第七章24 『傲岸不遜』
――刻々と、酒宴の始まりが近付くにつれ、緊張感が増していく。
「――――」
五人の集った控室に会話はなく、静まり返っていた。
黙し、集中力を高めているアベルはもちろんのこと、スバルも言葉を発せない。フロップさえ沈黙しているのだから、空気の重さは察して余りある。
ここまでうまくいったのだから、あとは何の問題もない。
と、そう割り切って考えられるほど人間は単純な造りではない。女装の出来栄えがいかに優れていても、本命の本番を目前とした緊張感は高まる一方だった。
だが、どれだけ心の臓がうるさく喚き、じっとりと冷たい汗が背中を濡らそうと、流れる時は止められず、目的の時間もまたやってくる。
「宴席の準備ができた。お前たちの出番だぞ」
見張り役の兵士の声がかかり、張り詰めた緊張の解ける瞬間がくる。
顔を見合わせ、スバルたちはそれぞれの楽器を手にすると、先導する兵士に続いて控室を出た。軽く身体検査を受けるが、そもそも、薄衣の類しか纏っていないスバルたちに、武器の類を隠し持つような余裕はない。
好奇と好色の目を浴びながら検査をパスし、スバルたちは宴の間へ案内される。
ただ――、
「――っ」
「タリッタさん?」
頬を硬くし、足取りの重たいタリッタの様子にスバルは眉を寄せた。
先導する兵士に聞かれないよう小声だったとはいえ、確かに届いたはずのスバルの声にタリッタは答えない。その瞳の様子を見れば、彼女の精神状態はようと知れた。
極度の緊張が、彼女の全身を強く強く支配している。
住み慣れた集落を離れ、族長たる姉をも頼れない状況、ほとんど丸腰の状態で敵陣の真っ只中へ乗り込むという作戦も、彼女に強いストレスを強いたのかもしれない。
今にも倒れそうな顔色と呼吸、スバルは何とか彼女を励まそうとしたが、何を言えばいいのかとっさに出てこない。
大丈夫だとか、任せてほしいだとか、そういう安易な慰めの言葉。
それが今のタリッタの精神を和らげられるだろうか。
そう、スバルが心中の不安で一歩を踏み出せないでいたとき――、
「――タリッタ」
「――――」
「何も案ずることはない。俺を見ていろ」
それは、ひどく傲慢で、尊大で、しかし絶対の自信に満ちた声音だった。
根拠のない、スバルが直前に浮かべたものと変わらない慰めの言葉だ。だが、その安易な慰めの言葉がもたらした効果は絶大だった。
微かな息を吐いて、タリッタが目を瞬かせる。
呼吸を忘れ、目の色が危うくなりかけていた彼女を正気に戻した。たったの一言、それだけで強く他者の心に働きかける力、それが込められた声だった。
持つものは、持たざるものの懸命な努力を一瞬で抜き去る。
幾度も痛感させられたそれを、こうしてまざまざと見せつけられた気分だった。
「もう、腹も立ちませんけれど」
自身を納得させるため、そう呟いてスバルは自分の慰めとする。が、すぐにタリッタだけでなく、自分の緊張も緩められていたことを自覚し、唇を曲げた。
言えば勝ち誇られるだろうから、絶対に言おうとは思わないが。
そして――、
「――よくぞきた。お前たち、大層素晴らしい舞と歌を披露するらしいな」
宴の準備が為された大広間、スバルたちを迎えたのは三十人近い屈強な男たち。今日の宴席には一般兵は立ち入れないとの話だったから、この場にいるのはいわゆる将校や士官といった立場のものたちなのだろう。
そんな『将』たちが揃う中、声をかけてきたのは一番奥の椅子に座った男だ。
「……あれが、ズィクル・オスマン二将?」
口の中だけで呟くスバル、ちらと横目にアベルを見れば、ヴェールで顔を隠した一行の舞姫は微かに顎を引き、スバルの疑問を肯定した。
その首肯を受けて、改めて相手の姿を見やり、スバルは形を整えた眉を顰める。
城郭都市グァラルに駐留する帝国兵、その指揮官たるズィクル・オスマン。
帝国の二将の地位を与る人物だけに、どのような屈強な武人なのかと思っていたのだが、その姿はスバルの想像を一枚も二枚も裏切るものだった。
まず、背丈が低い。決して長身というわけではないスバルと比べても、頭半分ぐらいは低く見える。背筋を正したクーナとどっこいどっこいといったところか。
もちろん、背丈が低くとも強靭な実力を誇るガーフィールという前例がある以上、体格は侮る理由にはならない。しかし、生憎と実力者にも見えなかった。
そう最も印象付けるのは、大きく膨らんだ特徴的な髪型だ。
言葉にするなら、アフロと表現するのが一番適切だろう髪型、それが小柄な男の頭の上にあるだけで、何となくマスコット的な愛嬌を発しているように思える。
事前に用兵家とは聞いていたが、確かに剣力で武勲を立てるタイプには見えなかった。
「今、我々は厄介な問題を抱えている。都市の中にこもりきり、日に日に気分が滅入る一方だ。そこで、此度の宴を設けた。お前たちの役割はわかるな?」
「――はい。お招きに与り、至極光栄に思っておりますわ」
肘掛けに頬杖をついて、大仰な言葉を投げかけるズィクルの前にスバルは跪く。
それにフロップやタリッタ、クーナは続いたが、最後尾に立ったアベルは続かない。一瞬、ズィクルの眼差しが細められ、『将』の中にも不穏な空気が広がる。
案の定、足下に酒杯を置いた兵の一人が立ち上がり、アベルを睨む。
「何故、跪かない? 二将の前だとわかって……」
「待て。そういきり立つな。この場は酒宴のために開いたのだ。芸事で身を立てるものたちに求めるのは、礼儀作法ではなく、無聊の慰めだろう」
「む……『将』がそう仰るなら……」
しかし、アベルに食ってかかる兵を窘めたのは、他ならぬズィクルだった。
寛大さを示した彼の態度に、兵も渋々と腰を下ろす。その間も、アベルはヴェールで顔を隠したまま、身じろぎも見せない態度を貫いた。
「武人の気迫に身じろぎもしないか。さぞ、舞に自信があると見える。だが、最初の印象は悪いぞ。覆してくれることを期待する」
「……寛大さに感謝を。ですが、ご安心くださいまし」
あくまでアベルの尊大さを好意的に捉えるズィクル、跪いたままそう答えたスバルに、彼は「ほう?」と興味深げに眉を上げた。
このあとのことを思うと胸は痛むが、せっかくもらった好機だ。最大限、それを活かさせてもらうことで、彼には完敗を味わってもらうこととする。
「――これよりお目にかけますは、大瀑布の彼方より参りました麗しの舞姫。日の光を呑み込む艶めく黒髪に、精霊の祝福を受けた美しき白い肌、天上人もかくやと言わんばかりの至高の美貌、今宵、盛大に舞わせていただきます」
立ち上がりながら、スバルは始まりの言葉を並べる。
大仰すぎるぐらい大仰な前口上、それがハッタリではないことを証明するように、ゆっくりとアベルの顔を隠したヴェールが持ち上がる。
やがて露わになる舞姫の顔を目の当たりにして、それまで噂の舞姫の高慢さに呆れていた一同が、一斉に息を呑むのがわかった。
「――――」
中でも、そのアベルの瞳に真っ直ぐ見つめられたズィクルの衝撃は大きかった。
