第七章34 『馬車での一悶着』
ゆっくり、というほど牧歌的でもなく、馬車は街道を進んでゆく。
栗毛の巨体を揺する疾風馬は、そのたくましい図体と裏腹な繊細さで、スバルたちを乗せた馬車を丁寧にエスコートしてくれていた。
「さすが、レディならぬレイディ……ズィクルさんの愛馬ってだけある」
颯爽とした疾風馬の姿を見ながら、スバルはその主を浮かべてそう述懐する。
借り受けたズィクルの愛馬の名前は『レイディ』――淑女を意味する言葉とニアピンで、『女好き』のさすがの運命力だと驚かされるばかりだ。
ともあれ、そのレイディの尽力もあり、魔都カオスフレームへ向かう一行の旅は、快調にその旅程を消化している。このまま順調に進めば、四日ほどで到着できる見込みだ。
「とはいえ、到着することだけが目的じゃないからな。会いにいく九神将の前評判もだけど、そもそも魔都って響きもおっかないし」
『魔都』と、魔を冠する都市だ。一筋縄でいくとはとても思えない。
多種多様な種族のサラダボウルとは聞いているが、それだけで『混沌』と『魔』を冠した響きの都市として扱われることがあるだろうか。
謀反ばかり起こす『九神将』が治めているという点も含めて、スバルの危機意識にひたすら訴えかけてくる印象しかない。――それも、レムを同行させなかった一因だ。
「いったい、どんな混沌が待ち受けてるやら……」
「混沌って響きであれなんだが、オレの頭がいまだに混乱してるぜ。その格好と、オレの知ってる兄弟がなかなかちゃんと重なんなくてバグっぽくなってる」
「あ? まだそんなこと言ってるのかよ」
広い馬車の前席、軽快に走るレイディの後ろ姿を窓から眺めていたスバルが、風になびく長い黒髪をそっと手で撫で付けながら振り返る。
その仕草に呆れたように顎を上げるのが、馬車の最後尾に座っているアルだ。
だらしない姿勢で三人掛けの席を占有しているアルは、兜の顎の部分に指を引っかけ、上げた顔に下を向かせると、
「絶対わざとだろ、それ」
と、スバルの挙動に苦々しい声音でそうぼやいた。
そんなアルの拒絶感の強い声に、スバルは心外さを覚えながら肩をすくめる。意外なことに、レムの次ぐらいにスバルの女装に物申してくるのがアルだ。
アベルやシュドラクのみんな、オコーネル兄妹やズィクルも一度受け入れたあとは自然と流してくれたのに、ちくちくと言い続ける始末である。
「俺を応援するって言ったのと同じ舌で文句をつらつらと……あの神妙なやり取りは全部嘘だったのかよ」
「嘘じゃねぇし、兄弟に力貸すって判断も本物だがよ、それとこれとは話が別だろ。なんで協力体制とイコールで、兄弟の女装にも好意的になんねぇとなんだよ」
「味方なら、ひとまずありのままの俺を認めてほしい」
「その装った状態がありのままに兄弟ってことでいいの? マジで?」
改まって言われると、さすがのスバルもそれはおこがましい気がしてくる。
ナツキ・スバルとナツミ・シュバルツ――二つの名前が宿った肉体は共通でも、その在り方や立ち方というものには明確な違いがあるのだ。
言ってしまえば、ナツキ・スバルは地に足の着いた自分で、ナツミ・シュバルツはふわふわと描かれる理想像といったところだろうか。
「もちろん、女になりたいわけじゃない。自信とかそういう話だ」
「聞いてねぇけども!」
声を大にして反論されながら、スバルは自分の体を見下ろし、認識を改める。
現在、ウィッグと化粧によって再現されたナツミ・シュバルツだが、踊り子を装っていたときと違い、今後求められる役割はもっと知的なものだ。
故に、衣装やメイクもその印象に寄せる方向でまとめさせてもらった。
赤を基調とした襟付きの装いは、ヴォラキア帝国の将校服――ズィクルの着用していたものを参考に、同じような意匠を施した一点ものだ。動きやすさを重視し、マントは必要な場面以外では羽織らないが、なかなかハッタリが利いていると自負している。
下はズボン、足元にはごついブーツ、そして頭を飾るのは鳥の羽根のついた軍帽。
これこそが、『女軍師』ナツミ・シュバルツの完成図である。
「まぁ、女軍師ってよりは女軍人寄りかな。軍装の女の人って言えば、男装してるのがお約束だろ?」
「女装してる兄弟が男装って、もう字面で見てもオレの混沌が深まる一方だよ」
「あまり悪目立ちするのも避けたいから、帝国風のまとめだ。男装だから、ちょっとクルシュさんのテイストにも力を借りた」
「その、これまでの出会いからヒントをもらった的な表現、言われた公爵さんが喜ぶかちょっとオレには未知数すぎてわかんねぇな……これ、おかしいって思ってんのオレだけなのかね。皇帝さんはそこんとこどうよ?」
コンセプトを説明するスバルに、アルがお手上げと右腕を掲げる。そのまま、アルは上げた右腕を正面に向け、前の席の人影に水を向けた。
馬車の中ほどの席、つまりはスバルとアルの会話に延々と挟まれる位置にいるのは、険しい表情で窓の外を眺めているアベルだった。
何やら難しい顔で思案を巡らせていたらしき彼は、アルが口にした不用意な呼び名に眉を震わせ、振り向かないままに「道化」と冷たく言い放つ。
「そのような呼び方を貴様に許した覚えはないぞ。その不用意な一言が帝国の存亡を揺るがすと心得よ。さもなくば、もう片方の腕もなくすだけに済まぬ」
「うへ、勘弁してくれよ。そこそこ慣れたが、不便は不便なんだぜ。これでもう一本もなくなったら、不便どころの話じゃなくなっちまう」
「ならば、弁えることだな」
「へいへーい、帝国流ってのは冗談も笑えねぇ。オレたちみたいなコメディアン体質には辛いもんだぜ。なぁ、兄弟」
「同意を求められても困る」
冗談や軽口が一切通じず、ピリピリと張り詰めた空気はどうかと思うが、それがお国柄の問題だと帝国批判をするまでのつもりはスバルにはない。
せいぜい、個人としてアベルを付き合いづらい相手と認識する程度だ。それも受け答え自体は軽妙なので、表層で感じたことのない不満ではあった。
