見抜かれなかった。
この先の、アラキアが副官のトッドを連れて、グスタフとどんな話をするためにこの島にきたのか、その話を始めるのはこれが初めてのことだ。
「アラキア一将、君は座らないのか?」
「……立ってる。あと、落ち着かないから」
「落ち着かない?」
「島にきてから色々あるらしい。龍の巣が近いから、ですかね」
着席を勧められても、首を横に振るアラキアは立ったまま。副官のトッドがソファに座って、その後ろにアラキアが立つというへんちくりんな形。
それでも、背後に上司を従えるトッドの絵面に違和感が湧かないのは、スバルがトッドをとても強大で、恐ろしいものとイメージしすぎているせいだろうか。
ちょっとヒアインの擬態が歪んだ途端、殺しにかかってくる相手を警戒しない方が無理のある話だが――。
「君がそれでいいなら、本職は構わない。それで、此度の訪問の目的は」
「すぐ仕事の話に入れるのはありがたい。こちらも長く時間をかけたいわけじゃないんだ。一将、手紙をお渡ししても?」
「好きにして」
「ありがたく。総督、こちらが帝都の、宰相からの書状です」
文字通り、置物みたいに突っ立っているアラキアを余所に、トッドが懐から出した書状をグスタフへと手渡した。グスタフの手元、手紙には封蝋がしてあって、差出人を示す押印もちゃんとされているようだ。
その、押印のマークまではスバルからは確かめられなかったが。
「帝国、宰相……」
誰から預かった手紙なのか、告げたトッドの言葉にスバルの舌が渇く。
確か、いけ好かないアベルから聞いた話によると、その宰相という立場の人間が、アベルを帝都から追い出した主犯格の一人だったはずだ。
その、性格の悪い皇帝を追い出した悪い宰相からの手紙が、グスタフに届いた。しかもその手紙を運んだのは、悪魔人間のトッド。
このあと、剣奴孤島で起こる大虐殺を思えば、悪い予感しかしない手紙だ。
「グスタフ・モレロ上級伯、あなたがこの島に総督として赴任したのは、ヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下の御命令と聞いていますが」
「その認識に相違ない」
「皇帝閣下の御命令とはいえ、剣奴孤島ギヌンハイブの管理者なんて嫌われ仕事、ヴォラキアの英雄『八つ腕』のクルガンの血縁者には相応しくないとは?」
そんなスバルの予感を後押しするように、部屋の空気がピリッとかさついた。
原因はトッドの、礼儀知らずとすら感じる突っ込んだ言い方だ。そして、スバルはこれまでの接点で、グスタフが何に一番怒るかを知っている。
グスタフが怒るのは、自分のことを言われるよりも――、
「――その言いよう、我らが皇帝閣下の御判断を疑うのか?」
皇帝閣下、すなわちアベル=ヴィンセントへの不忠を怒るのだ。
× × ×
「――――」
そのグスタフの発する険しい空気に、スッとトッドの横にアラキアが並び立つ。
何を考えているかわからない顔のアラキアだが、ただそれだけの行動で、グスタフの発したもっともな忠義を力で押し潰す光景を思わせた。
ただし、そのアラキアの威嚇を「一将」と手で制したのも、他ならぬトッド自身で。
「今のは俺の言葉が過ぎたんだ。総督の怒りは正当だよ」
「……でも、あなたは死なせない。友達の、敵討ちがある。でしょ?」
「――。ああ、もちろんそうだ。俺は今、そのために生きてる」
アラキアの態度を窘めつつも、そう答えるトッドの表情に悲痛な色が過った。
友人の敵討ちと、そうアラキアから指摘されるトッドの様子に、スバルは一つも聞き漏らさないようにしようとしながら、唇を大きく曲げずにはいられない。
トッドと敵討ちなんて、ずいぶんと相性の悪そうな言葉だ。
なんて、そう言えるほどトッドのことを知っているわけじゃないが、トッドにもちゃんと大切な人間がいる、ということだろうか。
