第七章39 『悪辣』
広間の壁に開いた大穴から外を眺め、憎々しげにカフマが唇を歪める。
眼下、風の吹き荒ぶ中に噴煙をたなびかせ、まんまと広間から脱出した三人の姿が消えた建物へと目を凝らす。――逃亡者の姿は見えない。
「――――」
ひび割れた梁が音を立てて崩れるが、その破片が無礼な輩を潰してくれると期待するには、いささか距離がありすぎた。
だが――、
「逃がしてなるものか。何としても、閣下への不敬の報いを……」
「おいおい、そりゃねえじゃろ。連中、手持ちの札全部使って乗り切ってんじゃぜ? それをこっちで蔑ろにしちゃ、筋が通らねえって話になるわな」
「オルバルト翁!」
逃亡者を追おうとした足を止められ、カフマが歯を軋らせながら振り返る。その視線を受け、矮躯の老人は「おお、こわっ」と肩を竦ませた。
その反応を見て、カフマはますます鋭い目を怒らせると、
「そもそも、何故彼女らを見逃されたか! 翁であれば、彼女らを取り押さえることなど瞬く間にできたはず!」
「それ、お前さんの方にも跳ね返る意見じゃぜ? あとワシもやたらと手を抜いたわけじゃねえわい。あの兜の若造、妙な手品を使いやがってよ」
「……若造、というほど若くはない印象でしたが」
「そこは置いとくんじゃぜ。大体、ワシから見たら大抵の奴はよちよち歩きのガキんちょに見えんのよ、実際。お前が生まれたときからジジイじゃぜ、ワシ」
自分を指差し、皺だらけの顔を笑みに歪めるオルバルト。その軽々とした態度にカフマは重ねて言及しようとしたが、それより早く「それと」とオルバルトが続け、
「お前さんは忘れとるかもじゃけど、ワシはほれ、そこの狐娘の警戒もせんとじゃろ? いつ閣下に牙向けるかわかったもんじゃねえんじゃし」
「ヨルナ一将……確かに、自分が軽率でした」
「かかかっか、わかりゃええわい」
指摘され、カフマは頭に血が上った己を恥じるように項垂れる。そんな青年と老人のやり取りに、名指しで危険人物扱いされたヨルナが目元に手をやり、
「何とも辛い話でござりんす。わっちの如きか弱い女を、まるで危ういケダモノのように仰るなんて……こんな辱め、わっちは受けたことがのうござりんす」
「どの口で……!」
泣き真似をされておちょくられ、カフマの怒りがヨルナに向けられる。が、ヨルナはその視線に「くふ」と喉を鳴らすと、目元に触れる手をそっと下ろした。
そのまま彼女は煙管を口元に運び、紫煙をたっぷりと肺に入れると、「ふー」と大きく煙を吐いた。――その煙が、ゆらゆらと揺れながら壁の大穴へ向かう。
そうしてたなびく紫煙が大穴へ届くと、そこに驚くべき変化を生んだ。
それは、まるで幻のように、壊された壁がゆっくりと修復していく光景だ。
崩壊した紅瑠璃城の壁、それが破損した部位に使われた木材が蠢いて、生き物の傷が癒えていくように直っていく。それは建物の修繕でありながら、無機質なものよりも生き物的な印象を与える、奇妙で得体の知れないものだった。
その非現実的な光景に、壁の傍に立っていたカフマが下がり、頬を強張らせながらヨルナの方に振り返る。
「これにてすっかり元通り……主さんも、機嫌を直してくださりなんせ」
「これが、ヨルナ一将の」
「迂闊に魔都に手出しできぬ理由……もっとも、この女の危うさはそれに限った話ではないがな」
外壁の修繕を終えて、しなを作って微笑むヨルナにカフマが息を呑む。
彼の戦慄を補足したのは、先ほどの騒ぎの間も身じろぎもしなかったヴィンセントだ。帝国の頂点たる男はちらと壁を一瞥し、それからヨルナに焦点を合わせると、
「あれらは城の外に出た。余と、貴様の提示した条件を満たしたわけだ」
「で、ありんすな。そうとなれば、わっちらがその頑張りを反故にするのはいささか外聞が悪うござりんす。閣下なら、わかっておくんなしんすね」
「――――」
「もちろん、閣下には閣下のお考えがありましょう。わっちも尊重しとうござりんす。でも、お忘れなく」
そう言って、黙したヴィンセントを見据えながら、最初から最後まで皇帝相手に崩した姿勢を正そうともしない魔都の主、ヨルナ・ミシグレが笑い、
「ここは魔都、わっちの都。――あの青い小僧の刀も、わっちには届かのうござりんす」
その宣言は、魔都の主としては適切でも、皇帝を相手に告げるのは不適切。
帝国の支配を遍く敢行するヴォラキア皇帝に対して、たった一つの都市であろうと、自らの支配権の方が上であるかのような振る舞いは不敬どころの話ではない。
しかし、そのヨルナ・ミシグレの言葉は否定されない。
それは彼女の言の正負はともかく、事実であることを誰もが承知しているからだ。
この魔都カオスフレームで、ヨルナ・ミシグレは絶対の力を持っているのだと。
故に――、
「一晩、時間をやろう」
それをヴォラキア皇帝の敗北とみなすのであれば、そのものは彼の皇帝の深謀遠慮を知らなすぎる。かといって、皇帝がその黒瞳の奥底に巡らせる謀の数々は、たとえ皇帝の身近に侍るものであろうと容易に察せるものではない。
ただ、ヴィンセントの言に道理を違えた誤りはないと、そう信ずるのみだ。
「ありがたく。でしたらわっちも、手紙の返事を吟味する時間がいただけんす」
言葉面だけは甲斐甲斐しく、態度と表情にはしおらしさなど微塵も見せずに、ヨルナがヴィンセントの許しを得てそう答える。
