第七章44 『収縮する視野』
――理解できない状況が、ナツキ・スバルの小さくなった脳を蹂躙する。
そう言って差し支えないぐらい、衝撃的な状況だった。
『死』の自覚がないままに、スバルが舞い戻ったのはオルバルトとのルール決めの最中――認めたくなくとも認めるしかない。
スバルは命を落とし、この瞬間に『死に戻り』してきたのだと。
それも――、
「……死なないはずの、かくれんぼの最中に」
小さな掌で自分の口元を覆い、スバルは何が起こったのかを必死に回想する。
オルバルトとの『かくれんぼ』が始まり、一度は怪老の底意地の悪さを乗り越え、最初の部屋――『瞼の裏』に隠れたシノビを見つけ出すのに成功した。
その勢いのままに、スバルたちは次なる怪老の隠れ場を特定するべく、宿の外に踏み出したのだ。そこで突如として、世界は暗転した。
そして気付いたときには、この場所に舞い戻ってきていたのだ。
「――――」
「――貴様の提案、受けるなら決め事を明確化しておく必要があろう」
「ほう、どういうことなんじゃぜ?」
「貴様自身が口にしたことだ。こちらが勝つ方が利が大きいというなら、悪足掻きの余地を多く残しておくべきではない。――互いの求むるところは明確に、だ」
「――。かかかっか」
スバルがそうして考え込む傍ら、オルバルトとの交渉は先の段階へ進んでいる。
アベルとオルバルトとの会話の進展、その先に待っているのはルール決めの前提となる勝負方法の選定。すなわち――、
「――かくれんぼだ」
と、そうアベルが断言するところだった。
△▼△▼△▼△
――その後、オルバルトとの間に交わされた『かくれんぼ』の条件。
それも、スバルが知っている通りの内容に終始した。新しい条件が追加されることも、必要な内容が削られることもない。必然、同じ内容にとどまる。
もっとも――、
「確認の確認だが、オルバルトさんはあくまで隠れるだけ。こっそりと、俺たちに攻撃を仕掛けてくるような真似は……」
「おいおい、そりゃまた心配性が過ぎるんじゃぜ、坊主。言っとくが、ワシがお前さんらの何を試してえかって言やぁ、頭の回転だの抜け目なさってもんよ。腕っ節だけ問題にすんなら、昨日の天守閣でおちめえじゃったじゃろ?」
「――――」
安心させる意図を込めたオルバルトの言葉、それを素直に咀嚼できない。
事実として、スバルが命を落として『死に戻り』したのは間違いないのだ。そして現状、スバルたちに最も身近な脅威は、目の前のオルバルトに他ならない。
手出し無用のルールを破り、彼がスバルたちを狙ったのではないのか。
「やれやれ、ずいぶんと疑われっちまったもんじゃぜ」
「信じてもらえる立場じゃねぇだろ、爺さん。それこそおこがましいってもんだ」
「かかかっか! そりゃ言えとるわ。八年前、仲良くしたお前さんも冷てえもんじゃし」
押し黙ったスバルの様子に、強い警戒心を感じ取ったオルバルトが肩をすくめる。彼は続くアルの指摘に歯を見せて笑い、いけしゃあしゃあとそうのたまった。
当然、アルもオルバルトの言いようには不服そうに黙り込む。
ともあれ――、
「オルバルト、言わずともわかっていようが、貴様の隠れ場は俺たちが物理的に到達できぬ場所では意味がない。小賢しい悪道を働くなよ」
「わかっとるわかっとる。細けえ連中じゃぜ。言われなきゃやっとったけど」
前回、スバルが指摘したのと同じ内容をアベルが指摘する。それをオルバルトが承諾したところで、改めて勝負の開始が宣言される。
すなわち、最初の隠れ場のヒントの提示だ。
「それで、最初はどこに隠れる気だ、爺さん」
「まずは小手調べ……ワシはこの宿の近く、『瞼の裏』に隠れるとするんじゃぜ」
一瞬、スバルの中に嫌な緊張が張り詰めたが、それは杞憂に終わった。
