第七章64 『魔法の言葉』
――『悪辣翁』オルバルト・ダンクルケンが残した忌まわしき術理。
他者のオドへと干渉し、その肉体の成長を著しく後退させて幼児化するシノビの秘法。
生物とはいずれも、無より有へ転じるオドの容れ物に過ぎない。オドの形によって、適切な容れ物の大きさも形も異なる。
それ故に、生き物は皆が異なる姿形を取り、違った生命として成立していると。
その理屈が正しいなら、肉体があくまでオドの容れ物としての役割を果たすだけなら、オドの形を変えることで、容れ物の形を自由に変えることができる。
オドを圧縮することで、容れ物である肉体までもそれに合わせて縮めることが――。
「ま、実際のとこ、シノビの先代共がなんでまたそんなこと思いついたのかよくわからんのじゃぜ。そもそも、死ぬ寸前まで体鍛える方法も、死ぬ寸前とかどうやって見極めてんのかわかんなくて怖くね?」
「ってなわけで、シノビなんてもんはあれよ。なろうとした時点で修羅の道じゃし、山積みの死体の上をてけてけ歩いてるって話になるわけじゃぜ」
「山ほどある術技も、命で試さなきゃ秘伝書に残せねえじゃろ? ワシの奥の手……何十個もあるうちの一個じゃが、それも例外じゃねえわけよ」
「けどあれ、結果と影響がだいぶズレてて面白ぇじゃろ。ワシもてっきり縮むだけかと思ってたんじゃが、頭の中身までそっくり若返りやがんの」
「生憎、理屈はワシにもわかんねえんじゃぜ。まぁ、無理くりオドを弄ってるわけじゃからよ。体がオドに合わせて縮むみてえに、心もオドに合わせるとかじゃね?」
「ま、滅多にやらねえ術じゃし、仕掛けた相手は大概殺さなきゃならねえし、わざわざ理由を突き止めようと思ったこともねえわな。実際、体だけじゃなく頭の中身も縮んでくれた方が殺しやすいんじゃし、至れり尽くせりじゃぜ?」
「つっても、たまにガキの頃から覚悟ガン決まってる奴もおっからよ! そういう奴には頭の中身が縮んでも期待できねえわな。――ああ、あと」
「――――」
「……んや、何でもねえわい。ともかく、シノビの術理の中でも面白ぇから気に入ってんじゃぜ。敵は弱ぇ方が、何かと楽じゃろ?」
△▼△▼△▼△
――怒りが、沸々と込み上げる怒りが、スバルの魂を熱くする。
恐怖は、ある。緊張も、ある。不安も、ある。
たくさんの、思いつく限りのネガティブな感情が、たぶん全部あるんだと思う。
でも、そのネガティブな感情の全部を燃やして、ひっくるめて燃やして、丁寧に畳んで包んだものを燃やし尽くすぐらい、熱い怒りが込み上げる。
「クソ、チクショウ、なんで俺がこんな目に……!」
うるさい、馬鹿。そんな泣き言、誰も耳を貸してくれないんだ。
「言ったろう。私は戦士だったんだ。貴様らより、よほどうまく使える」
うるさい、馬鹿。それが嘘っぱちで、お前が見栄っ張りなのはもうバレてるんだ。
「言ったはずだ。他人に命を預ける気はない……」
うるさい、馬鹿。そうやって一人で乗り切れるもんか。もっと周りをちゃんと見ろ。
――そう、周りを見て、ちゃんと、全部、使えるモノを。
「ヴァイツ、受け取れ! 剣を持ってる奴が狙われる!」
剣を掴んだ瞬間、剣闘場に轟く咆哮と共に黒いライオンが猛然と走り出した。
その狙いが自分――違う、剣を持った獲物にあるともうわかっている。だから、掴んだ剣を引っこ抜いて、そのまま棒立ちのヴァイツの方に投げ渡した。
最初、スバルが抜け駆けして走り出すと、三人は全員が驚いて固まる。
そうして固まった三人の中で、スバルが投げ渡した剣をちゃんと受け取ってくれるのは、土壇場に我に返れる刺青の男――ヴァイツだけだった。
「く、小僧……!」
回転して足下に刺さる剣を見て、とっさにヴァイツが剣の柄を掴む。
ただ、彼はちゃんとスバルの声を聞いているから、その剣がライオンを倒すための鍵というより、ライオンの標的を変えるためのフラグだとすぐ理解する。
問題は――、
「け、剣を渡せ! 私があの剣闘獣を……っ」
続いて我に返る錆色髪が、ヴァイツの確保した剣を横から奪い取ろうとするのだ。
緊張と恐怖、それで頭がいっぱいの錆色髪は判断力がメタメタになっている。そのまま剣の取り合いになると、二人まとめてライオンの前足の餌食だ。
だから、そうなる前にそれを阻止する。
