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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第五章 『歴史を刻む星々』
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第五章55 『闘神と挑戦者』


 ――闘神クルガンの伝説は、ヴォラキア帝国に広く伝わっている。


 実力主義のヴォラキア帝国にあっては、能力さえあれば出自は問われない。

 亜人に対する差別意識が残るルグニカ王国や、外来の人間を排斥するグステコ聖王国などと比べれば、ヴォラキアは血や見た目を考慮しないカララギ都市国家に近い方針をとっている。


 そのため、四大国の中でもヴォラキアは純血の人間種以外にとって生きやすい国家である。


 しかし一方、その過酷な実力主義は、知恵も力もないものに対する苛烈な弾圧と風当たりを意味する。当然、個人への評価と種族への評価は異なる。

 特に多腕族は長年にわたり、一定の土地に留まらない流浪の種族として各地を放浪してきた種族だ。多腕族はその曰くありげな見た目と、亜人種にしては魔法を扱う適正が著しく低いことから、種族単位で劣等と考えられてきた。

 種族の母数も多いとはいえず、争いになれば土地を守ろうために戦うよりも移住を選択する。


 そんな種族であったが故に、各地で疎んじられた彼らがヴォラキア帝国に行き着き、そこで鉄血の帝国主義に呑まれて潰えそうになったのも必定といえた。


 ――その実力主義の世界で、『否』と声を上げたのがクルガンその人だ。


 多腕族は人類種と違って二本以上の腕を持つのが特徴だが、その腕の数には個体差がある。多くの場合、四本から五本に留まる多腕族の中でも、八本もの腕を生やしたクルガンは異色の存在であった。


 まだ若かったクルガンは、移住した土地からの立ち退きを求める領主の意見を突っぱね、自らの八本の腕を振るって使者を追い返した。そして、震え上がる同族のものたちを説得し、力ずくで排斥しようとした領主の私兵をことごとく撃破し、領主の館まで攻め上がったのだ。

 蛮族の襲撃に領主は肝を冷やしたが、クルガンは短気に事を済ませようとはしなかった。


 彼は自らと、一族の力を証明してみせたとうそぶき、そのまま領主の新たな私兵の座に収まった。その後、数々の戦役にて武功を立て、『八つ腕のクルガン』の名はヴォラキア帝国の伝説として長く伝わっていくのである。



「――――」


 冷たい水の感覚を全身で味わい、頭上に揺らめく水面の向こう側の月を見上げる。


 右目を支える骨が砕け、閉じた瞼の向こうから眼球が落ちそうだ。とっさに当てた左手が治癒魔法を発動し、最低限の修復が施される。

 残った左目が水の流れに乗る赤いよどみを眺め、水路の底に背中をぶつけて体を丸めた。


「――――」


 水の中にいるのに、冷たいはずの水を感じない。

 重力という重りから解放されて、負荷の失われた世界でゆっくりと手足に力を込める。

 体の頸木と同じぐらい簡単に、心の方の頸木も外れればいいのに――心は今も、暗闇の中にいる。


 あるいはそのまま沈んでしまっても、そう思う心がないわけではない。だが、息はやがて辛くなり、瞼の裏の闇に何も見ずにいられるわけではない。


 桃色の髪の少女が、橙色の毛色の猫娘が、黒髪の少年が思い浮かび、湿気たはずの心に熱を灯す。


 またすぐに消えるかもしれない火だ。それはさっきの、空元気にすら満たない勇気が砕かれたことで証明されている。いるけれど、どうした。


 ――それは自分が、沈みっぱなしの理由にはならない。


「ぷはァ!」


 丸めた体を伸ばし、水底を蹴りつけて一気に浮上。水面から顔を出し、ガーフィールは頭を振った。

 右目の視界は塞がったままで、殴られたダメージの抜けていない頭はガンガン鳴る。血が逆流するような吐き気は全身に残り、欠けた歯の違和感が噛み合わせに影響する。


「クソったれァ……ッ」


 水路の縁に手をかけ、体を引っ張り上げた。濡れた体を獣のように振って水を飛ばし、ガーフィールは見る。

 先の、ガーフィールを水路へ叩き落とした位置。


 そこに変わらず、闘神が佇んでいる。

 抜き放った鬼包丁もそのままに、欠片も闘気を緩めることなく、ガーフィールが這い上がってこないことなど、微塵も疑っていない素振りで、そこに。


「――――」


 無言の闘神を目にして、ガーフィールは考える。

 そもそも、ここでガーフィールがクルガンとぶつかり合う必然性は弱い。ガーフィールに求められている役割は、都市庁舎へ奇襲をかけた可能性の高い『色欲』を止めることだ。ここでクルガンと戦っても、非戦闘員ばかりが残る都市庁舎を救うことはできない。

