金貨5万枚で売られた聖女は、隣国の公爵様に愛されています
今日は、婚礼の日取りを相談できるかもしれない。
王宮の庭へ急ぎながら、私はドレスの袖を直した。婚約者のアモーリ殿下と二人でお茶を飲むのは久しぶりだ。神殿での用も早めに終わらせてきた。
話したいことがたくさんある。先日、街道の結界を張り直したことも、聞いていただきたかった。
「ベルティーユ、お前との婚約は解消する」
向かいに座るなり言われて、伸ばしかけた手を止めた。
殿下は紅茶に口をつけている。私はカップに触れることもできず、その顔を見つめた。
「どうして、ですか。私たち、もうすぐ……」
「侯爵令嬢と結婚する。あの人といるほうが楽しいんだ」
「では、私は?」
「お前は何でも完璧にこなすよ。聖女としても申し分ない。ただ、可愛げがない。妃には、あの人を迎えたい」
初めから何でもできたわけではない。できないことを、少しずつ覚えてきたのだ。
疲れていても勉強を続けられたのは、殿下に会ったら褒めていただけると思ったから。聖女の役目を果たしたときには、私を誇らしく思ってほしかった。
「殿下に喜んでいただきたくて、私……」
「もう決めたことだ」
そんな言い方をしなくてもいいではないか。
あなたのためでもあったのに。私だけが、二人で幸せになれるつもりでいたの?
唇を噛んだ。腹が立つのに、席を立てない。近頃そっけなかったのも、婚礼が近づけば変わると思っていた。もう少し話せば、今日の言葉だって取り消してくれるかもしれない。
まだ好きだった。この人と結婚したかった。
「それと、ロシュヴェルへ行ってもらう」
「隣国へ?」
「聖女を欲しがっていてね。永住を条件に金貨五万枚、それに物資だ。私が話をまとめた。父上も伯爵も同意している」
「私を、売ったのですか」
「両国のためになる話だ。そんな顔をするな。この国は現在、とても平和だ。もう、お前の力は必要ない。正直に言うが、堅苦しいお前を今まで我慢していたんだ」
涙で殿下の顔がぼやけた。
婚約破棄だけではない。私を知らない国へ渡す相談まで、この人は終えていた。私がお会いできる日を数えている間に。
殿下は金貨で国の為に何が出来るか話し始めたが、私はもう聞いていられなかった。
「それに、この国には、もう一人新しい聖女がいる。オディールだけで十分だ」
「今の守りを、あの子だけでは保てません。外の瘴気も濃くなっています。どうか神殿の意見も聞いてください」
殿下は、白いバラの咲く庭を指した。
「見てみろ。街もこんなに平穏だ。心配しすぎだ」
「二人の結界で、守っているからです。未熟な彼女の力だけでは……」
「くどい! 出立の支度をしておくように」
殿下が席を立つ。呼び止めようとした声は、喉につかえて出なかった。
出立は三日後だった。
神殿の前で待つ馬車へ、後輩のオディールが駆け寄ってきた。聖女の白い袖をまくったまま、御者に少し待ってと頼む。
「私、反対したのよ。あなたがいなくても大丈夫だなんて、一言も言っていないのに」
「分かっているわ。あなたがそんなこと言うわけないもの」
彼女は髪に挿していた銀の飾りを外した。青いガラスの花がついている。私が以前、きれいだと言ったものだ。
「持っていって」
「でも、あなたの大事な――」
「だからよ。どうでもいいものをあげて、見送れると思う?」
髪飾りを受け取り、彼女を抱きしめた。
「手紙を書くから、返事をして。何かあれば知らせてね」
「書くわ。ベルティーユも、嫌なことがあったら知らせて。向こうでは大切にしてもらえるよう祈っているわ」
知らない国へ行くのは怖い。いまは馬車に乗るのさえ嫌だった。
オディールと、別れたくはなかった。
「いつか会えますように」
「ええ、そう神様に祈りましょう」
頷くと涙がこぼれた。離れる前に、もう一度ぎゅっと抱きしめた。
◇
国境のミュレーヌ城が見えたとき、私は髪飾りを鞄へしまった。
国を出て四日。車窓の畑には誰もおらず、道端の家では窓を板で塞いでいる。ここが私を買ったロシュヴェル王国なのだ。
こんな寂しい国が、あれだけの額を支払った。どれだけ働けば、金貨五万枚に見合うのだろう。
馬車が城門の前で止まる。いきなり、頭上で鐘が鳴り響いた。
「聖女様、ご到着!」
門の兵士が叫ぶと、大きな扉が内側へ開く。道の両脇に並んだ沢山の騎士たちが、揃って頭を下げた。
その間を、一人の男性が進んでくる。濃紺の上着に剣帯を締めた、背の高い方だった。
