第七章56 『大災』
――都市を放棄し、撤退戦へ移行する。
そう宣言した鬼面の男の言葉に、ヨルナは頬を硬くし、視線を鋭くした。
今しがた、目の前の男の意見を尊重しようと決めたのは、それがヨルナの治めるカオスフレームを守るための最善だと信じたからだ。
だが、そんなヨルナの決意に反し、男が口にしたのは都市の放棄――、
「そのような意見、到底、頷けようはずがござりんせん」
「ほう。何故だ」
「何故も何もありんしょうか。ここは魔都カオスフレーム、帝国を追われ、行く当ても寄る辺もなくしたものたちの最後の地……それを捨て去ろうなどと」
「承服できるものではない、か。――下らぬ感傷だ」
「――ッ、ヴィンセント・ヴォラキア……!」
腕を組んだ男、帝国の支配者の冷たい言葉に歯を噛み、ヨルナが険しい目を向けたまま相手を呼ぶ。その呼びかけに、男は自分の鬼面に手で触れた。
そして、鬼面越しにも見える黒瞳にヨルナを映すと、
「今はアベルを名乗っている俺に、その呼び方は不適当だ。そも、皇帝相手に慈悲を乞おうなどと思っているなら、それはあまりに浅慮というものであろう」
「――。帝国民は精強たれ、でありんすか」
「そうだ」
皇帝――否、アベルを名乗った男は、それこそが帝国の流儀だと嘯く。
ヴォラキア帝国の頂たる皇帝には、帝国民が信じ、崇める鉄血の掟の体現者である必要がある。それが事実であろうとなかろうと、皇帝はそう言い切らなくてはならない。
そのアベルの断言に、ヨルナは乞い方を誤ったと自戒した。
そもそも、アベルはあの影を、紅瑠璃城を呑み込む巨大な闇の正体を知っているのか。
だからこそ、都市を放棄するという非情の決断に至ったのか。
「すぐに逃げを打たなくてはならないほど、あれが危険な代物だと主は判断するでありんすか? いったい、あれはなんでありんす」
「――『大災』」
「大、災……?」
ヨルナの問いかけに、応じたアベルの言葉は静かなものだった。
しかし、その声音の静けさと裏腹に、紡がれた言葉の重みはヨルナの困惑を買うのに十分な代物と言える。――大いなる災い、その表現に。
「大災とは、いったい何のことでありんす」
「帝国の存亡を危うくし、陽光の光さえ届かぬ滅びをもたらすモノ。……『星詠み』はそのように申していたな。聞いた当初は大言と思ったものだが」
「――――」
「あれを見れば、表現にいささかの誇張もなかったことは知れよう」
顎をしゃくり、顕現した闇――『大災』を滅びと称するアベル。
彼の口から語られた『星詠み』の響きには、ヨルナも内心で苦いものを覚えざるを得ない。『星詠み』の存在は、ヴォラキア帝国の悪しき習慣の一つ。
少なくとも、ヨルナにとってはそうとしか言いようのないものだった。
そもそも、ヨルナがこうも強く焦がれる願いの発端と、『星詠み』とは決して無関係なものではないのだから。
ともあれ――、
「では、主さんは『星詠み』の言葉を鵜呑みにし、背を向けて逃げるおつもりでありんしょうか。だとしたら、それこそまさしく惰弱の現れ。帝国の流儀の体現者とはとてもとても……そう、わっちなどは思ってしまいんす」
「安い挑発で俺を動かせると思うなら、その思い違いを早々に正すがいい。第一、『星詠み』の言葉を鵜呑みにし、暴挙を働いたのは俺ではない」
「……主さんも、『星詠み』には思うところがおありのご様子」
「真っ当な判断力の持ち主であれば、あれを好ましく思うものなどあろうものか。だが、不要と斬り捨ててもすぐに次がくる。それがあれらの厄介なところだ。――む」
「うー!」
話の途中、アベルの言葉を遮ったのは懸命なルイの唸り声だった。
彼女はヨルナとアベルの二人の会話が、あの『大災』を鎮める術と直接的に関係ないことを咎めているようだ。
それも当然だろう。あの『大災』には――、
「うあう!」
「――。ヨルナ・ミシグレ、一つ確かめたい」
「……なんで、ありんすか?」
大きく蠢く『大災』を指差し、強く訴えるルイの様子に目を細めるアベル。彼が問いの矛先を自分に向けたのを受け、ヨルナも切れ長な瞳を細めた。
