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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第四章 『永遠の契約』
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第四章121 『助けてあげて』


 涙を拭いて、頬を叩く。

 乱れてしまっていそうな髪を手で撫でつけて、衣服の皺を丹念に伸ばした。


 今、みっともない顔をしていないだろうか。

 普段なら、エミリアの身嗜みに逐一口出ししてくれるパックの存在はない。ただ、ガーフィールから投げ渡された不恰好な結晶石、その淡い輝きはエミリアを肯定している。


「……もう、しばらくは顔も見れないのね」


 握りしめた結晶石は、触れ合う指先からエミリアのマナを吸い上げている。

 未契約の大精霊を、依り代の中に留めておくだけでも大量のマナを必要とするのだ。所持していたスバルも、遠慮なく吸い上げられたガーフィールも、このマナの吸収に丸一日も付き合っていれば、そのまますっかり干上がっていたかもしれない。


 もっとも、その吸い上げるマナの勢いも、エミリアが保持する莫大な量のマナから比較すれば微々たるものだ。

 過去の記憶を取り戻し、自分が精霊の手を借りずに魔法を使えることを思い出したエミリア。意識して体のゲートに気を巡らせれば、途方もないマナの循環を感じ取れる。

 もともと、パックの存在を現界させていたのは他でもないエミリアだ。大気中からマナを掻き集めている、と嘯いていたパックだが、実際にはエミリアの自覚のないマナの貯蔵量から大部分を賄っていたのだろう。


 全てはエミリアが無意識的に忘れ去っていた記憶と、向き合わせないために。


「ホントに、過保護なんだから」


 わずかに微笑み、エミリアは結晶石の先端を指で軽く弾く。

 抗議するように、あるいは苦笑するように結晶石は点滅することで反応をみせた。


「……よし。うん。もう大丈夫」


 気持ちも、ずいぶんと落ち着いた。

 取り戻した記憶の中、フォルトナやジュースのことを思い出すと胸が痛いし、今だってふと気を緩めれば泣いてしまいそうになる。


 でも、いつまでもめそめそと蹲ってはいられない。

 エミリアにはやらなくてはならないことがある。そしてそれはきっと、フォルトナやジュースがエミリアに期待し、望んでいたことでもあったのだから。


 『試練』の間を出て、石造りの通路を外へと向かう。

 『試練』は残り二つ。一つ目の『試練』を乗り越えただけでは、小部屋の奥の扉が開くことはなかった。おそらく、三つの『試練』を全て乗り越えて初めて開く扉だ。

 次の『試練』が始まる条件が判然としない。出入り、あるいは時間経過か。いずれにせよ、エミリアが小部屋で過去を悼む涙を流している間は、無神経に『試練』が始まるようなことはなかった。ならば、条件として考えられるのは再入場だが。


「エキドナに意地悪されたらどうしよう……最後、すごーく怒ってた気がする」


 嫌いだと言われて、エミリアはとっさに「そんなに嫌いじゃない」と返した。

 あそこまで悪態をつき続けたエキドナに対する意趣返しであったのだが、『試練』の実施のイニシアチブを握る魔女に対して、少し慎みが足りなかったかもしれない。


「どうか、そんなに怒ってませんように」


 エキドナが大人げなくないことを祈りつつ、エミリアは墓所の外へ。通路の終わりは、視界に月明かりの差し込む入口が見えたことで伝わる。

 その瞬間、エミリアはひとまずエキドナのことを忘れて、晴れ晴れしい思いに顔を上げた。


 思い出せた過去は決して、生易しいものではなかった。

 今はまだはっきりとした実感はないが、エミリアという一人の人物の根本が、きっと大きく揺らぐような出来事でもあった。

 でも今は、自分のことを信じてくれていた人たちに、『試練』の達成を伝えたい。

 お前ならやれると言ってくれた人に、私はやれたと答えたい。


 そうして、エミリアは月明かりの眩しさに目を細めながら入口をくぐり――、


「エミリア様、お帰りなさいませ」


 出迎えの場所で、ぽつんと一人きりで待つラムのお辞儀に出迎えられて、首を傾げた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――時はわずかに巻き戻り、エミリアが『試練』に挑んだ直後へ。



 ロズワールの真意を確かめるために、彼の療養する建物を目指す途中、スバルは息を呑んだその足を止めた。

 スバルの隣についてきていたガーフィールも、同じように目を見開いて驚きを露わにしているのがわかる。彼にとっては、まさに青天の霹靂というべき状況だろう。

 ある程度、予想を立てていたスバルであっても驚きを隠せないのだ。ガーフィールの心中をいくらか思いやりながら、スバルは道を塞ぐように立つ人物に吐息をこぼし、


「いるもんだとは思ってたけど……実際にこうして見ると、少し凹むな」


「それはそれは意外じゃな。ロズ坊の話では、スー坊は物事の全てを見通す眼を持ち合わせておるという話じゃったが」


「そりゃあいつの買い被りだ。俺をどんだけ高く見積もってんだかな」


 スバルの『死に戻り』――ではなく、『やり直し』を知り、それを頼りとするロズワールからすれば、なるほど万象を意のままにする神の御業に思えるのかもしれない。

 だが、現実にはこの力はそこまで万能のものではない。失ってしまうかもしれない大切なものを、この手に取り戻すためには役立ってくれない。そんな不自由な力だ。


 スバルの答えに目を細めて、薄紅の髪を長く伸ばす少女――墓所の前で別れたリューズと瓜二つの人物、リューズ・メイエルの意思を持つ別の複製体は老獪に口元を緩める。

 彼女の存在を予期していたスバルは肩を落とすぐらいの反応だが、一方で劇的に反応するのは隣のガーフィールだ。目を剥く彼は祖母の顔を睨みつけて、


「なんッで……なんで、ババアがもう一人ここッにいやがる? 喋れるババアは一人だッけで、あとのババアと同じ面の奴らァ俺様の命令なしじゃ……」


「何事にも例外はある。儂は……そうさな。ガー坊の知る『聖域』の代表格を演じるリューズがこの場所の監督役だとすれば、儂は『聖域』の機能の管理者じゃ。リューズ・メイエルの意思を継ぎ、この場所を守り続ける意思」


