第七章27 『持つモノと持たざるモノ』
『生きてれば恥をすすぐ機会もあるさ。けど、死んだらそれまでだよ。ってわけだから、俺はいく。勝算のない戦いは乗れない』
その言葉に嘘はない。
勝ち目の薄い戦いに身を投じるなんてのは、信じ難い馬鹿しかやらない愚行だ。
自分が賢いなんて微塵も思わないが、賢くないからこそ慎重に判断すべきだ。賢者ならば一瞬で辿り着くかもしれない結論に、愚者なりに長く時間をかけて辿り着く。
それが、持たざるものの戦い方だとトッドは知っている。
勝ち目のない戦いには乗れない。
しかし、それは逆説的に言えば――、
「――勝ち目のある戦いには乗る、って話で間違いないわけなんだが」
右目の前に握り拳を持ってきて、わずかに作った隙間から向こう側を遠見する。
見える範囲を狭めることで、より遠くを見る原始的な手段。目を細めればかなり遠くまで見えるトッドの目だが、燃える旗だけならいざ知らず、さすがに混乱の都市庁舎内で何が起こっているのかまでは見通せない。
だいぶ風通しのよくなった状況であろうと、だ。
「オイ、都市庁舎の屋根がなくなってんぞ! 何が起こってんだ!」
すぐ横で、高まったやる気を持て余している獰猛な連れがぎゃあぎゃあ騒いでいる。
やかましくて集中が乱れるが、手を振って黙っていろと指示。何が起こっているかについては、こちらでも真剣に吟味中だ。
「『九神将』が乗り込んだのは間違いないはずなんだがな」
そうでなくては、敵の手に落ちた城塞都市に踏みとどまった意味がない。
前述の通り、都市庁舎が敵の策で落とされた時点で、トッドは都市を捨てて逃げるつもりだった。お行儀よく武装解除に従い、投降するつもりもない。
そもそも、敵の頭脳が戦争の申し子――ナツミ・シュバルツを名乗った彼である限り、トッドやジャマルのような危険因子は真っ先に排除されるはず。
投降した捕虜の私刑はヴォラキアでも敬遠されるが、彼なら適当な理由をでっち上げて自分たちを処刑するに決まっている。
少なくとも、自分ならそうする。生きるためなら、当然の配慮だ。
故に真っ先に逃亡を選択し、躊躇わずに城塞都市を捨てることにした。にも拘らず、その選択を翻して残ったのは、都市へと向かう『増援』の存在を確認したからだ。
「間違いねえ。二年前、蛮族の討伐に従軍したときに見た女だ。――『弐』の、アラキア一将だった」
閉ざされた正門を軽々と飛び越え、悠々と都市に入り込んだ薄着の女を見て、ジャマルは鼻息を荒くしてそう断言した。
野性の本能が服を着て歩いているような男だ。生物としての強さ的にも、雌を見極める雄の性質的にも、琴線に引っかかった相手のことは忘れまい。
つまり、帝国最強たる『九神将』の一人が反乱の制圧に現れた。――これは、トッドが消えたと判断した『勝ち目』に相違ない。
それも――、
「乗るか拒むか、悩む価値は十分以上にある」
ナツミの策や小細工を弄する手口は鮮やかだが、少なくとも、三度相見えた彼に直接の戦闘力はない。付き従う『シュドラクの民』も強靭さで知られていても、それはあくまで常人と比較した次元の話だ。
『九神将』を始めとした真の強者は、そういった物差しの基準にいない。
凄まじい剣技と戦闘力だけが取り柄のジャマルでも、正規の帝国兵の十人分程度の力量だろうか。それも、やはり常人を見極める物差しなのだ。
そのジャマルを容易く可愛がるのが常外のものたちであり、『九神将』はその代表格。――落とされた都市庁舎は奪還される。
「なら、勝ち馬に乗っておくのが賢い」
何も、『九神将』と連携する必要はない。
取り押さえられ、仕事のできない都市庁舎の兵よりも一将の役に立てばいいだけだ。敵の拘束や尋問、なし崩しに指揮権を得れば一将の覚えもよくなるだろう。