「この城の主、ガエタンです。ロシュヴェル国王の従弟として、公爵位を預かっています。ベルティーユ様、遠いところを、よくお越しくださいました」
差し出された手を借りて馬車を降りると、公爵様は私へ深く礼をした。
こちらも慌てて膝を折る。挨拶の言葉を道中色々と考えていたのに、頭が真っ白になってしまった。
私は、なんとか簡単に挨拶する。
「お迎えを、ありがとうございます」
「国を代表して、お礼を申し上げます。聖女様が来てくださることを、皆、首を長くして待っていました」
門の向こうの城下町を見た。窓を閉めていた家々から色とりどりの布が垂れ、窓辺の人々がこちらへ手を振っている。騎士たちの後ろから花びらを投げる子もいた。
皆、この瞬間まで隠れていたらしい。素敵なサプライズだ。
「聖女様!」
母親に手を引かれた小さな男の子が、騎士の脇から身を乗り出した。
「もう、夜に魔物が来ても怖くない?」
答えようとして、城壁の向こうを見る。瘴気の濃さも、結界をどこに設置するべきかも、まだ調べていない。
すぐに大丈夫とは言えなかった。
「あなたが安心して眠れるようにしたいの。少し、待っていてくれる?」
男の子は母親を見上げてから、こくりと頷いた。その母親が、何度も礼を言う。
私はまだ、この国のために何も祈っていないのに。
「私が来るのを、待っていてくださったのですか」
城へ向かいながら公爵様に尋ねた。
「セヴランザは、長く魔物に襲われていないと聞いています。あなたのお名前は、国境を守る者なら誰でも知っていますよ」
捨てられた私を、こんなに待っていた人たちがいた。
嬉しくて、窓から声を掛けてくださる方へ何度もお礼を返した。
公爵様に向き直ると、気になっていたことが口をついた。
「私が参りましたのは、金銭との交換と聞いておりましたが、ここまで歓迎されるとは」
「我々が金銭を渡し、セヴランザからお越しいただきました。そのことは言い訳しませんが、皆、期待しております」
公爵様は、正直に言われた。
「まずは休んでください。陛下からも、住まいと身の安全を保障し、聖女として扱いに失礼のないようにと仰せつかっています。旅の間に困ったことはありませんでしたか」
旅のことを聞かれると思わず、私は靴の中で足の指を動かした。座り続けて足がむくみ、歩くと少し痛い。
「足が少し痛くて。こんなに長く馬車に乗ったのは初めてなんです」
「では、ゆっくり行きましょう」
公爵様と、手すりにつかまりながら城の階段を上った。
部屋には湯の支度があり、着替えには豪華な淡い黄色のドレスが用意されていた。袖の刺繍を指でなぞっていると、迎えに来た侍女に気づく。
「お食事は、お部屋になさいますか」
「皆様と同じ場所で結構です。これ以上のお手間は――」
扉の外にいた公爵様が、こちらを覗いた。
「食堂では、椅子に座るのがつらくありませんか。道中、お疲れでしょう」
すぐ靴を脱いでしまいたい。そう正直にお願いすると、公爵様は、侍女に料理を部屋に運ぶよう頼んでくださった。
結局、部屋へ鶏肉のシチューと焼きたてのパンを運んでもらうことになった。公爵様も扉のところで、料理の香りに少し顔をほころばせる。
「私だけ、こんなふうに休んでよいのでしょうか」
「うちに迎えた客を、疲れたまま座らせておくほうが落ち着きません。足りなければ呼んでください。厨房にはまだあります」
明日の仕事を言いつけられることもなく、扉が閉まった。
鶏肉はナイフを入れるだけでほぐれる。温かなクリームソースをパンにつけ、二口目は一口目より大きくちぎった。
◇
ミュレーヌ城で一日休み、王都まで二日かけて向かった。
馬車の窓越しでも、瘴気の臭いがする。街へ入ると昼過ぎなのに薄暗く、軒先には明かりがともっていた。空の低いところを漂う黒い霧が、屋根に触れそうだ。
神殿前の噴水では、石の獅子が濁った水を吐いている。
「ここまで、押し込まれてしまったのです」
迎えに出た年配のシスターが、街のほうへ顔を向けた。白いローブの裾は泥で汚れ、右手には杖を握っている。
「騎士たちも魔物と戦ってくれていますが、夜ごとに瘴気が濃くなって……」
私は噴水へ近づいて、指を水に浸した。底の方ほど瘴気が濃い。今まで積もり続けていたのだろう。
「この広場をお借りしてもよろしいでしょうか」
「広場を?」
彼女は私の顔をじっと見た。それから杖を握り直し、神殿の扉を開けていた人たちへ声を掛ける。
