第七章57B 『大馬鹿と呼ばれて構わない』
――ナツキ・スバルの行方がわからなくなり、エミリアは人生で一番慌てふためいた。
「お願い、スバル。――どうか、レムと一緒にへっちゃらでいて」
プレアデス監視塔を襲った影の暴威、それにスバルとレムの二人――否、正確にはその二人だけでなく、もう一人の不確定要素が一緒に飛ばされたことがわかっている。
それでエミリアが大いに取り乱さなくて済んだのは、スバルとレムの二人と繋がりのあるベアトリスとラムが、二人の生存だけは保証してくれたからだ。
もちろん、命があっても、危ないことや怖い目に直面している可能性はある。
むしろ、知らない土地で眠っているレムを助けなくてはいけないのだから、スバルが無茶をするのは絶対の絶対だった。なのに、そのスバルの傍にエミリアも、ベアトリスもいてあげられないのだから、それはもう大慌てである。
「早く、スバルたちを見つけてあげないと……!」
その決心と共に、エミリアとプレアデス監視塔の攻略に赴いた一行は動き出した。
まずは、スバルが飛ばされたと思しき南のヴォラキア帝国――現在、ルグニカ王国との行き来を禁じているかの国に、何とか潜り込む方法を探さなくてはならない。
「ウチたちはカララギの方から攻めてみるわ。元々にらめっこしてるルグニカとヴォラキアより、カララギの方が警戒緩いかもしれんもん」
とは、スバルの捜索に協力を約束してくれたアナスタシアの言だ。
アナスタシアたちも、ユリウスやエキドナ含めてプレアデス監視塔での鮮烈な体験があり、決して余裕のある立場ではなかったと思う。
それでも、スバルたちのためにそう申し出てくれて、エミリアはすごく嬉しかった。
「私、アナスタシアさんとお友達になれてよかった」
「まぁ、お友達とはちょこっと違うと思うわ。相変わらず、ウチとエミリアさんの立場は競合相手のまんまやし。でも」
「でも?」
「ナツキくんのことも王選も、全部片付いたらお友達になろか。エミリアさんと同じで、ウチもあんまり友達いないんよ」
気安い調子でそう言って、アナスタシアは力になることを約束してくれた。
そんなときではないとわかっていても、エミリアはその約束――スバルの捜索もだが、彼女と友達になる約束が果たされる日が待ち遠しいと思えた。
そして――、
「アナスタシア様がカララギから渡られる算段なら、こちらはシンプルにヴォラキアとの国境を渡る術を探すのが得策でしょうねーぇ」
プレアデス監視塔から戻ったエミリアたちと合流し、差し迫った事態を理解したロズワールは、すぐにでもスバルを探したいというエミリアの意見を尊重してくれた。
ただし、ロズワールの地位や力を使っても、ヴォラキア帝国に入るのは簡単なことではないらしい。飛んで入ろうにも、飛竜に齧られてしまうそうだ。
ロズワールの賛同が得られても、帝国へ入るのは容易くはない。
何より、帝国と言ってもとても広いのだ。どうにか入国したとして、スバルたちをポンと見つけられるかどうかはわからない。
ますます焦ってしまう状況の中、打開案はやっぱり頼れる彼からもたらされた。
「ヴォラキア帝国に入る方法ですが、心当たりがないわけではありません。ただし、あまり褒められた方法じゃありませんし、危険もあるんですが」
そう、切り出すのを躊躇いながら切り出したのは、エミリアたちの帰還と合わせて屋敷に戻ったオットーだった。
水門都市プリステラで療養していた彼は、一緒に残ったガーフィールと共に戻り、エミリアたちを大いに悩ませる難題にそう希望の道を示してくれたのだ。
ただし、その方法というのがズバリ――、
「――密入国です。ピックタット……ルグニカの南にある五大都市、僕の実家があるその街からなら、入り込む手段を用意できるかもしれません」
密入国とは正規の手続きや段取りを踏まず、こっそりと国を渡るということだ。
オットーの言う通り、褒められた手段ではないし、もしも見つかった場合のことを考えれば、とても危ない選択肢であることは否めなかった。
でも、他に方法がないのだとしたら。
