お嬢様達のナイトメア その8
華雅女子学園 白銀寮 上条うららの部屋
夜、食事が済むと、舞はうららの部屋に行く。
うららの手作りのお菓子を食べ、お茶を飲み、語らい、ゆったりとした時を過ごすというのが、初等部から続く、舞の日課だ。
舞と一緒の時間を過ごしたいと熱望する生徒がどれだけいようと、舞にとって、この時間のパートナーは、うららだけ。
例え誰であろうと、この日課に他人の介在を一切許していない。
この時間、舞はうららと共にある。
うららは舞のものであり、舞はうららのものと言える一時。
舞にとって大切な時間だ。
ただ、うららの顔を見ているだけで、泣きたくなるほど心が安らぐ。
その安堵感が、たまらない。
「なぁ、うらら」
ぼんやりと、ティーカップに紅茶を注ぐうららを眺めていた舞が言った。
「なんです?」
うららは、紅茶を注ぎながら返事をする。
いつも通りの光景だ。
だが、その日だけは違った。
舞は、思い切ったように言った。
「何か、私に隠していることはないか?」
ガチャンッ
ティーポットがカップにあたり、テーブルに赤いシミが出来る。
「な、何を言うのですか?わ、私は別に」
慌ててふきんでテーブルを拭くうららを、舞は静かにながめるだけだ。
「……まぁ、いいけどね」
「……」
うららはテーブルを拭く手元だけを見ている。
「少し、うららをイジめてみたかっただけよ」
「ひ、ヒドイ!」
ようやく、うららの視線が舞に向いた。
ただでさえ引っ込み思案の娘だから、少しイジめすぎたかな。と、舞は内心で反省した。
「ははっ。でも、うらら」
舞はティーポットに手を伸ばしながら言った。
「悩みがあれば、いいなよ?私たち、幼稚園の時、将来を誓い合った仲なんだしさ」
「ぷっ。舞さんったら」
1時間後
「じゃあ、また、明日」
軽く手を振りながら舞を部屋から送り出したうららは、しばらくじっと、舞の消えた扉を見つめた後、悲しげな表情で部屋を出た。
午後10時を、少し回っていた。
同じ頃 華雅女子学園 白銀寮 外
「ううっ。寒いよぉ……疲れたよぉ……お腹空いたよぉ……」
準備のため、夕飯を食べ損ねていた。
「ううっ。栗須さん特製鍋焼きうどんがぁ……昨日から楽しみにしていたのにぃ……」
グーグーなるお腹を押さえ、秋の夜風にガタガタ震えながらも、水瀬が外に出ている理由。
それは、日菜子の罰が理由だ。
今朝のことだ。
シャワーを浴び、栗須の手を借りて春菜への変装をする日菜子が言った。
「今夜から学園内部の除霊を行って下さい」
「除霊……ですか?」
「何か不満でも?」
「あの、唐突すぎて、理由がわかりません」
「鈍いですね」
「すみません」
「春菜から聞いています。こっくりさんが学園内で流行しているそうですね」
「……その影響で霊が学園内部に多数たむろしている。危険だから、除霊しろという事ですか?」
「わかっているじゃないですか」
「はぁ……」
「ならかまいません。私の護衛は栗須と、女官数名が就きます。その分、夜、あなたは少しの時間を割いてください」
「急ぎではないのですか?」
「あなたも、学生とメイドの仕事を両立させているわけですし。三足のわらじでは大変でしょう?出来る範囲でかまいません」
「あ、ありがとうございます」
「水瀬家の子女が低い成績では、由忠様をさらに怒らせる結果にしかなりません。頑張りなさい」
日菜子はそう言うと、カバンをもって椅子を立った。
「さて。水瀬?行きますよ?」
「あ、殿下。これ、お忘れです」
水瀬はテーブルの上にあった“それ”を日菜子に手渡した。
「……」
それまでの日菜子の穏和な表情はどこへやら、その顔は完全に引きつっていた。
「いくらなんでも、“これ”がなければ変装しても……」
それは、それはそれは分厚い“胸パット”。
考えるに、あれがまずかったんだろう。
……多分。
その日の朝 華雅女子学園 通学路
「悪かったですね!」
「で、殿下、あ、あの……」
日菜子殿下の御気色は最悪だ。
ここが宮中なら、周囲が青くなっていることだろう。
「ええ!どうせ私は貧しいです!貧弱です!」
「べ、別に気にすることもないんじゃないかな。と」
「男の人にはわかりません!」
日菜子はついに声を荒げた。
「……」そういえば。
水瀬は思い当たることがあった。
日菜子殿下といえば、着物好きで有名だ。
というか、むしろドレス姿は、水瀬も、直には見た覚えそのものがない。
それほど、日菜子は宮中の晩餐会など、正装する公式行事は一切を着物で通し、“日菜子殿下の着物好き”をもって全国の着物メーカーを涙させている。
例え、麗菜・春菜両親王がドレスでも、日菜子だけは着物で通す。
それは、世論が言うとおり、日菜子が着物好きだからではないのか?
