第七章50 『眺めのいい"穴"』
胡散臭いウビルクと別れ、いくつかの小路を折れたところで足を止める。
周りをきょろきょろと見回し、スバルは人がいないか確かめる。もちろん、ウビルクがうっかりついてきていないかも入念に確認したところで、
「――答えは、俺の中にある」
「あう」
と、ウビルクから告げられた言葉を反芻するスバルに、ルイが首を傾げた。
詳細の全くわからない『相談役』という仕事をしていると話したウビルク、詐欺師の印象が全然消えない彼だったが、その指摘はわりと的確だった気がする。
本当に、ウビルクにはスバルの欲しがるものが見えていたのかどうか、それはよくわからないのだが――、
「……『見晴らしのいい奈落』は、わかったかも」
答えはスバルの中にある、というウビルクの言葉がヒントになった。
まさか、消えたオルバルトがこっそりとスバルの体の中に隠れているという意味ではないだろう。あれはたとえ話で、オルバルトのヒントも謎かけだ。
『瞼の裏側』というナゾナゾ、その答えが最初の部屋だった。
だから当然、『見晴らしのいい奈落』もナゾナゾで、答えがどこかにあるはずなのだ。
そして、ウビルクの言った答え、それがスバルの中にあるということは、
「俺がいったことのある場所、って考えそうになるけど、そうじゃなくて」
「あうあう?」
「この街で、俺がいったことある場所なんてあんまりない。宿屋を外したら、もうヨルナのお城ぐらいだ。でも、奈落っぽい感じがしない。そうじゃなくてさ」
「うー」
「奈落っぽいって、どういうことかなんだよ」
オルバルトの提示した『見晴らしのいい奈落』だが、そもそも『見晴らしがいい』ことと『奈落』は反対ぐらい違う言葉だ。
見晴らしがいいというのは、眺めがいいということ。奈落は深い穴のこと。眺めのいい穴なんて、ちっともちゃんとしていない。
だから、どっちかが嘘なのだ。そして、見晴らしがいいことの嘘はつけないから、嘘をついているとしたら奈落の方しかない。
「奈落っぽくて、奈落じゃないモノ……」
そんな場所、スバルがカオスフレームでいったことのある場所にはない。
宿を出ていないアベルたちも、きっと同じだ。――そもそも、オルバルトだって魔都のことにどこまで詳しいのか、よくわからない。
でも、オルバルトもあまり出歩けていないと思う。だって、偽物の皇帝――ヴィンセントを守るために、一緒についてくるのが仕事なのだから。
だから、あまり知らない街でも、その答えがごちゃごちゃしない場所だ。
『見晴らしのいい奈落』って説明で、カオスフレームだけに限らないところ。
それは――、
「――ルイ、高い場所にいくぞ」
「うあう?」
ぎゅっと目をつぶって、それからそう言ったスバルにルイが目を丸くする。
意味が通じたとは思っていない。ただ、手を引いたルイが大人しくついてくることさえ確認できたら、それ以上は求めない。
残り時間も少ない。外れていたらと不安だが、やってみるしかなかった。
オルバルトの隠れた『見晴らしのいい奈落』、そこに最も近い場所へ――、
「――空に、一番近い場所にいかないと」
△▼△▼△▼△
一方的に話されたウビルクの『助言』、それがスバルをその答えに辿り着かせた。
『見晴らしのいい奈落』、別の言い方をしたら『眺めのいい穴』。
奈落とはただの穴じゃなく、どこまでもどこまでも落ちていくような深い穴のこと。もっと言ったら、果てなんてなさそうに深い穴のことだ。
そして、ウビルクの言う通り、スバルはそれを感じたことがある。
それも、ほんの少し前のリアルタイムで。
「通りで、あの男の子に投げ飛ばされたときだ」
頭にカッと血が上り、飛び出したスバルの腕を掴んだ羊人の少年。謝られながら投げ飛ばされ、高々と空へ上がったスバルは、ぐるぐると回りながら何度も思った。
――自分が、青い空に向かって『落ちて』いくのだと。
もちろん、起きた出来事を見たらそれは間違いだ。
実際のスバルは空に放り投げられて、周りから見たら高いところへ上がっていった。でも、当事者のスバルはどっちが上か下かもわからなくなって、思ったのだ。