 全体の状況を見れば、ガーフィールがここでクルガンと戦うことはあらゆる意味で下策だ。


「けッどよォ……逃がしちゃ、くれねェよなァ」


 見上げるほどの巨駆、圧倒的な筋肉量。決して俊敏だとは思えない見た目でありながら、逃げに徹しても闘神の刃の範囲から逃れられる絵が浮かばない。


 闘神を前にした時点で、ガーフィールは逃げられない。

 今、ガーフィールに許されている選択は、二つ。


 ――立ち向かって死ぬか。抗わずに死ぬか、だけだ。


「馬鹿……考えてッ場合かよォ!」


 頭を過った不吉な考えを追い払い、ガーフィールは牙を噛み鳴らす。欠けた急造の牙が痛んだが、その痛みが後ろ向きな思考を鋭く刻んだ。


 負ける予感など、敗北の予兆など薙ぎ払え。

 負けるための能書きなど、必要ない。


 ――勝て、勝て、勝て、勝て、勝て、勝て!


 勝って、己の価値を証明しろ!!


「お、ぉぉぉぉぉッ!」


 吠え猛り、臆病をねじ伏せ、ガーフィールは再び突貫する。先の攻防で渾身の一撃は防がれた。

 だが、重さで足りないのであれば速度でねじ伏せる。

 爪で、牙で、抉り、引き裂き、噛みついて、奪う。


「――――」


 無言の闘神が、踏み込むガーフィールを迎え撃つ。

 肩口から放たれる鬼包丁の一撃。

 斬撃というには貫通力が低く、打撃というには鋭さに過ぎる。それはクルガンだけが生み出し得る、剣撃と打撃の混在した敵を討ち果たす迫撃だ。


 猛然と迫る鬼包丁の刀身が、屈むガーフィールの後頭部を掠める。余波にうなじを削られて、ガーフィールの脳を白熱する思考が駆け抜けた。


 一撃に対して、ガーフィールは十分な余裕を持って回避行動に入ったはずだ。小回りの利く小柄な自分と、多腕とはいえ長物を操る巨駆とでは速度が違う。

 大振りを避け、飛び込んだ懐に爪をお見舞いする猶予はあった。あった、はずだ。


「――ぐッ」


 なのに、懐に深く入ったガーフィールはその場で強引にのけ反らされる。胸下から顎を吹き飛ばしかねない勢いで、クルガンの脇下の豪腕が打ち上げられた。

 これも予想外――否、体のバランスが違う。


 多腕族に生まれたクルガンの肉体は、その八本ある腕を振るうのに最適な成長、最適な肉体を形成している。

 その肉体の驚異の戦闘技法は、ガーフィールの知る四肢を操る人類種とは根本から異なるのだ。


 一撃を放てば体が開き、隙が生じる常識が通じない。

 片腕を防げば、防いだ側に回り込むことで死角を得られる常識も通用しない。

 致死確定の一本の腕を塞いでも、同じことができる七本の腕を防がなくてはならない。


 それができないのであれば、死ぬ他にない。


「う、っがァァァァァッ!!」


 戦慄するガーフィールの眼前で、闘神の腕が世界を震撼させる。

 唸る鬼包丁は四方から、こちらの肉体を寸断せんと乱暴に打ち込まれ続けた。


 一撃を盾で受け、一撃を屈んでかわし、一撃を飛んで衝撃を散らし、一撃を回り受けして回避し、一撃を渾身の打撃で相殺し、一撃を肩を砕かれながら致命傷を避け、一撃を獣化した腕で無理矢理そらし、一撃を直撃されて石畳の上を無様に転がる。