「ヒアイン! 後ろだ!!」
「う、後ろ……!?」
ヴァイツに錆色髪が掴みかかる寸前、スバルは蚊帳の外の蜥蜴人――ヒアインの名前を呼んで、彼に切羽詰まった危険が後ろにあると訴える。
三人の中で一番臆病な彼は、スバルの声に慌てて後ろを振り返り、自分が何に襲われようとしているのか確かめようとする。
でも、そこには何もいない。スバルはただ、彼を振り向かせたかっただけだ。
ヒアインがビビッて体を硬直させて振り返ると――、
「ぐおおっ!」
そのヒアインのピンと伸びた尻尾が、横から錆色髪の脇を殴りつける。思いがけない妨害に錆色髪が転がって、ヴァイツが剣を奪われずに済んだ。
そうして、ちゃんと身構えられたヴァイツのところに、標的をスバルから彼へと変更したライオンが飛びかかっていく。
「しゃがんで!」
「ちぃ!」
スバルの声を聞いて、しゃがんだヴァイツの真上をライオンの牙が食い破る。ヴァイツは刺青の入った顔を歪めてその腹の下を潜り、次の一撃がくる前に剣を手放した。
ポンと、軽く投げられた剣が、思わず手を出したヒアインの胸に収まる。
「え」
「――――ッッ」
「ひ、ひあああああ――っ!!」
当然、ライオンの矛先は反応が悪いヒアインの方に向いた。
まるで状況がわかっていないヒアインは、剣を抱いたままライオンに背を向けて、そのビックリするぐらい速い逃げ足で一気に距離を取る。
それを、ライオンが容赦なく追い縋り、攻撃を繰り出していく。
「その隙に、俺は……!」
ヴァイツとヒアインがうまくやってくれている間に、スバルは剣闘場の壁際に走る。その視線の先にあるのは、壁に取り付けられた小さな取っ手――レバーのようなものだ。
パッと見、剣闘場の地面に刺さった大小二本の剣に目が奪われたが、よく観察すればこうしたレバーがひっそりと備え付けられていたのだ。
「これを引いたら、どうなる!」
子どものスバルにはやや高い位置にあるレバー、それに飛びつくようにして取っ手を引き下げる。体重をかけ、強引にレバーが下がると重たい音が響き渡った。
歯車が噛み合い、何かがガタガタと動き始める感覚が足下から震動で伝わる。何かしらの機械的なものが、剣闘場の真下で稼働した感覚だ。
これで状況が変わると、スバルが剣闘場の様子を振り返ると、
「う、おわあああ――!!」
次の瞬間、音を立てて剣闘場を二つに割ったのは、地面から起き上がった鉄の柵だ。
それは円形の剣闘場を、ちょうど二つの半円に割る形で持ち上がった壁であり、うまく使えばライオンを向こう側へ追いやることができる。
ただし――、
「――――ッッ」
今回は、追い込む方向を間違えて失敗した。
起き上がった柵の手前側にライオンがいて、柵はスバルの逃げる空間を狭くしただけ。狩場が小さくなり、その体が倍ぐらい大きくなったように感じるライオン、その血でべったりと汚れた口には、ヒアインだったモノの残骸が引っかかっていた。
「ぐああっ」
さらに、そのライオンの足下に錆色髪が苦鳴と共に転がった。
ちょうど柵が持ち上がったとき、その真上にいたらしい。そのせいで撥ね飛ばされた彼は、運悪くライオンとスバルのいる側に落ちてしまったのだ。
その代わりに、柵の向こうでは無傷のヴァイツが呆然としていて。
「や、やめ……っ!」
振り上げられた前足が、地面に倒れている錆色髪の首を容赦なく踏み折った。
氷が割れるみたいな音が響いて、錆色髪の悲鳴がそこで途切れる。ライオンは背後の柵を越えられないと、その視線をスバルの方に向けた。
軽く身を屈める様子に、突っ込んでくると肌が粟立つ。
剣は、柵の向こう側のヴァイツのところにあるが、自分の方に攻撃が届かないなら、ライオンはそれを危ないとはみなさないらしい。
だから、スバルの方に猛然と突っ込んでくる。
「シュバルツ!!」
ヴァイツが叫ぶ。危ない瞬間、ヴァイツはスバルの名前を毎回呼んだ。
もちろん、彼が先に死んでいないときだけだけど。
そのことも、記憶の端に留めながら――、
「――次だ!」
そう吠えるスバルの胸に、剣闘獣の鋭い爪が突き刺さる。
一秒ももたないで、スバルの体は稲妻に打たれるみたいな衝撃と共に、真っ二つに吹き飛ばされ、意識が白く燃え上がって――。
△▼△▼△▼△
