第七章49 『星の巡り合わせ』
「クソ! もうどこにも見えねぇ……!」
通りから空を見上げ、いくつもある足場の方に視線を巡らせながら、覆面姿の少年――否、アルが地団太を踏んでそう喉を震わせる。
直前の、とんでもない事態が彼の苛立ちに拍車をかけ、心中を激情で沸き立たせる。
馬鹿げたと、そう言わざるを得ないような展開だった。
「スバルちん、ルイちゃん……」
一方で、怒りを露わにするアルと対照的に、沈んだ顔で呟いたのはミディアムだ。
踊り子のような装いの幼い少女は、その白い手足をぎゅっと縮め、この場から逃げ去った二人のことを気にしている。
ただし、その呟きに込められた感情の色は複雑怪奇なものだ。
ただの憂慮と、そう言い切るのは困難な代物。それは紛れもなく、姿をくらます前のスバルが言い放った言葉が関連したもので――、
「ルイちゃんが……」
「――大罪司教、とはな」
「――っ」
思わず、唇から漏れた言葉の続きを拾われ、ミディアムが目を見張る。
そのミディアムの様子を余所に、アルと同じく空を仰いでいるのはアベルだ。面を被り直し、顔の見せなくなった男の心情は外からは読み取れない。
ただ、この状況を歓迎していないのは、組んだ腕を打つ指からも明らかだ。
「アベルちん、二人は……」
「――。優先すべきは事態の収拾だ。こちらの動きは変わらん。生憎と、打てる手立てはまた一つ減らされたがな」
弱々しいミディアムの問いに、すげないアベルの答えが返る。
直接的にスバルとルイのことには触れていないが、二人と合流するために行動する考えはアベルにはない、ということだろう。
それを聞いて、ミディアムは不安と安堵、その両方を胸の奥で味わった。
二人を案じる気持ちと、二人と顔を合わせずに済むことの安堵を。
冗談でも言ってはいけないことを、冗談と笑えない状況で言われたことの恐怖を。
「放っておくってのか? 頭の中までガキになってる兄弟を!」
「さりとて、どうする? 貴様とて、置かれた状況はさして変わるまい。言っておくが、貴様もミディアムも、使えなくなれば置いていかざるを得んぞ」
「ぐ……っ」
「手を結ぶか否か、選択権が自分にばかりあると思うな、道化」
言葉に詰まるアルは、はぐれたスバルたちとの合流を望むが、それはアベルに冷たく却下される。もっとも、アルの焦点はあくまでスバルであり、ルイの存在は二の次。
むしろ、その爆弾同然の素性が明らかになったルイに対して、アルの態度は明白だ。
「兄弟と、あのガキを一緒にはしておけねぇ……」
口元を押さえ、そう呟くアルはルイへの敵意を露わにしている。
そのアルの態度にミディアムは物申したげにするが、彼女自身、ルイへの態度を決めかねているのか、彼女らしくない思案が沈黙に形作られた。
「――――」
そんな二人の様子を横目に、アベルが再びちらと頭上を仰ぐ。
すでに姿は見えず、魔都のどこへなりと跳んでいったスバルたち、その残滓すらないごった煮の情景を眺めながら、
「たわけめ」
と、誰に届くこともない呟きだけが、一言こぼれたのだった。
△▼△▼△▼△
――そうして、未曽有の事態の最中で仲間と別行動を取ることとなったスバル。
勢いに任せた行為で、先々のことを十分に考えた上の判断とはとても言えなかった。
それでも、あの場で急かされて決めればきっと後悔した。それを避けるため、後悔しないためにああした行動を選んだと、それだけははっきり言える。
そして今、スバルはああした判断をしたことを、早くも『後悔』していた。
何故なら――、
「あう、うあう!」
「やめろ、ルイ! それ以上は必要ない!」
後ろからルイの小さな体を羽交い絞めにして、スバルはもがく彼女を引き剥がす。引き剥がしたのは、ルイに馬乗りになられ、意識をなくした追っ手の男だ。
アベルたちと別れ、都市に張り巡らされた足場を飛び越えながら、何とか『幼児化』したスバルを元に戻すためにオルバルトを探していた最中、敵に追いつかれた。
どうやら、追っ手たちは『幼児化』したスバルの姿も、天守閣には参じなかったルイの姿も標的として把握しているらしく、アベルの推測は当たっているのだろう。