そうすれば上に取り立てられ、帝都へ戻る道も早々と拓けるかもしれない。
「よし、引き返すぞ、ジャマル。俺たちも都市庁舎の奪還に協力する」
「お? おお、そうか! くはは、それでいいぜ。逃げるなんて性に合わない真似してあちこち痒くてしょうがなかったからな。一将に手柄取られてたまるかよ!」
「馬鹿言え。俺たちが一将のおこぼれに与るんだよ」
方針転換に拳を固めたジャマル、死地に戻ることを喜ぶ姿勢に嘆息しつつ、トッドは彼と一緒に都市庁舎へ戻り、直接建物に乗り込むのではなく、都市庁舎の状況を確認できる位置から内情を観察した。
あくまで自分の信念に従い、慎重に慎重を重ねて、そして――、
「――殺せ、アラキア」
嵐のような風に吹き飛んだ都市庁舎の最上階と、うっすらと見える一将の蹂躙。
遠目に見える銀髪に褐色肌の『弐』は、その辺りで拾ってきたようにしか見えない枝木を振るい、世界の法則を支配しているみたいに暴れ回った。
シュドラクも帝国兵も区別なく、誰もが荒れ果てた広間に倒れている。
そんな状況下で、青い髪の少女を背にアラキアに立ち塞がったのは、他の誰でもないナツミ・シュバルツの姿だった。
「――――」
それを見た瞬間、トッドの中に浮かんだ考えは「一将の前に立つなんて馬鹿な真似を」や「これでも生きてるなんて大したもんだ」のような緩んだものではなかった。
むしろ、最大限の警戒心を張り詰めさせ、トッドは心中で声高に叫んだ。
――ここで、確実にその男を殺してしまえ、アラキア。
最悪、自分の手柄などどうでもいい。踏みとどまったことや、意見を翻すために費やした思考時間が無意味になっても構わなかった。
確実に、ナツミ・シュバルツの、戦争の申し子の息の根が止まれば。
それが――、
「……おいおい、冗談だろ」
アラキアがナツミを殺害する瞬間、その決定的な刹那を見逃すまいと集中する視界の上部、何かが閃いたかと思った直後、トッドの切望が打ち砕かれる。
閃いた赤い煌めきが、ナツミとアラキアの間に割って入った。
それは堂々とアラキアと向かい合い、絶対の強者としてナツミを庇護すべく背に庇う。それを見た瞬間、トッドの中の天秤が大きく傾いた。
「今、空から降ってきたのはなんだ!? 飛竜か!? どこの飛竜だ!?」
「――――」
「聞いてんのか、トッド! オレたちはどうする! アラキア一将を援護すべきじゃねえのか! おい! 聞いて……」
「――黙れ、ジャマル」
状況の変化に声を荒げるジャマルが、そのトッドの一言に息を詰めた。
ジャマルの方に視線を向けず、トッドは都市庁舎の光景から目を逸らさない。現れた紅のドレスを纏った女は、正面からアラキアと対峙している。
一目でわかった。――あの女もまた、常人とかけ離れた『持つ』側のものだと。
そして、絶体絶命と思われた状況で自らの命を拾ったナツミもまた、戦闘力や運動力とは別の形の、『持つ』ものであるという事実を痛感する。
「――――」
赤い女が割り込む前なら、アラキア一人で十分お釣りが返ってきた。
しかし、状況は変化し、決着が見えなくなる。傾いた天秤をこちらへ傾けるのに、トッドとジャマルという重石だけで足りるだろうか。
「トッド……!」
「動くな、ジャマル。――動いてもどうにもならん」
あったはずの勝算は消え、トッドの見守る間に状況はより悪くなる。
にじり寄るジャマルの怒りは承知しているが、今出ていっても無駄死にだ。
なにせ――、
「ちょうど今、アラキア一将がやられたところだからな」
赤い女の刃を背中に浴びて、アラキアは為す術なく倒れ伏した。
傾いた天秤は壊れ、もう反対側に傾くことなど二度となかった。
△▼△▼△▼△
「――――」
アラキアが倒れ、都市庁舎の事態は終結。
今度こそ完膚なきまでに、城塞都市グァラルは敵の手に落ちたと言えるだろう。
