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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第五章 『歴史を刻む星々』
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第五章52 『星と大罪司教』



 崩壊が押し寄せてくる。

 降り注ぐ鮮血、その一滴一滴が壮絶な破壊の魔手となって都市を蹂躙していく。


 血の雫が触れた箇所は、紙切れに刃を当てるよりも無抵抗に結合を失う。破壊の伝播が建物を崩壊させ、崩落の余波が広がって街並みは倒壊していった。


「おおおおお――っ!!」


「――っ!」


 無駄だとわかっていながら肺から息を絞り出し、スバルは全力で走り続ける。隣を走るエミリアは、銀髪をたなびかせながら口を引き結んで同じく全力疾走だ。

 しかし風光明媚な水の都は、縦横無尽に張り巡らされた水路の名物である。


 つまり早い話、まっすぐに走り続ける最短の逃走路の確保すら実は難しい。

 走る二人の正面には大水路が広がり、背後からの破壊に呑み込まれそうになる。


「やべぇ!」


「イチかバチかだけど……スバル、掴まって!」


 逃げ道がなくなる衝撃にスバルが声を上げると、エミリアが即座に別の判断。伸ばされた腕をスバルが躊躇いなく繋いだ瞬間、周囲の大気を冷気が覆い尽くした。

 エミリアの短い詠唱、そして同時に浮かび上がる小さな光点の数々。


 エミリア自身の魔力と、微精霊の力を借りた魔法と精霊術の同時行使だ。


「――みんなお願い!」


 エミリアが微精霊にそう命じると、光点から迸る青い光が地面を伝った。

 直後、走る地面が一瞬で白く染まり、瞬きのあとには一面の銀世界が生じる。街路が凍りつき、踏んだ靴裏が壮絶に滑ってスバルは悲鳴を上げかけた。

 そのすっ転んだ体勢のまま、体が一気に正面へと引っ張られる。


「うお!? エミリアたんすげぇ! 賢い!」


「制御が難しいから、手を放さないで!」


 顔を上げたスバルの左手は、エミリアの右手と繋がれている。そしてエミリアは掲げた左手に、正面へ向かって射出された氷柱を掴んでいた。

 地面を凍らせ、氷柱を発射する魔法の推進力を借りて逃走の速度を上げたのだ。さらに驚くべきは、微精霊が作り出した氷結のコース取り。


 正面にあった大水路の縁に、スキーのジャンプ台のような反りが形成され、スバルとエミリアの二人は加速のままに滑空、大水路を飛び越える。


「いーぃやっはぁ!」


 大水路の向こう側にも氷のコースが作り出され、その上に着氷してスケートは継続――エミリアの手並みに、スバルは素直に感嘆する。


「ナイス、エミリアたん! さすがすぎて惚れ直した!」


「でも止め方が思いつかないの! どうしよう?」


「え」


 エミリアはすでに氷柱を手放しているが、残った加速力だけでも十分に壁なりに激突したら大ダメージは避けられない。エミリアの氷魔法では、二人分の衝撃を和らげるだけの便利なクッションなど作り出せないのだ。

 そうこう言っている間に、二人の正面に壁が迫る。あわや激突、エミリアの手がギュッと握り返してくるのを感じて、スバルは即座に判断を下す。


「エミリアたん! カーブ設置!」


「か、かーぶ?」


「ゆるやかに曲がる感じの壁! ぐるーっと!」


 切羽詰まったスバルの声に、エミリアの魔法が素直に従う。

 滑る二人の正面にゆるやかなカーブが生じ、そのままカーブに沿って二人の体は激突を回避して大きく回る。


「そのままカーブ途切れさせないで、ぐるー! ぐるー!」


「ぐ、ぐるぐるー!」


 そのまま大きく回るままに、壁を途切れさせずに氷結のカーブが生み出される。

 真上から見上げると、蚊取り線香のような形を描きながら氷の壁が作られ、二人の体が中央に到達する頃には、どうにか加速力も消えて自然と停止していた。


「ふう、エミリアたんの魔力を存分に無駄遣いしてどうにかしたな……」


「それより、さっきの攻撃!」


 立ち止まったスバルが一息つくと、エミリアが手を叩いて氷の壁を砕き切る。粉砕された氷片がマナの粒子に変えるのを見届け、スバルは押し寄せていた破壊の痕跡に目を凝らし、ゾッと背筋を撫でられる。


 レグルスの攻撃が始まった塔を中心に、都市の景観は一変していた。

 特に鮮血の影響を強烈に受けた中心部の崩壊はひどい。破壊の円周が広がるにつれてその痕跡はばらつきが出ているが、それでもまともに原型を留めている建物の方がよほど少ない。改めて、規格外の攻撃力というものだ。