続く言葉、問いかけの内容はおおよそ想像がつく。
それは――、
「この娘と貴様が共にいるなら、もう一人、黒髪の幼童がいたはずだ。それの姿はどこへ消えた?」
「――。あの童でありんしたら……」
ちらと、ヨルナの視線が言葉よりも雄弁に問いの答えを物語る。
ヨルナの視線が向いたのは、ルイが必死に指差している『大災』の方だ。紅瑠璃城を呑み込んだ闇、あれが溢れ出した最初の場にあの少年は居合わせた。
――否、ヨルナの目にはむしろ、あの『大災』は少年の内から溢れたようにも。
「やはり、そうか」
そのヨルナの無言の返事を受け、アベルが最後の一片を自らの心に収める。
それが最後通牒のように聞こえて、ヨルナは「主さん……」とアベルを見た。しかしその呼びかけに、アベルはゆるゆると首を横に振って、
「思惑は狂うが、致し方ない。方策に拘って、成果を得られぬでは意味がない」
「それは、つまり?」
「方針は変わらぬという話だ。魔都を放棄し、撤退戦を行う。――それでも被害は生じよう。その全てを拭い切ることはできぬ」
「――ッ、その答えは」
承服できないと、そうヨルナが詰め寄ろうとした瞬間だった。
「あー、う!」
「ぐ……ッ!」
苦鳴を漏らし、アベルが腹を手で押さえてその場に膝をつく。
それをしたのは、詰め寄りかけたヨルナより早くその懐に飛び込み、短い腕で掌底を打ち込んだルイだった。
彼女は非情の決断を下したアベルを睨み、鼻息荒く喉を唸らせると、
「うあう……うあう!」
そう叫んで、振り向いたルイの姿が瞬く間に視界から消える。
天守閣での攻防、オルバルトとの戦いの最中にも見せた瞬間転移だ。あまり長距離を移動できないそれを繰り返し、ルイは再び『大災』の支配する戦場へ戻る。
遠く、カフマが己の体内の虫を使い、『大災』を引き止めている現場だ。
彼女が、あの『大災』に対して決定打を持っているとはヨルナには思えない。
もしもそれがあるなら、アベルに頼ろうとせず、自力であの少年を助け出そうとしていたはずだ。だから、彼女に切り札はない。
その切り札があるとすれば――、
「――『陽剣』の焔なら、対抗できるはずではありんせんか」
「――――」
「主さん!」
腹を押さえたまま、建物の屋上に膝をつくアベル。
ルイの一撃を当然の報いだと思う反面、状況を打開するための鍵を握っているのは、やはりこのアベルしかいないのだとヨルナは考える。
ヴォラキア帝国の皇帝、それが有する真なる魔剣、聖剣に数えられる一振り。
『陽剣』の焔であれば、あの『大災』とされる存在とさえ――、
「――抜くつもりはない」
だが、ヨルナの訴えに対し、アベルの答えは望んだものではありえなかった。
そしてそれが、ヨルナには正常な判断が下した答えとも考えられない。あの『大災』を危険な代物とみなし、魔都の放棄さえ辞さない大異変とわかっているのに。
「それでも『陽剣』を抜かぬと……それを、どうして受け入れられんしょう」
「――――」
「答えるでありんす、ヴィンセント・ヴォラキア! 主さんが……主が、この帝国の皇帝なら、果たすべき役割があるはずでありんす! 主が、皇帝なら……!」
視界が赤くなり、ヨルナは跪くアベルの襟首を掴み、自分の視線と向き合わせた。
こうしている合間にも、ヨルナの支配するカオスフレームは窮地に追いやられる。カフマやルイがどこまで『大災』に抗せるか。呑んだ紅瑠璃城を爆ぜさせた衝撃が、いったいどこまであの『大災』の力を削るのに役立てたか。
何もわからない。わかるのは、このままではいけないということ。
このままでは、ヨルナの誓いが、願いが果たせなくなる。
そのためには、目の前の男の協力がどうしても、どうしても必要なのに。
「主が、ヴォラキア帝国の『皇帝』なら……」
「……『陽剣』は使わぬ」
「――ッ、主は」
なおも頑なに意見を翻さないアベルを、ヨルナが鋭い犬歯を見せて威圧する。
こうして口の中、牙を見せるようなはしたない真似をするなど滅多にないことだ。しかし、その気になればこの牙は、目の前の男の細い首など容易く喰い千切る。
