第七章45 『コンコン』
――前門の虎、後門の狼。
厳密には状況は違えど、スバルの脳裏を掠めたのはそんな一言だった。
もっとも、その諺すら出てくるのに少し時間がかかったところに、スバルの置かれた状況の厄介さが如実に表れている。
「百人近い敵だぁ!?」
宿の裏口から外を窺い、驚くべき報告を告げたタリッタにアルが声を裏返らせる。
その反応にタリッタは「はイ」と静かに頷いてから、
「包囲されていまス。敵意というよリ、警戒心のような印象ですガ……」
「一人や二人ならまだしも、百近いとなると見過ごせまい」
裏口の戸を閉めて、声を潜めるタリッタにアベルがそう告げる。
その言葉にタリッタが顎を引くと、それを横目にアベルの視線がスバルに向いた。鬼面越しに黒い瞳が細められ、鋭い眼差しに心を射竦められる。
そして――、
「――貴様は貴様で、囲まれた以外の問題を抱えているな?」
「――ぁ」
「理に逆らって手足が縮んだ。何が起こっても不思議はない」
微かな嘆息を交え、スバルの変調を察したアベルがそう指摘してくる。
その彼の言葉に、スバルは自分の頬が恥から熱くなるのを感じた。まんまとアベルに不調を見抜かれたことも、自分が足を引っ張っている自覚からも。
いっそ、そのまま何もないと強がってしまいたい気持ちさえ湧き上がってくる。
しかし――、
「スバルちん、大丈夫?」
直前、弱ったスバルを慰めてくれたミディアムの声が、それをやめさせた。
ここで意固地になっても何の解決にもならない。ましてや、その意固地の結果、被害を被るのはスバルだけでなく、ミディアム含めた仲間たちも同じなのだ。
だから――、
「実は、その……記憶が変な感じになってる気がする。覚えてるはずのことがうまく思い出せなくて、よくないかもしれない」
「……さっきの、妙な様子はそれかよ」
強がりを呑み込み、そう打ち明けたスバルにアルが絶句する。
アルも、先のスバルの反応に違和感は覚えていたのだろう。その具体的な内容に触れたことで、彼の方でも不安が生じる。
スバルに起こった出来事、それはアルにとっても他人事ではないのだと。
「――。具体的には?」
「……大事な、家族の名前が出てこなかった。いや! ええと、出てくるのに時間がかかったって感じなんだけど」
「兄弟、強がってる場合じゃねぇだろ……」
「強がってるわけじゃ……」
ない、と反射的に答えようとして、それも強がりなのだろうかと思いとどまる。
大事な名前を忘れていると、そうはっきり断言されたくない。ちゃんと、スバルはベアトリスのことも、エミリアのことも、レムのことも覚えている。
屋敷に残してきた仲間たちのことも、ちゃんと覚えている、はずだ。
「だから、強がってなんか……」
「正確なところを話せ」
「え?」
「忘れたのか。それとも、口にするのに時間がかかるのか。どちらだ?」
そう問われ、スバルは思わず口ごもる。
一歩、距離を詰めたアベルの問いかけは強く、嘘を許さない切れ味があった。
脳が痺れるような感覚があり、目の前の男から意識を引き剥がせなくなる。そうして沈黙するスバルに、アベルは「どちらだ」となおも重ねて問いかけた。
「周囲を見れなくなった挙句、よもや自分の頭の中も見通せなくなったか」
「――っ、違う! 忘れたんじゃない、思い出しづらいんだ! そうだよ、うまく出てこないだけで、忘れたわけじゃない!」
「……引き出すのに時間がかかる、か」
酷薄な追及にとっさに言い返すと、アベルはその答えを静かに受け止める。
スバル自身、自分で言って何が違うのかわからない言い訳だった。だから、アベルがそれを無下に切り捨てなかったのが意外に思える。
実際、アルはそのアベルの反応に苛立たしげに「おい」と言い放ち、
「どう違うってんだ。この状況で拘るようなことかよ?」
