第七章54B 『蒼穹を覆う』
――突き抜けるような蒼穹が、眼下の人々の営みを雄大な目で見下ろしている。
燦々と瞬いている白い太陽、ゆっくりと流れる大きな白雲。
ぬるい風に首筋を撫ぜられ、薄青の髪をなびかせながら、静かに深く呼吸する。
世界を体いっぱいで感じ、自分がその中の一部であることを自覚する。
ずいぶんと大仰な言い回しで、大層難しいことを言われたような感覚。ただ、それが今の自分に必要なことと言われれば、疑うよりまず実践する。
自分から望んで教えを乞うた立場だ。まだ日も浅い。投げ出すには気が短すぎる。
とはいえ――、
「……焦る気持ちに、嘘はつけません」
そっと自分の胸に手を当てて、取り込んだ空気が肺の中で力を発揮するのを待つ。
この感覚が、自分の中で肥やしになっているのか、実感はない。それがもどかしく、すぐに成果を求める自分の性分が小憎たらしかった。
――否、もしかしたら、すぐに成果を求めたがるのは自分の性分というよりも、置かれた状況の方が理由なのかもしれない。
自分自身ではなく、この場にいない、別の場所で役目を果たそうとする相手への――。
「――あ! こちらにいらっしゃったでありますか!」
と、静かに瞑想する背中に声がかかり、止めていた呼吸を思い出した。胸に溜め込んだ空気を吐きながら、後ろに振り返ると、小さな影が駆け寄ってくる。
ふわふわの、桃色の髪を揺らす幼い少年だ。愛らしい顔立ちに桜色のほっぺ、短いズボンを穿いた白い生足が眩しい、そんな危うげな子だった。
十一、二歳くらいに見えるその少年は、こちらの目の前にやってくると微笑み、
「プリシラ様がお呼びであります! 一緒にきてほしいのであります!」
「わかりました。わざわざ、ありがとうございます、シュルトさん」
「とんでもないであります! お礼を言われることなんて、ないでありますよー」
とは謙遜しつつも、嬉しそうに頬を染める少年――シュルトの様子に口の端が緩む。
が、彼の持ってきた用事が用事だ。へらへらと笑ってもいられない。
そう考えて、緩んだ頬を引き締めると、小さく吐息をついて頷き――、
「では、一緒にいきましょうか」
「はいであります! レムさんと、ご一緒するであります!」
ぴょんと跳ね、頭に手を当てて敬礼するシュルト。そのシュルトの勢いに少し驚きながらも、少女――レムは頷いて、二人で呼び出しの主の下へ向かう。
城郭都市グァラルでの、レムの仮初の主人であるプリシラ・バーリエルの下へ。
△▼△▼△▼△
城郭都市グァラルの陥落――ひどく馬鹿げた作戦が実行され、結果的に最小限の人的被害で都市の攻略が完了してから十日ほどが経過した。
幸い、都市の混乱は少なく、帝国兵の指揮官であるズィクル・オスマンの手腕と、族長を妹へ譲り渡しても影響力の薄れないミゼルダの統率力がものを言った形だ。
二人の存在が武力を有するものたちの暴走を抑え、混乱や悲劇の発生を未然に防いだ。
無論、都市にいるのはそうした戦えるものたちだけではない。
むしろ、それらと比べて圧倒的に数が多いのは、戦と無縁の町人たちの方だ。ただ、戦いを生業にしていなくとも、グァラルの町人たちは血気盛んだ。
当初は、ほとんど戦いもせずに都市庁舎を占拠され、実権を奪われたズィクルや帝国兵に対する蔑視は強かったと聞く。
ただし、そうした町人の不満はすぐに掻き消えた。
それというのも――、
「より強きに従うのが帝国の習わし。なれば、口先だけのもの共より、妾の行動に義があるのは誰の目にも明らかであったろう」
「それは……」
「それとも、頭を垂れて嵐を耐えしのぎ、風がやめば壊れた家屋を直せと声高に叫ぶ。かようなものの言葉にこそ価値があるか?」
「いくら何でも、極端な例でズルいと思います」
単純な立ち位置だけでなく、一段上から相手を見るものの言い方。その逃げ場を封じるやり口に対し、レムは静かにそう言い返した。
その答えに一拍の間があり、それから「く」と微かに喉が鳴る音がすると、