濃紺のコートを羽織った公爵様も、騎士を広場の入口へ向かわせた。
「人を下げる。ほかに必要なものは?」
「祈っている間、そばにいていただけますか。人が近づくと、術が失敗しかねませんので」
「ここにいる」
短い返事に頷き、私の後ろに立つ。
両腕を大きく広げた。母国で結界を張り直すときと同じように、遠くの地面まで意識を伸ばす。
街の外へ伸びる道に沿って、遠くの村まで。
祈り始めると、靴の下から光が広がった。
噴水の縁を越え、石畳の隙間を白く照らす。光が黒い霧に触れると、霧が後退していく。
空へ伸びた光が、頭上を覆う瘴気を押し上げる。
厚く黒い瘴気の雲が消えていく。
(眩しい……)
目を細めた私の頬に、陽が当たる。
「空だ」
広場の入口で、誰かが言った。
光は止めずに街の外へ送り続ける。瘴気を払った土地を結界で覆い、村々まで広げていく。
祈りを終えたとき、噴水の底に沈んだ銅貨が見えた。水面の揺れに合わせて、きらきらしている。
閉まっていた店の主人が外へ飛び出し、光を見て、私に帽子を振る。
神殿にいた人たちも広場へ出てきた。空を仰いだまま、隣の人の袖を引っ張る人がいる。噴水へ駆け寄った子供が水をすくうと、澄んだ水を見て驚いていた。
「聖女様、ありがとうございます!」
その声に返事をしようとしたのに、別の声が重なる。
公爵様は歓声の中をこちらへ進み、片膝をついた。
「ロシュヴェルを守ってくださり、感謝します」
周囲の騎士もそれに倣う。急いで頭を下げ返すと、先ほどの年配の女性が杖を噴水の縁に立て掛け、両手で私の手を包んだ。
「もう、街を明け渡さずに済みますね」
「はい。皆様が守っていらした場所も、全て結界を張り直しました」
「よかった。本当に……よかった」
彼女は私から手を離し、神殿へ声を掛ける。扉の陰で見ていた若いシスターたちが、泣きながら出てくる。
神殿の階段を上ろうとすると、公爵様が立ち上がり、私へ手を差し出した。そこへ手を重ねた途端、彼は驚く。
「手が冷たいな。少し、休もう」
「少々、力を使いすぎたようです」
私は階段の端に腰を下ろした。手を離した公爵様がコートを脱ぎ、肩へ掛けてくださる。お礼を言うと、隣へ腰を下ろした。
「さっきの浄化は、魔物にも効くのか?」
「弱ります。完全には倒せませんが」
「ならば、騎士たちでもなんとかなるな、私も戦える」
コートの前を合わせながら頷いた。次に祈るときも、この方がそばにいてくださるなら心強い。
◇
王都の神殿に住まいを頂いて、三週間が過ぎた。
庭のベンチでガエタン様を見つけて、私はつい足を速めた。今日は聞いていただきたいことがある。
名前で呼んでほしいと言われたのは、ここに住み始めた日。私も様をつけずに呼んでほしいとお願いした。二人のときには、随分気安く話してくださる。
「お待たせしました。あの、噴水のところの男の子を覚えていらっしゃいますか」
「水をすくっていた子か?」
「はい。今日、外で遊んでいたんです。私を見つけると、走ってきてくれて」
ガエタン様の隣に座り、あの子にもらった花の冠を見せた。私の頭には少し小さかったけれど、部屋に飾ると約束してきたのだ。
「私がお姉さんなのを忘れて、小さく作ってしまったそうなんです。お母様に伺ったんですけど、あの子、前は夜になると怖がって、お母様にくっついて離れなかったそうですよ。今では外遊びに夢中で、なかなか帰ってこないんですって」
「今度は連れ戻すのに苦労しているわけか」
「ええ。何度呼べば帰ってくるのかって、ぼやいていらっしゃいました」
ガエタン様が声を上げて笑ったので、私もつられて笑ってしまった。
あの子が外を駆け回って遊べるのも、夜にぐっすり眠れるのも、私の祈りが役に立っているからなのだ。お母様からその話を聞けたのが、何より嬉しい。急いでここへ来て、本当によかった。
「城下でも、久しぶりに夜市を開けそうだ。陛下にご報告したら、早く日取りを決めろと急かされてな」
「この王都で開かれるんですか? 私も行ってみたいです」
「では、一緒に行こう。昔のままなら案内できるんだが……店が変わっていたら、君と一緒に迷うかもしれない」
「まあ、公爵様でも道に迷うんですか?」
「騎士団を率いているときなら問題だが、夜市でくらいは大目に見てくれ」
思い切って、行ってみたいと言ってよかった。ガエタン様と二人で夜市を歩けるなんて。
……二人で、と思っていいのよね?