ここから挽回する方法などない。よもや、『九神将』の『弐』が派遣されてきたというのに、立て続けに他の援軍が駆け付けるはずもない。
『九神将』とは一騎当千であり、ヴォラキア帝国の武の頂点だ。
『九神将』が動くのは大軍を動かすことと同じであり、一つの事態に大軍を二つも三つも送り込むような差配は行われない。これで打ち止めだ。
天秤は傾き切った。あとはもう、反戦処理の方法だけだ。
「どうするか、ね」
都市庁舎の成り行きを見守った建物の陰で、トッドは静かに思案する。
正直、怒りや悔しさのない交ぜになった感情で諸々が煮えたぎっているが、それを吐き出しても何の解決にもならない。
戻った理由が消えた以上、そそくさと退散するのが賢い選択のはずだ。
しかし――、
「オイ、トッド……てめえ、まさかおめおめ逃げるつもりじゃねえだろうな?」
そう言って、額に青筋を浮かべたジャマルを説得する言葉が見つからない。
当初、都市庁舎の旗が燃やされた陥落直後にも、ジャマルの説得は骨が折れた。
それでもまだあのときは、ジャマルの感情の誘導が容易い状況だった。抜きかけた剣を収め、渋々とでも従わせることができたのだ。
だが、収めた刃を再び抜かせ、舞い戻った今回はそうはいかない。もう一度、刃を収めて大人しく逃げろと言っても、彼は聞き入れないだろう。
実際、こちらの次の言葉次第では、抜いた刃の矛先をこちらへ向けかねない。
そんなことになれば、いくら何でもジャマルを殺さない理由がなくなる。――将来の義兄となる相手だ。できれば殺したくはない。
無事に連れ帰ると、交わした約束も守れなくなるし。
「その線でいってみるか」
「あぁ?」
「……お前さんの気持ちもわかる。けど、冷静になれ。アラキア一将が倒された以上、俺たちが乗り込んでも勝ち目はない。無駄死になんてして、妹を悲しませるのか?」
「――――」
家族愛を盾にして説得を試みる。
これが効けばと相手を見つめた直後、静かに伸びてきた腕に胸倉を掴まれた。そして、ぐいと顔を近付けながら、隻眼のジャマルが牙を剥く。
「てめえ、カチュアの話をすればいつでもオレが引っ込むと思ったら大間違いだぞ」
「そうか。……残念だ」
ゆるゆると首を横に振り、トッドはわりと本心から失意を告げる。
二、三発殴らせて気が済むなら殴らせてやってもいいのだが、舌打ちしながらトッドを突き飛ばすジャマルにそのつもりはなさそうだ。
直接手を下す必要はなさそうだが、彼を止める手段もない。
そのまま、トッドはジャマルと向く方向を変え、城塞都市の壁を越えようと考える。
幸い、抜け穴潰しのときに街の地理は把握済みだ。
目的は果たせなかったアラキアも混乱は作ってくれた。むしろ、アラキアがやってくる前よりも脱出は容易にできるだろう。
どうやら、ジャマルももうひと暴れして、人目を引いてくれるらしい。
「ジャマル、悪いが俺はいく。言っても無駄だろうが、犬死にになるぞ。乗り込んでいっても、奴らを殺し切ることは……」
「馬鹿か! そんなできもしねえことやらねえよ! オレは、アラキア一将を連れ出す」
「……なに?」
無意味とわかっていた感傷が、しかし思いがけない一言を引っ張り出した。
遠ざかろうとしていた足を止めて、トッドはジャマルの顔をまじまじと見る。と、ジャマルが「なんだ」と不機嫌に喉を鳴らし、
「まさか、オレが玉砕覚悟で突っ込むとでも思ってたのか」
「ああ、思ってた。てっきり、お前さんは犬死にするのがお望みなのかと」
「っざっけんな! てめえがあれこれ小賢しいこと考えてるのに乗ってやってるが、オレだって考える頭はついてんだ! できることとできねえことの区別はつく」
意外でしかない発言をして、ジャマルは本気でトッドを驚かせた。