自分は、青い空に向かって落ちていくのだと。
果てしない、青々とした底なしの『穴』へと落ちていくのだと。
「それが、眺めのいい穴の正体……だから、この街で一番空に近い場所」
その場所が、オルバルトの言った『見晴らしのいい奈落』の正体とスバルは考える。
だから、一番高い場所を目指そうと考えたのだが――、
「あー、う!」
スバルの気持ちを知ってか知らずか、破顔したルイがビシッと一点を指差す。
繋いだ手を元気よく振りながら、空いた手で遠くを指差したルイに、スバルの方は空いた手で自分の顔を覆っていた。
話についてこれないルイが悪ふざけをしているから、ではない。
むしろ、今回に限ってはルイはちゃんとスバルの考えを理解している。この街で、カオスフレームで一番空に近い建物、それを指差していたのだ。
ただ、その建物がスバルを悩ませる原因だった。
「う!」
「お前も、あれだと思うんだよな……」
ぐいぐいと手を引かれ、スバルはルイの指し示す建物――紅瑠璃城を見上げる。
ヨルナ・ミシグレのお城であり、この魔都で一番高い場所にある建物。そして、縮んだままのスバルでは、間違いなく門前払いを喰らう場所でもあった。
元々、オルバルトとかくれんぼすることになったのも、お城で待っているヨルナの要求に答えることが目的だ。――これでは、順序があべこべだった。
「でも、オルバルトさんの性格の悪さなら、十分仕組みそう」
オルバルトも、スバルたちが元に戻りたい理由は知っている。
その元に戻るための手順に、一度は紅瑠璃城にいかなくちゃいけないとするのは、『悪辣翁』なんて名前で呼ばれるオルバルトらしい悪巧みに思えた。
問題は――、
「どうやって城に入ったらいい……?」
『幼児化』し、縮んだ外見でナツミ・シュバルツを名乗ることはできない。というか、それができるならオルバルトとのかくれんぼは後回しにしてもよかった。
ヨルナにこっちの事情は話せない。ヨルナのお付きのタンザ、彼女がオルバルトの協力者らしい状況ではなおさらだ。
そうなると、城に近付くこともかなり危険に思われるが。
「うあう」
「うん、わかってる。……もし、オルバルトさんと協力するのを、タンザがヨルナさんに隠して勝手にやってるんなら」
紅瑠璃城の周辺には、むしろタンザの仲間の角のある亜人の姿が少ない気がする。
城の周りで騒ぎが起これば、いくら何でもヨルナが事情に気付くだろう。それは、タンザにとっても嬉しくないことのはず。
いっそ、タンザの悪さを告げ口した方がいいかもしれない。
「待て待て、それは早まりすぎだ。ヨルナさんがタンザの味方をする場合だってある。っていうか、その可能性の方がずっと高い」
自分が可愛がっている子どもと、得体の知れない子どもの二人が現れたら、どちらの言い分を信じるかなんて考えるまでもない。
タンザの企みをヨルナに告げ口する案は、考えても実行しない方がいい。
でも、紅瑠璃城の周辺は敵が少ないと、そう考えるのは間違いではない気がした。
「やっぱり、城に潜り込むのが一番だ。あとは城のてっぺん……そこに、オルバルトさんが隠れてくれてると祈るしかない。ルイ、ちょっといいか?」
「あー?」
「お前の、あのワープだけど……俺も一緒に飛ばせてたよな?」
ルイの青い瞳を見つめながら、スバルはそう問いかける。
通りで最初にルイが暴れ回った際、彼女は崩れたテントの下から抜け出すために短距離転移を使い、覆い被さるスバルごと別の場所に転移した。
あの瞬間、お腹の中身がひっくり返るみたいな感覚があって、そう何度も体験したいものではなかったが、その便利さは言うまでもない。
あくまで、飛べる距離には制限があるようだったが。
「あの力があれば、城の中に入り込める。お前、ちゃんと使えるか?」
「あう!」
「ホントか? たぶん使えるじゃ困るんだぞ。ちゃんと使いこなせないと、俺もお前もどっちも危ない。だから」
「うー……っ」
念押しするスバルに、ルイが不満げに頬を膨らませる。そのまま、彼女はぎゅっとスバルの手を握る力を強くすると、
「うあう」
「――っ」