無論、信条や価値観の問題に触れるとそれだけに留まらなくなるのだが。
「で、兄弟の格好、アベルちゃんはどう思ってんのよ」
「――――」
一瞬、改めた呼び名にアベルの眉間を皺が過った。
命知らずなアルの距離の詰め方にスバルもギョッとしたほどだったが、アベルはしばしの沈黙のあと、その不敬を「ふん」と鼻を鳴らして黙殺する。
「皇帝さん」と呼ばれるよりはマシ、という判断だろうか。アベルの勘所がわからず、スバルは内心のひやひやをため息で堪える。
その間、アベルは改めてアルの問いに答えるべく、スバルの方に視線をやり、
「確かに馬鹿げた格好だが、成果を出せば俺はとやかくは言わぬ。能力と、そのものの趣味嗜好とは切り離して考えるべきものだ」
「俺のフォローと見せかけて背中から撃つんじゃねぇよ。趣味嗜好じゃなく、必要に迫られてって何度言わせんだ。俺が好きで女装してると思ってんのか?」
「――――」
「黙るなよ!」
意味深に黙られたせいで、スバルにかけられた疑惑が不当に色濃くなる。
当然だが、スバルにとっては心外極まりない認識だ。しなくていいのなら、女装なんて金輪際したくないとスバルは思っているのだから。
ただ、それで状況を打開できる可能性がわずかでもあるなら、どうしても選択肢として女装を外すことができない。ただそれだけのことだった。
「どいつもこいつも……ちゃんと理論武装してるだろうが、聞けよ」
「理論武装って言っちゃったじゃねぇか。ま、確かにお約束っちゃお約束だよな。玉座を追われた皇帝が、それを取り戻すために協力者を募る……そのテイストなら、付き従う謎の女ってポジションはいて当然だし」
「ああ、だよな。軍師とか魔法使いとか、そういうポジションはこの手のお話だと何かと登場するヒロイン……ヒロインではねぇよ!」
「自分で言ってて自分で怒んなよ。オレはともかく、みんなが驚くだろ」
憤慨するスバルだが、その意図は同郷のアル以外には通じまい。
そもそも、同郷でも通じないものの方が多い構文ではあった。それさえ通用するあたり、以前から思っていたが、アルの有する知識はスバルとかなり近い。
「……いつの時代から飛ばされてきた、とか掘り下げて聞いたことなかったけど」
これまで、スバルはアルと同郷であると情報を共有しても、お互いがいつの時代から飛ばされてきたのかなんて話はしたことがない。
以前、アルは今から二十年近く前に異世界に召喚されてきたのだと聞いた。
それでひどい目に遭い、片腕を失うような憂き目にも遭ったのだと。
告白自体は軽々しいものだったが、実態がそんな浮ついたもののはずもない。
アルが抱え続けた苦悩や絶望、それが絶え間なく日々にまとわりついたはずだ。自分より、よほど異世界の過酷さに苦しめられてきた男、アル。
語らえば、自分が彼と比べてどれだけ恵まれていたのか実感する。
それと同時に、自分とアルとで何が違うのかと煩悶することにもなるだろう。
それが怖かったから、スバルはこれまでアルと深い話をしようとしてこなかった。アルもまた、それ以上踏み込んでこようとしなかったのだ。
しかし、使われる言葉や通じるサブカルネタのことも考えると、スバルとアルが暮らした元の世界は同年代――二十年前の召喚なら、当時の年齢も同年代のはずだ。
今のスバルとアルの年齢差は、召喚された異世界の時間に左右されたものに過ぎない。だからこそ、年齢差があっても彼とは会話の波長が合うのだろう。
――彼と接していると感じる、ぼんやりとした疼きはそれが原因と思われた。
「――お約束っていやぁよ」
「え?」
「皇帝の傍に怪しい魔法使い……ってのもお約束じゃね? そこんとこどうよ」
思考が横道に逸れていたスバルを、アルの軽口が現実に引き戻す。
目をぱちくりとさせ、スバルは彼が言うところの『お約束』に「ああ」と頷いた。
「確かにお約束だ。妖しげな女魔法使いが皇帝を篭絡して、ゆっくりと自分の意のままの人形にしていく……そして、繁栄を誇った国は崩壊へ」
「勝手に崩壊させてくれるな。どうあれ、この手に取り戻す。ただ――」
「ただ?」
「魔法使いでも女でもなかったが、『星詠み』と呼ばれるものがいたのは事実だ」
「――『星詠み』?」
アベルの口から告げられた単語に、スバルとアルの疑問の声が重なった。
重複
聞いたことのない単語だが、不思議と頭の中で文字の見当はついた。そうして字面が当てはまると、その役割もぼんやりと思い浮かぶ。
「もしかして、風水師とかそういう類の……占い師みたいな立場?」
「ってより、預言者の類なんじゃね? 王国でも、石板がその役割だったしよ」
「ああ、『竜歴石』とかいう……」
アルの言葉に納得しつつ、スバルは王国に伝わる予言板の知識を引っ張り出す。
実物は見ていないが、その石板にはルグニカ王国に訪れる未来の出来事が記されているらしく、その問題の解決法も示される便利なアーティファクトと聞く。
ただし、ルグニカ王族の病没を予期しておきながら、石板が対処法として提示したのは次代の国王の選定――すなわち、エミリアやプリシラが参戦する王選の内容だった。
正直、ありがたい予言板という話にも首を傾げる成果である。
「本気で王国を救うための助言をするなら、そもそも病気の治し方とか止め方を教えろよって話だからな……」
王選候補者の騎士として見識を深める中でわかったが、ルグニカ王族は専横的な振る舞いや暗愚な部分もなく、少なくとも人々に愛される王族であったらしい。
臣下や王国民の多くが彼らの死を悲しみ、喜んだものはいなかった。――『竜歴石』がどうして彼らを見捨てたのか、それは依然、謎に包まれている。
「相手が石の板じゃ、答え合わせなんてのも夢のまた夢だろうし」
「と、相手が石板ならそうだが、『星詠み』ってのは違うんだろ? そいつ、宮中でどんな役割だったのよ、アベルちゃん」
「――。貴様らの認識からそう遠くはない。『星詠み』の力は帝国を維持するため、明日を覗き見るものであったからな」