戦働きでは見るべき点もあるが、それ以外では直情径行と素行が悪すぎて、何のために頭がついているのかわからない男だと思っていたのに。
「てめえが腰抜けの臆病者ならしょうがねえ。カチュアは男を見る目がなかった。オレは一人でも一将を連れ出す。いい尻してる女だったからな」
「――待て、俺もいく」
「あぁ!? てめえ、カチュアの尻じゃ満足できねえとでも……」
「自殺に付き合うつもりはなかったが、そうじゃないなら話は別だ」
不名誉な疑惑に取り合わず、トッドはジャマルの口を掌で封じた。強制的に黙らせ、トッドは頭の中で転換した方針に沿った行動予定を組み立てる。
本来、ぶっつけ本番で物事を進めるのはトッドの性に合わない。だが、悲しいかな、ジャマルと行動を共にするのを重ねるうち、即興の経験値も増えた。
都市庁舎奪還のためにジャマルが一人で玉砕するなら放っておいた。しかし、行動目標がアラキアの奪還なら話は別だ。
「――――」
徐々に状況の後片付けに入っている都市庁舎。
要注意すべきはナツミと赤い女、それらがいる場所で行動を起こすのは自殺行為だ。ただし、向こうも無傷で事態を収拾できたわけではない。
張り続けた気を緩めるならば、そこに付け入る隙がある。
「乗り込んでって騒ぎを起こす。その隙に乗じて一将を救い出せば……」
「さっき感心したのが水の泡だ。……警戒しなきゃならないのが二人いる。絶対にそいつらがいる場所じゃ事は起こせない。なに、心配いらないさ」
逸るジャマルを窘めながら、指の隙間で遠見するトッドは唇を緩めた。その奥にある、白い犬歯を舌先でつついてほくそ笑む。
視線の先、瀕死ながらも連れ出されるアラキアの姿がある。
死体になっていないなら、どうとでも連れ出してやる手段はあるのだから。
△▼△▼△▼△
――都市庁舎に忍び込むのは簡単だった。
元々、短い期間でも拠点としていた場所だ。
トッドは普段から、一度でも立ち寄った場所の地理や間取りを把握する習慣がある。逃げ場や隠れ場所の心当たりがないと、安心できない性格なのだ。
だから、バドハイム密林で陣地が焼かれたあと、グァラルに入ってからは都市庁舎を含め、都市のあらゆる場所に足を運び、地図を頭に叩き込んだ。
どこで殺せば人目につかず、どこに隠せば見つからないか、熟知している。
どこでどんな脅威と遭遇してもいいよう、殺し方と逃げ方は用意しておくものだ。
「ご」
都市庁舎の屋内に潜り込むと、ちらほらとある監視の目を潰していく。
歩哨として立っているのは帝国兵や『シュドラクの民』ではなく、都市の治安を守っていた自治組織の自警団だ。衛士として招集され、都市を陥落させた不穏分子――もはや、そうも呼べない立派な『反乱軍』、それに使われる風見鶏。
「てめえらに情けはかけねえよ」
両手で掴んだ歩哨の首を上下逆さにへし折り、ジャマルが苛立たしげに吐き捨てる。
帝国貴族である以上に、帝国軍人であることを誇りとしているジャマルだ。その帝国に弓引く反乱軍に協力し、敵対する衛士に対する怒りは計り知れない。
都市陥落前までは帝国兵と協力体制にあった連中なのだから、その変わり身の早さに怒りを覚えるのも無理からぬ話だ。
「まぁ、俺にはない発想だが」
殺す必要があるから殺すだけで、殺さなくていいなら殺さなかった。
早すぎる変わり身も、生き残るために強い方についただけなら責められる謂れもない。もちろん、誤った判断の報いは命で払ってもらうことになった。
そうしてジャマルと二人、邪魔な衛士を排除しながら進み、目的の場所へ。
都市庁舎の地下には牢屋があり、裁判で都市長の沙汰を待つ罪人が入れられる慣習がある。捕虜とされたアラキアも、その牢に入れられた可能性が高い。
無論、『九神将』相手では鉄の牢獄など飴細工とそう変わらないものだが、だからといって客室で歓待するわけにもいかないのが人の情だ。
