第七章40 『ナチュキ・シュバル』
「――――」
鏡に映った自分の顔を見て、スバルの喉が凍り付く。
見知った顔だが、見慣れたというには抵抗感のある顔――それもそのはず、鏡に映った自分の顔は、もはや薄れかけた記憶の中にしかない過去の遺物。
――幼いナツキ・スバル少年の顔が、そこに映し出されていたのだから。
「なん、だ、これ……」
手鏡を持つ手が震え、青白い顔をした幼い顔が小刻みに揺れる。
鏡を持つのとは反対の手で、ペタペタと確かめるように顔に触れると、幼い顔に相応しい記憶より一回り小さな手指が鏡越しに視界に入ってきた。
顔立ちと背丈からして、おおよそ十歳前後のナツキ・スバルだ。
小学校時代、やんちゃするスバルの身長は前から数えた方が早い具合で、手足の伸び切った今でこそギリギリ日本人の平均身長だが、当時はチビに違いなかった。
その目線で言えば、とっとと大きくなりたかったものだが――、
「なんだこりゃぁ――っ!?」
鏡の中、唇や瞳が揺れて見えるのは、手の震えだけが原因ではない。
はっきり明確に、魂がこの目に映っている異常事態を拒絶している証だった。
悪夢と、そう呼ぶのに相応しい光景だ。
これを端的に『若返り』と呼ぶなら、あるいはそれを夢見る人間も少なからずいるかもしれないが、生憎と花の十代であるスバルはそうした願望と無縁だ。
もっとも、仮に大望するものでも、時と場合は選んでほしいと条件を付けるだろう。
そのぐらい、これは馬鹿げた非常事態だった。
「こ、こうしちゃいられねぇ……っ」
長い時間をかけて我に返り、スバルは大慌てで寝室の扉に向かった。
まさか、宿の宿泊特典が『若返り』なんてオチではあるまい。これは、敵対的な何者かからの攻撃だと考えるのが自然だ。
急ぎ、同じ宿に泊まる仲間たちに情報を共有し、打開策を探らなくては――、
「みんな、ヤバいことになった! いきなりで驚くと思うが……」
「あ、やっぱり、スバルちんもちっちゃくなってる!」
「うえ?」
いつもより高く重く感じるドアノブをひねり、勢いよく扉を開け放った瞬間、スバルを出迎えたのは予想外の――否、予想して然るべき光景だった。
寝室の外、複数人が一堂に会する居間でスバルに破顔したのは、愛らしい顔立ちに朗らかな笑みを浮かべて手を振る少女だ。
澄んだ青い瞳と、特徴的な編み方がされた金色の髪――見間違えようのない太陽のような明朗さは、容易にその少女とスバルの記憶の女性とを結び付けてくれた。
「み、ミディアムさん……?」
「そだよ~! 起きたらちっちゃくなってて、あたしもビックリさ! でも、スバルちんもちっちゃくなってて安心したよー。仲間、仲間!」
両手を万歳させながら、うきうきとそう語るのは素肌に薄布を巻いた十二、三歳ほどの少女――ミディアム・オコーネルと、そう自己申告する人物だった。
女性としてはかなりの高身長だったミディアムだが、スバルと同様の現象に巻き込まれた彼女もぐっとサイズ感が縮んでいる。それでも、縮んだスバルよりも頭半個分ほど彼女の方が大きかったが。
ともあれ――、
「仲間が見つかった、って素直に喜んでられる状況じゃ……うおあ!?」
「うーっ!」
最初のショックを呑み込もうとするスバル、その体が横合いからの衝撃に吹っ飛ばされ、ひっくり返る胸の上に誰かが圧し掛かる。
その圧迫感に、思わず「ぐええっ」と潰れた蛙のような悲鳴を上げるスバル。
「ああ! ルイちゃん、ダメだってば! スバルちん、ちっちゃいんだから!」
「あー、うー!」
「きゃーっ! あたしもちっちゃいせいで、ルイちゃん持ち上げらんないよ~っ」