「妾を卑怯と、そう悪罵するか。なるほど、命知らずもいいところじゃな、レム」
「命が懸かっていれば、命知らずだと思います。でも、プリシラさんはそこまで短気なことはされない方だと」
「妾を、貴様の尺度で推し量ると?」
「元々、他の物差しを持っていませんから」
紅の瞳に見据えられ、しかし、レムは毅然とそう反論する。
記憶を失い、実感のある過去を持たないレムにとって、見るもの全てが新鮮であり、起こす行動の全部が未知の体験だ。
それが結果、相手の不興を買うこともあるだろうが、それを恐れすぎていては一歩も動き出せない。確かなことは、今の自分が始まってからおおよそ二十日――この直近の数日間、レムは死なずに目の前の女性と過ごせている。
故に――、
「ふん、小癪なことを言う。可愛げのない娘め」
と、そうして相手が矛を収めてくれると、何となく期待はできていた。
時折、理解の及ばない理由で不条理を働くこともあるが、基本的には物騒な発言と秘して理性的な女性、それがレムの抱く目の前の女性――プリシラへの印象だった。
豪奢な椅子に頬杖をつき、膝の上で本を広げているプリシラ。そうして宮殿か大屋敷の主の如く振る舞う姿が非常に絵になる彼女だが、あくまでここは借り物だ。
現在、城郭都市に滞在するプリシラは、都市で最も大きな屋敷を接収し、そこを住まいに悠々とした日々を過ごしている。屋敷は都市庁舎を除けば都市で一番大きな建物で、二、三十人が暮らせそうな広さを贅沢に無駄遣いしている。
もちろん、接収に関して本来の屋敷の所有者からは反発もあったが、それは帝国の流儀――野蛮な流儀によって、少量の血が流れる形で決着した。
すなわち、互いの主張を通すための実力行使――、
「――――」
ちらと、レムは視線を部屋の片隅へと向ける。
プリシラに呼ばれ、彼女の傍仕えの立場にあるものが集められた一室には、レムと笑顔のシュルトを除き、もう一人の人物も姿を見せていた。
その男こそが、屋敷の扱いを巡った『決闘』で剣を振るった人物だ。
「ハインケルさん」
「……なんだ」
「いえ、なんだか意味深に私を見ていたようだったので、何かあったのかと」
レムの呼びかけに低い声で応じる男が、重ねた問いかけに渋面を作った。そのまま、彼は自らの赤髪を乱暴に掻き毟り、
「大した話じゃない。単に、プリシラ嬢にそんな口の利き方して、怖いもの知らずな娘だって呆れてただけだ」
「命知らずの次は怖いもの知らず、ですか。そういうわけでもないんですが……」
「俺にはそう見えたってだけだ。いちいちケチ付けるなよ」
小さく舌打ちし、男はレムの答えに頭を掻いていた手を振った。
その、燃えるような赤毛に鍛えられた長身、生来の精悍さを無精髭が台無しにした容姿の持ち主は、プリシラの部下の一人であるハインケルという男だ。
城郭都市グァラルにプリシラが残ると独断で決めたのち、元々の拠点から飛んできたのが、このハインケルとシュルトの二人だった。ここにあの兜の男――アルを加えた人員がプリシラの従者たち、ということになる。
「もちろん、今はレム様も僕たちのお仲間であります!」
「勝手抜かすな、チビ。この女はプリシラ嬢の敵のとこの娘って話じゃねえか。俺たちの味方どころか、潜在的な敵だ」
「ええ!? レム様、僕たちの敵だったでありますか!?」
「ええと、それは保留しています」
まん丸い目をぎょっと見開いて、驚き慌てふためくシュルトにレムはそう答える。
ハインケルの言いようは極端だが、それを否定できないのもレムの複雑な立場だ。記憶のないレムの所属、それを確定するには自覚も情報も不足している。
無論、レムのあやふやな立ち位置を確定するのに最も貢献するのは――、
「……あの人が」
城郭都市を離れ、課せられた役割を果たすために旅立った黒髪の少年――ナツキ・スバルの存在が、レムの曖昧な立場を確たるものにするとわかっている。
ただ、それを素直に受け入れ、彼の言葉に耳を傾けられないのもレムの心情だ。