だが、そんな脅しはアベルの、目の前の男にとっては日常茶飯事だ。
常日頃、周囲からの途絶えぬ殺意や敵意を向けられ続ける立場にある存在、それがヴォラキア帝国の皇帝だ。だからこそ、あの人はそんな地位に――、
「主は、ヴォラキア帝国の……っ」
「――いつになれば解する、ヨルナ・ミシグレ」
「――ッ」
「今代の皇帝たるヴィンセント・ヴォラキアと、貴様の思い描く皇帝とは別だ。貴様の願いや理想の通り、俺が動かねばならぬ謂れはない」
そのはっきりとした断絶の姿勢に、ヨルナは小さく吐息を漏らした。
そして、掴んだ男の襟首から手を離し、ゆっくり一歩、後ろに下がる。下がって、自分の首を押さえるアベルを見据え、ヨルナは歯を噛んだ。
言われずともわかっている。
その鬼面のあるなしに拘らず、目の前の男とヨルナの思い描く男とは似ても似つかない。たとえその体に、ヨルナの愛するものの血が流れていたとしても。
「……主の言葉を、承服することはできぬでありんす」
「魔都を捨てなければ、それ以外の全ても失うことになるぞ」
「この魔都が、今のわっちの全てでありなんす!」
両手を広げてそう答え、ヨルナが胸元に差した煙管を抜いて先端に火を落とす。直後、思い切りに煙管から煙を吸い込み、空へ吹いた。
広がる紫煙が巨大な、巨大な雲となり、『大災』の蠢く戦場の外側――あの脅威を目の当たりにし、怯えているだろう魔都の人々の頭上へ向かう。
そのまま紫煙でできた雲はゆっくりと散り散りになり、それぞれが住民――我が子らの下へ降り注ぎ、一人一人の手の中に紫煙が収まった。
「――わっちを愛しなんし」
ヨルナのその呟きは、同じ場所にいるアベルにしか聞こえない微かなものだった。
しかし、そのヨルナの意思は、降り注ぐ紫煙を手にした全ての人々が理解する。故に彼女の声が届かずとも、彼らは一様に、紫煙を開けた口の中に放り込んだ。
「――わっちに愛されなんし」
続けられるヨルナの言葉、呟きは誰に何をもたらすものでもない。
強いて言うなら、その言葉はきっと、ヨルナがヨルナ自身へ与える免罪符だ。自分で自分の背中を押すために、必要な儀式というべき祝詞だった。
ヨルナの紫煙が届いたものたちが、それを取り込んだものたちが、ゆっくり、ゆっくりと顔を上げる。――その瞳に、それぞれが片目に炎を灯していく。
ヨルナに愛され、ヨルナを愛するものたちが、『大災』を仰いで魂を燃やし始める。
まさしく、魂で結ばれたものたち――『魂婚術』の力が、魔都を覆い尽くす。
「この都市は、カオスフレームは失わせぬでありんす。――わっちと主らで、あの不躾なお客人にお帰り願うとしなんす」
ヨルナが煙管を揺らしながら正面に構える。
その周囲、都市の全域から聞こえてくるのは地響きだ。猛然と、恐ろしげに響くそれは無数の靴音、無数の足踏み、無数の息遣い、無数の戦意。
魔都の主人の愛ある呼びかけに従い、集ってくる愛されたものたちの前進だ。
それを見やり、ヨルナは軽く膝をたわめ、高々と跳躍した。
その跳躍の行き着く先、待ち受けるのは大いなる闇を湛えた災いの影。
この魔都を脅かすモノ、そのことごとくを退けるものとして――、
「――『極彩色』ヨルナ・ミシグレ、お相手仕るでありんす」
△▼△▼△▼△
鳴り響く地鳴りと、都市全体が叫んでいるような猛烈な雄叫び。
それらに世界を支配されながら、アベルは首に当てた手を下ろし、戦場を眺めた。
「――――」
無謀な吶喊をしたヨルナが、砕けた紅瑠璃城の残骸や破壊された街並みを振り回し、『大災』へと強烈な攻撃を叩き込んでいる。
まるで『建物』で殴るというような規格外の攻撃だが、実体が曖昧で、その総量をなおも拡大し続ける漆黒の闇――『大災』相手には効果の程が不明瞭だ。
多少なり効いているのか、あるいは全くの無意味なのか。
「――全くの無意味、ということはあるまいよ」
ヨルナの無謀な攻撃に感化されたわけではないが、こちらの攻撃の一切が通用しないという不条理な相手でないことは、その行動力の減衰からも読み取れる。
