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第七章42 『野心の獣』



「勝手に茶ぁ入れて飲んどるけど、他にも飲みたい奴とかおる?」


 しわがれた老齢の声が聞こえた瞬間、スバルの全身の血流が逆さに流れ始める。

 粟立った肌が痛みを訴え出し、肺の中で取り込んだ空気が凍り付く。ずっしりと、尖ったものが胸の奥に仕舞われたように、スバルの魂が覚醒を促される。


 ――『死に戻り』の発動と、最悪の場面への回帰だ。


「――ッ!」


 瞬間、スバルが何らかの反応をするより早く、タリッタが弓の狙いを付ける。

 照準は当然、突如として室内に現れた招かれざる訪客――オルバルト・ダンクルケン。『九神将』の一人にして、ほんの十秒前にスバルたちを皆殺しにした老人だ。


 その事情を知らずとも、紳士的とは言えない距離の詰め方に警戒は張り詰める。

 だが、同じ部屋の中、超至近距離から矢を向けられるオルバルトは、そうしたスバルたちの警戒を嘲笑うように「おいおい」と肩をすくめた。


「やめとけやめとけ。ワシ、先の尖ったもん向けられんの好きじゃねえんじゃぜ。ただでさえ年寄りは便所いく回数が多いってのに、ビビらせてお漏らしさせる気かよ? 戦々恐々なんじゃぜ、なぁ?」