トッドなら、いっそそうした可能性もあるが――、
「――いたぞ、一将だ」
下りた地下の空間には、複数の牢が広間の左右にそれぞれ配置されている。手前から順番に刑が軽い罪人が入れられる形だが、最も堅固なものは最奥の牢。
そして当然だが、アラキアの入れられた最奥の牢は厳重に守られていた。
立ち番をしているのはこれまでと違い、衛士ではなくシュドラクの女だ。髪を黄色く染めた大きな体をした女で、腕が立つのは一目でわかった。
おまけに構造上、女に見つからずにアラキアの牢へ辿り着くことはできない。
つまり――、
「ちまちまと忍び込むのもここまでってわけだ」
「……お前さん、なんで嬉しそうなんだよ」
避けられない戦いが目前にあって、嬉しそうにするジャマルの態度は理解に苦しむ。
トッドは殺しもしたくないし、できれば戦いたくだってない。どちらも避けられないなら、より楽で危険の少ない方法を選ぶ。
なのにジャマルはまるで、自分から危険に飛び込むのを楽しむような顔つきだ。
大方、より危険な方が、より血を流した方が、帝国への忠誠を示せるであるとか、そういったことを考えているのだろう。
「決まってるだろうが。帝国軍人らしく戦い、戦果を勝ち取る! そうしてこそ、オレは自分が帝国軍人と胸を張れるってもんだ」
「――――」
「はん、何を驚いてやがる」
「いや、ほぼ考えた通りそのままだったから」
ここまで言行の一致した人間というのも珍しい。
トッドの答えにジャマルは不愉快そうな顔をしたが、すぐに頭を振った。それから、彼は自分の無精髭を指でなぞり、「あー」と唸ると、
「そういや、お前こそよく考え直したじゃねえか」
「自殺行為には付き合えない。そうじゃないなら考える。別に考え直してないぞ」
「逃げようとしてたのが逃げなかったじゃねえか」
「逃げるついでに土産を持ち帰ることにしたんだよ。方針は変わってない」
「ああ言えばこう言いやがって……っ」
目を血走らせて怒りながら、ジャマルがギリギリと歯軋りする。
その様子を尻目に、トッドは彼から意識を切り離して目前の標的に集中した。
見張りをしている女は体が分厚く、手足も相応の肉に守られている。シュドラクの運動能力を考えると、トッドの斧でも手足は一発ではいかないかもしれない。
そうなると必然、狙いは首から上に絞られる。
頭を叩くか、首を断つか、顔を割るという選択肢もあるが――、
「――こういうときこそ、オレの出番だろうが」
そう言って、ゆっくりと踏み出したジャマルが馬鹿正直に前に出る。
それを呼び止めるか一瞬迷ったが、トッドは何も言わなかった。実際、ジャマルを突き飛ばして注意を引いて、その隙に動くのが最善手だ。
手間が省けて当人にやる気があるなら、それを削ぐ必要はない。
「むむっ、何者なノー!?」
「答えてやる必要があるか? てめえらはヴォラキア帝国の剣狼を汚した。オレがいなかった戦場で、勝った気になってんじゃねえぞ!」
「おかしな奴が出てきた、ノー!」
広間に進み出たジャマルを見やり、シュドラクの女が傍らの大槍を構える。一方、対峙するジャマルは双剣を抜くと、狂気的な笑みを浮かべて踊りかかった。
あれこれと問題行動の多いジャマルだが、その実力は折り紙付きだ。少なくとも、相手がシュドラクの一員という次元なら遅れは取らない。
「そらそらそらそらそらそらそらそらぁ!」
「――っ! 強い奴なノー!」
やかましい声で吠えながら、荒れ狂う双剣がシュドラクに無数に叩き込まれる。シュドラクはそれを大槍捌きでうまく躱し、しかし防戦一方だ。
アラキアを見張るため、それなりの実力者を置いてはいたのだろう。だが、牢に入れてすぐに奪還に現れるものがいるとは思ってもみなかったらしい。