「つまりは、システム的な『聖域』解放の反対派ってわけだ。リューズさんの中に、ガーフィールを唆した反対派がいねぇのはおかしいと思ってたんだよ。その役目をこっそり引き受けてたのが……あんたってわけだ。――リューズΩ」


 感情の読めない態度を守り続けるリューズを、スバルはΩとそう呼んだ。

 その呼び名に反応したのは、呼ばれたリューズではなく隣のガーフィールだ。彼は「おめがァ?」と胡乱げな顔つきで振り返り、


「大将、なんだよ、その呼び方ァ」


「リューズさんが複数いると、区別しないと覚え難いだろ。だから便宜上、俺たちの知ってるリューズさん四人をα、β、Σ、θって呼んでる。そんでもって、今回明らかになった五人目のこのリューズさんが『Ω』ってわけだ。気に入らねぇか?」


「いや、いくらなんでもババアの名前にしちゃァ格好良すぎんだろ……ずりィ」


「そう言うな。お前が増えたときには、同じように格好いいのつけてやる」


「俺様が増えることって、まずねェだろ……」


 スバルの際どく鋭角的に攻めるセンスは、どうやらガーフィールの感性をかなり熱烈に撫でているらしい。思わぬ共通点を確認し合う二人に、Ωは吐息をこぼした。


「なんて呼ばれようと構いはせんが、儂を置き去りにして話が弾み過ぎじゃろ。いつの間に、ガー坊とスー坊はそんなに仲良しになったんじゃ?」


「夕日をバックに拳を交えりゃ、男同士はいつでも友達だ。それがたとえ、四対一の果てにフルボッコにした後だとしてもな。な、ガーフィール」


「釈然としやがらねェな、大将」


 数の暴力に負けたことにはイマイチ納得がいっていないのか、ガーフィールからの応答はやや切れが悪い。ともあれ、軽口を叩いて考えをまとめる時間を稼ぐのはここまでだ。

 スバルがΩに向き直ると、彼女はその長い髪を手で撫でつけて、


「目つきが変わったようじゃな。食えん坊やじゃ」


「坊や扱いはなかなか新鮮でいい感じだぜ。Ωさんはアレなのか? 他のリューズさんと違って、交代制だったりしないの? まさかγ、&、$、♯とか出てこられても困るんだが」


 思い当たる限りの記号を口にするスバルに、ガーフィールがいちいち目を輝かせる。

 意識的に十四歳の憧れの眼差しを無視するスバルに、Ωは平たい自分の胸を撫でた。


「安心せい。監視者の役割を持つリューズは儂一人だけじゃ。正真正銘、この『聖域』における意思持つリューズは儂で最後じゃよ」


「二言ねぇだろな。俺の知ってる奴だと、同じ顔が最大二万人とか出てくるからな」


「さすがに規模が違いすぎるじゃろ。この『聖域』で匿い切れん」


 最悪の想像はどうやら裏切られた様子でスバルは安堵する。

 それから、スバルはΩの泰然とした態度を訝しむように眉を寄せた。


「そうやって自分の正体をポロポロこぼしてくれてるのはいいけど……どしたの? ここまで隠し玉扱いでこっちの予想の裏側を走りっぱなしだったのに、なんでまた急に姿を見せるようなことをし出したんだよ」


 潔い、といえば潔い態度だが、その潔さに理由がない。

 スバルの疑問にΩは「簡単なことじゃよ」と力ない微笑を浮かべた。


「まず、スー坊とガー坊の和解で、儂の存在が露見したことが挙げられる。事実として掴まれたわけではなかったが、『いるかも』と思われた時点で儂の負けじゃからな。こうして大人しく、裁かれようと思って顔を出したわけじゃ」


「裁くって、また大袈裟だな。……でも、それだけじゃねぇんだろ?」


 本気でΩが自らの役割を遂行しようとすれば、まだ打てる手は幾つもあるはずだ。それこそ、存在している『かも』の状態でも、見つからなければ優勢なのは彼女だ。


「ゲリラ戦術だろうとなんだろうと、邪魔する気ならなんだってできたはずだ。そうするためのジョーカーが、Ωさんの役割だろ? ロズワールだって、そのためにここまでΩさんの存在をひた隠しにして……」


「そのロズ坊の態度が、儂がこうして大人しく出てきたもう一つの理由じゃ」


「ロズワールの、態度……?」


 目を丸くするスバルに、Ωはゆるゆると首を横に振った。

 その態度には皮肉めいたものや、どこか投げやりな感情も覗かせていて。


「今、部屋にこもっとるロズ坊の様子を見れば、儂が匙を投げたくなる理由も一目瞭然じゃろう。『聖域』の管理者として、儂が手を貸していたのはロズ坊に『聖域』を正しい形で運用しようという貫徹した意思があればこそ。……それがアレではな」


 落胆を感じさせるΩの物言いは、他のリューズを知るスバルには辛辣に思えた。ガーフィールも同じように感じたのか、ロズワールへの厳しい評価には口を挟まない。

 αたちリューズと違い、たった一人で『聖域』の管理者としての役割を任されてきたΩ。彼女がその役割に就いたのがいつなのかはわからないが、活動時間はおそらくはαたちよりずっと長いのだろう。今の姿は、その年月が作り上げたものなのかもしれない。

 いずれにせよ、


「これまでの行動はともかく、Ωさんには俺たちの邪魔をするつもりはもうないって思ってもいいんだよな?」


「正しい運用という観点に則れば、まだまだ口出ししたい部分は大いにあるがの。『聖域』の解放はリューズ・メイエルの願いとは違うが……これもまた時代よ。時代が『聖域』という場所を必要としなくなるのなら、儂の役割もまた不要なのじゃろう。ここまで励んできたのは、置き去りにされたくないが故の意地のようなものじゃよ」