「ふざけたことヲ……! あなたはいったイ……」


「――オルバルト・ダンクルケン」


 突き刺さる敵意を飄々と躱すオルバルトに、タリッタが怒りで顔を赤くする。が、彼女を遮るように老人の名を呼び、注意を引いたのは鬼面の男、アベルだ。

 自分の登場に驚きもせず、名前を呼んだ顔を隠した男にオルバルトの視線が向いた。

 そして始まるのは、ひどく渇いた印象を覚えざるを得ない腹の探り合い――、


「――――」


 オルバルトとアベルの会話、それを意識の端に捉えながら、スバルは変わらない世界の情景を自分の記憶とすり合わせていく。

 直前の、ほんの十分かそこらの出来事だ。――そこに、運命の突破口を探す。


『できるのか?』


「――っ」


 突破口を求める思考、そこに不意打ちのように割り込んでくる冷めた声。

 それは焦りと苛立ちが生み出した、他ならぬナツキ・スバル自身の弱音だった。


『できるのか? ついさっき、仲間たちを全滅させたあの体たらくで』


 直前の出来事を思い出そうとするほどに、声は容赦なく囁きかけてくる。

 スバルの手落ちを、失態を、取り返しのつかない過ちを。


『死に戻り』で与えられる二度目の機会は、過ちを取り返すためのものではない。

 犯した過ちは取り返せない。スバルに許されるのは、償い切れない贖いだけだ。それだけが、ナツキ・スバルの有する権能の成果なのだから――、


「――ッ!」


「おお!? いきなりなんなんじゃぜ!?」

「うわきゃっ! なになになに!?」

「うー!? あー、うー!」


 聞こえよがしに囁かれる悪口雑言、それを振り払わんと両手で頬を力一杯叩いた。

 乾いた音が室内に響いて、スバルの突然の行いにオルバルトとミディアム、ルイが悲鳴を上げる。声こそ上げなかったが、アルやタリッタも驚きは同様だ。

 それはそうだろう。申し訳ない。ただ、必要なことだった。


「――――」


 閉じた瞼を開けば、ぐらぐらと揺れて思えた視界が明瞭になっている。その視界、スバルの奇行に驚いた面々の中、静かにこちらを見据える視線があった。

 鬼面のアベルだけが、オルバルトが登場したときと同じように、動揺を見せずに堂々とした態度でいる。――その心中、ちっともわかりはしないが。


「驚かせて、悪い。……気合いを入れた」


「ほっぺた赤くして、気合いたぁ見上げたちびっ子じゃぜ……うん? あれじゃね? お前さん、もしかして昨日の赤い服着た娘っ子かよ。誰かと思ってビビったんじゃぜ」


 奇行に出たスバルの正体を看破し、オルバルトが分厚い眉を興味深げに上げる。

 前回と同じで、オルバルトはここで初めてスバルとナツミを結び付けた。このまま、『幼児化』の下手人がオルバルトと確定し、交渉へと持ち込む流れも可能だろう。

 しかし、それでは同じ轍を踏むことになる。――オルバルトは、危険な男だ。


 少なくとも、アベルの事情を打ち明け、味方に付けることはできない。

 アベルが本物の皇帝、ヴィンセント・ヴォラキアとわかった途端、自身の長年の野心を露わに命を奪いにくる輩。――すでに、潜在的な敵と言っていい。

 あとは――、


「……さっきのは驚いたが、さすが、兄弟。シノビの頭領にも正体バレてなかったとさ」


「おお、大したもん大したもん! あの化けっぷり、ワシの里の連中にも見習わしてやりてえわ。講師とかどうじゃ。歓迎するんじゃぜ」


「――――」


「って、和やかに話すのも無理っぽそうじゃな。やたらと警戒させちまったみてえじゃし、ちょっと派手な登場すぎたかもじゃぜ。ワシ、失敗失敗」


 ペロッと舌を出して、自分の手落ちを認めてみせるオルバルト。

 しかし、それで場の空気が温まったり、和らぐような状況はとっくに通り過ぎている。スバルも、この老人への警戒を緩める気は微塵も起こらない。


 ――人の顔はお喋りだと、凶行に及ぶ前のオルバルトはそう語った。


 おそらく、こうして好々爺ぶった態度や砕けた言動を重ねるのも、無防備な室内に無音で侵入して驚かせたのも、相手の素の反応を引き出すためのテクニックだ。

 この世界のシノビとスバルの認識する『忍者』が同じ性質のものなら、オルバルトの振る舞いの全ては罠や毒、忍術の類に他ならない。

 己の目的を果たすためなら、あらゆる手段を惜しむまい。


「けど、あんまし蔑ろにされっと、ワシも老い先短ぇジジイじゃからよ。残ってる時間のこと考えて、ちょっち乱暴になっちまうんじゃぜ」


「乱暴……この状況デ、私たちと戦おうト?」


「かかかっか! まぁ、弓向けられてちびりそうなのは事実じゃぜ? じゃがよ、何も戦うだけが目的を達する手段じゃねえじゃろ」


「え~っと、どういうこと? お爺ちゃんは何が言いたいの?」


 小さな体をより縮め、しみじみと呟くオルバルトをタリッタとミディアムが追及する。身長差が逆転した二人の問いかけに、老人は頬を歪めて笑った。

 そして、その手でミディアムと、それから退路を断とうとしているアルを指差し、


「あちこち縮んでやりづれえじゃろ? それ、ワシがやったんだわ。シノビの術技の一種でよ。奇想天外で面白くね?」


「爺さん……!」


「怒んな怒んな、片腕の若僧。むしろ、感謝してもいいんじゃぜ? うっかり殺して話が聞けんくなったら困るから、縮めるだけにしといたんじゃし」


 散々な言いように詰め寄りかけたアルを、オルバルトがそう言って押しとどめる。

 言われたアルは喉を詰まらせ、それが事実だと理解して押し黙った。


 そう、オルバルトのこの言い分は真理であり、事実だ。

 オルバルトはその気になれば、昨日の紅瑠璃城の戦いでスバルたちを殺せた。『幼児化』の術技でなく、ただの貫手で心臓を貫くこともできたのだ。

 スバルたちが小さくなっても生き延びているのは、老人の気紛れに他ならない。

 と、そうスバルは考えたのだが――、


「ま、結構本気で殺そうとしてみたら、それは全部防がれっちまったもんじゃから、苦し紛れでやっといたってのもあるんじゃけどよ? じゃろ、若僧」


「……何のことだかな」


「かかかっか! 手品のことは言えねえか? それも仕方ねえわな。できりゃ、詳しいやり方聞いて秘伝書に残してえもんなんじゃが」


「何べん言われても同じだよ。――何のことだかな、だ」


 布切れで顔を覆い、くぐもった声で答えるアル。

 期待にそぐわぬ答えだったはずだが、オルバルトは「そうかよそうかよ」と頷いて、アルの反応を楽しんでいるかのようだった。


「――?」


 一方で、スバルには今の二人のやり取りの意味がわからない。

 紅瑠璃城の天守閣、あの熾烈な攻防の中でアルは八面六臂の働きをし、スバルとミディアムの命を救った。あるいはそこでアルと対峙したオルバルトには、彼の戦い方に光るものを見たのかもしれない。


