第七章25 『再会は燃える血潮の如く』
――鮮烈な、灼熱の炎のような、色濃く香る血のような『紅』の少女だった。
都市庁舎の最上階、突如として戦場と化した空間、荒れ果てた惨状の視線を独り占めにするのは、その手に赤々と輝く宝剣を手にした暴力的な美貌だ。
眩い橙色の髪、血の色をした豪奢なドレス、女性的な魅力に富んだ肢体で剣を身構えるのは、その後ろ姿からでも何者か強烈に印象付ける人物。
「――――」
絶句しながらその背を見つめ、両手を広げたスバルの思考は混乱に掻き回される。
全身の痛みと息苦しさをその瞬間だけは忘れ、空っぽの頭の中で無秩序に跳ね回るのは、『何故』という疑問の言霊だった。
何故、ここに彼女がいるのか。
何故、スバルを助けてくれたのか。
何故、アラキアと平然と対峙できるのか。
何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故と、疑問が尽きない。
尽きない疑問に支配され、時の経過を忘れるスバル。すると、そんな静止したスバルを嘲笑うように『紅』の女が鼻を鳴らし、
「間の抜けた顔じゃな。妾の高貴さに目を焼かれたか」
「――っ、頭の後ろに目でもついてんのかよ」
「たわけ。そのような奇形に妾が見えるか? 凡愚の面構えなど息遣いでわかる」
振り返らないまま、そう堂々と答える女――プリシラ・バーリエル。
ここにいるはずがない彼女の答えに瞠目し、スバルは息遣いで表情がわかるなんて馬鹿げた話を否定する言葉も出てこない。
ただ唖然と呆けるしかできないスバルの前で、ゆっくりと状況は動く。
「さて」
短く息をついて、赤い宝剣を構えるプリシラが周囲に視線を巡らせる。
突然の闖入者にひと暴れされ、すっかり見違えてしまった都市庁舎の惨状。負傷者だらけの『シュドラクの民』や昏倒したズィクルを含め、かろうじてでも動けるのはスバルと背後のレム、あとはバルコニーのアベルぐらいのものだ。
そして、それを成し遂げたのが――、
「――アラキア」
「――――」
紅の瞳を細め、プリシラが静かに相手を見据える。
その視線に沈黙を守ったのは、褐色の肌に銀髪の半獣人――帝国一将『弐』のアラキア。
ヴォラキア帝国第二位の実力者であるとされ、その看板に違わぬ実力の片鱗を見せつけた存在。彼女は眼帯に覆われていない赤い右目で、プリシラの強固な意思の込められた眼光を真っ向から受け止め――否、違った。
「ひめ、さま……」
直前まで超然と、確固たる自己の世界を維持していたアラキア。しかし、プリシラの眼光を浴び、一拍を置いて彼女の世界は崩壊した。
代わりに浮かび上がったのは激しい動揺と、同じぐらい大きな歓喜だった。
「姫様、姫様、姫様ぁ……っ」
危険な雰囲気を霧散させ、アラキアが何度も確かめるようにそう口にする。
それは迷子の幼子が親と再会したような、小さな弟妹が兄姉の絆を手繰り寄せようとするような、そんな弱きが強きに縋り付こうとする執着が垣間見えた。
――プリシラとアラキア、二人の関係は余人にはわからない。
変わらず、プリシラがこの場に参じた理由さえスバルにはわからないままなのだ。だから、二人の間に只ならぬ過去があったことしか察せられない。
その過去の関係が、この場で最も危険な存在であるアラキアの戦意を挫いたのだと。
「――っ」
握りしめた細い木の枝を下ろし、感極まった様子でアラキアが進み出ようとする。あるいはそのまま、彼女はプリシラの胸に飛び込もうとしたのかもしれない。
抱き着いて、己の胸中に湧き上がる激情に従おうとしたのだろう。
しかし――、
「ひめさ――」
「黙れ」
それは叶わなかった。
短く苛烈な一声は、横薙ぎにされる一閃を伴ったものだった。