前回と違った隠れ場を指定される可能性を恐れたが、そうはならずに済む。その後、堂々と背中を向けるオルバルトに、タリッタやアルが飛びかかりたい衝動を堪え、見送るしかなかったことも含め、全体の流れは踏襲された。
そうして――、
「どうしたよ、兄弟。だいぶ顔色悪いぜ」
アベルの指示で弓を下ろしたタリッタ、彼女の横顔を慮る合間に、そう声をかけてきたのはアルだ。その彼の発言は、前回とは少し流れが異なっている。
元々は、オルバルトとの勝負に乗ることへの不満を訴えてきていたはずだが、今回はスバルの顔色について――否、口数の減ったスバルを案じている様子だ。
それも当然だろう。スバル自身、困惑と混乱がいまだに収まっていない。
突然の『死に戻り』と、その精神的なショックから立ち直れずにいる自分に対して。
「いや、悪い。話してる最中に、急にドッと疲れがきた……感じだ」
「おいおい、しっかりしてくれ、頼むぜ。縮んだせいで能力半減したオレやミディアムちゃんと違って、兄弟の強みは縮んでも健在のはずだろ?」
「俺の強みって……」
「もちろん! スバルちんのすごいところは頭のいいとこだよ! あんちゃんもすごいけど、スバルちんもすごいでしょ? おっぱいちっちゃくなってもへっちゃらじゃん!」
アルの励ましに続いて、ミディアムもそこに元気よく乗ってくる。
ルイを抱えたまま、彼女は自分の膨らみの消えた胸をペタペタと叩いている。その二人の様子に目を見張り、それからスバルは長く息を吐いた。
励ましてくれる二人の言う通りだ。
元々、縮んでいようといまいと、スバルが物理的に役立つ局面などほぼないのだ。ならば、縮んで最も影響が少ないのはスバルである。
そのスバルがいつまでも、精神的な消耗を引きずっている場合ではない。
「……だから、俺をそんな目で見るのはやめろ。鬼の面の効果を十分に発揮するなら、『認識阻害』の機能だけで十分だろ」
「多少は周りを見る目が戻ったか。だが、存外驚かされたぞ。てっきり、貴様はこの面の持つ効果に気付かないうつけ者だと思っていたからな」
「……お前が、ただの奇行で仮面を被ってても驚かないけどな」
アルとミディアムに励まされ、顔を上げたスバルがアベルに真っ向から言い返す。
役立たずを見下す目をしていたアベルも、スバルが顔を上げる気力を取り戻したのを見取り、それ以上の嫌味は呑み込んでくれた様子だ。
それを譲歩と感じる時点で、アベルのコミュニケーション能力に難ありな部分が察せられるが、現時点でそれについて話し合う余裕はない。
「で、だ。最初は小手調べって言ってたが、宿周りってだけでも候補は多いぜ。兄弟とアベルちゃんにはなんか策とかあんのかよ」
状況を動かすべく、アルがスバルとアベルに矛先を向けてくる。
それに対する回答として、スバルが提示できるのはオルバルトの最初の隠れ場――まさしく、今語らっている部屋に怪老が舞い戻る事実だ。
オルバルトの残したヒントが同じである以上、そこが変化する心配はいるまい。
問題は、オルバルトを見つけ出したあとの、宿の外に出るときのことだ。
「策ってわけじゃないが、『瞼の裏』がどこのことなのかは想像がつく」
「え、マジかよ。すげぇな、兄弟」
「……ただ、『瞼の裏』とはまた別の問題が浮上してる可能性が高いんだ」
スバルを――否、スバルたちを襲った何らかの脅威、それを何も知らないアベルやアルたちと共有しておく必要がある。
とはいえ、スバル自身も得られた情報が少なすぎるため、伝えられる確実な意見というものがそれほど多くない。強いて言えることがあるとすれば――、
「オルバルトさんとした約束……手出しさせないってあれだが、オルバルトさんが破る可能性とか、ないか?」
「あ? それって、そもそも前提を破ってくるって話か?」
「ああ、ありえるんじゃないかって思うんだが……」
「――いいや、ありえんな」