 しかし、仮にオルバルトの言葉が事実だったとしても、『幼児化』の影響を受けたアルの技法はシノビに通用しない。

 その結果を、スバルは先んじてこの目で見てきてしまったあとだ。

 そこから導き出される、絶対の原理がある。

 ――それは、オルバルトとは絶対に戦ってはならないというシンプルなものだ。


「――――」


 のんびりと両手で湯呑みを弄んでいるオルバルト。タリッタは矢をつがえた弓で狙いを付け、アルとミディアムも臨戦の構え――だが、為す術なく殺された。

 隔絶した力の差が、スバルたちとオルバルトとの間には横たわっているのだ。


 オルバルトと戦えば全滅は免れない。――否、あるいは逃げに徹すれば一人か二人は逃げられるかもしれないが、それも極細の糸を渡るような試みだ。

 何としても、オルバルトには穏当にここから立ち去ってもらう必要がある。ただし、そのための話し合いを仲間とする時間は、ない。


「なんで……」


 この瞬間に舞い戻ったのかと、どうにもならないことを嘆きたくなる。

『死に戻り』で二度目の機会を与えられながら、ひどく傲慢で身勝手な考えとはわかっているが、せめてオルバルトの登場前に戻れたなら仲間と相談もできた。

 前回、城郭都市グァラルでトッド相手に幾度も『死に戻り』を重ねたときも、対処するための時間がほとんどなく、苦しめられたことが思い出される。


 あのときも、すでに脅威に目を付けられた状態からのリスタートだった。

 今回も、事情は違えど条件的には近いものだ。言うなれば、血に飢えた猛獣と同じ檻に入れられたところがリスタート地点、といったところか。

 元々、『死に戻り』で遡る時間にはムラがあったが、これはかなり重篤だ。

 あるいはスバルの有する権能に、何らかの異常をきたしている可能性も――、


「――今は、後回しだ」


 時間がないことを呪い、少ない時間を浪費する愚を犯してはならない。

 スバルの愚かさの報いを受けるのは、いつだってスバル自身だけではないのだから。


「オルバルト、さん。あんたは……」


「――。貴様の術技が、このものたちを縮めたと言ったな」


「お……」


 無理やり気持ちを切り替え、オルバルトに声をかけようとしたスバル。

 この状況を切り抜けるには、言動の一つ一つに気を遣わなくてはならない。その線引きを行うための時間が欲しいと、有体に言えば時間稼ぎのつもりの一声だった。


 しかし、アベルはそれを遮り、スバルの声を上塗りした。

 その言葉に出鼻を挫かれ、鼻白むスバルは鬼面を見据え、意図に気付く。こちらを見向きもしないアベルの真意、それはスバルの役割の代理だ。――すなわち、スバルが必要としている時間を与えるため、オルバルトの気を引いたと。