つまり、オルバルトとタンザはグルであり、二人が共有した情報を追っ手――有角人種の人々も持ち合わせているということだ。
その結果、ルイと二人で行動するスバルの下にも追っ手が現れ、あわや捕まりかけたところで――、
「うー!」
と、通りでも見せたルイの戦闘力が爆発し、追っ手は速やかに無力化された。
そのこと自体はありがたい。手足が縮んでしまう前から、スバルの戦う力なんて残念なものだ。戦い方を知らない街の人たち相手でも、ヨルナの力の一部を『魂婚術』でもらっている以上、お話にならなかったはず。
でも、問題はルイが、追っ手を無力化したあとも攻撃をやめないことだ。
「あうー……」
「あうーじゃない! そんなにやったら死んじゃうだろ! この人たちは、ただ怯えてるだけだ。そんなの、ちっともよくない!」
「うー」
足をジタバタとさせたルイが、スバルの注意を聞いて大人しくなる。
今の話をわかってくれたのかはわからないが、とりあえずスバルが怒っていることは伝わったようだ。それを見届けて、スバルは倒れた相手のことを手当てする。
手当てといっても、救急箱があるわけではないので、頭を高くして寝かせたり、血の出ている傷を拭いてやるぐらいしかできないのだが。
「……この人たちも」
「うあう?」
「必死なんだ。自分たちの居場所が壊されないように」
ルイに殴り倒された羊人と鹿人の青年たち、まだ十代の後半か二十代の前半、元々のスバルとそう変わらない年代だ。宿の周りにいた人々も、通りでスバルを放り投げた羊人の少年も、年齢はてんでバラバラで、友達なんて雰囲気でもない。
でも、確かな繋がりがある。それが、頭に生えている角だ。
人によって、一本や二本の違いはあっても角は角。
それが彼らの人生にもたらした影響力は、エミリアを知るスバルには笑えない。
「レムがいなくてよかった、のかな」
鬼族の一員であり、その額に角を生やす特性を持っているレム。
獣人たちと違い、ずっと生えっ放しというわけではないけれど、やはり角の生える種族として、彼らが味わったような境遇とも無縁ではなかったのかもしれない。
ラムからもレムからも、そんな話は聞いたことないが。
「ラムなら、誰になんて言われても屁とも思わなそうだし」
我が道を往く、を地でいくのがラムだから、角の問題で外野に何を言われても、「ハッ!」と鼻で笑って吹き飛ばしてくれそうな頼もしさがある。
種族や肩書きに囚われない強さを備えた彼女なら、きっと。
――あるいはそんな彼女なら、ルイのことを知っても平常心でいてくれただろうか。
「……馬鹿だな、俺は」
「うあう」
自分の額に拳を当てて、スバルは情けなくてズルい考えを引っ込めた。
そんなスバルの仕草を見て、隣にしゃがんだルイが首を傾げる。
ラムは、ここにはいない。エミリアも、ベアトリスも、みんなここにはいないのだ。
一番近くにいるレムだって、ずっと離れたグァラルに残ったまま――いない人を頼りにして、自分を慰めている場合じゃない。
「とにかく、ここにいて目立っちゃうのもマズい。すぐに隠れないと」
正直、元々の予定を考えると、逃げ隠れする時間ももったいない。本当なら、逃げ隠れしている相手を追いかけ回さないといけないのだ。
それなのに、スバルは自分も追いかけられる側になってしまって。
「たぶん、アベルは俺たちのことを探さない……よな。怒ってるだろうし、オルバルトさん探しの方が大事だって、考える、と思うから」
「あう」
「タリッタさんと合流した方がいいか? タリッタさんだって、知らない街でたくさんの人に追いかけられてるんだし……いや、ダメだ」
頭に手をやり、スバルは何も知らないタリッタとの合流案を保留にする。
アベルたちと一緒にいない理由を、うまくタリッタに説明できる気がしない。嘘をつくことになるが、嘘をついても問題は解決しない。
ミディアムがダメなのだ。タリッタだって、ルイが大罪司教と知れば、彼女たちと同じようにルイを危険視し、遠ざける。
「タリッタさんは心配だけど、むしろあっちはアベルたちが探すかもだ」