加えて信頼できる兵力不足なのも、反乱軍の致命的な穴と言える。
「もっとも、そいつは今すぐ使える材料じゃないが」
舌で唇を湿らせ、トッドはジャマルに遅れて飛び出すと、激しく火花を散らしながら剣戟を交わす二人の脇を抜け、真っ直ぐに牢へと飛びついた。
「あ! 仲間が……きゃうっ!」
「余所見してる暇があんのか? あぁ!?」
珍しく気の利くジャマルに助けられ、トッドは牢の錠に斧を力一杯叩き付ける。
鍵を探す暇はない。牢を破壊もできないが、錠前ぐらいは壊せるはずだ。
鈍い音と硬い手応えがあり、斧の先端が盛大にひしゃげる。が、代わりに牢の鍵は派手に壊れ、軋む音を立てて開いた中にトッドは飛び込んだ。
「アラキア一将!」
牢内、簡易的な寝台に寝かされていたのは、うつ伏せに横たわる一人の少女だ。
同じ帝国軍に所属していても、ただの一兵卒が『将』と接する機会は多くない。三将ですら一軍の指揮官だ。二将、ましてや一将ともなれば雲の上の存在である。
故に、トッドも間近で一将――『九神将』を見たのはこれが初めてだった。
「――――」
意識のないアラキア、彼女がうつ伏せに寝かされているのは、その背中に浴びた斬撃が原因だ。その背には痛々しい傷跡が刻まれ、おまけに焼かれて塞がれている。
斬った傷口が同時に焼かれ、凄惨な傷跡となっているのだ。――熱した刃で傷付けられなければ、こういう傷はつかないだろう。
「あの赤い女、何を……」
只者ではなかった女、その手に握られていた宝剣の力も飛び抜けていたわけだ。
それ以上の詳しい情報はなく、呼びかけにもアラキアは答えない。だから仕方なく、トッドはアラキアの体を抱き上げ、そのまま牢の外に飛び出した。
「回収した! ジャマル、いくぞ!」
「やらせは……あうっ!?」
「だから! 余所見! してんじゃ! ねええええ――っ!!」
アラキアを奪われ、シュドラクの女の意識が一瞬だけ逸れた。
瞬間、女の意識の隙間に飛び込んだジャマルの一閃、双剣のそれを女はとっさに大槍を縦に構えて防ぐ。衝撃が女の腕から槍をもぎ取り、隙だらけとなった女の胴体に跳び上がるジャマルの後ろ回し蹴りが突き刺さった。
小さな悲鳴を上げ、弾かれる女の体が地下牢の壁に激しくぶつかる。強く頭を打ち据え、女はそのままぐったりと倒れて動かなくなった。
それを見やり、トッドはトドメを刺せと命じようとしたが――、
「――っ、上が騒がしくなった。衛士の死体が見つかったか」
「ちぃ、ぐずぐずしてられねえ。一将は」
「意識はないが、死んじゃいない。それで十分だろ」
ジャマルの問いに端的に答え、トッドは走って地下牢の外へ。そのトッドを軽々と追い抜いて、先行するジャマルが道を切り開く役目だ。
「いったい、誰が……ぐお!?」
「どけどけ、うすらボケ共がぁ!」
地下を覗き込んだ衛士が斬撃を浴びて吹き飛び、警戒の高まる都市庁舎をジャマルの背中を追いながらトッドも駆け抜ける。
悪いが、抱き上げたアラキアの体を気遣ってやる余裕はない。『九神将』の一人なら、おそらく体も頑丈にできているだろう。耐久力を信じて走るのみだ。
「出たぞ! どこにいく!」
「正門は閉じられる。――ついてこい」
騒然となる都市の闇夜を縫い、トッドはジャマルを連れて路地裏へ飛び込んだ。そのまま細道や横道を駆使し、行方を追ってくる敵の目をくらます。
戦いが終わったばかりの状況、混乱の冷めやらぬ戦地、おまけに同じ格好をした帝国兵は数だけなら三百人は都市にいるのだ。見分けはつくまい。
あとは――、
「――ッ!」
風切り音が聞こえた瞬間、トッドのすぐ背後で刃が振られた。
振り向けば、足下に突き刺さったのは太く大きな一本の矢。切り落とされたそれは猛烈な勢いでトッドを狙い、とっさにジャマルが対処したものだ。
都市の中、逃げ隠れするトッドたちを正確に狙った一撃。