「イドラ! もう柵がもたない! そっちの剣は!?」
「抜けない! 重すぎる! とても動かせるものではないぞ!!」
強烈な体当たりを浴びる鉄柵が豪快に歪んで、ライオンがこちら側に体をねじ込む。
人間でも、頭が通れば大抵の狭い場所は通れると聞いた。形はだいぶ違っても、顔の感じはネコ科の剣闘獣なら、もっと簡単に抜けてくるかもしれない。
そんな警戒に奥歯を噛んだスバルの後ろ、錆色髪――イドラが地面に刺さった大剣を抜こうと必死になっているが、びくともしていない。
柵を上げるためのレバーと、大小二本の剣。散々探し回って見つかったのは、その二種類のギミックだけ。正真正銘、あとは地力の勝負になるのか。
「少年! どうする!?」
「怖気づいちゃダメだ! 立派な親父さんの跡継ぎなんだろ!?」
「――っ、そ、そうだ! 私は、怖気づいたりしない!」
声に怯えが走ったイドラが、スバルの言葉で瞳に力を取り戻した。
イドラは戦士でも何でもない。彼がこうして剣奴孤島に流れ着いたのは、借金を返せなくなって奴隷の身分に落ちたからだ。
でも、借金をした理由は、父親から継いだ家業を守ろうとしたから。
イドラは戦士じゃなくても、父親に恥じない人間でありたいと考えているのは本心だ。
「う、おおおお!!」
才能のない粉挽屋の倅が、大剣に体重をかけて引き抜こうと傾ける。スバルも、そのイドラの傍に駆け寄って、同じように大剣に体重をかけた。
柵の向こうからにじり寄ってくるライオン、その背後にはすでにやられてしまったヴァイツとヒアインの二人が死体になって転がっている。
もう、勝ち目なんてほとんどない。――それでも、イドラはスバルを見捨てて逃げなかった。それは、初めてのことだ。
「――――ッッ!!」
「イドラ、くる!」
「わかっている!」
激しく鉄柵の軋む音がして、ついにライオンがこちら側へ乗り込んできた。
黒い毛がびっしり生えた肌に、壊れた柵が傷を付けてもちっとも痛がらない。むしろ、その痛さをこっちのせいにして、よりやる気を燃やして突っ込んでくる。
「ぐう……っ」
どうにか剣先が地面から抜けた大剣、それを強引にイドラが担いだ。スバルはその剣先に下から手を当てて、梃子の原理で剣を振ろうとするイドラを少しでも手伝う。
スバルが剣先を下から押し上げれば、ちょっとは軽く剣を振れるはずだ。
その剣が、ライオンにちゃんと当たれば――、
「い、けえええ――!!」
「うおおおお――!!」
飛び込んでくるライオンの顔を狙って、スバルとイドラが力を合わせて剣を振る。
イドラの肩の上、背負い投げみたいな勢いで振られる大剣が、奇跡的なタイミングでしっかりとライオンの頭を狙った。
でも――、
「――ぁ」
見え見えの一撃は、剣闘獣の爪に容赦なく弾かれて、そのままの勢いで体当たりされるスバルとイドラがまとめて吹っ飛ばされた。
そうして、二人は空中で揉み合い、剣闘場の壁に仲良く激突して、一つになる。
「ぶ」
区別のつかない、二人分の血の染みが壁にべちゃりと広がって――。
「……つぎ、ぁ」
△▼△▼△▼△
――怒りが、沸々と込み上げる怒りが、スバルの魂を熱くする。
「オレは、食うに困って盗みを働いた……危険な相手と思わせておけば、案外、死ぬような事態は避けられる……」
見えないところがないぐらい刺青の入った肌を撫でて、ヴァイツはそう語った。
それは自分が見掛け倒しなことを謝ってくれていたみたいだったけど、スバルはヴァイツが土壇場で心を開いてくれた証だと思った。
「どうせお前らも、俺を囮にして逃げるつもりだろうが! 俺は……俺はもう利用されねえ! 利用されてたまるかよぉ!!」
卑屈に目を泳がせながら、ヒアインが泣き叫ぶみたいにそう言った。
鱗の色を変えて逃げ隠れする能力、それはきっと仲間内でも知られていたのだろう。いつも、一番危ない役目をやらされて、ついには勝手に囮にされて奴隷にされたと。
その臆病は、周りが育てたものだった。ヒアインが、悪いわけじゃない。
「信じた相手に騙され、家業を奪われた挙句に奴隷になったんだ。正直に生きても馬鹿を見るだけなら、せめて最後に残った自分ぐらい……!」
悔しさと恥ずかしさに唇を噛み切って、イドラがそう嘆き悲しんだ。