一歩、踏み出そうとしたアラキア、その素足の爪先ほんの数センチのところを赤い輝きが薙ぎ払い、赤い炎がそれ以上の前進を阻むように燃え上がる。
「――――」
それはせいぜい、足の脛ほどまでの焚火のような火力の炎だった。
その気になれば、アラキアの長い足ならひょいと跨げるような大きさの炎――だが、アラキアはまるでそこに越えられない壁が生まれたように動けなくなる。
そのまま、予想外の行いに目を見開くアラキアにプリシラが冷たく続ける。
「アラキア、貴様は今、何故に妾の下へこようとした?」
「え……?」
「まさか、妾が再会に胸を弾ませ、貴様をこの腕に抱くとでも思ったのか? だとしたら、貴様の能天気さにほとほと呆れる他にないぞ」
重ねられるプリシラの言葉には、アラキアに対する侮蔑が滲んでいた。言葉通りの呆れさえ孕んだそれは、アラキアへの歩み寄りを完全に遮断している。
その隔絶がアラキアにもわかったのだろう。彼女は愕然と瞳を揺らし、プリシラの言葉に対する最適解を探そうと必死に頭を働かせていた。
だが――、
「ぷ、プリスカ様……」
「プリスカは死んだ。――時が流れ、地位を得てなお、貴様は何も変わっておらぬのか」
「――っ」
「興醒めじゃな。久方ぶりの故郷の土も、こうも痩せ衰えては感慨もない」
心底、期待外れといった心証を隠さないプリシラの感想。
正直、プリシラの胸中を推し量るには彼女への理解度も、状況の安定性も欠きすぎてしまっている。それでも、その心無い言葉がアラキアの心を盛大に傷付け、血を流させたことはスバルにもわかった。
大切な、絆を結んだ相手に蔑ろにされた深い傷。
真っ向から興醒めと言われて瞳を揺らしたアラキアは、その傷に蹲ってもおかしくなかった。しかし、彼女は蹲る代わりに、その赤い隻眼に激情を宿す。
怒りとは違う、決意や覚悟というべき灯火を。
「……姫様に、どう思われても、いい。つらいけど。でも、わたしは決めたから」
「――。ほう、決めたとはな。妾の関心を呼び戻せるか? 何を決めたか、申してみよ」
静かなアラキアの訴えに、その気があるのかないのかプリシラが挑発的に言葉を投げる。それを受け、アラキアが「わたしは!」と顔を上げ、吠えた。
吠えながら、アラキアがその細い体の膝をたわめ、
「帝国に! 姫様の居場所をとりもどす! そのために――」
激発したアラキア、その感情の矛先は聞く耳を持たない目の前のプリシラ、ではない。
彼女の隻眼は正面のプリシラを外れ、見当違いの方向へと向く。激情の矛先、それが向いたのはなおもバルコニーで成り行きを見守るアベルだ。
「嘘つき閣下を――ッ!!」
激情に瞳を燃やして、アラキアの細身が高々と跳び上がる。彼女はプリシラとの間の炎の障壁を無視し、狙いをバルコニーのアベルへと定めた。
その跳躍力、尋常ではない。だが、帝国二位の実力者であれば驚くには値しまい。
問題は、その凶行を止める術を持つものがプリシラ以外にいないこと。
「マズい、アベルが……! プリシラ!」
「やいのやいのと騒ぐでない。そも、気安いぞ、凡愚。誰に許しを得て、妾の名を呼び捨てにしておる?」
「言ってる場合じゃ……」
「――騒ぐでないと、そう言った」
宝剣を片手に下げたまま、スバルの訴えに耳を貸さないプリシラ。
その次の行動が読めなくなる恫喝のあと、息を呑むスバルの視界で、矢の如く跳躍するアラキアの姿がアベルへと迫る。
「――――」
半壊したバルコニーの手すりに掴まり、額から血を流しているアベル。
プリシラの突然の乱入にも狼狽える様子を見せなかった男は、なおもその覇気の漲る黒瞳でアラキアを見据え、真っ直ぐに仁王立ちしている。