 スバルたちの方角への攻撃も、大水路を越えてこちらの側まで届いている。かろうじてスバルたちに届かなかったのは、偶然と必死の逃走の成果――否。


「ラインハルトか!」


 先ほどまで、レグルスの立っていた建物の上に誰もいない。

 代わりに付近で煙がもうもうと立ち込め、凄まじい破壊の音が響き渡っていた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 水竜の死骸を引き裂き、その血をばらまきながらレグルスは嗤っていた。


 眼下、街路を必死になって逃げている二つの小さな人影が見える。

 まさに矮小、まさに卑小、実に些末。


 せせら笑いながら、ばらまかれる鮮血に蹂躙される都市と、その破壊が逃げる二人に追いつく瞬間を待ち望む。

 売女と強姦魔、その死に様にふさわしい血の雨あられだ。


「散らばれ! 飛び散れ! 僕の心を弄んだ、極悪人共め!」


「――悪いんだが、そういうわけにはいかない」


 勝利と怒りを言の葉に乗せた直後、すぐ耳元でそんな声が聞こえてぎくりとする。

 振り返れば視界の端に、風にその炎の勢いを増すかのような赤い頭髪が見えた。


「馬鹿げてるなぁ、君! どれだけ熱心に人の恋路を邪魔しにくるんだよ!」


「方法が正当で、相手の意思を尊重していて、断られて潔く身を引けると約束できるのなら、応援するのもやぶさかではないよ」


 レグルスの怒声に、なおもおちょくるような対応でラインハルトが笑う。

 どこまでも余裕を失わない姿勢も憎らしいが、このときレグルスの心を支配したのは不可解な疑心――すなわち、ここまで一息に跳躍するラインハルトの足だ。


 確かにその右足は、脛のあたりで爆ぜていたはずだ。

 千切れてこそいなかったが、足首から下は皮一枚で繋がっているといっても過言ではない状態で、戦闘どころかとても歩行にも耐えるような状態ではなかった。

 その状態から脱したということは、


「小憎たらしいな。剣技だけでなく、治療魔法もお手の物ってわけかい? 人より恵まれたあらゆる資質で、君はどれだけ他人の心を踏みつけにしてきた? 努力もせずに他人の心を砕いて、さぞいい気分だろうねえ!」


「君の勘違いを一つだけはっきり否定しておくよ」


 中空で身をひねり、ラインハルトの体が風を巻いて唸りを上げる。

 繰り出された回し蹴りは大気を薙ぎ、レグルスの振り回していた水竜の死骸を直撃、すでに単なる肉塊になっていた水竜の死骸を木端微塵に――、


「なぁ!?」


「僕は治癒魔法どころか、魔法の類は一切使えない。足の傷は大気の微精霊が、僕を気遣って大急ぎで治してくれただけだよ」


 勢いのままに死骸を破壊するかと思われた足が、足首のひねりを利用してレグルスの掌から水竜の死骸をすくい上げた。そのま巧みな足捌きで水竜の亡骸は無体に扱われず、半壊した建物の屋根へと柔らかに放られる。

 そして、


「ちょうどいい。――次の確認、J作戦を実行する」


「くぁッ!?」


 ラインハルトの偽善的な行いに歯軋りした瞬間、レグルスの側頭部に龍剣の柄が再び激突した。殴りつけられ、レグルスの体が塔の上から叩き落とされる。

 斜めに地上へ直滑降させられるレグルス、その耳元に再び、


「試させてもらうよ」


「――!?」


 同じ角度に弾丸のように跳躍し、ラインハルトの体が追いついた。落下軌道の途中で逆さのレグルスの足が掴まれ、身を振るラインハルトの挙動に呑み込まれる。

 そのままラインハルトはレグルスを連れて、逃げるスバルたちと同じ方角へ跳躍する。すさまじい暴風と、常人ならば掴まれた足が引き抜かれかねない加速力。


「いったい何を――!」


「さして特別なことじゃないよ」


 言いながら、立ち止まるラインハルトがレグルスの体を振り上げる。

 まるで人形の足を掴んで乱暴に遊ぶ子どものような扱い。レグルスの怒りがその扱いに爆発しかけたとき、ラインハルトの行いの詳細がわかった。


 レグルスの体を振り回し、ラインハルトは降り注ぐ血の雫へと叩きつけた。

 石材で作られた建物すら崩壊させる、レグルスの影響を受けた血の雨だ。

 レグルスの攻撃が無敵効果を触れたものに付与させる力であるとすれば、あるいはレグルスの肉体を守る無敵の効果すらも打ち破れるのではと考えたのだろう。

 だとしたらその考えは、浅はかだ。


「自前の攻撃なら自分で食らうとでも? 君がどれだけ天賦に恵まれたのかは知らないけどさぁ、他人を不当に評価する悪癖も大概にしろよ。そんな馬鹿みたいなやられ方で、この僕がやられるわけないだろ!?」