いや、この発言からすれば……
「殿下、まさか」
まさか。
いや、でも、それなら、納得出来る。
水瀬は、不意に自分の婚約者の顔を思い浮かべた。
(殿下、綾乃ちゃんと仲良く出来るだろうなぁ)
「ぐすっ……ええ!どうせ私はこんなパットでもいれなければ、あの二人と並んでドレスなんて着ることは出来ません!三人並べはM字の山脈。真ん中だけまっ平って揶揄されることの悔しさが、惨めさが、あなたにわかりますか!?」その声はもう涙混じりだ。
「その……貧乳を隠すために着物を……」
水瀬は“貧乳”だけ、なるべく声を抑えて言った。
「着物なら、胸は目立たない。ということで?」
「何が悪いのですか!?」
「わ、悪くはありません。でも、それでも悩むより、受け入れて、ありのままに世間に出るのも、大切ですよ?」
水瀬は言った。
「アイドルの瀬戸綾乃さんだって、“芸能界の絶壁”と言われるほどの真っ平らです。あんな貧乳で、数万人相手にドレスです。開き直っているとしか思えません。触ってもうれしくないですし、抱きつかれると痛いし……僕なんて、気の毒通り越して、二十歳までに成長することに一縷の希望を、でも無理だろうなぁって思っている位で」
「女の胸をなんだと思っているんですか!」
日菜子はまたも怒鳴り上げた。
「何て目で見ているんですか!女の胸は男の鑑賞物ではありません!」
「―――じゃ、いいじゃないですか」
水瀬はニコリと笑いながら言った。
「鑑賞物なんかじゃ、ないんでしょう?」
「!」
日菜子は、自分が水瀬の策にはまったことに気づいたが、後の祭りだ。
「大きくても小さくても、気にすることはありません」
「……」
日菜子は面白くないという顔で水瀬をにらみつけた後、言った。
「わかりました」
「何よりです」
「瀬戸綾乃さんには、さっきの水瀬の発言を、私から直接伝えてあげましょう」
「え゛!」
「今度の園遊会に招待してあります。その際にたっぷりと」
「そ、そんな!ぼ、僕、殺されちゃいます!」
「主君を言葉で弄するからです。水瀬?今日中に、全部の校舎の除霊、終わらせてくださいね?理事長には私から話しておきます」
結局、自分の余計な一言が、自分を追い込んでいることを、水瀬も認めざるを得ない。
(水瀬君は一言余計なのよ)
(悠理君?よく考えてしゃべらないと、ダメですよ?)
ことある事に美奈子や綾乃から注意されていることだが、水瀬はどうしても、これが守れない。
それは自分の欠点として十分に自覚していた。
そして、これが、その欠点故の罰なのだということも。
「グスン。で、でも、僕、殿下に元気になってもらおうと思って……それで」
水瀬は涙をふきふきしゃくり上げていた。
(言葉は諸刃の剣よ?剣の使い方を間違えれば、どれほどのケガするかは、悠理君ならわかるでしょう?)