現状、はぐれたばかりのアベルたちと合流するのはやめたい。
ルイの扱いの答えが出ないまま、アベルたちと睨み合っても同じことの繰り返した。それに、またあんな風に言い合って、みんなを嫌いになりたくない。
みんなをうまく説得できない自分を、嫌いになりたくもなかった。
「ルイ、いくぞ。『見晴らしのいい奈落』を、オルバルトさんを探すんだ」
「うあう」
言いながら、スバルはルイと手を繋ぎ、彼女を引っ張って歩き出す。
元々、どこへいくかわからない子だったが、力を――『暴食』の権能を使い出してからは、その不安はもっと大きくなったと言える。
だから――、
「死にたくなかったら、俺から離れるな。俺も、お前を死なせたくない。……今は」
「あー、うー」
わかったのかわかっていないのか、ルイが受け入れたように頷いた。そのまま、へらへらと笑っている少女の様子に、スバルは深々と息を吐く。
子どもが二人、見知らぬ街で頼りもなく、謎かけを解くために歩き回って――、
「これじゃ、まるで本当の迷子だ」
そう、力なく呟くのが精一杯だった。
△▼△▼△▼△
――その後も、スバルとルイの追跡劇&逃避行は困難を極めた。
街の地理を把握できていないことと、同行者との意思疎通に難があること、あとは純粋にたぶんスバルの運が悪いことが原因だと思われる。
とにかく、魔都の中を追われながら駆け回り、『見晴らしのいい奈落』を探すことも真っ当にできないまま、刻々と時間だけを削られる有様だった。
「ルイ! 戦うな! 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!」
「あう! う!」
飛び出しかけたルイを、スバルは文字通り体ごとぶつかって止める。
彼女の小さな背中に飛び乗って、強引におんぶの体勢にすると、ルイは振り落とさないようにスバルの体を支えて、そのまま追っ手から逃げるために高くジャンプした。
「逃がすな!」
と、そう叫んで追いかけてくるのは、魔都の中を巡回している有角の獣人たちだ。
どうやら、追っ手は本当に角のあるものたちしかいないらしい。カオスフレームの住人という意味だと、角のない亜人たちもたくさん見かけるのだが、スバルたちを捕まえろという命令は彼らには出されていないらしかった。
「あの、タンザって子が勝手にやってるみたいだったし……」
鹿人の娘であるタンザ、彼女がヨルナの秘書みたいなポジションとはいえ、あの子の命令で動かせる範囲にも限りがあるのだろう。
それこそ、カオスフレームの住人全員が追いかけっこの鬼になったら逃げ切りようもないが、あの子も自分の職権を乱用できるギリギリで戦っているらしい。
もっとも、そのギリギリで十分追い詰められているので、スバルからすればもっと手加減してくれてもいいと思ってしまうところだ。
「う……追ってくる! ルイ、迎え撃つな! このまま逃げるぞ!」
「うー?」
「なんでじゃない! なんでもだ! とにかく、ダメなんだ!」
スバルを背負ったまま、建物の窓枠や足場の突起を踏み、ピョンピョンと街中を跳んで逃げるルイは一方的に逃げるのに不満な様子だ。
自分が戦えば勝てる、と言いたそうな表情に、スバルは彼女の頬を引っ張って抗議。
確かに、ルイが戦えば追っ手を倒せるかもしれない。
だが、ルイが戦ったら追っ手の人たちは死んでしまうかもしれない。仮に気絶させられても、ルイがそこで攻撃をやめてくれるかはわからない。
現にさっきも、スバルが止めなかったらルイは彼らを高いところの足場から、ずっと下の地上に落としていたかもしれなかった。
ルイの、赤ん坊か幼児のような無邪気さは失われていない。
でも、その無邪気さを持ったまま、ルイには『暴食』の力が戻ったのだ。それはスバルが怖がった、元の『ルイ・アルネブ』が暴れるのと変わらないことに思えた。
もしも、このルイが『ルイ・アルネブ』に戻るようなことがあるなら――、
「――アベルたちの考えが、正しいってことだ」
だったら、あの通りから逃げて、アベルたちと拗れる必要もなかった。