パッと、瞬きの間に周囲の風景が切り替わった。
目の前のルイに注目していたから、ルイの姿は変わっていない。ただ、ルイの周りの景色が薄暗い路地から、明るい通りへ、そしてどこかの建物の一室へ、続けて建物の屋根の上へと、次々と瞬く間に変化する。
ちゃんと使いこなせると、そう証明するかのように。
「わ、わかった! わかったから、もういい! もうやめてってば!」
「あうー」
「俺の負けだ! 俺の負けでいいから!」
膨らんだ頬から空気を抜いて、ルイが勝ち誇ったように頬を緩める。その傍らに膝をついて、スバルはゾッとするような経験に背筋が冷たくなった。
スバルと手を繋いだまま、ルイは瞬く間に五回は短距離ワープを行った。そのたびに周りの風景が変わって、とんでもない経験だ。
まるで悪夢を見ているみたいだった。
「でも、これなら……う」
「う?」
「おええええっ!」
いける、と拳を固めようとして、すぐに込み上げてくる胃液が喉を焼いた。その場に跪いたまま、スバルは盛大にお腹の中身を地面にぶちまける。
短距離ワープと、内臓がひっくり返る感覚は切っても切り離せないものだ。
でも――、
「べ、便利だ。これがあれば……うえっ」
「うーあ」
まだまだ込み上げてくる酸っぱい衝動と戦いながら、スバルは紅瑠璃城を睨む。
そのスバルの横で鼻に皺を寄せたルイは、初めて自分からスバルの手を離して、少し遠いところからスバルの嘔吐が終わるのを待っているのだった。
△▼△▼△▼△
――飛ぶ方向を指差して、ルイの手を強く握る。
それが、スバルが紅瑠璃城に忍び込むためにルイに教えた合図だった。
まるで子犬に芸を仕込むような心地だが、実態はそんな生易しいものではない。
ルイを犬のように扱うつもりはなかったし、子犬ならもっと可愛げがあった。少なくとも、いつ誰に飛びかかって大ケガさせてしまうかビクビク怯える必要なんてない。
彼女の扱いには、細心の注意を払う必要があった。
「ストップ」
小さく呼びかけて腕を引き、ルイの足を止めさせる。
スバルが口元に指を立てて「しー」と指示すると、ルイも同じように自分の口に指を当てて、「うーっ」と真似をして口を噤んだ。
その様子を確かめて、スバルはルイを後ろに置いたまま、そっと道の先を角から覗き込む。――十メートルぐらい向こうに、強そうな門兵の姿があった。
腕を組んで、どんと門の前に堂々と座っている門兵は、蜥蜴のような顔形をした蜥蜴人の亜人だ。全身を青い鱗で覆っていて、とても頑丈そうでカッコいい。
大口を開ける欠伸が遠くからも見えたので、あまり真剣に門番をしているわけではないようだ。けど、彼を避けて門を通り抜けることはできそうにない。
だから――、
「ルイ」
ルイの名前を呼んで、自分の方に注意を向けさせる。そして、彼女の見ている前でスバルは指を壁に――紅瑠璃城をぐるりと囲む、石垣に向けた。
そのまま、ぎゅっとルイの手を強く握る。
「――――」
次の瞬間、スバルとルイの体は城壁を飛び越え、城の敷地内に入っていた。
門番との押し問答や、力ずくで突破するなんて途中経過をすっ飛ばした侵入――子ども心にも、これが反則技だと警備に同情したくなる。
どんな厳重な警備や警戒も、ルイの転移の前には何の役にも立たない。
監視カメラがあれば別かもしれないが、そんなものはこの異世界にはないのだ。警備が人力に頼るしかない世界で、神出鬼没のワープは完全にチートだった。
もっとも――、
「見られたらダメだし、慎重にやらないと……」
城の外、敷地外なら何とでも言い訳できたが、さすがに城の敷地に入ったあとで見つかったら言い訳ができない。
ルイの短距離ワープも、連続で使う場合は二回まで。三回以上は絶対に吐くぐらい気持ち悪くなるし、もっと悪いと気絶してしまうかもしれない。
もし、誰かに見つかって、逃げている最中にスバルが気絶してしまったら。
「誰も、こいつを止められなくなる」
「う?」
無邪気に首を傾げ、スバルの懸念がわからない顔をしているルイ。
彼女に、もう誰も殺させない。――それが、ルイを連れて逃げたスバルの誓いだ。