ジタバタと、胸の上で暴れる猛獣を必死でミディアムが引き剥がそうとしてくれる。が、縮んだ彼女の細腕では、その邪知暴虐なる存在の蛮行を止められない。
そのまま、為す術なくナツキ・スバル少年が蹂躙されかかるところを――、
「ルイ、いけませン! スバルが潰れてしまいますかラ!」
「あーっ」
鋭い叱責の声と共に、胸の上の重たい怪物がどけられる。見れば、仰向けのスバルから遠ざけられるのは、何故か悲痛な顔をしているルイだった。
そのルイの小脇に手を入れて、彼女を持ち上げるのは黒髪を青く染めたタリッタ――その姿形に、スバルの知るところと差異のない彼女だった。
「は~、タリッタちゃん、ありがと! あたし、力不足だったよ~」
「イ、いエ、このぐらいハ……スバルモ、ご無事ですカ?」
「あ、ああ、助かったよ。……タリッタさんは何ともなかったんだな。それと」
ミディアムの差し出してくれた手を取り、体を起こしたスバルが部屋の奥を見る。
そこでソファに座り、今しがたの一連のバタバタを黙して眺めていたのは、その顔を鬼面で覆った黒髪の男――アベルだ。
一切、手を貸そうとしなかった姿勢に思うところはあるが、安堵する点もある。
「アベルも、何事もなし……」
その外見に、顔を隠していることも含めて昨日との変化はない。
それを幸いと言っていいのか、現状ではそれさえ判断のつかないところだ。
ただ、顔の見えないアベルがこの状況を歓迎していないのは、鬼面越しに伝わってくる不機嫌な気配からもひしひしと伝わってくる。
実際、彼の内心が穏やかならぬ状況である証拠に、彼は視線をスバルへ向けると、
「醜態だな」
と、そう一言でこの惨状を切って捨ててきた。
「……自分では、わりと可愛げと愛嬌があると思ってるんだけどな」
身も蓋もない指摘を受け、スバルは脊髄反射で憎まれ口を叩く。しかし、それが憎まれ口以上の何にもなっていないことはスバル自身にもよくわかっていた。
スバルとミディアムの身に起こった異常事態、それはアベルとタリッタ、ルイの三人には影響を与えていないようだが――、
「そうなると、あとの一人は……」
「――お、気にかけてくれて嬉しいね、兄弟。忘れられちまってるかと思ったぜ」
「――っ」
同じ宿に泊まる同行者、最後の一人を案じた瞬間、その答えが差し出された。
目を見張り、振り向いたスバルの前に現れたのは、別の寝室から出てきた黒髪の人物だ。スバルと同年代の、十歳前後の少年――その、異様な風体がやたらと目を引く。
なにせ、少年は適当に裂いた布を顔に巻いて、その容貌を隠していたのだから。
「アル、だよな? ……その覆面は?」
「……兜のサイズが合わなくなったもんでよ。代わりに布巻いとくぐらいしか思いつかなかったんだよ。あんまり気にしねぇでくれや」
「気にするなって言われても、気にはなるだろ……」
そう言って、顔を隠したアル少年がひらひらとスバルに右手を振った。
普段から被っている兜ほど隠れる面積が多くないため、いつもは隠れている結んだ黒髪が露わになっている。鬼面を被る前、やはり同じように布切れで顔を隠していたアベルの姿が思い出されるが、アルの巻き方はもっと大雑把なものだ。
まるで、映画に出てくる出来の悪い殺人鬼のような有様である。
「……兜が被れないのはわかるけど、無理して顔隠さなくてもよくないか?」
「おおっと、そりゃデリカシーに欠けた発言だぜ、兄弟。兜は伊達や酔狂で被ってるわけじゃねぇ、コンプレックスの表れだ。見た目は子ども、頭脳は大人ってなってもそれは薄れやしねぇよ。――腕が生え直ったわけじゃない。ってことは、顔の傷だって消えてねぇ。それは兄弟もおんなじ、だろ?」