ルイという子の存在に、スバルが変な悩み方をする必要だって。
だから、ダメなのだ。
「お前にもう、誰も殺させない」
ナツキ・スバルの目が黒いうちは、それをさせたらダメなのだ。
「――あう」
ぎゅっと、しがみつくスバルの腕の力が強くなり、ルイは静かに前を向いた。
それまでの不満げな態度を引っ込め、ひとまず、スバルの言う通りにすると考え直してくれたようだ。そのまま、ルイは追いかけてくる獣人たちを振り切ろうと、ピョンピョンと跳ね回って、金色の髪を躍らせながら逃げ続ける。
しかし――、
「しつ、こい……!」
振り切るための努力が逃げ惑うだけなので当然かもしれないが、追いかけてくる獣人たちをなかなか撒けない。土地勘がある上に、その片目に炎を――ヨルナの『魂婚術』を宿した彼らとでは、差は離れるどころか縮まりつつあった。
「このままじゃ――」
追いつかれる、とスバルが乳歯とも永久歯ともつかない歯を噛みしめる。
そうした瞬間だった。
「――お二人さん、こちらへ」
「え?」
「あう?」
ルイが壁を強く蹴り、切れ味のある動きで追っ手の目をくらまそうとする。その狙いが叶ったかどうかを確かめる前に、通りに降り立った二人に声がかかった。
見れば、スバルたちを手招きしているのは細面の青年だ。パッと見、頭の角は生えていないが、それですぐ気を許せるわけでもない。
「あ、あんたは……」
「追われてるんでしょ? 見たところ、相手もかーなーり本気っぽいです。悪いことは言いませんから、ここは素直に話を聞くのが正解ですって」
スバルの警戒の眼差しを受け、青年は人好きする笑みを作りながら手招きした。そのまま、息を呑むスバルたちに彼が手で指し示したのは、道に置かれた荷車だ。
荷台にいくつもの樽を積んだ荷車、青年はまさにその樽の隙間を指差し、
「お二人の小さな体なら、きっとここにぴったり収まりますよ」
「だ、だからって、そこに隠れても……」
「時間がない。星の巡りは刻一刻と変わるもの。この巡りを避けるも受けるも、もちろん君たち次第です」
「――――」
「たーだー、ここは素直に従った方が得策だと、ぼかぁ思いますよ」
何も持たない両手をひらひらと振って、青年が害意がないと示すように笑う。
その笑みを信じていいものか、スバルはかなり迷った。が、彼の言う通り、迷うのにかけられる時間も多くはなかった。
だから――、
△▼△▼△▼△
「こっちにきたはずだ!」
と、血気に逸った男たちが現れ、姿の消えた逃亡者の痕跡を探す。その流れで、彼らは壁に背を預ける青年と、一台の荷車に目を付けた。
「おい、そこのあんた! ここに子どもが二人こなかったか?」
「え? それって、もしかしてぼくに聞いてます? ごめんなさいなんですが、ぼかぁここで一息ついてただけでして……」
「だから、その休憩中に誰か見なかったかって……ああ、もういい!」
どしどしと足音うるさく近付いた牛人の男が、青年のあてにならない言葉に諦める。ただし、牛人はそれで荷車と青年を見逃したわけではない。
青年を問い詰めるのをやめて、代わりに荷車の方に注意を向け直したのだ。
「なぁ、この積み荷はなんだ?」
「さーて、なんだと思います? ぼかぁ、どういう商人に見えますか?」
「ちっ」
捉えどころのない青年の言葉に、牛人は舌打ちして荷台を睨みつける。そして、山積みの樽を掴むと、その右目を燃やしながら軽々と積み荷を傾けた。
大きな音を立てて、バランスを崩した積み荷の並びが乱れる。積まれた樽が左右に揺れて、もし荷台に誰か隠れていれば、樽の重みにやられたはずだ。
それを見届けて、牛人は樽から手を離して、
「邪魔したな」
とだけ言い残し、仲間を連れてその場から歩き去っていく。
その遠ざかる背中に、青年は「樽、直してくださいよー」と声をかけていたが、相手からの返事はなく、青年は細い肩をすくめた。
「やーれやれ、横柄な人たちでしたねえ。ぼかぁ、どうかと思いますよ」
独り言のようにこぼして、人気のなくなった通りで青年が荷車に近付く。そして彼は積み荷を載せた荷台ではなく、しゃがんでその下を覗き込んだ。
