第七章62 『孤島の秩序』
――自分が何故ここにいるのかも、『九神将』もわからない。
突然の爆弾発言、その爆弾処理に失敗し、スバルの頭は混乱に呑まれる。
冷や水を浴びせられるよりずっと鮮烈な衝撃、思わず何度も瞬きをして、
「ど、どういう意味なんだ? 自分がここにいる理由がわからないって……」
「どういう意味も何もそのままの意味ですよ。僕は気付いたらこの剣奴孤島に放り込まれてまして、前後の文脈も今後の展望もまっさらで大弱り状態だったってわけなんです。まぁ、ここは僕にとってはわりと住みよい場所なので大弱りってほどの困り度ではないんですがそういう風に言っておこうかなと」
「――――」
「おや? もしかしてまた考え事ですか? いやぁ、バッスーは考え事がお好きですね。いえいいと思いますよ、僕はほらあんまり考えるのが好きじゃない方なので。考え込む人のことを馬鹿にも邪魔したりもしません、口は閉じておきましょうとも!」
口を閉じるまでにだいぶ時間をかけて、セシルスが一応静かになる。とはいえ、口を閉じている間も足はパタパタしているし、ちょろちょろ動き回って視界はうるさい。
馬鹿にはしていないかもしれないけど、十分以上に邪魔だった。
でも、そんなことを突っ込んでいる余裕はスバルにはない。どうせ突っ込むなら、ちゃんと意味のある話をするべきだ。
例えば――、
「なんで、『九神将』のこととかわからないのに、自分が『青き雷光』って呼ばれてることは知ってるんだ? そんなのおかしいじゃないか」
「ああその疑問の答えは簡単ですよ。その痺れる異名、考えたのは他でもないこの僕自身ですからね! ヴォラキアの『青き雷光』セシルス・セグムント! どうです? 実に鮮烈で優雅な印象を与えるあだ名でしょう! いずれこの名前を轟かせて誰もが僕という主演役者に目を奪われる天下を作る! そんな意気込みの表れです」
「自分で考えた、あだ名……」
胸を張ってそう答えられて、スバルはがっくりと肩を落とした。
そんなスバルの様子に、セシルスは「あれれ? どうしました~?」なんて気安く顔を覗き込んでくる。でも、それに答える気力は萎んでしまった。
この、目の前の少年が『セシルス・セグムント』の本物か偽物か、決着はついた。
子どもを尊敬できない大人がたくさんいるという説も、さすがに『九神将』を知らないなんてとんでも発言をひっくり返すパワーはない。
いくら何でも、本物の一将が『九神将』を知らない発言はフォローできなかった。
「自分が帝国の将軍ってことを知らないなんて、ふざけすぎてる……」
そんな穴だらけの理屈をこねて、筋を通そうなんてとても無理だ。
だから、スバルの中では目の前の少年が本物のセシルスという可能性は消えたのだ。彼は、ただの悪ふざけが過ぎるオオカミ少年――偽セシルスだ。
それで、袋小路の中に芽生えたか細い希望の糸がぷつりと切れてしまう。
一個だけ、それでも希望の種が残るなら、それは偽セシルスが嘘つきだったことで、もしかしたらさっきの怖すぎる島の話も、彼の嘘だった可能性が――、
「――このようなところにいたのかね、セグムント」
「うわあ!?」
次の瞬間、考え事をする背中に男の太い声が浴びせられ、スバルは飛び跳ねる。
偽セシルスのものでも、もちろんベッドで寝ているタンザのものでもない声、それが聞こえた治癒室の入口に振り返り、スバルの仰天はさらに重なった。
――治癒室の入口に佇んだ人影、それがとんでもない大男だったからだ。
「で、っけ……!」
思わず感嘆がこぼれてしまうぐらい、その男は背が大きかった。
いや、背が高いだけじゃなく、縦にも横にも厚みがあって、体の全部が太くて大きいという説明が似合う。首や手足は丸太みたいにたくましくて、着ている警察や軍人みたいな黒い服は張り詰め、はち切れそうなぐらいパンパンだった。