聖女として招いた私に、王都を案内してくださるだけかもしれない。この方は誰にでも親切だから、私が勝手に勘違いしていたら恥ずかしい。
結局、確かめる勇気は出なかった。次に庭で祈る日をお伝えして、その日はお別れした。
翌日も、ガエタン様は庭に来てくださった。もう祈りを終えていた私は、ベンチの上で少し横にずれて、隣へお誘いした。
「夜市は来月に決まったそうだ。待ち遠しいな」
「はい。とても楽しみです」
「それで、明日も会えないか。……いや、夜市の知らせがあるからではなくてだな」
慌てたように付け足すものだから、つい笑ってしまった。
「私もちょうど、お誘いしたかったんです。一緒に杏のタルトを食べませんか?」
「私の好物を覚えていてくれたのか」
もちろん覚えている。馬車の中で、城の料理人が焼く杏のタルトがお好きだと伺ったのだ。
実は、もう神殿の厨房にお願いしてある。お誘いできなかったら、私が全部食べるところだった。
「明日は、早く用を済ませてくる」
「無理はなさらないでくださいね。いらしてくださるなら、待っていますから」
庭を出るところで、ガエタン様が振り返った。私は今度こそ、ためらわずに手を振った。
その週の終わり、王城で開かれる小さな舞踏会に招かれた。
淡い黄色のドレスを着て会場に入ったものの、さっきからガエタン様の姿ばかり探してしまう。
もう、どなたかと踊っていらっしゃるのかしら。
それなら次の曲をお願いすればいい。そう思っても、気になって仕方がなかった。
「ベルティーユ。一曲、踊っていただけるかな」
振り向くと、ガエタン様が手を差し出していた。
よかった。私を見つけてくださった。
すぐにでもその手を取りたいのに、嬉しくて顔が緩んでしまいそうで、うまく返事ができない。
「……喜んで」
ようやくそう答え、差し出された手に右手を重ねた。腰に手を添えられ、私も彼の肩に左手を置く。
ダンスは得意なはずなのに、今日は足を踏まずにいられるかしら。
曲が始まっても、しばらくはガエタン様の顔を見られなかった。いつもよりずっと近い。目を上げれば見つめ合うことになると思うと、肩の辺りから視線を動かせない。
「綺麗だ。今日は、あなたと踊るのを楽しみにしていた」
「私も、ガエタン様と踊りたかったんです」
答えた途端、頬が熱くなった。
お褒めいただいたときの返し方なら、何度も習ったのに。どうしてこういうときに限って、思ったことがそのまま口から出てしまうのだろう。
繋いだ手を、ガエタン様が少し強く握った。
「では、次の曲もいいだろうか」
「まだ、この曲も終わっていませんよ」
「終わってからでは、誰かに先を越されそうだ」
私だって、もう一曲ご一緒したいと思っていた。
嬉しさを隠しきれずに笑うと、ガエタン様も微笑みを返してくださった。
私と踊るのを楽しみにしていてくださったのだ。その言葉を、もう一度心の中で繰り返しす。
二曲続けて踊った後、二人で窓際へ移った。開いた窓から風が入り、火照った頬を冷ましてくれる。
「夜市では何を見たい? 何か欲しいものはあるか」
「そんな、買っていただこうと思っているわけでは……」
「ああ、すまない。あなたの好きなものを知りたかったんだ。いつも俺ばかり、杏のタルトをご馳走になっているから」
「私も好きなんですよ。それに、ガエタン様がおいしそうに召し上がってくださると、また一緒に食べたくなるんです」
……また、余計なことまで言ってしまったかしら。
ガエタン様は何もおっしゃらず、私を見つめていた。
「ガエタン様?」
「ベルティーユ。俺と結婚してほしい」
驚いて、窓枠に添えていた手を引っ込める。
いま、結婚とおっしゃった?