 応じるΩの声はどこか寂しげで、役割を終えることへの不安のようなものが垣間見えた。長い時間、自らに任じてきた職務を全うするのだ。

 スバルには、今のΩがどのような気持ちで日々を振り返っているのかはわからない。志半ばという気持ちも、ある種の解放感も、そんな感情が入り混じっているのではないかと、幼さに見合わぬ年月の重さにそう思わされるのだった。


「意地、上等じゃァねェか。そりゃ大事なもんだぜ、ババア」


 その静かなΩの述懐に口を挟んだのは、黙って聞いていたガーフィールだった。

 彼の言葉に顔を上げたΩは、腕を組んで犬歯を噛み鳴らすガーフィールを見つめる。


「俺様もだ。俺様も、Ωババアとおんなじ意地を張ってた。んや、Ωババアよりッも性質の悪ィようなやつだ。でも、大将が力任せに、数任せに砕いてくれやがった。何クソと正直思ったがよォ……今は、どっかスッキリしてやがッぜ」


「ガー坊……」


「大将は言いやがったよ。『聖域』の結界がなくなっても、俺様たちが暮らすッ世界が消えてなくなるわけじゃァねェ。『聖域』がなくなって、外の世界のどこもかしこもが『聖域』にッなるんだってなァ。そこでなら、また俺様にもΩババアにもやれることがあっさ」


 ガーフィールの答えに、Ωは考え込むように下を向いた。

 その表情には先ほどまでの不安の色や、心細そうな眉間の皺が消えている。代わりにガーフィールの言葉を吟味する色がうかがえ、金髪の少年は満足そうに頷いた。

 二人のやり取りを目の当たりにしていたスバルは、そのガーフィールの肩を叩き、


「ガーフィール、お前……熱でもあるんじゃねぇのか? すげぇ賢くて恥ずかしいこと言ってたぞ?」


「大将よォ。俺様にだって、使えねェ頭をこねくり回すぐれェの知恵はあんぜ? それに今の話、八割方は大将の受け売りだッつの」


「マジで? 俺あんなこと言ってた? おいおいおい、やべぇ、今さら恥ずい」


 耳まで熱くなってしゃがみ込むスバルに、ガーフィールは呆れたような吐息。それから考え込む素振りのΩに向き直り、ガーフィールは道を開けるよう手を振る。


「Ωババアの言い分ァわかった。聞きてェことも、まァ聞けッただろうよォ。あとの悪巧みに関しちゃ、企んだ野郎ッから直接聞き出してやらァ」


「好きにせい。……儂は、どうすべきじゃろうな」


 道を譲るΩの呟き。その言葉に、スバルは「ああ」と納得する。

 これまで、自分の存在を秘匿してきたΩだ。彼女の暗躍を知らなかったαたちすらも存在には気付いていないのだろう。つまり、役割を終えて初めて、Ωは人前に出ることを許される立場になったというわけだ。


「墓所の前に行けば、ラムとαさんたち……今はθさんか。それが待ってる。二人とも事情には勘付いてるだろうし、会って話してくればいい」


「あの二人が勘付いてるって、本当ッかよ。俺様ァ、全然気付かなかったぞ」


「そりゃお前の血の巡りが周回遅れなんだよ」


 あの会話の流れでピンとこない方が不思議だ。『聖域』を発端としたループの様々な場面で、いかに彼の本能的な行動に邪魔されてきたのかがしのばれる。

 ともあれ、Ωの不安は杞憂でしかないだろう。自分の複製体が多数いることを知っているθも、おそらくは複製体のこと自体は知っているラムも、彼女を受け入れる。

 だから、後の問題は――。


「悪巧みの大親分、ボスピエロとのお話し合いだ」



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 部屋に踏み込んだとき、スバルはそれが見知った部屋ではないのかと錯覚した。


 この『聖域』において、ロズワールの姿は最初の時点からこの部屋にあった。彼と顔を合わせようとするたびに足を運んだ部屋だ。もうすっかり、装飾品の場所まで覚えてしまった部屋には違いないのに。


「おーぉや、スバルくんじゃーぁないの。よく、きたね。忙しいところだろーぉに」


 押し開けた扉に手を当てたまま言葉もないスバルに、振り返るロズワールが飄々とした口調でそう言ってのける。肩を揺すっておどけるような仕草に、一瞬、何事もないかのように思ってしまいたくなる心を押さえつけ、スバルはロズワールに向き合った。


 荒らされに荒らされた部屋。

 ひっくり返された書棚に、破り捨てられた白いシーツ。寝台は中央から踏み割られて木片を散らかし、破壊の中心に立つ魔人はその手から血を滴らせていた。

 力任せにベッドに叩きつけたのだと、木屑を手の傷から抜く姿を見て理解する。


「大将……」


 同じように部屋の惨状を見たガーフィールが、半歩前に出てスバルを庇える位置に立った。尋常ならざるロズワールの姿に、危機感を覚えたのはスバルだけではないのだ。

 金色の瞳に警戒も露わなガーフィール。ロズワールが何か不自然な行動に出れば、即座に取り押さえられるように身を前に傾けている。


「なーぁんともまあ、丁寧に飼い慣らされたもんじゃーぁないの、ガーフィール」


 そのガーフィールの挙動を目に留めて、ロズワールは揶揄するようにそう言った。微笑み、口紅の引かれた口元を邪悪な朱色に歪めてみせる。

 ロズワールは微笑んだまま、片目をつむって黄色の瞳にガーフィールを映し、


「その変わり身の早さには驚きだよ。そうしてスバルくんを庇うということは、君もまたスバルくんと愉快な仲間たちの一員に加わった、というわーぁけだ。長く長く、君の意思という意思を縛り続けてきた母への愛情を簡単に破り捨てて、ね」


「ロズワール、それは違う。ガーフィールは何も、想いを違えて俺たちに味方しようってなったわけじゃない。ただ、少し考え方を変えて……」


「そーぉれが、安っぽいと言っているんだよ。大勢に囲まれて殴り倒されて、説教されたぐらいで立つ瀬を変える。ケンカに負けた程度で揺らぐ気持ちだというのなら、君の想いはその程度のものだ。簡単に変えられる程度の、薄っぺらいものだ」