彼の行動や言葉、それをレムに容易く受け入れさせないのは、スバルがその全身に纏っているおぞましい瘴気――否、今やそればかりが理由ではない。
瘴気は確かに、レムがスバルを素のまま見る上で障害となったが、彼の言行に嘘偽りや悪意がないことは、すでにレムも認めている。
素直に彼を受け入れられない理由は、レム自身の足場が不確かであるからだ。
自分自身が何者で、ナツキ・スバルや他の人たちとどんな関係にあったのか。
それと向き合うことができなければ、レムの時間も、止まった足も動かせない。
自分の存在を確たるものとするためにスバルと向き合いたいのに、スバルと向き合うには自分の存在を確たるものとしなくてはならない。
それはもはや、出口のない迷路に迷い込んだようなジレンマだった。
「相当に難儀していると見える。眉間の皺が、そのよい証拠よ」
「それは……事実です。プリシラさんの助言を実践しているつもりですが、その」
「なんじゃ?」
「プリシラさんのお話は、いつも難しいので」
目を伏せ、恥を忍んでレムは自分の無学が理由だと釈明する。
はっきりとは言わないが、プリシラの言葉の選び方は難解で、理解に苦しむ。ましてプリシラは頭の回転が速く、その上で他者を慮ることが滅多にない。
それはアベルとよく似た性質の持ち主――否、似ているのではなく、同じ性質の持ち主と言い換えるべきだろう。おそらくこれを口にすれば、プリシラからもアベルからも不興を買うため、わざわざ言おうと思わないが。
「助言? 助言って何の話だ? プリシラ嬢が、この女に助言を?」
「はいであります、ハインケル様。僕は知ってるであります! レム様は、プリシラ様のお傍で勉強させてもらってるであります! それで、プリシラ様の身の回りのお世話をしていて、僕とおんなじなんであります!」
「おい、おいおいおい、正気か、プリシラ嬢? そんな真似して、いったい何の得があるっていうんだ。敵を育ててやってるだけだろう」
と、詳しい事情を聞かされていなかったハインケルが、レムとプリシラの間の契約について知って目を白黒させる。
彼は壇上のプリシラにのしのしと歩み寄り、レムを指差して口を開く。
「てっきり、小間使いのつもりで傍に置いてるんだとばかり……こっちの陣営の情報が筒抜けになる。わざわざ不利になるなんて、お遊びも大概に……」
「黙れ、凡夫。妾に指図するつもりか?」
「ぐ……っ」
「何度も手痛い目に遭わせてやっておるが、いつまでも学ばぬ男よな。貴様を打つ妾の手とて暇ではない。書物のページをめくる役割がある故な」
膝に置いた本の表紙をなぞり、プリシラがハインケルを睨んで告げる。
特段、プリシラの声音には強い怒りもなかったが、ハインケルは剣でも突き付けられたような反応で息を呑み、一歩二歩と後ろに下がった。
そのハインケルの恐れようが、レムには大げさすぎるように感じる。
もちろん、プリシラの技量が卓越し、その剣力が『九神将』と呼ばれる帝国の強者を退けたのはこの目で見た。その事実を抜きにしても、プリシラが比類なき力の持ち主であることはレムの肌で感じる事実だ。
しかし――、
「ハインケルさんも、大きく劣るものではないと思いますが……」
あくまで、レムの目で見た限りでは、と前置きする必要はある。
だが、この屋敷を接収する上で、屋敷の所有者の代理として立った剣士相手に、ハインケルは何もさせずに相手の剣を奪い、命を取らずに勝利を収めた。
その澄んだ剣気と優れた剣技は、そこいらの帝国兵では束になっても敵うまい。
にも拘らず、あのハインケルの恐れようは、過剰反応の極みに思えた。
もっとも、『自分』であることさえ素人のレムだ。強者たちの見えている世界には、レムなどでは立ち入れない物の見方があるのかもしれない。
ともあれ――、
「妾がその娘に目をかけるのは、気紛れの一端に他ならぬ。じゃが、痩せた土地で飢え死にしかけたシュルトを拾ったことも、実らぬ努力に血を流していた貴様を呼びつけたことも、いずれも妾の気紛れである」
