第8話 辺境伯家での仕事
一週間が経った。
辺境伯家の屋敷で迎える朝が、もう特別じゃなくなりかけていることに、私は少しだけ戸惑っていた。
寝具の柔らかさも、廊下の清潔さも、侍女たちの穏やかな笑みも。
慣れてしまうのが、少し怖い。
(……贅沢な悩みね)
伯爵家では、朝から夜まで働いていた。
皿洗い。床拭き。洗濯。薪運び。雑用。
一日の大半がそれで潰れて、息をつく暇もなかった。
なのに今は、時間が余る。
もちろん、楽だ。
身体が悲鳴を上げない。
寒い北向きの部屋で、震えながら朝を迎えなくていい。
でも同時に――落ち着かない。
(私は……何をしているんだろう)
本を読む。
庭を散歩する。
城下町へ出かける。
買い足したドレスを眺めて、まだ少しだけ緊張する。
そして、また本を読む。
学園に通っていた頃から、本は好きだった。
伯爵家での生活では、本を読むことは不可能だった。
でも、ここでは読める。
(嬉しい……でも)
役に立てていない。
それが、じわじわと胸を締めつける。
使用人たちは優しい。
――きっと、察しているのだ。
伯爵家で私が、どう扱われていたか。
荷物の少なさ。衣服の少なさ。体の細さ。食事の量。
それらで、わかってしまう。
だからこそ、優しくしてくれている。
それが嬉しいけど、心苦しい。
ただ受け取るだけの自分が、落ち着かない。
だから私は、今日の朝食の席で、言うことにした。
朝食の食堂。
この一週間で、私はここに座ることにも少し慣れた。
量がちょうどよくて、味が優しくて、焦らなくていい空気がある。
向かいに座るルシアン様は、相変わらず言葉が少ない。
けれど、冷たいわけではない。
視線を向ければ、返してくれる。
挨拶をすれば、挨拶が返ってくる。
それだけで、私は少し救われている。
食事の途中。
私は、手を止めて、息を吸った。
「……ルシアン様」
呼ぶと、灰色の瞳が私に向く。
「なんだ?」
私は指先を重ねて、言葉を選んだ。
「私は辺境伯家の夫人として、何か……お役に立てることをしたいです」
口に出した瞬間、胸が少し軽くなった。
同時に、怖くなった。
断られたらどうしよう、と。
ルシアン様は、すぐには答えなかった。
ほんの少しだけ視線を落として、考えるような間。
それから、低い声で言った。
「大丈夫か?」
その問いは、疑いではなく、確認だった。
「まだ慣れていないだろう。もう少し、ゆっくりしてもいい」
(……優しい)
そう思った瞬間、胸がじん、と熱くなる。
でも、私は首を横に振った。
「大丈夫です」
言い切ってから、少しだけ笑って付け足す。
「体力には……自信があります」
ルシアン様の眉が、ほんのわずかに動いた。
「自信?」
「伯爵家では、朝から夜まで働いていましたから」
淡々と言ったつもりだったのに、言葉が少しだけ重くなった気がして、私は視線を落とした。
ルシアン様は、それ以上深くは聞かなかった。
聞かないことが、優しさだとわかる。
しばらくして、彼は短く頷いた。
「わかった」
それだけで、胸がほどける。
「今日から、書類仕事を手伝ってほしい」
「書類……」
「領内の報告、税、物資の管理、補給の手配。量が多い」
ルシアン様が淡々と言う。
その淡々の裏に、疲労がある気がした。
「わかりました。やらせてください」
私が言うと、ルシアン様はほんの一瞬だけ、目を細めたように見えた。
笑ったのかどうかは、わからない。
「朝食の後、身支度を整えて執務室へ来い。場所はレイに聞け」
「はい」
『おしごと』
『エミーリア、おしごと』
『やる、やる』
精霊たちが、嬉しそうに弾んだ。
(……私も、嬉しい)
それを悟られないように、私は小さく息を吐いた。
部屋へ戻って、髪を整え、動きやすい服に着替える。
廊下を進み、執務室の扉の前に立ったとき、さすがに胸が高鳴った。
(……二人きり)
今までは、応接室でも食堂でも、必ず誰かがいた。
レイだったり、侍女だったり。
完全に二人きりになるのは、初めてだ。
ノックをして、入室を告げる。
「エミーリアです。失礼いたします」