問いかけへのアベルの答えは、おおよそ『星詠み』の名前から感じ取れる印象と相違ないものだった。にも拘らず、問題があるとすれば一つだ。
「……でも、予知できてないじゃん。お前、追い出されてるわけで」
「言ったであろうが。『星詠み』の力は帝国の維持のためにある。――それは必ずしも、俺の無事と両立するものではない」
「それって……お前が追われた方が帝国のためってことになるぞ」
「少なくとも、『星詠み』はそう判断したということであろうよ」
淡々と答えながら、アベルが静かに腕を組む。
石板と『星詠み』、似通った役割を持つモノが、それぞれの国の最も尊いはずの立場にあるものの窮地を見過ごしたと、そうとも取れる状況だ。
王国と帝国とで、何らかの関連性を疑いたくもなるが――、
「それ以前に、宰相と右腕と予言者に見限られてるお前に問題がある気がしてきた。本当に皇帝の座に戻して大丈夫か、お前」
「おいおい、そりゃ火の玉ストレートすぎるぜ、兄弟」
「いやだって、この周辺事情聞いたら不安にならないか!?」
「けど、あれだ。アフロ将軍はアベルちゃんのこと認めてたじゃねぇか」
「ああ、そっか。なら大丈夫か……」
アフロ将軍ことズィクルの名を出され、スバルは静かに納得する。
あれこれと心配させられたが、ズィクルがアベルに味方しているのは安心要素だ。逆を言えば、ズィクルなしで疑心を抱えたままアベルに付き合えたかは甚だ怪しい。
いくら自分とレムが無事に王国に戻るためでも、帝国がどうなってもいいわけではない。
正直、いい思い出よりも悪い思い出の方がよほど多い帝国だが、『シュドラクの民』のみんなやオコーネル兄妹と、幸せになってほしい人たちも大勢いる。
「そこにお前を含めていいのか、だいぶ不安になってきたが……」
「貴様がなんと言おうと、『星詠み』が明日に何を見ようと、俺の答えは決まっている」
「――――」
「『星詠み』が、玉座に俺を置いておけぬと判断したとしても従えん。俺がいることで帝国が滅ぶと『星詠み』が詠うなら、俺がこの手でそれを覆すのみだ」
淡々と、というにはいささか熱のこもったアベルの宣言。
それは幾度となく、玉座を奪還すると言い放ったときと同等の熱を孕んでいる。それがアベルの譲れぬ一線であり、揺るがぬ一心でもあるのだろう。
それがただの復讐心や反骨心ではなく、もっと大きく純粋な信念によるものだと感じられるから、スバルも最後の一線でアベルを疑わずに済む。
それ以外の、もっと周りの部分も飾り付けて、信じさせてほしいのが本音なのだが。
「――あ! みんなー! ちょっとちょっと前見て、前~!」
「うん?」
ちょうど話が一段落したタイミングで、不意に馬車の前――御者台の方から威勢のいい声が届いて、スバルたちの注意がそちらに向く。
溌溂とした声を上げるのは、御者台でレイディの手綱を握っているミディアムだ。
フロップとの二人旅では、なかなか手綱を握らせてもらえなかったらしい彼女は、自分から率先して「やりたい!」と御者を買って出てくれていた。
そのすらりとした長身を御者台に収めたミディアムが、片手に手綱を握り、もう片方の手で進路の先を指差しながら、
「なんか前の方でわちゃわちゃしてるのが見えるよ! ナツミちゃんも見える?」
「ええと……豆粒よりも豆粒みたいなのが見える、かも」
馬車の窓から身を乗り出してみるが、ミディアムの言う「わちゃわちゃ」とやらの確信が持てない。角度の問題か、あるいは単純に視力の問題だろう。
スバルも目がいい方だと思っていたが、異世界だとそれも形無しだ。
異世界人の目の良さは次元が違う。たぶん、エミリアも視力5.0くらいありそうだ。元の世界でも、アフリカの人は視力が桁外れにいいなんて番組を見た気がする。
その観点で言えば、異世界アマゾネスの一人であるタリッタの視力には期待が持てる。
「そんなわけで、タリッタさんはどう? 見える?」
「待ってくださイ、あれハ……」
スバルの呼びかけに答えるタリッタ、彼女の姿は馬車の中にも御者台にもない。
窓から身を乗り出したスバルが声をかけたのは、どこであろう馬車の上だ。走る馬車の屋根に位置するタリッタ、彼女はそこから全方位を警戒する物見役を果たしていた。
「人が当たり前に屋根の上にいるのって、なんか落ち着かないのオレだけ?」
「アベルはわからないけど、俺はうちのガーフィールで慣れてるから」
馬車の上で仕事をしているタリッタに言及するアルだが、同じ役割をしたがったガーフィールが身近なスバルは、それに特に違和感はない。
わりと真面目に、異世界では移動中の警戒も欠かせないのだから、ただの中二病以上にちゃんとした効果を発揮もするだろう。アベルが止めないのがその証拠だ。
「……どうやラ、帝国兵が集まっているようでス。前をゆく牛車などが止められているように見えますガ」
「それって……」
「――検問か」
タリッタの報告を受け、事情を察したアベルがそう呟く。
検問と、そう言われたスバルの脳裏を過ったのは、グァラルの正門で行われていたものだ。ただし、街の入口ではなく、街道の途中で行われる検問というのが引っかかる。
都市の出入りをチェックするのは自然な流れだが、街道で行われる検問は何らかの異変に際したもの、という印象が際立つからだ。
早い話、彼らは特定の何かを探している可能性が高いのではないかと。
「まさか俺たち? アラキアにも逃げられたし、それで色々広まった?」
「当然、いずれはアラキアから子細が漏れることは避けられまい。だが、あれがこれほど早く的確に動けるとは思えん。加えて、魔都は帝都とは反対の方角だ」
「位置関係的には、報告がいかない?」
「そうだ。――とはいえ、連れの問題があるな」
腕を組んだ姿勢のまま、アベルがアラキアではなく、その同行者を懸念する。
アラキアの同行者とはすなわち、彼女をグァラルから連れ出した人物だ。
「アラキア嬢ちゃんを引っ張ってった奴か。あの状況で大胆不敵に敵地真っ只中に乗り込んでくるような奴だし、切れ者って線はあるだろうな」
