第七章69 『帝都より来たる』
――二回目の『スパルカ』とその後の大宴会、どっちを主要イベントに据えるか迷うところだが、その両方があった日から三日が過ぎた。
その間、剣奴孤島では目立った出来事は何も起こっていない。
スバルにも拍子抜けだったのは、外から新しい剣奴候補を迎えての三回目の『スパルカ』が開かれなかったことと、通常の死合いも一度も組まれなかったことだ。
普通の死合いは、興行に備えて剣奴たちが実力を落とさない一種の練習試合。
ただし、練習試合と言っても気を抜いたら死人が出かねないものなのは変わらないし、気を抜いていなくても死人を出しかねない危険人物もいる。
そして『スパルカ』と違い、その死合いに関してはたとえ懲罰を喰らっても、スバルが干渉することが難しそうだったので、助かったと言えば助かった。
「看守たちもやけにピリピリしてやがる。ま、兄弟と俺たちにビビッてんじゃねえか?」
とは、ここ数日の剣奴孤島の雰囲気をいい感じに解釈しているヒアインの言葉だ。
この蜥蜴人、二回目の『スパルカ』で仲間を助けてもらったことがよっぽど嬉しかったらしく、あれからスバルに対する親しみが段違いに高まっている。
先に兄弟と呼んだのはスバルだが、あちらからも兄弟分扱いだ。
「まぁ、全然悪い気はしないけど」
現金な性格だと呆れつつも、スバル的にはヒアインの態度は大歓迎だ。
誰だってピリピリとし合うより、和やかに付き合えた方が気楽でいい。ヒアインの態度の軟化がとても印象的だが、ヴァイツとイドラの態度にも変化があった。
ヴァイツはどっしりとした信頼を、イドラはどことなく敬意を持って、そんな調子でスバルに接してくれているのだ。
そしてそんな態度の変化は、いい意味で島の剣奴たちにも広がっている。
なので――、
「よお、シュバルツ、今日もいい目つきしてるな!」
「闘争心が溢れてるぜ!」
「看守たちが嘆いてるぞ。このままじゃ剣闘獣がいなくなっちまうってよ!」
こんな調子で、スバルに明るく親しげに声をかけてくれる相手がものすごい増えた。
これに関してもヒアインへの印象と同じで、スバル的には大歓迎。話せる相手が多ければ多いほど、スバルの欲しい情報は集めやすくなる。
ひとまず、グスタフの『呪則』への警戒を忘れていい現状、スバルが一番欲しがっている情報は――、
「――跳ね橋の制御塔」
島と外とを繋いでいる唯一の手段、跳ね橋の操作方法と制御塔への入り方。
それが今、スバルが一番欲しがっている情報だ。
「制御塔自体は誰からも見える位置にあるけど、入れないんだよな……」
制御塔そのものは、島側の跳ね橋の袂にででんと立派に建っている。
特に見張りが立っているわけじゃないが、入り口にはとても立派な鍵がかけられているので、その鍵を手に入れないと大きな金属製の扉が開けられない。
この数日、鍵の在処を探っているのだが、どうやら跳ね橋はグスタフが自分で操作しているようなので、鍵はグスタフが持ち歩いている可能性が大だった。
「うーん、グスタフさんとやり合うのは分が悪い」
実のところ、グスタフの強さはスバルにも結構未知数だった。
あの見た目で腕が四本もあるのだ。それに剣奴孤島の管理を任されているのだし、荒くれ揃いの剣奴を支配する立場である以上、弱いことはないと思う。
もちろん、一度戦ってみれば、グスタフが強いのか弱いのかは見極められるが――。
「そもそも、グスタフさんと事を荒立てたくない……」
立場上、スバルとグスタフは剣奴と管理者として対立っぽい関係にあるが、スバル個人としてはグスタフのことを嫌っていない。
むしろ、わりと話が通じない相手が多かった帝国では、これまでスバルに一度も声を荒げていないし、ちゃんと話せている貴重な人という好印象なぐらいだ。
少なくとも、敵味方の境界線上をうろちょろする偽セシルスよりよっぽどいい。
なので理想は、こっそりとグスタフから鍵を盗み取る方向である。
「とはいえ、セッシーみたいにグスタフさんの周りを堂々とうろちょろするのはな」
呪則に関する縛りが消えた今、ある意味、職務に忠実なグスタフはスバルにとって危険な相手ではなくなったと考えられる。それでも、鍵の在処を堂々と探し回ったり、聞いて回る不用心な真似ができるほどスバルも図太くない。
スバルにとって最悪のケースは、こちらを目障りに思ったグスタフに、島のどこかしらに監禁されて、行動を封じられてしまうことだった。
そうなったら、スバルは奥歯の裏の最後の手段に頼らざるを得なくなる。
なので――、
「ちまちまと探りを入れてくしかないと」
頭を掻きながら、スバルはそうこぼして前途の険しさに唇を曲げる。
跳ね橋の情報を得るため、スバルが探りを入れているのは管理側の人間――つまり、剣奴たちを見張っている看守たちだった。