「あぐッ、ごふッ」


 ――八手。


 今のガーフィールの全霊の攻防が、クルガンにとっての一合をどうにか乗り越えたにすぎない。

 あれだけ致死の攻撃が嵐のように押し寄せて、クルガンは己の八本の腕を一度ずつ振っただけなのだ。


 闘神がその気になれば、追撃でガーフィールは粉々になっている。今も血を吐いて転がるガーフィールに息があるのは、立ち尽くす闘神に追撃の意図がないからだ。


「――――」


 闘神は水路から上がったガーフィールを見ていたときと同じ姿勢で、同じ目で、喘ぐ敗者を見下ろしている。


 舐められている、などという反骨心は湧いてこない。

 そのような次元に立つ以前の問題だ。

 お互いに対等の技量をぶつけ合う、そんな一端の戦士として相対できる力量にまで接近していない。


 闘神、『八つ腕のクルガン』の名は健在だ。


「ふう……ふぅ……ッ」


 勝てない。勝てるはずがない。

 死せる伝説、英雄となった男、闘神。


 実力主義のヴォラキア帝国において、種族ごと劣等と蔑まれながらも、己の身一つで種族と運命を変えた男。

 ガーフィールはその伝説に憧れる、ただの青二才だ。


「ふぅ……ふっ……ふっ」


 なのに、なぜ体は立ち上がるのか。

 心がこれほどまで折られて、なお体は起き上がる。


「はァ……うるせェ、うるせェ、うるせェよ……!」


 脈打つ心臓の鼓動が、今はひどくやかましい。

 耳元で太鼓を鳴らされるような煩わしさに、ガーフィールは思い切り地面を踏みしめる。靴裏の石畳がひび割れ、亀裂が真っ直ぐにクルガンの足下まで伸びる。


 無言のクルガンと、血塗れのガーフィールの相対。

 ふらつくガーフィールがもう一度、爪先だけに力を込めて石畳を踏んだ。直後、クルガンが動く。

 否、動かされた。


「――――」


 ガーフィールの靴裏を伝い、『地霊の加護』が力を発揮する。その力は生じたひび割れからクルガンの足下へ届き、巨漢を支える地面を打ち上げた。


 浮かび上がる巨駆、いかな戦闘に特化した肉体を持っていたとしても、物理的な法則には逆らえない。

 下半身の支えなくして、強力な一撃は放てまい。


「がァァァァァ――!」


 この一瞬が正念場。


 宙に上がったクルガンを狙い、ガーフィールの両腕が跳ね上がった。

 部分的に獣化し、大虎の体毛と筋肉に包まれる腕がクルガンを打ち据える。さしもの闘神も空中で、姿勢を確保できない体勢では打撃力を殺せない。


 戟音が響き、受けた鬼包丁ごとクルガンが弾かれる。

 それを迎え撃つ、ガーフィールの蹴撃。初めて防御の隙間を縫い、分厚い腹筋を爪先が抉り抜ける。

 くの字に折れる闘神に喝采し、ガーフィールは次々と勢いに任せて打撃を打ち込み続ける。


 胸部に、大腿部に、膝に、腹筋に、打撃が入る。

 衝撃に打ちのめされるクルガンは、多腕を防御へ回すこともできず、万歳のような格好でされるままだ。


「もらったァァァ!!」


 勝利を目前にした確信に、ガーフィールが叫ぶ。

 振り上げた獣爪がクルガンの胸を切り裂き、どす黒い血がガーフィールの体を斑に染める。


 返り血を舐め取り、ガーフィールはなおも追撃する。

 さぞや追い詰められていようと、ちらと視線がクルガンの鉄面皮へと走り――直後、全身の毛が逆立った。


「――――」


 猛攻を続けるガーフィールを見る闘神の目は、当初の状態から何も変わらず、揺るがぬままであった。


「――ぁ」


 そして同時に、ガーフィールは察する。