「切れ者……」
アベルの懸念とアルの指摘、それらにスバルは嫌な想像をする。
あの城塞都市にいた帝国兵に限定すれば、『切れ者』の心当たりがスバルにはある。そして、スバルにとって恐怖の対象であるその心当たりは、都市庁舎の陥落後、投降した帝国兵の中に見当たらなかったのだ。
おそらく、都市を捨てて逃げた兵に紛れているのだと思われるが。
「まさか、な」
いくら何でも、アラキアを連れ出していったのがあの男だとは考えたくない。
因縁、どこまでも深まるなんてのは御免被りたい話だ。
「――。今は目の前の問題に集中だ。どうする? 迂回できそうか?」
「今なラ、まだ向こうもこちらに気付いていないと思いますガ……」
ミディアムとタリッタ、視力に優れた二人が先んじて見つけてくれたのだ。
道の先の兵士がこちらに気付く前なら、街道を外れて検問を避けることもできるだろう。探られて痛い腹がないなら堂々と通過するが、探られる前から痛い腹を抱えている身としては、回避以外の選択肢が持てない。
だが――、
「――待て、迂回はするな」
「ああ?」
と、街道を外れる指示をする直前、他ならぬアベルが待ったをかけた。
その制止の呼びかけに、スバルは胡乱げな目をアベルに向ける。
「迂回するなって、どうするんだよ。お前が見つかったら大変だろ」
「奴らの目的が知りたい。グァラルの陥落の件なら動きが速すぎる。俺の所在であれば、兵が何と言われて探しているのか探っておきたいところだ」
「だ・か・ら、お前が見つかったらどうするんだよ。蜂の巣をつつくような真似して、怒涛のカーチェイスに突入する羽目になるぞ」
もちろん、その場でお縄になるパターンも想定される。
馬車の人員五名の内、戦えるのはスバルとアベルを除いた三名だが、総戦力はグァラルへ乗り込んだ踊り子部隊とそう大差ない。馬車を走らせる逃走劇へ突入した場合、だだっ広い街道で敵を撒くのも至難の業だ。
「条件が悪すぎる。それとも、何かいい手があるのか」
「ある。――貴様だ」
「へ?」
リスクとリターンを天秤に載せ、分が悪いのではと考えるスバルが唖然とする。
今、危険な賭けに挑むための勝算について話をしていたはずなのだが。
「そこで出てくるのが俺って、どういうこと?」
「すでに城塞都市での前例がある。馬車は軍のものとわからぬよう偽装されたものだ。事前に取り決めた通りであろう」
「けど、それは道中の世間話用の設定だろ!?」
いけしゃあしゃあとアベルが述べたのは、道中、他の行商や旅行者と話を合わせるための設定であって、注意深く目を光らせる帝国兵を誤魔化す前提ではない。
だというのに、アベルはスバルの悲鳴じみた訴えに耳を貸さず、
「俺は馬車の底部に隠れる。貴様は兵たちの口を割らせよ」
「って、待て待て待て、マジかよ!」
「兵に馬車の底部を覗かせるな。貴様も命は惜しかろう」
「なんで偉そうなのかがわからねぇ……!」
言いながら、座席から立ち上がるアベルが床に手をつく。と、座席の下の床にはうっすらと隙間があり、めくれる床板から馬車の底部スペースへ降りられる仕組みだ。
元々、二将であるズィクルの疾風馬が引くための馬車である。
外装を取り換え、帝国軍所縁のものとわからないよう偽装してあるが、その機能まで封じたわけではない。位の高い人物が利用することを前提とした馬車には、有事の際に隠れるため、床板が外れる仕掛けが施されているのだ。
まさか潜むのが皇帝になるとは、馬車の職人も想像の埒外だろうが。
ともあれ、床板をさっさとめくり上げると、アベルはその狭いスペースに自らの細い体をねじ込んでいく。本気で、以降はスバルに委ねるらしい。
豪胆というよりも、傲慢だ。
「やれやれ、アベルちゃんも強引なもんだ。とはいえ、やるしかねぇな、兄弟」
言いたいことだけ言って、さっさと引っ込んだアベルへのアルのコメント。その後の彼の言葉は、馬車の進路上にある検問の反応を見てのものだ。
どうやら、あちらにもこちらの存在が露見したようだ。
「ナツミ、あちらも私たちの存在に気付きましタ」
「じゃ、いくしかないっぽいよね! よーし、がんばろー、ナツミちゃん!」
ご丁寧に、タリッタとミディアムの掛け声が迂回の選択肢を排除。ここで方向転換すれば、いかにも「馬車を検められては不都合がある」と宣伝しているようなものだ。
よって、忌々しくも皇帝陛下のお望み通りに進めるしかない。
「兄弟、準備は?」
「――ええ、ええ、わかりましたわ! よろしくってよ!」
「……切り替ええぐいな」
両手で軽く頬を叩いて、スバルは自分の中のスイッチを切り替える。
強く頬を叩いては化粧が崩れる。頭を掻こうものなら髪が乱れる。内心の苛立ちを棚上げしなくては言葉が荒れる。――それでは、帝国兵を篭絡できない。
求められる役割を果たし、期待された役目を全うする。
それこそがナツキ・スバルの――失われた信頼を取り戻すための第一歩だ。
「あら、軍の皆様、お疲れ様ですわね。いったい、どのような御用ですの?」
と、馬車を呼び止める帝国兵に対して、窓から身を乗り出したスバルは精一杯、可憐で魅力的な笑みを浮かべ、朗らかに手を振ったのだった。
△▼△▼△▼△
――馬車を呼び止めた帝国兵は、ミディアムとタリッタ、そしてスバルの三名の『女性』に加えて、アルしか乗せていない馬車の存在を重く受け止めなかった。
聞かれたことは一行の素性と旅の目的だ。
これについては事前に打ち合わせた通り、下級伯の令嬢であるスバルの護衛にアルとミディアムの二人が雇われ、タリッタはスバル付きの使用人の立場だ。
一応、グァラル出発前にタリッタのファッションは試行錯誤し、一目で『シュドラクの民』とわかるアマゾネススタイルからは変えさせてもらった。
現状、タリッタの装いはスバルの好みで執事風の男装となっており、アルからは「兄弟が女装の男装で、タリッタちゃんが男装……もうわかんねぇな」と絶賛されている。