「スバルたちのために、私たちができることを全部しなくちゃ」
強い覚悟を決めて、エミリアは自分の決心をみんなに伝えた。
そのエミリアの決心に、ラムやオットーは色々と注文を付けたものの、誰も「やめよう」とは言わなかった。みんな、スバルの無事を祈っていた。
それが、エミリアには何より一番誇らしかった。
「何としても、スバルを無事に連れ戻すのよ。やってやるかしら」
「ええ、ホントにそうね。――頑張りましょう」
きゅっと、スバルと離れ離れで不安がっているベアトリス、彼女の小さな手に手を握られて、エミリアはそれを優しく、力強く握り返して応えた。
そして、オットーの故郷で、オットーの命を狙う古馴染みとの一悶着や、国境越えの密入国を手引きする集団とのペトラの男前交渉、フレデリカの特別な体質を巡った花嫁騒ぎなどを起こしつつも、一行はスバルたちを探して国を渡り――、
「――そこまでよ」
そう、狂乱渦巻く城郭都市に、雪をもたらしたエミリアはそう宣言したのだった。
△▼△▼△▼△
「――――」
いくつもの建物が倒壊し、きっと綺麗だった街並みが見る影もなく崩れ去った光景。
そしてなおも、右へ左へ空を行き交う大きな影が、その翼を駆使して人々の生活を打ち壊していくのを遠目に、エミリアの怒りは高まる一方だ。
どうして、こんなにひどいことができてしまうのか。
もっと他にやり方はなかったのか、ちゃんとそれを探す努力をしたのだろうか。
でも、そう考えるエミリア自身も、この瞬間に戦いを止める方法を、自分の力を用いる以外に思いつかなくて、それが悔しい。
だから、エミリアは精一杯悔しがって、この悔しさを忘れないようにしようと思う。
そのために――、
「――アイスエイジ」
そう呟いたエミリアの周囲、猛烈な勢いで世界から熱が失われていく。
ゆっくりと空気が冷えていって、冷まされる空からはちらちらと白い雪の結晶がちらつき始める。急速に、逃げ場なく、エミリアは街の周りを寒さで覆った。
やりすぎないように気を付けて、注意深く、魔法の力を調整する。
うっかり調整を失敗して、この街をエミリアの故郷の、エリオール大森林のように氷漬けにしてしまうわけにはいかない。もちろん、あとで溶かすことを考えても、レグルスの花嫁たちのように、仮死状態にするほど冷ますのも厳禁だ。
エミリアのすべきことは、寒さを知らない帝国の地に、耐え難い氷季をもたらすこと。
身を切るように冷たい風が、降り積もる白い雪の結晶が、吐く息が白く染まる魔氷の季節が、この飛竜災害に見舞われる城郭都市を覆うこと。
そうすれば――、
「竜種は寒さに弱い。まして、凍えるような寒さを知らぬ飛竜となれば、その過酷さはより顕著に翼に応えようよ」
そう言って、エミリアの立つ半壊した城壁の上に、軽い足音と共に人影が飛び乗る。
そちらにちらと目を向けて、エミリアは「ええ」と頷いた。
「飛竜は寒さに弱いって、飛び出す前にペトラちゃんが教えてくれたの。すごーく勉強熱心で、帝国のこともすぐ詳しくなっちゃうのよ」
「従僕の知恵を頼ったか。道理で、巡らせる知恵もない半魔にしてはまともな策を打つと思わされたものよ」
「そんな言い方しなくてもいいじゃない。それに、私がハーフエルフだってなんで……あれ?」
と、相手の言いように唇を尖らせたエミリアが、その紫紺の瞳を丸くする。
赤いドレスを纏い、橙色の長い髪を冷たい風になびかせる女性、記憶にある姿とは髪型が違っていたけれど、そこにいたのは――、
「え、プリシラ? なんでこんなところにいるの? ここ、ルグニカじゃないのよ?」
「そっくり同じことを貴様に返してやる。もっとも、貴様が帝国に足を踏み入れた理由の心当たりはあるが……よくぞ国を渡ったものよ」
「あ、方法は内緒ね。言っちゃいけないことになってるから。あと、私が誰なのかも隠さなきゃいけないんだって。だから、気を付けてね。私は……」
まさかの再会、南の異国で見るはずのなかったプリシラの姿に、エミリアは驚きながらも奇妙な感慨を得ながら応じる。
とはいえ、驚いてばかりもいられない。エミリアが帝国に入った方法は横紙破り、いわゆる悪いことなのだ。