「これも効果なし――ッ」


 レグルスの体に触れた血の雫は、その場で単なる雫となって体から弾かれる。

 当然だ。優先度が違う。


 同時にラインハルトがとっさに、レグルスの足から手を放した。

 勘のいい男だ。そのまま無防備に触れたままなら、その掌を剣が握れなくなるほどにグチャグチャにしてやったものを。


 振り回された影響が消える。体がそのまま街路の上に着地し、再びレグルスはラインハルトと向かい合った。警戒に、ラインハルトが目を細める。


「どうやらまた、触れられなくなったらしい」


「鼻が利くようだけど、さっきと同じく痛い目に遭いたいのかな?」


「次は息と視線にも気を付けるよ。他の注意事項があるなら聞かせてほしい」


「今すぐ、僕の目の前から消えろぉ!!」


 踏み出すレグルスが、両手を突き出してラインハルトへ飛びかかる。

 ラインハルトはそれに対して、信じられないほどの速度で大きく回り込んで回避。かなり間合いを大きくとりながら、それでも龍剣の一撃離脱の姿勢で打撃を加え始めた。


「どこまでもちょこまかと……!」


「斬って解決できない問題にはとても無力なんだ。自分を恥じるよ」


「剣なんて一度も抜いちゃいないくせにさぁ!」


 飛び回るラインハルトに向け、やたらめったに手をレグルスは手を伸ばす。

 しかし、英雄ラインハルトにそんな無造作な攻撃が届くわけもない。それどころかラインハルトの青い瞳は、小賢しく吐息を吹きつけるレグルスの奸計にも目を光らせている。どちらも決定打に欠ける、その状況が続いた。


「あぁ?」


 だが、そこに横槍が入ったのは突然のことだ。


 棒立ちでラインハルトと相対していたレグルス、その真下から突き上げる氷柱が彼の体を串刺しにしようとする。

 しかし、靴裏に発生した氷杭は地表に突き出す前に踏み砕かれ、まともに具象化する暇も与えられずに粉々に砕け散った。


 ちらと、レグルスが目を向ければ、水路の向こうでこちらに手を向ける銀髪の少女の姿が見える。氷の魔法は彼女の小細工に違いない。

 忌々しさに、内臓が煮えたぎる感覚だ。


「どいつもこいつも、いい加減に理解しなよ! 違うってことにさぁ! 誰もかれも生まれ持ったものが違うんだよ! 君たちじゃ、一個として完結した僕には敵わないし届かない! 自分の足りなさに納得して、満ち足りて、死ねよ!」


 どこまでもどこまでも、諦めの悪い奴らの相手をするのはうんざりだ。

 絶対的な差は縮まらない。どうして、それがわからない。


「――А作戦も失敗。次はどうなる」


 地団太を踏んで街路を割るレグルスの耳には、ラインハルトのその呟きを聞きつける余裕はなかった。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「ダメ! やっぱり、今の攻撃も通用しないみたい!」


「ダメか! ってことは、足の裏が弱点って線も消えたか……」


 こちらの指示通りに、エミリアがレグルスの足裏を攻撃――しかし、氷柱は奴の靴裏に踏み砕かれて、ダメージが通った様子は皆無だった。


『J作戦も通用しない。すまない、力不足だ』


 一瞬、ラインハルトから『伝心の加護』でテレパシーが飛んできて、スバルはもはや彼の規格外さに驚く心は失っている。よく見たら右足の傷もいつの間にか塞がっている様子なのだが、千切れて繋がっていたとしても驚かない。