嘘をつき慣れてないし、最後までつき通せない。そもそも、剣奴孤島に連れてこられたから戦士を名乗るなんて、後先考えてなさすぎる嘘だ。
どうせあとでバレる。案の定、スバルにはすぐバレた。カンニングの結果だけど。
――卑怯者と臆病者と、それから詐欺師と協力して、この『スパルカ』を生き延びる。
「次だ……!」「次だ」「次!!」「次こそだ!」「次でいく……ッ」「次は……!」「次はいける……!」「次!」「次が……」「――次こそ」「次だぁ――!!」
生き延びるために、『死』を積み重ねていく矛盾がどんどん重なっていく。
痛い、苦しい、怖い、辛い、やめたい、泣きたい、叫びたい、吠えたい、嘆きたい、喚きたい、投げ出したい、拒みたい、悔やみたい、諦めたい、諦めない。
可能性を、摘み取っていく。
無限にある可能性の、袋小路に突き当たる道を潰して、潰して、潰して潰して潰して。
潰していく先にあるだろう未知の道へ、小さい体をねじ込んでいく。
ヴァイツが、ヒアインが、イドラが死ぬ。
もちろん、スバルだって同じ回数だけ死んで、それでも顔を上げ、前へ行く。
「バッスー、あの寝てる連れの子に伝えておくことありますか?」
「――次だ!!」
無神経な声にそう怒鳴り返して、襲いくる爪を、『死』を全身に浴びながら、それでもナツキ・スバルは諦めない。
何故なら、何故なら、何故なら――、
「負けねぇ」
――負ける気が、微塵もしないからだ。
△▼△▼△▼△
「おお? さっき、何言い淀んだかってか? ったく、目聡い奴じゃぜ」
「あれよ、ちっこくなっても厄介な奴の話をしとったじゃろ? 頭の中身が縮んでも、元から変わらねえ覚悟の奴には効果半減だわな。もち、そういう奴も体がちっこくなっとるわけじゃから、ちゃんと殺しやすくはなってんじゃがよ」
「――けど、もしもの話よ。もしも、体も頭も小せえときの方が万全って奴がいたら、そいつにこの術をかけっちまうとどうなると思う?」
「ああ、わかるわかる。ワシも、そんな奴がいるたぁちっとも思ってねえんじゃぜ。じゃがよ、ワシはすげえ悲観的なジジイなのよ。最悪のことばっかり考えてきたから、相手に最悪の嫌がらせもできる。じゃろ?」
「そんなワシが思う、この術理に対抗される最悪の可能性がそれよ。縮んだ方がヤバくなる奴、そういうのがおっかねえ」
「ワシに限らず、歳喰うってのはあれこれ諦めやら妥協やらが身につくってことじゃぜ。もしも、そんな奴からそういうもんが消えたらどうよ?」
「――ガチで怖くね?」
△▼△▼△▼△
「次だ」
――それは、あまりにも皮肉な結果だった。
『悪辣翁』オルバルト・ダンクルケンの術技、それがもたらした『幼児化』の被害は、ナツキ・スバルを幼い体に変えて、なけなしの知性すらも退行させた。
徐々に失われていく知識と記憶は、スバルを弱く脆い少年へと焼き直していく。
肉体的にも精神的にも、その存在の脅威を奪い去るのが目的の術理。
あらゆる手段を用いて目的を成し遂げるシノビ、その秘技に相応しい秘術と言える。
事実として、スバルから剥がれ落ちるように記憶は薄れ、大切な顔が遠ざかる。
かくして、ナツキ・スバルは見た目相応の、十歳前後の幼童へと舞い戻ったのだ。
十歳前後――かつて、ナツキ・スバルが『神童』だった時代へと。
「次だ」
かつて、ナツキ・スバルは『神童』だった。
実際のところ、天才児と呼ばれるほど才気溢れる存在だったかは重要ではない。大事なのは、他ならぬスバル本人にその自己肯定感があったこと。
幼い頃のナツキ・スバルは自信に溢れ、何でもできると信じて疑っていなかった。
周りの子どもたちを引っ張り、星空にさえ手が届くと信じてやまなかった。
「次だ」
成長するに従い、その自己肯定感は現実に摩耗し、失われていった。
何をやっても一番だった事実は消えて、スバルの下には万能感ではなく、無力感と焦燥感だけが残ることとなり、輝く星々は曇り空に隠れていった。
ナツキ・スバルは背丈の成長と共に、自信を喪失していったのだ。
「次だ」
異世界へ飛ばされたあの日こそ、スバルの最も自己肯定感が失われていた瞬間だ。
その後の出会いが、経験が、対話が、行動が、ナツキ・スバルを徐々に新しい願いで包み込み、自分の頑張りも悪くないと認められるに至った。
それでも、まだ足りないと、そう嘆く心は依然としてあったのだ。