「それは……」
言いながら、アル少年が見せつける左腕――それは変わらず、二の腕から先をバッサリと失った状態で、アルの現状認識が正しいことの証左だ。
スバルとアル、それにミディアムの三人は意図せず若返った。しかし、それは時間を巻き戻したわけではなく、肉体に起こった明白な異変なのだと。
「――――」
アルの言葉を受け、スバルも自分のダボダボのシャツをめくり、体中に残った古傷が消えていないことを確認する。小さな子どもの体には、目を背けたくなるような色んな傷跡が刻まれていた。――この、異世界で過ごした歳月は消えていない。
その、傷の存在に安堵する日がくるなんて、あまり考えたことはなかった。
ただ、傷が教えてくれる。これはただ、手足が縮んだだけに等しい状況なのだと。
もっとも――、
「ただ手足が縮んだだけなんて、そんな数奇な運命がポンと起こるわけがねぇ」
「だよね~。うーん、これだとあんちゃんの仕事の手伝いもできなくなるかも。あんちゃんひ弱だし、大問題だよ~!」
「確かに、オコーネル兄妹の事業的に大打撃なのは間違いないけど……」
長期的な事業計画もそうだが、目先の問題が山積みというべきだろう。
現状、スバルの問題は合う服がないことによる不格好ぐらいのものだが、アルやミディアムの二人はそうはいかないはずだ。
「アル、兜のサイズが合わないって話してたが、武器は?」
「ご明察。とてもじゃねぇけど、この可愛い細腕じゃあんなもん振り回せねぇよ」
「あたしも、二本とも持つのはしんどいかも。一本なら何とか……あうっ」
「危なっ!」
脇に置いた鞘から双剣の一本を抜いたミディアムだが、刃は彼女の握りをすっぽ抜け、危うくスバルの膝を割るところだった。
かろうじて、刃先はスバルを掠めて床に突き刺さったが、ゾッとする。
「うわぁ、スバルちん、ごめん……」
「さ、刺さらなかったから……けど、だいぶヤバいな」
しゅんと項垂れ、ミディアムが床に刺さった刀剣を抜き、慎重に鞘に戻す。
昨日まで平然と、自由自在に扱えていた武具がまるで使えない状態。戦力としての活躍を見込まれたミディアム的には、自分の土台が揺らぐ緊急事態だろう。
武力的な活躍はともかく、アルにも同じことが言える。
「これ、現状の真っ当な戦力がタリッタさん一人だけってことだよな?」
「ええ~っ! あたし、ちっちゃくても頑張るよ!?」
「気概は買うけど、労働基準法を満たしてないから……」
挫けないミディアムの姿勢は素敵だが、事情を現実的に見る目も必要だ。
アルとミディアムの二人がこの状態では、まともに戦えるのはタリッタのみ。――彼女の力量が確かでも、敵地でそれは心細いとしか言いようがない。
「私だケ、ですカ……」
実際、タリッタ自身もプレッシャーは正しく受け止めている。
本来なら分け合えたはずの役割を分割できず、その双肩で担うことになるからだ。
その点、タリッタには申し訳ないが――、
「かなり負担をかけちまうことになる。けど、ここからどうする? 監視の目はありそうだが、カオスフレームから逃げるか?」
「……そりゃ、これやったのがあのエロい城主さんって考えか、兄弟?」
「被害に遭ったのが、俺たち三人だけだからな」
アルに問われ、スバルは静かに首肯する。
スバルとアル、それからミディアムの三人の共通点は言うまでもなく、昨日、紅瑠璃城に使者として赴いたということだ。ならば、こうして手足が縮んだ背景にヨルナの関与を疑うのは、至極真っ当な考えと言えるだろう。
「どうやら、思いの外、取り乱してはいないようだな」