ともあれ、そんな調子のスバルたちを、検問の帝国兵は怪しまなかった。
ただ、目的地がカオスフレームであると告げたときだけ、「それは……」と意味深な気後れを見せたが、彼らの中でも魔都の印象は悪いらしかった。
「あまり、魔都にいくのはおススメしないぞ、お嬢さん」
「そう言われましても、わたくしもお父様に怒られてしまいますもの。貴族とはいえ下級伯の家系……贅沢なことは言えませんのよ」
「うーん、そうか。まぁ、お嬢さんは要領もよさそうだし、心配いらないか」
「あらあら、お上手ですのね」
口元に手の甲を当てて微笑み、スバルは兵士の疑心を上品に回避する。
概ね、検問の突破に問題はなさそうだ。あとは――、
「それにしても、ずいぶんと物々しいですけれど……何かありましたの?」
「いやぁ、大したことじゃない。最近、北のバドハイム付近で起こった小競り合いで脱走兵が出てるんで、それの捜索だよ。……あとは指名手配犯を探してる」
「指名手配、ですか」
その響きに、スバルは声がささくれ立たないよう注意しながら眉を顰める。
幸い、兵士はスバルの波打つ内心には気付かない様子で「ああ」と頷いた。
「この辺りで、帝都で指名手配されてる男が目撃されたって話があるんだ。五十歳くらいの、青い髪をした男って話なんだが、心当たりは?」
「――。いえ、残念ですが。でも、精強で知られた帝国兵の方々から脱走兵が出るなんて、なんだか帝国の風が乱れているのかと不安になりますわ」
「大丈夫だよ、ナツミちゃん! あたしたちがいるんだし、心配なんていらないいらない! 胸張っていこう!」
「まあ、ミディアムさんったら心強いですわ。おほほほ」
狙ったわけではあるまいが、ミディアムのあけすけな一言に帝国兵も相好を崩す。
探りを入れて怪しまれる可能性もあったが、その心配もうまく回避できたようだ。タリッタも無言で、主の言葉をみだりに遮らない執事を演じきっている。
彼女の場合、あがり症なところがあるので沈黙は素かもしれないが。
そして、女性陣を除けば最も不安視されるのが怪しい風体のアルであり――、
「いやはや、兵士の皆さんにゃお疲れ様ってなもんだ。オレみたいな半端者がだるだるっと仕事させてもらえんのも、そちらさんが頑張ってくれてるおかげだよ」
「……我々はあくまで、帝国の安寧のために仕事をしている。断じて、貴様のような惰弱なもののためではない」
「わかってるわかってるって。ちゃんと、自分の立場はわかってますよと」
そのアルも、帝国兵から侮られる無礼者ムーブを完璧にこなした。
素なのか演技なのか、判断のつきづらいところではあったが、要領がいい。隻腕のアルを護衛に雇う不自然さも、スバルの方で先んじて潰しておいた。
「護衛として雇ったと、そういう名目がなくては格好がつかないでしょう? あの方の腕、きっと以前はお国のために働いた兵士のお一人だったんですわ」
「……負傷を理由に職を辞したなら、我々が言えることはない。ただ、邪心がないとも限らないから、十分に気を付けるように」
アルの隻腕を弱味ではなく強味として扱い、軽薄な態度の根拠を補強する。
惰弱を嫌い、強者を尊ぶ発想の帝国兵にも、癒えぬ傷を理由に第一線を退いたものへの配慮はあった。
――それも含め、検問は大きな問題なく乗り越えられたのだった。
「いやぁ、ナツミちゃんったらさすがだったね。あたし、感心しちゃったよ!」
遠ざかる帝国兵に御者台から手を振りながら、ミディアムがそう称賛してくれる。そんな彼女の言葉に、スバルは「いえいえ」と首を横に振り、
「わたくしなんて大したことは。もしも、もっと差し迫った理由で検問をしていたなら、切り抜けるには色々と手練手管を駆使する必要があったはず……そういう意味では、わたくしたち全員の運がよかったと、そうも言えるでしょうね」
「そう? だったらそうかも。あたし、あんちゃんからも運がいいってよく言われるし! あたしもそんな気するから」
「ふふ、ミディアムさんもフロップさんも、幸せ探しの天才ですわね」
頬に手を当てながら、ミディアムの気持ちのいい答えにスバルも微笑む。
と、そんなスバルとミディアムのやり取りに、馬車の最前席で疲労困憊の顔をしていたタリッタが振り返る。緊張を解かれ、安堵に胸を撫で下ろしていた彼女の意味深な視線、それにスバルは首を傾げる。
「どうされましたの、タリッタさん。何か問題でも?」
「いエ、問題はないのですガ……ナツミハ、どうしてそんなに堂々としていられるんでス? 踊り子として乗り込む計画のときかラ、思っていましタ」
「……そう、ですわね」
女装したスバルの変わり具合に関して、タリッタの感覚はなかなか慣れない。
それこそグァラルへ乗り込んだときから、女装姿との付き合いはアベルと並んで長いのがタリッタだ。それでも、彼女には不思議に見えるらしい。
ある意味、切り替え皆無でやってのけたアベルとフロップの二人――ビアンカとフローラは、天然の美貌であらゆる問題を突破した形だ。
当然だが、スバルの扮したナツミ・シュバルツにはそれだけの土台はない。
服装や化粧だけでは誤魔化し切れない質というものが、持たざるものにはどうしても生まれる問題なのだ。――それを埋めるには、努力がいる。
「だから、一生懸命に頑張っただけですのよ」
ナツミ・シュバルツの完成度は、人類が積み上げてきた美への探求の成果の一端。
もしも先駆者がいなければ、スバルの女装など学芸会ですら通用しない代物だろう。それを通用させるために、多くの先人たちの願いと努力があった。
それがあるからこそ、成立したものを無下にはできないという意識も。
「……自信があるのハ、羨ましいでス。私にはそれがなイ」
「自信だなんて……わたくしにあるのは、ナツミ・シュバルツへの信頼であって、自信とはまた別個のものなんですのよ」
「エ? エ? エ?」
「おいおい、兄弟、やめとけって。タリッタちゃんが混乱してんじゃねぇか。その考えのレベル、ちょっとオレもついてけねぇとこあるぜ?」