元より、こちら側に寛容な姿勢を示していた分、鷹揚に受け止める準備をしていたのが大きかったのか、無防備に殴られたに等しい衝撃があっただろう。
文字通り、呼吸を忘れ、声をなくしたような状態だった。
「――どうか、我らが舞姫の舞を披露する機会をいただけますれば」
頭を垂れて、スバルがそう礼儀に則る。同じようにフロップも頭を下げ、それぞれの楽器を掲げて宴の始まりの許しを求めた。
それを受け、ズィクルが首を縦に振れば、スバルはフロップと視線を交わす。
そして、準備は整ったと頷き合い、演奏の準備に入った。
「――今宵、お目にかけますは我らが舞姫の故郷、大瀑布の果ての舞。果ての果てより参った舞を、どうぞ心行くまでご堪能あれ」
大瀑布の果て、というのは誇張した表現だ。
しかし、帝国兵たちが知らない未知の踊りという意味では嘘ではない。曲も舞も、どちらもこの世界ではなく、スバルの世界から持ち込んだ代物だ。
もちろん、相応にアレンジを加えているが、基礎が異なる代物だけに、舞だけでも十分に観衆の目を引く出来栄えとなっていた。
もっとも――、
「――――」
舞の流麗さを余所に、その美貌で他者を魅了する舞姫とあっては、異世界の歌と舞なんて飛び道具も必要なかったのかもしれないが。
「――――」
酒の肴という言葉があるが、これは酒席で出される食品だけを差すのではなく、酒を進める役目を果たす娯楽の類であれば、何でもそのように呼ばれる。
当然、その中には余興も含まれており、舞などは肴舞とも呼ばれており、れっきとした酒の肴の一環――だが、ここまでの効力はなかなか発揮されまい。
舞姫の踊りに目を奪われ、喉を焼かれ、魂が渇いたように酒を求める。
自然と酒杯を傾ける頻度と速度が速くなり、兵たちは軒並み、頬を赤くした。とりわけ酒杯を口に運ぶペースが速いのは、脳髄の痺れを癒さんとするズィクル二将だ。
そうして判断力が酒と舞に奪われれば、本来ありえないポカもやらかす。
例えばそれは、剣舞を見たい欲求に負けて、舞姫の求めるままに剣を差し出すなんて、前代未聞の大失態だ。
「――貴様の負けだ、ズィクル・オスマン」
故に、抜き放たれた剣の先端を首に向けられ、舞姫の口から疑いようのない男の声が聞こえても、『女好き』ズィクル・オスマンは陶酔から抜けられない目をしていた。
△▼△▼△▼△
――やった、とスバルは内心で勝利の確信に声を上げていた。
アベルの手にした剣は、ズィクルの喉笛を容易く貫ける位置にある。
のけ反り、その首を晒したズィクルに反撃の目はない。間違いなく、敵の指揮官を押さえることに成功したと、そう言える。
それも、本来の狙いよりも早く、的確なタイミングで。
元々、スバルたちの計画は旅の一座として市内で有名になり、ズィクル・オスマンの懐へ潜り込むことだった。理想はズィクルの寝所に呼ばれ、そこで彼の隙をついて身柄を確保し、グァラルに駐留する帝国兵を降伏させること。
その前提が、今回の酒席の開催によってひっくり返った。
『――宴席の場で、市内に居残った将兵を軒並み無力化する』
とは、酒席へ呼ばれたところで作戦の変更を宣言したアベルの言葉だ。
成功すれば見返りは大きいが、危険も大きいハイリスクハイリターンの作戦――スバルは状況次第で元の作戦へ切り替える、その条件で計画の変更に同意した。
したが、まさかここまでうまくやるとは思ってもみなかった。
「――――」
「重ねて言うぞ、ズィクル・オスマン。貴様の負けだ。今すぐに降伏し、部下に武装を解除させよ。さもなくば、貴様の酒杯は酒ではなく、血が満ちるであろう」
動けないズィクルに、剣を突き付けたアベルが今一度降伏を勧告する。
だが、ズィクルの瞳に命を脅かされたものの怯えはない。帝国軍人だから、という覚悟の決まった目ではなかった。むしろ、瞳には迷いがある。
迷い、疑念、その類の光だ。
「踊り子、お前……いや、あなたは……」
畏れ多いものを目にしたように、ズィクルの瞳に迷いが顕在化する。
ただの踊り子を前にした男の反応ではないと、そう思わせた直後だった。
「――っ! おのれ、賊めらが! 勝手なことを……!」
呆けた『将』の中、我に返ったものがとっさにアベルへ飛びかかろうとする。
だが、彼らがアベルの背に手を伸ばすよりも、その腕や足が投げられたナイフに貫通される方が早い。――刃を投じたのは、身をひねったクーナだ。
「悪いんだガ、族長からアベルの顔は守れって言われてんダ」
タンバリン似の楽器を手に参戦した彼女は、アベルの舞の最中に食事からナイフだけをこっそりとかき集めていた。
そして、刃に手足を射抜かれ、倒れる兵の姿に『将』たちが二の足を踏む。
しかし、クーナの刃を躱し、大きく飛びのいた影も一つあった。
「笑止! この程度で、帝国兵の足を止められると思うてか!」
吠える髭の巨漢が、追加の投げナイフを腕で受け、豪快に打ち払う。
そうして自身の大剣を抜き放つと、出血も厭わず、真っ直ぐにアベルへと飛んだ。
「アベル――!」
ズィクルを足止めし、棒立ちの背中を見せているアベル。
スバルが悲鳴のようにその名を叫ぶが、舞姫はまんじりともしない。
そのまま、大剣がアベルの背中へと振り下ろされ――、
「――クッ」
瞬間、歯を噛んで男に狙いを付けたのは、兵の一人から弓を奪ったタリッタだった。
彼女はつがえた矢を引き絞り、アベルへと迫る兵に狙いを定める。そのタリッタの緑色の瞳に光が、殺意が宿った。
アベルを救うため、凶行を止めるため、男の息の根を狙う構えだ。
「殺しちゃダメだ!!」
「――っ」
だが、矢が放たれる寸前、とっさにフロップがそう叫んだ。
それを聞いたタリッタの瞳に躊躇いが生じ、矢の狙いがわずかにブレる。そして、放たれた矢は男の背中ではなく、右肩へと突き刺さった。
「があっ!?」
凄まじい衝撃に射抜かれ、苦鳴を上げた男がひっくり返る。しかし、その手に握られた大剣は勢いを殺せず、回転しながらアベルの背へ向かった。
そのまま、大剣はアベルの頭を後ろから叩き割るかと思われた。が、それはほんのわずかに後頭部の手前を剣先で掠め、激しい音と共に床へ突き立つ。
危うく、命を落としかけたアベルはギリギリのところで生き延びた。
そして――、
「――ぁ」
はらりと、編み込まれたアベルの黒髪が解かれ、広がる。
大剣の剣先が髪留めを切り裂き、せっかくの結び目が解けたのだ。――否、それだけでは留まらない。ほつれたウィッグは役目を失い、偽りの黒髪が床に落ちる。
舞姫の長い髪は一転、そこには本来の己の黒髪だけを頂いたアベルの姿がある。
――髪留めと共に、舞姫を演じた柔らかな印象を削ぎ落とした冷酷な皇帝が。
「二将! 此奴らを今すぐに……」
「――やめろ! 逆らうな!」
手足をナイフで貫かれ、右肩を矢に射抜かれた兵が呻く中、なおも抵抗しようとする将兵の訴えをズィクルが黙らせる。
たとえ何人倒れようと、と闇雲に立ち向かわれれば、スバルたちの戦力では一気に圧し潰される。それが最も、やられたくない反撃だった。
しかし、ズィクルはそれを部下にさせない。自身も押さえられ、部下の『将』たちも身動きを封じられた今、大勢は決したと理解している。