「大いに違う。忘れることと、引き出しにくさの間には雲泥の差がある」
「ああ?」
不機嫌にアルが喉を唸らせ、しかしアベルはそれ以上答えない。
彼は困惑するスバルとアルを余所に、外に耳を澄ませるタリッタを振り返り、
「外の様子は。まだ仕掛けてはこぬか?」
「今のとこロ、息を潜めているだけでス。すでに包囲は完了しているはずですガ」
「ならば、こちらが奴らの要件を満たしていないということだ」
「要件、ですカ……?」
首をひねるタリッタにも応じず、アベルは思案するように自身の顎を指でひと撫でし、それから今一度、スバルに振り返った。
彼の思考の速度に追いつけずにいたスバルは、振り向く彼に思わずのけ反る。そののけ反った距離を詰め、アベルはずいとスバルに顔を寄せると、問う。
「――外のものは、どうすれば襲ってくる」
「え……」
「答えよ。外のものが、こちらに仕掛けてくる条件は」
「そ、そんなこと、言われても……」
鬼面越しの問いを重ねられ、スバルは息を詰めて身を硬くする。
そう言われてもわからない。なにせ、『死に戻り』する以前のことを思い出しても、あまりに突然のことで全く理解できなかった『死』だった。
もっと情報があれば、それこそ適切な対処法を提示することだって――。
「答えよ」
だが、そんなスバルの逡巡と混乱を踏みつけ、アベルは問いを投げつける。それにスバルが答えられずにいると、鬼面はその怒りの形相のままに幼い肩を掴み、
「答えよ! ナツキ・スバル!」
「わ、わからない! そ、外に出た途端、襲ってくる! それだけだ!」
脅されるままにそう答え、スバルは目を見開いて自分の胸を押さえる。
またしても、衝動的に『死に戻り』で得た情報を明かしてしまった。再び、禁忌を犯したペナルティが襲ってくる可能性に怯える。が、何も起こらない。
周囲の時間が止まることも、スバルの愚かしさを償わせる魔手も、実現しない。
ただ、その代わりに――、
「うーっ!」
と、スバルとアベルの間に唸りながら割って入るルイが、スバルを背後に庇いながら、強硬な態度に出たアベルを真正面から睨みつけていた。
肩を掴んだ腕を振りほどかれ、アベルが不愉快げな目をルイに向ける。しかし、そのルイにはすぐに心強い味方、ミディアムが並んだ。
「アベルちん! スバルちんをイジメないの! あんちゃんに言いつけるよ!」
「……あれに言いつけられ、俺が何とする。そも、必要な情報を喋らせただけだ。――宿の外に出ることが引き金になる、か」
悪びれもせず、アベルがミディアムの責める眼差しに肩をすくめる。
その上で考え込むアベルの様子に、ミディアムは「もうっ!」と腰に手を当てて、アベルではなくスバルの方に振り返った。
「スバルちん、平気? アベルちん、おっかなかったよね~」
「こ、怖がったのとは違うから。ちょっと驚いただけで……うん」
「そう? ならいいんだけど、スバルちん、強い子強い子」
言いながら、ミディアムの掌がスバルの黒髪を優しく撫でた。
その手つきの優しさと、「強い子」と褒められることにまたしても羞恥を覚える。ただ実際、弾む胸がゆっくりと落ち着くのは否定しようがなかった。
どうか、本当にどうかしている。
ミディアムに慰められて感じる安堵感もそうだが、それ以上の問題はアベルに対する言葉にし難い抵抗感と、恐れのような感情だ。
アベルの気迫に逆らえず、押し込まれっ放しではないか。
まるで――、
「まるで、大人と子どもだぜ。それも、見た目だけの話じゃねぇ」
「う……」
胸を押さえたまま、俯くスバルの横顔にアルの声がかかった。
先ほどのアベルとの対話を引きずったまま、声の調子が硬いアルの発言に、スバルは責められている気がして頬を引きつらせる。
