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第七章51 『魔都の女主人』



 光を浴びたぬるい風が、スバルの前髪を柔らかく撫でていく。

 そのこそばゆさを感じながら、スバルは繋いだ少女の手の感触と、自分の背後に立っている長身の美女の息遣いを受け取っていた。


 場所は紅瑠璃城のてっぺん、一番上の階にある広い部屋よりもっと上、そのお城の屋根瓦を踏んで、このカオスフレームを一望できる『空に一番近いところ』だ。

 スバルが導き出した『見晴らしのいい奈落』と、一番近くにある場所で。


「オルバルトさん、本気で性格悪いと思うぞ」


 傍らにいるルイと繋いでいない方の手、そちらでスバルが指差しているのは、城の屋根の端っこのところにどっかりと座った小柄な老人だ。

 胡坐を掻いたまま尻を滑らせ、振り返った怪老――オルバルトが、その手に持っている瓢箪に口を付けて、中に入っている酒をぐいぐいと呷る。

 そして――、


「あれじゃな、坊主。お前さん、腹ぁ減っとりゃせんか?」


「……お、お腹?」


「おう、そうよ、腹具合よ。なんせ、起きてすぐにこの有様じゃ、飯食う暇もなかったじゃろ? 腹具合ってもんは、頭と体の働きのどっちにも関係するんじゃぜ」


 言いながら、瓢箪を置いたオルバルトが懐から別の包みを出す。わずかに警戒するスバルの前で、オルバルトは「かかか」と小さく笑い、包みを解いた。

 その包みにくるまれていたのは、ゴルフボールくらいの黒くて丸い物体だ。


「それって……」


「兵糧丸つってよ、ワシらシノビの携帯食よ。これ一個で腹具合は一日もつのと、頭と体もうまく回るって代物じゃぜ。ただし、味は最悪でよ」


 包みの上の兵糧丸を指で摘まみ、オルバルトがそれを揺すって見せつける。

 見るからに味への拘りが感じられない非常食だ。栄養はあるのかもしれないが、スバルも積極的に食べたいとは思えない見た目をしている。

 それを、オルバルトは掌の上で転がしながら、


「ワシも若ぇ頃からシノビやってっから、当然、こいつとも若ぇ頃からの付き合いよ。で、仕事先でこれ食うたびに思ったもんじゃぜ。里の偉い爺様たちみてえに、ワシもとっとと隠居して、こんなもん食わない生活をしてえもんじゃってな」


「……だったら、そうすればいいじゃんか。オルバルトさん、シノビの里の頭領って言ってたし、偉いんじゃないの?」


「おう、その通りよ。ワシを顎でこき使ってた爺様連中より、今のワシの方が偉いし強ぇって話……じゃが、なんでか今もワシはこいつを食っとる」


 そう言って、掌で転がした兵糧丸をオルバルトが口の中に放り込んだ。怪老はうまくないと評した糧食をもぐもぐと噛んで、ごくりと呑み込む。

 それから口を開けて、すっかり食べてしまったことを見せつけてから、


「結局、習慣は抜けねえって話なわけじゃぜ。この、味も見た目も関係なしに、一切合切ぶち込んだごちゃっとした食い物が、ワシにとって一番の馳走ってことよ。これ、聞いてて泣けてこんか? こねえか。かかかっか!」