トップのグスタフに従う看守たちは、島の剣奴たちと比べて数は少ないが、その雰囲気は強めの帝国兵という感じで、弱々しさや付け入る隙があまりない。
グスタフの指導と教育は行き届いているみたいで、子どものスバルが話しかけても、看守たちの警戒は緩むどころか引き締まる感じだ。そこには、スバル以上に可愛げのない子どもである偽セシルスという前例が影響している気がする。
ともあれ、看守たちから情報を得るのはとても難しい。
グスタフから、スバルが何を企んでいるのかの話も伝えられているのか、どこにいても彼らの厳しい視線が向けられているので、ちょっと失敗したかなとも思う。
呪則の真相を聞き出すためとはいえ、グスタフの警戒を招いてしまった。
「もっと別の話で懲罰をもらってれば……ううん、言ってても仕方ない」
反省は大事だが、後悔はこれと言って何も生み出してくれない。
後悔は自分がしたいだけだ。残念ながら、スバルは自分の馬鹿さを可哀想がっている暇なんてない。一分一秒、無駄にしちゃいけない。
看守一人に振られたなら、十人、百人にアタックを仕掛けるのみ。
「そう、ナンパは数だって偉い人が言ってた。ナンパじゃないけども」
拳を固めて、違う分野のプロの話を参考にスバルは気持ちを立て直す。
そのまま、別のエリアの看守に嫌われるべく、とことこと島内を歩いていると、
「落ち着きかん奴だな、シュバルツ……」
「って、ヴァイツ?」
看守探しに歩き回るスバルに、低い声で話しかけてきたのはヴァイツだった。
壁に寄りかかる形で地面に座っているヴァイツに、スバルは首を傾げる。場所は剣闘場と繋がっている通路の近くだ。ただし、剣闘場は『スパルカ』や死合いのタイミング以外では解放されていないので、通路には鉄柵が降りている。
つまり、何もない今日はただの行き止まりの道でしかない。
「こんなところで何してるの? かくれんぼ?」
「それがなんだかは知らんが、たぶん違うぞ……少し、地下の様子を見にきた……」
「地下って……ああ、あそこか」
顎をしゃくったヴァイツに、スバルはちらっとそちらを振り向いた。
剣闘場に向かう通路のすぐ横には、島の地下に繋がっている扉がある。知っての通り、この島は湖に浮かんでいるので、地下室はどこにも通じていない。
正しくは、一応外に繋がっているけれど――、
「湖に直接繋がってるだけで、目的は死体を捨てることだって」
「死合いで死んだ剣奴と剣闘獣……それを一緒くたにだ……。オレたちも、負けていたら同じように魚の餌にされていた……」
「ゾッとするね」
魚の餌、というのは湖に棲んでいる水棲の魔獣のことだ。
かなり獰猛なやつが放してあるらしく、剣奴孤島の死因の一位は死合いだが、二位は事故か逃亡かはともかく、その魔獣の餌食になることなんだとか。
スバルも、跳ね橋が使えないとその魔獣の餌になるしかない。
「聞いているか……以前、島から逃げた剣奴の話を……」
「え? あ、うん、聞いてる。その人のことがあったから、前の管理者がクビにされて、新しい管理者にグスタフさんが選ばれたって」
「劣悪な環境は改善した……だが、剣奴の立場は揺るがなくなった……どう思う……」
「どう思うって……」
「オレたちは……剣奴の立場に、支配される立場に甘んじるべきか……?」
「――――」
そのヴァイツの言葉に、スバルは思わず、周りに誰もいないか確かめてしまう。
今のヴァイツの発言は、剣奴孤島の剣奴としてかなりギリギリの発言だった。性格の悪い看守に聞かれたら、十分警告を与える口実になってしまう。
そうでなくても、ヴァイツはスバルと同じ『合』ということで、たぶん、他の剣奴たちより厳しい目を向けられているだろうから。
「ええと、ヴァイツ、あんまり迂闊なことは言わない方がいいと思うよ。俺はいいけど、周りはどう思うだろうってこともあるし」
それとなく、スバルはヴァイツの考えを訂正しようとする。
次の『スパルカ』、巻き込まれるのがスバルだけなら対処のしようはある。でも、そこにヴァイツが加わると、難易度はぐっと上がってしまうのだ。
でも、そんなスバルの考えに「シュバルツ……」とヴァイツは続けて、
「どうしてオレが地下にきたと思う……お前に手を貸すためだ……」
「――ぅ」
「お前は、ここを出るつもりだろう……オレも、それに付き合う……ここで剣奴として過ごすのは御免だ……。お前に、借りもある……」
そう言いながら、ヴァイツがゆっくりとその場に立ち上がる。
そうして、彼は刺青で覆われた顔の中、真剣な目をスバルに向けた。その視線でじっと見られて、スバルは息を呑んで固まってしまう。
とても、茶化して誤魔化せる雰囲気じゃなくて。
「ヴァイツ、俺は」
「お前が何者かはわかっている……」
「え」
「だが、それは関係ない……調子のいいヒアインと一緒にするな……オレは、お前の被る冠に興味はない……ただ力を貸す。それを覚えておけ……」