それを、ちゃんとプリシラに明言しておかなくてはと。
だが――、
「――! プリシラ、危ない!」
告げる言葉を中断し、エミリアはプリシラに注意を促した。
次の瞬間、「ち」と舌打ちするプリシラが飛びずさり、彼女がいた場所を猛烈な勢いで回転する刃――飛翼刃が抉り取る。
ボロボロの崩壊寸前の城壁、それは刃の切れ味に綺麗に削られ、逆に奇跡的な崩壊を免れることとなった。その刃を躱したプリシラも、ドレスの裾をはためかせながら、今度はもっとエミリアの近く、すぐ傍らへと着地する。
そして――、
「次から次へと、なんなんだっちゃ、お前たち」
手元に戻った飛翼刃を片手で受け止め、憤怒を孕んだ少女の声がエミリアに届く。
見下ろせば、破壊された街並みの中、通りにポツンと立っている角を生やした少女が瞳を輝かせ、並んだエミリアとプリシラを睨みつけていた。
どうやら、あちらもとても怒っている。でも、エミリアもとても怒っている。
故に、エミリアはビシッとその少女を指差して、
「私の名前はエミリ……エミリー! 通りすがりの精霊術師よ!」
危うく、勢いで本名を言いそうになったが、事前に打ち合わせていた偽名を名乗ることに成功する。そのエミリアの啖呵にプリシラが目を細め、名乗られた少女は瞳の警戒を際立たせながら、「精霊術師……」と呟いた。
「あの犬人と同じだっちゃか……?」
「もしも、貴様の考えているのがアラキアのことだとすれば、あれは『精霊喰らい』であって精霊術師ではない。考え違いじゃぞ、マデリン・エッシャルト」
「ぐ……っ」
その少女――マデリンの考えを読み取ったように、プリシラの指摘が彼女の頬を強張らせた。ただ、今の話はエミリアも聞き逃せないものがあった。
「『精霊喰らい』ってなに? 精霊をどうするの?」
「聞いての通り、精霊を喰らう。その力を己の内に取り込み、十全に使う存在じゃ。ほとんど失伝し、帝国でもアラキアぐらいしかおらぬ」
「精霊を食べちゃうの!? そんな、ひどい……」
精霊術師であり、自身も多数の微精霊と契約するエミリアには信じられない話だ。
もしもパックやベアトリスが、その『精霊喰らい』と出会ったら、パックたちも体を齧られたりしてしまうのだろうか。考えただけでも可哀想だ。
ただ、そんな起こっていないことへの不安より、今は目の前の問題が優先。
「あなた、マデリンちゃん?」
「……竜を見くびるな、半魔」
「なら、ちゃんと話しましょう、マデリン。あなたが、あの飛竜たちに街を襲わせてる張本人でしょう。それをやめてほしいの、今すぐに」
視線を遠くへやり、エミリアはマデリンの暴れた範囲の外、都市の反対側で攻撃を続けている飛竜の群れを見やる。その動きはわずかながら、先ほどまでと比べたら鈍っているようにも見受けられた。
エミリアの力で気温が下がり、飛竜たちの活動力に影響を与えつつあるのだ。
このまま続ければ、飛竜たちを軒並み地上へ落とすことも可能だろう。だが、できればそれはしたくない。飛竜だって、死なせたくはないのだ。
「あなたが飛竜を大事に思ってるんなら、私のお願いを聞いてほしいの」
「――――」
「マデリン?」
できるだけ誠実に、エミリアは自分の言葉を伝えたつもりだ。
もしかしたら、オットーやラム、ペトラの方がうまく話せたかもしれない。でも、飛竜の群れに襲われる街を見たとき、大急ぎで駆け付けられるのはエミリアだけだった。
一番乗りしてしまった以上、エミリアは全力でやれることをする。
その結果――、
「竜に願うなんて、思い上がりも甚だしいっちゃ、人間……!」
そう、マデリンの怒りを爆発させてしまったのだとしても。
「――貴様でなくとも、誰であろうと説き伏せられまいよ。あれは竜人、もとより、地に根を張るものの言葉に耳を貸すほど、殊勝な生き物ではない」
怒りに満ちたマデリンの答えと、それを聞いて息を詰めるエミリア。両者のやり取りを無言で聞いていたプリシラが、決裂した交渉の所見を述べる。
それが自分を励ましてくれているみたいで、エミリアは目を丸くした。