宿を出た途端に襲われた事実から、スバルはそれとなく仲間の注意をオルバルトに向けようとする。が、それは殊の外強く、アベルに否定されてしまった。
その反応にスバルが目を見張ると、アベルは己の細い腕を組みながら、
「そのような行い、オルバルトに得るものがない。故にありえぬ」
「け、けど、オルバルトさんは皇帝殺しまで考えてたんだぞ! お前も、それは全然想像してなかったって……だったら!」
「死後の名声は、俺にはない発想という話だ。だが、そうしたものが存在することは理解できる。それを欲するものがいることも。しかし、これとそれは別の話だ」
鬼面越しの鋭い視線に射抜かれ、スバルは内臓が竦むような感覚を味わう。
特別、アベルがこれまで以上に鋭い気を発したわけではない、はず。にも拘わらず、射竦められる感覚が消えず、スバルは呼気を乱される。
そんな感覚に苦しむスバルを余所に、アベルは「よいか」と続ける。
「貴様自身も看破し、覆面の道化も反論された通り、オルバルト・ダンクルケンがこちらを自ら害する理由がない。奴が皇帝の首を狙うなら、それこそ俺の情報は喉から手が出るほどに欲するものだ。前提も何もあったものではなくなる」
「あー、オレもアベルちゃんに同意見だぜ、兄弟。あの爺さんは皇帝から、オレたちに手ぇ出すなって命じられてんだ。破る気があるなら、宿の中も外も関係ねぇ。だろ?」
「ええと、そう、なるのか……?」
「兄弟?」
「あ! いや、そうだよな! うん、俺もそう思う。確かにそうだ」
アベルとアルの立て続いた話に、数秒だけ理解が遅れる。
しかし、しっかりと論立てて説明されれば、それはスバルも頷ける内容だった。
アベルたちは知らないが、オルバルトにはスバルたちを殺した実績がある。
だが、それはオルバルトの中で筋が通った行いであり、その筋自体はスバルも納得できるものだった。あの場において、悪かったのはタイミング以外の何物でもないと。
それに従えば、今回――スバルたちが宿を出た途端に殺されたという流れは、確かにオルバルトのルール的にはおかしな話だ。
アルの言う通り、どうあろうと殺すつもりでいたなら、スバルたちが宿の外に出る前に殺した方が人目にもつかない。もしかしたら、人目につく場所でスバルたちを殺したい思惑があったのかもしれないが、それも意味がわからない。
ひょっとすると、殺されないと思って安心しているスバルたちを殺した方が、スバルたちがビックリしたり苦しんだりすると思っていたのかもしれないが。
「それなら、もっとちゃんと自分の顔を見せる、よな」
オルバルトが性格の悪さから、スバルたちの気分の乱高下を狙ったのだとしたら、スバルたちのガッカリと絶望をその目で見たがるものではないか。
それがなかったなら、宿の外でオルバルトがスバルたちを殺す理由が思いつかない。
つまり――、
「どういうことになるんだ……?」
「ねえねえ、スバルちん、何が心配なの? お外が心配?」
「え?」
状況の整理に焦るあまり、黙り込んだスバルの顔をミディアムが覗き込んでくる。
すぐ目の前に青い真ん丸の目があって、スバルは思わず「ほわっ」とのけ反った。そのスバルの反応に「わお」とミディアムはとっさにスバルの手を掴む。
そして――、
「よしよし、スバルちん、落ち着いて落ち着いて」
「――ぁ」
と、掴んだ手を引き寄せ、ミディアムがスバルの頭を胸に抱え込んだ。
ゆっくりと背中を撫でられ、ミディアムの胸の鼓動を額と頬が感じる。彼女の心臓の拍動は規則正しいリズムで、硬直したスバルの意識を柔らかく砕いてくれた。
「あたしも、頭がわやくちゃになったときとか、あんちゃんにやってもらうんだ~。あんちゃんも、昔、人にやってもらったんだって」
「……落ち着く、感じがする」
「うんうん、よかった! それじゃ、そのままでいいから教えて? スバルちんは、お外の何が心配なの?」