目を白黒させるタリッタに代わり、アルがスバルの自説に待ったをかけた。
二人が混乱するほど、難しい話をしている自覚はなかった。ただ単に、自分を信じることは難しくても、自分の中で作り上げた理想像――それなら信じられると。
「思い描くのは、常に最高の自分――ですわ」
「ワ、私には難しい考え方とわかりましタ……」
「でも、マインドセットとして結構おススメしますわよ? 憧れの方と自分を比べると、それはそれは苦しみますが……理想の自分は、思い描けますもの」
「――――」
胸に手を当てて、そう話すスバルにタリッタが軽く目を見張った。
何やら、彼女にも少なからず響くものがあったようだ。
「理想の自分ハ、思い描けル……」
と、静かに胸に留めてくれたと思われるぐらいには。
「しっかし、脱走兵はともかく、追われてる男ってのは何をやらかしたのやら。アベルちゃんの話が広がってないのは大助かりにしても、かなり大掛かりだったよな」
「さあ……五十歳くらいの青い髪の男性、その特徴に合う殿方なら大勢いそうですし、わたくしの記憶にも思い当たる方がいらっしゃるくらいですわよ?」
元の世界では自然的に発生しない青い髪だが、この異世界ではレムを筆頭に珍しいというほどではない発色として見受けられる。
先ほどの検問での手配犯も、例えばグァラルで一度手を借りた大酒飲み――ロウアンという傭兵も、その特徴に当てはまった。
残念ながら、ロウアンの実力披露はトッドの奇襲によって不発に終わったが、真っ当に戦えれば相当の実力者だったとはスバルも思っている。
とはいえ、帝国兵を大勢動員されるほどのお尋ね者とも思えない。ので、似通った特徴の何者かが追われている、という話だったのだろう。
「いずれにせよ、まだアベルの事情は一般兵には伝わっていない……帝都の混乱がない以上、影武者が皇帝を代行していると考えてよさそうですわね」
「いいのか悪いのかって感じの話だな。正直、皇帝不在であれやこれやと騒ぎになってた方が、オレたちには都合がよかったんじゃねぇかとも思うが」
「一長一短、な感じはしますわね。発見された場合の扱いはともかく、アベルが探されていることの大変さは変わりませんし」
皇帝不在が公となり、帝国に混乱が生じた場合、それをスバルたちがうまく乗りこなせるかは現状未知数だ。少なくとも、まだ名乗りを上げるには戦力不足というのがアベルの認識であり、おおよそスバルも同じ意見を持っている。
そのわりに、検問を抜けようと言い出されて非常にハラハラさせられたが。
「とりあえず、検問は脱したわけだし、アベルちゃんを出してやるとするか」
「ですわね。それに文句も言ってやりたいですし」
アルの提案に頷いて、スバルは腕を組んで作り物の双丘を主張、憤慨を露わにする。
スバルの憤慨の原因は、もちろん検問を抜けるための無茶振りをされたこともあるが、それ以上に検問の最中、落ち着きなく暴れていたアベルの無謀さだ。
兵と話している間、何度も馬車の底部から雑音が響き、誤魔化すのに大いに苦労した。
最終的に、スバルが「下級伯も大変ですの……」とひもじい令嬢を装い、腹の虫ということで決着したが、エレガントなナツミ・シュバルツの評判に傷が付く暴挙だ。
「皇帝陛下にあらせられましては、ご自身の立場に自覚が足りないご様子ですわね」
「おうおう、兄弟、怒ってんねえ。ま、さすがにあれはオレも怒っていいと思うわ」
無謀な皇帝陛下に一言文句を言おうと、意気込むスバルにアルが同意。
そうして、アルが床板をめくり、現れた顔に苦言をぶつけるべく、スバルは揺れる馬車の底部を覗き込んで――、
「ちょっと、アベル、どういうことですの? あんな真似をされて、わたくしたちが誤魔化すのにどれだけ苦心したと――」
「うー!」
「うひゃああああ――っ!?」
思いますの、という苦言は悲鳴に呑まれ、スバルは飛びのいてタリッタの腕の中へ。とっさにタリッタにお姫様抱っこされるが、彼女の体幹の良さを褒める余裕もない。
現れたのは、破顔大笑したアベル――ではなく、金色の髪をした幼い少女だった。
その少女には見覚えも、そして悪しき記憶も十二分にある。
それはいてはならない少女、ルイだ。
帝国でのイレギュラー代表、ルイ・アルネブが床下から元気よく飛び出してきたのだ。
「な、な、な、な……」
「あー、うー?」
「なんで! なんであなたがこの馬車に……」
「――どうやら、床下にずっと潜んでいたらしい。よもや、ここまで誰も気付かぬとは。おそらくはウタカタあたりの仕業だろうよ」
目を白黒させ、あわあわと声を震わせるスバル。そのスバルの疑問を引き取り、ルイに続いて底部から姿を見せるのはアベルだ。
彼は汚れた旅装の埃を叩き、盛大に乱れた黒髪を手櫛で整える。それから、なおもタリッタに抱き上げられたままのスバルにルイがにじり寄るのを見て、
「ふん。よほど貴様が恋しかったと見える。ウタカタや貴様の女よりも、貴様といることを選んだということだからな」
「な、何を平然と……あなたこそ、一緒に床下で大丈夫だったんですの?」
「大丈夫なはずがあるか。不必要に底部で暴れられ、さしもの俺も肝を冷やしたぞ。その娘が理由で兵に気付かれ、何と言い逃れたものかとな」
床板を閉じて、席に戻るアベルの言葉にスバルの中で合点がいく。
帝国兵が馬車を検めている真っ最中、散々スバルの心を逸らせた大騒ぎ、あれの原因が他ならぬルイの存在だったらしい。
おそらく、馬車の底部に潜んでいたルイが、隠れるために下りてきたアベルにじゃれついていたのだろう。アベルがどんなあやし方をしていたか不明だが、どうやら彼には子どもをあやす才能はないらしい。
「だったら、あなたっていったい何ができますの……?」
「どこまでも俺に不名誉な話をしているが、それをどうする」
「どうするって……」
「言っておくが、今さら引き返すような真似はできんぞ。あの検問も、時間もそれを許さぬからな」
「まぁ、それはアベルちゃんの言う通りだわなぁ」