あんなに会いたがっていた婚約者も放置して、この島で大勢を殺そうとするくせに。
「思いやりのない言い方をして悪かった、総督。俺もアラキア一将も、ちょっと外に気掛かりを抱えててね。それで態度が悪かった。謝罪するよ」
「……謝罪は受け入れる。だが、口が過ぎれば災いを招くぞ」
「それに関しちゃ耳が痛い。重々、痛感してるさ」
アラキアを押しとどめたトッドが、グスタフの忠告に苦い顔になった。そのトッドの反応を余所に、グスタフが太い指で封蝋を割り、手紙が開かれる。
帝国宰相、現在の帝国荒らしの片棒を担いだ相手からの、手紙の内容は――、
「――これは」
「さっきの不躾な話の真意だが、悪気はなかった。ただ、総督が剣奴孤島の管理に嫌気が差しているならちょうどいいと言いたくて」
手紙に目を走らせたグスタフが、その岩みたいな顔面に小さな皺を刻んだ。それが、本当の岩に入った亀裂みたいに、その亀裂を広げるみたいにトッドが片目をつむった。
無言のアラキアを置いたまま、自分が使者の代表みたいな顔でトッドは続ける。
「この島の剣奴には内患の恐れがある。まとめて処分せよと、皇帝閣下はお望みだ」と。
△▼△▼△▼△
× × ×
淡々と、まるでゴミの日のゴミ捨てについて話し合うみたいな淡泊さで、トッドはグスタフに剣奴孤島の剣奴――数百人の処分を要求した。
「――――」
その、最悪の予想の的中にスバルが耐えられたのは、すでに実際に島の全員が殺される大虐殺を目にして、心の準備があったからに他ならない。
そして、寝耳に水を喰らったヒアインが悲鳴を上げなかったのは奇跡だった。
正しくは、唖然としすぎて理解ができなかったというべきだけれど。
「――――」
ヒアインが身じろぎも忘れるぐらい、それは現実感のない一声だった。
しかし、怪我の功名で擬態が解けずに済んだとはいえ、スバルは奥歯を噛むしかない。
この要請が、島の全員を殺す呪則の発動に繋がった。
やはり懸念した通り、トッドとアラキア、そしてグスタフが敵となる。
この三人の凶行を止めない限り、あの大虐殺を防ぐことはできないのだと。
「内患の恐れ、とは」
「内患は内患、畏れ多くも皇帝閣下のご威光を陰らせる不届きものだ。とはいえ、宰相はそれをグスタフ総督が囲っているとは考えてない。総督の忠誠心は本物だ」
「――――」
「だからこそ、胸が痛むだろう。総督がこの島に赴任してから、興行でお披露目される剣奴の質は以前と比べ物にならないという話だ」
その剣奴の処分を命じておきながら、トッドはグスタフの労をねぎらう態度だ。
手紙に視線を落としたグスタフの表情は動かない。トッドの言葉が、彼の内側にどんな風に響いているのかも、不自由に状況を見るスバルからはわからなかった。
「――。無用な死の危険を減らし、戦い方の基礎を覚えさせ、他者を出し抜くのではなく並び立てば、生き延びた剣奴の質は向上する」
ただ、グスタフなりの哲学があって、剣奴孤島の運営は行われていたと、そう静かに答えた彼の声色に自負のようなものが感じられた気がする。
剣奴をただの見せ物にするのではなく、グスタフはそれらを鍛え、育て上げ、皇帝や帝国臣民の眼鏡に適うようにと島のルールを作り変えた。
そこにはたぶん、剣奴たちへの思い入れや情みたいな柔らかいものは含まれない。
ただ、グスタフの、総督という立場に置かれた人間としての決断があるのだ。
「話、終わる?」
手紙を置いた机に四本の手を置いて、目をつむったグスタフにアラキアが聞く。
話の流れを丸無視した無神経な質問は、スバルがグスタフの立場だったら怒って顔を赤くしたかもしれないものだ。
でも、グスタフは反論しなかったし、トッドもそれが当然だと受け止める。
「処分に都合のいい呪則の話は聞いてる。『九神将』の、グルービー・ガムレット一将から渡された呪具があるらしいじゃないか。それで一網打尽にできるとか」
× × ×
「可能だ」