相変わらずの無手、その腕に帝国最強格の一人を迎え撃つだけの実力がないことも周知の事実、そんな彼がどうして絶望しないのかスバルにはわからない。
わからないまま――、
「アベル――っ!!」
無意味とわかっていながら駆け寄ろうとして、最初の一歩目で足の力が抜ける。つんのめって転ぶスバル、ただ手を伸ばすしかない視界でアラキアがアベルに迫り――、
――次の瞬間、連鎖して起こった一連の出来事はスバルの理解を超えていた。
「――――」
肉薄するアラキアを見据えたまま、アベルが強くバルコニーの床を踏みしめる。直後、半壊したバルコニーをひび割れが拡大し、足場が一挙に崩落した。
当然、その上にいたアベルも為す術なく転落する――かと思いきや、そうはならない。
落下するはずだったアベルの体が中空に吊り下げられる。ピンと伸ばされた彼の右手が掴んでいたのは、バルコニーへ引き込まれた最上階のカーテンだ。
手すりに置いた手の下に命綱を隠し、アベルは自らの意思で足場を崩した。
あるいはそれは、相手が雑兵であれば崩落に巻き込んで一気に階下へ落とせたかもしれない作戦だっただろう。
しかし、相手は『九神将』、それも『弐』の実力者なのだ。
「お遊び……っ!」
命綱に掴まり、振り子のように揺られるアベルへとアラキアが牙を剥く。
跳躍後に着地する足場を失った形の彼女だが、そもそも、超人的な身体能力に加えて超人的な異能を有するのがアラキアの強みだ。
その足が陽炎のように揺らめくと、膝から下が炎へと形を変え、まるで脚部からバーニアを吹く機動兵器のように空中で姿勢を制御した。
ミゼルダを焼いた炎、雑兵を蹴散らした猛烈な竜巻、倒れる柱を支えた飴細工、レムの武装を解除した大風、そしてついには自らの体の一部を炎へと変える。
アラキアの異能、その多彩さは全く底が見えない脅威だ。
「閣下、死んで――!」
そのまま、自分では姿勢を保てず、くるくると回ってしまうアベルに目掛け、どれだけの威力を秘めているのかわからない枝が向けられる。
それで突くのか、あるいは魔法が放たれるのか、もっと異なる超常的な効果が発揮されるのかは不明だ。――不明だが、アベルは粉々になる。
その確信だけが、スバルの黒瞳の瞳孔を焦りと緊迫が細めさせた。
しかし――、
「――やべぇな、兄弟。今、声聞くまでオレでも兄弟ってわかんなかったぜ」
瞬間、鬼気迫るアラキアと宙吊りのアベルの間に人影が割り込む。
人影はレムが倒し、アラキアが固定した柱の上を駆け抜けると、構えられる枝へと横合いから一撃を放り込んだ。身幅の分厚い青龍刀の剣撃、それをアラキアは手首を返して枝で打ち払い、しかし、突進の勢いを削がれて宙へ舞い上がる。
一方、渾身の奇襲を難なく防がれ、着地した人物は「だぁぁ!」と地団太を踏んだ。
「クソ、腕が痛ぇ! 人の渾身を軽々と打ち返すんじゃねぇよ、凹むぜ」
後ろに下がり、払われた腕を振るいながら一連の出来事を泣き言が締めくくる。それをしたのは、またしてもスバルの想像の埒外の人物だった。
漆黒のフルヘルムで頭部を覆い、首から下を山賊のようなファッションで決めた異様な風体の男だ。野伏せりか野盗といった風貌のその男は、青龍刀を握った太い右腕の反対、左腕を肩口から失った隻腕が特徴的だった。
見知った男だ。プリシラがいるならいて当然と、そう頭を働かせるべき人物。
それは――、
「――アル?」
「よお、兄弟! まさか、国境飛び越えた先で出くわすたぁ思わなかった。そのファッションの感想と、この奇縁を喜び合いてぇとこなんだが……」
首を傾け、場違いにとぼけた声を上げたのはプリシラの騎士――否、従者のアルだ。
彼は普段と変わらぬ飄々とした調子でスバルに応じながら、脚部を炎と化して宙を浮遊しているアラキアを牽制している。