縮んでしまった幼いナツキ・スバルには、ルイに対するちゃんとした結論が出せない。だからせめて、今の自分が出せる精一杯の結論は成し遂げたい。
それが、ルイに誰かの命を奪わせないことなのだ。
「……外壁に掴まって、休憩しながら飛んでくのは無理だよな」
目指すは『見晴らしのいい奈落』だが、それがお城のてっぺんだとしても、ルイのワープ頼りで外から上っていくのは難しそうだ。
たぶん、どこかで足を滑らせて落っこちてしまうのと、いくらこそこそと人目を忍んでも、城の壁をよじ登っていたら誰かに見つかってしまう。
ましてや、ここはヨルナ・ミシグレの城なのだから。
「ヨルナさんに見つかったら、一番マズい」
道中、ヨルナの力の一部を『魂婚術』で引き継いだ追っ手と何度も戦った。
強力な力があっても、戦い方の素人である彼らはルイの相手にはならなかったが、さすがに『九神将』の一員のヨルナはそれとは別格だろう。
もしも戦うなんてことになったら、いくらルイでもどうなることか。
そもそも、ヨルナと戦わなくちゃいけなくなったら、スバルたちがこの街にきた目的が果たせなくなる。大失敗だ。レムにも顔向けできなくなる。
「気を付けながら、城の中を飛び飛びでいくしかない」
昨日、一度お城に入った経験からすると、城内の見回りはほとんどいない。
来客がいても待合室にほったらかしにしていたぐらいだ。誰もきていないときの警備なんてもっと笊だろう。門番の欠伸も、その証明だった。
街の支配者のお城で、そんなに油断ズルズルなことがあるだろうかとも思うが。
「――うだうだしてても仕方ないよな。もう、中に入っちゃったんだから」
「うー?」
「ああ、いこう。……壁の向こうに誰もいないように祈りながら」
城の壁ともなると、耳を当てても向こう側の音なんて聞こえてこない。だから、最初に城壁を通り抜けるとき、人に見つからないかは完全に運任せだ。
これまでの経験上、運がいいなんて口が裂けてもスバルには言えない。
それでも――、
「……誰もいなそう」
ほとんど見回りもいない城内で、いきなり見つかる不運には出くわさなかった。
「――――」
きょろきょろと左右を見回し、スバルはルイを背後に庇いながら、彼女の短距離ワープで無事に潜り込んだ紅瑠璃城の廊下を窺う。昨日は気にならなかったが、板張りの床の上を歩くときは足音に十分注意しなくてはいけない。
あと、廊下で誰かと出くわすと、左右に隠れる場所がほとんどない。
いざとなったら躊躇わず、ワープで部屋の中に転移する必要がありそうだ。
「連続して使わなければ大丈夫、かな」
ルイ自身の反動はわからないが、スバルも間を開けて一回ずつの転移なら、たぶん吐かずに我慢するぐらいできそうだ。
場合によっては左右だけでなく、上に転移することも考えるべきだろう。――否、むしろ積極的に上へ飛んでいくべきかもしれない。
「慎重に階段探すより、結果的にそっちの方が中をうろうろする時間が減るか? でも、あんまり気軽に上にいくと、見つかりたくない相手に見つかるかもだ」
当たり前だが、紅瑠璃城でヨルナが暮らしているなら、彼女は常にここにいる。そして城の持ち主なのだから、彼女の暮らす部屋は城の上の方にあるだろう。
城のてっぺんを目指すということは、ヨルナの近くに上がっていくということだ。
スバル的には全然ピンとこないが、この世界には相手の気配を感じる達人たちがいる。
ルイの転移があっても、息遣いや足音をどれだけ抑えても、自分では消し切れないモノだってある。それがどこまで不利に働くか、ここから先が勝負だ。
「とにかく、できるだけ慎重にいくぞ。もし見つかったら――」
「――見つかったら、どうするでありんす?」
瞬間、背筋が凍るような声が真後ろからして、スバルは肩を跳ねさせる。
その衝撃は手を繋いだルイにも通じており、彼女も目を見開いて驚きを露わにしていた。弾かれたように、スバルとルイが背後に振り返る。
そこに――、
「童同士が手を繋いで、何とも可愛らしいものでありんす。わっちも思わず、頬が綻んでしまいんすなぁ」
出くわしてはならない相手、ヨルナ・ミシグレの美貌が佇んでいた。