そのヨルナの姿勢には、護衛であるカフマもオルバルトも思うところがある。が、ヨルナにそれを許したのも、元を返せばあの三人を逃がした自分たちの手落ちだ。
ヴィンセントも認めた以上、そこを蒸し返しても何にもならない。
「だが、貴公の態度は目に余る。自分は何度でも言わせていただく」
「くふ。そう怖い目をされては身震いが止まらのうござりんす。オルバルト翁、何とかしてくりゃれ?」
「ワシに飛び火すんのかよ。老い先短ぇジジイなんじゃぜ、優しくすんのが若ぇ奴らの義務ってもんじゃろ。あれ、これもしかしてワシ、大抵の奴から善意むしれる最強の理屈ってやつ見つけとらね? くるか、ワシの時代」
「オルバルト翁!」
オルバルトの茶化した物言いに、カフマが怒りも露わに声を上げる。
煙管からたなびく煙を揺らし、それを笑いながら眺めているヨルナ。そんな『将』たちの様子に目を細め、ヴィンセントは小さく鼻を鳴らす。
それから、皇帝は振り返り、自分に同行する最後の一人――カフマやオルバルトと違い、ヴィンセント以上に動きを見せなかったものを見た。
「ずいぶんと口数が少なかったものよな。貴様らしくもない」
「……ですね。ただまぁ、顔を合わせるとややこしい方がおりまして」
そう応じたのは、苦笑を交えた若い男の声だ。
男は頭からすっぽりと青いローブを被り、その顔かたちを周りに見せないようにしている。それ自体は普段からのことだが、普段以上にローブの首元を締めるのは、どうやら居合わせた客と関係があったらしい。
男は嘆息すると、皇帝の無言の視線にその首をすくめ、
「ぼかぁ、この魔都では貝になっているとします。――星も、それをお望みのようで」
「星が望むか。くだらぬな」
「くだらないとはご無体な」
首をすくめた男は、ヴィンセントの切って捨てるような言葉に苦笑した。
苦笑したまま、続ける。
「もしも本気で、閣下が星の望みを軽んじていらっしゃるなら、こんなところまでわざわざ足を運んでらっしゃらないと思いますよ、ぼかぁね」
「痴れ者が、余の胸の内をわかったように語るのか?」
「滅相もございません」
腕を組み、声の調子を一つ下げたヴィンセントに男が肩を小さくする。
そうして、ヴィンセントは男――『星詠み』から視線を外すと、すでに塞がった壁の向こう、三人の反逆者が消えた空に瞳を細める。
そして――、
「――星の望みなどと、くだらぬ」
そう、誰にも聞こえぬ呟きが、口の中だけで囁かれて、消えた。
△▼△▼△▼△
「げほっ! がほっ! おえほっ!」
濛々と立ち込める砂埃の中、咳き込みながら必死に肺に仕事をさせる。
強烈に打ち付けた背中が痛み、スバルは手を患部に回して負傷を確かめる。恐る恐る戻した手には血がついておらず、打ち身だけで済んだらしい。奇跡だ。
壊した建物の建材や崩れた梁の破片、それらが突き刺さったり、大事な血管を切り裂く可能性は高かった。いったい、どれほどの幸運が働いたものか。
「なんて、言ってられる場合じゃありませんわ……ミディアムさん! アル!」
「あ、あたしはここ……痛い痛い」
頭を振って、とっさに一緒にいたはずの二人の名前を呼ぶ。と、すぐ傍の瓦礫の下から返事があり、スバルは慌ててそれを押しのけ、探し人を引っ張り出した。
埋まっていたミディアムが「けほ」と咳き込み、目をぱちくりさせる。
「うあー、死んじゃうかと思った! ナツミちゃんは無事?」
「わたくしは何とか。ミディアムさんやアルが守ってくれたおかげで……ミディアムさんのお怪我は? どこか痛いところはありませんの?」
「うひゃひゃひゃ、くすぐったい~! だいじょぶだいじょぶ! 元気だってば!」
ミディアムの肩や背中を確かめると、身をよじる彼女がスバルの胸を押し返す。
強がりや嘘ではなく、彼女も目立った傷はないらしい。二人揃って、とんでもない強運に恵まれたものだと思えるが――、
「アルは――」
返事のなかったアルを探し、スバルは周囲に視界を一巡りさせる。
ようやく噴煙の落ち着いてくる視界、スバルたちが飛び込んだのは空の厩だ。紅瑠璃城の傍にあったその建物は、どうやら疾風馬用の干し草を積んだ倉庫だったらしい。
高所から為す術なく転落したスバルたちが助かったのも、その干し草がクッションの役割を果たしてくれたからだ。それがなかったなら、少なくともスバルは潰れたトマトのように無残な死に様を晒していたことだろう。
レムに限らず、治癒魔法が希少なヴォラキアでは、大きな傷を負ったものは助からない可能性が高い。そういう意味で、ルグニカよりもよほど死にやすいのが帝国の環境だ。
もちろん、帝国の弱肉強食の思想が危うすぎるという見方もあるが。
「いた! アルちん!」
と、薄暗い屋内を見回すスバルの横で、ミディアムが飛び出すように動いた。
彼女は落下の衝撃でひっくり返った台車の傍に屈み込む。干し草を大量に積み込んだそれが三台ほど絡んで倒れており、その下で何かが蠢いていた。
慌ててスバルも駆け寄り、ミディアムと二人で乾いた草を掻き分ける。やがて、その草の下から太い腕がぼさっと現れ、二人でそれを引き上げた。
そして――、
「痛ぇッ! 右腕も取れる!」
「笑えませんわよ!」