この場合、たったの一合でもアラキアの攻撃を防いだアルに驚くべきなのか、青龍刀と真っ向から打ち合って何ともない木の枝の耐久力に驚くべきなのか。
「驚いてくれていいぜ。なんせ、一発でうまくいったわけじゃねぇから」
「どいて! 閣下、殺せない!」
「わざわざ邪魔しに入ってんだぜ、どいてやれるかよ。ここで見過ごしちゃ、オレの首が胴から離れちまわぁ。しかし……」
怒りの形相で吠えるアラキア、その彼女をアルが正面から無遠慮に眺める。
露出過多なアラキアの格好だが、アルの視線にいやらしさはない。あるのはどこか、郷愁を帯びた感慨深さのようなものだけ。
事実、アルは「はぁ~」と感心するような吐息をこぼすと、
「よくもまぁ育ったもんだ。美人になるとは思ってたがよ」
「……誰?」
「その言われよう、地味にオレも傷付くぜ。お互いに命を預け合った仲なのに、よ!」
顔見知り風なアルの呼びかけに、アラキアは眉を寄せて疑問符を浮かべる。そんな彼女の細身へと、アルは床の破片を蹴り飛ばして牽制、距離を取った。
そのアルの働きを見やり、プリシラは「アル」と短く彼を呼ぶと、
「シュルトではなく、貴様を連れてきた妾の望みはわかるな。仕事をせよ」
「してるっつの! オレがかわいこちゃんと楽しく遊んでるように見えんの? 気ぃ抜いたら十秒でボロカスにされるぜ、オレ!?」
「見てくれなら、今とさして変わらぬではないか」
「さすがにボロカスよりはマシだろ!? うおわぁ!?」
主人からの心無い声援を受け、集中が乱れるアルがアラキアの一撃で死にかける。
宙を舞うアラキアは鳥よりも自在に空を旋回、次々と繰り出される枝の攻撃をアルが必死の様子で一合、二合と弾き返した。
「邪魔……っ」
「年頃の娘にそう言われっと、オッサンの心は本気で痛むぜ」
吊り下げられるアベルと、それを庇い続けるアル。
両者を見下ろしながら目を怒らせ、アラキアの全身を闘気が迸っていく。それでも、彼女が最初に見せたような恐るべき範囲攻撃を放たない理由は――、
「プリシラ……」
姫様と、そうプリシラを呼んだアラキア。
プリシラの態度は冷たく、断絶的以外の何物でもなかったが、アラキアにとってはそうではない。それが、あの大破壊が振るわれない理由。
故にこの状況を動かせるとすれば、浮動状態にある戦力のプリシラのはずだが。
「――――」
「縋るような目を向けるな、凡愚。その作り物の美貌は褒めてやってもいいが、それで妾を動かすとするなら不敬もよいところであろう」
「ぐ……っ」
膝をついたまま振り向くスバルに、プリシラは尊大で取り付く島もない。
代わりに動いたのは、先ほどまでスバルの背に庇われていたレムだ。彼女は唇を引き結び、危うい足取りでプリシラの前に立った。
そして――、
「お願いします。どうか、お力をお貸しください」
「――。ふん、殊勝な物言いよな。凡愚と比べれば、まだ礼儀は弁えていると言えよう」
「……それなら」
「逸るな。それに見ておれ。すでに状況の動く用意は整った」
レムの懇願、あるいはプリシラの不興を買う可能性がスバルの背を凍らせたが、プリシラは短慮は起こさず、その顎をしゃくって戦場を示した。
その指摘にレムが「え」と驚いて振り向き、スバルもつられて同じ方を見る。
バルコニーの戦場、放っておけば数秒でアベルとアルの二人がアラキアに屠られかねない状況だったはず。実際、その状況はなおも継続中だ。
「だ! が! あお! ごぁ! うぼぁ!」
燃える脚部で空を舞うアラキア、立て続けに一撃離脱を繰り返す彼女の攻撃を、アルはひどく不器用で不細工ながらも何とか防いでいた。
だが、奇跡の連続も永遠ではない。打ち付けられる衝撃がアルの全身に蓄積し、目に見えて反応が遅れ始めた途端、大きな一発に上体が揺らがされる。