「お、そうじゃったそうじゃった。そっちの話もしねえとなの忘れてたんじゃぜ。どうにも年寄りってのは話が脱線しちまう。ワシも骨身に応えるんじゃわ」


「貴様が? 笑えぬ冗談はやめよ。歳を重ねて衰えたと標榜するなら、一将の位を早々に返上すべきであろうよ。そうせぬ時点で、貴様の腹は決まっている」


「へえ、言いよるもんじゃぜ。仮面で横が見えづらそうじゃってのに、お前さんにワシの腹が見えるってのかよぅ」


「無論だ」


 躊躇いなく頷くアベルに、オルバルトの眼差しが興味深げな色を宿す。

 そうして対話を引っ張る姿勢のアベル、彼の真意がオルバルトの本性を暴くことではなく、時間を稼ぐことにあるのはもはや疑いない。

 何故、スバルが時間を欲していると彼が気付いたのかはわからないが――、


「四の五の言ってる場合じゃねぇ」


 胸中を見透かされたことの反感を脇に置き、スバルは対処に頭を練る。

 オルバルトはアベルの正体を知れば、皇帝を弑逆する野心の成就を実行する。故に、オルバルトにこちらの手札を開示することはできない。

 ただ、こちらから差し出すものが何もなしで帰ってくれるはずもないだろう。


「一将、その『参』の位にあり、貴様は帝国の頂にいると言えよう。しかし、貴様の性質は貪欲だ。その立場すら満足と程遠い」


「ま、枯れたジジイ扱いされるよきゃ悪くねえんじゃが、欲深ジジイってのもあんまし好かれる感じはしねえわな。かかかっか!」


 アベルが自身の目から見た、オルバルトの性質について語り聞かせる。

 高笑いするオルバルトはそれを楽しげに聞いているが、このシノビの深奥に秘された闇は、他ならぬアベルも測り違えていたものだ。

 ――否、正確には測り切れていなかった、の方が適切か。


「で? 不満爆発のワシが欲しがってるもんってのは?」


「――『壱』の座」


「――――」


 静かに、だが揺るがぬ声音でアベルの言葉が発された。

 それを聞いた途端、枯れ葉がこすれ合うようなオルバルトの吐息の音が消えた。老人は太く長い眉の下、その瞳を細めてアベルと視線をぶつけ合う。

 シノビの心中、いったいどのような風が吹き荒れているのかはわからないが、アベルの指摘がオルバルトの内をざわつかせたのは確かだろう。

 しかしそれは――、


「片腕の若僧、妙な動きはせんことじゃぜ。あと、弓の娘っ子も息で見え見えじゃから」


 ――オルバルトの注意が散漫になったり、隙が生じるという意味ではない。


 顔をアベルに向けたまま、そう言い放ったオルバルトにアルとタリッタが息を呑む。

 オルバルトがアベルに集中した瞬間、微かな好機を探ったのだろう。だが、その探りを入れる仕草さえ、オルバルトの老練な眼力は見逃さない。


「――ッ、頭の後ろに目がついてんのかよ」


「研鑽不足って言っとくんじゃぜ。年季が違ぇのよ、年季が。とはいえ、ワシから見たら大抵の奴は未熟者ってなんのよ。これ、年寄りの無敵理論じゃから」


 呻くアルに歯を見せて笑いながら、オルバルトの視線はアベルから外れていない。

 アルたちの小細工など、目で見ていなくても対処できる。――口にはしなくとも、そう考えているのがありありと窺える超越者の姿勢。

 そして、それを覆す実力も手札も、今のこちらの手の中にはない。


「アル」


 首を横に振り、スバルはアルに手出ししてはならないと伝える。

 彼の実力と芸当を完全に把握しているわけではないが、おそらく防戦に特化した技術の使い手なのだろう。アラキアとの戦いや昨日の天守閣、敵の攻撃で防戦一方に追いやられながらも生き延びる手腕は、スバルをして見事と言わざるを得ないものだった。

 それも、『幼児化』した現状では十全に振るえず、殺される。


「しかし、ワシが『壱』を狙ってるとか、言われて度肝抜かれたんじゃぜ。なんでまた、そんな突拍子もねえこと言い出したんじゃ、仮面の若僧」


「知れたこと。貴様の野心は老境を理由に涸れるほど浅くはない。――シノビは、その肉体と精神を極限まで痛めつけ、そうした一握りだけが至れる境地。まして貴様はその頭領……死するその日まで、完成の時は訪れぬ」


「ふむ」


 腕を組み、アベルの言葉に短く頷くオルバルト。

 的を外したとも受け取れるが、その反応の薄さがかえって信憑性を強めていた。


 実際のところ、アベルの指摘が不正解だとスバルは知っている。

 オルバルトの本心、シノビの頭領の最終目標は『皇帝の弑逆』であり、『九神将』のトップに上り詰めることとは方針を違えている。

 だが、オルバルトの反応は、アベルの指摘が的外れでないことの証左でもあった。


 究極、アベルが指摘したことはオルバルトの抱えている『渇欲』だ。

 その渇欲を果たす術としてアベルが推測したことが、オルバルトも轡を並べる『九神将』における絶対の勲章、『壱』の座の奪取。――だが、無理もない。


 一将の位にあり、シノビの頭領として部下も抱え、長く長く生きた分だけのしがらみをも抱える老境――その望みが、それまでの人生で獲得したモノ全てをなげうってでも、皇帝を弑逆したシノビとして歴史に名を遺すことなどと、どう気付ける。