大人と子ども、そう言われてスバルの中でも疑問が氷解する。
そう、アルの言う通り、そう表現するのが適切だ。事実として、今のスバルとアベルとのやり取りは、子どもと大人の力関係のそれに近い。
外見だけの話ではなく、その中身まで、それに引きずられつつあるかのように。
「――聞け。布陣した相手に目星がついた」
「ホ、本当なのですカ……!?」
スバルが得体の知れない怖気を味わう傍ら、低くそう言い放ったのはアベルだ。
そのアベルの言葉を受け、驚くタリッタが目を見張る。驚いたのは彼女だけでなく、同じ状況に置かれているアベル以外の全員がそうだ。より正確には、話の内容についてこられていないルイを除いた面子、だが。
ともあれ、アベルは全員の注目を集め、「ああ」と頷いた。
「オルバルトめが提示した条件と、タリッタが感じ取った百もの敵勢……ありえん可能性を除外していけば、自然と可能性は絞られる」
「それで、賢いアベルちゃんの見立ては? 誰がオレたちを狙ってる?」
「――カオスフレームだ」
「カオスフレームって……この街のこと?」
アルとミディアムの問いかけに、アベルは重々しく頷いた。
そして、まだ答えと繋がらない顔つきのスバルたちを見渡し、彼は続ける。
「カオスフレーム……すなわち、魔都の住人。宿を外から囲い、こちらへ仕掛ける機を窺っているのは、この街の住人共で相違あるまいよ」
△▼△▼△▼△
――敵はカオスフレームの住人と、はっきりとそう言い切ったアベル。
「――――」
アベルの断言に、スバルはパクパクと口を開閉して絶句する。――否、スバルだけではない。アルたちだって、それぞれ愕然とした反応をしていた。
それは当然だろう。いきなり、都市の人間が敵に回ったと言われても。
「そうなのか、なんてならないぞ。なんで、そんな発想に?」
「極々自然な思考だ。そも、宿の包囲に百人単位の手勢を駆り出せる勢力が限られる。その時点ですでに二択……皇帝一行と、魔都の戦力。だが、チシャめは俺に化けている。俺がせぬことは、奴にも容易にはできん」
「アベルちゃんと別人ってバレねぇようにか。しねぇことってのは?」
「のこのこと、手勢を率いて魔都へくるような暴挙だ」
断定的な物言いに頷きそうになるが、それが確定的な情報なのかスバルには判断がつかない。王様に同行する兵士が百人、それが多いのか少ないのか。
それぐらいいても、全然おかしくない気がするのだが。
「あたしよく知らないんだけど、アベルちんのお城の兵士ってどのくらいいるの?」
「それは帝都の兵数を聞いているのか? ならば……」
挙手したミディアムの問いに、アベルがちらとスバルの方を見る。その視線の意図を察せずにいると、彼は鬼面の額に触れ、しばしの思案のあと、
「三万はくだらぬ。だが、保有戦力の話ではない。皇帝が同行させるか否か、それが今の話の焦点だ。そして――」
「本物の皇帝であれバ、そのようなことはしないト」
「そういうことだ」
首肯するアベルが、偽皇帝の迂闊な判断を否定する。
その話を聞いても、相手がうっかりした可能性があるようにスバルは感じたが、それを言っても聞き入れてはもらえないだろうから口を閉じていた。
ともあれ――、
「こちらへの手出し無用を皇帝が謳い、オルバルトもそれに従う姿勢を見せた。そうである以上、手勢をこちらへ差し向けるのは道理に合わぬ」
「……自分が手ぇ出したわけじゃない理論とか、あるんじゃね?」
「では聞くが、俺がその理屈を許すと思うか?」
「思いませン」
答えたタリッタの傍ら、アルも同じように覆面頭の首を横に振る。
偽皇帝がアベルに化けている以上、その判断基準は皇帝状態のアベルと同一のはずだ。つまり、アベルが許さないことは偽皇帝も許せない。
そうすると、偽皇帝もとても心が狭い素振りを続けなくてはならないわけだ。