 あまりにも遅すぎる、闘神の反撃の予兆を。


 放たれた二振りの鬼包丁は、とっさに掲げたガーフィールの両腕を盾越しの衝撃でへし折り、地面に叩きつけた。


「か」


 苦鳴、それすらまともに上がらない。

 視界は天地を一瞬で見失い、四肢が根本から吹き飛んだような衝撃がガーフィールを支配する。


 何が起きたのか、それだけはわかった。


 踏ん張りの利かない空中で、クルガンは上半身だけを利用した方法で苛烈な一撃を放った。

 方法は単純明快。


 鬼包丁の刀身を二本の腕で掴み、振り下ろす力への負荷を増大させ、威力を飛躍的に上げたのだ。


 ――つまりは、デコピンの原理。


 二本の腕でフックを作り、迫撃は致命の一撃と化した。

 宙に浮かせて攻撃力を奪う。そんな戦法など、見慣れているとばかりに無効化された。


「ごぉぁッ!」


 反撃の糸口が潰されたガーフィールを、真上から巨駆の靴裏が踏みにじる。

 落下してきた勢いそのままに踏みつけを食らい、ガーフィールは全身を軋ませ、石畳から弾き出された。


 痛みと喪失感に思考を支配されながら、ただ生存本能に従って治癒魔法を発動させる。

 上腕、肘、肩と三ヶ所が砕けた骨を接ぎ、かき回された内蔵を修復。肋骨や腰骨、左の大腿部もねじくれて、急速の回復では追いつかない。


 ゲートが加熱し、マナを使いきる覚悟で魔法を発動。

 地面に転がした全身から大地の力を汲み上げ、片っ端から体の治療、修復、回復に叩き込む。


 数秒、数十秒、あるいは数分。


 時間の流れを感じる機能をカットして、ガーフィールは肉体の修繕を急がせた。

 そしてかろうじて動くだけの機能を取り戻し、喉の奥に詰まった血を吐き出して、体を起こす。


「――――」


 闘神は静かに、血みどろのガーフィールを見ていた。

 その姿を見て、ガーフィールの瞼の奥が熱くなる。こみ上げる激情に顔を伏せ、奥歯が震えた。


「なん、だってんだよォ」


 先ほどから、クルガンの姿勢は一貫している。

 挑んでくるガーフィールを迎撃こそしても、自ら仕掛ける素振りもなければトドメの追撃もかけない。


 三度、情けをかけられたガーフィール。

 その胸中で暴れ回る敗北感と屈辱は、彼の戦士としての自負と矜持を粉々に打ち砕いていった。


 勝たなくてはならない、そう思っている。

 そう思っているのと同じぐらい、こうして幾度も無様をさらすことを強要されるなら、殺された方がマシだとも思っている。


 闘神クルガン、ヴォラキアの英雄。

 あらゆる戦士の頂点を見た彼であれば、ガーフィールの抱く煩悶が理解できないはずがないのに。


「いっそ……」


 殺してくれと、そう懇願すればいいのか。

 素直に敗北を認めて、力の差は歴然であると訴えて、戦士として死なせてほしいと願えばいいのか。


 盾を外して、両腕を広げて、神妙な顔で。

 そう願えば、叶えてくれるのか。


 闘神の一撃で命を散らされるのであれば、あるいはそれは戦士として誇るべき最期なのかもしれない。


「ここで……」


 終わってしまえれば、楽なのに。


「終わっちまえば、楽だってのに、よォ」


 盾をはめ直し、両腕を閉じて、牙を剥いて。

 アラガイの形相のまま、ガーフィールは正面を見る。


「頭から、消えねェ」


 何も考えずに戦えと、いつか言われた。

 そうした方がお前は強いと、余計な思考は置き去りにして、本能に任せてしまえと。


 ――本当に、そうだろうか?