「ロズワール!」


 酷薄な言葉を連ねるロズワールに、ガーフィールに代わってスバルが激昂する。

 彼との苛烈な戦いを終えて、スバルはガーフィールが抱え込んでいた想いを、心の傷の一端を知った。それが決して安いものでも、軽々しいものでないこともわかっている。

 だからこそ、ガーフィールの想いを踏みつけるロズワールが許せなかった。


「訂正しろ! お前に、ガーフィールの気持ちを馬鹿にする資格があるもんかよ!」


「柔いものを柔いと。脆いものを脆いと。そう言うことに咎められる理由があるのかーぁね? 過剰な反応はかえって私の言葉の真実味を強めるだけだよ。安っぽい想いを、安っぽい絆で肯定しようとする三文芝居だ。本当に……見るに、堪えない」


「――――っ!」


 ロズワールの嘲弄に、スバルは激昂して詰め寄ろうとする。

 しかし、そのスバルの挙動を押し止めたのは他でもないガーフィールだった。この場でロズワールの侮辱に対してもっとも傷付けられたはずのガーフィール。その心中はどれほどのものか、想像するスバルは彼の横顔を恐々と見た。

 だが、


「てめェの言葉は、軽ィなァ、ロズワール」


 退屈そうに腕を組んで、軽く首を曲げるガーフィールはロズワールにそう言い放った。

 その態度はスバルにとって驚きで、それはロズワールにとっても同様だ。

 少し前のガーフィールならば、怒りに任せて食って掛かっただろう言葉。それを彼は温い風でも浴びたようにあっさりと振り払う。


「俺様が半端だって話ッてんならよォ、否定できやしねェよ。今朝までてめェ側だった俺様が、今じゃ大将の方についてんだ。変わり身が早ェってそしりも受けてやらァ」


「思想の変節の次は開き直りかーぁね。それはそれは、君がこれまでに肯定してきた強さというものと、またずーぅいぶんと落差のあるお話だ。十年……決して短くない君の時間を、ほんの数日の邂逅で宗旨替えしてしまうと」


 ガーフィールの答えにロズワールは肩をすくめて首を振る。

 左右色違いの瞳が、濁った感情を浮かべてガーフィールを睨みつけた。


「それが安いと、そう言っているんだ。本当に愛しているのなら、想いは決して形を変えないはずだ。君の十年は、エミリア様の百年は、そんなに安く扱えるものなのか?」


「――――」


「たかだか数日、君はスバルくんと接しただけだろう。その間にどれだけのことがあった? 愛したものへの想いと、匹敵するほどの何かを彼と積み上げたか? そんなはずがないだろう! 愛したものに並ぶほどの想いなど、隣に何をどれだけ積んだところで届くはずがない! 匹敵するはずがない! 一番に何かを想うとは、そういうことだ!」


 声を荒げて、ロズワールは床に落ちていたベッドの残骸の一部を蹴りつける。弾かれたそれはスバルたちの方へ飛んだが、当たらずに背後の壁にぶつかるに留まる。

 パラパラと、木屑の落ちる音を聞きながら、スバルはロズワールの主張に息を詰めた。


 ――もっとも大事な一つ以外の、全てを削ぎ落とす。


 ロズワールにとって、何かを愛するということはそういう感情に他ならないのだ。

 『これ』と決めたもの以外、大切なものなど作らないし、必要としない。それ故にそのたった一つへの想いは強固で、それを遂げるためならば迷うことすらない。

 想いと呼ばれるものを、ロズワールはそういうものだと信じているのだ。


 彼の思想を理解した瞬間、それに気付いたようにロズワールがスバルを見た。

 黄色の瞳の奥に渦巻く、途方もない愛という熱情に呑まれそうになる。


「賭けの内容を覚えているか? 君が持ちかけた賭けだ。あの賭けによって自らの最大の優位性を縛って、只人となった君に何ができる? 何もできはしない。なぜなら君は……お前は、只人以下の劣等だからだ!」


「…………」


「お前が万象への切り札となり得るのは、あくまであの力があるからだ。それを自ら捨てて只人となり、限られた時間の中では人並みに足掻くことすらできないだろう! 誰にも! 同じ時間を生きるのなら、月日が刻み込んだ想いを越えることなどできはしない! できては、ならない!」


 『聖域』に拘り続けて、家族への愛情を曲解し続けたガーフィールの十年。

 忘却したくなるほどの過去と、そこからくる罪悪感を置き去りにしたエミリアの百年。

 そして、


「十年と、百年と、そして私の四百年だ! それを他でもない、只人のお前にひっくり返されることなどあってたまるものか!」


「想いは、変わらないものだからか」


「そうだ!」


「長い長い時間、抱き続けてきた想いだからか」


「ああ、そうだ!」


 スバルの問いかけを、ロズワールはことごとく肯定する。

 想いは、誰にも覆せないのだと。想いは決して、変わりも曲がりもしないのだと。


 今、やっとわかった気がする。やっと、ロズワールを理解できた気がする。


 ロズワールは、自分の想いを肯定されたいのだ。

 想いとはこういうものであるのだと、自分以外の想いを肯定することで信じたいのだ。


 だからロズワールはガーフィールに、弱いままであってほしかったのだ。

 自分の想いに拘り続けて、変わらないものを必死で守り続ける、そんな彼のままであり続けてほしかったのだ。


「どうしてなんだよ、ロズワール」


 想い人へのたった一つの想い。

 それを肯定するために、ロズワールは他人が誰かを想う姿にもことさら執着する。

 誰かが誰かを想えることを、ロズワールは誰よりも知っているはずなのに。


「どうしてお前は、想うことの弱さばっかり見てるんだ。誰かをずっと想うことが強い気持ちだってわかってるなら、どうしてその考えの弱いところばっかり見てる」


「――私が、それを信じているからだ」


 スバルの言葉に、ロズワールは声を振り絞るようにして答える。

 瞳を圧倒的な激情にたぎらせて、この世でもっとも憎い存在を睨みつけるように。


「お前が! そうして誰かの強さを信じて、期待するように! 私は、誰もが弱いままだと信じているからだ! 弱くて、脆くて、たった一つの大事なものに縋る以外に、想いを遂げることなんてできないちっぽけな存在だと、そう信じているからだ!」