故に――、
「そちらの言う通りにすれば、部下の命は保証してもらえるのか?」
「それも貴様の態度次第だ、『臆病者』」
「ぐ……っ」
大人しく、降伏勧告を受け入れる姿勢を見せたズィクル。その彼が、容赦のないアベルからの罵倒を受け、顔を赤くして歯を噛みしめた。
それはこちらの姦計にかかり、自分の身柄を押さえられたとき以上の屈辱、それを味わった人間の顔だ。
そのズィクルの屈辱を見下ろしながら、アベルが鼻を鳴らす。
「聞いているぞ、ズィクル・オスマン。貴様は『女好き』と呼ばれる以前は『臆病者』とそう呼ばれていたな」
「……帝国軍人、あるまじき蔑称だ。だから、こんな策を選べたと?」
「――――」
「『女好き』の上、『臆病者』と誹られる私であれば、女に剣を突き付けられ、我が身惜しさに降伏すると……」
だとしたら、それはなんたる屈辱だろうか。
あるいはそれが事実なら、ズィクルは憤死したかもしれないほどの恥辱。だが、今回の計画の立案において、アベルが実行可能であると判断した理由、スバルたちが聞いたそれは、少なくともそれとは違う理由だった。
それは――、
「巧みで堅実な用兵により、目立った戦果は少ないが、味方の被害も少ない策略家。指揮官として優秀だが、積極性に欠ける。故に『臆病者』」
「そうだ、そうだとも。私は、だが……」
「貴様、何を勘違いしている?」
「え?」
目を細め、そう問いかけるアベルにズィクルが目を見張った。
そのまま、困惑を顔に貼りつけている彼へと、アベルは剣を手にしたまま続ける。
「他者が貴様を臆病と誹るのは、結果を見ての虚勢か、そうでなければ結果を見られない愚者の放言だ。俺は、貴様の性質を勝算とした」
「――――」
「貴様は無駄な被害を嫌う。故に、『臆病者』とされた用兵家の貴様なら、この状況で抗うまいと判断したのだ。――俺を失望させるか?」
視線を鋭く、首筋に刃を当てたまま、アベルがズィクルに問いかける。
それは、アベルの素性を知らない人間からすれば、いったい何を言い出したのかと世迷言を疑いたくなる暴言としか思えまい。
相手の臆病を信用し、それを勝算に組み込んで計画を実行する。
真っ向からそう言われ、相手を逆上させない確信もない。むしろ、相手の怒りをわざと買おうとするかのような、事態を悪化させかねない物言いだった。
こうして女性の格好をしていてさえ、へりくだることの一切ができない男。
しかし、そんなアベルを前にして、ズィクル・オスマンは息を呑んだ。
その瞳に去来したのは、何とも形容し難い感情――あえて言語化するとしたら、感動に近い驚きだったのではないだろうか。
それはまるで、乙女が意中の相手から何かをもらったような、そんな瑞々しくも初々しい反応であったように思われて――。
「――武装を、解除いたします。部下にも、厳命を」
「賢明な判断だ」
大人しく、頭を垂れたズィクルの答えに、アベルが静かに顎を引く。
その格好は踊り子のそれにも拘らず、威厳に溢れた首肯に誰も逆らえない。指揮官であるズィクルの降伏に、帝国兵たちも次々と武器を取り落とした。
そして――、
「何を呆けている。さっさと屋上の旗を燃やしてこい」
「うえ? わ、わたくし?」
「貴様だ。貴様だけだぞ。事態が動いてから、何一つ役目を果たさなかったのは」
自分を指差し、目を瞬かせるスバルへと、アベルの冷たい目が突き刺さる。
その彼の言いように、スバルは広間の中を見回した。
敵を投げナイフで牽制したクーナと、巨漢を射抜いたタリッタ。その巨漢を殺させず、『無血開城』の成立を死守したフロップと、武装解除をさせたアベル。
確かに、巨漢が跳ねたときに尻餅をついたスバルだけ、何もしていなかった。
「さっさといけ。ミゼルダたち抜きでは、武装解除させるのも手に余る」
「わ、わかりましたわよ! ええ、ええ、ごめんあそばせ!」
言いながら、スバルはバルコニーへ向かい、そこから身軽に屋上へ這い上がる。都市庁舎の屋上、夜のグァラルを見渡すことができて、何とも壮観だ。
そして、冷たい風を浴びながら、スバルは壁の松明を回収し、都市庁舎の屋上に掲げられていた帝国の旗――剣狼の旗に火を付け、燃え上がらせる。
――ここに、城郭都市グァラルの陥落は成ったのだと示すために。
△▼△▼△▼△
最初にその異変に気付いたのは、都市庁舎を気にしていたジャマルだった。
ちらちらと、建物の中に残してきた相手を気にする素振りを見せていたジャマル。そのわかりやすい態度に辟易としながら、トッドは市内の見回りを続けていた。
それなりに歴史のある都市だけに、強大な防壁である壁を抜ける手段には事欠かない。ただの民家が地下道を作っていたり、子どもを使った壁抜けの密輸手口もあった。それらを的確に摘発しながら、トッドは来たる襲撃に警戒を高めていた。
「手を引く、ってことはありえない。となると、必ず都市を落としにくる。抜け道を使って、一気に都市庁舎を占拠するか、街に火を放つ……ん~、他の手段もあるか?」
単純に都市を陥落させるだけなら、兵も市民も区別なく虐殺する方法は思いつく。
それこそ火や水、土に埋めるだけでも人は死ぬ。手段を選ばなければ、人間はいくらでも残酷に物事を推し進められるものだ。
あの黒髪の少年は、いったいどんな残虐な手段を用いてくるだろうか。
一見、それが不得意そうに見えるのに得意だから、恐ろしい。
潰しても潰しても、まだ未発見の抜け穴こそが本命に思える。
だから、腹に穴が開いていたとしても、おちおち宿舎で寝てもいられない。
「どいつもこいつも、粗忽で大雑把な奴ばっかりだからなぁ」
全員がジャマル級とは言わないまでも、細かなところに目がゆかないものが多い。
トッドも、自分が優秀だとか気が利くなんて思っていないが、自分が愚かで足りないところだらけと自覚していれば、穴の埋めようなんていくらでもあるものだ。
どうしてみんな、自分が馬鹿であることを疑わずに生きられるのかがわからない。
人間なんて、一人残らず全員馬鹿なのだから、馬鹿なりの最善を尽くすべきなのに。
「――あ?」
そんなことを考えながら、次の民家へ乗り込もうとしていたトッドは、不意に背後でジャマルの上げた間抜けな声に足を止めた。
見れば、立ち止まったジャマルが遠く、都市庁舎の方を眺め、間抜け面をしている。
何事かと、トッドは眉を顰めた。
「おいおい、何の冗談だ、ありゃ」
「どうしたよ、ジャマル。都市庁舎の方で何が……」
あった、と言おうとして、ジャマルに並んだトッドも同じ方を見る。
都市庁舎では今頃、招いた踊り子たちに余興をさせて、『将』の慰労を兼ねた酒宴が開かれているはずだ。
だから、多少は浮かれて馬鹿をやるものが出ても不思議はない。
不思議はないが――、
「――嘘だろ」
いくら何でも、都市庁舎に掲げた帝国の国旗が焼かれるのは許容範囲外だ。
無礼講の域を超えた蛮行に、さしものトッドも絶句する。炎に焼かれ、熱い風にたなびく旗は揺れながら、燃えながら、夜の空に赤い光を灯していた。
