第七章47 『消えぬ■■』
「――っ」
か細い悲鳴を上げて、小さな体がくるくると、くるくると飛んでいく。
少女はゆっくりと地面の上を跳ねて、それでも勢いを全く殺せないまま、何度もバウンドして通りの端へ。布を剥がれたテントの骨組みにぶつかって、傾いた資材が甲高い音を立てながら少女の体を下敷きにする。
それを、スバルは声も出せずに呆然と見ていた。
一瞬のことで、何が起こったのかわからないなんて言い訳はできない。
一瞬のことで、手を伸ばす暇さえなかったのは本当でも、その一瞬で起こったことはこの黒い眼がしっかりと捉えていた。
頭の中がわやくちゃになり、何の考えもなく危ない通りに飛び出した。
そして案の定、敵に見つかって危うい目に遭い、そのスバルを助けるためにアルとミディアムの二人がケガをして、そのまま――、
「……ルイ」
両手を広げてスバルを庇い、正面に立ったルイの体がゴム毬のように弾かれた。
それをしたのは、白髪に短い角を生やした羊人の少年だ。彼はスバルとそう変わらない細腕で、スバルを軽々と十メートル近く上まで放り投げた。
そんな少年の腕の一振り、それをまともに受けて吹き飛んだルイ。血が飛び散るのも見てしまったから、無事でいるなんてとても思えなくて。
「ごめん」
テントの残骸、その下敷きになったルイを目で追うスバル。その鼓膜を小さな謝罪が震わせ、揺れる視界の端にもう一度腕を振り上げる少年の姿が映った。
よける、なんて器用な真似はできない。
そもそも、スバル自身、高いところから落っこちたせいで手足がビリビリしていて、ろくに身動きできない状態なのだ。
だから、せっかくルイが庇ってくれたのに、それも無駄にして――。
「――スバルちん!!」
「あ」
「立って!!」
すごい勢いで飛んできた影が、少年の肩に細い足をぶち込んだ。
驚いた顔をした少年が下がると、そこに割って入ったのは長い金色の髪をなびかせるミディアムだ。彼女は顔を赤くして、スバルに立てとそう呼びかける。
地べたに転がって、ガタガタと震えることもできないスバルに。
「ルイちゃんをお願い!」
なのに、ミディアムは励ましも慰めもなしに、スバルにそう言って走り出した。
一本だけ持ってきた剣を両手で持って、踊りみたいにカッコよかったのと全然違う動きで、それでも一生懸命、少年を追いやろうとする。
少年の方も、その強さより、気迫の方に驚くみたいに顔が強張っていた。
「ぐ、ううう……!」
そうやってミディアムが頑張ってくれている間に、スバルは震え始めた手足を使って頑張って立ち上がる。それから、ルイが潰されたテントの方に走った。
倒れた骨組みを一個ずつどかして、下敷きになったルイを残骸から掘り起こす。
「ルイ、ルイ! い、生きてるか! おい、ルイ!」
必死で呼びかけながら、スバルは目の奥から込み上げてくる熱を再び感じる。
この厄介な熱は、さっきからずっとスバルの顔の奥で出てくるときを今か今かと待っているみたいだ。それを無視して、急いで急いで、荷物をどけて。
そして――、
「……うー」
「ルイ!」
弱々しい呻き声がして、スバルは土埃に汚れたルイの姿を見つけ出した。
壊れたテントの下敷きになったルイは、倒れた支柱が作ったスペースに嵌まり込んでいて、ギリギリで押し潰されずに済んでいた。
そのことにはホッとする。でも、ホッとしたあとですごく困ってしまう。
「こんなの、動かせない……」
倒れている支柱の太さはスバルの胴体ほどもあり、押しても引いてもびくともしない。『てこの原理』を使おうにも、ちょうどいい重石が見つからなかった。
そうして、ルイを引っ張り出す方法を探している間に、別のものを見つけてしまう。