「――――!」


「四百年間、私は一人の女性のことがずっと忘れられない! 共に過ごした日々よりもずっと長く、触れ合えない時間を過ごしてもなお、その姿が胸の奥に焼き付いて離れない! あの別れの日に心は粉々に砕け散ったまま、私は何も変わっていない!!」


 ロズワールが前に踏み出す。

 スバルに詰め寄ろうとするロズワールをガーフィールが遮った。しかし、ロズワールは立ちはだかるガーフィールの胸に手を当て、その顔を見下ろして、


「楽だっただろう? 十年間、自分の内側にある『想い』の叫びに耳を傾けて、それを頑なに信じて過ごし続けることは、誰かを想い続ける自分に浸ることができただろう?」


「――! てめェ……」


「それでいい、それでいいんだ。誰もがそうであるべきなんだ。人は誰しも、孤独でなど生きられはしない! 誰かを想い続けて、生きる。それだけでいい……なのに、どうして想いを変えようとする。裏切ろうとする。愛しては、いなかったのか!?」


「違う! 俺様ァ……!」


「何がお前を変えた!? 鍛え続けてきた肉体が戦いに負けて、寄る辺を失ったとでもいうのか!? 牙をへし折られた程度のことで、曲がる想いがお前の十年間なのか? ならばお前の十年間に泥を塗り、唾を吐いたのは他でもないお前自身だ!」


 ロズワールの苛烈な言葉に、ガーフィールが胸に当てられる手を振り払う。そのまま返す動きでロズワールを突き飛ばそうとするが、ロズワールは身をひねってそれを回避。目を見開くガーフィールの腕を掴み、その体を投げ飛ばす。


「ら、ァ――!


 しかし、投げられるガーフィールは投擲の頂点で天井に足をつき、自ら投げられる勢いを増すことで背中から叩きつけられるのを避ける。腰のひねりで体を半回転させ、掴まれる腕を残して三点着地。お返しに掴まれた腕を引き、ロズワールを引き寄せるとその胴体に頭突きをぶち込んだ。


「ぐ、う……っ」


「ハッ! 大将からてめェが体術もやるってェ聞いてなきゃァ、まんまとぶん投げられッちまうとこだったなァ」


 膝をつくロズワールを見下ろして、取られた腕を軽く回すガーフィール。

 それからガーフィールは、鋭い犬歯を剥いた。


「ロズワールよォ。頭の悪ィ俺様にゃァ、てめェの言い分はわッけがわッかんねェよ。四百年がどーの言われッても、てめェも三十いってるかいってねェかの若僧だろッが。俺様がその半分ぐれェってことを加えても、だ」


 腕を伸ばしてロズワールの襟首を掴み、ガーフィールは道化と顔を突き合わせる。

 苦しげに顔を歪めるロズワールに、ガーフィールは鼻面に皺を寄せると、


「それになァ、俺様ァ別にケンカに負けッたから大将についてるわけじゃァねェよ。ケンカに負けたってなァ、確かに堪えたッけどな。てめェの言う通り、俺様の意固地だって十年の肝入りだ。そんぐれェでひっくり返せるほど、おつむも柔らかくねェ」


「それならば、どうしてお前は今、ここに立っている……」


「大将が……っつーか、ラムか。ケンカに負けた俺様に言ったんだよ。墓所に入って『試練』を見てこいってなァ。だから、十年前の気持ちの始まりを、十年越しに見てきた」


「な……!?」


 顔を突き合わせたまま、ロズワールの表情に驚愕が走る。


「馬鹿な……お前が、お前が過去ともう一度、向き合えるはずがない!」


「はずがねェなんて言われッてもな。できちまったもんはできちまったし、見てきたもんは見てきちまった。そんで、わかっちまった」


「…………」


 首を横に振るガーフィールを睨みつけるロズワール。無言のその注視が、ガーフィールが理解したものがなんであるのか、言葉にされるのを待っている。

 だが、ガーフィールはそんなロズワールに大きく口を開けて見せた。


「俺様が何をわかったのか……てめェにゃァ教えてやんねェよ。勿体なくってなァ」


「なんだと……!?」


「ただ一個だけ、俺様が大将についてる決定的な理由ってやつを教えてやらァ」


 答えを求めるロズワールを突き放して、尻餅をつかせるガーフィールはスバルの方を見た。たじろぐスバルを見て、ガーフィールは小さく吐息をこぼした。


「弱ェ弱ェそのまんまでいろって信じられッてるより、お前は強いから必要だって言われる方につきたくなるに決まってんだろッがよ」


 至極当然といえば当然の結論を告げて、ガーフィールはロズワールから顔を背ける。それから座り込んでいるロズワールの横を抜けると、スバルの隣に腕を組んで立った。

 彼のその態度に、スバルはちらちらと目を向けて、


「ァんだよ」


「……いや、なんでもね。頼りにしてるぜ」


 嫌そうな顔をして目をつむるガーフィールに言って、それからスバルはロズワールの前にしゃがみ込む。顎を引き、下を向くロズワールはスバルの目を見ようとしない。


「ロズワール」


「…………」


「ガーフィールは過去を見た。その結果、立つ瀬は変えたかもしれないけど、それで十年間、家族を思いやってた気持ちが弱くなったり揺らいだりしたわけじゃない。想いの強さは変わらないまま、それでもあいつは変わったんだ。それは、信じられないのか?」


 『聖域』に頑なに拘り続ける姿勢をなくしても、ガーフィールの想いが弱まったわけでは決してない。一方通行だった母親への愛情が、双方向を向いていたと知って、彼の中でどれだけの衝撃が駆け抜けたのかはスバルにだってわからない。