 歯を鳴らして笑うオルバルト、その反応にスバルは不気味なものを覚える。

 今の一連の会話が何を示しているのか、スバルの幼さと無関係にわからないモノだったように思えた。ただ、全部丸っと無視していいものとも思えない。

 たぶん、オルバルトなりの称賛というか、褒め言葉ではある気がしたから。


「――オルバルト翁、ここはわっちの城でありんすよ?」


 そうして会話がひと段落したのを見計らい、口を開いたのは魔都の女帝――スバルたちと一緒に、城の屋根の上にやってきたヨルナ・ミシグレだ。

 そのヨルナの青い瞳に見つめられ、オルバルトが「おお」と笑うのをやめる。


「もちろん、そりゃわかっとるんじゃぜ。城主尻目に、その城を尻に敷くっちゅうのはなかなか気分がええもんよ。好きなことするのは長生きの秘訣じゃからよ」


「それはそれは、翁ともあろうものがずいぶんと下世話な趣味をお持ちでいんすなぁ。わっちには到底、思いつきもせんでありんす」


「ほう、そうかよ」


「当然でありんしょう。――その長生きの秘訣とやらで、自分の寿命を縮めるだなんて正気の沙汰とは言えぬでありんすから」


 口元にそっと袖を当てて、艶やかに微笑むヨルナから熱を感じる。それはたおやかな仕草に含まれたヨルナの怒り、矛先が向くのはもちろんオルバルトだ。

 オルバルトも、そのヨルナの怒りには気付いているだろうに、怪老は胡坐を掻いたまま、自分の膝の上に開いた包みから、次の兵糧丸を口に放り込んでいる。


「で、なんでまたお前さんたち三人で仲良ぅしとるんじゃ。狐娘とちびっ子二人、お友達なんてガラでもナリでもねえんじゃぜ」


「生憎と、悪辣なるオルバルト翁とは違って、わっちには童をからかう趣味も、嬲る理由もありんせん。童となれば、丁重にもてなすのが道理でありんす。まして――」


 そこで一度言葉を切り、ヨルナが指先で金色の煙管をくるりと回した。その回した煙管の先端、煙のたなびく部位をオルバルトに向けて、続ける。


「オルバルト翁が童を惑わし、わっちの従者も誑かしたと聞けば……この都市の女主人として、打つべき手は打たなくてはなりんせん」


「ほほう、ほう」


 己の顎をそっと撫でながら、オルバルトの愉快げな目がスバルたちに向いた。

 その視線の意図を察して、スバルは深く頷く。


「悪いけど、告げ口させてもらったよ。オルバルトさんのルールなら、別に反則じゃないだろ。そっちだって、俺たちを襲わせたんだし」


「かかかっか! 口の減らねえ坊主よな。けど、それで正解よ。こっちが仕掛けとるんじゃし、やり返されて泣き言なんてみっともねえ真似せんのじゃぜ。しかし……」


「しかし?」


「頭の中身も追っつかなくなってんじゃろうに、よく考えるもんよ。お前さん、もしかしてヴォラキア皇族だったりせんか? 性格悪いのが揃っとるからよ」


「めちゃくちゃ怖いこと言わないでくれよ……」


 髪の色だけで見たら、今の皇帝であるアベルとスバルは共通しているが、それ以外の部分に違いがありすぎる。顔の造りと足の長さがその証明だ。

 そもそも、ヴォラキア皇族ぐらい性格が悪いなんて、悪口にも程がある。

 例えば――、


「俺はちゃんと、よくしてもらったらありがとうってお礼言えるから」


「それも、笑顔で大きな声でありんす。童というのはそうでなくてはいけりんせん。タンザにも見習わせたいところでござりんす。ともあれ――」


 唇を綻ばせ、スバルの腕白さを評価していたヨルナが声の調子を潜める。そのまま、すっと目が細められ、和気藹々とした空気も終わりへ向かう。

 何故なら――、


「わっちの健気な従者を窘めようにも、当の本人がいないとお話になりんせん。さて、オルバルト翁はどちらへあの子を隠したのでござりんしょう?」


 ヨルナのその問いかけこそが、彼女がこの場へ同行した最大の理由であるからだ。


「――――」


 ピリピリとしたヨルナの威圧、オルバルトに向けられたその余波を感じながら、スバルはきゅっと唇を噛んで、自分の弾む心臓の音を確かめる。


 ――階下、城に入ってすぐのところでヨルナに見つかり、昨日はわからなかったヨルナの人となりに触れたスバルは、またしても大きな賭けに出た。


 自分たちが置かれた状況について、そしてこのカオスフレームで行われている『かくれんぼ』について、できるだけ包み隠さずヨルナに告げ口したのだ。


 もちろん、アベルの正体には触れていないし、スバルたちがオルバルトの手で『幼児化』させられたことも内緒にしてある。大事なのは、スバルたちがオルバルトと『かくれんぼ』をしていることと、そこにタンザが協力していること。