 そもそも、足が千切れて繋がるのはスバル自身も体験済みだし。


「無敵でなんでも攻撃が通るってんなら、地面に触れてる部分はバリアが抜けるんじゃないかってА(足の裏)作戦だったんだが……」


 接地部分の無敵が解除されない仕組みならば、下手すればそのまま体がずぶずぶと地面に沈みかねない。故にあるいはと思ったのだが、それも外れのようだ。

 ラインハルトの伝言からJ(自爆)作戦による、レグルス自身の無敵攻撃ならば無敵を抜けるのではないかという推測も外したと見ていい。


 これでI(池ポチャ)作戦も外れているのだから、事前に想定された無敵能力の弱点への推測はほとんどが外れたのが実情だった。


「他に、他にあるか? 無敵に見える敵の弱点、弱点……!」


 口に手を当てて、スバルは必死に頭を回転させる。

 レグルスとの接敵以前と、接敵してからも延々と頭を悩ませているが、いわゆる最強の盾能力の持ち主を撃破する手段は他に何が考えられるだろうか。

 スバルの脳裏を様々なサブカルチャーの知識が駆け回り、なんとか答えを導き出そうとするが、芳しくない。


「考え方が悪いのか? 発想が違う?」


 必要なのは、無敵能力を抜く方法ではないのかもしれない。

 もっと根本的な部分――レグルスの権能が、はたしてなんであるのか。


「スバル、他に何ができる? 私、何をしたらいい?」


 考え込むスバルに、エミリアがそう問いかけてくる。

 眼前、大水路を挟んだ向こう側ではラインハルトとレグルスの激戦が続いており、その戦いに力を貸すこともできず、彼女は歯がゆい思いをしていた。


 エミリアも、ラインハルトも、スバルを信頼し、期待を寄せている。

 そしてそれはここにいる二人だけではない。他の制御搭で戦う仲間たちも、スバルが放送で呼びかけた都市の住人たちも、同じことだ。


「――――」


 考える、考える、考える考える考える考える考える。

 嫌な思い出だが、レグルスとの初めての遭遇から、今この瞬間に至るまでの奴の行動と言動、こちらから仕掛けた行いと奴の攻撃など様々なことを思い返す。

 何かあるはずだ。何か理由があるはずだ。レグルスだけでなくてもいい。他の大罪司教も含めて、何かあるはずだ。全員クズだ。それは知ってる。それだけでなく、


「星の、名前だ」


「スバル?」


 はたと、スバルは気付いた。

 一度、同じ考えに到達しておきながら、戯言だと捨て去った考えだった。

 だがそれがここにきて、本当に廃棄に足る案だったのかと考え直す。


 レグルス、カペラ、アルファルド、シリウス、ペテルギウス。

 こうして星に所縁のある名前がこれだけ揃っていて、それが偶然だと本当に片付けてしまっていいのか。


 水の羽衣亭を、カララギの風習を、荒れ地のホーシンを思い出せ。

 この世界には笑い飛ばせないぐらいに、スバルの暮らした世界の影響が端々に存在している。魔女教とここに関連性がないと、どうして今さら考えられる。


 ペテルギウスは、ベテルギウス。『ジャウザーの手』で、『見えざる手』。

 レグルスはしし座で、『小さな王』。そして、もう一つ呼び名がある。

 『小さな王』とは、まさに奴にふさわしい冠だと思うが――。


「エミリア、聞きたいことがある」


 スバルの静かな声に、エミリアが目を見開いて、それから頷いた。

 白い面が真剣に見つめ返してくるのを感じながら、スバルは片目を閉じる。


「あいつに首を掴まれてたよな? そのときなんだけど」


「うん」


「レグルスの手は、熱かったか? 冷たかったか?」


「――――」


 スバルの問いかけに、エミリアが目を丸くした。

 そして彼女は自分の細い首に触れて、一拍、それから答える。


「ううん。今、考えたら……何も感じなかった。熱さも冷たさも、熱を何も」


 エミリアの答えを聞いて、スバルは息を詰めた。

 水路に叩き落として、乱れない吐息に濡れない体。足裏への攻撃も、自分への攻撃も通らず、攻防において付け入る隙を感じさせない能力。


 これが単純な『無敵』ではないとしたら――。


「ラインハルト!」


 大水路の向こう、凶人と相対する英雄の名前を呼ぶ。

 立ち止まる隙のない攻防の中、しかしラインハルトは確かにスバルの方を見た。

 その耳に届くように、スバルは声を上げる。


「――そいつの、心臓が動いてるか確かめてくれ!」


 スバルの大声にエミリアが、ラインハルトが、目を見開いた。

 そして、レグルスは――。


 レグルスは――。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 制御搭四ヶ所同時襲撃が実行され、各陣営の攻略組が出発したのを確認してから、オットーもまた自分に課せられた役割を果たすために都市庁舎を出ていた。