「はいであります! プリシラ様の気分で助けてもらったであります! 僕はとっても運がよかったであります!」
「お前はそれでいいのか……」
本の表紙を指で叩いて、全て己の気分次第とプリシラが嘯く。その言葉にレムは呆れ半分に圧倒され、シュルトは嬉しげに自分の幸運を誇った。
ハインケルも、直前の恐れようからは解放された様子だが、それでもレムを見る目にはいくらか警戒の色が残っている。
およそ、一番真っ当な物の見方をするのが彼ということだろう。
「それで、プリシラさん、私たちを呼びつけた理由はなんでしょうか?」
「ふむ」
「身の回りのお世話というだけなら、私かシュルトさんだけで十分でしょう? ハインケルさんもいらっしゃるのは、理由が思いつかなくて」
役割分担という意味で言えば、屋敷でのプリシラの生活の世話はレムとシュルトで十分分担できている。杖をつく生活もかなり慣れて、単純な家事に不安はない。
もしかすると、元々そういう役目を率先してやっていたのかもしれない。
そんな形の作業分担なので、ハインケルの出る幕がないのだ。
それを言い始めれば、そもそも――、
「ハインケルさんは、いったい何をする人なんでしょうか……剣を振っているか、お酒を飲んでいるか、シュルトさんと遊んでいるところしか見ていませんが」
「……言っておくが、そのチビと遊んでやった覚えはねえぞ」
「そうであります! ハインケル様にはよく構ってもらっているでありますが、僕が勝手に近付いていってるだけであります! いつも、ハインケル様がお一人だと寂しそうでありますから、寂しくないようにと思って……」
「ああ、そうだったんですか。シュルトさんは優しいですね」
「えへへへであります」
胸に生じた疑問を解消され、レムがシュルトの癖っ毛頭を優しく撫でる。ついつい、こうして撫でてやりたくなるのがシュルトの不思議な魅力だ。
都市内だと、あとはちょこまかと出入りするウタカタも撫でたくなることが多い。
もしかすると、単純に年下を可愛がりたいだけかもしれないが。
「ええい、クソ、付き合ってられるか。プリシラ嬢! さっさと今の質問に答えてくれ。用がないなら、俺は酒場にでも……」
「――そろそろ、街を発ったものたちが魔都へ到着する頃であろう」
「あ……」
「状況が動くとすれば、この機に合わせての可能性が高い。気を引き締めておけ」
肘掛けに頬杖をついて、そう言い放ったプリシラに空気の水気が変わった。
渇いて張り詰めた空気は、正しくプリシラの言葉に意識が切り替えられた証だ。ハインケルの表情が鋭くなり、レムも胸を突かれたような感覚を味わう。
レムの手を頭に乗せたシュルトだけが、「アル様、お疲れ様であります~」と旅立った一行の長旅をねぎらっていた。
「――――」
状況が動くとすれば、とプリシラは前置きした。だが、少なくとも旅立ったスバルたちの方には、良くも悪くも確実な変化がもたらされる。
唯一、味方してくれる可能性のある存在への交渉――その是非が、アベルのやろうとしていることの今後を大きく左右するのだと。
「この機に合わせて動く、ってことは……プリシラ嬢は思い当たる節が?」
「いいや、具体的なものではない。ただの、妾の経験則によるものよ」
「経験則、ですか? それはどういう……」
「大きな物事が動くときは、それまでの静けさが嘘のように一度に動く。まるで示し合わせたかのように、並べた積み木を崩すが如く、一斉にな」
淡々としたプリシラの物言いには、言いようのない説得力のようなものがあった。
究極、気を抜くなという一点に絞った指摘だが、レムは深呼吸して足下を見つめ直す。スバルたちを気にかけるあまり、身近なことが疎かでは本末転倒。
そもそも、延々とスバルのことを気にしているなんて、改めて言葉に直してみると、とても不愉快な状況だと自覚した。
「傍にいてもいなくても、厄介な人ですね……」