 できるだけ真摯に訴え、根気よく彼女の疑いを解くため、スバルは全力で向き合う覚悟を決めて、ヨルナに事情を打ち明けた。

 そして、スバルの訴えを聞いたヨルナはしばし思案したあとで――、


『――必死な童の言葉が嘘か真か、見抜けぬ女ではありんせん』


 と、そう答え、スバルとルイを伴い、紅瑠璃城のてっぺんまで付き合ってくれたのだ。


「正直、ここまで話せる人だと思わなかったけど……」


「あうあう」


「ああ、わかってる」


 スバルの呟きを聞きつけて、ルイが握った手を振って唇を尖らせる。

 その反応に、スバルはこれがいくつもの偶然が重なって訪れた幸運だと自分に言い聞かせる。どの要因が欠けても、きっとこの状況は作れなかった。


 悪巧みをするアベルと別れていたこと。

 ウビルクの『助言』で紅瑠璃城に辿り着けていたこと。

 見張りではなくヨルナに直接見つかったこと。

 一緒にいたのがアルやミディアムではなく、ルイであったこと。

 そして、『幼児化』の影響を一番強く受けているスバルが、賭けに出たこと。


 ヨルナがスバルの言葉に耳を傾けてくれたのは、そこに嘘がないと、子どもの真剣な訴えだと、そう受け止めてくれたことが一番大きな理由だ。


 子どもの言葉を真に受けず、笑い飛ばす大人がいるように。

 子どもの言葉だからこそ真剣に受け止め、期待に応えようとしてくれる大人もいる。

 それが、この殺伐としたヴォラキア帝国の『九神将』とは、まるで思わなかったが。


「ヨルナさんの頭がおかしいなんて、どこの誰が言ったんだよ……」


 たぶん、理屈としては彼女が、ヴォラキアの常識とされる『弱肉強食』を全然良しとしていないから、そういう風に扱われていたのだと思う。

 少なくとも、ここまで良くされたスバルには、そう思う以外の選択肢がない。


「オルバルト翁、わっちから二つ、要求がありんす」


 そう言いながら、そっとヨルナが二本の指を立てる。

 自分の頭越しに交わされる超越者同士の会話に、スバルは口を挟めない。ただ、何かあったときに動けるよう、ルイの手の感触を意識しておくだけだ。

 下に転移すれば、それだけで屋根上のフィールドからは逃れられるのだから。


「要求、一応話してみ」


「まず、タンザをわっちの下へ返すでありんす」


「おいおい、そりゃ乱暴な話じゃぜ。娘っ子には娘っ子の考えがあんじゃろうよ。そうでなきゃ、大事なお前さんに内緒で何か企んだりせんじゃろうし」


「――黙りなんし」


 半ば、タンザの居所に心当たりがあることを認めるオルバルト、その笑声がたった一言、ヨルナの告げた鋭い一声によって断ち切られる。

 その静かな迫力の込められた言葉は、空気を一変させるに足る力があった。

 実際、その言葉を向けられた張本人ではないスバルでさえ、息を止めたほどだ。


 そうして、オルバルトの減らず口を黙らせたヨルナが、その手の中で弄んでいる煙管を口元に運び、紫煙でゆっくりと肺を膨らませると、


「生憎と、タンザの訴えも考えも、あの子の口以外から聞くつもりはありんせん。ましてそれが、『悪辣翁』の舌をなぞったあととなっては聞くに堪えんでありんしょう」


「かかか、嫌われたもんじゃぜ」


「お心当たりは、自分の内に十二分にござりんしょう?」


 攻撃的に微笑み、首を傾けるヨルナの髪飾りが音を立てて揺れる。豪奢に結われた髪に刺さった簪、その飾られた美貌さえも、スバルにはヨルナの武器に思えた。


 ――偉い人は怖がられていたい。

 そういう考えがあることをスバルに教えたのはヨルナだ。もしかしたら、怖がられるだけでなく、美しいと思わせることも、同じ意味があるのかもしれない。


「もう一つ、この子らとしているお遊戯、それを中止することでありんす」


「お遊戯、ねえ。一応、遊びっぽくても真剣勝負じゃぜ?」


「わっちは昨日、皇帝閣下の御前で申し上げたはずでありんす。――使者の方々に手出し無用、閣下であろうと守っていただきとうござりんすと」


 ――誰にも、スバルたちへの手出しはさせない。

 それは図らずも、タンザの口から伝えられたヨルナの決定。そして、ヨルナ自身にはそれを守るつもりも、それを破られたことへの怒りもあるのだ。

 つまり――、


「この魔都で、わっちを敵に回す覚悟がありんすか?」


「おお、怖ぇ怖ぇ。おっかねえ娘っ子じゃぜ。……あー、一応、ワシは何にも手出ししてねえんじゃぜって、そういう言い訳はすっけども」