――じわじわと、ルイの白い服が土埃ではない、赤い染みで汚れていくのを。
「……ぁ」
愕然と、それを見たスバルの手足が冷たくなり、思考が凍り付く。
血の気が引くとはこのことだ。自分が血を流したわけでもないのに、引いていった血がどこにいったのかわからない。引いた分、別の場所が熱くなるはずじゃないのか。
ただ、心臓の音だけが、破裂しそうなぐらい、大きい。
「あー……」
今も、弱々しい呻き声を漏らしながら、ルイの服の赤い染みは広がっていく。
冷たくなった手足が動かなくて、どかすための努力どころか、どかそうと頑張っているふりをして安心させてあげることもできない。
「ルイ、ルイ……」
震える唇から、ルイの名前を呼び続ける。
それすらも、声がひび割れてまともにこなせない。舌が痺れて――否、彼女の名前を呼ぶことを、スバルの心がひどく拒絶しているのだ。
思えば、スバルはずっと、ルイの名前を呼ぶことすら最低限にとどめてきた。
レムと一緒に、大きな塔から飛ばされてきて以来、ずっと傍に置いていたルイ。スバルはずっと彼女を警戒し、疎んで、乱雑に扱ってきた。
それでも一度も、ルイはスバルに物騒なことや、不利益なことをしなかった。
レムに、嫌われたくない。周囲に、怖がられたくない。
そんなことを怖がって、スバルはずっとルイと触れ合うことを拒みながら、最後にルイをどうするのか決めることだけは先延ばしにしてきた。
どうして、そんなにルイを怖がっていたのか。
痺れた脳が、冷たい手足が、渇いていく舌が、爆ぜそうな心臓が、わからせない。
ルイに何をされたのか、うまく思い出せない。
記憶に靄がかかったみたいで、今この瞬間、思い出の引き出しを開けられない。
ただ、引き出しを開けるまでもなくはっきりしていることが、一つ。
それは、ルイがスバルを庇おうとして、血を流したということ。
――それだけは、忘れようも、目を逸らしようもない事実だったから。
「し、ぬな……」
「――――」
「死ぬな、ルイ! 死んじゃ、死んじゃダメだ……! ダメなんだ……!」
小さくなった体を支柱の隙間にねじ込んで、スバルはルイの傍に膝をついた。
そのままルイを引っ張り出すのではなく、何の足しにもならない声だけ上げる。ルイの手を取って、両手で強く握って、祈りを込めて必死に言った。
「死なないで……!」
死なせないためにできること、それを探すことも忘れて、無茶なお願いをする。
そんなスバルの震える声に、ルイの瞳がうっすらと開いて、そして――、
「――うあ、う」
と、微かな声が漏れて、少女の瞳がほんのわずかに力を取り戻した。
△▼△▼△▼△
「う、りゃあああ――っ!!」
両手に握った双剣の片割れを振って、ミディアムは正面の少年に対抗する。
羊人の少年は頬を強張らせながら、しかし、ミディアムの攻撃を掲げた腕で軽々と防いだ。――文字通り、腕で刃を受けて、跳ね返したのだ。
「うわ~ん、硬い! 全然斬れない! ズルいじゃん!」
先ほどから、ミディアムは全力で剣を何度もぶつけているのだが、そのたびに少年の頑丈な体に阻まれている。
肌も髪も、指も頭も、どこもかしこも硬くてすっかりお手上げだ。
それに、攻撃が通らないことも問題だが――、
「――っ!」
「あっぶない!!」
少年の乱暴に振り回した腕が、ミディアムを掠めて地面に激突、衝撃で地面が揺れる感覚があり、ぶつけた腕より大きな穴が地面に開いた。
この、少年の攻撃力のすごさにも目が回る。何とかミディアムがまともに攻撃を喰らわずにいられるのは、少年の動きが隙だらけのおかげだ。
「すっごい頑丈だし、力持ちっぽいけど、技は下手!」
まるで、でっかい体で生まれたばっかりの赤ん坊のようだとミディアムは考える。