「声が、消えねェ……」


 鼓動がうるさい。

 全身の骨が軋み、接がれ、イビツな音がする。


 うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。

 余計な音が、全部、全て、何もかも、邪魔だ。


 ――声が、聞こえなくなるだろうが。


「聞こえる……ずっと、聞こえッてやがる……」


 何も考えずにあろうとしても、無になろうとしても。

 ガーフィールの耳には、あるいは鼓膜ではない部分が、声を拾い続けている。


 誰かの声、親しい声、聞き慣れた声、胸が熱くなる声、喉が詰まる声、誇らしくなる声、怒りを抑えられない声。

 いろんな声が、ガーフィールを放さない。


 本能に任せて戦おうとしても、押し寄せる波がいっこうに引かず、ガーフィールは一人になれない。


 考えれば考えるほど弱くなるなら、今の自分は弱い。

 『聖域』で一人、無頼を気取っていられたときとは違って、いろんなものと出会い、いろんなものを見た。


 抱えるものが増える一方で、そうなる方が弱いのだと言われれば、人は生きれば生きるほど弱くなるのか。


「……そんなわけ、ねェ」


 消えない声を抱え込んで、敗北感を呑み込んで、勝利の渇望に巻き込んで、憧れも羨望もつぎ込んで。


 ――ガーフィールは、闘神に戦いを挑む。


「――くは」


「――――」


 ガーフィールの目の色が変わる。

 それを見届けたクルガンが、静かに動いた。


 四本の鬼包丁のうち、二本が再び鞘へ収まる。

 しかしそれは、クルガンが戦意を減らしたということではない。二本の鬼包丁に注力する力が増し、それを裏付けるように闘神の構えが変化する。


 仁王立ちして待ち構えていた闘神が、右足を前に、やや前傾姿勢でガーフィールと向かい合った。

 戦闘、それを行うための姿勢。


 ――クルガンがガーフィールを、敵と認めた証拠だ。


「つまり、さっきまでは文字通り、ガキ扱いだったってわッけだ。『グワン鳥は子育てに不向き』たァ、このことじゃァねェかよォ」


「――――」


 無言、その闘神にガーフィールは踏み込んだ。


 苛烈な踏み切りに鬼包丁が応じる。

 正面から壁が迫るような絶望感、その恐怖が見せる錯覚をねじ伏せ、ガーフィールは隙間をかい潜った。


 先の一合では目測を誤った初撃。

 理由はクルガンの放つ鬼気と、必要以上に英雄に怯えるガーフィールの心そのものが引き起こす錯覚。


「お、ォォォ!」


 突き上げる拳が、クルガンの胴体を穿つ。

 肉を鋼が打つ鈍い響き、しかし打ったのは狙った胴体ではなく、間に差し込まれた腕の一本だ。


「ッざ、っけるなァ!」


 拳を掌に受けられながら、ガーフィールが吠える。

 靴裏から力を吸い上げ、それがクルガンの掌の中の拳に伝わり、捻る勢いで打撃力が爆ぜた。


 クルガンの受けた指がねじくれ、猛然と打ち落とされる拳鎚を身を回して回避。勢いのままに闘神の腰、胸に足を着けて体を駆け上がり、顎を跳ねるようにサマーソルト。


 クルガンがのけ反り、同時に鬼包丁が横薙ぎに打たれる。

 風と大気の悲鳴に軌道を読み切り、両腕の盾で迫撃を受ける。

 轟音が鳴り、ガーフィールの体が大きく吹き飛ぶ。


「るるるるァ――ッ」


 四肢を石畳に突き刺し、はね飛ばされる体を強引に制動。顔を上げる眼前、闘神の追撃が突き刺さる。

 これまで追い打ちをかけなかったクルガンが、ガーフィールの体躯を押し潰しにかかる。


 判断は一瞬、行動は刹那、結果は直後だ。


「――――」


 石畳に突き刺した両腕を持ち上げ、眼前の地面をひっぺがして叩きつける。突っ込んできていたクルガンが肩からその壁をぶち壊し、鬼包丁が突き込まれる。


 激しい音。

 直撃を受けたガーフィールが押し下がる。踏み留まろうと突き刺さる踵が地面を抉り、折れた牙が吹っ飛んだ。

 だが――、


「なめッてんら、ねェぞオラァ!!」


 鬼包丁の刺突、その先端を歯が受け止めている。

 犬歯がへし折れ、大量の血が鬼包丁の刀身を伝うが、ガーフィールは躊躇わない。


「――――」


 首の筋力と顎の力が爆発し、クルガンの体が揺らぐ。

 噛み止めた鬼包丁の柄を別の腕が掴み、一気に引き抜こうとするが、突き刺さった牙は抜けない。

 それどころか、食い込む牙の力が増す。ガーフィールの上半身が膨れ上がり、半獣化が始まっていた。


「ご、ぉ、ぉぉぉぉ、ガァァァァァ!!」


 頭部の獣化は著しく思考力を低下させる。

 文字通り、獣同然の理性に落とし込まれるそれは諸刃の剣だと何度も言い含められていた。

 だがこの瞬間、ガーフィールはそれを選んだ。


 忌まわしきハーフの力こそが、今は必要だった。

 多腕族という自らの出自、その力を最大限に発揮する闘神に対して、己のルーツを否定したまま勝てるものか。


 虎よ、虎よ、虎よ、今この瞬間、力を貸せ――!