「それはオルバルト翁の決めた解釈でありんしょう? ――ここが、いったい誰の街だと思っていんす? それを笑って許すほど、わっちが心の広い女とでも?」


 沸々と、空気が煮立っていく感覚を味わい、スバルの全身が粟立った。

 言葉の後半にいくほどに、ヨルナの感情が高ぶっていくのがわかる。もちろん、それを声の調子や顔に出すほど、ヨルナは自分を律せない人ではない。


 でも、わかるのだ。だってスバルは、本気で怒る人を大勢見てきた。

 本気で怒っている人たちは、その人生を懸けて感情を燃え上がらせる。だから、傍にいればそれがわかってしまう。とても、純粋な怒りがそこにあると。


「うー……」


 スバルと同じ、剣呑な空気の蔓延にルイが小さく唸った。

 道中、追ってくる相手には積極的に攻撃を仕掛けたルイだが、この場にいるのはヨルナとオルバルトの二人――追っ手とは、全然強さが違う人たちだ。

 動物的な本能で、戦っても勝てないと彼女もわかっているのだろう。もしかしたら、戦いに巻き込まれるスバルを心配しているのかも――、


「――っ、オルバルトさん!」


 一瞬、ルイに対する考えが柔くなりかけるのを感じて、スバルはそれを振り切った。振り切った勢いのまま、ヨルナと睨み合うオルバルトの名前を呼ぶ。

 いまだに屋根の上に座ったままのオルバルトが、器用に片目の焦点をヨルナに合わせたまま、もう片方の目をスバルの方に合わせてきた。


「そ、それ、どうやってんの……?」


「かかかっか! 身体制御はシノビの基礎中の基礎なんじゃぜ。右手と左手、右足と左足、それぞれで違ぇことができねえとシノビなんて務まらねえのよ。で?」


「え?」


「今さっき、ワシのこと呼んだじゃろうよ。言っとくが、ワシも人生で指折り何本目かの危ねえ状況だからよ。目ん玉の半分しか気にしてやれねえんじゃぜ」


 飄々とした態度は崩さないまでも、オルバルトもここが正念場であることはちゃんとわかっているらしい。だったら、目玉一個分でもありがたい。

 スバルは自分の胸に手を当てたまま、何度か深呼吸をして、


「お、お相子ってことにしない?」


「……うん?」


 スバルの打ち出した提案、それを聞いたオルバルトが左目だけを見開く。目玉一個分の注意を引きつけたまま、スバルはもどかしく「だから!」と声を大きくした。


「お相子だよ、お相子! オルバルトさんも、その、ルール違反っぽいことをしようとしたし、俺もヨルナさんに告げ口した。どっちもどっちってことで、だから……」


「大人しく悪かったって認めて、それでお互い収めようってことかよぅ」


「あ、ああ、そうそう! ほら、悪くないだろ? ちゃんと、オルバルトさんが欲しがってるものは渡すし、俺たちの問題も解決するし!」


 オルバルトの欲しがったもの、それはアベルが持っている皇帝の秘密とやらだ。

 詳しい事情は知らないが、それが渡せればオルバルトも手を引きやすいはず。元々、『かくれんぼ』はその情報を信じるための、知恵試しみたいなものだった。


「約束は三回で、まだ見つけられたのは二回目だけど……そこは大目に見てよ。ちゃんとお城のてっぺんまで、何とか上ってきたんだから」


「ふうむ……ちなみに、ここが隠れ場って見抜いたのはお前さんか? 他の、あの鬼面の若僧とかじゃなく」


「う、うん、そうだよ。『見晴らしのいい奈落』って、それはたまたま思いついて。……もう一個、思ってたところもあったんだけど」


 もしかしたら、そっちにはアベルたちが向かっている可能性もある。

 どっちにしろ、遅かれ早かれ、アベルたちも答えに辿り着いて、紅瑠璃城にはやってくるはずだ。スバルはルイの転移と、ウビルクの『助言』でズルをした。

 ただ、ここで手柄を立てておけば、ルイの扱いについて、アベルたちを説得しやすいかもしれない。それでも厳しそうなら、ヨルナを味方に付けるという手も。

 もっとも、ルイの素性を知ったら、ヨルナだってどう動くかはわからないけど。


「とにかく! どうかな、オルバルトさん。俺の……いや、俺たちの提案、聞いてくれる気にならないかな」


 頭を振り、ネガティブな考えを追い払ってスバルはオルバルトを見る。

 自分たちと複数形にしたのは、この仲直りの提案にはヨルナの協力がいるからだ。もし、ヨルナがタンザを悪巧みに誘ったオルバルトを許さないと言い出してしまったら、スバルが一生懸命考えた提案も無駄になる。