スバルが縮んでいるのと無関係に、首が痛くなるぐらい見上げなきゃいけない巨漢。
身長は二メートルを軽々と超えていて、スバルが異世界で見てきた人間の中で一番大きいかもしれない。その巨大な体の上にはとても厳つい顔が乗っていて、口を閉じてもはみ出す牙や、肌の色が青色をしているなど特徴が多すぎる。
それでも、まだ一番目立つ特徴の説明はしていない。
その、一番目立つ特徴というのは――、
「やあ、どうも、グスタフさん! 今朝も立派なお召し物ですね! 身嗜みの隅々まで気を使うのは紳士の基本、実に見習うべき姿勢と思います!」
「世辞は結構、君の方は相変わらず無闇に健康そうで何よりだ。君の如き存在は剣闘場でこそ消耗されるべきと、そう公正なる私が厳正に判断している」
そう言って、大男――グスタフと呼ばれた人物が、軽妙な偽セシルスの言葉に長く息を吐きながら、太い『四本』の腕を組んで答えた。
そう、四本の腕だ。
大きな体を筋肉の塊で包んだ鬼のような顔の大男は、両肩から二本ずつの腕を生やしている四本腕という特徴があった。確か、多腕族という亜人族がそういう特徴を持っているのだと、知り合いのお爺さんから聞いたことがあった。
知り合いの、お爺さん――、
「ええと……そうだ、ヴィルヘルムさんだ」
そんな、知人の名前を思い出すにも一苦労のスバル。
そのスバルの悪戦苦闘を余所に、偽セシルスはグスタフの言葉に「いやぁ」と笑い、
「お気遣い痛み入ります! グスタフさんの仰りようもわかりますよ! もし仮に僕が死ぬとしてもそれは戦場であるべきです。分別のつく方が島主でいてくださって大助かりですよ、僕っては本当に持ってる男ですね!」
「公私混同は秩序の妨げだ。そのような愚挙、本職が行う道理はない」
「ええ、ええ、わかりますとも! グスタフ総督の配慮に大感謝~!」
へらへらとした顔で手を合わせる偽セシルスに、グスタフが理知的な瞳を細める。
微妙に、「公私混同しない」という発言が、個人的には偽セシルスを嫌っている風にスバルには聞こえたのだが、そこを掘り下げても仕方ない。
偽セシルス以外の、話せる相手がようやく出てきてくれたのだ。
「それで、セグムント。そちらの少年だが」
と、ちょうどグスタフの方も、その意識をスバルに向けてくれた。
ものすごい高みから見下ろされ、ただ眺められるだけでも全身が威圧感に包まれたみたいな息苦しさがある。組んだ四本の腕、その先についている拳は全部子どもの頭ぐらいの大きさがあるので、あれで殴られたらスバルは死ぬだろう。
思わず、スバルがごくりと唾を呑み込み、その横で偽セシルスが手を叩く。
「そうそう、ようやく目を覚ましてくれたんです。それで連れのお嬢さんを心配していたのでこちらにお連れしました。ただ、どうやら寝ているお嬢さんは望んだお嬢さんではなかったみたいで色々すれ違いが生じてるみたいですね。そのあたりの衝撃を受け流してさあここから話が展開する! というところだったんですよ」
「説明ご苦労。だが、彼が目を覚ましたなら、最初に本職の下へ連れてくるよう命じたはずだ。それが、本職がこの少年と少女を島へ上陸させる許可を出す条件だったろう」
「そうでしたっけ? すみません、忘れっぽくて」
「――――」
あっけらかんと答える偽セシルスに、グスタフが黙って自分の眉間を指で揉む。
そうして、スバルたちよりずっと空に近い男は天井を睨みつけ、ブツブツと「本職は秩序の番人、公私混同はしない……」と自分に言い聞かせていた。
偽セシルスとの関係はよくわからないけど、たぶん、とても苦労させられている。
それがわかって、グスタフには悪いがちょっとホッとしてしまった。
「セッシーに振り回されたの、俺だけじゃなかったんだ」