被っている兜の継ぎ目に触れながら、アルがアベルの言葉に首肯する。
その間、スバルはタリッタに床に下ろしてもらい、自分に「あうー」と笑いながらすり寄ってくるルイの額を押さえ、苦悩していた。
「なんでこんなことに……」
なったのか、と混乱と困惑が頭の中を渦巻いている。
他方、ここにルイがいることで芽生えた安堵――グァラルに残したレムの傍に、この不安要素を残さずに済んだと思っている部分もあった。
もちろん、スバルの方についてこられても、何を企んでいるのかというルイの本性への警戒が薄れることは決してないのだが。
「スバル、どうすることもできませン。ルイはこのまま連れていくしカ」
「タリッタさんまでそう言いますの?」
「アベルの言う通リ、今から引き返す選択肢はないでス。でモ、ルイを置き去りにすることもできなイ。あなたとルイが複雑な関係なのはわかっていますガ……」
「――――」
スバルとルイの顔を交互に見ながら、タリッタがおずおずと中立の意見を出す。
グァラルへの潜入任務に加え、一緒に『シュドラクの民』の集落で過ごした時間もある。レムほどでないにしても、シュドラクの大多数はスバルがルイに対して抱いている警戒心や敵愾心、その存在を知っているのだ。
それを踏まえても、ルイを置き去りにする選択肢はないとタリッタは言っている。
そして悔しいことに、それはスバルも同意見だった。
「これを放置して、何も知らない方々に迷惑をかけるわけにいきませんもの……」
「うー?」
首を傾げ、何もわかっていない顔のルイ。
現状、ヴォラキアへ飛ばされて以来、ルイがあの悪辣な『暴食』の大罪司教としての顔を見せたことは一度もない。だが、それが今後もないとは限らないし、その本性が現れたとき、生じる被害はスバルの責任だとも思っている。
スバルには、彼女が危険な存在であるという確信と、多くの被害が生まれるのを未然に防ぐだけの機会が無数にあったのだ。
それこそ、今この瞬間にも彼女の細い首を絞め、未来を絶ってしまえばいい。
たったそれだけで、多くの不安の種が芽吹かずに枯れ果てることになる。
なのに――、
「――――」
「やれやれ……なんだかよくわからねぇが、その嬢ちゃんは兄弟に懐いてんだろ? この先、足手まといになるかもってのもわかるが、それも考えよう使いようじゃねぇか?」
「アル……」
言いながら、アルが懊悩するスバルの決断を手助けしようとしてくる。
彼は気軽な調子で馬車の床を踏み、スバルの傍らに立つルイに歩み寄った。そして、その少女の金髪をいただく頭をそっと撫でようとし、
「子どもが一人いりゃ、また同じような検問があっても目を逸らしやすいかもだ。案外、子連れ旅も悪いもんじゃ……痛ぇっ!」
「がうーっ!」
アルの手が頭を撫でる寸前、文字通り、ルイがいきなり牙を剥いた。
大口を開けたルイが、アルの伸ばした手に思い切り噛みつく。悲鳴を上げたアルが手を引くと、ルイは獣のように唸りながらスバルの後ろに隠れた。
懐かない野良猫が餌をくれようとした相手を噛むような、恩知らずな行いだった。
「うおお、クソ痛ぇ! フォローしようとして損した!」
「や、やりやがりましたわね……! やっぱり、そうやって他人を食い物にするのがあなたの手口というわけでしたのね!」
「うー! あー! あーうー!」
「あーとかうーとかじゃわかりませんわ!」
スバルの腰にしがみついて、頭をぶんぶんと振っているルイ。スバルはそれを引き剥がそうと苦心するが、コルセットがきつくてうまく身じろぎできない。
幸い、スバルにはアルが誰なのか『名前』がわかるし、アル自身も『記憶』を奪われて自分を見失ってはいないようだ。だが、被害確認はこれから――、
「――落ち着いてくださイ!!」
「ひゃぁんっ!?」
「うー!?」
スバルとアル、二人がバタバタと騒がしくなると、つられてルイも癇癪を起こしたようにうるさく喚き始める。
それを遮るように、声を高くして割って入ったのはタリッタだ。
彼女はルイの脇に手を入れて少女を抱き上げると、スバルとアルを姉によく似た目力の強い瞳で真っ直ぐに射抜いた。
「大の大人が、子ども相手にみっともないですヨ! もっト、落ち着いた大人として振る舞ってくださいませんカ。小さい子が真似をしまス」
「う、く……で、ですけれど、タリッタさん、その娘は……」
「でもではないでス、ナツミ。あなたとこの子の関係が複雑なのはわかっていまス。だとしてモ、わあわあと騒いでどうするんですカ」
正面からそう叱責され、そのシンプルな内容がスバルには一番応えた。
子ども相手に大人げないと言われれば、その正論に勝てるものがどれだけいようか。ただし、そんな可愛い理屈が通用しないのが大罪司教だ。
ルイ・アルネブの危険性を知れば、タリッタもきっと意見を――。
――ならば、今ここでルイの正体を皆に告げればいい。
「――――」
自分の胸の内、そこから響いてきたどす黒い感情に喉が詰まった。
そうして頬を強張らせたスバルに、タリッタやアルが訝しむような反応を見せる。
結局、全てはスバルの曖昧な決断力が招いた事態だった。
スバルがルイに抱いている警戒心、それを理解してもらうためには、ルイが『暴食』の大罪司教である事実を打ち明けるしかない。『記憶』と共に魔女教への警戒心もなくしてしまったレムと違い、この場の面子にはそれで脅威が伝わるはずなのだ。
彼らも事の重大さを知れば、ルイを見た目通りの子どもとして扱うようなことをしなくなるだろう。そして、不穏分子を取り除くために――。
取り除くために、どうするのか。
「――――」
「うー?」
タリッタに抱えられたまま、ルイがスバルの視線に首を傾げる。
スバルとアルがうるさくするのをやめれば、ルイも同じように一気に落ち着く。これまでの時間でわかったが、ルイが騒ぐのは彼女の周りがうるさいときだ。
周りが落ち着いていれば、ルイも一人でやたらと騒ごうとはしない。ウタカタと相性がいいのも、彼女が例外的に落ち着いた童女であるからだ。