と、そのスバルとアルの話に、黙考していたアベルが口を挟んできた。
確かに、寝起き直後はかなり取り乱しかけたが、こうして同じ境遇のアルとミディアムと出くわしたことで、その動揺はずいぶんと軽減されている。
ある意味、ミディアムの口にした『仲間』の存在が真理と言えるかもしれない。
もっとも――、
「驚いて慌てふためくタイミングを逃しただけかもな。もっとこの体で不便なことが色々見つかってから、失った身長と体重の大事さに気付くのかも」
「縮んでも、口の減らぬ男だ」
「適応力と小賢しさが、数少ない売りなんで」
ますます減らず口と蔑まれそうだが、スバルは構わずそう言い返す。案の定、鬼面越しに視線を鋭くしたアベルは、「減らず口を」と呆れも露わに呟いた。
しかし、それだけに終わらず、言葉を続ける。
「貴様の述べたヨルナ・ミシグレへの疑念は捨てていい。貴様たちの異変は、あれの操る術理とは異なるものだ」
「……確実なのか?」
「俺の推し量る限りでは、だ。信に値するかは貴様が決めるがいい」
直前の、スバルが抱いた疑念を真っ向から否定するアベル。
ただし、その否定の根拠はアベルの内にしかないらしい。信じるかどうかは自由にしろと投げられ、スバルは不満に口をへの字に曲げる。
だが、悩む時間はそれほど長くはかからなかった。
「――。わかった。でも、ヨルナの仕業じゃないなら、誰が?」
「おそらく、原因を作ったのはオルバルト・ダンクルケンであろうよ」
「オルバルト……あの、昨日の爺さんか!」
不満を呑み込み、推測を信じたスバルにアベルがこの状況の設計者の名前を挙げる。
彼の口から語られたのは、昨日、紅瑠璃城で遭遇した偽皇帝の同行者――『九神将』の一人であるとされる、矮躯の老人の名前だった。
帝国最強と称される一将の中、上から三番目の称号を与えられた人物。当然、侮れない実力の持ち主とスバルも予想してはいたが――、
「こんな、意味わからない状況を引き起こせるビックリ人間だとは思わなかったぞ……」
「奴の底は俺にも知れぬ。だが、起きた出来事の否定はできん。……あくまで、見た目を偽るだけならオルバルト以外にも可能性はあるが」
「……残念ながら、幻覚とかって線はなさそうだ」
すでに自分の頬をつねり、一通りの夢から目覚める手法は試したあとだ。
魔法や薬物で認識を狂わせ、幻覚を見せられている可能性はおそらくない。実際に手足が短く、ルイの力と体重にも押し負けたのがいい証拠だ。
スバルの衣類やアルの兜のサイズなど、物理的な肉体への影響も見逃せない。
アベルも望み薄だと思っていたのだろう。あくまで現実的な影響だと訴えるスバルに、特別反論しようともしてこなかった。
「ひとまず、尻尾巻いて逃げなくてよくなったのはいいとして……厄介だな。皇帝だったアベルちゃんも、あの爺さんの戦い方は知らねぇってことになんだろ? いったい何者なんだよ」
「奴は『シノビ』と呼ばれる特殊な術技を習得する一党の頭目だ」
「シノビ……忍者?」
「――。なんだそれは」
思わず口走るスバルに、アベルが眉をひそめながら問うてくる。
『シノビ』と聞けば、反射的に連想するのが同じ意味合いの『忍者』だろう。が、そちらの響きはアベルには新鮮というか、珍妙なものに聞こえたようだ。
ただ、スバルにはカララギ弁やワフー建築を初めて知ったときのような、スバルの知る世界の知識、その残滓をわずかながらでも感じさせるものに思えて。
「そのシノビって、忍術使ったり、闇夜に紛れて諜報活動とか暗殺とかする?」
「ニンジュツとやらの心当たりはないが、シノビの主な役目は貴様の理解に相違ない。……それも、容易くは表に出ない情報のはずだが?」