「ホントは止めるんが筋やと思うんやけど……でも、魔女教の要求してる『叡智の書』」所在を明らかにしときたいんは事実。貧乏くじやね、オットーくん」


 とは、出発するオットーの見送りにアナスタシアがかけた言葉だ。

 本心ではアナスタシアも、オットーには都市庁舎に残っていてもらいたかったことだろう。スバルを始めとして、各陣営が大罪司教と激突する鉄火場だ。

 司令部のような役割を都市庁舎が期待される以上、各地から集まる情報を処理する頭脳はいくつあっても多いということはない。


 しかし、『叡智の書』の回収を余所に任せるというのも難しい話なのだ。

 大罪司教への対抗のために協力している間柄ではあるが、状況を脱すれば再び彼女らとは敵対する関係に戻る。そうなったとき、『叡智の書』の効力が他の陣営に見通されている状況は避けたいのだ。

 本音を言えば、『叡智の書』の効力を話し合いの場で出すのも避けたいぐらいだったが――スバルやガーフィールはその腹芸を好むまい。

 自分の性格が悪いような気分になって、オットーはため息がつきたくなる。


「いったいいつから、僕はこんな風に他人のために駆け回るようになったやら……」


 灰色の頭に手を当て、オットーはこの一年で何度も考えた疑問に再び思い悩む。

 立ち位置が予想外、人との関わり合いが予想外、今の自分の感情が予想外。

 自分がこんなことをしてると知ったら、家族はどう思うだろうか。


「無事に片付いたら、手紙でも書いてみますかね……」


 この場にスバルがいたら、間違いなく『死亡フラグ』と指摘するだろう発言をぼそりとこぼし、オットーは都市三番街へ向かって足を進める。

 大罪司教は制御搭に集中しているはずで、こちらの考察では魔女教徒は都市に配置されていないはずだ。いない、はずだ。


「はぁ……はっ」


 胸をギュッと掴んで、オットーは自分の動悸が早くなるのを感じていた。

 魔女教、大罪司教、魔女教徒――それはオットーにとって、恐怖の記憶に繋がる。


 一年前、スバルたちとの出会いの記憶は、オットーにとって命を奪われかけた記憶と表裏一体だ。あのとき遭遇した大罪司教の恐ろしさは、今も忘れられない。


 人の命を奪うことを、何とも思っていない狂人の瞳を。

 その狂人に従い、自分の意思なく血と肉を捧げる狂信者たちの姿を。

 誰かに助けてほしいと心から願ったとき、静寂だけが支配した無音の孤独を。


 あれほど恐怖したことはない。あれほど空っぽになったことはない。

 あのときの怖さに比べれば、ガーフィールと戦ったときも、腸狩りと向かい合ったときも、魔獣の群れと遭遇したときも、何ほどでもなかった。


 魔女教との遭遇は、それほどオットーの心に暗い影を落とす。

 これだけ恐ろしいと思っているのに、その魔手は決して離れていきはしない。


 『嫉妬の魔女』との類似性から、魔女の誹りを免れないエミリア。

 彼女の騎士を拝命し、半魔をつけ狙う魔女教と戦い続ける運命のスバル。


 スバルと運命を共にし、小さな体の全部を費やそうとするベアトリス。

 家族を守るために、己の全てを拳に込めるガーフィール。

 口の悪さと裏腹に、誰も見捨てられない甘さのあるラム。

 弟への負い目と、立場の責任感を抱えて生きるフレデリカ。

 子ども扱いされながらも、全員の笑顔のために晴れやかに振舞うペトラ。


 みんなが好きだ。

 一所に留まるまいと思っていたのに、いつの間にか居心地が良すぎて。

 恐ろしいものを相対するとわかっていても、彼らの傍を離れがたくて。


 この場所を守るためなら、彼らと並んで立っているのに必要なら、恐怖の象徴さえもねじ伏せて、彼らの手の届かないところを全部補っていたいと思う。

 だから――、


「どうにかして、僕は僕の役割を果たさなきゃならないんですよ」


 三番街へ入り込み、街路の上でオットーはそう口にする。

 正面、オットーの前には小さな人影が立っていた。


 水路にかけられた石橋の向こうには広場があり、小さな人影はそこにいる。

 人影以外にも、周囲には複数の影があるのが見えた。

 しかしこのとき、オットーの目が睨みつけていたのはその小さな影一つだ。


 音が消えている。ひどく静かで、何も聞こえない。

 生き物たちが息をひそめて、必死に自分の存在を隠そうとする状況。

 この状況を、オットー・スーウェンは知っている。


 故に、目の前の人影がだらりと両手を下げ、長い焦げ茶の髪を振り乱しながら顔を上げても、心臓の鼓動は驚くほど落ち着いていた。


「いらっしゃい、お兄さん」


「――――」


「魔女教大罪司教、『暴食』担当……ライ・バテンカイトスの餌場へようこそッ」


 牙だらけの口を開いて、いるはずのない大罪司教が陰惨に嗤った。



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