正体はわかっていると、そうヴァイツに言われて体中の産毛が逆立った。でも、そのあとに続いたヴァイツの言葉は、それ以上にスバルの全身を痺れさせた。
たとえスバルが何者でも、ヴァイツは借りを返すと、力を貸すと言ってくれた。
それは、それはとても――、
「……心強いぜ、ヴァイツ」
「ふん……」
親指を立てて笑ったスバルに、ヴァイツは視線を逸らして鼻を鳴らした。その素直さが全然ない反応も、ヴァイツらしいものだとスバルは好意的に受け止める。
ヴァイツがこうして地下の様子を探りにきたのも、跳ね橋の動かし方――外へ出る方法を探すスバルを手伝うためだったのだ。
結局、ここにはそれらしいものはなく、やっぱり出るには跳ね橋しかないんだと、最初の方法に戻ってくるのが結論みたいだが。
と、そういう風にスバルが結論付けた瞬間だった。
「――っ、この揺れ!」
「跳ね橋か……」
ぐらぐらと、地の底が揺れるような震動と低い音が鳴り響いて、スバルとヴァイツがおんなじ結論に達して顔を見合わせた。
剣奴孤島全体が揺れるような大きな仕掛けがあるのは、剣闘場と跳ね橋以外には考えられない。そして、剣闘場に繋がる通路はちょうどスバルとヴァイツで塞いでしまっているのだから、自然と候補は跳ね橋の方しかなかった。
「また、新しい人たちが……」
やってくる、ということは次の『スパルカ』が始まるという意味でもある。
口の中が渇くような感覚を味わいながら、呟いたスバルの方をヴァイツが見た。そのヴァイツの眼差しに、スバルは笑みを浮かべてみせる。
心配はいらないと、そう安心させるように。
「――。見にいくぞ……」
その笑顔の効果があったのかなかったのか、背中を向けたヴァイツの気持ちはわからない。ただ、余計なことを言わない彼の後ろに続いて、スバルたちは島の下層から中層へ上がり、そして跳ね橋を見下ろせる高台に向かった。
「できれば、塔の入口を開け閉めするところも見ておきたいけど……」
「シュバルツ様、こちらです」
「タンザ」
階段を駆け上がった息を弾ませながら、顎の汗を拭いているスバルに少女の声。先に高台についていたタンザが手を振っていて、スバルとヴァイツは彼女と合流する。
タンザはヴァイツの方を気にしながら、
「ヴァイツ様とご一緒だったのですね」
「たまたま下で会って恥ずかしい話してた。タンザは?」
「……塔の方を窺っておりました。やはり、鍵はグスタフ様が所持されていらっしゃるようです」
「う、やっぱりそうか」
タンザも、島の脱出に必要なのは跳ね橋の操作だとわかっている。呪則のことも共有してあるので、子ども二人で島を抜け出す悪巧みをしている形だ。
ただしそこに、ヴァイツがぬっと顔を挟んできて、
「鍵を奪えばいいなら……数で仕掛けるか……?」
「短気すぎる作戦だなぁ! 大体、そんな無謀な真似しても呪則でやられるよ」
「――え」
「そうだな……」
ヴァイツの短絡的な提案を、スバルは呪則を盾にして説得した。
それを聞いてタンザが目を丸くするので、スバルは口に指を立てて静かにさせる。
本当は呪則がないという話は、まだタンザ以外には打ち明けていない。もちろん、あの場に居合わせた偽セシルスは知っているけど、逆に偽セシルスはそれを話す友達がいないのでそこは広まる心配がない。
ただ、これはとても広めるのが怖い真実と、スバルは考えている。
「剣奴の人たちを大人しくしてるのは、呪則があるからってのもあるし」
待遇に大きな不満がないことと、逆らったら命を奪われる呪則があること。
それがギヌンハイブにいる剣奴たちが、グスタフに大人しく支配されている理由だ。もし呪則がないとわかったら、ヴァイツのように考える人も出てくるだろう。
そうなったら、剣奴サイドと管理サイドで全面戦争が始まってしまう。
人数的に、犠牲者は出ても剣奴サイドが勝てるかもしれないが――。
「看守はみんな、角を折った魔獣を飼ってるから、とんでもない被害になる」
看守本人が強いだけじゃなく、魔獣を従えていることも剣奴孤島の看守の厄介さだ。
『スパルカ』で戦う剣闘獣は、どれも看守が飼っている魔獣ということなので、スバルたちが苦労して倒したライオンやネズミが、まだまだたくさん控えている。
だから、ヴァイツにここで短気を起こされては困ってしまうのだ。
「ですが、シュバルツ様が全ての剣闘獣を『スパルカ』で倒し切るのを待つのはとても現実的な策とは思えませんが」
「それも無謀って意味じゃ同じじゃん……第一、剣闘獣が補充されたら心折れるでしょ。そんな作戦は立ててないよ」
「でしたら……」
「色々考えてるから、大丈夫。俺は信じられなくてもいいけど、絶対に会いたい人がいるっていう俺の気持ちは信じてくれ」