顔を見上げても、ガエタン様の表情は真剣なままだった。
「私と、ですか」
「ああ。あなたを愛している。一緒に暮らしたい」
嬉しい。けれど、すぐには声が出ない。
ガエタン様は私の返事を待ちながら、言葉を続ける。
「聖女としてのあなたを尊敬している。この国を守ってくれていることにも感謝している。だが、そのために結婚してほしいと言っているんじゃない。明日また会おうと約束して別れるたびに、帰りたくないと思っていた。もっと一緒にいられたら、と」
庭でお見送りするたびに、私も寂しかった。
話し足りないことがいくつもあった。話すことがなくなっても、隣にいてくださるだけでよかった。
「私も……もっと一緒にいたいと思っていました。毎日、ガエタン様がいらっしゃるのを待っていたんです」
「では、結婚してくれるか」
「はい。私も、ガエタン様を愛しています」
私が手を差し出すと、ガエタン様はそっと取って、指の付け根に口づけた。
「ガエタン様……」
名前を呼ぶだけで精いっぱいだった。
恥ずかしい。でも、手を離したくない。もう少しだけ、こうしていてほしい。
その夜、オディールに書いた手紙は何枚にもなった。結婚が決まったと伝えるだけのつもりが、あの方のお話も、私の気持ちも、次から次へと書きたくなってしまったのだ。
◇
オディールから返事が届いたのは、一週間後だった。
結婚を祝う言葉に続いて、小さな字が便箋いっぱいに並んでいた。
『あなたが残してくれた結界が弱まっているの。神殿の皆で張り直しているけれど、どうしても前ほど広くは守れなくて。騎士たちが村を回って、皆を避難させてくれているわ』
読み進めるうちに、手紙を持つ指に力が入った。
王都の外に、魔物の大群が現れたという。騎士たちが人々を逃がしているものの、瘴気が濃く、避難する道まで塞がれかけていた。
オディールも、国境へ向かう人々に付き添うつもりだと書いている。
『先に国境へ向かう騎士に、この手紙をお願いするわ。私は残っている人たちと一緒に戦場に行く。黙って隠れていたら、あなたに怒られてしまうものね』
私は手紙の冒頭に目を戻した。
結婚を喜んでくれる一文が、滲んで見える。
こんな大変なときに、私のお祝いまで書いてくれたのだ。自分も早く逃げたかっただろうに、最後まで人々を守ろうとしている。
オディール一人に、無理をさせたくなかった。
同じ日、王太子の印が押された書面も届いた。
『ただちに帰還し、王都の結界を修復せよ。その功績を認め、婚約破棄を撤回する。待遇も以前のとおりとする』
最後まで読み、ほかに何か書かれていないかと裏返した。
けれど、人々の避難先も、オディールたちの安否も、どこにも書かれていなかった。
婚約を戻してやると言えば、私が喜んで帰るとお考えなのだろうか。
二通の手紙を持って王城へ向かうと、ガエタン様は騎士団の出発準備を進めていた。私は馬車を降り、旅装の彼に駆け寄った。
「国境へいらっしゃるんですか?」
「ああ。避難してくる人たちを受け入れるよう、陛下からご命令があった。先発隊は今朝、発っている」
「私も連れていってください」
ガエタン様は、私の手にある二通の手紙に目を留めた。
「帰ってこいと言ってきたのか」
「はい。でも、殿下と結婚するために戻るつもりはありません。仲間の聖女と、逃げてくる人たちを助けたいんです」
書面を渡すと、ガエタン様は読み終えても、しばらく顔を上げなかった。
「……以前の待遇に戻す、か」
「何もかも殿下に決められていた頃には、もう戻りたくありません」
ようやく目が合った。
「分かった。では、国境で力を貸してほしい。向こうの村にも騎士を向かわせているが、瘴気に阻まれれば救助もできない」
ガエタン様は書面を返し、従者に私の馬車を用意するよう命じた。
王都の結界は今朝も確かめてきた。私が留守にしても、すぐに弱まることはない。
一度神殿へ戻って事情を話すと、年配のシスターは私を引き止めず、旅行鞄を侍女に託してくださった。
「こちらは私たちにお任せください。お友達を迎えにいってあげて」
支度を整えて王城へ戻る頃には、騎士たちが荷車に物資を積み込んでいた。馬車にも、厚い毛布が何枚も用意されている。
あれがあれば、疲れた人たちを暖かくして休ませてあげられる。
私はガエタン様を見上げた。
「参りましょう」
オディールが心配でたまらない。けれど、もう手紙を待つしかなかった私ではない。
今度は私から、会いにいけるのだ。
◇
ミュレーヌ城に着いたのは、二日後の昼だった。
城門へ続く道には、避難してきた人々が列をなしていた。男たちが荷車を押し、その脇をロシュヴェルの騎士が駆けていく。列の後ろで動けなくなっていた人を背負うと、また城門へ引き返してきた。