△▼△▼△▼△
「――ぁ」
誰も、いなかったはずだ。
一瞬前まで、廊下にはスバルとルイ以外誰もいなかった。
いなかったにも拘らず、ヨルナは突然に現れた。
そういう、スバルみたいな一般人の注意とか慎重とか、懸命な準備を全部足蹴にして、蔑ろにするような力というものを、彼女たちは持っている。
――異世界の、超越者たちというものは。
「どちらも、わっちの知らん顔でござりんす」
手にした煙管から煙をくゆらせ、スバルたちの顔を見下ろしたヨルナが呟く。
昨日、城のてっぺんで目にしたときと同じ、艶やかなキモノ姿の女性。ただ、ほとんど座った姿しか見ていなかったから、こうして立ち姿を正面にすると圧倒される。
スバルが縮んでいるせいもあるが、ヨルナは背が高い。ミディアムほどではないが、厚底の履物の効果もあって、アベルよりも目線が高いだろう。
その高さから青い視線に見つめられると、喉が凍り付いた。
「そう怯える必要はありんせん。何しにわっちの城にきたでありんすか?」
「う……」
声の調子は平坦に、そう尋ねられてスバルは自分の馬鹿さを呪った。
慎重を期して忍び込んだつもりなのに、見つかったときの言い訳の一個も用意してこなかった。浅はかとは、まさにこのことだ。
案の定、何も言えずに口ごもるスバルを見て、ヨルナが切れ長の瞳を細める。何か言わなくては怪しまれると、そう心臓が爆発しそうなくらい跳ねて――、
「タンザ、でありんすか?」
「え……っ」
「主さんらが、こうして城にいる理由でありんす」
そう指摘され、スバルの凍り付いた喉がひび割れる音がした。
まさか、何も言えずにいた数秒間でそこまで見透かされるとは、完全に予想外だ。それと同時に、スバルは自分の正体を見抜かれたのだとも悟る。
たったの一瞥、それだけで魔都への長い旅路も、何もかもが無駄になった。頭の中でアベルが「たわけ」と冷たく言い捨てる声が聞こえた気がする。
そのまま足下が抜けて、真っ逆さまに後悔の奥底に落っこちていくような錯覚を味わい、スバルの無謀な試みはここで――、
「うあう」
その真っ暗闇に落ちる意識が、ぎゅっと強く握られる手の感触が引き止めた。
思わずスバルが隣を見ると、横に並んだルイがスバルの顔を見ている。微かに震える青い瞳は、スバルからの指示を――いつでも飛べると、そう言っていた。
そのルイの懸命な眼差しが、スバルの危うげな精神を立て直す。
顔を上げれば、ヨルナは静かに先ほどの問いかけの返事を待っていて、スバルを急かそうともしていない。――まだ、諦めるには早い、かもしれない。
ヨルナは、スバルたちが城にいるのはタンザが理由かと聞いた。
それは合っている。でも、半分だけだ。もう半分を埋めるために、賭けに出る。
「あの、ヨルナさん……ヨルナ様」
「なんでありんす?」
「タンザちゃんは、どこにいますか?」
意を決して、そう尋ねたスバルにヨルナの瞳がすっと細められる。
数秒にも満たない一瞬、スバルは自分が狐に捕まった鼠のような心境を味わった。たぶん、現実的には狐と鼠よりも力の差がある相手。
そんな相手と向かい合い、永遠にも思える数秒を過ごす。ヨルナは押し黙るスバルとルイの前で煙管を口にくわえ、紫煙を肺から吐き出して、
「生憎と、タンザは使いに出していんす。もう、戻ってもいい頃でありんしょうが……」
「――――」
そのヨルナの答えに、スバルはわずかに強くルイの手を握り返した。ルイがスバルの方を見て、どこか指差していないかきょろきょろと視線を彷徨わせる。
反応してくれたルイには悪いが、飛ぶための合図ではなく、賭けに勝ったとスバルがとっさに力を入れてしまっただけだ。
賭けに、そう賭けに勝った。
直前のヨルナの質問は、スバルたちの目的を見透かしたものではなかった。もちろん、スバルたちの正体を暴いたわけでもない。
それはもっと単純で、穏やかな質問だった。
実際、スバルにそう答えたあと、ヨルナは「まったく」と片目をつむり、
「タンザにも困ったものでありんす。わっちのために尽くすのはよくても、友人との約束を忘れるようでは従卒なんて務まりんせん」