でっかい体で生まれたばかりの赤ん坊を見たことはないので、感じたことを思ってみただけだが、その表現はとてもぴったりなように思えた。
今のところ、その赤ん坊の相手をしているだけで済んでいるが――、
「早くしないと、他の人も集まってきちゃうよね……」
土の味がする唇を舐めて、ミディアムは長居したくない焦燥感に焼かれる。
たまたま追っ手の少ない通りに飛び出せたが、こうやって暴れていたらすぐに気付かれて、少年の仲間が集まってきてしまうだろう。
少年よりも大きい人や、技の得意な人がきたら、もう太刀打ちできないかもしれない。
せめて、一人でなければやりようもあるのに。
「アルちん! アルちんってば!」
少年の大振りを飛んだり跳ねたりしながら躱し、ミディアムがそう声を上げる。
視界の端、ミディアムが必死で呼びかけるのは蹲っている覆面の少年――ではなく、アルだ。片手で子ども、ミディアム以上に武器の扱いが大変な状態の彼だが、危ない状況の対応力はミディアム以上、そこを頼りにしたい。
「――――」
しかし、ミディアムの訴えに彼は答えない。
吹き飛ばされたときに頭をぶつけて気絶した、というわけではない。アルは目を覚ましているし、一度はちゃんと助太刀しようとしてくれていた。
それが今、急にそこに足を止めて、がっくりと膝をついてしまったのだ。
そうして蹲ったまま、アルは自分の右手を覆面越しにじっと見下ろして――、
「……なん、でだ?」
と、そう慄くように呟いていた。
まるで、手に握っていたはずのものを手放したか、落としてしまったみたいに。
「アルちん……!」
立ち上がれないアルを横目に、ミディアムの胸中に弱気が差し込む。
途端、武器を持っている手から力が抜けて、ミディアムは強く奥歯を噛んだ。
――昔からこうだ。
ミディアム自身の気持ちが弱ると、それに付き合うように体も弱くなる。だから、いつもミディアムは前向きに、声を大きく、背筋を伸ばすようにしていた。
気持ちが明るく大きければ、ミディアムは全力で頑張れる。兄のフロップがいつも、「頑張れ!」と声をかけてくれることも、その背中を押していた。
でも、ここにはフロップがいない。頑張れと、そう言ってくれる人も。
みんな、自分の問題で手一杯で、ミディアムもちっちゃくなってしまって、だから剣も一本ずつしか持てなくて、小さい男の子に負けそうで。
「――いたぞぉ!!」
「あ」
そのミディアムの弱気を、さらに落ち込ませる声が響き渡った。
少年の振り回した腕を躱して、立ち位置を入れ替えたミディアムは目を見開く。その視界、通りの反対から姿を現したのは、片目に炎を宿した敵の増援。
猛然と走ってくる彼らが、膝をついているアルの背後へ迫っていく。そちらへとっさに駆け寄ろうにも、間に入った少年を躱さなくてはならない。
――間に合わない。死んじゃう。アルちんも、スバルちんもルイちゃんも。
みんなが死んでしまう。
握った剣を取り落としそうになりながら、ミディアムは必死に頭の中で兄を呼んだ。
また、いつものように兄の声が、励ましが、応援があれば。
でも、幻の声援が届くよりもずっと、アルに迫る新手の方が早くて。
アルの小さな体が、後ろから伸びてくる手に引き裂かれ――、
「――まだ動けぬか、たわけ」
その、アルの背中に鋭い爪が届くより先に、横合いから伸びた足が肩を蹴り飛ばした。アルの体が横倒しになり、背を抉ろうとした一撃からかろうじて逃れさせる。
そして、その乱暴な対処を敢行したのは、鬼面で顔を隠した男。
「アベルちん?」
唖然と、開いた口から名前がこぼれ、アベルの意識がちらとこちらを向いた。