間違いなく、数日前にトッドの胴体を射抜いた射手と同一人物だろう。
――見られている。
そうなれば、迂闊に動くことはできない。
路地を出れば的にされ、アラキアを連れているトッドは俊敏な動きも難しい。射手を殺そうとしても、角度的に敵の位置は都市庁舎――三度戻る選択肢はない。
では、アラキアを捨てて逃げるか。それが一番命を拾える可能性が高いが、だとしたら何のために危険を冒したのかがわからなくなる。
現状を鑑み、取れる手立てを探り、最も収穫が多いのは――、
「――ジャマル、狙われてるのはわかるな」
「ああ、厄介な連中だ。遠すぎてとても殺しにいけねえ。このままじゃ、一方的に狙い撃ちにされてしまいだ。どうする」
「……手は、一つしかない」
じろと、トッドの言葉にジャマルの隻眼が細められる。
献策を求めるジャマルの視線、それにトッドは深く息を吐いて、片目を閉じた。
「飛び出した途端、敵は俺たちを狙い撃ちにしてくる。お前さんに先行してもらって、さっきと同じように矢を切り落とす。一発じゃなく、二発三発と続く。俺は一将を振り落とさないよう全力で走る」
「はっ、らしくねえ。それがてめえの手か? 破れかぶれじゃねえか」
「究極、手札が尽きたらそうなるしかないって話だ。でも、俺はまだ運がいいだろ」
「あん? どこがだよ」
「お前さんって、かなり強めの手札が残ってるんだからな」
提示した作戦は、ほぼほぼジャマルの剣力に丸投げしたものだ。
ジャマルが飛んでくる矢を切り落とせなければ、その時点で二人とも死ぬ。そんな無謀に命を懸けるなんて、トッドの信念からすれば正気ではない。
しかし、そう提案する。ジャマルの剣力なら、可能性はゼロではない。
「……やっぱりカチュアは見る目がなかったぜ。もっと頭のいい奴だと思ってた」
「俺の婚約者の悪口はやめろよ、お兄様」
頭を掻いたジャマルに、トッドは頬を歪めてそう答える。それを聞いて、ジャマルは「は」と短く息を吐くと、それから双剣の柄を握り直した。
そして、そのたくましい背中をトッドに向けて、
「いいぜ、乗ってやるよ。たまには馬鹿みたいな賭けも悪くねえ」
「俺がいなきゃ、お前さんはそんな賭け事ばっかりやってそうだけどな」
「うるせえ。――てめえは黙って、オレの背中についてきやがれ」
憎まれ口を叩き合い、ジャマルは静かに意気を高める。
その背中を見ながら、トッドもアラキアの体を抱きかかえ直し、
「ジャマル、路地を出たら真っ直ぐ走れ。突き当たりまでいったら右の道だ。そこでなら、息継ぎする余裕が出てくるはず」
その指示を聞いて、ジャマルは頭の中でそれを反芻、ゆっくりと目を閉じ、それから今一度開いて、前に踏み出した。
「――ッ」
路地を飛び出した途端、豪風を纏った矢の一発がジャマルへ突き刺さる。
それを、ジャマルは驚異的な反射神経で対応し、双剣を合わせて切り落とした。衝撃がジャマルの手首に返り、噛みしめた奥歯を軋ませ狂犬のように笑う。
血が燃え、心臓が跳ね、命が沸く感覚がジャマルを支配する。
極限の集中力が世界を緩慢にし、肌を伝う汗の一滴も、舞い散る砂の一粒も、見えないはずの空気の在り方さえ感じられるような気がした。
「――ははぁっ!」
次から次へと、矢の嵐が雨のように降り注ぐ。
地面を踏みしめ、舞い踊るようにしながら剣を振るい、矢を切り払い、打ち落とす。繰り広げられるのは剣舞、ジャマル・オーレリーの剣の舞だ。
本当なら、都市庁舎に招いた踊り子の舞が明日は楽しめる予定だった。
それがご破算になり、代わりに舞うのが自分であるとはと、ジャマルは笑う。だが、渾身の舞、渾身の踊り、渾身の剣戟が振るえていた。
猛然と攻撃を捌きながら、ジャマルはトッドの奮戦にも感嘆する。