真上から降ってくるミディアムの声は、スバルに答えを急かしていない。
そのまま、幼くなっても大らかさと優しさの変わらないミディアムに甘えてしまいたいが、それを時間が許さないこともスバルは弁えている。
だから折衷案に、ミディアムに頭を抱えられたまま、たどたどしく思考を展開する。
「それが、その……宿の外が、危ない状況になってる、気が、して……」
「お外が危ない状況?」
「ああ、そうなんだ。誰かが、俺たちを狙ってる、と、思う……」
ふんふんと頷いて、ミディアムがスバルの曖昧すぎる意見に耳を傾ける。正直、自分でも説得力も、根拠もなさすぎる発言であると自覚できた。
もっとマシな話ができなければ、ミディアムはともかく、アベルやアルの納得を引き出すことはできないだろう。例えば――、
「実際に、俺たちが宿の外に出たら、そこで死ん――」
――瞬間、世界が静止した。
「――――」
はっきりと、聞こえていたミディアムの拍動が永遠の彼方に消え去り、すぐ目の前にあった彼女の顔も、息遣いも手が届かないところへゆく。
何もかもが、遠い。
色が失われ、音が失われ、時間の流れが失われ、身じろぎする自由が失われる。
動けない。動かない。動かれない。動かせない。
そうして、声も、呼吸も、眼球さえ自由にならないスバルの意識の端を、おぞましく、恐ろしく、おどろおどろしいものがゆっくりと近付いてくる。
何故、禁忌に触れてしまったのかと、黒い影が嘆くようににじり寄ってくる。
何故、これを忘れてしまったのかと、闇色の細い指がするりと胸に滑り込む。
何故、幾度も繰り返そうとするのかと、全てを塗り潰す『魔女』の声がやってくる。
『――愛してる』
ずいぶんと、ずいぶんと久しぶりに聞こえた一声が、スバルを地獄へ引きずり込む。
心の臓を握られ、凄まじい激痛が動かないスバルの肉体をズタズタに引き裂く。痛めつける。蹂躙する。凌辱する。――もう二度と、忘れるなと刻印する。
そして――、
「――ッ」
「スバルちん?」
不意に、音と色と、時間の流れが舞い戻り、猛烈な血の流れを全身に感じる。
ミディアムの胸に押し付けた頭が、しかし拾うのは彼女の柔らかな心音ではなく、スバル自身の血流の再開と、脅かされて弾んだ尋常でない自分の拍動だった。
声を失うほどに、理解を噛み砕くほどに、魂を犯し尽くすほどに、禁忌に触れたことへの『魔女』の怒りは絶大で、スバルは自分で自分を呪う。
何故、あれほどの痛みを、苦しみを、自ら踏み込むような真似をしたのかと。
決して、他者に『死に戻り』は打ち明けられない。
それを類推させるようなことさえ、口走ることはできない。
誰かにその意図を伝えようとすれば、あの闇色の魔の手が――『嫉妬の魔女』が、如何なる艱難をも乗り越えて、スバルの心の臓へ到達するというのに。
ましてや――、
「あぶな、かった……」
そう呟いて、スバルは自分を抱いてくれているミディアムと、彼女の周りにいるアベルやアル、タリッタとルイ、それぞれの存在を確かめる。
眦にじっとりと持ち上がってくる熱いものは、彼女たちが害されなかった安堵。――この『死に戻り』の告白は、スバルが最も恐れるリスクを伴っている。
すなわち、あの魔の手がスバル以外の誰かを、それもスバルに対する脅しと違い、その命脈を止めるまで力を緩めない可能性だ。
その可能性が実行されず、苦しんだのがスバルだけなら次善の結果だ。
無論、スバルも苦痛を味わわされないのが最善だったのは否めないが。
「ミディアム、さん……ありがとう、もう、大丈夫だ」
「ホントに? なんか、さっきよりもっと辛そうに見えるけど……」
「俺が辛いだけなら、状況的には一番マシってことだから」
そう言って顔を上げ、ミディアムの抱擁から解放されるスバル。ややミディアムは抵抗感のある顔をしていたが、スバルの固辞にそれ以上は何も言えない。