「と、友達……」
「あれは律義な子でござりんしょう? その矛先を、わっちにだけ向けるようではダメと、そういつも言っているでありんすが」
そうこぼし、ヨルナがタンザの姿勢を評して肩をすくめる。
そのヨルナの言葉と仕草に、スバルは意外なものを覚えて眉を上げた。
昨日の、城のてっぺんで見せた意地悪で底知れない魔都の女帝。
そんな印象が一転、今のヨルナの態度は全く違うものに感じられたからだ。それも、もっと身近でわかりやすい、子どもを案じる大人の雰囲気に。
その印象を後押しするように、ヨルナは「ふぅ」と小さく吐息をこぼすと、
「タンザの不注意でありんすが、追い返すのもしのびのうござりんす。――部屋で、タンザが戻るのを待ちなんし」
そう言って、くるりと背を向けたヨルナがゆっくりと歩き出す。
底の厚い履物にも拘らず、板張りの床の上を無音で歩くたおやかな仕草は、どれだけ足先まで洗練されているのかと目を疑うほどだった。
そうして、ただの歩き姿に目を奪われるスバルの前で、ふとヨルナが立ち止まり、
「ついてきなんし。わっちが案内しんしょう」
「うえ……!? ヨルナ様が、ですか!?」
「あう?」
思いがけないヨルナの厚意に、スバルは仰天してしまう。そのスバルの驚きぶりにルイも首を傾げ、二人の様子を見るヨルナがそっと口元に手をやり、笑った。
決して意地の悪いものではなく、ただひたすらに穏やかな微笑みで。
「ここはわっちの城でありんす。当然、もてなすのはわっちの役目でござりんしょう。タンザが留守の今、二人の相手をするものもいりんせん」
「あ、えと……」
「あの子の友人がくるのも初めてのことでありんす。さ、ついてくりゃれ」
顎をしゃくり、ついてくるよう命じてくるヨルナ。彼女の仕草を目で追って、スバルはどうすべきか一秒だけ悩んだ。
これが罠である可能性を疑ったが、すぐにその考えは手放す。
だって、ヨルナにスバルとルイを罠にかける理由なんてない。その気になれば、指一本でスバルを押さえつけ、ルイを指何本かでやっつけることもできる人だ。
しかし、そうなると本当に善意で案内を買って出てくれたことになる。それはそれで、昨日のヨルナの印象と全く違ってしまうのだが――。
「うあう」
ぐるぐると、頭の中身を回転させるスバルの手をルイが引っ張る。見れば、どうやらルイはヨルナについていくことに異論はないらしい。
そのルイの反応が、スバルの足を動かす最後のひと押しになった。
たぶん、ルイの方がスバルよりも危機察知能力が高いはず。そのルイがヨルナを警戒しないなら、すぐさま何かをされる心配はないのだと。
「童?」
「い、いきます!」
再三のヨルナの呼びかけに、裏返った声で応じてスバルも歩き出す。ちょこちょこと短い足の歩幅でついてくるスバルに、目を細めたヨルナも歩みを再開した。
これを幸運と、そう捉えていいのかわからないが、見咎められるよりずっといい。
「主さんらは、余所の子たちでありんしょう?」
「え……」
「見ない顔でござりんす。わっちの『恋文』も、受け取っておりんせん」
知らない顔、見ない顔とはさっきも言われた言葉だ。続いた『恋文』という表現も、心当たりのあるものではなくて、スバルは「は、はい」と頷いた。
「街の外から……その、怖い大人と一緒に」
「怖い大人……それはそれは、苦労も多そうでありんす。何故、怖い大人さんと?」
「な、成り行きで……」
ヨルナの質問に、注意しつつもある程度の本音でスバルは答える。
実際、怖い大人――アベルと一緒に行動しているのは、かなり成り行きの部分が大きい。もっとも、『一緒に行動していた』と過去形にすべきなのかもしれない。
ルイを連れて逃げたスバルを、アベルがすんなり許すとも考えにくかった。
そもそも――、
「俺が、許されなきゃいけないことなのかな……」
ルイをどう扱うか、それを決めかねたことを責められる謂れは、ないと思う。
確かに、ルイの素性を隠していたのは悪かった。でも、隠さないで話した結果がこれならば、やっぱり隠していたのが正解だったということだ。