祷子にもそう言われたものだ。
だけど、こういう方法しか知らない。
本当に、口べたは損な存在だと思う。
今までの人生、口を開いたら損ばかりしてきた。
「ぐすっ。誰か、言葉の上手な使い方、教えてくれないかなぁ」
水瀬がぼやきながら目指すのは校舎群だ。
昼間、普通に過ごしていても、霊が邪魔で仕方ないことがあるほどだ。
それを一晩ですべて除霊するなんて、そう簡単なことではない。
結界を張って、霊を外に追い出して、手順は複雑で面倒。
除霊が終了するのは、夜中遅く、下手すれば明け方だろう。
今日も徹夜だ。
そう思うと、足が重くなる。
「あれ?」
見ると、少し先を小走りに走っていく女がいる。
どこかで見た女だ。
警戒するようにちらとこちらを見るが、闇に紛れて動く水瀬の姿を見つけることは出来ないだろう。
その顔は、間違いなかった。
うららだ。
「先輩―――どこへ?」
うららが目指す先は、校舎群の奥。生徒会室の入っている学生棟の隣。
理科棟らしい。
先日、誘拐犯が捕まったあの棟。
うららは、辺りを確かめると、ドアを開き、棟の中へと入っていく。
「……」
水瀬は、その跡を追った。
理科棟の1階の奥は倉庫と、一部が教員のための研究室になっているという。
だが、うららが向かったのはそのさらに奥にあるドアだ。
そのドアを開き、うららは闇の中へと姿を消した。
ドアには、すり切れたプレートが貼り付けられており、かろうじて読むことが出来る。
『地下室入り口 生徒の立ち入り禁止』
水瀬が音を立てずにドアを開けようとした時だ。
ガチャ
中からカギをかける音がした。
(……まいったな)
確か、ポケットに針金があったはずだ。
よし。
ガタッ
鍵穴に針金を差し込もうとした時だ。
背後からの突然の物音に、水瀬は即座に霊刃を抜いた。
懐中電灯が廊下を動いてくる。
(警備員か?)
まずい。
水瀬は床を蹴ると、天井へ張り付いた。
懐中電灯は2つ。
「風紀委員さんに迷惑かけちゃったわね」
「いいえ。父からは全面的に協力するようにといわれていますし」
「そういってくれると助かるわ。あのバカがもう少し使い物になればいいんだけど」
水瀬は我が目を疑った。
一人は舞。風紀委員として、独自に調査しているんだろう。
だけど、なぜここにいる?
任せてくれているんじゃなかったのか?
舞の横には、なんと、理沙がいた。
「連絡も寄越さないし。状況は悪化する一方だっていうのに」
「外で何か?」
「繁華街を中心に、行方不明者が続出しているのよ」
「行方不明?」
「ええ。世間にとっちゃゴミみたいな奴らだけど。それがね?最後に目撃されるのが、必ずこのガッコの側なのよ」
「学園とその事件が関係していると?」
「マスコミがそろそろ感づいて来ている。だから、さっさと事件を極秘に処理しなければならないのよ。それをあのバカ!役立たず!」
「水瀬は、警察から派遣されてきたのですか?」
「それは言えないわ。それより」
「……」
「村雲さんがお父上まで動かして、こうして警察の介入を急がせたのは、上条家絡みの問題だからでしょう?」
「あの―――上条家が、今回の事件の黒幕だなんて、ウソですよね」
「……なんとも言えないわ。ただ、水瀬君から報告のあったシスター・マリア、彼女をこのガッコへ招き入れたのは、上条家よ」
「それだけでは」
「上条家が、魔法薬の販売を通じて巨利を得ているのは確かだし、校長と組んでいろいろ裏があるっていうのが、警察と検察の見方ではある」
「……」
「これ以上は捜査上の秘密よ。さて、悪いわね。毎晩毎晩。今日はここまでにしておくわ。建物の仕組みも大体、わかってきたし」
「そうですか?」
「明日も朝から大変よ?応接にあのバカ呼び出して地下に潜ることにするわ。だから、これ以上は、あなたには危険よ」
「し、しかし」
「村雲検察庁長官のご令嬢を、これ以上危険な目に遭わせることは出来ないし、何より、警察としても、検察にこれ以上の借りを受けるわけにはいかないのよ。大人の事情、わかって」
「は、はい」
「いずれお礼するわ。薄給だから、精神的にだけど」
二人はそういうと、踵を返して廊下を戻っていった。
「……」
翌日 華雅女子学園 応接室
「ヤダ」
頬をふくらませた水瀬の言葉だ。
「やだって……何もいってないわよ。それに、あのね?仕事なんだから」
ふくれっ面で入ってきた水瀬に面食らった形なのは理沙だ。
「昨日、僕のことバカっていってた」
「へ?」
「しかも、黙って村雲先輩と一緒に、学園内捜索しているなんて、ズルい」
「あ、あんた、昨日、どこにいたの?」
「校舎にいた。お姉さんったら、僕のことバカバカいって、役立たず扱いしてた」
「あ、あはははっ……」
「地下回廊の捜索でしょう?」
「そ、そう!」
「やるだけ無駄」