「振り回すとは心外ですねえ。ちゃんとバッスーの欲しい説明も会いたい相手ともいきたい場所にも付き合ったと思ってるんですが」
「うん、そうだな、言いすぎた。説明は寄り道が多くて、会わせてもらった相手は会いたい相手じゃなくて、いきたい場所にはいけないって言われて凹まされたけど」
偽セシルスに悪意はないのだろうから、それを言っても仕方ない。
そうスバルに言われ、偽セシルスは「ちぇー」と不満げに唇を尖らせる。と、そんな彼への不満を無事に処理したのか、グスタフが改めてスバルの方を向いた。
そして――、
「少年、目覚めたのであれば改めて話をしよう」
「そうさせてもらえたら嬉しい、です。俺も、他の人から話が聞きたかった。この島の偉い人となら、最高」
「ふむ」
言葉に気を付けながら話すスバルに、グスタフが右の二本の手で自分の顎に触る。
パッと見は厳つい外見だが、話し方や佇まいはとても静かで穏やか、目にも理知的な光があって、抱いた印象はもさもさ頭の、ズィクルに近い。
つまり、話せる大人の代表格だ。
そんなスバルの期待を裏付けるみたいに、グスタフは深く重々しく頷くと、
「本職は、神聖ヴォラキア帝国第七十七代皇帝であるヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下より、この島の管理を任されているグスタフ・モレロだ。君は自分の名前と所属を話すことができるかね」
丁寧に自分の立場と名前を名乗り、真っ向からスバルと対峙してくれる。
その事実に軽く目を見張り、それからスバルは自分の胸に手を当てて頭を下げた。
「じ、自己紹介ありがとうございます。俺の名前はナツキ……ナツキ・シュバルツ」
「なるほど、シュバルツか」
気圧されながらも、スバルはグスタフにそう名乗り返した。
一瞬、本名と偽名のどちらを使うか悩んだ挙句、やや中途半端な回答になったが、現時点では上出来と考えておくべきだろう。
正直、グスタフに嘘をつくのが正解か不正解かはわからない。
でも、スバルの本名が広がるのはいいことではない。偽セシルスは一将の偽物なので大ごとにならなかったが、どこの誰が王国の事情に明るいかわからないのだ。
隠せることは隠しておくべき。今のスバルの偽名を聞いたセシルスが、「あれ~?」と盛大に首を傾げていたとしても。
「しかし、ナツキ・シュバルツならば、セグムントはどうして君をバッスーなどと?」
「セッシーにはセッシーの理屈があるんだと思います。確かめてみますか?」
「――。いや、やめておこう。本職に預けられた職務を思えば、無益な思考に費やす時間はない。本職は知恵者ではないが、賢明でありたいとは思っている」
首を横に振り、グスタフがスバル的にも賢明な判断をしてくれる。
そこを偽セシルスの日頃の行いのおかげと思うのはなんだか癪なので、ここはスバルの日頃の行いがよかったと考えておこう。
ともあれ――、
「名前は答えられ、見たところ体の不調もなさそうだ。癒者の話によると、体力の消耗が著しかったとのことだが、自覚はあるかね」
「体力……少しだけ、疲れてる感じはあるかなと。でも、色々とその、助けてくれてありがとうございます」
「一つ、訂正しておこう、シュバルツ。君を助けたのは本職ではなく、そこにいるセグムントだ。本職はあくまで、条件付きで君たちの受け入れを承諾したに過ぎない」
「な、なるほど」
理路整然としたグスタフの受け答えに、スバルはしどろもどろになりかける。
その話し方や内容は特別こちらに寄り添ってくれていないし、声の調子も冷淡と無感情の間ぐらいの温度感だが、わかりやすい説明なのは純粋に助かる。
偽セシルスと比べたら、発言量と情報量の兼ね合いは段違いだ。