そのまま体勢を崩すアルが、次なる攻撃を無防備に――と、その瞬間だった。
「――ッ!?」
空を蹴ろうとしたアラキア、その体が不自然に揺れ、制御が乱れる。
それが常人にはわからない類の攻撃モーションでないことは、驚きに見開かれる目と、押し殺した苦鳴が如実に表していた。
「――――」
何が起きたのか、とアラキアの身に起こった変調に全員が驚かされる。
その驚きに巻き込まれなかったのは二人、悠然と状況を見据えるプリシラと、激しい攻防の渦中に置かれていたはずの仕掛け人――、
「――仕掛けよ!!」
と、焦げ臭さと埃っぽさの入り混じる空気に叩き付けられる命令。
怒りよりも厳格さ、傲慢さよりも仰々しさの勝る声を放ったのは宙吊りのアベルだ。なおもカーテンにぶら下がる男は、頭上の戦いに生じた好機に声を上げた。
まるで、この瞬間の訪れを確信していたかのように。
「種明かしはあとで頼まぁ!!」
アベルの強い口調を受け、そう応じながらアルが飛んだ。
不格好な跳躍、身をひねりながら放たれる青龍刀の一撃が放物線を描き、制御を失ったアラキアの細身へと容赦なく叩き込まれ――否、容赦はあった。
青龍刀を握る手首が返され、アラキアに刃ではなく峰が向かう。
「馬鹿め」
その不殺の小細工を見て取り、プリシラが短く言い捨てる。
そして、傲岸不遜な深謀遠慮の持ち主たる彼女の眼力は、正しく事態を予見した。
「引っ込んでて……っ!」
衝突の瞬間、鈍い音がしてスバルは目を背けたくなる。
アルの渾身の一撃は狙い通りにアラキアへ飛び込み、彼女はそれを掲げた左腕で真正面から受けた。肘が反対に折れ、褐色の肌を折れた骨が突き破り、血がしぶく。
痛々しい惨状、だが、致命打にはなり得ない。
漆黒の兜の奥、アルが低く唸り、驚きに頬を強張らせた気配があった。
直後、アラキアの細い足がアルの首を真横から打ち据え、猛烈な衝撃が彼の体を床に叩き付ける。弾んだ体が吹っ飛び、そのまま崩壊したバルコニーの外へ。
「ど、あぁぁぁ――っ!?」
不細工な悲鳴が尾を引いて、アルの姿が視界から消える。
彼の安否はもちろんだが、これで今度こそ、アベルとアラキアとの間の障害は消えた。
不具合の発生した両足を炎から元の状態に戻して、アラキアが床に足裏をつく。そうして、今度こそ大手を振るってアベルの命を摘み取らんとした。
――そのアラキアの背中へと、猛然と黒い影が飛びかかる。
「お、おおおぉぉぉぉ――ッ!!」
瓦礫を吹き飛ばし、猛々しい雄叫びと共にアラキアを急襲する影。それは大振りのナイフを逆手に握り、狩猟本能のままに攻撃を繰り出す存在だ。
一瞬、そのあまりの気迫に奇襲した影の正体が理解を飛び越しかける。
負傷し、黒く焼け焦げた鍛えられた長身、赤い染料で染められた黒髪と、肌に塗られた『シュドラクの民』を示す白い紋様――ハッとして、スバルが叫ぶ。
「ミゼルダさん!!」
「っああああ!!」
呼ばれた名前に応えず、ミゼルダが血を吐くような咆哮を続ける。
乱入したアラキアの最初の攻撃の犠牲となったミゼルダ。全身を炎で焼かれた痛々しい姿のまま、彼女は自らの命を燃やし尽くすかのような攻撃を続ける。
振るわれる容赦のない刃は、全てがアラキアの急所を狙っていた。
アルと違い、土壇場で獲物にかける慈悲や情けはない。その戦いぶりを見て、スバルは遅まきに失して、アベルが「仕掛けろ」と命じた対象が彼女だと理解した。
アラキアの不調を予見し、瀕死のミゼルダの奮戦を鼓舞したアベル。
あの突発的で挽回不可能に思えた状況下で、この神算に彼がいったいどれだけの脳細胞を費やしたのかスバルには想像もつかない。
しかし、それでもあと一歩が足りない。
「――――」