「へ?」
「もう、僕が全部調べ上げてあるけど、少なくても“ノインテーター”に関しては無関係だよ」
「じゃ、あの地下回廊は?」
「別な目的だね。むしろ、気になるのは」
「何か収穫でも?」
「うん。お姉さんに調べて欲しい人がいるんだ」
「誰よ」
「上条うらら」
「上条?」その名前に理沙の眉が動いた。
「そう。昨日話していた上条家の娘」
「それが?」
「―――昨日、お姉さん達が立ち話していた廊下の奥、地下室へ降りていった」
「なっ!?」
理沙は驚いて立ち上がった。
「わ、私たちの目の前に、上条家の人間がいたというの!?」
「そう。で、上条家って何?」
「何してたのよ」
「彼女?わかんない」
「はぁ!?」
「ドアに鍵かけられてたから、破るわけにもいかなかった」
「……役立たず」
「ぷぅ。だって!」
「とにかく、事件はもうヤバい所に来ているのよ。上も、捜査課やマスコミを押さえられなくなっている」
「うん。でも、敵もそろそろ動くよ。外で兵隊集めているんだから」
「よくわかるわね」
「吸血鬼の力で仲間を外で集めている。ゴハンもだけど。行方不明事件はそういうことだよ」
「“ノインテーター”は?」
「吸血鬼を作るための道具でしかないんだよ。もう、数が集まった。だから、表に出てこなくなった。多分、そういうこと―――ただ」
「ただ?」
「うん。興味があるのはね?その原料の方」
「あのなんとかいう?」
「うん。ほら。薬はいろんな成分を組み合わせることで作るでしょう?“ノインテーター”の原料も同じ事。別にあの薬以外にも使えるし、単品でもかなりいろんな効果が望めるもの。原料の製造は続いているはず」
「―――この学園に、そういう薬物のプラントがある。ということか」
「そう。特に“ドムネル”はかなり売れると思うよ?」
「ねぇ。確かあんた、この前の説明で誤魔化していたけど、どんなモノなの?その“ドムネル”って」
「び、媚薬……」
「媚薬?」
「うん。お、女の人の理性を奪っちゃうほどのスゴい代物。昔の軍隊で、女性の捕虜を拷問するために作られたっていわれている位」
「そ、そんなにスゴイの?」
「どんな強情な女性でも、えっと……り、理性が吹き飛んで、例えし、しししし、しょ、処女でも、せ、せせせせせ、せい、せい、性的快楽だけを求める……け、ケダモノみたいになるって……。だから、王侯貴族なんかの間では、密かに高値で取り引きされていたことが」水瀬は、言うだけで恥ずかしいという様子で、俯いてしまった。
「金持ちのエロオヤジが聞けば目の色変えるわね……それにしても」
理沙は面白そうな顔で水瀬を見た。
「あんた、結構、純なんだね」
「へ?」
「媚薬なんて言葉で顔赤くしてさ。そんなにドモって」
不意に理沙は水瀬の横に座るなり、水瀬の肩に手を回した。
わざと胸を押しつけてみると、カチカチに凍った水瀬の体が小刻みに震えているのがわかる。
「そ、そんなことないもん!」
水瀬はうつむいたまま、体を固くしている。
「ふーん?これでパニクるなんて、情緒は小学生並……あ、外見通りってことか」
「ち、違うもん!」
「何だったら、お姉さんがイロイロ教えてあげようか?」
わざとらしくスーツの前ボタンに手をかけつつ、水瀬にしなだれかかる理沙。
「い、いらないもん!」
(へぇ……この子)
出会って以来の「生意気なクソガキ=水瀬」の図式が崩れた瞬間だった。
それほど生意気だと思っていた水瀬の、意外な一面を見た理沙は、持ち前のS気質に火がついた。
(もう少し、イジめたいわね)
「私はいいのよぉ?オンナの素晴らしさ、味わってみたくない?」
「ううっ。お姉さんのイジメっ子ぉ」
「イジってるだけよ。いい?イジめられたくなかったら、実績示しなさい」
「示さなかったら?」
「三角木馬位は覚悟なさいよ?」
理科棟 地下室入り口
ガチャ
思ったより大きい音が出たことに驚きながら、彼女は人気がないことを確かめ、ドアの中へと身を躍らせた。
顔をしかめたくなるようなカビくさい匂い空気。階段は暗くて足下がおぼつかない。
持ってきたペンライトだけが頼りだ。
音を立てないように、そっと階段を降りていく。
階段を降りきった先にもドアがあった。
『関係者以外立ち入り禁止』古ぼけたプレートが張られている。
「……」
彼女は、思い切ってドアを開けた。
ブーン
入るなり、耳障りな音が聞こえてきた。
「何?ここ」
そこは、彼女が見たことのない様な空間だった。
古ぼけた机は、多分、学校中から集められたのだろう。理科の実験用の机と図書室で使う大きなテーブルがあり、その上には本や薬草が所狭しと置かれている。
「……」
テーブルに広げられた本は、彼女が見たことのない言語で書かれており、何の本か、それすら見当がつかない。
(ここにうららが?)