「プリシラ、いつも私に意地悪ばっかり言う子だと思ってたのに」
「見合わぬものに見合わぬと、そう述べることを邪険と妾は思わぬ。慈悲深い妾の言葉を曲解するでない。――さて、如何にする」
「うん」
頷きながら、エミリアは伸ばした左手に氷の髪留めを作り出した。その髪留めを差し出され、プリシラが胡乱げに片目をつむる。
そのプリシラの反応にエミリアは頷いて、
「一緒にあの子を止めましょう。意地悪しちゃダメよ」
「妾の行いを、稚気の表れなどと貶めるな、半魔風情が」
憎まれ口を叩くプリシラが、エミリアの手から髪留めを受け取り、自身のはらりと散った長い髪をまとめ、留める。氷の留め具が噛み合う音がして、プリシラの雰囲気が見知ったそれに戻ると、エミリアも眼下のマデリンに向き直った。
そして――、
「――竜を相手に、恐れを知らない奴らはうんざりするっちゃ」
「私、ちょっと前におっきな龍とケンカしたばっかりなの。だから」
「――ッ」
「あなたが怖がってほしくても、あなたを怖がってなんてあげられないわ!」
白い牙を見せるマデリンの威嚇に、エミリアがはっきりとそう答える。
直後、マデリンの瞳が地竜のように細くなり、手にした飛翼刃が猛然と、凄まじい速度と勢いでエミリアたちに向かって投じられた。
回転しながら迫ってくるそれを見て、エミリアは両手に氷の大槌を生み出した。
その飛翼刃の回転に、エミリアは真下から振り上げる氷槌の一撃を合わせ、弾き飛ばそうとする。
「う、んしょ!!」
強烈な反動が両手にかかり、踏み込んだエミリアが頑張って氷槌を打ち上げる。かろうじて、一撃が飛翼刃の軌道を逸らし、刃はエミリアとプリシラの頭上を抜けた。
しかし、信じられない威力に氷槌は砕け散り、エミリアは自分の手を見下ろして、
「すごい力……私より、ずっと力持ちかも……っ」
「当然だっちゃ! 竜と人を、同じ物差しで比べる方が間違い――」
小柄な体で前に踏み出し、痛がるエミリアに勝ち誇るマデリン。――そのマデリンの頭上に、都市庁舎よりも大きな氷塊が天墜した。
「――ッ!?」
氷塊の突然の出現と、その規模と重さに喉を詰まらせ、マデリンの姿が押し潰される。
冷たい衝撃波が彼女を中心に全方位へ溢れ出して、白い風が瓦礫や壊れかけの建物を吹き飛ばし、甚大な破壊をもたらした。
「貴様、どの口で街を壊すなと?」
「え! でも、今のところはもう壊れちゃってたから……」
「大味な物の見方をする。さぞや、貴様の従僕は気が重かろうよ。とはいえ、貴様もようやくわかろう」
「ようやく、わかる?」
氷塊の落ちた地点を眺め、プリシラが腕を組んで目を細める。その横顔に問いかけるエミリアだが、答えはプリシラの唇と、目の前の光景の両方から同時にきた。
マデリンを押し潰したはずの氷塊、大地に突き刺さったそれがわずかに震え、まるで世界がひび割れるような大きな音が氷塊そのものから響き始める。
それは、地面に落ちたはずの氷の塊、その着弾点で腕を突き上げた少女を起点に。
「――竜人が、如何に厄介な存在であるかをだ」
プリシラの言葉の直後、轟音と共に長大な氷塊が真っ二つに割れた。
破壊の衝撃が全体に伝い、砕かれる氷が端からマナの塵へと変わっていく。その、氷片舞い散る光景のど真ん中で咆哮し、龍の化身たる竜人が二人へ飛びかかった。
△▼△▼△▼△
――凍える風が荒れ狂い、破壊の衝動が跋扈する戦場を麗人たちが舞い踊る。
遠目にその戦いを見るものがいれば、あまりの荘厳さに目を疑っただろう。
果たしてそれは現実か、それとも夢幻の類なのか。
「――ッッ!!」
地面を踏み砕くほどの力を込め、矮躯の竜人が旋回する『死』を投擲する。
弧を描き、途上の全てを薙ぎ払う破壊の飛刃は、その暴虐的な脅威と裏腹に美しく世界を裁断し、切り裂いていく。
もしもこれが絵画の一枚であったなら、あるいは只人の審美眼には破壊ではなく、世界を美しく削ぎ落とすための剪定とすら映ったかもしれない。
そのぐらい、マデリン・エッシャルトの怒りは洗練された本能的暴威だった。
しかして――、
「プリシラ! あげる!」