ミゼルダの奮戦空しく、不調と言えどアラキアの対応力は達人のそれだ。
瀕死の命を燃やすミゼルダの攻撃の数々を、アラキアは煩わしげに顔をしかめながら、乱暴に振り回す木の枝で易々と防いでみせた。
もはや、あの枝の強度に言及しても意味がない。
薙ぎ払われる枝の衝撃がミゼルダのナイフを彼女の手から奪い、刹那、無手となったミゼルダの胴体に枝が突き出された。
鍛えられた鋼の腹筋が、嫌な音を立てて無抵抗に枝に貫かれる。
それは無遠慮にミゼルダの体内を掻き回し、重要な内臓を根こそぎに破壊して、強靭なアマゾネスの肉体を死へと押しやらんと――、
「これで、やっと……」
「――どこを見ていル?」
邪魔者を排除したと、アラキアの意識が外れた瞬間だ。
血の泡を口の端に浮かべながら、爛々とミゼルダの目が光り輝く。彼女は白い歯を血で染める凶暴な笑みを作り、その両手でアラキアの枝を持つ右手を掴んだ。
強く強く握りしめ、そして身動きを封じる。
「――――」
生まれる一瞬の停滞は、あるいは最後の好機だった。
だが、アベルの智謀とミゼルダの献身が作り出したその一瞬を活かせるものは、スバルを含めた味方の中に一人もいない。
奮戦する族長を中心とした『シュドラクの民』は直前の大嵐から立ち直れず、意識を繋いでいるのがやっとのスバルも同じこと。
柱を崩したレムも、常からの足の不備ではあの瞬間に届かない。
全員が一丸となれず、千載一遇の好機は失われる。
ただし――、
「――せいぜい胸を張れ、鬼の娘。貴様の懇願が妾の一振りを呼び込んだことを」
ただし、届かないのは味方であって、第三勢力は別だった。
「――――」
戦況を俯瞰したプリシラが一足で距離を詰め、アラキアの無防備な背を狙う。
一瞬、アラキアは背後に迫る気配に気付き、迎撃せんと動きかけた。自分の腕を掴むミゼルダの長身を放り投げ、後ろの敵に叩き付けんと。
だが、それはできなかった。――気配の正体を察して、できなくなったのだ。
「ひめ――」
終始、プリシラへの執着を断ち切れずにいたアラキアを、紅の剣閃が一撃する。
バッと、噴出する血が炎に焼かれ、アラキアの体が大きく揺らいだ。
「言ったはずじゃ、アラキア。――次に妾と会うまでに、覚悟を決めておけと」
交わされた過去の約束、その真意は余人には立ち入る資格もない。
ただ、その約束がプリシラの容赦のない一撃の答えであり、アラキアの断ち切れない未練の答えでもあったのだと、そうわかっただけだ。
「――――」
赤い宝剣の一撃を背中に浴びて、アラキアの体が床に倒れる。
彼女の腕を掴み、身動きを封じていたミゼルダも巻き添えだ。二人はもつれ合うように倒れ込み、だらりと糸の切れた人形のように手足を投げ出す。
「――――」
目まぐるしく動き続ける事態、延々と空気を剣と炎で撹拌し続けるような状態、それが唐突な静寂に呑まれ、時が静止したような錯覚をスバルは味わう。
一息、あるいはほんの一歩、動いただけで全てが台無しになり、何もかもが夢幻のようにバラバラになってしまうような強迫観念が――。
「――ミゼルダさん!」
その、時の静止を打ち砕いたのは、緊迫した声を上げたレムだった。
彼女はたどたどしい足取りで這うように床を進み、アラキアと折り重なるように倒れているミゼルダの下へ急ぐ。
全身を焼かれ、大風に吹き飛ばされ、さらには腹を貫かれたミゼルダ。
彼女の傍に跪くレムは息を呑み、決死の表情で両手をミゼルダの体に当てると、淡い治癒魔法の光で彼女を繋ぎ止めんとする。
「呆けている場合か。手を貸せ」
「――ぁ」
レムの行動に目を見張り、動けずいたスバルの耳にアベルの声が届く。