馬車を降りた私は、道を覆う淡い結界に気づいた。
その中に、オディールがいた。片手を前にかざし、もう片方の腕で、杖をついたお年寄りを支えている。
「足元に気をつけてね。大丈夫、お城はすぐそこよ」
前を歩く子供に声をかけていた。いつもの声より、ずっとかすれている。
駆け寄ろうとしたとき、護衛を従えた騎馬が私の前を塞いだ。
アモーリ殿下だった。
服にも靴にも泥がこびりついていたが、私を見ると、ほっとしたように顔を緩める。
「ベルティーユ! やはり来てくれたのだな。すぐに王都へ戻るぞ」
「先に皆様を城へ避難させます。そこをお通しください」
「この混乱を収めれば、婚約破棄は取り消してやると言っただろう。まずは私と――」
最後まで聞かずに、殿下の馬の脇をすり抜けた。
こうしている間にも、オディールの結界は端から崩れかけている。迫ってくる瘴気を、もう抑えきれないのだ。
「オディール!」
振り向いた彼女が、泣きそうな顔になった。
けれど、すぐに近くの騎士を呼び、支えていたお年寄りを預ける。
「来てくれたのね」
「遅くなってごめん。私も結界を張るわ」
隣に立って両手をかざし、消えかけていた結界に力を注いだ。白い光が道の両側を走り、押し寄せていた瘴気を押し返す。
オディールは大きく息をついた。それでも、祈りをやめようとはしなかった。
「後ろから、大きな魔物が来るの。王都の外の結界も、そいつに破られたわ。矢を射かけても、周りの黒い霧に弾かれてしまって……」
道の向こうから、魔物の咆哮が響いた。
荷車よりも大きな獣が、黒い瘴気をまとって坂を下りてくる。霧の下では何本もの脚がうごめき、地面を踏みしめるたびに土が跳ねた。その後ろには、大型犬ほどの魔物が群れている。
城壁から矢が放たれる。けれど、どれも大きな魔獣を覆う霧に弾かれ、道端へ落ちてしまった。
「荷車を脇へ寄せろ! 人を先に通せ!」
ガエタン様の号令で、騎士たちが動き出した。
結界の中では、子供を抱いた母親が立ち止まっていた。荷物を置いていくのをためらっているのか、荷車と城門を見比べている。
その先には横倒しになった荷車があり、後ろから来る人々が立ち往生しかけていた。
「荷物は騎士の方が運んでくださいます。お子さんと先にお城へ!」
母親に呼びかけ、結界を道の端まで広げた。騎士の一人が倒れた荷車を持ち上げ、その脇へ別の騎士が人々を誘導する。
まだ城までは距離がある。この道を通る人たちを、一人も瘴気に触れさせてはいけない。
城門まで結界を伸ばすと、私は迫る魔獣に向き直った。
「オディール、皆をお城の中へお願い。歩けない人がいたら教えて」
「分かった。あなたはどうするの?」
「ここで瘴気を払うわ」
オディールは頷き、近くにいた幼い子の手を取った。母親を呼んで泣く子をなだめながら、人々の列に加わっていく。
私は避難の邪魔にならないよう道の左端へ寄った。
ガエタン様は馬を降りて部下に手綱を渡し、剣を抜いた。左腕には盾を構えている。
「ベルティーユ、あの瘴気を払えるか」
「はい。ただ、あれほど濃いと少し時間がかかります」
「分かった。俺たちが引きつける。その間も、避難する人たちを頼む」
私が頷くと、ガエタン様は騎士たちの前へ進み出た。
あっという間に遠ざかってしまう。さっきまで隣にいたのに、もう魔獣の目の前だ。
待って、と呼び止めたくなる。
あの方が食い止めなければ、逃げ遅れた人たちが襲われる。分かっていても、怖い。
小さな魔物が飛びかかり、騎士の盾に激突した。
私は魔物に向けて浄化の光を放った。まとっていた瘴気が消え、魔物は悲鳴を上げて道の外へ転がった。後ろから続いていた群れも、光を恐れて逃げ始める。
けれど、あの大きな魔獣だけは止まらなかった。さらに濃い瘴気の霧をまとい、騎士たちに襲いかかる。
ガエタン様が左へ走った。獣の鼻先を斬りつけるが、剣は瘴気に弾かれてしまう。彼を追って振り下ろされた爪を、盾が受け流した。
耳をつんざくような金属音に、びくっとした。
早く。早く、あの霧を消さなければ。
息を吸い、魔獣の胸元に光を集中させる。こちらに向きかけた魔獣へ、ガエタン様が横から盾を叩きつけた。
避難する人々の結界は、まだ保てている。ガエタン様のところにも、ちゃんと光は届いている。
大丈夫。慌てて祈りを途切れさせては駄目だ。
「もう少しです! そのままお願いします!」
黒い霧が薄れ、灰色の皮膚が見えた。
その場所へさらに力を注ぐ。胸元から首にかけて、瘴気が裂けるように消えていく。
魔獣が吠え、前脚を高く振り上げた。
「今です!」
ガエタン様が盾を掲げて踏み込んだ。