「仮に小理屈をひねろうと、カフマ・イルルクスが許すまい。あれは融通に欠ける。それ故に貴重な人材ではあるが、カフマ二将が曲がった解釈を見過ごすまいよ」
「カフマ……昨日の、堅物そうだった男の人か」
「あれは皇帝には従順だが、道理に合わぬことは一将相手でも躊躇なく意見する。オルバルトの老獪さも、カフマの信条は曲げられぬだろう」
「あの兄ちゃんに、そこまで力があんの?」
「一時は『九神将』への昇格を打診されたものだ。諸事情で見送ったがな」
アベルの返答を受け、アルが「うげ」と嫌そうな声を漏らす。
その言葉が事実なら、昨日の紅瑠璃城には『九神将』クラスの人材が二人――否、偽皇帝もその一人なのだから、三人もいたことになる。
それは確かに、下手な兵力を連れてくるよりも頼りになる人員かもしれない。
「でも、偽物の皇帝が敵じゃないってなると……」
自然と、アベルの言った推測が現実味を帯びてくる。
すなわち、外で待ち構えているのは魔都カオスフレームの住人であり、それらを動かせる親玉は――、
「ヨルナちゃんが、あたしたちを襲わせようとしてるってこと?」
「……他には考えにくいんじゃねぇか? そもそも、オレらのこと知ってて、狙わせるだけの理由がある奴って他にいねぇんだし」
「――。アベルはどう考えてるんだ?」
魔都カオスフレーム、その住人を手駒として動かせる人物。当然、その条件で最初に思い浮かぶのは、この魔都の支配者たるヨルナ・ミシグレだ。
しかし、オルバルト同様――否、オルバルト以上にその心中の読み切れない彼女が、この状況をお膳立てし、全てを仕組んだ黒幕だというのか。
そんな疑念を込めたスバルの問いに、アベルは鬼面の額を指で叩いて、
「腑に落ちん」
と、短く応じた。
「腑に落ちないって、ええと、納得できないってことだよな? なんで?」
「問えば、何事も答えが返ってくると考えるのは傲慢であろうよ。――親書だ」
「親書?」
いらない一言を付け加え、アベルがスバルの質問にそう答える。
親書とは、昨日ヨルナに届けた手紙のことだ。その手紙を届けることが昨日の目的であり、今日のお呼びがかかった理由になっているはず。
その手紙になんと書いたのか、詳しいことをアベルは教えてくれなかったが。
「親書には、あれの欲するものを褒美とする旨を書いた」
「あのお姉ちゃんの欲しいもん……つまり、皇妃の座?」
「お嫁さん?」
親書の内容にアベルが触れると、アルとミディアムが立て続けにそう口にする。
昨日の話では、ヨルナが欲しがっているのは『皇帝』であり、それはアベルに限らず、『皇帝の地位』だという話になっていたはずだ。
だから、ヨルナの欲しいものをあげると書いたなら、そういうことのはず。
「そういうの、手紙で伝えるのってどうなんだ?」
「貴様の尺度で問題を矮小化するな。どうあれ、あれは欲するものを得られる。だからこそ、城にこちらを呼びつけた。にも拘わらず、手勢を差し向けるのは筋が通らん」
「あー、殺したくなるぐらい、アベルちゃんの嫁になるのが嫌って可能性は……」
もしくは殺したくなるぐらい、手紙に失礼なことが書いてあった場合だ。
直接話していてこの態度なのだから、結婚しようという相手にも偉そうに接している可能性はとても高いとスバルは考えた。
でも、アベルはそんなスバルたちの考えを鼻で笑い、
「必要があればそれをする。感情は二の次だ。プリシラではあるまいに」
「オレはあのお姉ちゃん、厄介さでは姫さんに通じるもんがあると思ったなぁ!」
それはスバルも同意見。プリシラもヨルナも、どっちも怖い。
ただ、確信を持った言い方をされたので、アベルの言い分にも一理あるように思えてしまう。――それに、昨日のヨルナのことを思い出しても思うのだ。