いまだ、吊り下げられた状態から上ってこられずにいるアベル。スバルは頭を振り、急ぎ足にそちらへ向かうと、眼下、ぽっかりと空いた元バルコニーの空洞を見る。
右腕にカーテンを巻いてぶら下がるアベル、その鋭い目つきがスバルを見上げ、
「生き残ったか。悪運が強いものよな」
「……お前も、憎まれ口の切れ味は十分残ってるみたいだな」
口の減らないアベルに頬を歪め、スバルはカーテンを掴んで彼を引っ張り上げる。
正直、スバルもボロボロなら、引き上げられるアベルもボロボロだ。今すぐにでも手足を投げ出して意識を手放したいが、そうも言っていられない。
「ミゼルダさん、だけじゃない……」
アラキアの暴虐に巻き込まれ、負傷した大勢が倒れているのだ。
治癒魔法を使えるものが貴重な環境では、魔法に頼らない応急手当も必要になる。意識を手放している余裕などない。
ここで倒れるということは、失われることを許容するということだ。
そんなことは、あってはならない。
だから――、
「とっとと、上がってこい……っ」
奥歯を噛みしめながらカーテンを引きずり、届く距離まできたアベルの手を掴む。握り返される感触を頼りに、自分より背の高い男をどうにか引き上げた。
尻餅をつくスバルの前、宙吊りから復帰したアベルがわずかに息を弾ませ、
「大儀であった。褒めてやろう」
「うるせぇ……」
欠片も誠意のない称賛の言葉を切り捨て、スバルは小さく舌打ちした。
そのまま、他の負傷者を担ぎ出すための行動を始めるために立ち上がろうとして――、
「――勝手に動くでないぞ、凡愚。この場の支配者を、いったい誰と心得る」
「――――」
尻餅をつくスバルと、膝をついたアベルが口を閉じる。
静かに二人を威圧したのは、組んだ腕で豊満な腕を誇示するように持ち上げた紅の美貌――プリシラの眼光と一声だ。
顔見知りであり、知らない仲ではない。
しかし、良好な関係かと言われれば頷くのは躊躇われる。それは王選における対立陣営であるというだけではなく、プリシラの気質が原因だ。
誰に対しても尊大で譲ることを知らないプリシラは、同じ問題の解決に挑める場合であれば強力な味方であり、そうでない場合には予測不可能な爆弾となる。
水門都市プリステラでの戦いでは頼れる味方だった。翻って、今回はどうか。
アラキアの撃退に手を貸してくれた彼女を、味方と思ってもいいものなのか。
いずれにせよ――、
「業腹だが、この状況の支配者は貴様であろうよ、プリスカ・ベネディクト」
動けず、喋れないスバルに代わり、そう口を開いたのはアベルだった。
片膝を床についたまま、違う名前でプリシラのことを呼んだアベル。しかし、その響きは彼だけでなく、倒れる前のアラキアも口にしたものだった。
そう呼ばれ、当のプリシラは小さく鼻を鳴らすと、
「生憎と、プリスカ・ベネディクトは戦いに敗れ、無残に死んだ。もはや墓の下にいるものが、こうして堂々と口を利くものか」
「……そうか。ならば、貴様は何者で、何と名乗る」
「――プリシラ・バーリエル。それが妾の名前じゃ。よく覚えておくがいい、ヴィンセント・アベルクス」
問いかけに堂々と答え、プリシラとアベルの視線が交錯する。
互いの間に交わされるのは炎か雷か、いずれかのような圧を伴った視線の嵐だ。傍らのスバルは巻き込まれ、吹き飛ばされないよう俯くのが精一杯の。
アベルの名を知っていたプリシラと、プリシラを違う名前で呼んだアベル。
両者の間の只ならぬ関係を予感しながら、スバルは静かに息を呑む。
そして、そんな殺伐とした空気を――、
「――おーい、誰でもいいから助けてくんね? もうそろそろ、限界なんだけど」
と、バルコニーから払い落とされ、外付けの結晶灯に引っかかったアルが、情けなく助けを求める声だけが空しく空気を揺すっていたのだった。