面越しでも視線を交わしたと熱を感じて、ミディアムの肩が微かに竦む。少年の相手をミディアムたちに任せていたアベルが、自分から戦場に踏み出してきた。
もう見てはいられないと、怒られるかもしれない。
怒られるのは嫌いだ。
昔は怒られて、殴られることが多かった。ミディアムは小さいくせに、よく食べるからなおさらだった。殴られて、怒られて、その繰り返しで。
だから、怒られると思うと、体が縮こまってしまうから――、
「ミディアム」
名前を呼ばれて、その先の叱責を恐れるミディアムの体が竦む。
しかし、アベルはこちらの怖気など無視して、その先の言葉を続けた。
それは――、
「――よく励め」
「――――」
ぶっきらぼうな言い方で、鼓膜を震わせる声に目を見開いて、ミディアムは小さく鳴っていた歯を強く噛んだ。噛んで、頬を歪めて、金髪を躍らせて。
「うん! 頑張る――!!」
と、嘘みたいに湧き上がる力に背を押され、ミディアムは正面の少年をぶん殴った。
その一撃に驚いて下がる少年、それに追い縋り、真下から跳ね上げる剣の峰で顎を突き上げ、がら空きの胴体へ蹴りを、伸び切った膝を踏みつけ、回し蹴りを首にぶち込む。
突如、猛然と息を吹き返したミディアムに、少年は防戦一方になった。
それを弱いものいじめみたいだと思いながら、ミディアムは拳を振りかぶり、何度も何度もぶん殴る。ぶん殴りながら、頭の中に声が蘇る。
――どうだ。やられたことを倍にしてやり返すと、気分がいいだろ!
それは、ミディアムとフロップを辛い境遇から連れ出してくれた恩人の言葉だ。
戦い方や生き方も教えてくれた恩人、その言葉を思い出して、ミディアムは笑った。
笑って、「あんまり人を殴っても気分よくないよ~!」と思った。
「う、りゃあああ!」
思いながら、渾身の横薙ぎを少年の頭に叩き込み、小さな体が吹っ飛ぶ。
普通なら頭が横に断たれる一発も、頑丈な少年には殴られた以上のものにならない。それでも、何とか一人やっつけて、アルとアベルの応援に――、
「この、ちょこまかと……!」
「あうっ! しまった!」
少年との戦いに集中しすぎて、後ろから迫った相手に注意が疎かだった。
くくった髪を乱暴に掴まれて、ミディアムの体がひょいと持ち上げられる。足が浮いてしまい、とっさに対応できない。
「う~! あ~、もう!」
足をバタつかせ、髪を引っ張られる痛みに涙目になりながら後ろを見ると、ミディアムを持ち上げたのは、縮む前のミディアムより大柄な犀人の大男だ。
少年以上に分厚い皮と肉は、ミディアムの蹴りをモノともしていない。
「ごめん! あたし、逃げらんない!」
もがきながら、ミディアムは首を傾け、懸命にそう叫んだ。
見れば、蹴倒されたアルは通りの地べたに倒れたまま、そしてそれをしたアベルは、駆け込んできた増援に囲まれ、壁に追い込まれていた。
ひ弱なアベルに、全員やっつけてというのは無理があるとミディアムもわかる。
だから――、
「アベルちん! アルちん連れて逃げて!」
何とか、うまく隙とかを作って逃げてほしい。
そんなミディアムの必死の声に、アベルを取り囲む男たちが視線を遮るように退路を阻んだ。そのまま、男の一人――牛人の中年がアベルに詰め寄る。
「悪いが、逃がすわけにはいかない。あんたたちにはここで……」
「――貴様は牛人、先のものは羊人だった」
「なに?」
「宿を囲っていたものたちも揃って有角……ここまで条件がわかれば誰でもわかろう。俺たちを狙うのは、有角人種か」
囲まれ、窮地にあるはずのアベルの声に怯えはない。むしろ、取り囲んでいるのは自分とばかりに居丈高な態度、そこから発される言葉に男たちの方が動揺する。
――否、動揺したのはアベルのふてぶてしさだけでなく、その発言自体にもだ。