謝ることがあるとすれば、最後まで隠し切れず、途中でばらしてしまったこと。
「――。何とも、複雑な心地のようでありんすなぁ」
と、不意に歩く速度を緩め、ちらと振り返るヨルナが自分の眉間を指で叩く。その白い指が触れた肌には何もない。彼女自身ではなく、スバルの眉間を示したのだ。
そこにはたぶん、答えの出ない考え事で作られた皺が深く刻まれている。
「童が、そうそう難しい顔をするものではござりんせん。――その怖い大人、わっちが仕置きしてあげんしょうか」
「仕置きって……え、ヨルナ様がですか?」
「ふふ、こう見えて、わっちはなかなか力持ちでありんすから」
袖を持ち上げて柔らかく振るヨルナ、その言葉にスバルは仕置きされるアベルの姿を幻視して、すぐにぶんぶんと首を横に振った。
ヨルナの仕置きが、その響きほど可愛い結果に留まらない予感がしたのと、ちょくちょく感じているヨルナの印象のギャップ。特に後者のビックリが大きい。
「心配してくれるのは嬉しいですけど、大丈夫です! その、たぶん、話せばわかる相手だとは思うので……」
「そうでありんすか。話せばわかるなら、それに越したことはござりんせん。とかく、世間には話の通じぬ方々が多くおりんすから」
「――。ヨルナ様は」
「うん?」
一瞬、言うかどうか迷って言葉が途切れ、その様子にヨルナが足を止める。
もう何度も足を止めさせてしまって悪いと思う気持ちと、この先を言ったらヨルナの怒りを買うのではないかという不安、それがわかっていて口走った自分の浅はかさと、色んなものがごちゃ混ぜになって頭の中を過る。
小さくなって、判断力も思考力も下がっているのは十分感じていた。
しかし、一番の問題はこの堪え性のなさというか、抑えの利かなさな気がする。ルイを連れ出したことも、準備不足で紅瑠璃城に忍び込んだことも、どちらも。
その弾みの流れで、これを口にするのは躊躇われたけれど――、
「その、ヨルナ様は、ちゃんとお話を聞いてくれるんですね。てっきり、偉い人は怖い人だって、勝手に思ってたから……」
「ふむ」
ひどく失礼なことを口にした自覚から、スバルは途中でヨルナの目を見ていられなくなった。だが、そのスバルの話を聞いて、ヨルナは小さく喉を鳴らすと、
「見たところ、主さんらは亜人ではなさりんしょう」
「ええと、そうです」
「その主さんらの目から見て、この都市はどう見えるでありんすか?」
「この街……」
唐突感のある質問に、スバルはその視線を廊下の窓に向ける。壁の高い位置にある窓は小さく、今のスバルの背丈では外の様子を覗くことはできない。
ただ、薄ぼんやりと見える青い空、それがすぐ近くにあることはわかって。
「すごい、賑やかな街だなって。色んな人が、たくさんいるし」
言葉を選びながら、スバルはできるだけ素直な印象を口にする。
賑々しい街だという印象は、かなり最初の時点からあった。雑多に色々と積み上げたような街の見た目もそうだし、中で暮らしている人々の種類豊富さもそう。
目にも耳にも、慌ただしい街という印象が強かった。
「素直な童でありんす。でも、それが耳心地ようござりんす」
そんなスバルの感想を聞いて、ヨルナは薄く唇を綻ばせる。
それから、彼女はスバルが見るのと同じ窓――おそらく、見え方が違う外の景色を眺めながら、
「この都市には、余所で暮らしづらいものたちが大勢集まりんす。街の外では小さくなって、行き場のない子ら……声を上げても、気付かれのう子らでありんす」
「声を、上げても……」
「その子らが辿り着いた終の地で、わっちが子らの言葉に耳を貸さのうござりんしたら、いったい誰が耳を貸してやれるんでありんしょう」
言いながら、煙管を口にくわえるヨルナの瞳を艶やかな光が過った。
それに胸を突かれる感覚を味わい、スバルはひどく自分が恥ずかしくなる。――今の、ヨルナの言葉を聞いて、彼女に対する印象が大きく変わるのがわかった。
『愛情深い方です。味方を愛し、敵を憎む。――魔都を生きる、全てのものの恋人』
昨日、ヨルナについてタンザに尋ねたとき、鹿人の少女はそう答えた。