ヴァイツに隠し事をすることも含め、そう言ったスバルにタンザが押し黙る。彼女はわずかに目を伏せて、それから「お会いしたいのは」と言葉を継いで、
「ご家族の方、ですか」
「うん? まぁ、家族ぐらい大事な人たちもそうだし、好きな子だけども」
微妙に引っかかる質問に、首を傾げながらスバルはそう答える。
それを聞いたタンザは、まだ何か言いたそうに唇を動かした。けれど、それよりも早く「見ろ……」とヴァイツが眼下、跳ね橋の方を指差した。
こちら側とあちら側、両側からの跳ね橋が起動して、新しい剣奴孤島の住人がこちらへやってくるところだ。
「新しい人たちはどんな人たちだ……? まさか、今度はヴァイツとイドラの知り合いってことはないだろうけど」
「オレの顔見知りなんぞ、全員死んでもいい……」
「怖い上に、ちょっと寂しいこと言わないで――」
くれ、と言おうとしたところで、跳ね橋を渡ってやってくる馬車がはっきり見える。
鎧を着た黒い疾風馬が引っ張ってくる馬車だが、三日前のそれとちょっと違うところがあったのは、馬車に乗っている人の大人しさの違いだ。
前回、ヒアインの仲間のオーソンたちは馬車に大人しく乗っていたみたいだが、今回の相手はそうじゃなかった。――馬車の、屋根の上に誰かが立っている。
揺れる馬車の屋根の上に、褐色の肌で、細い体をした、女の人が――。
「――っ!?」
その顔と、外見の特徴を目にした途端、スバルは喉の奥で悲鳴を押し殺して、慌ててその場にしゃがみ込んだ。手すりの裏に隠れ、体を小さくする。
ものすごい勢いで心臓が鳴って、血が流れる音が頭の中で爆発していた。
「し、シュバルツ様? どうされましたか、突然そんな風に……」
「あ……」
「あ?」
「あの、女の人は、ヤバい」
しゃがみ込んだスバルの隣、同じようにしゃがんだタンザが目を丸くする。
でも、そんなタンザの驚きにスバルは構ってあげる余裕がない。
「女……あの女か……?」
スバルの呟きを聞いて、手すりに寄りかかるヴァイツが跳ね橋の方を見る。ヴァイツの目にも、やってくる馬車の屋根の上の相手が見えたらしい。
その女の人が誰なのか、ヴァイツにはわからなかったみたいだが、スバルにはその女の人の正体がわかった。わかった上で、最悪のタイミングだと思った。
あの馬車は、少なくとも屋根の上の女の人は、次の『スパルカ』の候補じゃない。
だって、あの彼女の正体は――、
「――名前はパッと出てこないけど、『九神将』だ」
前に、グァラルで大暴れした、銀髪に眼帯をした強すぎる女の人だったから。
△▼△▼△▼△
「今回の来訪者は剣奴ではなく、どうやら帝都からの使者らしい」
とは、看守からこぼれ話を聞いたというイドラの報告だった。
高台から到着した馬車の様子を眺めていたスバルたちだったが、屋根の上の女――規格外の敵がもたらした衝撃はあまりに大きかった。
「あの女、オレに気付いてこっちを見たぞ……」
とっさにしゃがんだスバルの隣で、代わりに馬車が跳ね橋を渡り終えるのを見届けたヴァイツが、信じられないものを見たと声を震わせている。
百メートルくらい離れていたと思うが、それで視線を感じるなんて怪物だ。ヴァイツの方を見たという話だから、スバルはしゃがんで大正解だった。
もちろん、今のスバルを見ても、相手にはきっとわからないだろうけれど。
「犬人の半獣で、『九神将』……おそらく、アラキア一将で間違いないかと」
「タンザも、知って?」
「……以前、カオスフレームのヨルナ様を狙った方のお一人です。私はこの目では見ておりませんが、都市をひと区画、丸々炎で包んだとか」
「い、いくら何でも冗談きついぜ。なぁ?」
深刻なタンザの声をヒアインが笑い飛ばそうとする。でも、それを笑い飛ばせるものはこの場には一人もいなかった。
特に、スバルが受けた衝撃はかなりのものだ。
「ただ普通に強い奴が、俺は一番困るんだ」
付け入る隙や、工夫次第でどうにかできる相手なら、スバルが勝てる見込みもある。
でも、単純に実力差が離れすぎている相手となると、途端に攻略法はなくなるのだ。だって強いから。強い相手には、小細工なんて通用しない。
それを全部踏み潰して、スバルの用意を蹴散らすのが強い人間の特権だ。
「シュバルツ様、悲観されすぎませんよう。帝都の使者ということですから、そのまま私たちをどうこうするというお話ではないはずです。敵、と決めつけるのは」
「まだ早い、か。うん、うん、それはそうだ。それはそうなんだけど……」
「――――」
「最悪の事態を考えると、どうしても……な」
細い自分の腕を抱いて、スバルは励ましてくれるタンザにそう答える。
タンザの気持ちは嬉しいし、彼女自身も『九神将』を敵に回すなんて考えたくないだろう。控えめに言っても、ヨルナと同じぐらい強いか、ヨルナより強い立場だ。