応接室に仕掛けた盗聴器からすれば、うららが昨日、ここにいたことは間違いない。
だが、その目的は何だ?
ブーン
まだ聞こえてくる。
(何だ?この耳障りな音)
音源を求め、周囲を見回した彼女は、壁際にある白い物体に気づいた。
古ぼけた冷蔵庫だ。
音は、この冷蔵庫から聞こえてくる。
よくはわからないが、自分の年よりは長く使われているんだろう。
彼女は、その取っ手に手を伸ばし、ドアを開けた。
中はガランとしていた。
(?)
入っていたのは、ビニール袋に入った密封状態の試験管が数本。
ただ、それだけだが―――
『上条うらら 28日午前0時23分採取』
ビニール袋にはそう書かれていた。
試験管の中身は、白い液体だ。
(うらら?これ、何?)
採取?
うららの体から採ったのか?
彼女がビニール袋に手を伸ばしたその時だ。
ガンッ!
「!」
後頭部を襲った激痛に、彼女は、意識が遠のくのをはっきりと感じた。
(ごめんなさい。ごめんなさい)
そんな、声が遠くで聞こえた気がした。
泣きながらの声。
この声―――どこかで。
彼女の意識は、そこで途絶えた。
お昼休み 華雅女子学園 中庭
「猫、ですか?」
「猫です」お昼を終えた日菜子が、紅茶を飲みながらそう言った。
「あの、ニャーと鳴く?」
「……他に、どんな猫がいるというのですか?」
「ここ、野良猫、かなりいますけど?」
「この前、水瀬がグチを言っていた猫です」
「ああ。あれですか―――どうするんです?」
「まず見つけてください」
「お昼足りないならご用意します……あの、お腹壊しますよ?」
「……誰が食べるといったんですか?」
「うーん。さっき、ゴハンあげたばかりだから、捕まえてきましょうか?」
「いえ。写真でいいんです」
「?」
日菜子と別れた水瀬は、携帯片手に中庭をうろついていた。
あの日、水瀬が出会った白猫は、この中庭をナワバリとして、時折、生徒達からおこぼれに預かっている猫だ。
だが、不思議なことに、日菜子には懐かない。
公務で動物園に行けば、人間以上に動物に歓迎されるほどの日菜子に、だ。
水瀬は、不思議に思いながらあたりを探し、目当てを見つけた。
中庭の隅に置かれたベンチの上で丸くなっていた。
水瀬は、そっと近づくと、慣れない手つきで猫を携帯の写真に納めた。
猫は、眠っているらしく、動こうともしない。
(やっぱり、うらやましいなぁ)
水瀬は、写真の出来を確かめずに携帯をポケットにしまった。
風景が映っていたから、猫も映っている。
そう、思ったからだ。
機械が苦手な水瀬にとって、それが出来る精一杯の手抜きだ。
「こんなに近くにいたなら、お願いする必要、なかったかもしれませんね」
背後から、そんな声を聞いたのは、その時だ。
「殿下?」
日菜子がのぞき込むようにして、水瀬と猫を見ていた。
「ご苦労様です。もう、いいですよ?」
「はぁ……」
日菜子の視線の先には、幸せそうな顔で眠る猫がいた。
「それにしても、やっぱりこの子」
「あの、殿下?」
水瀬がそう言った途端だ。
理科棟の方から悲鳴に近い声があがった。
「?」互いに見合う日菜子と水瀬だが、その間にも、騒ぎは大きくなる一方だ。
「どうしたのかしら?」
「さぁ」
騒ぎに気づいた生徒達が近づくなり、その騒ぎをさらに大きくしていく。
「舞お姉さまが!」
その声に、水瀬と日菜子も、騒ぎの中に向かった。
図書館館内
「タンカもって来て!」
「保険医呼んできなさい!」
生徒達の声が聞こえ、何人もの生徒が出入りを繰り返している。
図書館の中は騒然としていた。
風紀委員の腕章をした生徒達の囲みの中、倒れているのは、舞だった。
意識がないらしく、周囲の生徒達からの悲鳴に近い呼びかけにも答えようとしない。