今の質問だって、目が覚めたスバルの体調を心配してくれていたようだし、この調子なら話せばわかってくれるかもしれない。
スバルが、それにタンザも、手違いでこの剣奴孤島へ辿り着いてしまったのだと。
「グスタフさん、俺とこの子……タンザっていうんだけど、この子は手違いっていうか、何かの間違いでここにきたみたいなんだ」
「何かの間違い、とは?」
「――! それが、理由はわからない。ただ、俺たちはもっと遠く……カオスフレームって知ってるでしょう? その街にいたはずなんです!」
偽セシルスの話だと、この島と魔都とはずいぶんと離れた場所にあるらしい。
それだけで、スバルたちに起こったことが非常事態だとわかってもらえるはずだ。魔都からこの島まで飛ばされるなんて、並大抵のことじゃないと。
「助けてもらって、こんなこと言うのは虫がいいってわかってるんですけど、ここに長く居残ってはいられないんです。きっと、仲間が俺たちを探してる! できればすぐに無事を知らせて合流したいんだ」
できるなら、タンザと一緒にここを離れるのが理想だ。
どうしてスバルとタンザの二人が島にいるのかわからないが、きっとヨルナはタンザのことを心配しているだろう。元々、ヨルナを味方に付けるのが目的だったのだから、彼女が喜ぶことをしてもアベルは怒ったりするまい。
それに、スバルはヨルナのことが好きだった。
あの優しい女の人が喜んでくれるなら、それに越したことはないと思う。
「だから、俺は一秒でも早くここを――」
「――そこまで。そこまでだ、シュバルツ」
ぐっと前のめりになり、声を高くしようとしたスバルを巨大な掌が止める。顔の前に突き付けられた二つの右手、それに黙らされ、スバルは「うっ」と言葉に詰まった。
その右手越しに、グスタフは左手で自分の顎と頭を同時に撫でながら、
「君の主張は理解した。おおよそ、置かれた事情も把握したと言えよう。その上で、本職の話も聞いてもらわなくてはならない。それが、公平というものだ」
「公平……」
「そう、公平だ。公正であり、厳正であり、偏りのない真っ平らな基準……秩序と呼ばれるものを構築するのに欠かせない、絶対の理だ」
主張を遮られた上、ゆっくりと重ねて言われる言葉にスバルは眉を寄せる。
公平とか公正とか、焦っている立場だととても悠長に聞こえる。でも、ここでグスタフに逆らっても何にもならないと、スバルはとにかく頷いた。
そのスバルの反応に、グスタフは「よろしい」と片目をつぶった。
「先ほどの本職の話は覚えているな? 君を助けたのはセグムントであり、本職が君と彼女に上陸を許したのは条件付きであったと」
「それは……はい、覚えてます、けど……」
助けられた部分の方に注目がいって、条件の方にはあまり頭がいっていなかった。が、確かにグスタフはスバルに重苦しい声でそう言っていた。
でも、条件とは何だろうか。スバルとタンザを、島に上げる条件とは。
「シュバルツ、君には適切な判断力があり、受け答えに不自由しない知識があり、本職に敬語を使える教育があり、癒者の診断による健康という評価があり、君自身が自己申告した体調に不調をきたしていないという事実がある。異論は?」
「いっぺんに言われると目が回りますけど……たぶん、異論はないです」
「たぶん、というのはいささか説得力に欠けた意見だ。あるか、ないか、だけでは?」
「――。異論は、ありません」
グスタフの眼差しが、スバルに半端な答えを許さない。
そのことに圧倒されながら相手を見返せば、グスタフの目の色も、表情も変わらない恐ろしい石像のような顔面で視線が跳ね返された。
一方的に、グスタフの主導で話が進められている。
それが沸々と嫌な気持ちを大きくしてくるが、とっさの対応策は浮かばない。相変わらず、スバルには情報がない。つまり、選択肢がないのだ。