こんな島に閉じ込められていて、そんな最強レベルの相手となんて戦えない。
「け、けど、なんで兄弟はそんな心配してんだ? 相手が帝都からきたなら……」
「ヒアイン、わからないのか? 今、帝国は二分されているんだぞ」
「え? あ、ああ! クソ、そういうことかよ……!」
考え込んでいるスバルの横で、ヒアインとイドラも深刻な顔で話し合っている。
二人の会話の流れは、スバルにはイマイチわからない流れだが、そちらに構っている余裕はなかった。
実際、スバルの考えすぎの可能性の方が高いは高いのだ。
「今のところ、俺とかタンザがあの女の人の……」
「アラキア一将です」
「アラキアの、目的になるとは思えないんだし」
多少、島の中では悪目立ちしているスバルたちでも、それが島の外にまで知れ渡っているとは考えにくいし、知られたところでこの姿形なのだ。
それが問題視されるなんて不自然だろう。オルバルトも、アベルをどうこうしたいと思っていても、スバルやタンザを気にかける理由は思い当たらなかった。
「じゃあ、帝都から何の目的で使者が島に?」
「考えられるとしたら……島の興行、か……?」
「興行……この、剣奴孤島の本来のお役目ですね」
アラキアの訪れた理由に、ヴァイツとタンザがそれらしい可能性を思いつく。
島の興行、それはこの剣奴孤島ギヌンハイブの本来の役割で、余所からやってきた観客への剣奴同士の死合いを見世物にすることだ。
趣味が悪い催しだが、帝国民のおっかない欲望を抑えるのには役立つとか。
「興行ってなると、ま、また戦わされんのかよ……けど、反乱が起こっててあちこちが慌ただしいってのに、こんなときにやるか!?」
「こんなときだからこそ、という考えもある。帝国が揺れている状況でこそ、帝国民は精強たれという考えを引き締める目的が……」
「皇帝閣下の考え、か……」
ヒアインの裏返った声と、説得力のあるイドラの考え、そして重々しいヴァイツの呟きがあって、それぞれの視線がスバルの方に向けられる。
まるで、スバルなら答えを知っているんじゃないかと期待する眼差しだったが、スバルもその答えは持っていない。首を横に振るしかなかった。
「ヒアインの考えもイドラの考えも、どっちもありえると思う。ただ……」
「ただ?」
「皇帝が本気でここを気にしてるってのはどうかな……」
帝都で指示を出している皇帝、それが偽物なのをスバルは知っている。
本物も偽物も、どっちもカオスフレームにいたわけだが、反乱軍が起こっている以上、スバルの知らない間にアベルが返り咲いたことはないと思われる。
ので、帝都の指示なら偽物の皇帝の考えだ。あの、アベルとほとんど同じだけのことを考えられる偽皇帝、ヴィンセントが無駄足を踏むとは考えにくい。
「絶対、何か理由があるはずだ」
それこそ、この時期に本物の皇帝のはずのアベルではなく、こんな世界に取り残されている風な湖の島に『九神将』を送り込む理由が。
「アラキア一将ですが、大人数で押しかけてきたわけではなかったのですよね?」
「ああ……」
「私も遠目に見ただけだが、やってきたのは一台の馬車だ。せいぜい五、六人といったところだろう。目立つのも、それこそ一将ぐらいのものだった」
「そう、でしたか」
目を伏せて、タンザがスバルとおんなじように相手の目的がわからなくて躓く。
考えすぎと言えばそれまでで、頭を低くして、スバルたちは嵐が通り過ぎるのを待っていればいいと、そういう見方もできるけれど。
「逆に考えれば、どうだ……使者の乗ってきた馬車に隠れ、島を出る……」
「馬車に隠れる流れ、カオスフレームのときにもうやったと思ったんだけど」
「同じ方法でも、何度でも通用するなら構わないと存じますが……」
ヴァイツの提案に、スバルとタンザが真剣に取り合う。でも、その三人の話を聞いていたヒアインが、「待て待て待て!」と声を大きくした。
灰色の鱗をした蜥蜴人は、大きな声で自分の方を向かせると、
「島を出るって正気か!? 死ぬぞ!?」
「このまま居残っても、いずれ何かと戦わされて死ぬぞ、ヘタレ……」
「でも、今日明日の話じゃねえだろ! シュバルツ……兄弟もいるだろが!」
「俺も、ずっと居残るつもりはない。っていうか、長居する気がない」
小さい牙が並んだ大口をわなわなと震わせて、ヒアインがスバルの方針に絶句。ヒアイン的には、もしかしたら外よりも島の中の方が住みやすいのかもしれない。
『スパルカ』を乗り越えて剣奴になると、死合い以外での命の安全は保障されると言っても言いすぎじゃない環境だ。そう言いたくなる気持ちもわかるけど。
「チビ! イドラ! てめえらは……」
「シュバルツ様と同じく、私もここに長居していられない理由がございます」
「わ、私は……出られるものなら出たい、と考えているが」