「なら話は早い。パパっと済ませて、一緒に帝都に引き上げよう。新しい剣奴の用意にも時間がいるだろうから、しばらくギヌンハイブは閉鎖して――」
授業の終わりに、使った道具を片付けるぐらいの感覚で話すトッド。その真剣味のない言い方が、まだ思考が停止しているヒアインの再起動を邪魔している。
でも、ヒアインの再起動がまだでも、大元の方の時間がなくなりそうだ。
トッドたちの持ってきた命令書通り、グスタフが呪則を発動すれば全滅する。
それが気紛れで止まらない未来を知っているのだから、それを阻止するにはここでスバルが動く以外にない。でも、どう動けばいいのか。
ノープランで姿を現せば、即座に殺されるのはすでにわかり切っている。
かといって、呪則を使うだろうグスタフを人質にするには、グスタフ自身がスバルとヒアインの二人より強そうで――。
「――断る」
そう、グスタフがトッドたちの要求を断ってくれるから、それに乗じて。乗じて。
乗じ、乗じる、とは。
「……なに?」
必死で頭を働かせようとしたスバルも、ヒアインと同じように考えが掻き回される。
そうして思考が止まったスバルとは対照的に、トッドの声は冷たく、鋭かった。
ドロッと、部屋の中の空気が粘性を増したようにスバルは感じる。
それはグスタフがトッドの言いように腹を立てたときとは、根本的に温度感が異なっている変化。熱では湿度ではなく、色が違っているような雰囲気だ。
その空気を纏ったまま、トッドが机に手をつくグスタフを見据え、
「命令書の内容と、こっちの認識に齟齬は?」
「ない。今しがた、君から告げられたことと同じ内容が書状には記されている。宰相殿の名前と、押印も過たず」
「だったら、どういうお気持ちの表明なんだ?」
両手を広げて、トッドが要求を撥ね除けるグスタフに問いかける。
スバルも、何が起こっているのか理解できない。グスタフが、トッドからの、帝都からの要求である呪則の使用、剣奴孤島の剣奴の一掃を拒否した。
何故か、それは――、
「――本職は、皇帝閣下より命じられた。有事に備え、心身共に鍛えられた剣奴の養成に励むよう」
「宰相殿の押印は、皇帝閣下の御心の反映だ。事前に命じられたこととの食い違いがあって、判断がつかないと言ってるのか? 命令書は本物だぞ」
「偽造を疑ってはいない。宰相の命令書と受け止めている」
「……話にならないんだが?」
顔をしかめて、トッドが理解のできないものを見る目をグスタフに向けた。
このときばかりは、スバルもトッドと同意見だ。グスタフが要求を払いのけてくれることはありがたくても、その真意がさっぱりわからない。
そう、同じ困惑を抱えたスバルとトッドの前で、グスタフは続ける。
「皇帝閣下より、直々に命令を賜っている」
「だから、命令書でそれを撤回して、次の命令に従えという話を……」
「皇帝閣下の御命令で、この島の総督として就任した際のことだ」
トッドの言葉を遮り、グスタフが自分の選択の根拠を述べる。数年前、グスタフが剣奴孤島に総督として赴任するときのことを。
それは――、
「皇帝閣下は本職にこう仰った。『――たとえ余からの命令があったとて、この最初の命令に背くことはするな』と」
「――――」
それは、それはまさしく、この状況に置かれたグスタフの指針となる言葉だ。
グスタフがこの状況に置かれることを見越した言葉であり、用意周到なんて言葉では決して足りない、予知めいた先読みがなくては成立しない命令。
ヴォラキア皇帝、ヴィンセント――違う、アベルによる、未来への布石だ。
「過去の皇帝閣下の命令があるから、今の皇帝閣下の命令は聞けない、と?」
「仔細を知る必要はないとも仰られた。本職も同感だ。知識の有無に拘らず、本職の果たすべき役割に変わりはない」
首を横に振って、トッドの問いかけにグスタフは頑として応えた。