嵐のような致死性の矢が降り注ぐ中を、トッドは声も上げずについてくる。ジャマルの気が逸れれば、それが死に直結すると彼もわかっている証だ。
故にジャマルは意識からトッドを追い払い、迫る『死』の回避に全霊を注ぐ。
直進、回避、打ち払い、踏み込み、跳んで、払いのけ、切り開く。
「突き当たり――っ」
奇跡的に死の直進を終えて、指示された道の突き当たりにぶつかる。
時間の経過は曖昧で、剣の舞は数時間にも感じられた数秒だったのだろう。だが、まだ最初の関門を突破しただけに過ぎない。気が緩むことを拒みながら、ジャマルは言われた通りに突き当たりを右に折れ、そこで――、
――折れた道の先、こちらに槍を向けるシュドラクの一団が立ち塞がっていた。
「――クソ」
射手に狙われ、あの数のシュドラクを捌くことは困難だ。不可能と言っていい。
無論、力尽きるまで奮戦する覚悟だが、力尽きても何も残せない。まさか、こうも完璧に先回りされるとは、どうやら完全に運に見放されたようだ。
「あれこれと小賢しく立ち回っても、最後は運に突き放される、か。……は、空しいもんだ。けど、悪くなかったぜ」
血の滲む手の中で双剣の感触を確かめ、ジャマルは背後のトッドにそうこぼす。
悪くなかったとは負け惜しみではなく、本心だ。
色々と、トッドの考えや行動には振り回され、苛立つことも多かった。
しかし、最後には彼も帝国軍人らしく、自分の力を振り絞ることを選んだのだから。
「カチュアには悪いことしちまったが、仕方ねえ。あいつも帝国貴族の端くれだ。オレやお前がこうなることも覚悟してただろうさ」
帝都に残してきた妹を思い、ジャマルは微かな胸の疼きを覚えた。しかし、それはすぐに目前の敵への戦意に掻き消され、血の臭いが全てを塗り潰す。
そうなってホッとした。――自分は骨の髄まで、ヴォラキア帝国の剣狼だ。
「やるぜ、トッド。せめて最後に、奴らに目にもの見せてやろうぜ」
ぐっと前傾姿勢になり、ジャマルは眼帯に塞がれた右目から流れる血を舐める。
そして猛然と、帝国軍人としての最期の威信を示すべく、真っ向から敵へ飛び込む。
致命的な攻撃が嵐のように降り注ぐが、もはや何の後悔もない。
最後の最後まで自分らしくあれたことこそが、ジャマルにとって何よりの褒章だった。
△▼△▼△▼△
「……最後の最後まで、お前さんは馬鹿だったな」
遠くにジャマルの猛々しい咆哮を聞きながら、壁を潜り抜けてトッドは呟く。
通り抜けた穴は即座に潰し、追ってこられないように入念に痕跡を消しておく。しばらくは都市の中ではジャマルにかかりきりだろうから、逃げる時間はあるはずだ。
らしくない、とジャマルが言った通りだ。
破れかぶれの策に命を託すなんて真似、トッドは絶対に死んでもしない。――否、死なないためにこそ、そんな真似は絶対にしないのだ。
「路地から飛び出したお前さんを追わせれば、連中の注意もこっちからは逸れる。まぁ、カチュアには悪いことをしちまったが……」
義兄を連れ帰るという約束は果たせなくなり、婚約者はひどく胸を痛めるだろう。
そんな彼女を慰めるためにも、一刻も早く帝都に戻りたい。幸い、ジャマルを失ってしまった代わりに、帝都に戻るための別の手立ては手に入った。
それも、三将に昇格できるか危ういジャマルよりも、もっともっと大きな足掛かりに繋がりそうな鬼札を。
「……ひめ、さま」
「やれやれ、ずいぶんとあどけない顔するもんだ。『九神将』なら、それこそ殺した数は百や二百じゃきかないだろうに」
トッドの腕の中、閉じた瞳から涙を流すアラキア。その頬を伝った涙を見ながら、そういえばまた連れが眼帯をしているなと、ぼんやりとトッドは思った。
思ってから、ふとトッドは首を傾げる。
そして――、
「ジャマルの奴、顔のどっちに眼帯してたっけか……?」