振り下ろされる爪をかわして懐へ飛び込み、首の付け根に剣を突き立てる。
魔獣がのけぞった。前脚が宙をかき、巨体が横へ傾く。
ガエタン様が剣を引き抜いて飛び退いた直後、魔獣が地面に倒れ込んだ。
もうもうと土煙が上がり、彼の姿が見えなくなる。
「ガエタン様!」
返事がなかった。
駆け出しかけた足を止め、祈りを続ける。まだ結界を解くわけにはいかない。
お願い。どこにいらっしゃるの。
土煙の向こうで、見覚えのある盾が上がった。
「無事だ! 心配ない!」
ガエタン様が立っていた。
駆け寄る騎士に片手を上げて応えながら、剣は構えたまま、逃げていく魔物に目を向けている。
よかった。本当に、よかった。
詰めていた息を吐き、残った瘴気を払った。周囲が晴れてから浄化の光を収める。
道を覆う結界は、最後の一人が城に入るまで残しておこう。
「これほど広い結界を……」
声のしたほうを見ると、馬から降りたアモーリ殿下がいた。
光の壁に手を伸ばし、その向こうに倒れた魔獣を見ている。
「王都にも、これを張っていたのか」
「はい。街の外まで守れるようにしていました」
殿下は、城門まで続く光の壁を見渡した。
何かおっしゃろうとしたところへ、騎士が駆けてきて頭を下げた。
「聖女様、全員、城内に入りました。お二人が守ってくださったおかげです」
城門の下で、オディールが大きく手を振っていた。お年寄りを座らせていた兵士たちも、こちらに頭を下げている。
私はようやく結界を解いた。
殿下は黙ったまま、戻ってくるガエタン様を見ていた。
「ベルティーユ、怪我はないか」
「私は大丈夫です。それより、ガエタン様こそ。あの爪を受けたとき、腕が……」
「少し痺れたが、折れてはいない。あとで医者に診てもらう」
そう言って左手を開いてみせるので、私はその手を両手で包んだ。
治癒の光を送り込む。
「お呼びしたら、すぐに返事をしてください。何かあったのかと……」
「すまない。土埃を吸い込んで、声が出なかったんだ」
ガエタン様が小さく咳き込んだ。
顔を見ても、声を聞いても、まだ手を離せなかった。握った手が握り返されて、やっと少し安心する。
城門までは、二人で並んで歩いた。
◇
中庭に入るなり、オディールが抱きついてきた。
「さっきは、ゆっくり顔も見られなかったから」
私も彼女の背に腕を回した。
白かったはずのローブは泥で汚れ、肘の辺りはかぎ裂きになっている。ここまで、どれほど大変だっただろう。
「無事でよかった。本当に……」
「騎士たちが守ってくれたの。途中からは、ロシュヴェルの騎士も迎えに来てくれたわ」
体を離すと、オディールは疲れた顔で笑った。それから、私の後ろへ目を向ける。
「公爵様のお怪我は?」
「いま、お医者様に診ていただいているわ。腕の痺れも引いてきたそうよ」
「よかった。……それにしても、あなたのあんな声、初めて聞いたわ。公爵様を呼んでいたとき」
顔が熱くなる。
何と答えればいいか分からず、とにかく休んで、と彼女を空いているベンチへ座らせた。
脇のテーブルにあった水差しからカップに水を注ぎ、手渡す。オディールはそれ以上からかわず、素直に飲んでくれた。
私も腰を下ろそうとしたところへ、アモーリ殿下がやってきた。
「ベルティーユ。帰国について話をするぞ」
ちょうど、ガエタン様も城内から戻っていらした。
けれど、彼が来るのを待つ必要はなかった。私は殿下に向き直った。
「私は戻りません」
「先ほどの力があれば、国を救えるだろう。何が不満なのだ。侯爵令嬢との縁談は取り消す。お前を妃に迎えると言っている」
オディールがカップを置き、立ち上がろうとした。
私は彼女に「座っていて」と声をかけ、もう一度殿下を見た。
「故国の方々を助けたくて参りました。殿下と結婚するためではありません」
「今度こそ大切にする。望むなら、すぐに式を挙げてもいい」
あの庭園で、その言葉を聞けていたら。
結婚を早めたいと言っていただけたら、あの頃の私は、きっと泣くほど喜んだだろう。
ずっと待っていた自分を思うと、今でも悲しい。
けれど、もう殿下と結婚したいとは思わなかった。
「私はロシュヴェルで暮らします。この国の聖女として皆様を守り、ガエタン様と結婚します」
「私はセヴランザの王太子だぞ。お前の祖国の――」
「その殿下が、私を他国へお売りになったのではありませんか」
殿下は言葉を詰まらせた。それでも、私に向かって一歩踏み出す。
ガエタン様が隣に立った。
「彼女の返事はお聞きになったはずです。この国で、彼女の意に反する結婚を強いることはできません」
殿下は私とガエタン様を交互に見る。
私はガエタン様の手を取り、オディールの待つベンチへ戻った。