彼女が心配してくれるのはありがたいが、状況はそれを許さない。それに誇張なく、事実としてミディアムのおかげで助かった部分もある。
「へんてこな、不安にさせる言い方でごめん。でも、外が危ない……って感じてるのは本気なんだ。だから」
「外に出るな、とでも? だが、それではオルバルトとの勝負にはなるまい。無論、奴との勝負に乗らないという選択肢がないではないが」
「――――」
「その場合、ヨルナ・ミシグレとの交渉もご破算とする他あるまいよ。この旅は遠出をした挙句、貴様と道化、それとミディアムが縮んだだけということになる」
「まぁ、若返りって結果を一生かけて欲しがる奴もいるかもだがよ」
アベルの冷徹な物言いに、アルが力のない茶々を入れてフォローする。アルの言い分はしかし、オルバルトの発言が正面から否定していた。
その詳細は不明ながら、スバルたちを襲った『幼児化』には何らかのデメリットが付きまとっているらしい。単純な若返りとは違う、ということなのだろう。
つまるところ、この『幼児化』も爆弾には違いないというわけだ。
「どのみち、縮んだままじゃいられねぇ。あの爺さんを囲んで叩くって選択をしなかった以上、『かくれんぼ』に勝つしかねぇぜ」
「わかってる。勝負は投げない。ただ、外はすごく危ないんだ。だから……」
「だから?」
「その、外に出るなら気を付けたい。あと、すごく変なことを言っても信じてほしい」
「――――」
真っ向から、上目に相手を見てスバルが訴える。
その、回り道のない発言にアベルが鬼面越しに目を細めたのがわかった。アルも、微妙に困惑するのが伝わってくる。
確かに、説得力はないし、説得しようとする試行錯誤にも欠けている。
「ですガ、スバルの言うことにも一理ありまス。私たちは敵の罠にかかリ、ここは敵地と言ってもいいはずの場所でス。なラ、警戒を高めて損はありませン」
「そうそう、あたしもタリッタちゃんと同感! 気を付けようよ! これ以上ちっちゃくなっちゃったら、ルイちゃん止められないし」
「あうー」
だが、そんなスバルの意見に、タリッタとミディアムが同調する。最後、声を上げたルイの意図は不明だが、スバルへの敵意があったわけではなさそうだ。
同調したタリッタたちも、難しい話をしているわけではない。ただ、油断大敵だから注意を怠るな、と自己の意識を高めているだけ。
それをアベルが渋る理由が、ただスバルが気に入らない以外に思いつかない。
「もし、俺が気に入らないなら、その、証拠を見せるよ」
「証拠だと?」
「俺の考えは無視しちゃいけないって、証拠だ。あの、オルバルトさんの場所。あの人が隠れてる、『瞼の裏』がどこか教える」
「それが交換条件になると思うか? いずれにせよ、貴様はそれを明かさざるを得ん。隠して不利益を被るのは貴様も同じだ」
「うぐ……」
しかし、アベルは手強く、スバルの意見にそう反論してくる。思わず、ぐうの音も出ないと呻いたスバル。そこへ、アルが「まあまあ」と割って入り、
「アベルちゃん、兄弟は判断材料を寄越すって言ってんだぜ。実際、兄弟の言い分はいきなりすぎてオレも頭の上からハテナマークが消えねぇよ。けど、兄弟が突飛なこと言い出すのは今に始まったことじゃねぇ。だろ?」
「――――」
「ここで兄弟の意見を聞かねぇなら、兄弟を連れ回す意味がねぇ。で、兄弟を蔑ろにしようってんなら、オレも気分はよかねぇよ」
「ほう」
スバルを背に庇うように立ち位置を変え、アベルと向き合うアルの声が低くなる。
少年声レベルの声の低さだが、それでも空気が変わるには十分だ。それを見下ろすアベルの視線も冷たくなり、スバルは思わず息を呑む。
ここまであまり気に留めてこなかったが、アベルとアルとの関係は、スバルが思っていたよりもずっと希薄なものだ。