「俺の地元じゃ、似た仕事人が忍者って呼ばれてるんだよ。なぁ、アル」
「うん? ああ、そうそう。ユーモアたっぷりに喋る亀の四人組だ」
スバルと同じ引っかかりを覚えたのか、考え事をしていたアルの答えはやや的を外したものだった。往年の人気アニメのキャラクターで、スバルは嫌いではないが。
ともあれ、その詳細を説明してもアベルには理解されないだろうし、彼も掘り下げるだけ無意味な話題と捉えたらしく、突っ込んで聞いてこようとはしなかった。
その代わりに、「あ!」とミディアムが大きな目を丸くして、
「昨日のお爺ちゃんの仕業なら、あれかも! ほら、お城から逃げるとき……」
「逃げるとき? ……あ」
「あたしとスバルちん、二人揃って胸のとこ突っつかれたから!」
いささか語弊のあるミディアムの叫びだが、スバルにも思い当たる点がある。
あれは昨日、紅瑠璃城からの脱出――ヨルナの底意地の悪い条件を達成するため、命懸けの攻防があった最中のことだ。
偽皇帝の護衛であるカフマの茨から逃れ、天守閣の壁を破って外へ脱出を図ったスバルたちを、追撃するオルバルトの一撃がそれぞれ穿った。
しかし、その『九神将』の攻撃はスバルたちに何の被害ももたらさなかったのだ。
――あの場は、それでよしとした。だが、何ともないはずがなかった。
「だからって、こんなの予想できねぇだろ、普通……! 大体、俺とミディアムさんはそれで説明ついても、アルは? なんで縮んでる?」
「悪ぃ、兄弟。オレも飛び出す前に何べんか爺さんとやり合ったからよ。どっかしらで突かれててもおかしくねぇ。死なねぇ傷ならノーカンだって思ってた」
低い声――あくまで、声変わり前の少年レベルでの低い声で唸り、アルが自分の手抜かりを責めるように呟く。
だが、アルが自分を責めるのはお門違いだ。アルは自分自身の役割を全うし、あの絶体絶命の状況からスバルとミディアムを生還させた。同じことはミディアムにも言える。
だから、気付くべきだったのはスバルだ。
戦力的に役に立てないならば、あらゆる事態に意識を向けておくべきだった。
それを怠った結果が、アベルにも言われたこの『醜態』だ。
「こんな様、レムにはとても見せられねぇ……ベア子とおんなじぐらいのサイズなんて、ますますエミリアたんから年下扱いされちまう」
「オレが縮んでも、姫さんがシュルトちゃんみてぇに可愛がってくれるとはとても思えねぇし、誰得って感じの展開だぜ、これ」
「案外、皆さん冷静なのですネ……私ハ、戸惑い通しなのですガ……」
縮んだ体について述べるスバルとアルに、顔色の悪いタリッタが内心を吐露する。
腕の中でバタつくルイを抱えたまま、唯一の戦力となってしまったタリッタの困惑は色濃い。まるで、被害を免れたことに罪悪感を持っているかのようですらある。
無論、この場で身体的にも精神的にも正常なのはタリッタの方だ。
「正直、俺の方は軽口でも叩いてないと、叫び出しそうだよ」
「そウ、なのですカ?」
「ああ。……そのぐらい、気持ち悪い」
幼い自分の肉体が、ではない。
自分の肉体が意図せず作り変えられる。その自己の定義の崩壊が気持ち悪い。
「――――」
これまで、スバルは異世界で様々な目に遭ってきたという自負がある。
『死』の経験が最たるものではあるが、この一年半の経験の濃密さは、そんじょそこらの人間とでは比較にならないほど色も味も密度も濃いものだったと言えるだろう。
そんないずれの経験と比較しても、自分を作り変えられるという感覚がもたらす筆舌に尽くし難い嫌悪感は突出している。