そして、その燃える旗のすぐ傍らには、都市庁舎内で見かけた女の姿がある。
豊かな黒髪に、鋭い目つきが特徴的な楽士。確か名前は――、
「――ナツミ・シュバルツ」
そう、問いかけたときに答えられたことが思い出される。
ジャマルに詰め寄られ、小さくなって怯えていたか弱い女。しかし、その女が手にした松明で、堂々と帝国旗を燃やしているのがありありと見える。
そこには、あの通路で出くわした弱々しさなどまるで見当たらなかった。
まさか、酔っ払った上での凶行なんて可愛げのあるものではあるまい。
あれは紛れもなく、帝国に対する攻撃の意思だ。そして、拠点の旗が燃やされるということは、その場所が敵の手に落ちたということを意味する。
と、そこまで考えたところで、トッドの脳裏に電撃的にとある可能性が浮上した。
「まさか、お前か?」
目を見開いて、トッドは松明を手にした黒髪の女、ナツミ・シュバルツをつぶさに観察し、己の中に芽生えた極小の可能性に絶句する。
だが、考えれば考えるほどに一致し、見れば見るほどに乖離する。
しかし、だからこそ、効果は覿面であったと言えるのだ。
いったい、誰がこんな真似を考える。
まさかあんな方法で、正面から敵の警戒網を突破し、本丸を落とそうなどと。
「ありえないと、思ってた。正面から、潜り抜けようとするなんて」
そんな命知らずな手法、いったい誰に取れようか。
もちろん、積み荷や竜車に隠れる可能性は十分に警戒し、検問もそれらへの確認は強化していたはずだ。だが、徒歩で、それも注目を集める形の侵入は想定外。
ただでさえ、一度目の潜入でこちらの警戒を強めていたのだ。なおさら、人目を忍ぶ方向に判断を切り替えるのが正常な思考で――。
「まさか、あれも布石ってことか? わざと俺たちに見つかって、正面突破なんてありえないって先入観を、植え付けた?」
そしてまんまと市内に入り込み、踊り子として拠点へ招かれ、都市庁舎を陥落させて帝国旗を燃やした。――ナツミ・シュバルツ、その思惑通りに。
「……ヤバい」
なんて、周到な計画を立てるのかと、心底背筋が凍り付いた。
自分では惜しまず、最善手を得るために力を尽くしてきたと思っていたが、相手はそれを軽々と上回り、こちらを嘲笑う戦争の申し子。
トッドは身震いする自分がいることに驚かされる。
「クソったれ! 何が起こってやがる! とにかく、都市庁舎に戻って……」
「馬鹿、やめろ。お前まで死ぬつもりかよ」
「ああ?」
トッドと違い、帝国旗を燃やした相手の正体に気付いていないジャマル。
距離的に、彼の目では都市庁舎の屋上の詳細なんて見えまい。トッドの特別な目だから見えただけだ。そして、見えているからこそ、ジャマルを引き止める。
拠点の帝国旗が焼かれた以上、都市の陥落は明白だ。
おそらく、今頃はズィクルを含め、宴に参加した『将』は全員殺されているだろう。のこのこと飛び出していっても、返り討ちに遭うのが関の山だ。
「てめえ、怖気づいたか? それでも帝国軍人か、あぁ!?」
「矜持じゃ勝ちも命も拾えんよ。大体、お前にもわかるだろ。都市庁舎はもうダメだ。二将たちも死んだ。遠からず、シュドラクが街に入ってくる」
「――――」
「その前に逃げなきゃ、勇敢に討ち死にする以外の選択肢はなくなるぞ」
ジャマルは、大人しく武装解除なんて屈辱を受け入れられる性格ではない。
代わりの選択肢は武器を持ったまま、敵陣へ飛び込んで蛮勇を振るい、十人ぐらい道連れにしたあと討ち死にするぐらいだろう。
まさしく剣狼の死に様と言いたいところだが、トッドから見れば犬死もいいところだ。
命も、有限な手札だ。
勝利のために使うならともかく、負け惜しみのために使うのはもったいない。
それなりに付き合いも長い。そう忠告してやるぐらいの関係性だとは思う。たぶん。
「ちょうど、塞ぎたての壁の穴があるだろ。俺はそこから逃げる。お前は?」
「ぐ、ぐ……また、また生き恥を晒せってのかよ」
「生きてれば恥をすすぐ機会もあるさ。けど、死んだらそれまでだよ。ってわけだから、俺はいく。勝算のない戦いは乗れない」
勝算の有無どころか、勝算の低い戦いにも乗らないのが本音だが、細かなことを並べてジャマルと押し問答をする暇も惜しい。
さくっと背中を向けて走り出すと、ジャマルはしばしの逡巡のあとで「クソったれ!」と罵声を上げ、仕方なしにトッドの後ろに続いた。
誰も彼も、このぐらい単純だと助かるのだが、世の中そううまくいかない。
ともあれ――、
「ひとまず、ナツミって名前で覚えとくことにするか。――戦争の申し子さんよ」
△▼△▼△▼△
帝国旗が焼かれ、都市庁舎が陥落したとわかると、帝国兵たちは思いの外、素直にこちらの投降の呼びかけに従った。
それは都市を守る衛兵たちも同じであり、無血開城を目的としたスバル的には大助かりではあったが、驚きの展開でもあった。
「よく時代劇とかで戦国の戦いとか見ると、相手方の大将首が取られた時点で戦いが終わるのが不思議だなと思っていましたけれど……」
大将がやられたら、次に偉い人間が大将になって戦いが続く。
そうして、片方が全滅かそれに近い状態になるまで決着はつかない、と素人考えだと思ってしまうのだが、実際の戦いではそうはならない。
それこそ、圧倒的に戦力では勝るはずの帝国駐留軍も、指揮官であるズィクルの身柄が押さえられたとわかった途端、こうして武装解除に応じるのだから。
「それにしてモ、大したものだったナ、スバル……いヤ、ナツミ」
「ミゼルダさん」
戦果と、作戦の成功に偽物の胸を撫で下ろすスバル。そこに声をかけたのは、酒瓶から直接豪快に酒を呷るミゼルダだった。
別動隊として市外に潜んでいた彼女たちも、帝国旗が燃えたことを合図に、都市庁舎の陥落を悟って都市へ入った。衛兵たちも帝国兵の敗北を知り、堂々とやってくる彼女たちを引き止めることをしなかったそうだ。
おかげでシュドラクの協力もあり、帝国兵の大半を捕縛することに成功した。
酒宴だった大広間も、並んでいた酒や食事が片付けられ、代わりに拘束された帝国兵たちがずらりと整列させられている状況だ。
捨てるのももったいないと、ミゼルダなどは酒に口を付けているが、そうしていると略奪上等の蛮族っぽさが際立つなと、そうスバルは思った。
「でも、これだけの人数……やはり、正面対決は厳しかったですわね」
「たとえ敵が多かろうト、シュドラクの誇りは挫けなイ。……とはいエ、単純な数は覆し得ないものダ。だガ、お前とアベルはそれを覆してみせタ」
「――――」
「誇レ、ナツミ。お前は智によって勇を示しタ。我らではできなかったことダ」
力強くスバルの肩を叩いて、ミゼルダが男前な笑みを残していく。
そのままの足で、彼女は都市庁舎の陥落に最大の貢献をしたタリッタとクーナをねぎらうために二人の下へ向かった。
遠目にも、姉に褒められて目を輝かせるタリッタの姿が微笑ましい。なお、クーナは無事を確認するホーリィに抱きしめられ、鯖折りみたいになっていた。
「あのまま、功労者のクーナが息絶えなければよろしいですけれど……と」