 けれど、今のガーフィールの姿を見て、誰がそれを『弱い』と思えよう。揺らいでしまったと、嘆くことがあるだろうか。


「お前だって、同じだ。俺たちは何も、お前がずっと抱え込んでる誰かへの気持ちを捻じ曲げろなんて言うわけじゃない。ただ、気持ちの示し方を変えてほしいだけだ。他の何も犠牲にしない形になら、俺たちだってお前に協力する」


「……それが、私には我慢ならない。それにガーフィール一人、気持ちが変わったからなんだというんだ。私と君にとって、肝心要の一人はまだ残っている」


 スバルの方から差し伸べる手を、それでもロズワールは取ろうとしない。

 首を横に振って、諦め悪くロズワールが口にするのは今、『試練』に挑んでいるエミリアのことだ。


「エミリアだって、お前の思惑通りにはなりゃしない。あの子は、乗り越える」


「越えられるはずがない。自分の抱える後悔に押し潰されて、『変われる』なんて大望を抱いたことを悔やみ、泣きじゃくって君に縋る……それが、お似合いだ」


「泣き顔が似合う女なんているわけねぇだろ。ましてやお前、エミリアの泣いてる顔を見たことあるかよ?」


 墓所の中で、スバルと言い合う前のエミリアのことを思い出す。

 自分の抱える重責と、パックとの繋がりをなくしたことへの悲嘆に暮れるエミリア。堪え切れない涙をこぼして、スバルを睨みつけたときの彼女の表情。

 それを思い出したとき、スバルの胸の中に火が灯る。


 堪え難い、怒りの炎が全身を焼いた。


「あんなヘタクソな泣き方する女、俺はいっぺんも見たことねぇよ……!」


「傷付けられて、貶められる、それが彼女たちハーフエルフの宿命だ。『嫉妬の魔女』と同じ出自は、生まれながらに背負った呪いだ。『魔女』と蔑まれる、必然だ」


「ふざけるな、あいつのどこが魔女だ。お前らの言う魔女なんて、どこにもいるもんか」


 しゃがむロズワールは下を向いている。

 その胸倉を掴んで顔を上げさせて、スバルは怒りに目尻をつり上げて視線を合わせた。


 ロズワールの色違いの瞳に、この世界への堪え難い怒りを燃やすスバルが映る。

 そうだ。今、ナツキ・スバルは、この世の全てが気に入らない。


 エミリアの、どこが『魔女』だ。『魔女』なんてどこにもいない。

 いるのだとすれば、そんなものは――。


「あの子が『魔女』だって言うんなら! お前らが、よってたかってあの子を『魔女』にしちまうんだろうが! 弱いのが当然で、蔑まれるのも当たり前で、どうしようもない生まれが原因だなんて言い続けて、お前らがあの子を『魔女』にするんだ!」


 『魔女』の茶会を思い出す。

 脳裏にフラッシュバックする光景――過去に、大罪の名を冠した魔女たち。


 ミネルヴァ、セクメト、テュフォン、ダフネ、カーミラ、エキドナ。

 そして、あの夢の空間が砕け散る瞬間、スバルを送り出すサテラの顔が思い出される。


 忘れるものか。

 あの顔は――エミリアと瓜二つだった。


「誰か一人でも、あの子に言ってやったことがあるのかよ!? 苦しいときや、悲しいときは泣いてもいいんだって! 流した涙が拭えないなら、傍にいる誰かが拭いてくれるんだって! そうしてくれる誰かがお前にもいるんだって、誰か言ってやったことがあるのかよ!?」