「これが、『色欲』の被害者が味わってる気分か……」
自分の細く小さな肩を抱いて、奥歯を噛みしめるスバルの脳裏に羽音が響く。
それは水門都市で、『色欲』の大罪司教の権能の被害に遭った人々の羽音――その肉体を蠅へと変えられ、今も救いを待っている犠牲者たちの記憶だった。
幼い姿の自分に変えられるだけでこの違和感、ならば生物として全く異なるものへと作り変えられた彼らの悲劇は、スバルの薄っぺらな理解を易々と超克する。
こんな感覚を強いる行い、それはまさしく――、
「――悪辣、と言えようよ」
スバルの内心をぴたりと言い当て、その息を詰まらせたのは腕を組むアベルだ。
彼は自分の方を見るスバルの頼りない視線を見返し、
「オルバルトめの異名は『悪辣翁』……その名に相応しく、奴はシノビの術技を用いて悪辣百般、あらゆる特務を遂行する」
「特務、ねえ。それって、標的を赤ん坊にしてこいみたいな無茶振りもあんの?」
「斯様なたわけた指示があるものか。――もっとも、この惨状を見るに、それも不可能ではないのかもしれんがな」
「――――」
アルに応じたアベルの一言、しかしそれは冗談と笑い飛ばせない重みを伴っていた。
実際問題、スバルとアル、ミディアムの三人がこうして幼くされた以上、オルバルトの術技が何をどこまで可能とするのか、推測すら不可能なのだ。
そうして事態を把握すれば、目下、最も不安に思われるのが――、
「これ、元に戻れる……よな?」
「確実なことは言えん。だが、戻す手段はあると考えるのが自然だ」
「そ、その根拠は?」
「すぐに死なぬ毒を盛る理由は、相手と交渉するために他なるまい」
アベルの推測、その根拠を聞いてスバルも静かに納得する。
この現象――便宜上、『幼児化』としておくが、それを毒を盛る行為となぞらえ、即死に至らせない相手方の思惑を図る。
もし、これが何らかの譲歩を引き出すための方策ならば。
「でハ、相手から何らかの接触があるト……」
「重ねて言うぞ。確実なことは言えん、とな。だが――」
息を呑むタリッタを見返し、アベルが高望みは毒だと言い置く。と、アベルがその言葉の先を続けようとしたときだ。
――外から、部屋の扉がノックされたのは。
「――っ」
直前の話もあり、全員の意識と緊張が扉へと向けられる。
スバルも、『幼児化』をもたらしたオルバルトからの接触、その先触れではないかと身を硬くした。しかし――、
「――朝から失礼いたします。ヨルナ・ミシグレ様の使いでございます」
扉越しに届けられた声は、この瞬間に限れば期待外れな報せだった。
落胆と拍子抜けが理由で、高まった緊張がだらしなく緩む。一方で、ヨルナからの使者という話に、昨日の書状の返事がきたのだと理解するのが一手遅れた。
加えて、その返事を持ってきた声の主に気付くのも。
「この声、昨日の鹿人の子だね。ほら、タンザちゃんだよ」
「っぽいな。わかった。それなら、入ってもらって……いいよな?」
指を立てたミディアムに頷いて、スバルはアベルに入室の是非を問う。そのスバルの視線に、アベルはしばし沈黙し、ゆっくりと頷いた。
それを見取り、スバルが来客を迎えに扉に向かおうとする。
「いエ、ここは私ガ」
そのスバルを遮り、率先して前に出たのはタリッタだ。彼女は抱えていたルイをミディアムに託すと、スバルたちを下がらせ、扉に向かう。
これに関しては、スバルの方が危機感の欠如と言わざるを得ない。考えなくとも、無防備に扉を開けるわけにはいかなかった。
そして現状、縮んだスバルの警戒など、無防備と何ら変わらないのだ。
「お邪魔いたします。ヨルナ様のお言葉を届けに参りました」