「――――」
安堵感も手伝い、小さな笑みのこぼれるスバル。それから振り向いたところで、すぐ背後に立っていた相手とぶつかりそうになった。
その相手は――、
「れ、レム……」
「……はい」
じっと、すぐ間近から見上げられ、スバルは思わず後ろに下がった。
木製の杖をついているレムは、その薄青の瞳でスバルのことを上から下まで眺める。その視線に居心地の悪さを味わいつつ、スバルは小さく咳払いして、
「ど、どうしましたの? わたくし、何ともなくってですわよ?」
「そう、聞いてはいます。ただ、あなたはどこかにケガをしていても、それを隠して同じことを言いそうな気がしたものですから」
「信用がないですわね……でも、わたくしも痛みに強い方ではありませんから、ちょっとしたケガでもすぐに申告しますわよ。ホントホント」
「それも、怪しいものですね」
「とほほ……」
と、信用のないレムの眼差しにスバルは肩を落とした。
しかし、すぐに「あれ?」と首をひねる。今のは物言いこそ素っ気ないが、つまりはスバルがケガをしていないか、心配してくれたということではなかろうか。
「わ、わたくしの身を案じてくださるんですの?」
「は?」
「あ! ごめんなさい! 調子に乗りましたわ! そうですわよね! 別に、レムがわたくしのことを心配だなんて……」
「しましたよ」
「へ?」
バタバタと手を振り、スバルは自分の勘違いを慌てて訂正しようとした。が、それは他ならぬ、レムの言葉によって遮られる。
見れば、レムは表情を変えないまま、微かにその瞳の色を揺らして、
「だから、心配しました。当然でしょう。どれだけふざけた作戦だったとしても、あなたにそれをさせたのは私です。なのに、私が心配しない? いったい、私のことをどれだけ薄情な人間だと思っているんですか」
「い、いえいえいえ、そうではないんですのよ。レムが薄情だなんて思っていません! レムは愛情深くて、ちょっと思い込みが激しくて、親しくなる前は余所余所しいところもありますけれど、そのギャップもたまらない魅力で……」
「――――」
「レム、もしかして感動してますの……?」
「いえ、単純に気持ち悪いと思っていました」
「うぐぅ!」と、単純な言葉だけにスバルの偽物の胸が貫かれた。
痛みに偽乳を押さえながら後ずさるスバルに、レムがアンニュイな吐息をこぼす。それから彼女は一歩、スバルの方へと歩み寄り、
「ただ、言動はどうあれ、あなたはどうにかしてみせました。本当に、この都市を落としてみせた。それも、死人を出さないでです」
「……無血開城の字面を守るなら、ケガ人も出したくなかったですのに。それは、いくら何でも高望みだったですかしら」
「どうでしょうか。案外、あなたとアベルさんなら、それもできてしまうのかもしれませんね。……なんで、そんな顔をするんですか」
「……別に、何でも、ありません、わよ?」
渋い顔をしたスバルに、レムが胡乱げに眉を寄せる。
実際、彼女の言い分は頷ける。今回、アベルの協力がなければこの計画は成立しなかっただろうし、彼が恐ろしく知恵の巡る男なのは事実だ。
それでも、レムの口から他の男を褒める言葉を聞いて、胸がもやっとした。
「この偽物の胸でも、感じ入るものはあるんですのね……」
「なんだか、くだらないことを言っているような気がしますけど……」
レムのじと目に見つめられ、スバルは「いえいえいえ」と両手を振って誤魔化した。
今の嫉妬心をレムに伝えても、彼女には気持ち悪がられるだけだろう。それも仕方ないことだが、傷付くことは傷付くのである。愛情の一方通行は辛い。
「いえ、この場合は反射だから……? エミリアたんには素通りしてるけど、それでも受け取ってくれてる実感はありますものね……」
「おー! ナツミちゃん、いたいた! すごかったって聞いたよ、おめでとう!」
「わ、ミディアムさん」
大きな声を上げて、どたどたと足音を立てながら駆け込んでくるミディアム。上背のある彼女の急接近にのけ反るスバルだが、そののけ反った分の距離を、彼女は自分が前のめりになることで埋めてくるので意味がない。
ミディアムは満面の笑みを浮かべ、その肩に二人の少女――ウタカタとルイを乗っけたまま、楽しげに広間の兵たちを眺めていた。
「これ、みーんなナツミちゃんとかが捕まえたんでしょ? ビックリしたー! で、で、で、姉ちゃんは? 姉ちゃんは頑張ってた?」
「姉ちゃんって、ですからミディアムさん、フローラは……」
「――僕はここだぞ、妹よ!」
「おお!」
大きな靴音を一発鳴らして、そう声高に己の存在を主張した美男子、大広間に現れたフロップの姿を見て、ミディアムが丸い目をさらに大きく見開いた。
そこには彼女が連れ添い、長いこと見慣れたフロップその人が映っていたのだ。
「あんちゃん! あんちゃんじゃないか! やっぱり、あんちゃんは姉ちゃんじゃなくて、姉ちゃんだと思ってた姉ちゃんはあんちゃんだったってこと!?」
「はっはっは、何を言ってるのかさっぱりだな、妹よ! でも、どうだろうと僕はここにいる。だったら、僕が兄だろうと姉だろうと些細なことじゃないか!」
「それもそっか! じゃあ、あたしも妹じゃなく弟かもしんない! でっかいし!」
「妹でも弟でも、兄でも姉でも家族であることに変わりはないさ!」
オコーネル兄妹の会話は独特だが、その独特なテンポ感のまま決着までいった。
笑うフロップがミディアムの腰に抱き着くと、両肩に少女たちを乗せたミディアムがそのままぐるぐると回り始める。
結果、フロップの両足が浮かび上がって大回転が始まり、大広間に兄妹と子どもたちの楽しそうな笑い声が響き渡った。
「シュール、ですわね……」
「ミディアムさんも、フロップさんのことを心配していましたから。……それで、あなたはいつまでその格好でいるつもりなんですか? 一生?」
「一生は言いすぎですわよ!? いくらわたくしが可愛くても、これは仮初の姿……いずれは元に戻らなくてはならない運命ですもの」
「いずれということは、まだまだその格好でいるんですか?」
「今はたまたま、着替える暇がなかっただけですのよ!」
疑わしいもの、有体に言えば変質者を見る目でレムに見られ、スバルも延々と耐えられるほど精神的にタフなわけではない。
実際、今も女装したままでいるのは、帝国旗を燃やしたり、その後、都市に入った『シュドラクの民』を迎えたりと、細々とした作業に追われたからだ。
あくまで、状況がスバルに着替えることを許さなかっただけ。決して、意図的にナツミ・シュバルツのままで居続けたわけではないのだ。
「ないんですのよ?」
「そうですか。アベルさんでしたら、指揮官の方と奥の部屋ですよ」
「信じてくれてなさそうな態度!」
白い目を向けてくるレムに指差され、スバルはすごすごとそちらに足を向ける。
このまま、レムや他のみんなと無血開城に成功したことを祝していたいが、ここで無防備に諸手を上げて大喜びばかりしているわけにはいかない。