そこに――、
「安易に荷台に隠れなくて正解でしたね。隠れてたら、今頃は全身の骨がバキバキだったかも。そしたら、かーなーりしんどかったですよ?」
「……怖いこと言わないでくれよ」
「うー」
気安い調子でおっかない発言をする青年、その笑顔に見守られながら、スバルとルイの二人が潜り込んだ荷車の下から這い出してくる。
樽を載せた荷車があれば、荷台に隠れると考えるのが自然だ。スバルも、最初は言われるがままに荷台に隠れようとしたが、嫌な予感がしてそれをやめた。
「でも、逃げる時間はなかったから、荷台の下に隠れてた」
「なかなか、いい判断だったと思いますよ。ぼかぁ、嘘つくのが苦手なもんで、ちょっと乱暴に問い詰められてたらすぐに話しちゃうところでしたし」
「……別に、仲間じゃないからそうだろうけど」
荷台の下、荷車の車輪にしがみついていたスバルは、手と服の汚れを叩いて落とし、同じように汚れたルイの体も叩いてやる。
どうやら、追っ手もちゃんとスバルたちを見失ってくれたらしいので、そのことに関してはこの青年に感謝しなくては。
「でも、なんで助けてくれたんだ?」
「なんで助けたか、ですか。ふーむふむ、そうですねえ。ああ、子どもが追っかけられてるのが見るにしのびなかったというのはどうです?」
「どうですって、その言い方だと絶対思いつきじゃん……」
「バレますかぁ」
じと目のスバルに聞かれて、青年が困った風に自分の頭を撫でる。
苦笑する彼は、スバルの見たところ亜人ではなさそうだ。角がないだけでなく、動物っぽい耳だったり、皮膚や爪といった部分にもそれらしい特徴がない。
そうすると、今度はカオスフレームの外の人間という雰囲気があるが。
「あんたは……」
「ああ、ぼかぁ、ウビルクってもんです。疑いたくなる気持ちもわかるんですが、あーんまり言えることもなくってですねえ」
「言えることがないって、どういう意味で?」
「お二人を助けたのは、何となくそうした方がよさそうって思っただけってことです」
へらっと笑い、青年――ウビルクが自分の灰色の髪を指でかき上げる。
その仕草と整った見た目に、スバルはウビルクがちゃんとした仕事をしている人間だと思った。薄着に見える旅装も、それなりにお金がかけられている風だ。
荷車を運んでいるから、商人なのだと思うが。
「それって、商売人の勘ってやつなのか?」
「商売人の……あ、これですか? はっはっは、違いますよ。ぼかぁ、商売人でも何でもありません。この荷車も、ぼくのもんじゃありませんしね」
「え!? でも、だってさっきの人たちには」
「ぼかぁ、自分が商人だなんて一言も言ってませんよ。もちろん、この荷車がぼくのものなんて言ったことも。これはたーまたま、ここに置いてあるだけの荷車です。たぶん、すぐそこのお店のものじゃないですか?」
そう言ってウビルクが手近な店を指差し、「あれかな? もしかしたらあっちかも」と適当に並べ連ねている。ふざけているが、ふざけ切ってはいないように見えた。
つまり、本当にハッタリだけで、あの追っ手を躱し切ったということらしい。
「うあう」
「あ、ああ、わかってる」
そのウビルクのペースに付き合っていると、不意にルイに袖を引かれた。
立ち止まっていていいのかと、そう聞かれた気分になり、スバルはルイに急かされた自分の呑気さを反省する。
追っ手は振り切れても、状況は何もよくなっていないのだから。
「ええと、ウビルクさん、助けてくれてありがとう。でも、今度からもっとちゃんと考えて行動した方がいいよ。今にひどい目に遭っちゃうと思うから……」
「あーれれ、心配されてますか、ぼく。そんなに残念そうに見えますかねえ。結構、世渡り上手だと思ってるんですけど、距離が遠いなぁ」
「いや、怪しんでるとかじゃなくて、俺たち急いでるから」
本音を言えば、怪しんでいる気持ちもある。
この場合の怪しむは、タンザやオルバルトの回し者という意味ではなく、純粋にそれらと無関係の危ない大人である可能性だ。
今、スバルとルイの子ども二人だけなので、怪しい大人相手でも十分怖い。