あのときは、それがどういう意味なのかスバルにはちっともわからなかった。アベルから『魂婚術』の話を聞いたとき、その力を意味するものなのかと思った。
でも、たぶん、タンザの言いたかった本当の意味は、それのことではない。
――ヨルナ・ミシグレが、本心から何を大事にするかの答えだったのだ。
「ごめんなさい、ヨルナさん……」
そう思った途端、スバルはまたしても堪えが利かず、そう謝ってしまっていた。
突然のスバルの謝罪、それを聞いたヨルナは紫煙を吐きながら笑い、
「何も謝ることはありんせん。偉いお人が怖く見えるのは、そうしないと偉いお人も怖いからでありんしょう。怖がられていた方が通しやすい筋もある、でありんす」
「偉い人も、怖がられてたい……」
なんだろう。それは、とても覚えておくべきことを聞かされた気がする。
そして、たぶんヨルナにとっても他人事ではない理屈に思えた。
「心配しなくとも、わっちはこのぐらいのことで童に怒るようなみっともない真似はいたしんせん。ちょうど、機嫌もいいところでありんした」
「あう?」
「ええ、そうでありんす。――長く、欲しかったものに手が届きそうな兆しが見えてきたでありんして」
目尻を下げ、今一度袖を振ってみせるヨルナ。
彼女の受け答えには怒りの色がない。自分で言った通り、子ども相手に大人げない対応をする性格でもないのと、実際に上機嫌なことが理由だろう。
その上機嫌の裏にあるのは、おそらく、アベルの送った親書の内容――、
「――――」
そう考えたところで、スバルは今度こそ堪えて、慎重に思い悩んだ。
ヨルナが前向きに捉えている親書、その内容がちゃんと約束されるかどうかは、アベルやスバルたちが無事に紅瑠璃城で合流できるかにかかっている。
でも、スバルたちの行動を妨害しているのは、ヨルナの付き人のタンザなのだ。
さっきまでのやり取りからも、ヨルナがタンザを大事にしているのは伝わってきた。
もしも、自分の望みとタンザの望みとがぶつかった場合、ヨルナはどちらを選ぶのだろうか。――前にも誰かのために、皇帝に逆らったことのあるヨルナ。
置かれた真相を知ったとき、ヨルナはいったい、どちらを――。
「――また、眉間に皺を刻んでおりんすな」
とんとんと、ヨルナが自分の眉間に指を当てて、スバルの苦悩を指摘する。そのヨルナの仕草につられて、ルイも自分の額をぺちぺちと叩いていた。
その、ヨルナとルイの様子を見て、スバルは微かに息を吐いた。
これも、もしかしたら早まった考えなのかもしれない。
でも、それが正しいのか間違っているのか、ちゃんと考える頭が今はないから――、
「あの、ヨルナさんにちょっと、聞いてほしいことが――」
△▼△▼△▼△
――紅瑠璃城の天守閣、その屋根瓦の上、青と赤が入り混じる輝きを尻に敷く。
そうして、高所特有の澄んだ風を浴びながら、懐に呑んだ瓢箪に口を付ける。ぐいぐいと渇いた喉を酒で潤しながら、眼下の光景に頬杖をついた。
「かかかっか、絶景絶景」
様々な様式が入り乱れ、雑多に入り組んだ街並みを見下ろし、老躯が喉を鳴らす。
しゃがれた笑声は風に掻き回され、どこへなりと届かず消えていく。それが魔都の喧騒に呑まれ、消えゆくようで何度も怪老には愉快だった。
混沌としたものが好きだ。
混沌とした街並みも、入り乱れる様々な亜人種も、右へ左へ流れる思惑も。
それらがただ、乱れているというだけで肩入れしたくなるほどに。
「なんであれ、掻き混ぜて食っちまうのが年寄りの悪ぃ癖じゃぜ。とはいえ――」
ぐいっと瓢箪を傾け、口の端からこぼれる酒を袖で拭い、老人は肩をすくめた。そうして胡坐を掻いたまま、ぐるりと尻を回して振り向き、片眉を上げる。
それはなかなか、混沌好みの老人垂涎の光景で――。
「ワシんとこ辿り着くにしても、意外性高まりすぎの顔ぶれじゃぜ、ホント」
そう言った怪老の正面、天守閣の瓦を踏んだのは三つの人影。
それは――、
「オルバルトさん、みーつけた!」
オルバルトをビシッと指差す少年と、その少年と手を繋いだ金髪の少女。
そして、その二人の後ろに保護者のように佇む、魔都の支配者たる女帝の姿だった。