その頑なな姿勢を保ったグスタフに、トッドがわずかに目を細める。その視線は、どうやってグスタフを説得しようかと、そう考えている顔ではなかった。
聞く耳を持たない頑固者を、言葉を尽くして説得する理由など彼にはないのだから。
つまり――、
「アラキア。――交渉決裂だ」
「――っ!」
そう、トッドが平坦な声でアラキアに話しかけた。
次の瞬間、致命的な状況が訪れる前にと、グスタフが四本の手をついた机の四方を掴んで、持ち上げたそれを二人の来訪者に投げつけようとする。
太くたくましい腕の筋肉が盛り上がって、百キロ近い重さがありそうな机が軽々と持ち上げられ――、
「びしゅ――」
気の抜ける掛け声があって、アラキアが握った木の枝をグスタフに向けた。
直後、枝の先っぽから噴出するすごい勢いの水が、グスタフの首から上、岩みたいな顔面を丸ごと吹き飛ばして、その命を亡き者へと変えていた。
△▼△▼△▼△
重たい音がして、一瞬、足を持ち上げられた机が床に落ちる。一拍遅れて、その机に全身を投げ出すように、首から上のなくなったグスタフの体が倒れ込んだ。
頭をなくした首の傷から、大量の血がごぼごぼと溢れ、それが容赦なく執務室の床を汚していく。
広がる鮮血が、嘘みたいにあっさりとしたグスタフの死を主張して思えた。
「多腕族なんて、腕が何本あっても同じだな。どうせなら頭を増やしてこい」
死したグスタフを眺めながら、トッドが自分の首の骨を鳴らす。それから彼はアラキアを振り返り、枝の先をしげしげ見ている彼女に「どうした?」と首を傾げた。
「まさか、自分の力に驚いたわけじゃないだろう?」
「違う。でも、驚いてる。……ただの水で、こんなに威力が」
「ああ、それか。大勢を広く狙うなら火の方がいいが、相手が一人なら断然水だよ。次はコップ一杯分でいいから、相手の頭の中に水を出してやれ」
「わかった。……トッド?」
恐ろしいことを提案しながら、トッドがグスタフの死体に歩み寄る。懐から大振りのナイフを抜いた彼を、眉尻を下げながらアラキアが呼んだ。
その呼びかけに答えず、トッドは机の上の死体の後ろに回ると、その分厚い背中に容赦なくナイフを突き刺し、背中を縦に切り開いた。
まるで、魚を捌くみたいな容赦のない手筋だ。
首から流れた血の量が多く、すでに死んだ体からの返り血は最低限だが、それでも少なくない血を浴びながら、トッドはグスタフの死体を解体する。
「――――」
思わずその光景から目を逸らして、スバルは自分の震えを自覚した。
これまで、スバルはトッドを恐ろしい敵だと思ってきたが、この猟奇的な行動に関しては初めて目にするものだ。――人間を、動物みたいに解体するなんて。
あくまでトッドの暴力は、敵や危険を排除する目的に一直線だとばかり。
こんな風に死体を壊す趣味があったなら、これまで彼に殺されたあと、スバルの死体も同じように壊されてきたのだろうかと、そう思ってしまう。
そう思うと、耐え難い怖気と、嫌悪感が全身を支配する。
耳を塞ぎたくなる不快な音の中、スバルは耳を塞ぐこともできない。
たとえ本能的に心を殺したくなる場面でも、何が眠っているかわからないからだ。もしかしたら、トッドから逃げるとき、死体があればそっちに気が逸れるかもしれない。
なんて、そんな馬鹿なことでも考えながらでなくては――、
「――あった」
「――? 何が?」
不意に、その不快な水音が途切れて、トッドとアラキアの話が切り替わる。
アラキアも、トッドの悪趣味に声を低くしていたが、それに答えるトッドはあっけらかんと、頬に跳ねた血を手の甲で拭い、
「呪具だよ、呪具。この手の奴は、どうせ体に埋め込んでると思ったんだ」
「呪具……」
「呪則の発動に必要な……ああ、わからなくてもいい。なんにせよ」
言いながら、トッドがグスタフの体内から引っ張り出したのは、その大きな体の真ん中に埋め込まれていたと思しき黒い球体だった。