「でも、アルちんも生きてた! すごいじゃん!」
笑えない冗談を言うアルを叱り飛ばし、しかし、ミディアムの言葉に安堵する。
干し草の山から引き出されたアル、彼の姿はひどい有様だった。奇跡的に打ち身や擦り傷程度で済んだスバルたちと違い、アルの全身には裂傷や青黒い痣が多数ある。
カフマの茨と、一時的でもオルバルトを押さえたのだ。最後、スバルたちに飛びついたとき、位置的に敵の追撃を受けやすい立場でもあった。
――彼の受けた傷の一つ一つが、本来、スバルたちが受けるはずだった傷だ。
「――――」
「どうしたよ、兄弟……辛気臭い顔してるじゃねぇか」
「それは……」
「命からがらのノーロープバンジー、全員助かったなんて奇跡みてぇなもんだ。だってのに、そんな顔されたんじゃオレの背中の傷が浮かばれねぇ。剣士の恥だぜ?」
億劫そうに肩を回しながら、アルはスバルを励ますように減らず口を叩く。
その態度にスバルは息を詰まらせ、それからすぐに「そうですわね」と頷いた。
飄々と、何事も他人事のような態度で振る舞ってみせるアルだが、ここまでの攻防で見せた彼の奮戦は、何もかもスバルへの誠意が原因だ。
スバルの目的に共感し、力を貸すと約束した。
そのために、命懸けの戦いにすら付き合ってくれたのが、アルという男だ。
「……あなたを誤解していました」
「あん?」
「いつも飄々と適当で、何に対しても不真面目な頼り甲斐のない性格だとばかり」
「おいおい」
「ですが、あなたはわたくしのために命を懸けた。――それを、忘れはしません」
偽物の胸に手を当てて、本物の決意をアルに告げる。
彼がいなければ、この瞬間のナツキ・スバルは生存できなかった。だから、これから先のナツキ・スバルは、アルから受けた恩義を忘れずに戦う。
たとえ、次の瞬間に命が果てることがあったとしても――、
「ナツミちゃん、アルちん、あんまりまごまごしてると……」
「ええ、わかっていますわ。早々にここを出ましょう。でないと、せっかくのアルの犠牲が無駄になってしまいますわ」
「犠牲にはなってねぇよ!?」
ミディアムに促され、袖で顔を拭ったスバルが力強く応じる。
三人とも助かったのは僥倖だが、それで安堵するにはまだ早い。一応、ヨルナとヴィンセントから提示された条件は満たしたと言えるが、それでカフマやオルバルトが手を引くかはわからないのだ。
はっきりとそれがわかるまで、生き延びなくてはならない。
「すぐに出ましょう。身を隠して、あちらの答えを……」
「――その心配はございません」
「――っ!?」
アルに肩を貸し、外へ出ようとしたところに声がかかる。
そのことに驚いて手が離れ、肩を貸していたアルがひっくり返って「ぐお!」と悲鳴を上げる。が、彼に構う余裕がない。
厩の入口に立ち、スバルたちを見据える人影と対峙しなくては。
「あなたは……」
「ご挨拶が遅れました。ヨルナ・ミシグレ様の従者、タンザと申します」
そう言って、折り目正しく頭を下げたのはキモノに鹿の角が特徴的な人物――ヨルナの傍にいた鹿人の少女だ。
タンザの名乗った少女はゆっくりと顔を上げると、スバルたちを庇うように前に立ったミディアムと対峙、その首をふるふると横に振った。
「警戒なさらず結構です。私は、皆様に危害を加えることはありません」
「ホントに? でも、あたしたち、こことお城の壁、ぶっ壊しちゃったよ?」
「城も厩も、ヨルナ様が直してくださいます。――ヨルナ様は皆様を使者としてお認めになられました。もう、誰にも手出しはされません」
ミディアムの不安を解消し、そう付け加えるタンザ。彼女の言葉にミディアムの眉尻が安堵で下がるが、スバルの印象はその真逆だ。
ヨルナが壁や厩を直す、という点はさておいても、その先が問題だった。
「誰にも手出しされないとは、大きく出ましたわね。あの場にいたのが皇帝陛下だと、わたくしたちは知っていましてよ?」
ミディアムの背に庇われながらでは格好がつかず、彼女の隣にスバルは並ぶ。そうして前に出てきたスバルを、タンザの灰色の瞳がじっと見つめた。
可愛らしい顔立ちのわりに、感情が表に出てこない少女だ。禿というには愛嬌も必須のはずだが、その立ち振る舞いには人形めいたものを覚える。
「少なからず、わたくしたちは皇帝陛下に害為すもの……それを、お付きの方々が見逃してくれると? ヨルナ様が認めさせたと仰いますの?」
「はい。誰も、この魔都でヨルナ様には逆らえません。ヴィンセント様も、それをご承知のことと思います」
「お……」
淡々と、しかし絶対の確信を持ったタンザの答え。それを聞いて、スバルは続けようとしていた言葉の数々を呑み込み、呆気に取られた。
そして、スバルたちが破った厩の天井を見上げ、紅瑠璃城に動きがないことを確かめる。短時間の印象なら、カフマはすぐさま追ってきそうなものだが。
「それもない……どうやら、信じていいみたいですわね」
「ヴィンセント様もお帰りになります。手紙の返事は明日、改めて為さると」
「……承知しましたわ」
「では、お気を付けてお帰りください」
嘆息するスバルの返事を受け、タンザは一礼し、そのまま三人に背を向ける。
必要最低限の仕事をきっちりこなし、ヨルナの下へ戻るのだろう。ふと、立ち去るその背中を、スバルは「タンザさん」と呼び止める。