相手が危ない大人だった場合、それを叩きのめしたルイをスバルが止め切れるかどうかも自信がない。子どもに危ない大人は、ちょっと無理だ。
「じゃあ、俺たちは用事があるからこれで。助けてくれてありがとう」
そんなわけで、スバルはルイの手を引いて、お礼もそこそこに歩き出した。
しかし――、
「ちょーっと待ってくださいって。そうすげなくせずに、助け合いましょうよ。助け合い精神って、ぼかぁ美しいもんだと思うなぁ」
そう言いながら、細くも長い足で小走りになるウビルクに回り込まれた。
途端、スバルの中で怪しい危ない大人指数が高まり、ウビルクの立場が危うくなる。具体的にはルイの握った手に力が入ってしまい、「う?」と呻いたルイにもスバルのウビルクに対する警戒が伝わってしまった。
場合によってはルイが、スバルの後ろ盾を得たとばかりに飛び出し、ウビルクを叩きのめして樽に詰め込んでしまうかもしれない。
「ウビルクさん、体は柔らかい方?」
「ぼくですか? まぁ、昔のお仕事の経験上、体は柔らかい方が色々と対応できたので柔軟派してた方ですけど、ぼかぁ、何を聞かれてるんです?」
「い、いや、別に……助け合いって、俺たちに手伝ってほしいことがあるの?」
「あ、いーえ、そういうんじゃないです。助け合い精神は口が滑っただけで、助けてほしいとかじゃ。あっはっは」
「――――」
またしても、怪しい危ない大人指数が高まった。
今回はそれに加えて、危なくないかもしれないが、関わりたくない大人指数というものも新たに施行された気がする。
ともかく、長く付き合いたくない相手だ。
「はっはっは……あーれれ、思ったより空気が冷たい。これ、ぼくのこと嫌ってる皆さんに囲まれたときと同じ感じだ。ぼかぁ、嫌われてます?」
「できれば、なりたくないと思ってるけど……」
「おー、正直者だ。じゃあ、お急ぎみたいですし、正直者ですし、ぼかぁ正直者さんが好きなので、ちょっと真面目に話しましょう」
「――っ」
そう言ったウビルクが腰を折り、ぐっとスバルに顔を近付ける。思わず、呻いたスバルの頭が下がると、代わりに前に出たルイがその手を前に出した。
そして、ウビルクの頬を横から押して、「うー!」と威嚇する。
「あーりゃりゃ、嫌われましたね。これでも女の子受けはいい方だと思ってたんですが、やっぱり相手がいると違うんでしょうかね」
「……ウビルクさん、あんまりルイを怒らせない方がいいよ。こいつ、その、見た目よりも力とかあるから」
「なーるほど、ルイさんってお名前なんですねえ」
うんうんと頷くウビルク、その答えにスバルは唾を呑み込んだ。
名前を知られても問題はないが、与えるべきではない情報を出してしまったとは思った。まだ、どういう大人かもわからない相手に、これ以上情報を増やしたくない。
「ウビルクさん! 真面目な話って? 何もないなら、俺たちいかないと!」
「――ぼかぁ、今日はあんまり街を出歩くつもりはなかったんですよ」
「え?」
「そーれがどういうわけか、こうして目的もなく外をぶらついていまして、そんな気持ちになったからには何かあるんだろうってね。それで、気の向くままにここにきて、何となく荷車の隣で時間を潰して、そしたら……」
自分の額に手をやり、そこから優しげな目尻、白く透き通った頬、そして形のいい顎へと順番に指を滑らせ、ウビルクが最後に指を鳴らした。
その挙動に目を奪われていたスバルが肩を跳ねさせ、その反応に笑みを深めるウビルクが鳴らした指を左右に振ると、
「お二人さんが、ぴょんと頭を飛び越して現れたわけなんです」
「――――」
「……あーれれ? もしかして、あんまり響きませんでした?」
首を傾げて、ウビルクが無反応のスバルとルイを交互に見る。
ルイは単純に話の内容を理解していないだけかもしれないが、スバルの方は違う。スバルの方はウビルクの答えを聞いた上で、ただ言葉が出なかった。
何か、遠大で壮大な理由が隠されているのかと思えば。
「ただ、散歩したい気分で出歩いてて、休んでたところに俺たちがきたってこと?」