『わっちもこの魔都の主、侍従もいる前で嘘偽りは言わぬでありんす』
そう、嫣然と微笑んだヨルナの言葉、それは正確にはスバルたちが渡した手紙、それを読まずに捨てることはないと、そうした約束の一言だった。
でも、あのあとで厩舎に落ちたスバルたちのところに、ヨルナの従者であるタンザは「ヨルナはスバルたちを認めた」と、そう言った。
少なくとも、自分の前言を勝手に翻す女の人にはスバルには見えなかった。
見えなかったから、アベルの言い分も、信じたい。
「いずれにせヨ、そろそろ外も痺れを切らしまス。どうしますカ?」
外を警戒しながら、そろそろ限界だとタリッタが進退を問う。
アベルの言った襲撃の要件――相手が襲ってくる理由的な意味だが、今のところそれは外に出ることだと考えている。しかし、相手がこっちを襲ってくる準備をしている以上、いつ無理やりに押し入ってくるかはわからない。
それに加えて、スバルたちは『かくれんぼ』の真っ最中だ。
「外の人たちがワーッてくるのがわかってても、出ないわけにいかないよね?」
「まぁ、あの爺さんが裏の裏を掻いて、二回目も宿に隠れてくれてたら話は別だが……念のため、もっかい部屋見とくか?」
「『見晴らしのいい奈落』の手掛かりがなければ、それも一考したがな」
そうアベルに却下され、アルが残念そうに首をひねる。
実はスバルも、もう一回オルバルトが最初の部屋に隠れているのは考えた。ただ、いくら考えても『見晴らしのいい奈落』と繋がらなくて言わなかったのだが。
そうしている合間にも、スバルたちの方針は固まる。
当然ながら、打って出る以外に選択肢がない。問題は、その選択肢を成功させるために、いったいどんな作戦を打つべきかということだ。
「――タリッタ、奴らの目を引き付けよ」
「アベル!?」
瞬間、アベルが言い放ったのは、およそ一番残酷に思える指示だった。
言われたタリッタが頬を硬くし、スバルは裏返った声でアベルを糾弾する。が、アベルはスバルの声を無視し、視線をタリッタに向けたまま、重ねる。
「大いに暴れ、外のもの共の注意を引け。その間に俺たちは外へ逃れる」
「アベルちゃん、わかる話がもっとマシな策は……」
「ない。現状、持てる手札で打てる最善の手筋だ。貴様たちが縮んでいなければ、他の手段を模索する術もあったろうが」
「一言多い!」
「あうーっ!」
タリッタの身を案じるアルを、アベルがそう言って切って捨てる。
その冷酷さにスバルが噛みつくと、同じようにルイが義憤の声を上げた。しかし、そうしたスバルたちの反応に――、
「いエ、承知しましタ。私が外の相手の注意を引きまス」
「タリッタさん! いくら何でも……」
首を横に振り、アベルの無茶な指示を受け入れようとするタリッタ。
どうにか、もっとマシな策で彼女の安全を確保したい。だが、今のスバルの頭に思い浮かぶのは、とても危ない外の敵への警戒と不安の二種類だけだった。
「タリッタ、荷を渡せ。それはこの先で必要になる」
「どうゾ。私が十分注意を引いたラ、隙をついて抜け出してくださイ。合図を出す暇はないと思いますガ……」
「そこはミディアムに判断させる」
「え、あたし?」
タリッタの担いだ荷をアベルが受け取り、細い方に鞄が担がれる。そのまま、アベルの続けた段取りに、名指しで指名されたミディアムが目を丸くした。
そのミディアムを振り向いて、アベルは「そうだ」と頷く。
「縮んでいようと、機を見る目は残ったままだ。この中では貴様が適任だろう」
「ん~、わかった。あたしも、ちゃんと注意して見てる! だから、タリッタちゃんも気を付けてね」
「はイ」
スバルを置き去りに、とんとん拍子に話が進んでしまっている。
アベルはともかく、タリッタとミディアムは肝が据わりすぎだ。特にタリッタは、一番危険な役目を託されているというのに。