「ゆう、かく……」
言いながら、ミディアムは目を動かし、髪を掴んだ犀人を見る。
大柄な犀人の意識も、今のアベルの言葉の方に集中している。そうする犀人の大きな鼻の上には、一本の太い角が生えているのがわかった。
言われてみれば、さっきの羊人の少年にも、宿でタリッタが引きつけてくれたたくさんの人たちにも、みんな角があった覚えがある。
「でも、それが何なの!」
「たわけ。――それが、この事態の元凶であろうが」
「うえ?」
ミディアムの叫びが聞こえたのか、アベルからその返事がある。
だが、ミディアムの側からは彼の姿が見えないし、それが理由だと言われても意味が全然わからない。ちゃんとわかるように説明してくれるか、わからなくてもいいままで話を進めてほしい。そうでないと、このままじゃ――、
「――試してみるがいい」
「え?」
それは、ミディアムの心の叫びに応じたものではなかった。
静かに、そして重々しく吐かれた言葉は、アベルが自らを取り囲む男たちに、その先頭に立っている牛人の男を見据えて言い放ったものだ。
牛人の男は目を見張り、アベルのことをまじまじと見返す。その牛人の反応に、アベルは重ねて、続ける。
「貴様に俺を殺せるか、試してみるがいい」
「……その細い首を折るのに、難しいことがあるか?」
じりと、土を踏みしめる男の左目が赤く燃える。
ヨルナの『魂婚術』の効果、それがなくても男の太い腕なら、アベルの首をへし折るぐらい簡単なことだろう。
そして、首を折るために必要な殺すための覚悟を、彼らはすでに済ませている。
にも拘らず、アベルは堂々と腕を組み、鬼面越しの黒瞳で相手を射抜いて――、
「容易いか否か、その答えは行動の先にある。故に、試してみるがいい。貴様にその器があるなら、焔は貴様を称えよう。だが――」
「だ、だが?」
「器に足らねば、焔は魂すらも焼き尽くす。――さあ、どうする」
「――――」
腕を組んだまま、そう言ってのけるアベルに牛人の男が押し黙った。
目の前の、悠然と佇む細身の男に気圧されている。無論、力ずくになれば勝つのは紛れもなく男の方だ。なのに、この平然とした態度はなんなのか。
その答えが、今告げられたまやかしのような言葉に孕まれているのではないか。
「試すがいい。――審判という名の焔を、己が上回れるかどうか」
「ぐ、うう、ううう……!」
圧される男が、太い喉を震わせて呻く。おびただしい汗を浮かべ、全身を緊張させる男に仲間たちも声をかけられない。
アベルの目を見てしまった時点で、すでに他のものは舞台から外されたのだ。
このアベルの言葉に応じる資格は、目の前に立った男の他には持たないのだと。
そのまま、噛みしめた歯の軋る音が響き、響き、響き――、
「う、うおおおお――!!」
軋った歯が割れる音を立てて、その痛みに押されるように男が両腕を振り上げた。
首をへし折るどころか、アベルの体ごと命を押し潰さんとする一撃。丸太のように太い男の腕が一撃すれば、アベルの細い体などぐしゃぐしゃにひしゃげ、潰れる。
ミディアムは必死に身をよじり、拘束を逃れようとするが、びくともしない。
アルは倒れ込んだまま、アベルの窮地に意識も向けていない。
そしてスバルとルイも――、
「――え?」
崩れたテントの下敷きになったルイ、彼女を助けるべく駆け寄ったスバル。そのスバルが残骸の中に潜り込み、ルイの手を握っているのが見えた。
見えて、下敷きにルイが微かに動いて、そして――、
――次の瞬間、二人の姿がテントの下から忽然と消えた。
「うー!」
刹那、消えたルイが両腕を振り上げた牛人、その顎を真下から撃ち抜いていた。
△▼△▼△▼△
何が起こったのか、スバルにはまるでわからなかった。