足を止め、振り返るタンザ。その人形のように動かない表情を見つめながら、
「あなたにとって、ヨルナ様はどんな方ですの?」
問いかけた理由は、スバルの中でヨルナの心証を持て余しているためだ。
偽物と知らない以上、彼女のヴィンセントへの接し方は、皇帝であったアベルに対する接し方と同じのはず。
不敬や無礼を通り越したあの素振り、実力者だからというだけで見過ごしていては示しがつかないとも思うが、そうした態度を取る理由が不明だ。
ヨルナがアベルに抱いているのは、親愛と敵愾心のどちらであるのか。
スバルたちの奮闘を促したことも合わせて、彼女の腹の底はまるで読めない。
故に――、
「傍にいる方の話が聞きたいんですの。ヨルナ・ミシグレ様の、印象を」
「愛情深い方です。味方を愛し、敵を憎む。――魔都を生きる、全てのものの恋人」
「――――」
澱みなく答えるタンザ、その瞳に初めてうっすらと感情が過った。
瞬く間に消えてしまうそれは、スバルの目にはほのかな熱を湛えたものに見えて、それ以上の言葉を継げない。
継げないまま、去ってゆく少女の背を見送るしかできなかった。
得たい答えを得られたかと言えば、それは得られなかった。
ただ、ヨルナという人物への不可解な印象が深まっただけだ。タンザの言葉に嘘は感じられなかった。だが、愛情深いともにわかに信じ難い。
魔都にきてからというもの、スバルたちは翻弄されっ放しだった。
「やれやれ、いっちまったか。……オレたちはどうするよ?」
「……どうするも何も、戻るしかありませんわ。今は、タンザさんの言伝を信じて、明日の返事を待つ他にありませんもの」
タンザのいなくなった厩で、尻餅をついているアルに改めて肩を貸す。
その体重を踏ん張って支えながら、スバルは今一度、紅瑠璃城を見上げた。
「目を奪われる派手な城……これも『極彩色』の一環ですの?」
そう呟きながら、スバルは先のタンザの言葉が真実だったことを解する。
青の中に赤を湛えた複雑怪奇に色めく城、その天守閣にあったはずの大穴は、いつの間にかどれだけ目を凝らしても見つからず、影も形もなくなっていたのだった。
△▼△▼△▼△
「そうか、あれがきていたか」
「それ以外に言うことありませんの? すいませんとか、ごめんなさいとか、申し訳ございませんとか」
這う這うの体で宿に戻り、手紙の受け渡しに関する顛末の報告を受けたアベル。彼の第一声に盛大に顔を顰め、スバルは憎々しげにそう詰め寄った。
が、鬼の面を被ったアベルは詰め寄るスバルの額を掌で煩わしげに押して、
「何故、俺が謝罪しなければならん。貴様らはうまくやった。大儀であったと、そう褒めてやろうとしたところだ」
「褒めてやろう! 褒めてやろうと! その言い方が上から目線ですわよ! 褒めてもらわなくたって結構、必要なことをしただけですもの。ねえ、二人とも!」
「こっちに飛び火すんのかよ」
不服そうにするアベルに舌を出し、猛然と抗議したスバルが援護を求める。しかし、床に足を投げ出したアルは「勘弁してくれ」と手を振った。
正味、今回の仕事で一番の働きを見せたアル。彼は体のあちこちの傷の手当てをタリッタに任せ、体中包帯だらけの包帯男と化している。
黒い兜に包帯だらけと、その格好のシュールさは留まるところを知らない。
「ですガ、ナツミやミディアムが無事でよかっタ。私もついていくべきだったト、とても心配していましたかラ」
「ほら、聞きまして? これが正しい反応ですわよ。あなたも皇帝として、族長を引き継ぐタリッタさんを見習ってはどうですの?」
「やめてくださイ、死んでしまいまス……」
上に立つものとしての心構えを説くスバルに、お手本として指名されたタリッタが顔を真っ青にしながら首を振る。
恐れ多いという彼女の態度だが、スバル的には非常に口惜しい。誰か、アベルを懲らしめるのに適材な人員はいないものか。
こういうとき、他人の褌を巻いて戦うしかない我が身が情けない。
「うー! あうー!」
「あ! ルイちゃん、ダメだってば! ほーら、ナツミちゃんたちは大事なお話の真っ最中なんだし!」
「うー! うー!」
と、そんなスバルの思考を掻き乱すのは、隣室から届く甲高い叫び声だ。
見れば、隣室と通じた扉のところで、ルイとミディアムの二人が格闘している。無論、ルイがミディアムに抗えるはずもなく、大人と子どもの相撲の有様だ。
すぐにルイが担がれ、再びその姿が向こうの部屋に消える。
「あーうー!」
「……まったく、いったい何なんですの。戻ってきてからずっと、わたくしに飛びついてこようとして」
「なんだかんだ、一番懐いてるのが兄弟ってこったろうよ。オレなんか見向きもされねぇ。別に懐いてほしいわけじゃねぇけども」
スバルの嘆息を聞きつけ、出来の悪いハロウィンのような完成形になったアルがぼやく。隣でタリッタが満足げに額を拭っているが、彼女の美的センスもなかなかだ。
エミリアやベアトリスと競い合える相手を見つけ、またしても二人が恋しくなる。――否、恋しいのは二人だけでなく、国境を隔てた地にいるみんなだ。
スバルがヴォラキアに飛ばされて、そろそろ二十日ほどになる。
ベアトリスやラムがいる限り、スバルたちの安否だけはわかってもらえているはずだが、それ以上の情報を届けられず、歯痒い思いが続くばかりだ。