『大災』が出現と同時に呑み込んだ紅瑠璃城、長く居城として使った城への愛着、それ自体を破壊力へと変換したヨルナの攻撃は、『大災』の勢いを確かに削いだ。
もしもあれがなければ、『大災』は最初の勢いのままに拡大し、この魔都を一気に呑み込んで、そのまま帝国全土へと深淵を引き延ばしたはずだ。
――もっとも、現状のまま放置すれば、先延ばしにした帝国の崩壊は免れない。
「それも、あれの忌々しいところではある」
奥歯を軋らせ、アベルは『大災』を予見した男の細面を思い出す。
来たる脅威について予見しても、それ以上を求められることを拒んだ都合のいい存在。あるいは観覧者の手先とでもいうべきか。
いずれにせよ、あのものへの憤懣はこの場で何の役にも立たない。強いて言えば、同じ立場の存在に思いを巡らせる価値はあるかもしれないが。
「――ナツキ・スバル、貴様は」
蠢く『大災』を見据え、アベルが口にするのを避けていた名を口にする。
そんなときだ。
「アベルちん! 戻ってきたよ!」
「――――」
あらゆる音が、地鳴りと雄叫びに呑まれかねない騒音の中、その高い声はしっかりとアベルの耳に届いた。
振り向けば、声はアベルの背後に空から降ってきた。軽い音を立てて着地したのは、手を振る少女と、それを抱いている褐色肌の女。
「戻ったか、ミディアム、タリッタ」
「何とか! でも、アベルちんの話してた状況と違うね? ヨルナちゃんは?」
「――。あそこだ」
タリッタの腕から解放され、屋上に降りたミディアムの問いにアベルが顎をしゃくる。その先、『大災』相手に空を飛び回り、縦横無尽に建物を使った質量攻撃を繰り返しているヨルナの姿がある。
なお、『大災』相手に真っ向から戦いを挑んでいるのはヨルナと、同じように遠距離攻撃の手段を有しているカフマの二人だ。
ただし、カフマの茨も彼が体内で飼育している『虫』であるため、無尽蔵に『大災』に呑まれ続けていていいものではない。
その他、集まったカオスフレームの住民たちは、それぞれに周囲の建物を解体し、数人がかりで砲弾のようにそれを『大災』へ投げ込む攻撃を行っている。
過去、ヨルナが帝都に反旗を翻した際、都市の制圧に向かった帝国兵を苦しめた、都市そのものを武器とする恐るべき集団戦術だ。
ただし、集団相手には効果を発揮したあの戦術も、その戦力の底知れない『大災』が相手では、はっきりと効果があるのか不明だった。
そもそも、こうして遠目に見ていればわかるが――、
「『大災』ガ、大きくなっていル……?」
「あれ、ほっといたらダメだよね!? アベルちん、どうするの!」
徐々に拡大を続ける『大災』を眺め、ミディアムとタリッタがアベルの決断を問う。
本来、ヨルナの協力を得て、魔都を放棄した撤退戦へ移行するのが狙いだったが、それはヨルナの魔都への執着によって未達になった。
その場合、ヴィンセントの行動如何で状況が変わってくる。――否、
「――あるいはその前に、貴様が状況を変えてみせるか、タリッタ」
「エ……」
アベルに名指しで問われ、タリッタがその切れ長な瞳を見開いて絶句する。
しかし、それは全く心当たりのないことを言われたが故の驚きというより、ここで言われると思っていなかったという類の反応だ。
すなわち、彼女には今のアベルの指摘の心当たりがあるということ。
「な、なんか今の言い方、変だったよ? どゆこと?」
「どういうことも何もない。タリッタ、貴様はあれをなんと呼んだ」
「ナ、なんとと言われてモ……」
「――『大災』と、そう呼んだのだ。どこで、その呼び名を知った」
アベルの畳みかける言葉に、タリッタが息を呑んだ。
その二人のやり取りに、心当たりのないミディアムは目を白黒させ、「タイサイ……?」と聞き覚えのない単語を舌に乗せている。
だが、そのミディアムの反応こそが自然なものだ。
あのような得体の知れない存在を見て、それを『大災』と無知なるものは呼べない。あれを『大災』と正しく呼べるのは、あの存在を知るものだけだ。