「レム様? 大丈夫でありますか? なんだか、お顔が赤いであります」
「大丈夫です。ちょっと込み上げてきただけなので。沸々と、怒りが」
「怒りんぼはよくないであります! レム様は笑った方が素敵であります~!」
パタパタと手足をばたつかせ、懸命に訴えてくるシュルトにレムは目尻を下げる。一方で、プリシラの警告に深刻な顔をしたハインケルは、
「プリシラ嬢、話がそれだけなら俺はいくぞ」
「好きにせよ。酒気に溺れるも、怠惰に過ごすも貴様の自由である」
「酒なんて飲んだくれてる気分じゃねえ。都市庁舎の、あのもじゃもじゃ頭の指揮官と話してくるさ」
真剣な顔でそう言い返して、ハインケルが大股で部屋の外へと出ていく。その背を見送って、レムはプリシラへと向き直ると、
「それで、プリシラさんはどうされるんですか?」
「妾の動静が気になるか」
「それは……そうです。プリシラさんのやること全部が正しいと、そういう風に思っているわけではないですけど……」
それでも、プリシラはレムの持ち得ない知識や眼力を以て物事を判断する。
それは持ち物の少ないレムにとって、何を選ぶべきか判断するための貴重な材料だ。その、ある意味では無礼千万なレムの言葉に、プリシラは「ふ」と笑い、
「頭のない人形になる気はないか。そうでなければ、傍に置いた意味もあるまいよ」
「プリシラさん?」
「先の問いの答えであれば、備えはあの凡夫が敷こう。あの『将』と、シュドラクの民も相応に使える。なれば妾は……」
「プリシラさんは……?」
微かに息を呑み、レムはプリシラの言葉の先を待つ。知らず、レムの隣ではシュルトも期待に拳を握りしめ、主の答えを待っていた。
そんな二人の眼差しに、プリシラはその切れ長の瞳を細め、
「――湯浴みじゃな。花弁を浮かべ、香を焚くがいい」
「……えっ」
「なんじゃ、二度言わせるな。湯浴みとする。早々に湯殿を用意せよ」
ひらひらと手を振り、プリシラがレムとシュルトの二人をそう急かす。
もちろん、レムは「え、え」と混乱を隠せないが、シュルトの方はビシッと敬礼し、
「わかりましたであります! さっそく、お湯を張ってくるであります~!」
元気よく答えると、そのまま勢いよくシュルトが部屋を飛び出していく。その小さな背中を見送り、レムはプリシラの方へ向き直った。
プリシラは頬杖をついたまま、改めて本の続きに取り掛かろうとしていて。
「貴様は行かぬのか? シュルト一人に全てを任せれば、栓のし忘れでもして大量の湯水を無駄にしようよ」
「シュルトさんのお手伝いはします。ただ、何を考えているんですか」
「貴様の疑り深さは、その先入観の強さの表れでもあるな。貴様、妾があらゆる事象を自由自在に操る、世界の観覧者とでも思っておるのか?」
「そ、そこまでは思っていませんが……」
理路整然と説かれ、レムの追及の勢いが萎んだ。
そのレムの様子を鼻で笑い、プリシラは「よいか」と続け、
「この世の全ては妾にとって、都合の良いようにできておる。じゃが、それは全てを妾の意のままに従えるという意味ではない。そのような退屈、望むはずもない」
「思い通りは退屈、ですか?」
「起こり得る何もかもが思惑通りなら、明日を迎える意味はどこにある。レム、貴様は自身が生まれ落ちたときから、何もかも終わった世界を望むのか?」
「――――」
そうプリシラに問われ、レムは口を噤んで押し黙った。
プリシラの言葉はまたしても難解だが、かろうじて話の真意はわかる。望み通りの日々を送るということは、新しいことや未知と出くわさないことを意味する。
そしてそれはプリシラにとって、望ましいことではないのだと。
しかし――、
「それは、色々なことがうまくできない私には、贅沢な拒絶です」
旅立つスバルを見送り、城郭都市に残ってプリシラの傍に置かれるレム。その根源にあるのは、失われてしまった『レム』という存在への餓えと、今現在の不甲斐ない自分から脱却するための術、切っ掛けを求めてのことだ。