一刻も早く、エミリアたちと合流するための道を付けたい。
「それなのに、この被り物男は大事なことも言いませんし……」
「ふん、俺を指して被り物とは言ってくれる。俺が被り物なら、貴様らはなんだ? 痴れ者と道化といったところか?」
「出来の悪いハロウィンみてぇになってるしな、オレら」
先ほどのスバルの内心をぴたりと言い当てるアル、彼の言葉とアベルの指摘に、スバルは「ぐぬぬ」と奥歯を噛むしかない。
実際、女装したスバルと鬼の面を被ったアベル、そして兜の包帯男と化したアルの三人は仮装パーティの参加者みたいな風体だ。多種多様な人種が多く行き交うカオスフレームにあって、個性が埋もれないよう必死なようにも見えてくる。
無論、スバルの女装は実益のためなので、決してそんなものではないが。
「ともかく! 城でヨルナさんとは会えましたが、代わりに皇帝一行とも……あれは、あなたの影武者ということでよろしいんですのね?」
手を叩いて、スバルは無理やりに話の軌道修正をする。
声の大きさは十分気を付け、周りに聞かれないように注意しつつ、しかし聞くべきことはきっちり聞こうと。
それを受け、アベルは「ああ」と鬼面のまま頷いた。
「姿形を似せたものだけならいくらでもいようが、俺を体現できるものがいるとすれば、それは一人しかおらぬ。――チシャ・ゴールドだ」
「チシャ・ゴールド……九神将ですわね。確か、『白蜘蛛』?」
「そうだ。知恵が回り、大軍の指揮を得意とする。そして」
「アベルちゃんを最初に裏切った奴と」
アルの最後の補足を受け、ベッドの上で腕を組んだアベルが無言で肯定する。
裏切りの『九神将』、その最初の一人であり、アベルの信頼も厚かっただろう人物。それがアベルの身代わり――否、成り代わりとして、皇帝の座にいる。
「チシャ……偽物の皇帝は、何の目的でこの魔都へきたと思いますの?」
「奴も、俺との戦いの勝利条件は理解している」
「より多くの九神将を味方に付けた方が勝つ、ですわね」
ヴォラキア帝国における戦力の象徴、『九神将』の確保が勝敗を分ける決定的な鍵。
その鍵を手に入れるために、スバルたちもわざわざカオスフレームへ足を運んだのだ。だが、今のアベルの答えからすると推測できる目的は一つ。
「では、やはり彼らもヨルナ・ミシグレを味方にするために?」
「それは考えにくい。ヨルナ・ミシグレ……あれが説得や交渉に耳を貸すなどと、そう考えるほど奴は無謀ではあるまい」
「――? だったら、何をしに?」
「決まっている。――俺が魔都へくると、そう踏んでのことだ」
そのアベルの答えを聞いて、スバルは意味がわからずに疑問符を頭に浮かべる。
同じように困惑したアルが「アベルちゃん」と挙手して、
「あっちの偽皇帝が、アベルちゃんがカオスフレームにくるの読んでるって、それマジで言ってんの? マジだったらヤバいじゃねぇか」
「あれはかなりの精度で俺の思考を辿ってくる。そも、玉座から飛べた先と城郭都市の攻略の流れ、九神将の配置……自然、魔都に要地は絞れる」
「それがわかってて……いえ、まさか!」
淡々としたアベルの言葉を処理しながら、スバルはハッと目を見開いた。そして、静かにこちらを見るアベルをわなわなと震える指で指差した。
「あなた、わたくしたちと偽皇帝が鉢合わせるのを読んでいたのでは? 直接、出くわすのを避けるために自分だけ宿に残って……」
「たわけ。そのようなことをして何の意味がある。むざむざと手駒を減らしては、勝てるシャトランジでも勝ち筋を損なおう」
「……それは、そうだと思いますけれど」
筋が通らない点と言えば、アベルが自分から不利になる手を打つという点のみ。
それが最大にして唯一の問題点で、そこを論破できない限り、スバルが抱いた性悪アベルの陰謀説は、文字通り陰謀論として片付ける他にない。
ともあれ――、
「だったら! 話は戻って、どういうことですの? 偽皇帝はヨルナさんを味方にできないとわかっていた。それでも、あなたがくるからと魔都に現れて……」
「先手を打って、ヴィンセント・ヴォラキアとヨルナ・ミシグレの和睦を破談とする。後々に現れた俺が、紅瑠璃城の天守に易々と上がれると思うか?」
「あー、そういう……なんつーか、悪知恵が働く奴だな、オイ」
合点がいったと頷くアルに、スバルも閉口して同意する。
ようやく、スバルにもアベルの意図するところが伝わった。つまり、ヴィンセントはヨルナを敵でも味方でもない、無効票として浮いた状態にするのが目的だったのだ。
そのために自ら城に足を運び、皇帝との交渉の決定的な決裂を計画したと。
「……じゃあ、わたくしたちの到着が一日遅れていたら」
「あれの策が成っていた。故に言ったのだ。大儀であったと」
「――――」
凝然と目を見張り、スバルはまじまじとアベルを見る。
それはつまり、先のやり取りは彼なりの本気のねぎらいだったということか。だとしたら、部下を褒めるのが下手な上司にも限度がある。
少なくとも、アベルの褒め言葉より、自分へのねぎらいの方が効果は上だ。
「よく頑張りましたわよ、わたくし……アルとミディアムさんも!」
「お? おお、そうだな、頑張ったわ、オレら」