「――――」


 金虎の目が見開かれたとき、鬼包丁が砕け散る。

 刀身ことごとくひび割れ、柄にまで崩壊が伝搬して力の置き所をなくした巨体が大きく揺らいだ。


 ――本当の、好機。


「が、ァァァァァ!!」


 振り下ろす獣の豪腕が、クルガンの頭部を殴りつける。衝撃に揺らぐ巨漢を、さらに爪の一撃が狙う。

 爪の斬撃と獣腕の打撃が同時に入り、クルガンが血をばらまいて大きく下がった。


「――――」


 追撃、その出鼻を迎え撃つ拳に打ち落とされる。

 大虎の顔面に肘が叩き込まれ、鼻が陥没した直後に真下から顎を跳ね上げられる。

 膝が落ち、その場に崩れかける体で踏ん張り、真っ直ぐに発射した拳が豪腕と交差、互いの顔面が弾かれる。


 血が散る。視界がくらむ。

 頭が天地を見失い、肉体は全てを置き去りだ。


 構うものか。大事なものは全て、心に詰まってる。

 考えることをするなと、そう言われても消えないものが、この血塗れでボロボロの体を突き動かしてくれる。


 鬼包丁が振るわれる。

 二本残したうちの、破壊されていないもう一本。


 判断は一瞬、行動は刹那、結果はいつだって直後だ。


「が、ォ……ッ」


 胴体を薙いだ刃を、盾の上を滑らせて腹筋で受ける。

 衝撃を散らした上でなお、分厚い腹筋ごと肉体を両断されそうな威力が一撃にはあった。


 だが、針金のごとき体毛と、膨れ上がった大虎の巨駆を両断するには一歩、踏み込みが足りない。


 クルガンの足下は、ガーフィールの踏み込みが砕いている。『地霊の加護』の祝福が、それを呼び寄せた。


「ぉ、ぉぉぉ、ォォォォォン!」


 腹筋に刃を刺したまま、闘神の体へ組み付く。

 膂力で抗おうとクルガンは下がるが、ガーフィールはそれを逃さない。


 欠けた牙を持つ口が、一度ならず破壊された腕が、理性の喪失を覚悟した本能が、クルガンを掴んで巻き込む。


「――――」


 踏ん張りの利かない巨駆を引っ掴み、ガーフィールはクルガンを背後――水路へ投げ落とす。

 落とされる瞬間、クルガンの腕がこちらの襟首を掴んで、そのまま水面への落下の巻き添えだ。


 激しい水音が上がり、二人の体が水路へ落ちる。

 二つの巨駆はもみ合いながら水流の流れに乗り、水路を流血で赤く染めながら流れ落ちる。


「――――」


 水中でも、殴り合う二つの影の攻防は止まらない。

 水の抵抗を無視して、暗闇の水中という視界の悪さの中で、ガーフィールとクルガンは互いを殴り続ける。


 巨大な拳骨に内臓がねじれ、激痛に呻いて酸素が肺から絞り出される。痛みはより強い痛みを、苦しみがより強い苦しみを、呼び寄せる水中戦闘の継続。


 その中で、ガーフィールは自らの不利を悟る。

 目の前の闘神はどういうわけか、呼吸している様子がない。屍人が蘇った、その事実を実感する。

 酸素の欠乏が行動に淀みを生み、ガーフィールの動きに緩慢な停滞が襲いかかる。


 流れは徐々に勢いを増し、傾斜を、滝を、二人の体は何度も何度も落ちた。

 その繰り返しの中で、ついに動きが止まる。


 意識が遠ざかり、そのまま指先の闘志が失われる。


「――ぅ」


 一呼吸、足りない。

 それが正しく敗因になり、ガーフィールの意識が虚ろになる。そして、勝敗は――。


「――――」


 音の伝達の悪い水中に、重々しい音が響いた。

 遠ざかりかけた意識が舞い戻り、黒く濁った水の中でガーフィールは見る。


 鬼包丁が水路の壁面を、底を削り、闘神の一撃が水の流れの道に致命的な傷を生むのを。


 何を、と問いかける時間も酸素もない。

 

 響き渡る戟音が水の流れに影響を与え、ついには鋼が砕け散る音と衝撃が重なる。

 次の瞬間、生じるのは新しく凄まじい流れだ。


 水路の正しい流れとは異なる、別の流れ――ガーフィールの体もその流れに乗り、吸い出されるように水路から投げ出される。


「――ぶぁ、げ、げぉ」


 水に包まれる感覚が失われて、ガーフィールは呑み込んでいた大量の水を盛大に吐き出す。

 目からも、鼻からも耳からも、およそ顔面の全ての穴から水を流して、ガーフィールは頭を振った。


 何が起きたのか、そして耳にした。


「――ゴージャス・タイガー?」


 水の流れ込む音に紛れて、弱々しい声に呼ばれた。



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