「でハ、ゆきまス」
と、弓を握りしめたタリッタがじりっと、裏口の戸に手をかける。その背中へと、スバルは我慢し切れずに「タリッタさん!」と声を上げ、
「あの、し、死なないで……!」
「――――」
なんて、当たり前すぎて励ましにもならないことを口走るのかと、自分で自分が嫌になった。役立つ意見や、必勝の策が授けられないなら、せめてタリッタの士気を鼓舞するような発言をすべきだ。
それなのに、出せたのは震え声の懇願。――だが、タリッタはわずかに目尻を緩め、
「えエ、またあとで会いましょウ」
薄く微笑んで、タリッタの体が外へ弾かれるように飛び出す。
その直前、敵地へ向かうタリッタの背に、アベルが最後の言葉を投げかけた。
それは――、
「タリッタ、手を抜く必要はない。本気でやれ。――この都市の人間は、誰であろうと容易く殺せはせぬ」
と、励ましとも必勝の策とも言えない、不気味な忠告だった。
△▼△▼△▼△
――外へ踏み出した瞬間、猛烈な勢いで敵意が膨れ上がる。
それを褐色の肌で味わいながら、タリッタは細めた目で左右全域を一気に見通した。
密林の中、狩猟者として生きる『シュドラクの民』にとって、一瞬の地形と状況の把握は最低限の必須技能であり、タリッタもその例外ではない。
――否、姉のミゼルダより、タリッタは族長を託された身だ。
故に、タリッタは同族のシュドラクたちの中でも、ひと際それらの技能に秀でている必要がある。そして、実際そうだ。
「――ぁ」
喉の奥、微かに息を弾ませ、タリッタは自分に向けられる敵意の数を把握する。
周囲、戦意を宿したものはおおよそ百人だが、裏口から飛び出したタリッタを捕捉した敵意はそのうちの二十に満たない。
加えて、その中で素早く動けるものはもっと数が減るだろう。
ひとまず、振り向けたものから足を――、
「――いエ」
本気でやれと、飛び出す直前にアベルに忠告されたことが脳裏を過った。
アベルは傲慢で、顔のいい男だ。ミゼルダの好む男の条件を満たした人物で、タリッタはあまり得意な相手ではない。押しの弱い自分は流されやすく、姉やアベルのような性質の相手と対峙すると、自分の意見が何一つ言えなくなる。
だから、タリッタは話を聞いてくれる相手がいい。特に自分は意見をまとめるのに時間がかかるので、急かされると目が回ってしまうことも多々ある。
そうした観点で言えば、グァラルに残してきたフロップなどとても――、
「――ッ、何を考えているのですカ」
一瞬の羞恥に顔を赤くしながら、タリッタは腹いせのように弓の弦を引き絞った。
そして刹那ののちには、弓につがえられた矢が放たれる――それも、同時に三本。タリッタの弓術、それが本領を発揮し、三本の矢がそれぞれ別の獲物を狙った。
一本は真っ直ぐ、二本は曲射の形で宿の外の小路の風を切り、獲物へ突き刺さる。
飛び出したタリッタに向き直り、踏み出そうとした三人の男、それらの首と胸をそれぞれ射抜いて、瞬時の戦闘力を奪った。
「狩りハ、いいでス」
誰とも話さなくていいから、タリッタには向いていた。
獲物は、タリッタが話すのを望んでいない。タリッタも、獲物と気持ちを通わせることなど望まない。対話らしい対話は、放たれた矢の会敵だけ。
それも、生と死という結果は、語らいの果てに出す必要のないものだ。
「――おお!」
咆哮を上げて、射抜かれた男たちと入れ替わりに小路へ飛び込んでくる複数の影。
最初にタリッタの視界に入ったのは、見上げるほど大きな体躯をした牛人の獣人だ。その頭頂部に短く太い角を生やした男が、猛然と体躯を活かした吶喊をぶちかます。
正面から直撃を受ければ、タリッタの細い体は全身の骨を砕かれるだろう。
かといって、後ろや横に逃げ場はない。上へ飛んでも、足を掴まれる可能性が高い。