「だねー。ナツミちゃんの啖呵、めちゃめちゃカッコよかったもん!」
共に死線を乗り越え、結束力が高まった三人が互いを称賛する。仲間外れにされたタリッタがやや寂しげなのが、アベルと違ってスバルには不憫に感じられた。
「でも、事前に伝えておいてほしかったことが多いですわよ。例えば、ヨルナさんがあなたのことを憎からず思っていることだとか」
「あ、それ、オレも言わなきゃって思ってた。頼むぜ、アベルちゃん。色男なのは生まれつきだから仕方ねぇけど、それならそれでイケメン税払ってくれよ」
「貴様が何を言っているのかまるでわからんぞ、道化。それから、貴様も心得違いだ」
「心得違いって、実際のやり取りを見てますのよ?」
実際の、と言ってもヨルナとヴィンセントのやり取りではあるが、彼女がアベルに挑発や誘惑の眼差しを向けていたことは事実。
しかし、そのスバルとアルの追及にアベルは深々と嘆息すると、
「ヨルナ・ミシグレが想いを傾けるのは俺ではない。ヴォラキア皇帝だ」
「……だから、それがあなたなのでは? まさか今さら、本当はあなたの方が偽物で、あっちの皇帝が本物の皇帝だなんて言い出しませんわよね?」
一瞬、紅瑠璃城で疑った疑惑が再燃し、スバルは冗談でも言ってくれるなと睨む。が、それを「馬鹿馬鹿しい」とアベルは一蹴する。
「額面通りに受け取るな。確かに俺はヴォラキア皇帝だが、ヴォラキア皇帝とは俺のことのみを意味しない。過去にも未来にも、ヴォラキア皇帝はいる」
「それって……」
噛み砕いたアベルの説明を受け、スバルは目を丸くした。隣ではアルも「ほえー」と間抜けな声を漏らして、
「つまり、ヨルナちゃんの狙いはアベルちゃんの金とか地位ってこと?」
「詳細はあれも語らぬが、おおよそそう捉えて間違いない。あれが欲しているのは帝国の頂……ヴォラキア皇帝の寵姫だ。俺である必要はない」
「……なんか、可哀想ですわね」
「貴様の中で進めた話で、勝手に俺を憐れむな」
ある意味、割り切った恋愛条件とでもいうのだろうか。
皇帝の寵姫――すなわち、皇帝夫人となるのがヨルナの目的であるらしい。確かに、その立場なら皇帝にならずとも、権力的にも財力的にも帝国を支配できる。
魔都カオスフレームの統治だけでは、あの美貌の狐人の強欲は埋まらないのだと。
「今のお話ですト、手紙にはなんと書いたのですカ?」
「まぁ、こっちについたら嫁にしてやるとか、そういうことじゃねぇの? それが一番、手っ取り早い方法だと思うし、美人だし」
「美人なのが補い切れる範囲の扱い辛さでしたかしら……」
美人なら多少のワガママや性格の悪さは許容されるかもしれないが、それにも限度があるとスバルは考える。
プリシラやヨルナは間違いなく美人だが、スバルなら嫁に迎えるのは御免だ。命がいくつあっても足りないし、気が休まらない日々を送ることになりそうで。
「親書の内容を明かすつもりはない。だが、貴様たちの期待を裏切る返答にはならぬ。そのことだけは保証してやる」
「保証も、信頼があって初めて成り立つ……ああいえ、やめましょう。言っても仕方のないことですし、やめやめ!」
パンパンと両手を叩いて、スバルは無理やりに話題をそこで一区切り。
納得のいかない決着を見たアベルは不服そうな目をしたが、スバルは「ところで」と新しい話題ついでにアルの方を見やり、
「あの場にいた九神将、オルバルトと言いましたわね。『悪辣翁』の」
「ああ、いたな。やべぇ爺さんだったぜ。オレも色んな奴を見てきちゃいるが、出くわした中でもとびきりやべぇ部類だ」
「そのやべぇご老人、すでに相手に取り込まれていると思います? だとしたら、すでにアラキアとチシャ、加えて三人目が取られているのですけど」
『九神将』の内、押さえなくてはならないのが過半数の五人。
なのに、スバルたちがまだ一人目でまごついている間に、すでにあちらには三人の『九神将』が雁首を揃えていることになってしまう。
「ちなみに聞いた話だと、あの爺さんが『参』ってことらしい。『弐』のアラキア嬢ちゃんと『肆』のチシャって参謀も持ってかれてんだよな」
「見事に上のナンバーを押さえられてますわね!」
アルからの絶望的な報告に、スバルは声を大にする。
序列が強い順番で付けられているなら、すでに絶望的に思える戦力差だ。ヨルナが『漆』なのだから、スバルの苦悩もさもありなんだろう。
「喚き立てるな。……おそらくだが、オルバルトは向こうの陣に加わってはいない。現状は九神将として、皇帝の命に従っているだけだ」
「……その根拠は」
「オルバルト・ダンクルケンも、どう動くかが読み切れぬ男だからだ。状況を動かすなら勝ち筋を正してから。アラキアはそれで動かせたろうが、オルバルトを篭絡するのは容易いことではない」
「結局、九神将を全然御し切れてないという話なのでは……?」
つまり、自分が手綱を握れていなかった相手だから、自分に成り代わった影武者にも手綱は握れていないと、そういう話になってくる。
喜んでいいとはとても思えないし、先行きも不安になってくる話だ。
「でハ、そのオルバルトなる老人は味方にできる余地があるト」
「無論、交渉の席につけるには相応の材料がいる。あれも喰えぬ老獪だ。状況が見えてくれば、どちらへつくか秤にかけよう」