そのスバルに代わり――、
「ほらね、言ったじゃありませんか。ちゃんとバッスーはグスタフさんの目に適いますって。日程にも間に合わせたし言うことなしでしょう?」
「だが、少女の方は目を覚ましていない」
「それに関してはあれですよ、こう、総督権限とかでうまく調整したり誤魔化したりとやりようはあるでしょう?」
「そうだな。少女が目覚めない以上、規定より一名少ない状態で始めることとする」
「ありゃりゃ、藪蛇しましたか!?」
困惑するスバルを余所に、グスタフと話をするのは偽セシルスだ。
その会話の内容の本筋は見えないが、それがスバルやタンザの話をしていたことと、偽セシルスがうまく話を運べなかったことは読み取れた。
しかも、その失敗のツケを払うのは、偽セシルス本人ではない気がする。
「すみません、バッスー。どうやら僕の助力が可能なのはこのぐらいまでのようです。あとは自力で頑張ってください。きっとやれると信じていますよ!」
「ま、待て待て待て! 話の流れが不気味すぎる! 今のってどういうやり取り? グスタフさん! 俺たちを島に置いた条件って……」
「――『スパルカ』への参加だ」
「すぱ……?」
聞き覚えのない単語、それを高い位置から落とされ、スバルは顔をしかめた。
参加というからには、その『スパルカ』というものはイベントか何かだろうか。この剣奴孤島で開かれる、何かのイベント――嫌な予感しかしない。
そもそも、アルは剣奴孤島での生活は辛く苦しいものだったと言っていた。
そこでのイベントなんて、怖いものか痛いものに決まっている。
「待って、グスタフさん! なんで、俺たちがスパルカに出なきゃいけない!? 俺たちは自分でこの島にきたんじゃないんだよ!」
「捕虜に奴隷、犯罪者……このギヌンハイブに上陸するものの事情は様々だが、望んでやってくるものはほとんどいない。そして本職の役割は、この無法者たちが揃った剣奴孤島に秩序を敷いて、閣下のお望みのために全力で職務に当たるのみ」
「閣下……皇帝の、望みって」
「――この剣奴孤島を、帝国で最も意義ある血の流れる場所へ作り変えること」
噛みついたスバルの血が冷たくなるぐらい、それはひどく渇いた宣言だった。
グスタフの瞳の色や物言い、それらが冷たく揺るがないと感じていたが、それは間違いだった。グスタフを表現するなら、もっと相応しい言葉があった。
まるで、そう、まるでロボットみたいに無機質で、冷たいのだ。
その印象の変化に息を呑み、硬直するスバルを「シュバルツ」とグスタフが呼んだ。
そして彼は、自分と比べてはるかに小さいスバルを見下ろしながら、
「皇帝閣下、とお呼びしろ。一度は注意、二度目は警告、三度目はない」
「……う」
「それと、重ねて通告しておくが、『スパルカ』の拒否は許可しない。もしも君が『スパルカ』への参加を拒むなら、少女共々、本来の運命を辿らせる」
「本来の運命って、なんだよ……」
「セグムントの嘆願を拒み、上陸を不許可とする。――すなわち、湖水で生きる水棲の魔獣の餌食となるだけだ」
あっさりと、グスタフは一切の躊躇いなくスバルの未来の選択肢を摘んだ。
拒否するなら死んでもらうと、子ども相手にはっきり告げてくる大男。血も涙もないとはこのことで、小さくなっても辛い目にしか遭わない自分の不運も呪いたくなる。
普通、子どもにはもっと優しくするものではないのか。
それとも、強いモノが偉いヴォラキア帝国では、弱いという理由で子どもが次々と殺されてもそれが平然とまかり通るのか。
「もしそうなら、そんな国滅んじまえ……」
「意図は不明だが、その悪罵を許そう。あらゆる言論を封じてしまえば不満が溜まる。大いなる愚行の芽とは、不満を苗床に、反感を水として育つものだ」