せいぜい、ゴルフボールぐらいの大きさのその球体を、トッドは呪具と呼んだ。
それも、呪則の発動に必要な呪具だと。
つまり――、
「こいつがあれば、持ち主の生き死にはどうでもいいんだ。――馬鹿な真似をしたな」
手の中の呪具を弄びながら、トッドが背中を開けられ、頭のなくなった壮絶な状態のグスタフの死体に声をかける。
その声には憐れみや同情はない。淡々とした、呆れの色があった。
「怪物相手に、勝負になると思ってるのがおかしい」
首をひねったトッドの呟き、それはグスタフを一息に殺したアラキアのことを差しているのだろう。
しかし、命を落としたグスタフにも、その場に居合わせたスバルにも、その『怪物』とはトッドのことを差しているように思えてならなかった。
「――――」
――そして、その『怪物』からなんとしても、呪具を奪わなくてはならない。
「アラキア、水をくれ。血を洗い流してから、島の奴らを――」
グスタフの死体を開いて、血塗れになったナイフと手を洗いたいと、トッドの注意がアラキアの方に向いた。
一度、手の中の呪具を執務机に置いて、トッドが、アラキアの方を。
――本能的に、ここしかないと判断した。
「あ」
と、口を丸く開けたアラキアの言葉に、トッドが振り向く。そのトッドの目が、突然部屋の中に現れて、机の呪具に手を伸ばす子どもを見つけ、見開かれた。
ヒアインの擬態が極まった仕事をした。
周到なトッドも、怪物級のアラキアも、スバルたちの存在に気付かないほどに。
「ヒアイン!」
指先が呪具を引っかけた瞬間、スバルは伏せた床と同化するヒアインを呼んだ。
ただし、視線は全く別の方向――執務室の入口だ。
そちらに向けて声を上げて、
「部屋ごと吹っ飛ばせ!!」
「――ッ、アラキア!」
スバルの緊迫した掛け声を聞いて、トッドがとっさにアラキアを呼んだ。アラキアも扉の方を警戒しながら、トッドのすぐ傍へと張り付く。
もしも、扉側からのとんでもない攻撃がぶち込まれても対応できるように。
ただし――、
「――ハッタリか!」
一秒、何も起きなかった瞬間にトッドがスバルの狙いを看破した。が、その一秒があってくれれば、スバルの方は目的を果たせる。
呪具を掴んで、そのまま――、
「うおおおああ!」
吠えながら、呪具を掴んだスバルの腰に飛んでくるヒアインが組み付く。そのまま、ヒアインがスバルを抱きかかえ、突っ込むのは入口の反対――執務室の窓だ。
そこに体ごと飛び込んで、窓枠をぶち壊しながらスバルとヒアインが飛び出す。
その飛び出す瞬間――、
「びしゃ――」
と、気の抜けた掛け声から想像のつかない威力で、鉄砲水が執務室を蹂躙する。
凄まじい水の圧力が剣奴孤島の上層を吹き飛ばし、部屋の主だったグスタフが几帳面に整えた書棚を、調度品を、容赦なく押し流しながら薙ぎ払った。
だが――、
「いない」
砕かれた壁から、部屋の中のものが次々と流れ出していくのを見ながら、それをしたアラキアが濡れた床を踏んで呟く。
眼下、壊れた執務室の外を覗けば、見下ろせる壁伝いに白い布が結ばれている。
それを掴んで手を滑らせれば、下に降りられるように。
「これ……」
「準備万端で待ち伏せてた、か。――なんだ、あのガキ」
アラキアの隣、同じように壁の外を眺めたトッドが口に手を当てて呟く。
目を細め、思案げにしたトッドは小さく吐息し、
「アラキア、呪具を取り返してきてくれ。殺していい」
「わかった。トッドは?」
「俺のやろうとしてることは、知らなくても大丈夫だ」
首を横に振って、トッドはアラキアの質問をそう流した。しかし、アラキアはそのことに拘泥しないで、壊れた壁から外へと身を乗り出し、そのまま落ちる。
小細工なしに、数十メートルの高さを何の助けもなく。
そうして、乱入者を追いかけるアラキアを見送って、トッドは嘆息すると、
「……嫌な臭いのするガキだったな」
と、色のない瞳で呟いて、忌々しげに舌打ちした。