「……そう言えば、アルはお知り合いでしたのよね? どういう仲なんですの?」
オルバルトに交渉の余地を求めるなら、最有力なのはアルだとスバルは考える。
天守閣でのアルとオルバルトの会話には、その可能性が見出せた。
「剣奴孤島、でしたか。そこで起きた事件の解決に一役買ったとか……」
「おお、そうそう。つっても、特に付け足すことなんてねぇぜ? 八年前、まだヴォラキアの剣奴だったオレが、島で起こった反乱に巻き込まれたって話。島の剣奴が死合いの観戦してた上級伯を人質にしてよ、解放しろって要求したんだ」
「ずいぶんと大事に聞こえますけれど……それをアルが?」
「厳密にはオレと、まだロリだった頃のアラキア嬢ちゃんだ。それと、人質になってたはずの上級伯だが……そこの詳細はいずれな」
話の後半を濁して、アルが自分の首筋を気まずげに掻いた。話しづらいことらしいが、隠された細部を抜きにしても大体のことは知れたろう。
アルは帝国で起こった事件を解決し、その功績の褒美を八年越しに求めた。それが、スバルたちに目的を果たさせ、命を拾わせたのだ。
「せっかくのチャンスを、よかったんですの?」
「チャンスも何も、あそこ以外で使う機会なんてなかっただろうし、いんじゃね? 正直オレも、こんな壮大な伏線になると思わなかったぜ。当時の無気力なオレに感謝だ」
けらけらと機嫌よく笑うアルは、それ以上、スバルに気負わせる気はないらしい。
その気遣いにスバルが感謝の念を抱くのと、アベルが「そういうことか」と納得の頷きを見せるのは同時だった。
アベルは鬼面の顎を摘まみ、そっとめくって素顔をアルに晒しながら、
「即位直後の騒動の際、剣奴孤島で働いた剣奴がいたとは聞いていた。褒美を求めなかったとも聞いたが……それが貴様か、道化」
「だったみたいよ。つか、皇帝のお耳に届いてたことと、それをちゃんと覚えられてたことの方がビビるわ。旅の間の軽口も全部覚えられてそう」
「大儀であった。――貴様の功には報いよう。たとえ何があろうとも」
「お……」
素顔を見せたアベルの言葉は重く、動かし難い真摯さで飾られている。
信賞必罰、アベルの信条であるそれが、またしても彼に皇帝の顔をさせる。功績を挙げながら褒美を求めないものに、アベルの帝王学は容赦がない。
アルも、今度は褒美をもらわずに逃げられないだろう。
「どうあれ、親書が渡った以上、明日の返事を待つ他ない」
「それは、そうですわね。こちらからできることは、もう何も。……一応、ヨルナさんのお付きの子から、偽皇帝一行にも手出しはさせないと」
「それがヨルナ・ミシグレの言なら疑いようはあるまいよ」
タンザから伝えられた安全の保障、それをアベルも躊躇なく受け入れた。そこには、まだアベルの語っていない、スバルたちの知らない事情が隠れていそうだ。
しかし――、
「語って聞かせろと、わたくしが言ったとしても……」
「与える情報の取捨選択は俺がする。貴様が知り得る情報は、貴様が知り得ていて支障のないものだ。――少なくとも、今しばらくは」
「今しばらく……ね」
一瞬、スバルの口調が素に戻り、胸の内に生じた不和を自ら諌める。
アベルのこれを、非協力的と切って捨てるのは簡単だ。だが、アベルも自ら敗北を望まない。スバルが最善を尽くすよう、アベルも最善を尽くしている。
その方法が、言葉を尽くしたがるスバルと足並みが揃わないだけで。
「そしたら、今日のとこはこんなとこか? 幸い、命を拾って明日に繋げた。おまけに相手の狙いも挫けたと、成果としちゃ上々ってことで」
スバルとアベルの間の微妙な空気、それを打ち壊すように大きな声でアルが言う。
その配慮を引き取って、スバルは「ですわね」と頷いた。
イレギュラーな事態に見舞われたものの、ヨルナ・ミシグレ攻略の第一歩は、アルやミディアムのおかげで最善手が打てたと言えるだろう。
あとは明日、改めてヨルナからの対応を待つしかない。
「……さすがに、ドッと疲れましたわね」
今日できることはないと、そう結論付けた途端に体が重くなった。
緊張状態が解けて、体が疲労を意識したのだろう。長旅が終わってすぐの登城、そして偽皇帝一行との遭遇にヨルナとの接見、最後の大一番だ。
無理をさせた右腕も痛むし、かなり無茶を働いた鞭の手入れもしなくてはならない。
大仕事を終えたあとは、体と道具のメンテナンスが重要だ。
「とはいえ、眠い……」
ふらつく頭を押さえて、スバルはボーッとなる意識でそう呟く。
そんなスバルの様子を見て、タリッタが「ナツミ」と肩を支えてくれた。
「大事な役目のあとでス。武具の手入れは私がしておきますのデ、今日は早めに休んでくださイ。夜襲の警戒も私がしまス」
「街の中で夜襲の警戒なんて、とんでも世紀末……」
タリッタの心配ぶりに小さく笑い、スバルは彼女の言葉に甘えることとする。
深く息を吐くと、割り当てられた自分の部屋へ。ただ、その際に――、
「うー!」
「またあなたですの……」
隣室に隔離されたはずのルイが、待ってましたとばかりにスバルに飛びつく。腕を掴んでくるルイの行動に、スバルはうんざりと頭を抱えた。
構ってほしいと、そう子どもながらに訴える様子はルイ以外なら嫌いではない。が、相手がルイとなると警戒を解けないし、疲れているならなおさらだ。