「次だ」
その、ナツキ・スバルが成長によって得たもの、失ったものが、消える。
幼くなる肉体に合わせ、精神的にも後退することで、人は弱くなるはずだった。スバルも肉体的にはそうだ。弱くなった。――だが、精神的には、どうか。
「次だ」
かつて、ナツキ・スバルは『神童』だった。
敗北を知らず、諦めを知らず、夢が叶わないことも、頑張っても届かないことも、力不足を悔やむことも、袋小路に嘆くことも、不貞腐れて投げ出すことも、知らない。
ただ無神経に、無謀なまでに、自分は何でもできると信じている。
自分が世界の中心で、支配者なのだと無鉄砲に信じていられる、そんな少年だった。
そして、そんなナツキ・スバルの自意識を支えているのが魔法の言葉――、
『――やっぱり、あの人の子だな』
その言葉から注がれる無限の力が、幼いナツキ・スバルの心の枷を外す。
怖い以上に、憎たらしい。痛い以上に、悔しい。泣きたい以上に、笑いたい。
大嫌いな国で、大して思い入れのない仲間と力を合わせて、好きな子たちが待っているはずの場所へ帰るために、いったい、何を躊躇う必要があるのか。
故に、このとき、ナツキ・スバルは――、
「――次だ」
――異世界召喚されて以来、最強の存在としてギヌンハイブを蹂躙する。
△▼△▼△▼△
「――――」
誰もが、声をなくして絶句する。
元々、静かに『スパルカ』を観戦するよう、島主であるグスタフ・モレロから厳命されているのが剣奴たちの環境だ。
だから、異様な静けさが剣闘場を包み込むのはある種、必然と言える。
しかし、このときの静寂と沈黙は、単なるグスタフの言いつけだからではない。
仮にグスタフの指示がなかったとしても、誰も何も言えなかっただろう。そのぐらい、鬼気迫る光景に彼らは圧倒されていたのだ。
「ヴァイツ! イドラ! 左右に散れ! ヒアイン、怖いのはわかるけど逃げるな! 剣を拾って、引き付けてから投げろ!」
猛々しい唸り声を上げて、猛然と剣闘場を飛び回る剣闘獣ギルティラウ。
角を折られ、『スパルカ』用に躾けられたその獣は、野性の奔放さを失った代わりに、剣奴という人間の脅威度をしっかりと叩き込まれている。
だから、率先して武器を持った相手を狙い、危険な存在から排除にかかるのだ。
ただ、その一辺倒を繰り返す悪癖があるから、『合』の面々が武器を渡し合うことで標的を散らすことができるのは想像がつく。
もっとも、初見でそれを見抜けず、全滅の憂き目に遭う『合』も珍しくない。
それを見抜ける時点で、一定の優秀さは保証されると言える。
だが、それにしても今回の光景は異例だった。
「ははは! すごいすごい! めちゃめちゃ頑張るじゃないですか、バッスー!」
誰もが声を失う中で、一人だけ手を叩いてそれを歓迎している少年がいる。
長く伸ばした青い髪を頭の後ろで括って、愛嬌のある顔立ちを笑顔で彩った人物だ。少年はグスタフの言いつけも知らぬ顔で、剣闘場で健闘する『合』に声援を送る。
その声援に効果があるのか知れないが、紙一重で剣闘獣の攻撃を躱しながら、『スパルカ』に挑む四人は必死の戦いを続けている。
決定打はなく、ある意味では退屈な死合い運びだ。
しかし、今にも死にそうなのに死なないという一点、それを支えているのが声を張り続ける幼い少年というのが一点、その二点が死合いを退屈に思わせない。
少年の指示に従い、動き続ける三人の男たちも必死だ。
当たり前だが、彼らには少年の指示を聞かないという自由がある。しかし、少年の指示が剣闘獣から何度も彼らの命を救う以上、その自由は封印される。
そうして『合』は、幼い少年を中心に一個の生き物のように完全に連携する。
それで防戦一方になるだけなのは、絶望的な戦力差が原因なのか、あるいは――。
「――何か、狙っているのか?」
戦いを見下ろしている剣奴たちの心に、同じ期待が炎となって宿りつつあった。
△▼△▼△▼△
――怒りが、沸々と込み上げる怒りが、スバルの魂を熱くする。
『死』が積み重なり、痛みと恐怖が上塗りされて、手も足も内臓も縮み上がる。目をつむれば、瞼の裏には何度も間近で見たライオンの顔が、牙が、口の中が思い浮かぶ。
計り知れない恐怖がくる。でも、一緒に湧き上がってくるのだ。――怒りが。