何一つ、思い通りにならないことで苦しむレムにとって、思い通りにならないことを楽しむプリシラの在り方は、理解できないそれだった。
もしもそれで、プリシラに面白みのない娘と見限られたとしても。
「貴様に、妾と同じになれとも、同じものを望めとも思わぬ。好きにするがいい」
だが、悲愴な覚悟さえして発言したレムに、プリシラの反応は予想外に柔らかかった。
目を丸くするレムに、プリシラは手のかかる犬でも眺めるような目で、
「世界はただ、在るがままに美しい」
静かなプリシラの呟きには、彼女の掛け値なしの本心が込められて思えた。
そう思ってから、レムは自分のその考えを馬鹿げたことと否定する。だって、それが掛け値なしの本音だとしたら、あまりにも規模が大きすぎる。
プリシラがあまりに大きなモノを愛し、慈しんでいることになる。
「大切に慈しむなんて、プリシラさんの印象と真逆のことですし……」
「何か言ったか?」
「いえ、大したことは何も……と」
ゆるゆると首を横に振るレム、その胸中のもやもやはわずかに薄くなっていた。
全てが晴れたわけではないが、直前の暗雲のようなそれは消えている。そう、レムが自己分析にひと段落を付けたところで――、
「わ、わ、わ、わ~であります! お湯が、お湯が溢れて! お、溺れてしまうであります~!!」
と、屋敷の湯殿の方から差し迫ったシュルトの絶叫が聞こえてくる。案の定、といった状況に見舞われるシュルトを思い浮かべ、レムは顔を上げた。
プリシラと目が合い、その白い顎をしゃくって「行け」と命じられる。
「私は、プリシラさんの自由にはなりませんよ」
「だが、シュルトの悲鳴を無視もできまい。そら、妾の勝ちじゃ」
言いなりになるわけではないと、せめてものレムの抵抗は儚く散る。
それ以上の抗弁をするには、シュルトの安否が危ぶまれすぎていたから。
△▼△▼△▼△
――プリシラの警告、それはレムの胸に確かに深く楔を打った。
物事が大きく動くとき、それらは矮小な人間一人一人のことなど気にかけてくれない。
巻き込まれるものたちなど意に介さず、波濤の如く押し流すのだと。
それをレムは、実体験で知っていたつもりだった。
記憶をなくして目覚めれば、見知らぬ場所で見知らぬ相手の腕に抱かれていたのが、このレムの記憶の始まりなのだ。
その少年から逃れ、再び出くわし、その後は多くの帝国兵に囚われ、黒煙と炎の中から救い出されて、流れ流れてこの都市で日々を過ごしている。
激動とはまさしく、レムのこれまでのためにあった言葉と思うほどだ。
――しかし、その認識すら甘かったと、レムはすぐに思い知ることになる。
「――プリシラさん?」
するりと、自分の手をすり抜けて立ち上がったプリシラに、レムは眉を寄せた。
温かな湯気の立ち込める中、湯着を纏ったレムは屋敷の湯殿にいる。プリシラが屋敷を接収した最大の理由、それがこの立派な湯殿の存在だった。
湯を張り、手足を伸ばして湯舟に浸かれるこの湯殿は、屋敷の主人の趣向で造られたものであったらしく、他では代替が利かないものだ。
実際、レムもプリシラの世話が終われば湯浴みさせてもらっているが、プリシラが強引に奪いたくなる気持ちもわかる代物と、そう実感している。
ともあれ、そんな湯殿での湯浴みの最中、髪を洗っているレムの手を離れ、プリシラはゆっくりと立ち上がり、その足で浴室の窓の方へと向かった。
「プリシラさん、まだお体を洗っている最中で……あ!」
何をするつもりなのかと、そう呼びかけるレムに耳を貸さず、プリシラがその美しい裸身を惜しげもなく晒したまま、浴室の窓を開け放った。
湯気と比べるべくもなく冷たい外気が湯殿へ入り、レムは思わず身を縮める。だが、プリシラの突然の行動はそれだけで終わらない。
彼女は開けた窓から身を乗り出し、そのまま湯殿の外の露台へ出てしまったのだ。
「な、何をしているんですか! 他の人に見られてしまいますよ! いくら、ここが一番上の階だからって……」