 傲岸不遜にして自分本位、他者を慮る姿勢を微塵も持たないアベルだが、それでも彼はヴォラキア皇帝――帝位にある存在として、自らの命の保全を優先する。

 自分が失われれば、帝国が大きく揺らぐと自覚しているためだ。

 それは、ヴォラキア皇帝であるアベルが持ち合わせる必然の意識であり、一方で彼と比較すれば薄っぺらくとも、誰もが持っている『責任感』というべきもの。


 ――それを、オルバルト・ダンクルケンは持っていない。


 自分の野心が叶うなら死んでもいい。結果、周囲に迷惑がまき散らされても関係ない。

 その並外れた破滅思考が、アベルの読み切れなかったオルバルトの闇だ。

 だが――、


「――オルバルトさん、あんたの狙いは『壱』じゃなく、皇帝じゃないか?」


 ――オルバルト・ダンクルケンの闇を、ナツキ・スバルは知っているのだ。



                △▼△▼△▼△



 ――刹那、空気の色が、匂いが、肌触りが変わった。


「――――」


 アルやタリッタの、実行力を伴った敵意には視線すら向けなかったオルバルト。そのオルバルトの視線が、幼子となったスバルの言葉に反応する。

 片手に湯呑みを持ったまま、反対の手で顎を撫でる老人が振り返り、スバルを見る。

 直前、スバルの口にした一言を聞き流せなかったが故だ。


「坊主、またいきなりしゃしゃり出よるもんじゃぜ、驚くじゃろよぉ」


「驚いたのは、急に俺が喋ったからか? それとも……」


「図星言い当てられて驚いてんじゃねって聞いとるんか? もしそれが本気なら、ワシとか超やべえ奴じゃぜ、かかかっか!」


「――――」


 口を開けて、スバルの言葉を豪快に笑い飛ばそうとするオルバルト。しかし、その内心が見た目ほど穏やかでないことをスバルは確信している。

 他ならぬ、彼自身が語った長年の野望を指摘してやったのだ。

 それも、実行に移す寸前まで、アベルの眼力でも見抜けていなかった『闇』を。


「皇帝狙いって、皇帝殺しか? 兄弟、そりゃ飛躍だろ。んな真似しても」


「意味がない。ああ、わかってる。悪名が知れ渡るだけで、メリットがねぇよな」


「ま、無名より悪名って考えもわからねえこたねえがの。片腕の若僧の言う通り、そりゃちょいと飛び上がった考えじゃぜ」


「でも、はっきりと否定はしないだろ、オルバルトさん」


 信じ難いと声を硬くするアル、それに同意するオルバルトをスバルは追及する。

 正直、踏み込むことが危険域へ飛び込む行いだと理解して、それでも止まれない。


 アベルがオルバルトとの対話を引き延ばし、その間にスバルも考えを巡らせた。

 オルバルトの野心が皇帝の弑逆を志す以上、アベルの正体は明かせず、偽皇帝の正体がチシャであるとも伝えられない。必然、こちらの交渉可能な手札は消えたのだ。

 そうなったとき、オルバルトの手がアベルの仮面を剥ぐのを防ぐため、スバルが思いついた手段が、本来の『交渉』と真逆の戦法――、


 ――すなわち、こちらの手札の開示ではなく、オルバルトの手札の開示だ。


「俺たちの目的は、昨日の天守閣で話した通りだ。今現在、皇帝の座についてるヴィンセント・ヴォラキア皇帝を引きずり下ろす。あんたの狙いとも噛み合うはずだ」


「待て待て、勝手にワシを天下の謀反人に仕立て上げるんじゃねえっての。油断も隙もあったもんじゃねえ坊主じゃぜ、ビビッて小便が近くなんじゃろ」


「だけど、本気で否定も止めもしない。皇帝直属の、一将の一人なのに」


 指先に引っかかる未来の可能性、それを手繰り寄せるべくスバルは前進する。

 無論、オルバルトの脅威が薄れたわけでも、危険性が和らいだわけでもない。一手間違えれば、ここが血の惨劇と化すことは百も承知だ。

 だが、スバルはこの話がここでしかできない類のものと確信していた。


 先の皆殺しも、オルバルトが手を下すと決断したのはアベルの正体発覚後だ。

 あれはオルバルトにとって、アベルを殺せば人生の目的が達成されるという、ある種の自爆テロのようなものだった。

 その確信がない限り、オルバルトは交渉の最中に短気を起こさない。


 責任感も忠誠心も微塵も持たない野心の獣であろうと、偽皇帝の下した『手出し無用』の命令を忠実に守る『九神将』の役割を演じ切るからだ。


「そりゃよ、目の前で宣戦布告された閣下が手ぇ出すなって命じてんじゃぜ。ワシは閣下のことですーぐ頭に血が上るカフマとは違ぇのよ。後先のこと考えっと、この街で狐娘を敵に回すってのも賢くねえしの」