そこまで見通したところで、タリッタは身を低くし、前へ走った。
「なっ!?」
その行動が予想外だったのか、目を見開いた牛人が喉を引きつらせる。その牛人の顔面へと、タリッタはその足を伸ばし、鼻面を蹴り砕きながら足場とした。
膝を曲げて柔らかく衝撃を殺し、鼻血をぶちまける牛人の顔を足場にタリッタの体が軽々と宙を舞う。そして半回転し、中空で逆さの姿勢を取った。
「――――」
くるくると回りながら、先ほどは見渡せなかった背後も含めた三百六十度の視界を確保し、建物の陰や屋根の上、都市に張り巡らされた足場、そういった位置からこちらへ攻撃を仕掛けようとする輩まで、いっぺんに捕捉する。
「矢が足りませんネ」
言いながら、背負った矢筒の矢をまとめて指に挟んで引き抜き、目まぐるしい速度で弓につがえ、三連射を怒涛の勢いで繰り返し、敵を削る。
捕捉した敵の数と、矢玉の数が釣り合わない。仕方なしに、優先度の高い敵から削るしかないと、タリッタは長年の勘で力量の高いものから狙った。
視界に入ったものたちの姿に、感じた違和感はこの瞬間は無視して――、
「うおおおお――っ!?」
荒れ狂う矢玉が嵐のように暴れ回り、射抜かれたものたちが衝撃に吹き飛ぶ。
アベルの忠告に従い、容赦のない急所攻撃、全員の胸と首、狙えるものは目や口を狙って致命傷を負わせる算段、おおよそ三十の敵へと攻撃を叩き込んだ。
ただし、この最初の交戦ですでに矢玉は尽きてしまった。
あとは可能な限り、使った矢を回収して囮役を務めるしかないと――、
「……これは少シ、想定外なのですガ」
射抜かれ、倒れたものから矢を取り戻そうとしたタリッタの足が止まる。
タリッタも、シュドラクの戦士としてこれまで数え切れないほどの獣を射抜いてきた。多少形が違えど、生き物の急所を射抜いた手応えは弓を弾いたときにわかる。
そして、その経験を踏まえて、射抜いたものたちの命を奪った確信があった。
「ぐぐ……」
それなのに、呻きながら立ち上がるものたちは誰一人、命を失っていない。
仮に死ななくとも、瀕死の状態には陥るはずだった。だが、立ち上がったものたちは瀕死どころか、戦意すら失っていない目でタリッタを睨みつけていた。
その、タリッタを見つめる瞳に、変化が生じる。
「それハ、いったいなんでス?」
眉を顰め、立ち上がった牛人の男にタリッタが問いかける。その問いに男は答えないが、彼の身に起こった変化はあまりにも異質で、目を引くものだった。
――その右目を、赤々とした炎が覆っていたのだ。
「――――」
瞳が燃えているのは、その牛人の男だけではない。
タリッタに射抜かれ、倒れたものたちは全員、右目と左目の違いはあれど、それぞれの片目に赤い炎を宿し、タリッタを見据えている。
そうして瞳を燃やすのは、何もタリッタに射抜かれたものたちだけではなかった。
現れたタリッタを取り囲むため、遅れてこの場に参じたものたちも、その瞳に赤い炎を宿している。ゆらゆらと、火の粉を散らしながら燃えている炎。
そして驚くべきは、それと同じ炎が牛人たちの負った傷口を焼いて、癒すこと。
牛人の蹴り砕かれた鼻も、射抜かれたものたちの矢傷も、根こそぎに。
「……少々、言葉足らずではありませんカ、アベル」
その光景と、先のアベルの忠告が重なり、タリッタは吐息と共にそうこぼした。
確実かはわからないが、アベルは少なからずこの事態を予想していたのだろう。ならば、もっとわかりやすく言葉を尽くしてもらいたかったものだ。
などと、話をどんどん進める相手は得意ではないと、そう思ったばかりの頭で都合のいいことを望んでしまう。
しかし――、
「私の役目は囮デ、敵を全滅させることではありませン」