氷の足場を中空に生み出し、投げ込まれる飛翼刃を避けながら銀髪を躍らせる天上の美貌、それが地上に向けて手を振るうと、原形を失ってしまった街路が凍り付く。
凍結する大地、それが隆起して生まれるのは、装飾の美しい氷の剣だ。
それを、駆け抜ける美姫がすり抜け様に大地から引き抜き、
「妾でなければ指が落ちるぞ。――だが、装飾は悪くない。使ってやる」
青白い絶氷の斬撃が走り、マデリンの体を斜めに斬撃する。
しかし、その小さな体に如何なる力を秘めているのか、一撃されたマデリンは軽くのけ反るばかりで、代わりに一撃した氷の剣の方が砕ける始末。
そのまま、マデリンが近付いてきたプリシラにその手を伸ばすが、
「とやぁ!!」
その暴挙を許さぬと、真上から落ちてくるエミリアの両足がマデリンを打つ。
回転しながら打ち下ろした両足に氷の具足を穿いたエミリア、少女の両肩を打ち砕く容赦のない攻撃が、頑健なマデリンに一歩踏鞴を踏ませた。
刹那――、
「お願い!」
「指図するでない」
着地したエミリアが地面に両手をつくと、生み出される氷の双剣をプリシラが奪い、しゃがむエミリアを飛び越えてマデリンへ斬りかかる。
右手と左手、プリシラの握った氷の刃が異なる角度からマデリンに迫り、それをとっさに彼女は伸びた両手の爪で受け止め、甲高い音が鳴り響く。
「図に乗るんじゃ……ッ!?」
「えりゃあ!」
双剣を打ち払い、反撃に移ろうとしたマデリンの顔面に、プリシラの頭の真横を抜けた氷の穂先が突き出される。とっさに身を傾けるマデリン、そこにプリシラと入れ替わりに前に出るエミリアが氷槍を目にも止まらぬ速度で突き放つ。
「代われ」
その槍をマデリンがしのぎ切れば、続いて氷の剣舞を披露するのはプリシラだ。
赤いドレスの裾を翻らせ、青く輝く氷の双剣を流麗に振るい、白く凍える世界で舞い踊るプリシラの剣舞が、マデリンの全身を打ち据え、押し下がらせる。
「――なんで、なんでなんでなんで、なんでだっちゃ!?」
プリシラの双剣の対処に追われ、防戦一方の己にマデリンが絶叫する。
だが、プリシラの猛攻は緩まない。さらにマデリンにとって悪夢の如く、プリシラが剣舞の足を止めれば、
「とりゃ! そやや! えいたぁ!!」
息つく暇もなく飛び出してくるエミリアが、次から次へと氷の武装を生み出し、尋常ならざる対応力を駆使し、力一杯にそれらを叩き付けてくるのだ。
――プリシラが技で、エミリアが力で、マデリンの攻防を完全に封じ込めてくる。
飛翼刃で薙ぎ払い、叩き付け、振り回し、投げつける。
竜人の生まれ持った身体能力は、ひ弱な人間などとは比べ物にならない。人間より多少頑丈な亜人であろうと、竜人の前では枯れ枝も同然だ。
それは忌まわしくも、竜人と並べられることのある鬼族であっても同じこと。
竜人と鬼、最強の種族などと並べて語られることもあるが、とんでもない話だ。
所詮、鬼族など亜人の中の優れた血でしかない。竜人は、それらと根底から異なる。
竜人とは亜人ではない。人族に連なる種とは根っこから違う。
竜人とは人に非ず。――だというのに、何故、こうもうまくいかない。
「お前らはなんだっちゃ……なんなんだっちゃ!」
怒りに任せた攻撃が空振りし続け、ついには吐き出す怒りも尽きてしまう。
そうして竜の怒りが尽きたあとに残ったのは、みっともなく裏返る竜の嘆きだ。掴んだ飛翼刃を横薙ぎに振るい、それをエミリアが屈み、プリシラが飛んで躱した。
そして上下、二手に分かれた二人はマデリンの嘆きに同時に答える。
お前はなんだと、そう問われ――、
「――エミリー!」
「妾である」
振り上げられる氷の大斧と、閃く二振りの氷の刃が、それぞれマデリンを直撃する。
氷の刃に鋭く頭部の角を打たれ、その胴体に氷斧の猛撃を受けたマデリンが、受け身も取れずに真後ろへと吹っ飛んでいく。
戦いの中、やまぬ雪が薄く積もる地面の上を、マデリンの体は一回、二回と高く弾み、そのままの勢いで瓦礫の山へ飛び込んで、白い噴煙が大音と共に上がった。
「――――」