すなわち――、
「滅びを免れる術を星に教わったか?」
「――ッ! マ、待ってくださイ、私ハ……!」
「――――」
「私、ハ……」
一歩、前に踏み出したタリッタが、自分の胸に手を当ててその先の言葉に詰まる。
顔面を蒼白にし、目を泳がせるタリッタの尋常ならざる様子に、ミディアムが慌ててその傍らに寄り添い、「タリッタちゃん!」と体を支えた。
しかし、タリッタにはそのミディアムの思いやりに応える余裕がない。
おそらく、彼女はずっと隠せていると思っていたのだろう。もしかしたら、ずっと黙ったままでいられると思っていたのかもしれない。
「たわけめ」
守られる秘密や、露呈しない真実というものは存在しない。
少なくとも、その秘密や真実を覆い隠すための努力を一切しないでいれば、全てが露見する日は必ず訪れる。できるのは、それを遠ざけることだけ。
あるいは死後まで先送りにできれば、そのものの認識する世界の中で、秘密は最後まで守られたと言えるのかもしれないが。
「タリッタ、あの『大災』を貴様が知っているなら、悔やんでいるか」
「悔やむ? 悔しがるって……アベルちん! 何の話!? タリッタちゃんが何を……」
「決まっている。――森で、俺をその矢で仕留め損なったことをだ」
「――ァ」
愕然と、今度こそタリッタの顔から色が抜け落ち、瞳の光が弱々しく揺れた。
その双眸を真っ向から見据え、アベルは吐息を挟み、続ける。
「それとも、今からでも天命に応えてみせるか、密林の狩人。いや、こう呼ぶべきか」
「――――」
「『大災』を防ぐ天命を継いだ、新たなる『星詠み』よ」
△▼△▼△▼△
激しい地鳴りが、轟く咆哮が、まるで世界の終わりを訴えているみたいだ。
「う、うう、ううう……っ!」
頭を抱え、耳を塞ごうとしてもそれができない。
腕が一本しかない弊害だ。両手で自分の耳を覆い、この世界の終わりから意識を完全に遮断することもできない。
持ち上げた肩に右の耳を当て、伸ばした手の指を左耳に突っ込み、不完全な耳栓で対抗しようとする。無理だ。
地面が揺れる。大気が怯えている。世界が死んでいく。
その全部が、アルを蝕み、全身から力を奪っていく恐怖の象徴だった。
「なん、で……なんで、ここに……っ」
声を引きつらせ、この瞬間に起こった絶望的な出来事を呪い、呪い尽くす。
もちろん、そんな呪いに何の意味もない。だって、こんなの呪いでも何でもない。単なる負け惜しみ、終わったあとでああすればよかったこうすればよかったと、自分を慰めるだけの負けていないアピールに他ならない。
こうなるのは覚悟の上だと、そう思っていたのではないか。
――否、思っていなかった。覚悟なんて固まっていなかった。頭を可能性が過っても、それはきっと起きないと楽観的に考えるふりで目を背けただけだ。
彼と、ナツキ・スバルと行動していれば、こうなる危険性は十分あった。十分どころじゃない、十二分にあったのだ。
むしろ、ナツキ・スバル以外の誰と行動しても、こんな事態にはならなかった。
それでも仕方なかったのだ。だって、放っておけなかった。放っておいてはいけなかった。ナツキ・スバルは、あそこで折れてはならなかった。
そのために、必要なことだと、だから自分は――、
「――おお、誰が泣きじゃくってんのかと思ったら、お前さんかよ」
「――っ!?」
「かかかっか! なんじゃ、今の跳ね方! まるで芋虫みてえじゃったぜ、傑作、傑作!」
唐突に部屋の中で聞こえた声に、慌てて体を起こして振り返る。
その様子があんまり無様だったのか、それを見た相手が手を叩いて――否、足踏みでリアクションしながら大笑いした。
生憎と、手を叩くことは、どうやら相手も二度とできそうもない。
何故なら――、
「ったく、九十年以上連れ添った右手に先にいかれちまったい。困ったもんじゃぜ。これじゃ今後、どうやって兵糧丸作ったらいいんじゃってよ。かかかっか!」
そう言って、愉快そうに笑う怪老――オルバルト・ダンクルケンは、手首から先が消失した右手を振ってみせていたからだった。