悔しい思いが、縮み上がる内臓と手足を奮い立たせ、ナツキ・スバルは目を開ける。
もう数えるのも嫌になった挑戦へと、一歩ずつ近付く勝利をもぎ取るために。
負ける気なんてさらさらないのだと、自分自身に証明するために。
「ヒアイン! ヴァイツに剣を投げて、イドラのところに!」
「クソ! わけがわからねえ!!」
四つん這いで地面を猛スピードで走ったヒアインが、持っていた剣をヴァイツへと投げ渡した。そのまま、彼自身は加速して大剣のところにいるイドラと合流する。
くるくると回転する剣をヴァイツが空中で危うく掴み取り、スバルは次の逃げ方を指示しようとして、目を見張った。
「――――ッッ」
吠えるライオン、直前まで逃げていたヒアインを追いかけていたその足が、ちょうど円形の剣闘場を半分に割った向こう側で止まる。
それと同時に仲間たちの位置取りは、全員が半円よりも手前にあった。
全員が生きていて、なおかつ理想的な立ち位置が初めてやってくる。
「ヴァイツ、構えろ!! イドラとヒアインも!」
喉から血を吐くような勢いで、スバルが三人に役目を投げる。
それで全部伝わったわけじゃないだろうに、ヴァイツは剣を構えてライオンと向かい合い、イドラとヒアインが慌てて大剣に飛びついた。
そしてスバルも、無様なぐらい全力で走って、壁に向かう。
「――――ッッ!!」
一歩、二歩ともどかしく感じる速さの中、後ろの方でライオンが吠えた。
そのままライオンが地面を爆発みたいな勢いで蹴って、剣を構えているヴァイツに向かって突っ込んでくる。
真っ直ぐ、真っ直ぐ、ヴァイツは剣を構えているけれど、あの勢いでぶつかられたら何も止められない。一発で死んでしまう。よく知っている。
だけど、ギリギリまでライオンと睨み合いする度胸があるのはヴァイツだけなのだ。
「う、ああああ――!!」
生臭い息を吐く口が、剣みたいな牙が生え揃った口が、何度もスバルや三人を噛み砕いてきた口が、剣を構えるヴァイツに突っ込んでくる。
それが、ヴァイツの命を奪ってしまうその寸前に――、
「――いけええ!!」
指先がかかった瞬間、スバルは自分の軽い体重全部を使ってレバーを引いた。
直後、歯車の回転する音が足下を伝い、突き上がる鉄柵が真下からライオンの顔面を打ち抜く。顎下から激突して、開いた口が強引に閉じられるライオン。
その突進の勢いが鉄柵にぶち当たって、ギリギリまで敵を引き付けたヴァイツが衝撃波に「ぐおお!?」と吹っ飛ばされる。
鉄柵が衝撃でひしゃげて、ひん曲がった柵の一部からライオンの頭がこちらへ抜ける。顔面にきつい一撃を受けたライオンは前足で地面を掻いて、どうにか体勢を立て直してから鉄柵を破ろうとしているみたいだった。
――でも、それはやらせない。
「イドラ! ヒアイン!」
「う、うおおおお――ッ」
「っりゃああああ!!」
吹っ飛ばされたヴァイツと入れ替わりに、イドラとヒアインが鉄柵に駆け寄る。その二人の手に握られているのは、とても振り回せたものではない大剣だ。
誰一人としてまともに使えない武器、でも、一人で使わなきゃいけないルールはない。
二人がかりで担ぎ上げて、身動きのできない相手に振り下ろしちゃいけないルールも。
「――――ッッ」
渾身の、二人がかりの大剣の一撃が、鉄柵からはみ出したライオンの首の真上から落ちた。太い獣の首に大剣が突き刺さって、ライオンの絶叫が空に木霊する。
血が噴いて、死を拒むようにライオンが暴れる。
「死ね、死ね死ね死ねえええ!!」
「終わってくれ――!!」
ヒアインとイドラが泣き喚くように大剣に体重をかけ、刃がより深く首に埋まる。そのままライオンの首を斬り落とせば、待ち望んだ勝利の瞬間がくる。
何度も何度も、あの爪と牙にやられてやられてやられて――。
「――――ッッ!」
「があ!?」
「二人とも!?」
あと一歩、しかし、殺されたくないのはライオンも同じだ。
首に大剣をめり込ませたまま、ライオンが強引に体をねじって柵のこちら側に右の前足を引っ張り込んだ。その前足が、大剣を掴む二人の体を打ち払う。
苦鳴を上げて、ヒアインとイドラが地面をゴロゴロと転がっていくのが見えた。
どれぐらい、二人が深い傷を負ったのかはわからない。