ゆるゆると首を横に振り、グスタフが歯を食い縛るスバルの肩を掴んだ。
自分の頭も楽々と掴める掌に捕まって、スバルは抵抗できない。いっそ、無理やり抵抗してここから逃げ出すことも考えたが――、
「そのやり方はおススメしませんよ、バッスー。たぶんもっとひどい目に遭っておしまいです。これは僕の老婆心というよりかはそうなるとつまらないなぁという気持ちが強めのお願いになってしまうんですが」
「お気持ち表明ありがとう。くたばれ、セッシー」
「わあ、ちゃんと助けたのにひどい言われよう。とはいえ、そう言いたくなるバッスーの気持ちはわからないでもないので怒りませんとも」
さりげなく偽セシルスに入口を塞がれ、スバルは最後の抵抗心を奪われる。
結局、敵味方がはっきりしない偽セシルスに、置かれた状況の憤懣を汚い言葉でぶつけてみても、彼の反応は暖簾に腕押しで手応えがなかった。
とにかく、スバルはろくでもない『スパルカ』というイベントに参加させられる。
拒否すれば魚の餌にされて、ちゃんと言いなりになれば――、
「資格を証明すれば、本職が総督として責任を持って君を剣奴として迎えよう」
「……それ、最高だね」
うまくいっても奴隷になって、うまくいかなかったら魚の餌にされる。
小さくなってから一度もいいことがないと言ったが、それは訂正しよう。
――このヴォラキア帝国にきてから、一度もいいことが起こっていない。
「……ヴォラキア帝国、大っ嫌い」
スバルの憎々しげな恨み言は、まるで眠り続けるタンザに配慮したみたいに小さく、静かでか細いものだった。
そして――、
△▼△▼△▼△
――熱気が、会場を押し包んでいるのが全身で感じられた。
薄気味悪いことに、降り注いでくる視線の数は多くとも、ほとんど喧騒はない。
静かな興奮や狂気というべきか、静寂がうるさく感じられる珍しい体験をさせられる。
ただし、そのことに怒りを覚えたり、文句を口にする余裕はスバルにはない。
「クソ、クソ……冗談じゃねえ、最悪だ……!」
「やってやる、オレはやってやるぞ……」
「黙っていろ! 貴様ら、私の指示に大人しく従え! そうすれば死なずに済む!」
そのうるさい静寂を切り裂くのは、スバルのすぐ近くにいる三人の男たちだ。
それぞれ、岩のような肌をした蜥蜴人と、多くの刺青を体に刻んだ禿頭の男、それと錆色の髪を長く伸ばした整った顔立ちの青年だ。
みんな、育ちも人種も違った顔ぶれだが、一個だけ共通点がある。
それは、スバルを頭数に入れていないことと、命懸けの緊張が目に宿っていること。
そしてこのままだと、誕生日は違っても、命日は同じになることだ。
「――諸君、まずはよくぞこの島へ上陸した。帝都におられるヴィンセント・ヴォラキア皇帝閣下もさぞかしお喜びだろう。その皇帝閣下より、直々に剣奴孤島の管理を任された総督として、諸君に栄誉ある試練を与える」
そう声高に言い放ったのは、高い壁の上の特等席から剣闘場を見下ろすグスタフ・モレロ――剣奴孤島ギヌンハイブの総督であり、この地の興行を仕切る人物。
そして、そのグスタフの足下――剣闘場へ戦士を送り出す通路の柵が開くと、暗闇の中からゆっくり、ゆっくりと姿を現すおぞましい異形。
赤い瞳を備えた獅子の顔と、蹄のある鹿のような四本の足。ねじくれた角と牙に、恐ろしく長い尻尾と、グスタフの巨漢すら小さく見せる巨大な体。
その口から涎と唸り声をこぼしながら、のしのしとやってくる魔獣――違う、ここでは剣闘獣と呼ばれている、恐ろしい敵。
それこそが、スバルと、他の三人が立ち向かわなくてはならない相手であり――、
「――皇帝閣下の望む、強靭な帝国民としての威信を証明せよ!」
――『スパルカ』という、剣奴となるための野蛮な試験の試験官であった。