「はー、そういう言い方もできますか。たーだ、ぼかぁこういう言い方もできると思いますよ。――これも全て、星のお導きだとね」
「星の……運命とか、そういう……」
とてもロマンティックな物言いながら、スバルはがっくりと肩を落とした。
それが物語の序章、男女の出会いの場面で語られたならロマンもあるが、この場にいるのは縮んだスバルと、元々小さいルイのコンビ。そして変人のウビルク。
これではロマンもへったくれもない。
「もしかして、ぼかぁ呆れられてます?」
「その、大丈夫です。ウビルクさんの真面目が、あんまり真面目じゃなくても、もう会わない人なんだからそんなに気にならないんで」
「結構、ズバズバと傷付くこと言われたなぁ。その切れ味、ぼくの昔の友達に通ずるものがありますね」
「ウビルクさんに、友達……?」
「あっはっは、いたんですよ」
思わず失礼な本音が漏れたが、ウビルクは気を悪くした風もない。
ただ一瞬だけ、その友達に対する微妙に複雑な心境みたいなものが、この不真面目一直線な甘ったるい雰囲気のウビルクにもあるのだと、そう思わされただけ。
「ともあれ、ここで会ったのも何かの縁です。うーん、そうだ! ぼかぁ、実はちょっとした相談とかに乗る仕事をしてましてね。どうです、相談してみません?」
「ついにきた! 結構です……いや、結構って答え方は詐欺師に都合よく受け取られるってテレビで言ってた。いりません!」
「押し売りとかじゃないですし、騙しにきたわけでもないんですよ? たーだ、ぼかぁ課せられた役目を果たしたいだけなんです」
「課せられた役目?」
「そう、ぼくが今日、ここにきたのは意味がある。たぶん、君とルイさんの相談に乗るのが巡り合わせなんでしょうねえ」
細い腕を組んで、自分だけわかった風な態度でウビルクが何度も頷く。
残念ながら、ウビルクの納得はスバルにはイマイチ響いてこない。ただただ、怪しい危うい大人指数がじりじりと数値を上げていくだけだ。
できれば、このままウビルクを置いて逃げ去りたい。追っ手を撒いたのに、もっと厄介な相手に絡まれたような気分だった。
「あ、逃げようとしても無駄ですよ。もーしも逃げようとしたら……」
「したら?」
「大声を出して、さっきの人たちにお二人の居場所を教えます。困るでしょ?」
「すげぇ困る……!」
ただ、それをされるぐらいならルイを解き放つのも吝かではない。
もちろん、ウビルクを死なせたくはないから、スバルも全力で暴れるルイを止めるつもりではあるが、追っ手を呼ばれるくらいなら最終手段に訴えるのも辞さない覚悟だ。
それに――、
「悪いけど、俺たちの事情は知らない方がいいよ。聞いたらウビルクさんも巻き込まれるかもしれないし、ウビルクさんじゃ無理だと思う」
スバルたちが何もしなくても、タンザと仲間たちがウビルクを傷付けるかもしれない。そうなったとしても、それはスバルたちの責任だ。
そんな事態にウビルクを巻き込むわけにはいかない、そう考えた。
しかし――、
「ああ、心配しなくても大丈夫ですよ。相談に乗るとは言いましたけど、ぼかぁ、特に何も聞かなくても大丈夫な相談役なので」
「そんなことある!?」
「まあまあ、騙されたと思って、ほらお手を拝借」
スバルの心配を余所に、気安く笑ったウビルクがそっとスバルの手を取る。
右手はルイと繋いでいたので、取られた手は反対の左手だ。すっと細い、女性のようなウビルクの指の感触に驚きつつ、スバルはルイの方を慌てて確かめた。
「うー」
幸い、ルイはウビルクの行動をじっと見つめてはいるが、いきなり襲いかかるような短気なことはしなかった。
もっとも、それはそれでいつ破裂するかわからない風船に、延々と空気を入れ続けるような状況を見守っていなくてはならないということだが。
「あの、ウビルクさん、俺にもウビルクさんにもあんまり時間がないから……」
「あーれれ、急にぼくまで不安になるようなことを。――でも、終わりました」
「え?」
じっと、ルイの視線がウビルクの細い首に注がれているのを不安がりながら、そう急かしたスバルの腕がウビルクから解放される。