 ただし――、


「――――」


 片目をつむり、煙管を口にくわえたヨルナは何も反対しなかった。反対しなかったということは、スバルの意見を尊重してくれたということだと思う。

 すごく、すごくありがたい。とても感謝したい。

 その、ヨルナの預けてくれた信頼なのか、優しさなのか、それを無駄にしないために。


「オルバルトさん」


 今一度、スバルはオルバルトの名前を呼び、歩み寄りを期待する。

 その、スバルの期待を込めた黒瞳を受け、オルバルトは置いた瓢箪を指で拾った。そして瓢箪に口を付け、酒の中身を最後の一滴まで呷ると、


「のう、坊主。それが、今のお前さんならではの考えなのか、元々のお前さんでも考えることなのか、ワシにゃあちっともわからねえんじゃが……」


「――――」


「一度けしかけた勝負、ぽいと途中で投げ捨てるなんて半端な真似、生憎とワシはしたくねえのよ。――ジジイってのは、頑固なんじゃぜ?」


 そういやらしく笑った怪老、その手の中で瓢箪が握り潰され、砕け散る。

 音を立てて破片が舞い、スバルが息を呑んだ。

 その直後――、


「童の差し出した手も取れぬ老害、その頑なを悔やみなんし」


 飛んだヨルナの長い足が振り下ろされ、轟然と紅瑠璃城の天守閣が二つに割れた。



                △▼△▼△▼△



 厚底の下駄を履いた足が高々と上がり、真っ直ぐ高速で打ち下ろされる。

 刹那、踵の直撃を受けた天守閣が折れ曲がり、一拍ののちにひび割れ、打ち砕かれ、まるで爆発でも受けたかのように轟音を上げて爆ぜる。


 吹き飛んだ屋根瓦が舞い上がり、濛々と噴煙が立ち上る中、颯爽とキモノの裾を翻して爆心地に立つのは、その強烈な一発を放ったヨルナだ。

 一息に跳躍と踵落としを連続したヨルナ、その甚大な破壊力の結果が城の半壊だ。

 文字通り、ヨルナの踵の一発で天守閣は崩壊し、紅瑠璃城の美しい景観が台無しになる。


「うおわあああ――っ!?」


 その、壮絶な破壊力を目の当たりにして、スバルは頭を抱えて蹲る。

 ギリギリ、吹き飛んだ城の破壊に巻き込まれなかったものの、ものすごい揺れで危うく屋根から転がり落ちるところだ。

 もっとも、それに関してはルイの腕が引き止めてくれていたが。


「うあう!」


「クソ! なんでこうなるんだよ……!」


 ぎゅっと腕を引き寄せられ、中腰になったスバルは涙目になりながら叫んだ。

 舞い散る噴煙が目に入って、それで涙目になったのだ。断じて、分からず屋のオルバルトに提案を断られたことが理由ではない。

 それも、辛いは辛いのだが――、


「ヨルナさん!!」


「下がって、巻き込まれないようにしなんし。生憎と、わっちは手加減が苦手でござりんすから。――とはいえ」


 後ろからのスバルの呼び声に、振り返らないヨルナがそう応じる。

 そこで言葉を切ったヨルナ、彼女は屋根に突き刺さった自分の足を引き抜くと、キモノの裾についた汚れを払い、それから頭上を仰ぎ――、


「さすがに、身の軽いことでありんす」


 そうこぼしたヨルナの直上、舞い上がる噴煙と瓦の破片の幕に紛れ、くるくると回転しながら飛んでいく小さな影――オルバルトの姿がある。

 そのヨルナの視線を浴び、オルバルトは「ハッ」と歯を剥くように笑い、


「お互い、手出し無用って話だったはずじゃが……これで、もう構わんわけよな?」


「この都市で、わっちに勝てるおつもりとは驚きでありんす。耄碌したなら『九神将』の席、後進に譲るのをおススメするでありんすよ」


「かかかっか! そりゃ無理じゃぜ。ワシ、『九神将』で一番長生きする気じゃし」


 空中と屋根の上、視線を交わした両者が攻撃の意志を交換し、互いに身構える。

 ヨルナが口に煙管をくわえ、オルバルトが空中で逆さになり――噴き出される紫煙、それへと空を蹴ったオルバルトが矢のような速度で飛び込んだ。


「――ッ!」