テントの下敷きになり、じわじわと血を流していくルイへと縋り付いた。そして、彼女に何の慰めにも助にもならない、死なないでほしいという勝手な言葉をぶつけた。
そのスバルの言葉に、ルイが身じろぎしたと、そう思った直後のことだ。
スバルの視界が一瞬で切り替わり、世界がひっくり返る感覚を味わったのは。
「う、え」
猛スピードであるとか、時を止めたであるとか、そんな出来事ではなかった。
本当に、スバルは瞬きぐらいの一瞬で、別の場所に移動していたのだ。
それも――、
「貴様……」
そう言って、スバルの出現に微かに息を詰めるアベルの目の前に。
腕を組み、悠然と壁に背を預けるアベル、彼の存在と、周囲を取り囲む男たちの気配にスバルは混乱と困惑で腰が抜けそうになった。
直前まで、ルイを案じて込み上げていた涙も引っ込み、喉が引きつる。
そして、その突然の現象が原因で頭から抜けかけたルイはと言えば――、
「あー、うー!」
「ごぁ!?」
くるくると身を回したルイが、ピンボールのような動きと速度で男たちの間を跳ね回り、その全員の首や胴、膝といった急所に一撃を入れ、後退させる。
その速度と威力に目を剥いて、男たちは一斉にのけ反り、目を剥いた。
そうして驚きと痛みが男たちの間を伝搬する合間に、ルイは次なる行動へ移っている。
「うあう」
男たちの隙間を抜け、囲いの外に逃れたルイ。彼女は地面に動物のように四肢をつくと、そのまま両手で地面を引っ張り、その表層を引っぺがした。
それはまるで、床に敷いた絨毯を強引に引くような動作――もちろん、街中の街路に絨毯なんて敷いてあるはずもない。だが、地面はそう見えるようにズレた。
結果、男たちは全員がバランスを崩し、その場に転倒する。
「な!? なんだ、この子ども……!」
「あう! あうあう!」
「クソったれ!」
バランスを崩したものの中、かろうじて踏ん張った鹿人の青年が舌打ちし、ルイを取り押さえようと掴みかかる。その青年に、ルイは今しがた剥がした薄い地面を投げつける。とっさに青年がそれを腕で払った直後、ぺらぺらだった地面が元に戻った。
すなわち、相応の質量と質感を伴った土の壁となったのだ。
「ぶがぁ!?」
正面から土の壁に激突され、カウンター気味に喰らった青年が後ろにのけ反る。
続けて、バラバラになった土の壁を破り、飛び出したルイの足裏が青年の顔面を捉え、鼻血を撒き散らして今度こそ青年がひっくり返った。
「このぉ!」
「うあう!」
倒れる青年を乗り越え、遅れて立ち上がったものたちがルイへ迫る。しかし、ルイはそれらの指が届く瞬間、またしても幻のように姿を消した。
直後、現れた彼女は二メートルほど上の壁に取りついて、先の地面と同じように壁の表面を両手で引っぺがし、そのまま元に戻す。
壁の表面が質量と硬さを伴ったまま剥離し、男たちの頭上に降り注いだ。
「うわああああ――!!」
通りを悲鳴と怒号が木霊し、ルイ一人に強力な力を有した男たちが翻弄される。
それを、スバルはその場にへたり込んだまま、呆然と見ていた。
「る、ルイ、それは……」
震える声で腕を上げ、スバルは目の前で起きている悪夢めいた光景に怯え竦む。
悪夢、そう悪夢だった。これは紛れもなく、スバルが恐れていた悪夢だ。
地面や壁を自在に剥がし、瞬く間に短距離を転移し、稀代の格闘家もかくやとばかりの戦闘力を発揮し、次から次へと男たちを叩きのめしていくルイ。
それが、幼い少女が生まれつき有している超越的な力でないことは明白――否、その力の出所まで、ナツキ・スバルは知っている。
あれは、あれは、あれはあってはならない力、消えなくてはならない■■で――。
「ただの娘ではないと思っていたが、合点がいった」