スバルは無言でルイの額に指を近付け、白い額を弾いて「あうっ」と下がらせる。
「あなたに構う余裕はありませんの。さ、どいてくださいまし」
「あー、うあー!」
「あー、またベッドから出てる! ごめんね、ナツミちゃん。ほーら、ルイちゃんはこっち! あたしと一緒!」
額を押さえたルイの体が、後ろから伸びるミディアムの腕に担がれる。その後もルイは足をばたつかせ、必死にもがいてスバルに飛びつこうとしていた。
その姿が再び扉の向こうへ消えて、今度こそルイの悪行もここまでだ。
「まったく、なんなんですの……」
「また一段と兄弟に執心だったな。あれじゃね? 話についてこれてなくても、兄弟が死にかけたってのは感じてるとか」
「――――」
アルの指摘が事実なら、ルイの態度はスバルを案じてということになる。
それを認めるのは、スバルの心情的には厳しいことだ。あの、無邪気な子どもとして振る舞っているルイ、その奥底には邪悪で許し難い悪意が眠っている。
そう頑なに信じ続けることが、スバルとルイとの関係の大前提なのだから。
「アベル、わたくしは部屋で休ませてもらいますわ。あなたは……」
「構うな。貴様がいても、有事にはさして役に立たん」
「あなたはタリッタさんにばかり任せず、夜通し夜襲を警戒なさいな」
案じ甲斐のない返事があったので、スバルも憎まれ口を叩き返しておく。
間に立たされるタリッタがあたふたとするのは申し訳ないが、ひとまずのところ、休む前の溜飲下げはこれで一段落だ。
「化粧を落として、服を緩めて……泥のように眠りますわ」
宛がわれた部屋へ戻ると、スバルは頭を前後させながら女装を解いていく。
シュドラクの集落を離れた今、ウィッグも簡単には補修できない。大事に大事に手入れして使う必要があるので、そのあたりの処理は慎重だ。
目の細かい網に入れてウィッグを押し洗いし、脱いだ服と靴も丁寧に洗っておく。
最低限の処置を済ませて、それからスバルはベッドに倒れ込んだ。
目をつむり、ゆっくりと意識が遠ざかっていく。
「明日に、なれば……」
また、状況が動く。
状況が動けば、見えるものが変わる。見えるものが変われば、道が開かれる。道が開かれれば、目的に近付ける。そこに、離れ離れのみんながいる。
「レム、ベア子……エミリア、たん……」
胸に疼痛を過らせながら、スバルは異邦の地で愛しいものの名前を呼んだ。
愛しいものの名前と、再会を夢見ながら、意識は薄れ――、
△▼△▼△▼△
「――――」
ゆっくりと、意識の覚醒が訪れ、スバルは寝台の上で瞼を開けた。
普段、寝つきはあまりいい方ではないが、昨日はやはり疲れていたのかぐっすりと眠ることができた。夢も、見た覚えがないほどの深い眠りだ。
それで、かなり体の疲れは取れたと思うが――、
「なんだ?」
ただ、スバルの覚醒を促したのは十分な睡眠ではなく、騒がしい気配だ。
スバルの眠る寝室、その扉の向こうから何やら賑々しい声と気配が届いてくる。それが目覚まし代わりとなり、スバルを睡眠から引っ張り上げたのだ。
――目覚めと同時の騒がしい雰囲気、決していい予感はしない。
窓の外、締め切られたカーテンからは朝日が漏れ出していて、早朝というにはいささか時間が過ぎているとわかる。
すでに騒がしい魔都の空気を感じながら、スバルは陰干ししていたウィッグを見やり、どうするか判断に迷った。
これまでのことを思えば、ナツミ・シュバルツらしく女装すべきだ。
しかし、扉の向こうが切羽詰まっているなら女装の時間はない。しばし黙考し、どうあれ、まずは事態の確認が優先だと判断する。
そもそも、早とちりの可能性だってある。一大事なら、アルなりミディアムなりタリッタなり、とにかくアベル以外の誰かがスバルを起こしたはずだ。
だから――、
「あたっ!?」
そう考えながら、ベッドを降りようとしたスバルは肩から床にすっ転んだ。
衝撃に目の前を火花が散って、スバルは自分に起こった出来事に仰天する。別に、具合が悪いわけでも、脱ぎ捨てた服を踏んづけたわけでもない。
ただ、目測を誤ったみたいに、足が床を空振りしたのだ。
――ベッドから床までの距離を、スバルの足が届かなかった。
「んな馬鹿な……」
スバルも、自分が短足気味という悩みを抱えてはいるが、いくら何でも日常生活に支障をきたすほどのものではない。足の短い体でも、十八年付き合った肉体だ。
そうそうしくじるはずもないと、体を起こして気付く。
――昨夜と比べて妙に、室内のあらゆるものが大きく見えることに。
「おい、おいおい、何の冗談だ、これって……」
頬を強張らせ、声を震わせながらスバルは自分の顔をペタペタと触る。そして、やけにうるさい心臓の音に息を荒くし、ぶかぶかな服に手足を取られながら這いずった。
そのまま、スバルが向かったのは鞄に入れてあった鏡だ。化粧直しにも身支度のためにも必須の鏡、そこに自分の姿を映して、何が起こったかを――。
「なんだ、こりゃ……」
その鏡に映ったものを見て、スバルは呆気に取られて呟いた。
手の中で震える鏡、そこに映っていたのはナツキ・スバルに他ならない。
ただし――、
「――――」
――ただし、そこにいたのは十歳近く若返った、幼いナツキ・スバル少年だったのだ。