元々、アルはスバルに付き合うつもりで魔都への道行きに同行している。そして、スバルと同じでルグニカ王国の人間である彼は、アベルの帝位復帰にさしたる拘りがない。
強いて言えば、アルの主人であるプリシラがそれを望んでいるくらいか。
故に、アル個人としてアベルの目的にも、彼自身にも肩入れする理由がないのだ。
ここにきてそれが、はっきりとした関係への亀裂として顕在化している。
肉体的には十歳前後に縮んだアルだが、果たしてアベルはこのアルに勝てるのか。この状態のアルの実力が不明である以上、この睨み合いは長引いても得はない。
だから――、
「ケンカはやめろ! わかった、俺の負けだ! 降参する!」
背後に庇ってくれたアルのさらに前に回り込み、スバルはそう声高に訴えた。
ここで味方同士で揉めていてもいいことは何もない。そんな不毛なことを続けるくらいなら、スバルが悪者になった方がよっぽどマシだ。
それに、どちらにせよ、注意喚起はできた。
タリッタもミディアムも、アルだってスバルの訴えは耳に残ったはずだ。宿を出るとき、彼女らも十分に注意してくれるはず。
問題は、『死』が注意では足りない形で迫ってきた場合だが。
そのときはもう、スバルが体を張って、どうにかするしかない。
「だらだらしてられないんだ! みんな、準備しよう!」
「――。それで、貴様の考える『瞼の裏』はどこだ?」
「それは……」
とにかく、この場は時間の浪費を避けるべきと主張するスバル。そのスバルの言葉に、アベルがようやく肯定的な反応を見せた。
それだけで安堵に繋がるのが、この皇帝閣下の対人能力の欠陥を物語る。
ともあれ、スバルは正直に答えることとした。
オルバルトの最初の隠れ場、それは――、
△▼△▼△▼△
「次はもうちょい、歯応えのある隠れ方しとくんじゃぜ!」
「待て、爺さん! ……クソ、もういねぇ!」
部屋の窓を開け放ち、オルバルトが宿の外へと飛び出していく。
その身軽な怪老のあとを慌てて追いかけるアルだが、彼が窓に辿り着いたときには、熟練のシノビの姿はとっくに街の雑踏へと潜んでしまっていた。
逃げ足の速さはピカ一、もはや天晴と悔し紛れに語るしかない。
「スバル、あの男の次の隠れ場所ハ……」
「うんうん、スバルちんならわかる? わかるやつ?」
展開は同じ流れを辿り、オルバルトの最初の隠れ場をあっさりと看破したスバルに、タリッタとミディアムの二人が期待の眼差しを向ける。
しかし、残念ながら二つ目の隠れ場――『見晴らしのいい奈落』の答えは不明だ。
色好い返事を返せず、ミディアムたちが肩を落とし、しかし奮起してくれるのもさっきと同じ流れを辿っている。
「で、アベルちゃん的にはどうよ? 兄弟は見事に、あの爺さんの居場所を言い当ててくれたわけだが」
「成果を出したことは評価に値する」
「……そんだけ?」
「変わらず、時間の余裕があるわけではない。あと二回、オルバルトの居所を暴かなくてはならん。他に何がある?」
「……さいですか」
先の会話の影響か、アベルに突っかかったアルが彼の答えに肩を落としていた。
アルの気持ちは嬉しいが、アベルがああした反応をするのは予想のついたことだ。前回も特に、この結果についてアベルからコメントをもらった覚えはない。
というか、あまり素直に彼が、スバルに限らず他人を褒める姿が浮かばない。
今回も、そんな印象を裏切らない一幕というだけで。
「見晴らしがいいということハ、高所と考えられるのでハ?」
「でも、奈落って穴のことでしょ? 穴なら、地面にあるんじゃない?」
「二人とも、いい線いってると思う。その答えを出すためにも……アベル、人の多いところにいきたいんじゃなかったか?」
「――――」
タリッタとミディアムが、次なるオルバルトの隠れ場を推測する。
その議論を先に進めるためにも、前回は花開かなかったアベルの策を実行したい。確か元々、人の多い酒場を目指すつもりでいたはずだ。