結局、グァラルの陥落も通過点でしかないのだ。今後の、帝国を揺るがす内乱と、スバルがどういう立ち位置を保つのかも含め、考えなくてはならない。
そのために――、
「失礼しますわよ」
そう声をかけ、スバルは大広間の奥にあった別室の扉を押し開ける。
そこは本来、都市庁舎の主である都市長の個室、オフィス的な部屋だったはずだが、現在は主は追い払われ、代わりの支配者が椅子に座っている。
元々はズィクル二将が、しかし今は、それよりも尊大な男が、だ。
「――貴様か。まだ、その格好をしているのか」
そう言って、頬杖をつきながら鼻を鳴らしたのは、すでに踊り子の衣装を脱ぎ捨て、男物の装いに袖を通したアベルだった。
彼の前には跪いたズィクルのもじゃもじゃ頭があり、それ以外に室内に人はいない。
「わたくしの格好には触れないでくださいまし。それよりも、護衛もつけずに二将と二人きりになっているんですの? 命知らずにも限度がありません?」
「無論、此奴に抵抗の意思があれば剣を突き付けもしよう。だが、そのような意思は此奴にはない。そうだな、ズィクル・オスマン」
「――は。その通りにございます、閣下」
顎をしゃくり、アベルがズィクルに返答を促すと、彼はアベルをそう呼んだ。
閣下と、明らかな目上に対して向ける敬意に満ち溢れたそれは、彼がアベルを単なる女装趣味の賊ではないと判断している証だ。
つまり、ズィクルはアベルの素性を理解して、ここに跪いている。
「話したんですの?」
「話すまでもなかった。どうやら、此奴は舞の最中に気付いていたようだな。いや、正確には舞のあと、頭で理解したというべきか」
「――?」
言い換えの意味がわからず、首を傾げるスバル。
しかし、そのアベルの見立てにズィクルはより深々と、さらなる敬服を示すかの如く頭を沈めた。
正味、ここまであまり感じられなかった、アベルが皇帝であるという事実、それをしっかりと認識し、敬意を表明する貴重な人材だ。
「だが、明かすまでもなく察したのであれば好都合よ。ズィクル・オスマン、俺に従え。悪いようにはせぬ」
「は! 閣下の御為でしたら、このズィクル・オスマン、身命を賭させていただきます!」
「ま、待った待った、本気ですの!? まだ、何にも事情聞いてないんですのよね!?」
椅子に腰掛けたまま、自分への臣従を求めたアベルにズィクルが即決する。
好都合ではあるのだが、あまりにも話がうますぎる。だが、ズィクルはスバルの問いかけに対して、首を大きく横に振り、
「眼前に閣下がおられ、我が身を求めておられる。なれば、これに応じるのが帝国の『将』としての務め。何より、前以上の忠節を、閣下にお誓いしたい」
「ほう、何故だ? そんなに、俺の舞に魅せられたか?」
「大層、素晴らしきものでございました。ですが、それだけではございません」
微笑みすらせず、冷たい冗談を口にしたアベルにズィクルの熱は強い。彼は床に両の拳を押し付け、その表情に強い強い歓喜を宿しながら、
「よもや、閣下が私の二つ名を……それも、不名誉でしかないと呪ったものを覚えていてくださり、挙句、それを信じてくださったとは……」
「当然だ。帝国の支配者たらんとすれば、遍く国土を解さねばならん。仕える臣下のことも同様だ。『将』ともなれば、いつ俺が自らの手足とするかわからぬ。己の手足もわからずして、皇帝の歩みが乱れぬと思うか?」
「断じて否! それ故に、本心から光栄なのでございます!」
拭い難い歓喜に身を震わせ、ズィクルが熱き忠誠をアベルに誓う。
正直、出来事だけ見れば出来過ぎの展開なのだが、ズィクルの横顔が鬼気迫りすぎていて、スバルにも彼の内心を疑う余地を見出せない。
それと同時に、スバルはアベルの持つ求心力というべきカリスマと、それを支える皇帝としての強烈な自負と信念に圧倒されていた。
帝国に『将』と呼ばれる存在がどれだけいるかわからないが、その中でズィクルが突出していたとしても、都市を陥落させる確信を抱けるまでに記憶しておけるだろうか。
ましてや、この都市を任されるのが別の『将』であった可能性も含めれば、アベルはそれがどんな相手だろうと、この結果を引き出したと確信できた。
皇帝が、雲の上の相手が自分を知っていて、自分の強みも弱みも把握した上で作戦を組み立て、見事にその思惑に搦め取られ、敗北した。
それはひょっとすると、憧れのプロ野球選手にホームランを打たれた、高校野球のピッチャーのような心境なのかもしれない。
そう例えるには、実際に行われたのが戦争という物騒すぎるものなのだが。
いずれにせよ――、
「ズィクル・オスマンが従うのであれば、その下の『将』もこちらにつこう。城郭都市と合わせて、ようやくマシな戦力を集めたと言えるな」
「とはいえ、余所と構えるのであれば戦力不足は必至。まずは、帝都より送られるはずの増援、これを市内へ招き入れ、投降を呼びかけるべきかと」
帝国の事情に通じ、戦略を練られる人材が加わると、あれよあれよと軍議も本格的なものへと早変わりだ。
それを抵抗なく受け入れるアベルと違い、スバルの方は本格的な戦争の準備の始まりに大きな抵抗感がある。故に、その話が進む前にアベルと話し合いたい。
城郭都市を落としたあとの、スバルとレムとの処遇について。
しかし、スバルが持ちかけようとしたその話は、残念ながら取り合ってもらえなかった。
何故なら――、
「――帝都の増援」
と、ズィクルの一言に反応したアベルの呟きに、部屋の空気が震えたからだ。
そのアベルの様子に目を見張ったスバルたちの前で、彼は勢いよく椅子から立ち上がると、大股で大広間へ戻る。
そして――、
「――今すぐに街の正門を閉じよ! 使者であろうと取り合うな!」
そう怒鳴るように吠えたアベルに、大広間の全員が驚かされる。
当然ながら、直前まで話をしていたスバルたちにもわからない以上、ミゼルダたちにもアベルの真意は伝わらない。
ただ、アベルの切迫した様子から、只事ではないと察するには十分だった。
「タリッタ、ゆケ、正門を閉ざすよう言ってこイ」
「あ、姉上、いったい何ガ……」
「――ゆケ! シュドラクの名を汚すナ!!」
逡巡したタリッタを、語気を荒くしたミゼルダの声が強烈に打った。
殺意すら感じさせる一声にタリッタが目を見張り、慌てて大広間から外へと飛び出していく。そのまま、タリッタは正門を閉じるよう衛兵たちに命じるだろう。
それで、アベルの指示は果たされるだろうが――、
「村長くん、何があったんだい? 君が血相を変えるなんて珍しいじゃないか」
「今は貴様の戯言に付き合っている暇はない、商人。すぐにでも態勢を整える必要がある。ズィクル・オスマン、『将』たちを説得せよ。ミゼルダ、貴様らは……」
「うううーっ!!」
心配するフロップを無下に扱い、アベルがてきぱきと周りに指示を飛ばす。
ズィクルとミゼルダ、それぞれの集団の長に配下をまとめるよう命じるアベルだが、その指示は中途で、甲高い子どもの癇癪によって遮られた。
「わ、わ、わ、どったのどったの!? ルイちゃん、なんかあった!?」
「うー! うー! あーうー!