マデリンの手を離れ、飛んでいった飛翼刃が背後の城壁に激突し、城郭都市を南方の脅威から守り続けた壁はついにその役目を終えた。
大きな音を立てて崩れる城壁を最後に、エミリアはゆっくりと体を起こし、マデリンが下敷きになった瓦礫の山を油断なく見据える。
「……やっつけた、かしら」
「相応の手応えはあった。生憎と、歯応えはなかったがな」
「歯応え……?」
隣に進み出るプリシラ、その手の中で双剣が塵と化すのを見届けて、エミリアは首を傾げる。何となく、プリシラの口元を見てしまうが、何も食べていない。
そのエミリアの視線を、プリシラはその紅の瞳で見返して、
「竜人の上、『九神将』の地位にあるにしてはこの程度か、と言っておる」
「その、キューシンショウもだけど、リュウビトって何なの? 亜人なのよね」
「古に滅んだとされる種族よ。もはや、この世界で見かけることもなくなった龍と通じ合う力を持つという話じゃったが、迷信俗信の類であったか」
「龍……それって、ボルカニカとも話せる? ボケちゃってるんだけど……」
おずおずと切り出したエミリアに、プリシラがわずかに眉を上げた。それから彼女は、その口元にそっと指を当てて、
「よもや、貴様の口から然様な言葉が飛び出すとはな。いくらか見違えたか?」
「――? あ、もしかして冗談だと思ってる? 全然冗談じゃないの。実は、少し前にボルカニカと会ったんだけど、ずっと一人だったせいでボケちゃってて……」
信じる気のないプリシラの反応に、エミリアが慌てて抗弁する。が、エミリアはすぐに「いけない」と優先すべきことを思い出して、
「やっつけたんなら、マデリンに飛竜を止めさせなくちゃ!」
「この寒さであれば、動きの鈍った飛竜など遠からず全て狩られようよ」
「その間も危ない人はいるの! スバルとレムだって、危ないかもしれないのに……」
「――ふむ」
プリシラの横を飛び出し、エミリアがマデリンの埋まった瓦礫に向かう。その背中越しに交わされたやり取りに、プリシラが形のいい眉を顰めた。
もっとも、その反応はエミリアには届かず、彼女は長い足で瓦礫を跨いで、埋まっているマデリンを掘り起こそうと、氷の掘棒を作り出し、瓦礫に突き立てていた。
ともあれ、その背を眺めながら、プリシラは小さく吐息をつく。
一手、思いがけずに届いたそれが導いた結果、それ自体は良しとしよう。だが、マデリンと飛竜がもたらした甚大な被害、それは消し去れるものではない。
最悪、拠点を魔都カオスフレームへと移すことや、協力者であるセリーナ・ドラクロイ上級伯を頼るということも視野に入れなくてはなるまい。
「いずれにせよ、まずは翼を畳ませてからとなろう」
先々のことに思いを巡らせるのを一時止め、プリシラは白く曇る空を仰いだ。
エミリアの保有する絶大なマナはどれほどのものか、限られた範囲とはいえ、気候の変動に等しい力を発揮するのは、やりよう次第でいくらでも手を選べる。
無論、ヴォラキアで重宝されるものが、ルグニカで尊ばれるとは限らない。いっそ、ヴォラキアで生きると決めれば、無為に時を浪費せずに済むだろう。
もっとも、性質はともかく、エミリアの性格ではヴォラキアを生きれまいと――、
「――――」
そう、空に思考を描いていたプリシラの瞳が、微かに揺らめいた。
宝玉のような紅の瞳が揺れたのは、見上げた大空にわずかな違和を捉えたからだ。
そして、その違和の正体をプリシラが理解するのと――、
「いた! マデリン、今出してあげる。でも、大人しく私たちの話を……」
「――ぁ」
「え?」
瓦礫に埋もれた少女を見つけ出し、エミリアが氷の掘棒で建物の破片をどける。土埃で汚れた雪に塗れ、服を汚して仰向けに横たわる竜人の少女。
その唇が動いて、掠れた声が漏れたのにエミリアは耳を澄ませた。
負けを認め、飛竜を退かせるという意味の言葉を期待して。
しかし、エミリアの期待も空しく、マデリンの唇が紡いだのは敗北宣言ではなかった。
呟いたのはたった一言、名前だ。
「――メゾレイア」
――次の瞬間、雲上からの『龍』の咆哮が地上へと破壊を降り注がせた。
△▼△▼△▼△