でも、倒れた二人に駆け寄るよりも、あの大剣に飛びつく方が大事だ。
「い、かせるかぁ!」
ここまできて逃がせないと、スバルが大剣の柄に飛びつく。でも、軽い。ヒアインとイドラ二人分の体重に代わるには、今のスバルでは軽すぎる。
わずかに大剣は深く食い込んだが、そのお返しとばかりに前足が振られる。
さっきの二人とおんなじように、前足に殴られてスバルも――、
「させるか、ケダモノが……っ」
その前足を、振り下ろされる剣が地面に串刺しにした。
剣を突き刺したのは、突進に吹き飛ばされていたはずのヴァイツだ。歯を食い縛り、顔の刺青を歪めたヴァイツが力一杯、剣でライオンの前足を封じ込める。
そして――、
「ここで寝ていて、戦士を名乗れるか!」
「もう死んでくれよ、クソったれがぁ!」
起き上がったヒアインとイドラが、スバルのぶら下がる大剣に飛びついた。
三人分――二人と半人分ぐらいの力で、大剣がライオンの首を深く抉る。ヴァイツも前足を強く刺し止めて、『合』の四人が力を合わせてライオンの首を斬ろうとする。
ライオンが吠えて、大きく身をよじり、鉄柵が激しく軋む。
これ以上のチャンスは回ってこない。負けられない、負けたくない、負けちゃダメだとスバルは歯を食い縛って、必死で大剣にしがみついた。
それでもなお――、
「――――ッッ」
「うあああ――っ!!」
力一杯に頭を振って、ライオンの巨体がスバルたちを振り払った。
しがみついた体が大剣からもぎ取られて、三人が――違う、ヴァイツも含めて四人全員が地面をゴロゴロと転がった。
文字通り、死力を尽くしたせいで、手足に力が入らない。
「た、たなきゃ……」
立たなくちゃ、もう一度、あの大剣に飛びついて、首を斬らなくちゃ。
そう思うのに、体が言うことを聞いてくれない。それはスバルだけでなく、他の三人もおんなじ状況のようで。
これだけやっても、それでも一番元気なのはライオンの方だった。
「――――ッッ」
首の半分ぐらいまで剣が刺さったまま、ライオンが低い声で唸る。
弱々しいというより、怒りを限界まで溜め込んだみたいな声に聞こえた。もちろん、効いてはいるはずだが、それで力尽きるまで届かなかった。
「クソ……っ」
頑張って、頑張って頑張って、ようやくあと一歩に届いたのに。
それでも届かなかった。思いつく全部を使って、ここまで辿り着いたのに。
だから、次は負けない。
「つ、ぎは……」
もっと早く、この場面と同じ場所に辿り着いてみせると、そうスバルは固く誓う。
その誓いに耳を貸さず、ライオンは鉄柵を抜けて、無事な方の前足をスバルに向かって振り上げて――、
「――ご無礼します」
次の瞬間、ライオンの太い首が一息に斬り飛ばされた。
「あ?」
死を目の前にしていたスバルは、自分ではない相手の死に目を丸くする。
斬られた頭が音を立てて地面に落ちて、ゆっくりとライオンの体が横倒しになる。それをしたのは、ライオンの首に深く刺さっていた大剣だ。
不意打ちのように、空から落ちてきた小さな影が大剣を踏んで、押し込んだ。
それで、ライオンの首を刎ね飛ばしたのである。
そして、それをやってのけたのは――、
「……あの、どうして私はこんな場所にいるのでしょうか」
と、あまり感情の見えない顔を、わかりやすい困り顔にした少女――タンザだった。
キモノを脱いで、肌襦袢だけを纏った少女の疑問に、スバルは小さく息を吐く。
何も答えられない。ただ、首を巡らせてみたら、スバル以外の三人も、かろうじて死なずに命を拾ったようだった。
つまり――、
「――そこまでだ! よくぞ、『スパルカ』を生き延びた!! 本職の権限を以て、諸君を剣奴孤島の一員として受け入れよう!」
大きな、大きな声が高々と響いて、グスタフの宣言が戦いの終わりを告げる。
途端、それまで静かに戦いを見守っていたはずの観客――違う、剣奴たちが立ち上がり、一斉にスバルたちの勝利を称える声を上げた。
「よくやった!」
「大したもんだったぞ!」
「やるじゃねえか、チビっ子!!」
興奮した男たちの声が降ってくる中、グスタフは四本の腕を組んで何も言わない。
そうした男たちの歓声を聞きながら、スバルはばったりと地面に寝転んだ。そのスバルの顔を、恐る恐る近付いてくるタンザが覗き込む。
「すみません、あなたは……」