「ルー! 落ち着ク! ウーがいル!」
髪飾りの多い髪を引っ張られ、ミディアムが驚いて目を回す。その肩の上、担がれているルイが必死に声を上げ、それをウタカタが宥めようとしていた。
だが、暴れるルイは一向に大人しくならない。それどころか、ルイはボロボロと大粒の涙を流し、何かを恐れるように表情を強張らせていた。
「ルイちゃん、落ち着いてください! どうしたんですか? 何かあったなら、私がちゃんと聞きますから、泣かないで……」
「うー!」
「え? あっちに、何かあるんですか?」
泣きじゃくるルイを見ていられず、レムが彼女の下へ向かう。そのレムの接近に気付くと、ルイは涙を流しながら、大広間の片隅を指差した。
それにつられ、レムもそちらに目をやる。つられて、スバルやアベルもそちらに視線をやった。しかし、何もない。――何もない、はずだが。
「ミゼルダ!」
「お、おおおおオ――ッ!!」
その虚空を睨みながら、アベルがいち早くミゼルダの名を呼んだ。
それに応じるように、ミゼルダが背中の弓を素早く構え、右手に四本の矢を掴むと、それをいっぺんに弓につがえ、引き絞った。
ミゼルダの強靭な肉体から放たれる、シュドラクの族長が繰り出す凄まじい一撃。
四本の矢が乱れ飛び、それがルイの指差した何もない空間へと押し寄せる。その矢の一発は、あるいはスバルを森で殺した『狩人』の一撃を思わせるものだった。
それこそ、受けたのがスバルなら胴が千切れ飛ぶような凄まじい威力。
矢よりも強度があるはずの床と壁が砕かれ、破砕が広間へと噴煙を撒かせる。
巻き込まれまいと飛びのいた兵たちが息を呑む中、スバルたちもその煙幕の中にルイが騒ぎ出した原因がいるのではないかと目を凝らし――、
「――それだと、わたし、殺せない」
どこか、のんびりとした声が、噴煙の上がった広間の中に柔らかく落ちる。
女性の、声だったと認識する。のんびりと、呑気な、感情の起伏に乏しい、声量もささやかな声だったと、そうスバルの鼓膜は判断した。
一瞬の緊迫感が張り詰めた状況で、それはひどく場違いに感じられた。
しかし、その声がもたらした結果は強烈だった。
「――――」
――瞬く間に、ミゼルダの全身が凄まじい炎に呑まれ、燃え上がったのだ。
△▼△▼△▼△
「――ッッ!!」
一瞬で全身を炎に包まれ、ミゼルダが声にならない声を上げる。
人型の炎の塊と化したミゼルダの姿に、全員がとっさの行動を封じられた。
「――ッ、ホーリィ!!」
「わ、わかったノー!!」
直後、クーナに呼ばれ、ホーリィが慌てて大量の水が入った水瓶に飛びつく。ホーリィはそれを自慢の怪力で持ち上げ、燃えるミゼルダの足下に力一杯投げつけた。
割れた水瓶から溢れる水がミゼルダを呑み込み、燃えた彼女が床に倒れ込む。
炎に焼かれたのは一瞬のこと、それでも全身が焙られた苦痛は想像もできない。
いったい、何が起こったのかと、スバルは状況の変化の速さについていけていなかった。ただ、混乱の渦巻く広間の中心、見知らぬ人影が増えていたのには気付く。
スバルだけでなく、他の面々も徐々にその人影に気付いた。
――そこに立っていたのは、褐色の肌の大部分を露わにした美しい少女だった。
銀色に近い白髪、左目を覆った眼帯、臀部からは豊かな毛並みが特徴的な尻尾を生やし、手にはその辺で拾ったような枝を握っている人物。
感情の乏しく見える顔つきは幼く、女性的な起伏に富んだ肢体と比べると、ひどくアンバランスな印象を受ける。
だが、この可憐な少女こそが、直前の出来事の引き金なのは疑いようがない。
何をしたのかも、何が目的なのかも、何者なのかも、全部が不明で――、
「――貴様か、アラキア」
しかし、誰もが凍り付く中で、その少女の名前を知り、呼ぶものが一人いた。
その整った顔貌の瞳を鋭くして、立ち尽くす少女――アラキアを見つめるのは、神聖ヴォラキア帝国の玉座を追われた皇帝。
ズィクルが即座に臣従を誓った威圧感、それを真っ向から浴びて、しかしアラキアは手にした枝を緊張感なく左右に振ると、
「閣下、ひさしぶり」
「貴様も、息災のようだな。――チシャも、容赦のない真似をする」
「しないよ? 危ない、から」
緊張感のない会話だが、それはあくまでアラキアの側から見た話だ。
たとえ話が通じていようと、それで状況の改善が望める相手でないことは、アベルの張り詰めた表情からも窺える。
そもそも、アベルを皇帝と認識した上で、こうも気安く接する彼女は何者なのか。
「アラキア、一将……」
「……今、なんて言いました?」
流れで並んだ二人、ズィクルの絞り出した言葉にスバルが頬を引きつらせる。
聞き間違いであってほしかったが、その顔に脂汗を浮かせたズィクルの目は真剣で、スバルは自分の聞き間違いの可能性の消滅を感じ取った。
そして、それが錯覚でないことを証明するように、ズィクルが重ねる。
「アラキア一将……帝国最強の、『九神将』の一人!」
「それも、九神将の『弐』だ。――つまり、帝国で上から二番目ということになる」
「帝国、二位……!?」
ズィクルの叫びを、アベルの言葉が補足し、スバルも取り繕えずに絶叫する。
その広間の驚愕の中心で、注目を集めたアラキアは枝を掲げ、
「えらい」
と、自慢げに胸を張った。
「――――」
じりじりと、そのアラキアを中心に、大広間に集まっているシュドラクが包囲網を作り始める。初手でミゼルダが倒れ、残ったシュドラクは十七名、その中には非戦闘員のウタカタも含まれており、十分な戦力かはわからない。
ただ――、
「やっと、この手に掴んだ勝利を邪魔されてたまるか――!」
そう呪うように吐き出して、スバルも押収した剣の一本を拾い上げた。
追い返す、追い払う、叩きのめして捕まえる。どれをやるにせよ、どれかしらをして、このグァラル陥落の勝利を確かなものに――。
「頑張っても、無駄」
次の瞬間、大広間の全体が捻じ曲がるような凄まじい風が吹いて、スバルも、シュドラクも、拘束された帝国兵も、全員が一緒くたに掻き混ぜられた。
「――――」
天地がひっくり返り、上下左右も正面背後もわからなくなり、スバルは全身を床に、壁に、天井に打ち付け、強烈な痛みに意識を飛ばされかけた。
「か」
何が起こったのか、全身を地面の上に投げ出され、壊れた天井を眺めながらゆっくりと脳が分析と理解を進める。――たぶん、竜巻だ。
室内で、一瞬で凄まじい規模の竜巻が発生し、それがスバルを――否、スバルたちを呑み込んで、ただ乱暴に吐き出した。
人も物も、敵も味方も区別なく、アラキアの竜巻が室内を蹂躙した。
それでも、スバルがかろうじて意識を失わずに済んだのは――、
「じょ、せいを……これ以上、傷付け、させは……」
そう呻きながら、だらりと腕を投げ出したのはスバルを抱えたズィクルだった。
竜巻が発生した瞬間、ズィクルはとっさにスバルの体を引き寄せ、破壊に蹂躙される衝撃から守ろうと試みた。ほんのささやかだが、彼の体がクッションとなったことで、スバルは意識を失わずに済んだ。
しかし――、
「嘘、だろ……」