天空から白い光が放たれた刹那、エミリアとプリシラは同時に動いていた。
音もなく、合図もなく氷の塔が生み出され、地上から伸びる塔の頂には銀と紅、二つの美貌が踊り込む。
地上十数メートルへ一瞬で伸び上がった塔の頂上、エミリアは両手を空に掲げ、白い光の着弾が予想される範囲に巨大な氷の天蓋を作り出す。
そうして作り出した天蓋の内側に、それより一回り小さい天蓋を、さらにその内側にはもう一回り小さい天蓋を、それを繰り返し重ね、六枚の氷の天蓋が空を覆った。
そして、エミリアが氷雪の防護を組み立てる裏側で、プリシラはそのすべらかな指を虚空へ伸ばし、空間を鞘とする『陽剣』を引き抜く。
赤々とした輝きと、目を奪われる宝飾の数々で彩られた珠玉の宝剣、しかし、その内から溢れる光は万全のときと比べるべくもなく弱々しい。
それでもなお、プリシラは宝剣を構え、頭上を仰いだ。
次の瞬間、落ちてくる白い光が一番外側の天蓋を直撃し、ほんの一秒ももたず、一枚目の天蓋が、二枚目、三枚目の天蓋が貫かれ、光が地上へ迫りゆく。
だが、貫かれ、破られた天蓋が役目をまるで果たせなかったと言えば、それは否だ。
光を受け、貫かれる瞬間、わずかに光の角度が変わる。
一枚目、二枚目、三枚目と微々たる変化が、四枚目、五枚目とささやかな変化となり、そして六枚目が破られた刹那には、光の入り方は確実に変わった。
真っ直ぐ、白い光が氷の塔へと、頂に立つ二人へと落ちる。
それを迎え撃つように、真紅の煌めきが美しく鮮やかに、そして抗うような一閃となって放たれ――、
△▼△▼△▼△
「――――」
完全に音が掻き消え、生まれて初めて味わう静けさが体感で十秒。
おそらく、実際には一秒にも満たなかっただろうそれが弾けたとき、都市の南側から広がった衝撃波は城郭都市の全方位を満遍なく呑み込み、ひっくり返した。
地面がめくれ上がり、建物は土台から基礎から引き剥がされ、遮蔽物のなかった人間は枯葉のように舞い上がり、大空を泳ぐ飛竜の群れも暴風に殴られる。
容赦なく区別なく、あらゆるものが呑み込まれる衝撃が都市の全員を襲った。
当然、負傷者が担ぎ込まれ、臨時の治療院と化した都市一番の屋敷の中、怪我人の手当てに駆け回っていたフロップも衝撃に揉まれ、壁に背中を叩き付けられた。
「――う」
数秒、あるいは十数秒、もしくは数分単位かもしれない。
強烈な衝撃を背中から受けて、内臓が全部ひっくり返るような感覚を味わった。痛みはあまりないが、遅れてくるのか、もしくは痛すぎて感じられない類のものを負ってしまった可能性も無きにしも非ず。
もし実際にそうだったら、このままなんてことのない毎日を送り、妹のミディアムが無事に幸せな生活を送れるようになるのを見届け、自分も世界への復讐を見事にやり遂げた達成感を味わい、老いて寿命で死ぬ寸前まで気付かないでいたい。
そこまでいったら、傷で死んだのか寿命で死んだのか区別はつかないはずだ。
「ようしようし、たぶん、深刻な状況ではなさそうだぞぅ……」
保険に保険をかけて、自分の状態を慎重に推し量ってから体を起こす。
手足は動くし、手の指も全部揃っている。耳や鼻が欠けたり、目が潰れていることも幸いなさそうだ。油断は禁物だが、悲観的過ぎてもよくない。
頭を振りながら立ち上がり、フロップは滲んだ視界を拭って周りを見渡す。
元々、本来の厳かかつ壮麗な装いは一転し、屋敷の中は血臭と呻き声が支配する地獄絵図となっていた。そこに今の衝撃が加わり、その惨憺たる有様はより色濃くなっている。
せっかく手当てしたものも、今ので痛みが再燃したか、もっと悪化したものもいるかもしれない。彼らの痛みを和らげ、改めて手を差し伸べなくては。
「執事くんと、ウタカタ嬢も無事かな……」
遭遇したマデリンの相手をプリシラに任せ、フロップたちは屋敷のレムたちと合流し、できることを求めて負傷者の対応を手伝っていた。
両目に炎を灯したままのシュルトも、プリシラを心配しながらもそれを手伝い、どうにか心を落ち着けてきたところだったのだ。
それが、あの衝撃一発でおじゃんにされては浮かばれないというもの。