ぺこりと一礼し、敷居を跨いで姿を見せたのは案の定、鹿人の少女タンザだった。
昨日と同じく、キモノ姿の少女は室内に足を踏み入れると、自分を出迎える面々の視線を受け止め、立ち止まる。
表情の乏しい少女が、やけに子どもの多い空間をどう思ったかは不明だ。ただ、少女の視線が一番長く止まったのは、鬼面を被った怪しい男だったことは添えておく。
ともあれ、少女は室内をぐるりと見渡すと、
「昨日の、使者の皆様はどうされましたでしょうか」
「う……ちょっと所用で外してるけど、呼んできた方がいい?」
「――。いいえ、あとでお伝えいただけましたら」
ちらちらと、タンザの意識が部屋の奥にいるアベルに引きつけられている。
従者として出来すぎた子だと思っていたが、興味深いものから目を離せなくなるなど、案外可愛いところもあるものだ。
とはいえ、彼女の持ってきた報告は、スバルたちの今後に大きく影響する。
静かな緊張を以て、タンザの発する言葉が待たれた。
そして――、
「書状を読まれ、ヨルナ様が正式にお返事をなさいます。つきましては、皆様には紅瑠璃城へと出頭していただきたく存じます」
「……読んでくれてたか」
お辞儀してそう述べるタンザの言葉に、スバルは我知らず安堵する。
失礼な話かもしれないが、あれだけやってなお、ヨルナが気紛れに手紙を破り捨ててしまった可能性もないではないのではないかと疑っていた。
気位の高い猫や、プリシラを相手にするのと同じ安心感のなさと言える。的確な攻略法が見つからないと、そんな印象だ。
「姫さんの扱いにくさは否定しねぇけども、さすがにTPOは弁えて……いや、それもあんまし自信ねぇわ」
スバルの顔色から内心を読み解き、プリシラを擁護しようとしたアルが途中で諦める。彼も彼で、付き合いの深いプリシラの相手に難儀している証だ。
ともあれ、差し迫った状況の片方は穏当に進みそうで安堵する。
これで目下、大問題はスバルたちの『幼児化』だけで――、
「天守閣には、書状を書かれた主様と、昨日の使者の皆様においでいただけますよう」
「――ぐえっ」
「――?」
思わずこぼれた呻き声を聞いて、タンザが丸い眉尻を下げて首を傾げる。
その動揺を悟られまいと、スバルは愛想笑いを浮かべて「何でもない何でもない」と首を横に振り、タンザの疑惑を無理やり誤魔化した。
それで納得したのか、さして興味がないのかタンザは傾けた首の角度を戻し、
「火の刻の鐘が鳴る頃、紅瑠璃城にてお待ち申し上げております」
「委細、わかった。大儀である。下がるがいい」
「――。はい、失礼いたします」
時刻の指定――火の刻の鐘というのは、おおよそ正午の意味合いと捉えていい。
ヨルナとの会談のセッティングを伝え、タンザがその場に一礼すると、部屋を出るべく背を向けた。と、その背中に「あの」とスバルは声をかける。
「はい、なんでしょう」
「念のために確認したいんだけど、お呼ばれのメインは手紙を書いた人で、昨日の使者はおまけだよね? つまり、諸事情で使者が参加しづらい場合は……」
「ヨルナ様は、使者の方々も招くよう仰せです」
「――――」
「この魔都で、ヨルナ様のお言葉を違えることのありませんよう」
声音は淡々と、しかし、絶対の揺るがぬ意志を込めたタンザの念押しだった。
それを残し、去ってゆく使いの少女を見送り、扉を閉める。それをしてから、深々と呼吸をし、スバルは振り返った。
そして――、
「……この状態の俺たちって、さっきの条件満たしてると思う?」
と、変わり果てた自分の腕を伸ばして、そう疑問を呈したのだった。