周囲には生徒会長や副会長の姿もある。
生徒達は、図書館のあちこちで遠巻きに事態を見守っている。
「あの、どうしたのですか?」日菜子が、近くにいた生徒に尋ねる。
「な、なんだかわかりませんけど、舞お姉さまが図書館で倒れられていたとか」
「水瀬、行きなさい」
「は、はい―――会長!」
水瀬は、その指示に従い風紀委員の群れに近づいた。
「おう。やられたよ……」クリスの声には、初めてあった時の覇気がない。
「どうしたのですか?」
いいつつ、タンカに移された舞の脈をとる。
「わかんねぇ。書庫の入り口で倒れていた。あの舞が殺られるなんて、ヘンな話だ」
脇から舞の腕を触っていた水瀬が言った。
「とにかく、治療します。脈拍が危険域。間に合いません」
「お前ぇがか?」
「私、療法魔導師です。応急処置位ならすぐに」
「会長、水瀬は、私が保証します」
何とか、水瀬に近づいた日菜子の助け船に、クリスは乗った。
「よ、よし!おい!すぐにタンカをそこへ置け!床にキスした程度でどうこうなるタマじゃねぇ!」
「お、お願いします!」
保健室
療法魔導―――すなわち治癒魔法は、通常の医師の施術と比較しても、あらゆる面において確実な治療方法である。
言い換えれば、『人類が頼れる最高の治療』とも言える。
例え、患者の首の骨が割れ、後頭部が陥没するような骨折をして、内出血が脳に深刻な被害を及ぼしていても、それでも治す。
治癒魔法に由来する魔法医療は、どんな被害を受けようとも、生きていることと、時間をかけることの二つの条件さえかなえば、現代医療では勝負にならないほどの高い確率で、五体満足で社会に復帰させることが可能だ。
それが治癒魔法だ。
故に、療法魔導師は医師以上に尊重され、その地位は高い。
いかなる戦場でも、国際法・最低でも各国軍法上でも、療法魔導師に対する敵対行動は一切禁止、違反者は死刑とされる所以だ。
実際、大学病院に匹敵する華雅女子学園の保健室スタッフにとって、水瀬の施術後の舞に対する対応といえば、外見からの患部確認とCTスキャン、ベッドに寝かせること。
その程度だった。
「患者は昏睡状態にありますが、脳波は正常。すぐに意識を取り戻すでしょう」
医師はそういって保健室を出ていった。
「お前と殿下のおかげだよ」
クリスはため息まじりに水瀬達に言った。
保健室のベッドで舞が眠り続ける中、その周囲には、クリスと水瀬、日菜子、そしてうららがいた。
クリスは憮然とした表情でチュッパチャプスを玩ぶ。
うららは泣きじゃくりながら舞を見つめ続けている。
水瀬と日菜子は黙ったままだ。
その沈黙を破ったのは、クリスだった。
「殺すつもりだってワケか」
ふんぞり返るように椅子に座ったクリスは、怒り心頭という声であめ玉を口にくわえた。
「いえ。逆です」そういうのは水瀬だ。
「逆?」
「ええ。殺すつもりはなくて、ただ、気絶させようとして殴りつけた。でも、まずい所に当たったという所でしょう」
「何ですかそれ?」日菜子がきょとんとして訊ねた。
「犯人は村雲先輩を殴っただけ、と聞こえますが?」
「殿下。その通りですよ」
「頭蓋と首の骨折って、殺すつもりがなかっただぁ!?」
クリスもさすがに腑に落ちない様子だ。
「ええ。殺意がない方が、逆に力むことがあるんですよ。舞先輩も、うなじをやられたのは間違いないですし」
「だけど後頭部にモロに命中している」
「そうです。でも、殴った痕跡は、斜めに入っている。殺害を狙ったなら、大きく振りかぶって、エモノを脳天へ垂直に叩き付けるべき所です。でも、そうじゃない。舞先輩が頭を下げていた所を狙って振り下ろしたのに、丁度、舞先輩が―――立ち上がろうとでもしたから、ヘンな所に命中しちゃった。そんな所じゃないですか?」