「いったい、何が……」
と、フロップが周囲の様子を窺う中、そう苦しげに顔を上げる声がした。
見れば、それはホールの奥から顔を覗かせたレムだ。治癒魔法の必要な重傷者の応対をしていた彼女も、先ほどの衝撃に目を回している一人だった。
杖をつくレムは顔をしかめながら、何事が起きたのかと窓から外を覗く。
飛竜が群れで襲ってくることや、『九神将』の一人が力一杯暴れ回ること、それらよりももっと恐ろしいことが起こったのかと、フロップも警戒する。
その途端――、
「――大変っ」
目を見開いて、表情を険しくしたレムが慌て、その足で屋敷の扉へ向かう。外に何を見たのか、大慌てで飛び出していく背中にフロップも「奥さん!」と叫んだ。
痛む脇腹と膝を押して、フロップは外に飛び出すレムを追いかける。すると、彼女は屋敷の前庭に転がり、倒れている人影の傍にしゃがみ込んでいた。
さっきの、外の衝撃で飛ばされてきたのか、またしても怪我人。
しゃがんだレムが相手の様子を確かめているのに近付きながら、フロップは屋敷の中からではわからなかった、先の衝撃のすごさに目を見張った。
「これは……」
ちらちらと、白い雪が舞い降りてくるグァラル。その南の空に厚い雲が何層にもかかっていて、その雲を太陽の光が貫くようにして降り注いでいる。
いっそ、幻想的とさえ言える光景に白い息を吐き、フロップは身を震わせた。
突然、周囲の気温が著しく下がった上、ああした天変地異めいた絶景までもが展開される状況だ。もはや夢ですら、こんな光景はなかなか実現し得ないだろう。
つまり、夢ではないと逆説的に考えて、フロップは首を横に振った。
「フロップさん、手伝ってください。この子を中に運ばないと……」
「うん、わかった。こんな摩訶不思議な空模様の下でも、僕たちができることは僕たちにできることしかないんだ。それを精一杯――」
やらなくては、と振り向いて、フロップはレムを手伝おうとした。そのフロップの青い瞳が見開かれ、言葉が途中で中断する。
理由は明白で、こちらに手助けを求めたレムの背後にあった。
レムの背後、先の衝撃に吹き飛ばされ、彼女が手当てのために屋敷へ運ぼうと提案したその人影は小さかった。小さく、可憐で、頭に二本の黒い角があった。
そして、意識が朦朧としているのか、レムの後ろでゆっくりと体を起こした少女は、その鋭い爪の備わった腕を無造作に振り抜こうとしていた。
「――――」
再び、フロップは音が消え去り、時間の流れが実際とズレる感覚を味わう。
こちらを見ているレムは、後ろに迫る脅威に気付いていない。その脅威そのものとなった少女も、レムを傷付ける意図というより、防衛本能のように見えた。
きっと、よほどひどい目に遭ったのだろう。それは同情するが、同情しても状況が変わらないのが辛い話で、困ったものだった。
「――――」
屋敷の護衛を担当しているクーナとホーリィも、おそらく先の衝撃から立ち返るのに時間がかかっている。見える範囲に彼女らの姿はなく、対処は期待できない。
両目を燃やしたシュルト、闘争心を堪えながら手当てを手伝うウタカタ、昏倒したまま目覚めないハインケル、彼らを当てにすることもできない。
目をつむれば、瞼の裏にははち切れんばかりの笑顔を浮かべた妹が見える。
兄に痛い思いをさせないよう、強くなると誓って、本当に強くなった自慢の妹。そんな妹と世界へ飛び出す切っ掛けをくれた恩人、義兄弟、色んな姿が過って。
――自分の命を大事にしろよ、フロップ。自己犠牲なんて大馬鹿のするこった。
いつか、無謀な生き方をするフロップを恩人がそう笑ったことがあった。
今この瞬間、ふと思い出したそのときと、同じことをフロップは言おう。
「僕は、大馬鹿と呼ばれて構わない」
そんな自分の答えを、好きな人たちがみんな手を叩いて笑ってくれたから。
「フロップさ――」
踏み込み、伸ばした手で細い肩を押して、レムをその場から突き飛ばした。
そして、振り抜かれる爪の途上、代わりに割って入る大馬鹿が一人。
――血が散って、フロップ・オコーネルは冷たい地面に倒れ込んでいった。