手を離したウビルクは、その掌をそっとスバルの顔に向け、
「――探している答えは、すでに君の中にある」
「――――」
思いがけない言葉に、スバルは目を丸くした。
そのピンとこないスバルの様子に、ウビルクは「おーや?」と首を傾げた。
「もしかして、あんまり響いてないやつですか?」
「響いてないっていうより、よく意味がわからないっていうか……」
探している答え、とはまた漠然としたものだ。
元の世界にいたとき、テレビで占い師などがよく言っていた文言と近い気がする。曰く、誰にでも当てはまることを言って煙に巻く的な、詐欺の常套句だ。
「答えを探してない人って、あんまりいない気がするし……」
「うーん、そういう人生ぐらい大きな話じゃないと思うんですけどねえ。生憎と、ぼかぁそこまで大きな星の動きは見える方じゃないので」
「星占い、みたいな……」
「たぶん、目の前の問題ですよ。ほーら、二人とも追いかけられてたじゃないですか。あれも問題でしょう。あれについてとか、どうです?」
「でも、あの人たちに追っかけられてる理由はわかって――」
自分の相談役としての能力に自信があるのか、スバルの内心を掘り下げることで正解に近付けようとしてくるウビルク。
微妙に詐欺師の悪足掻き感を感じないでもないが、真剣に取り合っているうちに、スバルの中でわずかな引っかかりがあった。
「――――」
その引っかかりが、とても大切なものに思える。
もちろん、小さくなったスバルの頭で感じたことなんて、どこまで信じていいのかわからない。ただ、小さなスバルの『考え』は信じられなくても、小さなスバルの『勘』は体の大小と関係なく、信じる余地はあるはずだ。
今、スバルたちが直面している問題といえば、それは――、
「――『見晴らしのいい奈落』」
その答えが、すでにスバルの中にあると、そうウビルクは指摘した。
それがどんな詐術によるものか、深く追及するつもりはない。でも、感じた。
――引っかかりを手繰り寄せれば、求める答えに辿り着けそうな手応えを。
「うあう?」
「わかったかも、しれない」
スバルの顔を覗き込み、形のいい眉を顰めるルイにそう答える。わずかに力の戻ったスバルの声に、ルイは青い瞳を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
そのルイの表情の変化を横目に、スバルは息を吐いてウビルクを見る。
「相談、ちゃんと効果あったかも」
「おー、よかった。ぼくも安心しましたよ。せっかくなら、ちゃんとお役目は果たしたいですからね。では?」
「ああ、急ぐよ。色々とありがとう、ウビルクさん。――いくぞ、ルイ!」
「あうあう!」
片目をつむったウビルクに応じて、スバルはルイの手を引いて走り出した。
そのまま、気の急くままに走り出し、一度だけ立ち止まる。そして振り返ると、そのスバルの動きが予想外だったのか、ウビルクが目を丸くしていた。
そんな彼に、スバルは手を振って、
「ウビルクさん、悪いことは言わないから実家に帰った方がいいよ! 危なくないように大人しくして、もう詐欺もやめた方がいい!」
と、感謝の念を込めて、それだけ彼にスバルなりの勝手な『助言』をしたのだった。
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そうして、慌ただしく二人の少年少女が立ち去ったのを見送って。
「詐欺はやめた方がいい、とはなーかなか手厳しい」
一人、通りに残された青年――ウビルクが笑い、自分の頬を指で掻く。
何とも奇妙な時間だったと思いつつ、最後の少年の様子からして、何かしらの役には立てたのだろうと、そんな風に胸のつかえが取れるのを感じた。
あとは――、
「早々に部屋に戻りませんと、カフマ殿に嫌味を言われてしまいそうですし、本当に何かあったら困りますから戻らないと。それにしても……」
今一度、少年たちが立ち去った方角に目を向け、ウビルクは片目をつむった。
そして――、
「――『星詠み』のお役目とはいえ、星は何をお望みなのやら」