その姿も、ルイ・アルネブが周囲に溶け込むための擬態なのだろうか。
プレアデス監視塔の中で辿り着いた白い世界、あの場所でスバルに接した悪辣で救いようのない邪悪であった少女、それが装った姿なのか。
そうだと考えて対処すべきと、わかっている。それなのに――、
「――言っておくが、俺たちの目的は遊興でも遊楽でもないぞ」
なおも苦悩するスバルの傍ら、一人だけ座席にいるアベルが冷たく言い放つ。
一瞬、彼の言葉の真意が読み取れなかったスバルは、しかしすぐにそれがルイの処遇に関するアベルの意見なのだと解した。
この道行きは遊びではないと、アベルはそう言い切る。言い切って、ルイに向けられる黒瞳を覗き見た瞬間、スバルはその冷たさに息を呑んだ。
ルイを見るアベルの瞳には、一切の熱が感じられなかった。
それは取りも直さず、アベルがルイに対して何らかの配慮や温情を向ける価値を見出していない証であり、路傍の石や野花との区別をつけていない証左だ。
その瞳の熱が、ルイの正体を明かした場合の結果をスバルに理解させた。
「――連れて、ゆきますわ」
「――――」
決断した直後、ルイを見る黒瞳がスバルへと向けられる。その視線の鋭さが胸を抉る感覚があったが、スバルは奥歯を噛み、それを無意識へ追いやった。
「遊びの旅でない以上、役立つところを見せろ。……そういうことですわね?」
「ああ、構わぬ。――貴様は、そう言うだろうよ」
「……解釈の難しい評価ですこと」
それが失望的な意味なのか、それ以外の感慨なのか判別はつかない。
当然ながら、アベルはその真意を明かそうとしなかったし、スバルも蒸し返すことで違った結論になることを恐れた。
「ねえねえ、話まとまった? 終わったら、ルイちゃんもこっちおいでよー!」
「……よいですカ?」
スバルとアベルの間の張り詰めた空気を感じながら、タリッタが御者台から飛んでくるミディアムの声に応じる許可を求めてくる。
アベルはすでに我関せずであり、スバルも連れていくと決めたものの、ルイの手を取りたいわけではなかったため、彼女らの厚意に甘えることとした。
「よーし、ルイちゃん、手綱持つ? レディちん、操ってみよっか!」
「うー!」
「それはやめましょウ!」
御者台の方がにわかに騒がしくなり、ルイは女性陣二人に歓迎された様子だ。
元々、ルイに対して厳しく警戒心を抱いているのはスバルだけなのだから、彼女らの反応に意外な点はない。強いて言えば、ルイがいなくなったことで、グァラルに残ったレムがその姿を探して慌てふためいていないかだ。
「あの娘が一人で馬車に潜り込めたとは思えん。手伝ったものがいるなら、そのものが事情を明かしていよう」
「……それは、そうですわね」
スバルの表情から不安の内容を察したのか、アベルが冷たくそれを解く。
彼の言う通り、ウタカタがルイの潜伏を手伝ったなら、その情報は都市のレムたちにも共有されているだろう。
スバルとルイが一緒にいて、それがレムの不安の解消に繋がるかは疑問だが。
「居所がわからないのと、どっちがマシと思われているか……」
「――? そりゃ、兄弟が連れてる方が安心に決まっちゃいるだろうさ。って、タリッタちゃんの話だと、なんか複雑っぽかったが」
呟きを聞きつけたアルの言葉に、スバルは複雑な心境になる。
そう簡単に済ませられないのが、スバルとレム、それからルイの三人の関係だ。
「……でも、そうか」
瞼の裏にレムの姿を思い浮かべ、スバルは自分の中に言い訳を見つける。
ルイの素性の是非に拘らず、レムは少女のことを案じるだろう。いずれ機を見て事実を伝えるにしても、ルイがいなくては片手落ちだ。
だから、ルイには無事でいてもらわなくてはならない。
「兄弟?」
「いいえ、何でも……なくはありませんわね。アル、あなたにもお願いを。――どうか、ルイにできるだけ気を払っておいてくださいませんか」
「……調子の狂う頼まれ方なのはあれとして、なんでだ? あのちびっ子に何がある?」
先ほど手を噛まれた手前、アルもルイを苦手に思ったらしい。スバルからの頼みに嫌そうな声で応じ、その真意を問うてくる。
当然の質問だが、一瞬、スバルは返事に躊躇った。
アルであれば、他の面々よりもルイの素性を素直に信じてくれるだろう。
ただ、ルイが大罪司教と知った場合、アルはどう行動するだろうか。その危険性を理解し、スバルと同じ悩みを抱える相談相手になってくれるだろうか。
「――。あの子が傷付くと、レムが苦しみますの。どうか、お願いします」
「――――」
刹那、スバルは悩み、しかし他の相手と同じように事実を伏せた。
そのスバルの回答を聞いて、アルは一瞬だけ沈黙したが、
「ああ、了解。残った腕まで食われねぇか心配だが、そこはうまく付き合うさ」
そう答えて、アルはスバルの頼みを聞くように馬車の最前席に陣取った。御者台で賑々しくしている三人娘の声を聞きながら、だらしなく足を投げ出す。
彼らしい、頼みの引き受け方と言える。
「――? なんですの?」
ふと、そのアルの後頭部を眺めるスバルは、自分を見るアベルの視線に気付いた。
腕を組み、席でふんぞり返る彼は、その感情の読めない黒瞳にスバルを映して、ほんの微かに不愉快げに眉を顰めていた。
それがひどく不安を掻き立てるもので、スバルの問いも尖った声になる。
しかし、アベルは小さく「ふん」と鼻を鳴らし、何も言わない。
「……そもそも、まだ検問をうまく切り抜けた感謝も言われてませんわよ」
アベルの態度にそんな苛立ちをぶつけ、スバルは長い黒髪を撫で付けながら、アルともアベルとも少し離れた座席に腰を落ち着ける。
先行きの不安を覚えながら、魔都カオスフレームへの道のりは続く。
ただ、きゃいきゃいとルイを中心に楽しげな声が御者台から聞こえてくるのを聞いて、
「まったく、誰のせいで苦しんでいると思いますの」
と、そんな愚痴のような言葉が誰にも届かず、馬車の走る音に呑まれていった。