私とオディールは、祖国の結界を張り直す作業を続けた。
壊された村々が元どおりになるわけではない。それでも、あの魔獣が倒されて群れが散ったおかげで、安全を確かめた場所から結界を張り直し、徐々に人々を帰せるようになった。
故国から正式な知らせが届いたのは、国境へ向けて出発した日から六週間ほど経った頃だった。
アモーリ殿下は王太子の地位を失い、国政に関わることも禁じられた。
私を他国へ移すよう主導したうえ、その後も結界についての警告を退け続けた責任を問われたのだ。
国王陛下も判断の誤りを認め、改めてロシュヴェルに救援を要請している。
私を売って得た富も、もはや殿下の自由にはならない。
書面を脇へ置き、私はオディールへの手紙を書き始めた。
次は婚礼の招待客として、彼女を迎えたい。
式の日取りが決まったことを、誰よりも先に知らせるつもりだった。
◇
婚礼の朝、部屋に入ってきたオディールが、ぱっと顔を輝かせた。
「綺麗! ねえ、少し回ってみて。後ろも見たいわ」
私は鏡の前で、ゆっくりと一回りした。白いドレスの裾がふわりと広がり、縫いつけられたレースが床を滑った。
あの戦いから数か月。何度も手紙を交わしてきたけれど、こうして顔を合わせるのは久しぶりだった。
「長旅で疲れたでしょう。ちゃんと休めた?」
「ええ。お城に着いた途端、荷物を全部持っていただいて、何から何までお世話になってしまったわ。お客様として迎えてもらうのって、こんなにそわそわするものなのね」
笑いながら近づいてきたオディールが、私の髪に目を留めた。
「あ、それ……」
「今日、つけてもいいかしら」
「もちろん。あなたにあげたものだもの」
鏡に映る青いガラスの花を、二人で眺めた。
白いベールに隠れないよう、侍女に頼んで挿してもらったのだ。
「よく似合っているわ」
オディールはそう言って、しばらく私を見つめていた。
私は彼女の両手を取る。
「お祝いに来てくれて、ありがとう」
この髪飾りをもらった日には、うまく伝えられなかったことも、今日は話せる気がした。
けれど、扉のそばで侍女が時間を知らせてくれる。続きは、式の後だ。
礼拝堂では、ガエタン様が待っていてくださった。
差し出された腕に手を添え、一緒に祭壇へ進む。
前を向かなければいけないのに、何度も隣を見たくなった。本当に今日、この方のお嫁さんになるのだ。
誓いの言葉に答える声は、少し震えてしまった。
指輪をはめてもらい、ようやく息をつくと、ガエタン様もほっとしたように微笑む。
ああ、この方も緊張していらしたのだ。
式と祝いの席が終わり、控えの部屋で二人きりになる。
ソファに腰を下ろすと、急にお腹が空いていることに気づいた。
「今日はずっと嬉しかったのに、緊張して、ほとんど何も食べられませんでした」
「俺もだ。朝から紅茶ばかり飲んでいた」
「……今頃、お腹が空いてきてしまって」
顔を見合わせ、二人で笑った。
給仕の方が勧めてくださった鶏肉のサンドイッチを、どうして断ってしまったのだろう。さっきまでは、本当に一口も入りそうになかったのに。
ガエタン様は扉を開け、廊下の侍従にサンドイッチと紅茶を二人分頼んでくださった。
戻ってくると私の隣に座り、指輪をはめた手に、ご自分の手を重ねる。
「ゆっくり食べよう。今日は、神殿へ帰る時間を気にしなくていい」
「はい。明日の朝も、ご一緒できますね」
私の夫。
心の中で呼んでみるだけで、頬が緩んでしまう。
これからは、一緒に食事をするために約束を取りつけなくてもいい。お見送りの後で、もう少しそばにいたかったと思うこともない。
肩を寄せると、ガエタン様が抱き寄せてくださった。
顔を上げ、口づけを受ける。唇が離れた後も、その胸元に寄り添っていた。
窓の外から、大きな声が聞こえてきた。
「あちらよ! 窓のところ!」
通りを埋める人々が、こちらを見上げている。
花束を掲げる女性の隣で、子供が両手を振っている。「お幸せに!」という声が、婚礼の鐘に負けないほど大きく響く。
今日は、瘴気を祓ったわけでも、魔物を退けたわけでもない。
私たちの結婚を、こんなに喜んでくださっているのだ。
「ガエタン様。一緒にご挨拶しませんか」
二人で立ち上がり、手を繋いで窓辺へ向かう。
人々に手を振ると、ひときわ大きな歓声が上がった。私も嬉しくなって、何度も振り返した。
隣には、夫になったばかりのガエタン様がいる。
明日の朝も、その次の朝も、この方と一緒に迎えられる。そう思うと、自然に笑顔になった。
完。
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