 案の定、オルバルトは暴言じみたスバルの訴えを聞いても実力行使に出ようとしない。

 とはいえ、食い下がるスバルを快く見ているわけでもなく、その態度は自然とアベルやアルたちにも、荒唐無稽なシノビの野心、その真偽を疑わせ始めた。

 そして――、


「――貴様の心中、測りかねた思惑がそれか」


「やれやれ、話の通じねえ奴らじゃぜ。こうなると、ワシも話続けても仕方ねえって匙投げるしかねえって話になんじゃろ」


 半信半疑となる面々の中、その信じ難い内容を最初に呑み込んでみせるアベル。

 その眼光に突き刺され、オルバルトは弁明を面倒そうに投げ捨てた。元より、ここでオルバルトが懸命にスバルたちと打ち解ける理由はない。

 当然、そのオルバルトの態度にアルたち戦闘員の緊張が高まるが――、


「やめとけやめとけ、仕掛けても損するだけじゃって。言っとくが、ワシが乱暴な手段に出ねえのは優しいからじゃなく、やんなって言われとるからじゃからな? それも、先にやられたら仕返すぐれえの気持ちじゃぜ」


「グ……それハ、そうかもしれませんガ……」


 不戦の構えも、手出しをされればご破算になる。オルバルトの注意にタリッタが頬を強張らせ、その切れ長な瞳がスバルやミディアムを視線で撫でた。

 それを見て、オルバルトは「ああ」と納得したように頷いて、


「縮んだ仲間を戻してえと、そういうわけかよ。そりゃちょっと欲張りすぎってもんじゃね? ワシ、なんもしねえで帰るつもりじゃぜ?」


「でも、お爺ちゃんがあたしたちをちっちゃくしたんでしょ? それとも、お爺ちゃん以外に誰か戻せる人っている?」


「あんま考えたことねえんじゃが……娘っ子、お前さん本当は歳いくつよ」


「あたし? あたしは二十歳だったかな?」


「なら、十年待ったら元に戻るんじゃね? 知らんけども」


 手を上げて質問したミディアムが、その身も蓋もない答えに頬を赤くする。煙に巻く姿勢のオルバルトだが、その答えではスバルたちも困る。

 ただ、力ずくで彼から答えを聞き出す手段も、元に戻させる方法もないのは事実。

 それでも――、


「はいそうですかって帰せねぇ事情はわかるだろ。オルバルトさん、もう少しこっちの話に付き合ってもらうわけには……」


「やーじゃよ。じゃって、ワシを嫌な爺さん扱いしたのはお前さんじゃろ。老い先短ぇジジイじゃし、その少ねえ時間で話す相手を選ぶ権利は――」


「――ならば、皇帝を殺す機をくれてやろう」


 直後、再びの空気の変化にスバルは息を呑み、言い放ったアベルを見た。

 他ならぬ、自らの命を天秤に載せたアベル、その発言にオルバルトは「おいおい」と頭を掻きながら、


「そもそも前提が違ぇって話を何べんさせんじゃ、お前さんら。ワシより物覚えが悪くて物忘れしやすいってかなりやばくね?」


「貴様の狙いが皇帝の命にあるなら、これまでにも機会は幾度もあろう。だが、貴様は実行に移さなかった。――『陽剣』の焔が、皇帝を守るからだ」


「お……」


「その、焔の越え方を明かしてもいい」


 オルバルトの表情が、それまでの欺瞞と一線を画した変化を迎えた。

 老境は眉を上げ、明確な驚きを宿して鬼面のアベルを見つめている。それに対し、椅子から立ち上がったアベルは、堂々とそこに立っていた。


「陽剣の、焔……」


 それが何を意味するのか、スバルにははっきりとはわからない。

 ただ、オルバルトにとって、ここまで張り付けてきた表向きの感情を破り捨て、その向こう側が透けて見えるほどの衝撃があったのは事実だ。


 話の流れからして、ヴォラキア皇帝を守護する何らかの秘密であり、それがあるからこそオルバルトの野心はこれまで実を結ばなかった。

 その枷を外す術を明かそうと、アベルはそう言ったのだ。


「――。お前さん、顔も見せねえし年寄りも労わらねえ奴じゃと思っとったが、いってえ何者よ。そんな話、冗談でも触れ回るもんじゃねえんじゃぜ」


「ここで詭弁や冗談を述べるものが、この強大な帝国に反旗を翻せると? だとしたら、それは正気を失った狂人か、よほど肝の据わった大人物であろうよ」


「お前さんは、そのどっちでもねえと?」


「無論」


 端的に、オルバルトの問いに応じるアベル。