故に、自分の役割に集中するという点では、これはうまくいっていると言っていい。
あとは――、
「……矢ハ、折りますよネ」
射抜かれたものたちが、自分の体から抜け落ちた矢を次々と折っていく。回収するはずの矢玉の当てが外れ、タリッタは得意の弓術を封じられた状態だ。
ただし、それで打つ手がなくなるかといえば、それも間違いである。
「狩りにハ、短剣も投石も使うのですかラ」
そう言いながら、タリッタは身を低くして、着せられた礼服の内に仕込んだ短剣と、放つ矢を失った弓を一緒に構える。
なおも、役割を果たすためのタリッタの応戦は、始まったばかりだった。
△▼△▼△▼△
「――っ、タリッタさん、すげぇ……!」
傷口を燃やし、その瞳を燃やした人々の姿に、走りながらスバルは声を震わせる。
送り出したタリッタの奮戦、彼女の腕前はスバルの想像をはるかに超えていた。
正直、奥手で大人しい性格のタリッタは、シュドラクの中でどの程度の力量にあるのか、スバルはかなり彼女を見くびっていたと言っていい。
直前の、オルバルト相手に無力感を味わわされる彼女の姿を見たこともある。
無論、ミゼルダが次の族長に指名するぐらいなのだから、クーナやホーリィと実力的な差はないと思ってはいたのだが。
あの正確な狙いと速射、圧倒的多数を相手に繰り広げる大立ち回りを見るに、もしかしたらミゼルダに匹敵するか、あるいは彼女より腕が立つようにも思えて。
「それでも……っ」
技量の高さが窺えるタリッタを以てしても、あの刺客たちの異質さは拭えない。
そもそも、彼らはその見た目も奇妙だ。なにせ、全員が鎧も着ていなければ、武器らしい武器も持っていない。武装していないのだ。
その外見は見るからに、昨日からこのカオスフレームですれ違った大勢と同じ――この魔都で暮らす、一見目を引く風体をしているだけの市民に他ならない。
そんな市民たちが、スバルたちを取り囲んだ挙句、タリッタの超絶技巧による矢の攻撃を受けて、致命傷を浴びながらも平然と立ち上がっていく。
遠目に見た限り、刺客たちには女性や子どもも含まれていて、集められた屈強な戦士たちでないことに、タリッタも動揺しているのではないか。
彼女が見事に注意を集め、ミディアムの合図で都市へ飛び出したスバルたち。だが、本当に逃げていいのか、タリッタの援護をすべきではないのか。
何が正しいのかわからず、スバルの中で選択肢がぐるぐると回り続けている。
そのスバルの横で、鞄を担ぎ直したアベルが同じ光景を尻目に――、
「やはり、都市全体に『魂婚術』を張り巡らせているか」
「コンコン……? おいおい、アベルちゃんよ、なんなんだそりゃ」
「タリッタと向き合い、引かぬもの共のカラクリだ」
どたどたと走るアル、その質問にアベルが答えになり切らない答えを返す。
その内容はうまく頭に入ってこないが、はっきりとわかったことが一つ。――アベルには、あの燃える瞳と刺客たちの関係に心当たりがあるということだ。
「アベル! 秘密にするな! 全部話せよ!」
「――。古き文献に語られる、失伝したはずの秘術の一つだ。『魂婚術』と呼ばれ、己の魂の一部を他者に分け与えることで、そのものの価値を上積みする」
「わっかんねぇ! それ、どういうことだよ!」
「有体に言えば、『魂婚術』で結ばれた魂同士は力の一部を共有する。そしてこの都市において、『魂婚術』の使い手は一人――」
スバルとアルに左右から急かされ、アベルが可能な限り噛み砕いた回答をする。
それでもなお、まだスバルには理解が難しい内容だったが、どうにかこうにか、ニュアンスだけは拾い切ることができた。
つまり――、
「――この魔都を構成する全てのものが、ヨルナ・ミシグレの力を共有しているということだ。故にこの都市は、軍勢を差し向けようと容易くは落ちぬ地であるのよ」