「ナツキ・シュバルツ」
「え?」
驚いた顔をするタンザ、その丸い目がさらにまん丸くなるのを見て、スバルは寝転がったまま、長い長い息を吐いて、続けた。
「ひとまず、俺はナツキ・シュバルツだから、よろしく。話したいことはたくさんあるけど……」
「あるけれど?」
「……ちょっと、休ませてほしい」
首を傾げたタンザには悪いが、スバルももう限界だった。
張り詰めていた緊張の糸が切れて、沸々と燃え滾るようだった魂の熱も抜けていく。もちろん、この状況を嫌って燻るものは残っているけど。
それでも、何とか『スパルカ』は生き延びたのだから。
「お願いだから……ちょっと寝る」
と、スバルの意識はすとんと、落とし穴に落ちるみたいにあっさりと途切れていった。
△▼△▼△▼△
「――――」
眼下、剣闘場で大の字になりながら意識を落とした少年にグスタフは目を細める。
凄まじい戦いであり、思いがけない結果になったと言える。
まさか、あの少年にあれほどの天稟があるなどと考えもしなかった。
「いやぁ、すごかったでしょう、グスタフさん。バッスーを拾って大正解、捨てずに取っておいてよかったですね! 僕の大手柄じゃありません?」
「……セグムント」
そうグスタフが物思いに耽っていると、そこへ気安く話しかけてくるセシルス。
頭の後ろで手を組んだ少年の言葉に、グスタフは額と眉間を二本の右腕で揉んで、
「君の言い分には一理あった。これを予期していたのか?」
「期待はしてましたよ? こうなったらいいなぁと思ってその通りになった。まさしく信じるモノが救われたという感触ですね!」
「……そのような不確実な可能性に、自身の命を賭けたのかね」
「――? ええ、そうですけど?」
首をひねって、セシルスが不思議そうな顔をする。
まるで、何かおかしなことでも言っただろうかと言わんばかりの態度だ。
もしも、引き上げた二人――シュバルツとタンザが使い物にならなければ、二人の命の責任は自分の命で支払うと、そう言い張ったことがなかったかのように。
「実際、何ともなかったでしょう? 僕からすればありがたい申し出でしたよ。こんなところで無為に失われるような僕ではありませんので!」
「君の理屈は本職には理解できない。それと、最後の場面で何をした?」
薄い胸を張って笑うセシルスに、グスタフが疑問を投げかける。
最後の場面、自分の命をも懸けた『スパルカ』の真っ最中、セシルスは一度だけ、ほんのわずかな時間だけ姿を消した。
その後に起こったことを考えれば、大体の想像はつくが――、
「少女を、起こしに向かったのか」
「やだなぁ、わかってるなら聞くことないじゃないですか。そもそも『合』は五人一組であの子が起きなきゃ人数不足でやってもらうって言ったのはグスタフさんですよ。それは逆にあの子が起きたらいつでも加わっていいって意味でしょう?」
片目をつむり、セシルスが身長差のあるグスタフを「それとも」と見上げて、
「今から取り消しますか? 今回の『スパルカ』は不正が発覚したって」
「――。不正には当たらない。皇帝閣下も、素晴らしい剣奴の誕生を喜ばれよう」
「ははぁ、僕が言うのもなんですが、皇帝閣下も碌な人じゃなさそうですね!」
「皇帝閣下への侮辱は許されない。二度はないぞ」
厳しい声でグスタフが言いつけ、セシルスが肩をすくめて適当に引き下がる。その様子に鼻から息を吐いて、グスタフは改めて剣闘場を見た。
一番の功労者であるシュバルツと、三人の男たちがグスタフの部下である看守によって運び出されていく。治癒室で、癒者の手当てを受けることになるだろう。
所在なさげな少女も、ひとまずそれについていく様子だ。
「『合』の全員を、たった一人で生き残らせたか」
誰が欠けても届かなかった結末だが、誰が最大の力を発揮したかは言うまでもない。
剣闘場に用意された仕掛けや武器を見落とさず、同じ境遇の仲間に目を配り、敵の動きをも可能な限り観察して、細い糸を渡り切った。
その決着を見たものとしては――、
「ほらね? なんだか壮大な物語が始まる予感がするでしょう?」
そう、したり顔で同意を求めてくるセシルスに、何を答えるのも癪に感じられて、グスタフは厳めしい顔のまま、太い四本の腕を黙って組むにとどめたのだった。