 どんなに辛い目に遭っても、それが当然だと受け入れる。

 苦しさに胸がつかえたことも、悲しみに押し潰されそうになったことだってあったはずだ。

 それでも、誰もエミリアを泣かせてやらなかったから、だからあの子はあんなにも泣くのが下手なのだろう。

 泣き声を堪えて、泣き顔を隠して、泣いている自分を覆い隠す方法を、誰もが何度も泣いて泣いて泣き続けるうちに覚えるのだ。


 そのことを知らないから。

 知らないままであそこまでこさせてしまったから、あの子は泣くのが下手なのだ。


 ――そうする世界が、そうした世界が、今のスバルには狂おしいほど憎い。


「誰もあの子に味方しないことが当たり前の世界なら、そんなもんは俺の存在が変えてやる! 四百年の呪いが変わらないものだって、そう信じるお前に教えてやる!」


「――――」


 激情に瞳を見開くロズワールの前で、スバルは右手を天に突きつける。

 奇しくもそれは、今まさに『試練』に挑むエミリアが、自分に悪意の言葉をぶつけた魔女へ見せたものと同じ姿勢で――、


「俺の名前はナツキ・スバル! 銀色のハーフエルフ、エミリアの騎士!」


 かつて、ナツキ・スバルは覚悟もないままにそれを謳い、大勢にその無謀な決心を嘲笑された。あのときの自分を振り返れば、今でも足りない自分よりもなお足りない。

 でも今は、あのときと違うことが一つある。


 もう誰にそれを笑われても、ナツキ・スバルはそれを恥じることはない。


「エミリアはくるぜ、ロズワール。お前が頑なに弱いと信じるあの子が、お前の最後の望みを断ち切りにやってくる」


「できる、ものか……」


「そうやって、お前の縋りつく弱さを一つずつ剥がされて、最後に残ったお前に語りかけたら……やっと耳を貸してくれるって信じてるぜ」


 スバルの決意表明を聞いても、ロズワールの心は屈しない。

 今しがた、彼自身が言った通りだ。四百年もの時間が積み上げたものは、言葉一つで変わるようなものではない。


 ガーフィールの十年が、エミリアの百年が、言葉と行動を重ねて初めて動くように。

 ロズワールの四百年もまた、スバルたちが行動し、言葉を連ねてやっと届く。

 今は、それを信じたい。


「……たとえ、誰がどうであろうと、私の想いは揺らぎはしない」


 立ち上がるスバルの隣を、這いずるようにロズワールが抜ける。彼は震える手を伸ばして、壊れたベッドの傍らから黒い本を掴み出し、それを胸に抱え込んだ。

 未来の描かれた、本物の『福音書』。


 ガーフィールが、エミリアが、ロズワールの信じる弱さから脱却する。

 リューズΩが、ラムが、己の信じる道を邁進しようとするロズワールから離別する。


 そうなってロズワールの手元に残る最後の『希望』が、福音書なのだ。

 その記述が失われたとき、初めて剥き出しのロズワールと言葉を交わせる。


「雪は、降らせる……」


「好きにしろ。俺は、お前の目論見を執念深く全部叩き潰す」


 うわ言のように呟くロズワールに応じて、スバルは部屋の外へ向かう。ガーフィールの物言いたげな視線に顎を引いて、彼を伴って部屋を出た。

 最後、ガーフィールは部屋の中に残るロズワールを見て、その取り残される彼の姿に何を見たのか、ぼそりと小さい声で、


「バッカ野郎が」


 そう呟いた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 そうして、ロズワールとの話し合いを終えて建物の外に出て、スバルは息を吐いた。

 深く深く、肺の中の空気を全て絞り出すようにして全部を吐き出し、振り返る。


「ヤバい。屋敷の襲撃を止めさせようとしたのに、かえって後に引けない感じに追い込んじまった」


「雪降らせるとか訳わッかんねェこと言い出してやがッしな。まともに話が通じるッようにも見えなかったからなァ……大将のせいでもないんじゃねェの?」


「いや、完全に不必要な追い込みだっただろ。部屋に入った時点で、ロズワールがちょっと正気じゃないのはなんとなくわかってたのに、何やってんだ、俺?」


 頭を抱えて、スバルは今の互いの言い分を押し付け合っただけの一幕を思い出す。

 ロズワールの主義主張の真意を、本当の意味でようやっと理解できたと思う。それに対してスバルの抱いた感情も、姿勢も表明できたはずだ。

 エミリアを侮り続けるロズワールに、エミリアの勝利条件を叩きつけたことだって、ロズワールに敗北を認めさせるためには必要なことだったと思う。

 だが――、


「それしたせいで、最重要案件が一個抜けた……」


「だァから、へッこむんじゃァねェよ。俺様も聞いてて大将がどうする気ィなのか気にならなかったわけじゃァねェけどよォ、言い切ったことに間違いァなかったぜ」


「そりゃま、そのつもりだが……」


「それにアレだ……あの啖呵、格好良かったしな!」


 反省気味のスバルに笑いかけて、ビシッとガーフィールが指を天に突きつける。

 正直、この異世界にきて以来、大不評を食らってばっかりのポーズだけに、感性の合う誰かが出てくるのは嬉しい限りだ。

 ガーフィールなりに、スバルを慰めようとしているのだろう。多分。きっと。


「――ナツキさん! ガーフィール!」


 と、そうして言葉を交わす二人を呼ぶ声。

 振り返ると、こちらに手を上げて駆け寄ってくるのは一人の青年――オットーだ。

 スバルたちと別行動をとっていた彼は、二人の前で急停止して、


「辺境伯との話し合いは終わったみたいですね。首尾はどうでした?」


「ああ。きっちりケンカ売ってきた」


「そういう趣旨で出向いたんでしたっけねえ!?」


 本題はロズワールが『聖域』に仕掛けた最後の罠と、その翻意の促しだ。

 Ωの存在はロズワールに会いにいく道中で知れて、考えを変えさせるにはロズワールの頭は固すぎる。なので、交渉は決裂だ。


「よォ、兄ちゃん。あんッまり大将を責めてやんなや。大将なりに気合いの入ったいい啖呵だったぜ。俺様ァ、聞いてて気分がよかった」


「あんたら何しに行ってたのか覚えてますか? 笑い話になりませんよ、これ」


 オットーの言い分に頭が上がらず、スバルは自省の至りだ。

 しかし、ガーフィールは落ちるスバルの肩を乱暴に叩き、不満げなオットーの額を指で弾いた。「んが!?」とのけ反るオットーがしゃがむのを見下ろし、


「確かに話し合いはこじれちまったがなァ。もッともと、次善の策だろうがよォ。――ロズワールの屋敷の問題ァ、どうにッかしてやらァ」


 涙目のオットーの無言の非難に、ガーフィールは口を開けて笑う。

 鋭い牙を見せつけて、音高く噛み鳴らし、


「全ッ部、俺様に任せろ。――俺様ァ、最強だぜ」



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「そういうわけで、馬鹿三人は賢い地竜に竜車を引かせて屋敷へ走っていきました」


 話し終えて、ラムはどこか疲れた顔で額に手を当てた。

 ラムにしては珍しく、エミリアの前で表情に感情を覗かせていて、少しだけ驚く。


「そう、なんだ。……もう、仕方ないんだから」


「……それだけですか?」


「それだけよ? んと、私が出てくるのを待っててくれなかったのはちょっとだけ……すごーくちょっとだけ、思うところがないわけじゃないけど」


 アレだけのやり取りを経て、墓所にエミリアを送り出したのだ。

 その当人が結果も見届けずに、声も届かない場所にいなくなっているとは何事か。


「でも、失敗するなんて思ってもいなかったってことだもんね」


 本当にスバルがエミリアのことを何よりも心配していたのなら、彼はここに残ったろう。それなのに彼がここにいないのは、エミリアよりも手を貸さなくてはならない誰かが、ここではないどこかに存在しているからだ。


 信じられていると、ナツキ・スバルのことを知っていればそう思える。


「ホントに私のこと好きって思ってくれてるのかな。そう思わない?」


「バルスは、エミリア様のことを誰よりも想っていますよ」


「……ふふ、ありがと」


 同意を求めるエミリアに、ラムは言葉少なにそれを肯定してみせる。エミリアが口元に手を当てて微笑むと、ラムは何事か考え込むように目を伏せた。

 それから、数秒の沈黙を経て顔を上げる。


「エミリア様、申し訳ありません」


「どうしたの?」


 急な謝罪を口にするラムにエミリアは目を丸くする。


「ラムが謝ってくるなんて、すごーく珍しい」


「ラムもそう思います。……ですが、ラムは初めてエミリア様に本心から頭を下げます」


 これまでのお辞儀はただのポーズ、と潔く告白するラムにエミリアは苦笑する。

 そのエミリアの苦笑を正面に、ラムは薄赤の瞳で真っ直ぐエミリアを見つめた。


「ラムは……エミリア様がお立ちになられるとは、信じていませんでした。『試練』に心を折られて、拠り所であった大精霊様まで失われて……バルスがエミリア様に本心を隠していたことまで知らされて、どうして立てるものかと」