荒れ果てた広間を見渡して、スバルは絶望的な気持ちで吐き出した。
人も物ももみくちゃにされた広間の中、先ほどまで戦意を高めていたシュドラクたちもことごとく地に伏し、戦闘不能に追い込まれている。
むしろ、敵対の意思を見せたものこそ、強い被害を受けている状態だ。
よもや、あれほどの破壊を発揮しながら、アラキアの竜巻は攻撃する対象を選ぶことさえしたのだろうか。
「――れ、むは」
全身の痛みを堪えながら、スバルは広間の中にレムの姿を探す。
彼女もまた、シュドラクたち同様に攻撃を受けて昏倒しているかもしれない。当たり所が悪ければ、最悪の事態だって考えられる。
そうして、スバルは室内に視界を巡らせ、それを見つけた。
レムではない。レムではないが、それはスバルの目を引いた。
何故なら彼は、竜巻に蹂躙されたあとでもその足で立ち上がり、半壊したバルコニーへと逃れ、手すりに背を預けながらアラキアを睨んでいたからだ。
「あべる……」
あの竜巻の中、いったいどうやって身を守ったのか、アベルの被害は最小限――それでも額から血を流し、片腕をだらりと下げた姿は痛々しい。
しかし、アベルは覇気の衰えない目で、真っ直ぐにアラキアを見据えていた。
「言いなりの人形が、大仰な真似をする。貴様、自分が何のために俺の配下に加わっていたか、それを忘れたか?」
「……閣下、嘘ついた。わたし、騙されてた。だから、許さない」
「――それも、チシャの入れ知恵か」
微かに目を伏せ、アベルが重たく血の色をした息を吐く。
アラキアは感情の起伏に乏しい顔の中、それでも瞳にそれとわかる怒りを宿し、ゆっくりと荒れた地面を踏みしめ、バルコニーのアベルへと歩を進めた。
まさか、格好をつけるためにバルコニーへ逃げ込んだわけではあるまいが、負傷し、何も持たないアベルに挽回の手があるとも思えない。
そのまま、一歩一歩と距離を詰めるアラキアの足取りが、アベルの命のカウントダウンそのものに見える。
一歩、二歩と、そのままアラキアがアベルへ近付き、そして――、
「う、ああああ――っ!!」
高い声が上がり、直後、アラキアが通り過ぎようとした位置に柱が倒れ込んでくる。
石材が砕け、へし折れる轟音が鳴り響いて、数百キロを下らないだろう原始的な質量兵器がアラキアへ襲いかかった。
それを実行したのは、柱の陰に隠れ、タイミングを見計らっていたレムだ。
竜巻に呑まれながらも意識を保ち、柱の陰に隠れたレムは、おそらくアベルの位置からは見えていただろう。気配を隠し、アラキアの前進に合わせ、アベルの視線でタイミングを合わせて柱を押し倒した。
レムの剛力を活かした、この状況で打てる最後の攻撃。
それは狙い違わず、アラキアの華奢な体を押し潰さんと圧し掛かり――、
「うん?」
「――うそ」
視線すら向けなかったアラキアの足下、床がまるで飴細工のように変形し、伸び上がったそれが倒れる柱を支え、再び硬質化する。
最初からそうだったような、前衛アートの完成を見届けた気分だ。
レムの渾身も、アラキアに届かないどころか、意識すら逸らせなかった。
そして、へし折れた柱の根本で膝をつくレムに、アラキアが振り返る。それからレムを見た彼女は、ふとその目を丸く見開いて、
「あ、鬼だ。珍しい」
「あなたは……っ」
「……邪魔、しないで。仲間は傷付けたくないから」
「仲間……?」
何を言っているのかと、レムの顔が怒りで赤くなる。
だが悲しいかな、相手との隔絶した力の差がある以上、怒りはただの感情、そして抵抗する意思は空しいものでしかない。
レムが瓦礫に手を伸ばし、今度は投擲で攻撃の意思を示そうとする。
しかし、アラキアは手にした枝を振るい、風を起こしてレムの周囲にあった瓦礫を根こそぎに吹き飛ばしてしまった。
文字通り、根こそぎだ。吹き飛ばされたのは床の瓦礫だけではなく、レムの背後の壁と天井、建物の上層を構成する部分が次々と吹っ飛ぶ。
「力加減、苦手だから。あなたも、飛ばしちゃう」
「だったら、だったら、やったらいいじゃないですか。これだけのことをして、今さら何を躊躇うことがあるんです。そんなの……」
「……残念」
歯を食いしばったレムの答えに、アラキアがしょんぼりと肩を落とす。
だが、その可愛げのある仕草と裏腹に、アラキアの行動は苛烈でシンプルだ。ゆっくりと枝が持ち上げられ、次元の異なる現象がレムの存在を打ち砕く。
――そんなこと、ナツキ・スバルに許容できるはずがなかった。
「あ、ああああ――っ!!」
雄叫びと共に全身の痛みを追い払い、スバルの肉体が躍動する。
この瞬間だけは、竦む恐怖も先の見えない不安も、何もかもが邪魔だった。
思考を放棄し、本能の訴えるままに前進し、レムとアラキアの前に割り込む。
レムへと襲いかかるはずだった破壊から、せめて彼女を守ろうと望む。
死んでも、よかった。レムを守れるなら、死んでもよかった。
死にたくないのが本音だし、死んだら全てを台無しにするのがナツキ・スバルの呪われた運命でも、ここで死んでも構わなかった。
女の格好をして、偽物の胸まで作って、顔には化粧、頭はウィッグ、肌が白く見えるように工夫まで凝らして、そんな美しさを求めた滑稽な姿で、ナツキ・スバルは守らなくてはならない少女のために、血を吐く思いで立ち向かった。
「――っ」
レムを背に庇い、両手を広げる。
目の前にスバルが割って入ったことに気付いて、レムが息を呑むのがわかった。
しかし、彼女がそのスバルの行動に何を思ったのか、何を感じたのか、その答えがわかることはない。その機会は、訪れない。
それはアラキアという破壊の前に、あっという間に奪い去られて――、
「――何とも滑稽な挺身よな。だが、悪くはない」
それは、全てが奪い去られ、何も残らなくなる覚悟を決めたスバルの耳に届いた声。
ぎゅっと目をつぶり、訪れる終焉を受け止めようとしていたスバルは、熱も喪失感も、痛みも苦しみも渇きも、およそ『死』に至る要因のいずれも、自分の肉体に降りかからなかったことに気付き、息を呑んだ。
そしてゆっくりと目を開け、それを見る。
レムを背に庇い、両手を広げたスバル。――そのスバルの前に、誰かの背中がある。
アラキアでは、ない。アラキアは、その背中の向こうに立っている。その顔に驚愕を張り付けて、呆然と立ち尽くしているのが見えた。
その驚きをアラキアにもたらした存在は、右手に赤々と輝く剣をかざしながら、押し寄せるはずだった破壊の全てを斬り伏せる。
尊大で、傲慢で、この世の全てが自らの足下に跪くと確信している紅の瞳。
その豊満な胸を弾ませるように腕を抱き、残酷な美しさを体現した顔貌に嘲弄を交えるのは、この場で顔を合わせるはずがなかった相手。
「――ぁ」
いるはずのない存在の出現に、スバルはただただ息を呑む。
そんなスバルを背に庇い、『紅』という文字の顕現たる美貌の主は鼻を鳴らした。
そして――、
「名乗る必要はないぞ、愚物。妾の名をこそ呼ぶがいい」
そう言いながら、彼女――プリシラ・バーリエルは血の色をした笑みを浮かべていた。