分が悪いと思ったヒアインの言葉に、タンザとイドラがそう答える。前向きと渋々の違いはあっても、二人も剣奴孤島をよくは思っていなかった。
それがヒアインには信じられなかったらしい。
「い、命知らずにも限度があるだろ……!」
「困らせてごめん、ヒアイン。だけど、お前も考えてほしい。ここに、ずっといるべきなのかどうかってことは」
「――――」
恐ろしいものを見るみたいな目で、ヒアインがスバルたちの方を見ている。
でも、考えるのを止めないで、一生懸命考えたらヒアインもわかるはずだ。ここで手に入る安心や安全は、色んなものを犠牲にした結果の足踏みでしかないと。
「……出ていくったって、呪則はどうすんだよ」
頭ごなしの否定をやめて、次にヒアインが繰り出したのはそれだった。
剣奴孤島の剣奴たちを縛り付ける見えない鎖、ここで剣奴たちが燻っている最大の理由であるそれは、ヴァイツにも言われたものだった。
それがすでに無力化できていることは、ギリギリまで言いたくない。でも、それを警戒する間はヒアインはスバルたちの正気を疑い続けることになる。
だからせめて、スバルはその警戒をちょっとでも緩めようと考える。
「呪則のことも、どうにかする。実は、その方法もヒントは掴めてるんだ」
「――ッ!? じ、呪則を?」
「ああ」
ここでもったいぶるのはよくないと、スバルは自信満々な顔で頷いた。
その答えにヒアインだけじゃなく、ヴァイツとイドラの二人も驚きを隠せない。すでに呪則がないと知っているタンザだけ、何も言わないで静かに場を見守っていた。
本当のことは話せないけれど、ここでスバルが胸を張ることがヒアインたちの不安を解くための力になる。なら、自信のない顔は見せられない。
たとえ、使者としてのアラキアの目的はわからないままでも――。
「きっと、俺が島から出る方法を見つけてみせる。だから――」
そのときは、力を貸してほしい。――そう、続けるつもりだった。
でも、スバルの言葉は続けられなかった。
正しくは、続けても意味がなくなった。
「――か」
と、掠れた息が漏れる音がして、ヒアインが目を血走らせて倒れたのだ。
「――――」
ぐらりと、瞳孔の細い目が血走って、ヒアインの大きな体が横に倒れる。
何の前触れもない、突然のことにスバルはとっさに反応できなくて、倒れるヒアインを支えることもできなかった。
「ひ、あいん?」
重々しい音を立てて、ヒアインの体が共同部屋の床にぐったりと倒れる。倒れたきり、ヒアインは動かなくなった。びくびくと、手足が痙攣するだけだ。
まるで、蝉みたいだと思った。真夏の、道路でひっくり返っている蝉だ。
死にかけの、蝉みたいな動きで、ヒアインが。
――ヒアインだけじゃなかった。
「……あ」
軽い、ヒアインの倒れる音と比べたら軽い音がして、スバルは唖然と振り返る。
すると、倒れている。スバルと話していた三人が、イドラとヴァイツと、タンザがその場に倒れて、おんなじようにびくびくと震えていた。
「タンザ?」
意味が、わからない。わからなすぎて、リアクションできなかった。
すぐ傍の、倒れてしまったタンザの横にしゃがんで、うつ伏せになった彼女の体をひっくり返してみる。ぐったりと、首を倒したタンザの目から、血の涙が流れた。
血は目と、鼻と、耳からも流れていて、それがひたひたと床に滴っている。
「ひ」
と、スバルの喉が鳴って、タンザの体を落としてしまった。
慌てて他の三人も確認する。全員、目や鼻から血を流して、動かなくなっていた。
「なん……」
なんで、と疑問の声が頭の中でものすごい音になって鳴り始める。
なんでなんでなんでと、目の前の光景の意味がわからなくて、スバルの頭がぐるぐるぐるぐると、疑問の声に埋め尽くされて、耳鳴りがものすごい音量で鳴った。
頭が割れるみたいな錯覚が、スバルを呑み込もうとして――、
「ち、がう……」
自分の頭を押さえて、スバルは顔を上げた。
ずきりと、強い痛みが頭を打って、スバルの鼻からボタボタと血が流れる。耳鳴りも止まらなくて、じくじくと血が湧いてくる感覚もあった。
順番が、違う。タンザたちよりも遅いけれど、スバルもおんなじ痛みがある。
あって、これが、何なのかと。
「おか、しい……」
床に手をついて、壁に手をついて、スバルは何とか立ち上がった。立ち上がって、何が起きているのか、確かめるために廊下に出る。
部屋の中、タンザたちは、もうダメだった。そして、もうダメなのは、タンザたちだけじゃなくて、もっと、もっと全部だった。
「――――」
隣の共同部屋も、あちこちの通路も、大広間も、跳ね橋の袂も、みんなダメだった。
足を引きずって、チカチカする目で、耳から頭の中身が溶け出してくるみたいな感じになりながら、服を血塗れにしたスバルは、島の中を見て回った。
みんな、死んでた。みんなみんな、死んでた。