 目を爛々と光らせるオルバルトの足刀が、広がるヨルナの紫煙と正面からぶつかる。

 質量も硬度もあるはずのない煙管の煙、それがオルバルトの足刀を受け、たわむような動きを見せながら衝撃を散らした。

 それを見て、オルバルトは笑みを深め、


「おしゃああああ――!!」


 短い足を高速で回転させ、猛烈な勢いの蹴りが十発、二十発と放たれる。

 一撃、二撃と衝撃を散らした紫煙だが、蹴りの威力に次々と散り散りになり、いよいよ煙が散り散りになると、盾か鎧としての役割を果たせなくなった。

 もとより、多少なりそれが果たせた時点でおかしな話だったが――、


「面白い真似しよる。それ、術技書に書き残しちまいてえんじゃが」


「残念でありんすが、誰も愛せないシノビには真似のできない秘術にこざりんす」


 オルバルトが煙を突破した瞬間、その横合いにヨルナの姿が出現する。

 中空へ跳び上がったヨルナ、彼女はその手に握った高級そうな煙管を振るい、オルバルトのがら空きの後頭部を狙った。

 鈍器というにはいささか頼りない長さと重さ、しかしそれをオルバルトは高速で振った腕で――否、腕に仕込んだクナイで受け止めた。


 甲高い音と共に、オルバルトの袖に隠されたクナイが砕け散る。

 当然、相応の素材だったはずが、クナイはへし折れ、ヨルナの方の煙管には何の被害もない。いったい、ヨルナの煙管は何でできているというのか。


「かかか、年寄りはいたわるもんじゃぜ。いたぶるなんざ、とんでもねえ娘っ子よ」


「いたわるに足る老爺がいるのは否定しんせん。でも、オルバルト翁がそれとはわっちには到底思えんでありんす。然らば」


「仕方ねえから、自分のことは自分でいたわるとするんじゃぜ」


 軽口を交わしながら、互いに致死性の攻撃をポンポンと放り込む。

 ヨルナの細腕、長い足から繰り出される一撃はその美しい見た目に反して、いずれも城壁さえ崩壊させる強大な威力を秘めている。

 それと比べ、オルバルトの攻撃には派手さがなく、あくまでヨルナの攻撃をいなしながら、合間合間にちょっかいを入れる程度のものだ。

 だが――、


「別に、人殺すのに城崩す力なんていらんからよ。究極、でこに長めの針一本刺したら死によるんじゃぜ」


「なら、試してみなんし」


 ヨルナの静かな挑発を受け、オルバルトの老獪な顔つきが空に溶ける。――否、常人の目で追い切れないほど、凄まじい速度で動き始めたのだ。


 蝶のように舞い、蜂のように刺すという往年の名ボクサーがいたが、半壊した天守閣を舞台にしたオルバルトの戦いぶりはまさにそれだ。

 もっとちゃんと言い方を近付ければ、戦闘機みたいに飛び回り、狙撃銃みたいにぶっ放すという方が合っているかもしれない。


「よくよく、飛び回る御仁でありんす。少しやんちゃが過ぎなんし」


 オルバルトの脚力故か、踏まれる瓦が爆ぜ、次の瞬間には別の場所からオルバルトの姿が現れ、ヨルナへと一撃が加えられる。

 それを、ヨルナは超人的な反射神経を駆使し、煙管で受けるか、あるいは避ける。どちらも超越者、それ故の激戦に、スバルは息をすることも忘れた。


「あう……!」


 そのスバルの隣で、同じ光景を見ているルイはぎゅっと体を縮めている。

 戦いが始まったばかりのときは、この状況で待ち続けることに堪えかねて、ルイが飛び出してしまうのではないかという不安があった。

 でも、ヨルナとオルバルトの戦いは、もはやそんな次元のものではない。


 どっちが勝ったとしても、とんでもない被害が発生するだろう。

 それはあまりにも、スバルの理想と違う結果だ。


「でも、どうしたらいい? どうやっても止められないだろ……!」


 これだけ派手に戦っている上、天守閣が豪快に壊れてしまったのだから、街のどこにいる人たちにも城で何かが起こっているとわかったはずだ。

 そうなると、ヨルナを慕っている街の人たちが大挙して押しかけてきたり、あるいはオルバルトの仲間である偽皇帝一行が動き出す可能性もある。