「え……?」
へたり込んだまま、事態を呆然と見守るしかないスバルの傍ら、アベルが呟いた。
同じものを眺めながら、そう呟いた彼の真意がわからず、スバルの瞳が揺れる。そのスバルの様子を視界の端に入れたまま、アベルは正面を指差し、一方的に追っ手を叩きのめしているルイを示しながら、
「これが、貴様があの娘を連れ歩いていた理由か」
「ち、ちが……っ」
とっさに、それは違うと反射的に噛みつこうとする。
だが、だったらどうしてルイを連れ歩いていたのかと、そう言われたらスバルは何も答えられない。これまでもそうだったように、今もそうなる。
「やめろ! この娘がどうなっても――ごっ!?」
「あうあう!」
総崩れになる仲間を見て、それを止めようと声を上げた犀人の男。
彼が大きな手に掴んだミディアムを人質にしようとしたが、脅し文句さえ言い切る前にルイの一撃が届く。
数メートルの距離をワープするルイが、その両手で思い切り男の頭を左右から叩いた。耳を掌で打たれ、男がぐるりと白目を剥いて轟沈する。
「うわきゃっ……る、ルイちゃん?」
「あーうー」
いきなり解放され、地面に落ちたミディアムに正面からルイが飛びついた。そのルイの頭をミディアムが撫でて、彼女は呆気に取られながら周りを見回す。
そのミディアムの視界、通りに集まったものたちは全員、倒れ伏していた。
ルイが一人で、十人以上の敵を叩き伏せてしまったのだ。
「貴様と道化は地金を晒さなんだか。まあよい」
「わ、わけがわからない……なんなんだよ!」
「騒ぐな。他の連中を引き寄せる。貴様は道化を拾ってこい」
顎をしゃくり、窮地を脱したことへの感慨もさしてない態度でアベルが命令する。
彼が示した先にいるのは、地べたに蹲ったまま動かないアルだ。まさか、見ていない間に大ケガをしたのかと、慌ててスバルは彼に駆け寄る。
「あ、アル! おい、大丈夫か? 傷は……」
「……大丈夫じゃ、ねぇ」
「――! ケガしたのか!? どこだ? すぐに手当てして……」
「そうじゃねぇ!」
「――っ」
傍らに駆け寄り、肩を揺すったスバルにアルが強い声で怒鳴った。俯いたまま、彼はわなわなと震える手を持ち上げ、その右手をぎゅっと握ると、
「――役立たずだ」
「……そ、そんなことは」
「役立たずなんだよ。今のオレは、死んじまう」
「――? それ、どういう」
意味なんだ、と声を震わせるアルにスバルは問いかけようとした。
だが、そのスバルの問いかけは、背後から届いた切迫した声に遮られる。
「アベルちん! ひどいことしちゃダメだよ!」
「黙っていよ。聞かねばならぬことがある」
「だからって……」
ミディアムの感情的な声と、それに応じるアベルの静かな声。振り向けば、二人が向かったのは通りの端、そこに倒れる羊人の少年――最初、この通りにやってきたとき、スバルを思いっ切り空に放り投げた少年だった。
体を起こした少年の顔には明確な怯えがあった。
気持ちはわかる。彼は縮んだわけではなく、等身大の子どもなのだ。それが、大人たちがコテンパンにやられ、それをした面々に、それも鬼の面の男に見下ろされて、怖い思いをしていないはずがない。
そんな怯える少年に、アベルは決して容赦をしない。
止めようとするミディアムの肩を掴んで下がらせ、アベルは少年の前に屈み込んだ。顔の距離が近付いて、怯える少年の瞳で燃える炎が、その勢いを陰らせるほどに。
そして、アベルは怖がっている少年の態度を無視して、問いを投げかけた。
それは簡潔で、明白な問いかけで――、
「此度のことを仕組んだ、有角人種のまとめ役――あの、タンザと名乗った娘はどこに隠れている。疾く、それを明かすがいい」と。