みんな目から、鼻から、耳から血を流して、死んでる。死んでた。
「なんで?」
こんないきなり、剣奴も、看守も、みんな区別されない風に、死んでるのか。
みんな、いきなりの、ことで。
「なんで?」
誰もいなくなってしまった。いきなり、突然に。
それが信じられなくて、受け入れられなくて、たどたどしく聞くしかない。
誰にって、空に。空じゃなかったら、水に。
「なん――」
「――なぁ」
不意に、誰も答えてくれないはずのスバルの声に、誰かが答えた。
急に、何の前触れもなく、いきなりみんなが死んでしまった島に取り残されて、自分も鼻から耳から血を流して、スバルは不安だった。怖かった。
だから、答えをくれそうな誰かの声に、スバルは振り向いて、そして。
「――お前さん、こんなところで何してるんだ?」
そこに、救われた気持ちになったスバルを、一瞬で凍り付かせる男が立っていた。
△▼△▼△▼△
「見ての通り、島の奴は根こそぎ死んだと思ったが……」
そう言いながら、首の骨を鳴らしたのは黒いバンダナをしている男だ。
明るい橙色の髪の毛を、赤いラインが入ったバンダナでまとめていて、帝国兵の格好をしている細身のシルエット。
パッと見た感じだと、人懐っこい顔をしているように見える。でも、それはとんでもない誤解だ。大間違いだ。騙されちゃダメだ。
優しそうに見える顔も、仲良くしたがって聞こえる声も、全部作り物。
その、作り物でできている男の名前は――、
「――トッド」
少しずつ、記憶の引き出しが開けづらくなっているはずのスバルが、あっさりと引き出せるぐらい大事なところに入れている名前だった。
そして、その名前がどうして大事なのかと言えば。
「――。お前さん、なんだって俺の名前を知ってる?」
呼びかけ一つでガラッと態度を変えて、距離を詰めてくる男が危険人物だからだった。
男――トッドが大股で、スバルの方にのしのしと歩いてくる。慌ててトッドから逃げようとしても、勝手にボロボロになった体がそうさせてくれない。
すぐに背中に追いつかれて、スバルの体は乱暴に壁に押し付けられた。
「いた……っ」
「見覚えないな。一度見た顔は忘れないんだが、知らない顔だ。――いや」
建物の壁に顔を押し付けられて、ざらざらする感触がほっぺたにある。手加減してくれない痛さにもがくスバル、その髪の毛にトッドが鼻を近付けた。
そのまま、トッドが鼻を鳴らしてスバルの髪の匂いを嗅ぐ。
「お前さん、俺の知ってる怖い奴と似た臭いがするな」
誰のことを言っているのか、低い声で言われてスバルはゾッとする。まるで、自分のことを言われているみたいな気分と、トッドに対する嫌悪感の合わせ技だ。
できれば、二度と会いたくなかった顔、それがどうしてか、島にいる。
「なん、で……」
こんなところにトッドが、グァラルから逃げたはずの男がいるのか。
そう言えば、トッドは捕まったアラキアを、連れて逃げたのだ。気付くべきだった。アラキアがいるなら、トッドもいるかもしれないと。
そんなの馬鹿だ。一緒に逃げたからって、次の場所でも一緒なんて絶対じゃない。
なんで、どうして、嫌だ、怖い、なんで、ここに、トッドが。
「なんで、みんなを……」
「殺したのかって? 答えんよ、そんなこと。俺からすれば、お前さんが生き残ってる方が誤算だ。まぁ、放っておいても時間の問題かもしれないが」
「――ぅ」
「時間だの偶然だの、そういうモノに丸投げするのは嫌いでな」
耳元でトッドの声が囁かれて、首に冷たいものがすっと当てられる。それは、トッドが腰から抜いた大振りなナイフの冷たい刃部分だった。
大きな動物の皮でも剥ぐような使い道をしそうなナイフ、それをちょっと強く引かれたら、スバルの首が切れるどころか、落ちるんじゃないかと思うほど。
そして、相手が子どもだろうと、トッドはそれを躊躇わないだろうとも。
ただ――、
「――――」
万一の、可能性があった。
トッドがスバルを殺さないで――違う、ここで殺さないで、後回しにする可能性。スバルから何かを聞こうとする可能性。それをされたら、取り返しがつかなくなる。
取り返しがつかなくなって、絶望する可能性。
だから、いっそ――、
「待て」
「――ッ」
頭は痛むし、鼻血は止まらない。
血が足りなくなって意識がふらつく感覚の中で、スバルはどうにか、最後の手段を使おうと奥歯を舌で探っていた。
次の瞬間、スバルの口の中に、トッドが指をねじ込んできたのだ。
「――ぁ」
乱暴に、無理やり口の中を荒らされて、スバルは思いっきりえずいた。お腹の中身が逆流してくる。でも、トッドは何も気にしないで指を動かし続けた。
そして、吐き戻されるご飯と一緒に、それを引っ張り出した。
「……なんだこれ。まさか、毒か?」
「――――」