 そうなったら、街を挙げての大戦争の始まりだ。


 それは、スバルの望みではない。

 たとえヨルナを、アベルが玉座に戻るための大きな戦いに誘いにきたのだとしても、準備不足で始まった戦いが、どんな悲劇をもたらすものか。


「しいいはああ!!」


 高い声が上がり、回転する怪老の両足がヨルナの手前の屋根を穿った。直後、衝撃が屋根を伝い、ヨルナの足下が爆発、彼女の体が高々と舞い上がり、空にいるものと地に足をつけたものと、最初の状況が入れ替わる。


「――――」


 宙へ上がったヨルナの下へ、四方から迫るのはオルバルトが投じた手裏剣だ。

 いったい、いつの間に投げたのか全くわからない。ヨルナを空に上げてから投げたのか、それ以前からくるとわかっていて投げたのか、いずれにせよ、逃げ場がない。

 空の上で、ヨルナの柔肌へと手裏剣が残酷な傷を付ける――否、


「わかっておりんしょう。わっちはこの街の主、魔都の支配者でありんすと」


 そう応じたヨルナの周囲、回転する刃を止められた手裏剣が制止する。

 それを成し得たのは超高速で動いたヨルナ、ではない。ヨルナは動く必要すらなかった。手裏剣を止めたのは、空に舞い上がっていた屋根瓦の一枚だ。


 恐ろしいほどの幸運とは言えない。

 何故なら、四方から迫った十枚以上の手裏剣、その全てが瓦に受け止められるなんて偶然、どんな豪運であっても起こるはずがないからだ。


 その光景に目を見張るスバルやオルバルトの視界、ヨルナがそっと腕を振る。

 すると、彼女の腕の動きに合わせるように、手裏剣を受け止めた瓦が空を泳ぎ、そして彼女の周囲を螺旋状の階段を作るように宙で停止した。


 悠然と、ヨルナの厚底が瓦を足場にし、ゆっくりと天守閣へ降りてくる。

 それは突然のイリュージョン、あるいはサイコキネシスが発揮された場面だ。もちろん魔法と言い換えることもできるが、スバルの知る魔法とはちょっと違う。

 操ったのは火や氷、風や土ではなく、建物のパーツそのもので。


「かーっ、本当に厄介じゃぜ、お前さん。これがあれかよ。セシルスやらアラキが言っとった手品ってわけか。どうやっとんのよ」


「言ったはずでありんしょう。他人を愛せないシノビにはできない秘術……わっちは、こう見えて物を大切に扱う女でござりんして」


 微笑み、唇に煙管を挟み止めたヨルナが空いた両手をパンパンと叩く。

 するとそれを合図に、半壊した天守閣に変化が生じた。――否、それは変化なんて生易しいものではない。現実を、夢のように歪める魔技だ。


「こ、これって……」


 足下が歪み、息を呑んだスバルの腕にルイが抱き着く。その体を支えてやりながら、スバルは目の前で起きる異変、半壊した天守閣の修復を目の当たりにした。

 ゆっくりと、傷が治っていく映像を何倍速にもしたみたいに直っていった建物。


 アベルの推測した『魂婚術』の使い手であるヨルナ、そして先ほどの彼女の言葉を組み合わせると、起こった出来事に一個の仮説が思い浮かぶ。

 とても、とても馬鹿げた話だが、ヨルナ・ミシグレは――、


「お、お城にも『魂婚術』を使ってる……?」


 そう、文字通りの規格外ぶりを発揮する魔都の主人に、絶句するしかなかった。



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― 新着の感想 ―
スバルって毎回状況が悪すぎるだけで死に戻り抜きにしても修羅場で役に立つタイプだよな、子供の頃でもここまでやれるわけだし ……というか、そもそも一章からまとめて全部死に戻りがあってなお難しい難易度なのが…
[良い点] 語彙が幼くなってるスバル、かわいい [気になる点] 敵対しちゃったけど体元に戻してもらえるのかな [一言] ヨルナさん子供には優しいけど、スバルが元に戻ったら態度変わらないか怖い
[良い点] 「ありがとう」
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