「…………」


「ですが、エミリア様はそれだけ事を重ねられても、折れることだけはなさいませんでした。ベッドを出たあなたが、墓所にいると気付いたとき……ラムは、あなたを見くびっていたことにやっと気付きました」


 それでも、ラムの指摘してくれた時点ではエミリアは立ち直ってなどいなかった。

 ただ、『試練』へ挑むことを、それを投げ出そうとはしなかった。そのことだけは考えもしなかったと、そう断言してもいい。


「それで、ラムはスバルやオットーくんに手を貸してくれたの?」


「貸した先の未来を見る価値があると、そう思えただけです。ラムがあの二人に手を貸したように見えるのなら、それは違います。ラムが手を貸したのは、エミリア様ですよ」


「……そう、かもしれないわね」


 あの場でエミリアが立ち上がるためには、スバルの言葉が必要不可欠だった。

 そしてスバルが言葉を証明するためには、ガーフィールを打ち倒すことが必要だった。ガーフィールを倒すためには、オットーやラムの協力は絶対だ。

 故にあの結果だけを見れば、ラムはエミリアのために貢献したともいえる。


「どうして、そんな風にしてくれたの?」


「――願い事をするのに、自分の方から誠意を示さないわけにはいかないからです」


「――――」


 そう言って、ラムはエミリアの前に静かに膝をついた。

 これまでにラムがエミリアに、形だけでも敬意を表するときはスカートの端を摘まみ、丁寧にお辞儀するという給仕のやり方に則ったものだった。

 しかしその敬礼は違う。その最敬礼は、この世界を生きる誰もが、自分の持てる最大限の敬意を相手に示すためにするものだ。


「お願い申し上げます、エミリア様。――我が主、ロズワール様をお救いください」


「……ロズワールを?」


「あの方は、妄執に取り付かれておいでです。長く長く、心を縛り続けた呪いのような妄執に。あるいはそれでも、ラムはよかった。あの方がラムを見ていなくても、ラムのことをその妄執を果たすための道具としか思っていなくても、それでもよかった」


 最敬礼を捧げたまま、ラムは心の内をエミリアにさらけ出す。

 それは彼女が無表情の仮面の下で、ロズワールを見つめながらずっと抱いてきた願いなのかもしれなかった。


「でも、その妄執はもはや形を成し得ません。全ての根幹であった福音書の記述を世界はすでに外れて、ロズワール様は文字に縋るばかり……どうか、それを砕いてください」


「ロズワールは、それを砕かれても平気なの?」


「平気では、ないでしょう。きっと取り乱します。自分の人生の意味を見失い、崩れ落ちるかもしれません。ですが、エミリア様しかいないのです。福音書の記述を外れた世界を歩いた先で、ロズワール様の妄執を……想いを、遂げられるかもしれないのは」


 頭を下げて、ラムはエミリアに懇願する。

 彼女の言い分の、その半分ほどもエミリアには判然とは伝わってこない。


 ロズワールの持つ福音書、とは彼がエミリアに見せた黒い本のことだろう。その内容と世界がそれ始めていることは、ロズワール自身がエミリアに語ったことだ。

 あの本の内容と違う世界になって、ロズワールはどうするのか。どうしようもならなくなったロズワールの希望に、エミリアがなれるというのはどういうことなのか。


「私は、何をしたらいいの?」


「――王座に、おつきになってください」


「――――」


「エミリア様が、ルグニカの玉座に座られる。そうなったとき、ロズワール様の想いは果たされます。記述を外れた世界でも、想いの結実する日がくるのだと、ロズワール様にどうか教えてさしあげてください。今日を、明日を、生きる意味をお与えください」


 押し黙るエミリアに、ラムは言葉を重ねる。

 これほど饒舌にラムが思いを口にしたところを、エミリアは初めて見た。


 だからだろうか。

 だからなのだろうか。


 エミリアの胸の奥に、これほどまでに言葉にできない感情が込み上げるのは。

 誰にも頼らずに立っているように思えていた彼女が、自分をこうして頼ってくれていることに、耐え切れないほどの想いを抱いてしまうのは。


 言葉の出ないエミリアの前で、ラムが顔を上げる。

 薄赤の瞳は、彼女の小さな体いっぱいに詰まった愛で潤んでいた。




「お願いです、エミリア様。――あの人を、助けてあげて」




 その静かな言葉に、エミリアの総身は確かに震えた。

 一度、二度、内臓を手で揺すられるような感覚と、全身を巡る血に震動が伝わっていくような感覚。


 そうした震えが体中を駆け巡った後、エミリアの中に残ったのは一つ。

 胸の奥を熱く燃え上がらせる、たった一つの使命感だ。


「正直、私が王様になることで、どうしてロズワールが救われるのかはわからない」


「…………」


「ラムの想いも、きっと本当の意味ではまだ私、わかってあげられない」


「…………」


「でも」


 無言で自分を見ているラムの瞳を見つめ返し、エミリアは息を吸った。

 戸惑いは、胸の中から消えている。不安も、頭の中に残っていない。


 魂は、今までにないほど燃えていた。


「ラムが私に何かをお願いするなんて、初めてのことだもの」


 だから、


「いいわ、ラム。私を信じてくれたあなたに、私は今、応えてあげたい」


 それはきっと、迷う必要もないぐらいに、エミリアのやるべきこととやりたいことが一致した瞬間だったから、笑って言った。


「きっとそれが、ここから私が始めなくちゃいけないことなんだわ」




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