「おいおい、どんなガキだ? わざわざ毒を口の中に仕込んでたってことは、いざってときの自殺用だろ? 命を粗末にするなんてどうかしてるぞ」
スバルの服で汚れた指を拭きながら、トッドがいけしゃあしゃあとそう言った。
でも、ふざけている感じはしない。本気で、スバルの考えを信じられないでいる、そんな感じの態度だ。
まるで、自害なんて馬鹿げた考えだと言わんばかりの。
「そうだな。別に苦しめたいわけじゃない。使ってもいいぞ」
「そ、れって……」
「ああ、死んでくれるなら自殺でもいい。俺もナイフを汚さないで済む」
その証拠に、とトッドが肩をすくめて、スバルの口の中に『薬』の包みを戻した。
ご丁寧に奥歯の上に置いて、強く噛めば包みが破れる位置だ。それで中身が漏れて、スバルの命は消える。それを、わかっていて。
「俺はどっちでもいい。お前さんが死ぬんならな」
肩を掴まれて、くるっとスバルは振り向かされた。
すぐ目の前にトッドの姿があって、スバルは背中を壁に押し付けられている。何とか、トッドに一矢報いてやりたいけれど、体からどんどん力が抜けて、痺れてきた。
ゆっくりと、タンザたちとおんなじ『死』が、スバルを蝕んでいく。
それが、どうしてゆっくり、ゆっくりくるのか、わからないけれど。
「時間切れ、自殺、ナイフ」
「――――」
「選べ」
行き着く先は変わらないと、トッドが指を三本立ててスバルの答えを迫った。
とても、とても静かで、スバルはトッドが憎たらしい。
タンザも、ヒアインも、ヴァイツも、イドラも、死んだ。
オーソンたちも、ヌル爺さんも、看守の人たちも、みんな死んだ。
なんで、トッドは生きているのか。なんで、スバルも死んでいくのか。
「――ッ」
ひどく、ひどく胸を掻き毟られる思いを味わいながら、スバルは強く奥歯を噛んだ。
包みが破れて、中に入っていた『薬』が外に漏れ出す。それが、じわりと舌や歯の隙間に流れ込んで、流れ込んで、そして――。
「――ぶぁっ」
口の中に溢れ返った大量の血を、目の前のトッドに思いっきり吐き出した。
道連れ、なんてつもりじゃない。一矢報いる気持ちで、服を汚してやろうと。でも、トッドは勘がよかった。スバルが身構えた瞬間、横に飛んだ。
そのせいで血がかからなかった。ただ血を吐いて、スバルは倒れる。
倒れて、倒れて、そして、そして、そして――。
「あ、う、あ、おおおおぁ……っ」
全身がびくびくと震えて、すごい勢いで毒が回っていく。
鼻から耳から、それまで以上の勢いで血が流れ出して、目が破裂しそうなぐらいパンパンに腫れ上がって、体中の肉が、骨が、一斉に唸り始めた。
違う、唸っているみたいに聞こえる。全身が、悲鳴を上げていた。
「い、ぎ、ぎぎい、ぎいいいい……ッ」
血が燃えるみたいに熱い。煮えた鍋に突っ込まれたみたいに、熱い。
全身がぐつぐつ煮えたぎって、まるで皮を剥いで、そこにワサビとかカラシとか辛いものを片っ端から塗りたくられたみたいに、山ほどの針を突き刺されたみたいに、おろし金で全身がすりおろされるみたいに、痛い、痛い、痛い、痛い。
痛いのだけで、死んでしまいたくなる。
苦しいのだけで、死んでしまいたくなる。
「お前さん、どうかしてるぞ」
びくびくと、釣り上げられた魚みたいに暴れて、死に向かっていく。
そんな、血の海で溺れるスバルを見ながら、トッドが何か呟いていた。それが何を言っているのか、スバルにはわからない、わからない、わかることもない。
もう、何も、わからなく。何も、わからな、く――。
「――普通、自殺するための毒なら苦しまないのを用意するだろ」
声が、遠くて、意識が、白い方に、白い方に、飛んで。
それでも、最後まで、最後、まで、痛いのと、苦しいのと、血が、血が血が血が、血ぃ血血血血、ちちちち、ち――。
パン、と音がして、血が、目が、見え、ぅ。
△▼△▼△▼△
「お前が何者かはわかっている……」
「――――」
「だが、それは関係ない……調子のいいヒアインと一緒にするな……オレは、お前の被る冠に興味はない……ただ力を貸す。それを覚えておけ……」
焼ける、燃える、全身が削られる、痛みがあった。
そんな痛みが突然途切れたかと思ったら、スバルはひやりと冷たい空気の中にいた。
そして――、
「あ、ぁ……」
「シュバルツ……?」
「あああああ――ッ!!」
その場で自分の体を抱きしめて、スバルは大きく口を開けて、そう叫んだ。
叫んで、叫んで、自分の中から毒を追い出そうとする。もう、体の中にいないはずの毒を追い出そうとする。まだ残っている気がする、死んでしまう毒。
スバルを苦しめて、苦しめて、必ず死なせようとする、猛毒。
何回、味わっても――。
「ぐ、ひう、あああうううああああ……!」
あの薬がもたらす『死』は、スバルに楽な死に方などないことを思い起こさせる、絶対に逃げてはいけない最後の砦の番人なのだった。