その流れで宿を出た途端、往来で突然の『死』がスバルたちを襲った。
つまり、問題の瞬間が刻一刻と迫っているわけで。
「おい、アベル?」
「――。貴様の考えで間違いない。人の多く出入りする場所……それも、余所者の多い場所が望ましい」
「余所者の出入りする場所ってーと……」
「酒を飲むところ……酒場、だったか」
とんとん拍子に話が進み、スバルの出した単語にアベルが静かに顎を引く。
そうして、全員で宿を離れ、酒場を目指すことになったのだが――、
「正面は避け、宿の裏口から出るぞ」
と、そう言い出したのは、他ならぬアベルだった。
その変わり身のような意見に、スバルは「うえ?」と間抜けな声を漏らし、アルやタリッタも目を丸くする。
「あれ? アベルちん、それってスバルちんの言ったこと信じるってこと?」
「警戒するに越したことはない。オルバルトの居場所も特定した以上、一考の余地もあろう。ただそれだけの話だが?」
「……お前、本当に性格悪いぞ」
恨み節のようにスバルが告げると、アベルは「ふん」と鼻を鳴らすばかりだ。
ただ、その高慢な姿勢を除けば、アベルの判断はスバル的には助かる。同じように、スバルもどうにかみんなを裏口に誘導したいと思っていたところだった。
「ちゃんと、兄弟の功績は認めるつもりがあるってことかね」
「……みたいだ。いや、これまでもそうではあったんだけど」
どういうわけか、アベルの語る『信賞必罰』の姿勢も疑ってしまった。
そのあたりが理解できれば、アベルとの付き合い方も概ねわかってくると、スバル自身もそんな風に捉えられ始めていたはずだったのに。
まるで、アベルとの付き合い方を丸っと学び直しているみたいだ。
「それにしても、爺さんの居場所をビシッと当てたのは痺れたぜ。ありゃどうやったんだよ。――何なら、攻略本でも読んだみてぇだったぜ」
「攻略本とか、クソ懐かしい響きだな。そりゃ、そんなもんがあったら便利だけど、全然そんなじゃないよ。あれはただ、経験が活きたんだ」
「経験? かくれんぼの?」
「似たようなもんだよ。前に……前に?」
オルバルト発見の手柄を掘り返され、そう応じるスバルの思考が止まった。
最初の部屋にオルバルトが隠れていると、そうスバルが看破できたのは、ああした行動があのタイプの人間がやってのけるお約束だったというのもある。
だが、そのお約束を、オルバルト以前にやったものがいたはずだ。
だから、スバルはそれをはっきりと覚えていたはずで。
「ど忘れか? 物忘れってのは年寄りがするもんだろ。それが、逆に若返ってんのにど忘れなんて、そりゃおかしな話だぜ、兄弟」
「ど忘れ……」
「あれじゃね? 誰かがやったってんなら、兄弟の身内の誰か。銀髪の嬢ちゃんじゃねぇだろうし、いつも連れてるロリっ子……」
「――ベアトリス!」
「うおっ」
バッと顔を上げ、強くそう叫んだスバルにアルがビクッと肩を震わせる。
しかし、そのアルの驚きに付き合う余裕がスバルにない。当然だろう。
「冗談はやめろよ……」
どう考えたって、おかしかった。
ベアトリス、ベアトリスだ。スバルの相棒であり、愛しい愛しい大精霊。彼女がスバルに仕掛けた最初の悪戯、それがオルバルトを見つける手掛かりになった。
あれを手柄というなら、スバルとベアトリスが勝ち取った手柄だ。
それなのに、それがすっぽ抜けるなんて、ありえない。
あっては、ならないことだった。
「――スバル! アル! きてくださイ!」
愕然となるスバルを、突然、タリッタの鋭い声が呼びつけた。
思わず顔を上げて彼女を見れば、宿の裏口に回ったタリッタが、そっと押し開いた扉から外を眺め、強い警戒をその横顔に宿している。
その警戒の原因は、おそらくはスバルたちを襲った『死』に他ならず――、
「――すでに囲まれていまス。おそらク、百人近い相手ニ」