 それが本気なのか、それとも詭弁であるのか、スバルにも判断がつかない。あるいはアベルという男は、本物と狂人と大人物と、そのいずれでもあるのかもしれないとさえ。


「――――」


 アベルの返答を受け、オルバルトがしばし黙り込む。

 毛量の多い眉を寄せて、すっかり冷めつつある茶を口元に運ぶ。そうして、空になった湯呑みをそっと傍らの机に置くと、


「確か、火の刻の鐘って話じゃったっけか」


「え?」


 不意にそう問われ、スバルは間抜けな声を漏らしてしまう。

 しかし、すぐに「そうだよ~」と頷いたのはミディアムだ。彼女はその小さくなった体で窓の外を指差し、紅瑠璃城の威容を示しながら、


「ヨルナちゃんに呼ばれてるから、あたしたち、ちっちゃいままだと困っちゃう」


「ヨルナちゃん! かかかっか! 大したタマじゃぜ、娘っ子」


「――?」


 首を傾げ、あのヨルナさえも平然とちゃん付けするミディアムの胆力におののく。

 一方、オルバルトも同じように毒気を抜かれた様子で、ミディアムが指差した紅瑠璃城の方に視線をやると、「そうじゃなぁ」と呟いた。


「実際に、閣下の命を狙うとか狙わねえとかって話はあれじゃけど、ヴォラキア皇帝を守護する『陽剣』の越え方は、ぶっちゃけ気になるんじゃぜ」


「――! だったら」


「おうおう、気が早いんじゃよぅ。期待持たせたのはワシじゃけど、あれこれと色々考えてえことはあんのよ。――じゃから、勝負せんか?」


「……勝負?」


「そう、勝負よ。好きじゃろ? 男の子」


 前のめりになりかけたスバルの鼻先に、オルバルトが指を突き付けてそう言った。

 その動作がまるで目で追えず、スバルは凝然と硬直させられる。


 勝負、とオルバルトが前置きし、何かの条件を差し出してくる。

 それが皆殺しを回避し、閉塞した状況を改善したいスバルの望む形なのか、その確信はないが――、


「断るって、言ったら?」


「そんときゃお前さんが欲しいもんはなんも手に入らんじゃろ」


「――――」


「ちなみに、ワシが欲しいと思ったもんをお前さんらが持っとるわけじゃから、今後はシノビの術技が寝る間も惜しんでお前さんらを襲うんじゃぜ」


 当然の答えだと、オルバルトが冷酷に告げる。

 笑みを湛えている老人、その薄く濁った瞳の奥、闇色の感情が蠢くのに怖気が走った。

 表面上、穏やかに和やかに会話していても、その裏側にはどす黒い、容赦なく他者の命を奪い去るシノビの流儀が隠されているのだと。


「勝負の内容はなんとする」


 もはや、条件を提示した時点でオルバルトとの勝負は避けられない。同じことを察したアベルが、口の開かないスバルに代わってそう問いかける。

 その呼びかけにオルバルトは「そうじゃな」と首をひねり、


「狐娘の呼び出しまで時間もねえんじゃし、ワシもお前さんらに手ぇ出すなって言われっちまっとるから、意外と困るもんじゃが……ああ、ちょうどええわい」


「そのちょうどいいって、オルバルトさんにとって? 俺たちにとって?」


「ワシとお前さんら、両方にとってに決まっとるじゃろ」


 スバルの引きつった質問に歯を見せて笑い、オルバルトが両手を見せる。

 そして、身構えるスバルたちに向けて、彼は言った。


「――追いかけっこ」


「――――」


「よく、里の若ぇ奴らと勝負すんじゃぜ。わかりやすくて、いいじゃろ?」



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― 新着の感想 ―
[気になる点] 言うなれば、血に飢えた猛獣と同じ檻に入れられたところがリスタート地点、といったところか。  元々、『死に戻り』で遡る時間にはムラがあったが、これはかなり重篤だ。  あるいはスバルの有す…
[一言] 選定の儀って正しい形で終わってるのかな?
[良い点] 友達のように気安く接してくるのに腹の底が見えないオルバルトのキャラ性が結構怖い エキドナに近いものを感じる [気になる点] 追いかけっこが追いかける側なのか逃げる側なのかで難易度変わりそう…
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