慌てて杖とタオルを掴んで、レムは外へ出てしまったプリシラに追いつく。彼女の細い肩にタオルをかけてやり、そのいきなりさに慣れたつもりだった自分を戒めた。
しかし、そのレムの反省を余所に、プリシラは視線を外へ向けたまま、
「――空じゃ」
「空って……そこまで高い場所じゃありませんよ。ほら、湯冷めする前に中に……」
戻りましょう、と腕を引こうとして、そのレムの行動は遮られた。
振り向くプリシラの指が、そっとレムの唇を柔らかく押さえている。思わず目を見張るレムの前で、プリシラは血の色をした瞳を揺らめかせると、
「空を見よ、レム。――どうやら、『ばけえしょん』も終わりのようじゃ」
意味のわからない言葉だが、声色の雰囲気がレムに迷いを抱かせなかった。
ただ、導かれるように視線を持ち上げ、レムもプリシラが仰いでいた空へ目を向ける。彼女が見たものと同じものを見るため、その青い瞳を凝らした。
しかし、決して見逃すまいと、そう意気込んだ甲斐はなかったと言える。
何故なら――、
「あれ、は……」
露台の上、風を浴びるレムとプリシラの頭上、大きすぎる太陽が光り輝く大空に、ゆっくりと近付いてくる黒点が浮かんでいる。
黒点の数は一つ――否、二つ、三つと徐々に増え、像のぼやけたそれが次第にはっきりとしてくるにつれ、レムの喉は知らず知らずのうちに喘いでいた。
数を増やし、近付いてくる黒点、その正体は――、
「――疾く、下のものらに武器を持たせよ。群れた翼竜に、遊びはないぞ」
プリシラの警告が如実に色濃くなったのを、レムの肌が、魂が感じ取っていた。
△▼△▼△▼△
――同刻、高い壁に囲まれる都市を眼下に眺め、金色の瞳が細められる。
青い空を全身に纏わりつかせ、雄大な空間を我が物顔で行くのは、白い雲と肩を並べて風を切る存在――この世界で最も偉大な生き物、翼持つ竜の群れだ。
「――城郭都市、グァラル」
標的となる都市の名前を舌に乗せ、燃え滾る戦意が全身の血を熱くしていく。
その高まっていく戦意に呼応し、周りを飛んでいる仲間たちの意気も熱を増す。空を打つ羽ばたきに嘶きが混ざり、目前に迫る狩りの時間への期待が膨れ上がる。
それを気が早いと咎めるのは、蒼穹の狩猟者たる竜に対する侮辱に他ならない。
この期待に血が昂らない存在など、白雲と並ぶ資格のない臆病者だ。
「――ッッ」
「わかってる。老いぼれの言う通り、ちゃんと仕事しよう」
足下から上ってくる訴えは、背中を借りている一頭がこぼした狩猟への期待だ。
翼をはためかせる飛竜の背で、短い腕を組んだ人影はその興奮に理解を示した。
肩口で揃えた空色の髪に、爛々と輝く金色の瞳。その華奢に見える体を包んでいる華やかな装いは、その存在の獰猛さと凶暴さを微塵を表せていない。
一見すれば、それを愛らしいと形容してしまうものもいよう。だが、それもその人影の頭部、そこに存在する二本の黒い角を目にするまでのこと。
有角人種の少なくないヴォラキア帝国にあっても、その『黒角』を目にする機会など滅多に――否、絶対にありえない。
それはすでに、存在しないはずの存在の証明に他ならないからだ。
「みんな、準備はいい?」
存在しないはずの黒い角を生やした人影、その呼びかけに無数の嘶き――空の支配者たる飛竜の群れが、ありうべからざる数百の群れが応える。
太陽を背負い、青い空を渡り、雲霞の如く押し寄せる破滅の具現。
舞い降りれば、怒号と悲鳴が響き渡り、あらゆる命が潰え、掻き消える災厄。
奇しくも、遠く離れた地で『大災』が都市を滅ぼしかけているのと同刻に、それとは異なる形の厄災が城郭に守られる都市へと迫る。
絶対的な、逃れ得ない残酷な狩りの幕開けを前に、その存在――マデリン・エッシャルトは金色の瞳を細め、頬を歪めて笑った。
『九神将』の『玖』にして、都市の壊滅を命じられた『飛竜将』が宣告する。
「恐れ慄き、逃げ惑え。お前たちに逃げ場はない。――竜がきた」と。