「入れ」
扉を開けると、執務室は思ったより質素だった。
装飾は少ない。
大きな机、棚、書類の山。
仕事の匂いがする部屋だ。
ルシアン様が一人、机に向かっていた。
背中が真っ直ぐで、肩が広い。
私は礼をする。
「よろしくお願いします」
「……ああ」
ルシアン様は視線を少しだけ上げ、部屋の一角を顎で示した。
そこに、もう一つ机が置かれていた。
ルシアン様の右斜め前。
「そこに座ってくれ」
「はい」
椅子に腰を下ろした瞬間、背筋が自然と伸びた。
机の上はすでに整えられていて、紙とペンと、いくつかの束が置いてある。
次の瞬間。
ルシアン様が立ち上がり、私の背後へ回った。
(近い……)
足音が静かで、気配だけが近づく。
息が止まりそうになる。
ルシアン様は私の机に書類を置き、低い声で説明した。
「これは領内の報告書だ。内容を確認して、重要な箇所に印をつけろ。あと、同じ件が重複していないか確認してくれ」
紙を指で示す。
その指が、私の視界の端に入る。
距離が近い。
胸が高鳴って、変なところが熱くなる。
(落ち着いて……仕事)
私は喉を整え、頷いた。
「わかりました。……印は、この赤い印でいいですか?」
「ああ。それでいい」
それだけ言って、ルシアン様は自分の席へ戻った。
離れていく背中を見て、私は息を吐く。
私は書類に視線を落とし、読み始めた。
領内の村からの報告。
畑の被害、街道の整備状況、魔物の目撃情報、兵の補給、負傷者の薬の在庫……。
(……これが、ルシアン様の日常)
これを毎日処理して、さらに討伐にも出るのなら――疲れない方がおかしい。
私は集中した。
集中しすぎて、周囲の音が遠のく。
紙をめくる。印をつける。整合性を見る。
必要そうなところを抜き出す。
気づけば、手が止まらなくなっていた。
久しぶりだ。こんなふうに頭が回る感覚。
伯爵家で家事をしていたときは、体は動いても、思考はどこかで眠っていた。
(……楽しい)
役に立てる、と思えることが、こんなに嬉しいなんて。
ふと、窓の光の角度が変わっていることに気づいた。
(……え)
時計を見ると、もう昼が過ぎている。
朝ご飯を食べてからすぐにここに来たのに、もうそんなに時間が経っているの?
私は顔を上げ、向かいのルシアン様を見た。
彼もまだ書類の山に埋もれている。
眉間にうっすら影が落ちているのに、手は止まらない。
私は躊躇いながら声をかけた。
「……ルシアン様」
彼が顔を上げる。
「どうした」
「もう……昼を過ぎているみたいです」
ルシアン様が、ほんの少し目を見開いた。
それから時計を見て息を呑んだ。
「……本当だな」
驚いている。
そんな表情をする人だとは思わなかった。
「ここまで集中できたのは久しぶりだ」
ルシアン様がぽつりと言った。
「最近は……疲れが溜まっていた」
それを、ただ事実として言う。
愚痴ではなく、言い訳でもなく。
私は胸がきゅっとなった。
「……お疲れ様です」
そう返すと、ルシアン様は一瞬だけ視線を逸らし、それから短く頷いた。
「エミーリアもよくやった。疲れていないか?」
「はい、大丈夫です。私も集中していて」
そう話していると、視界の端で、光が揺れた。
精霊たちだ。
いつもより多い。
私の周りだけじゃない。ルシアン様の周りにも、ふわふわと飛んでいる。
淡い青。薄い緑。白に近い金。
光の球が、彼の肩のあたりをくるくる回っている。
(……え)
ルシアン様は気づかない。
気づけない。
でも、確かにそこにいる。
『できた』
『できた、できた』
『つかれ、へった』
『しゅうちゅう、できた』
声が重なる。
幼い声。嬉しそうな声。
(もしかして……)
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
(精霊たちが……疲れを癒した? 集中力を増した?)
そんなことができるのか、私は知らない。
精霊魔法として聞いたこともない。
でも、精霊たちは私にしか見えない形で、私を助けてくれた。
なら、ルシアン様にも――してくれるのかもしれない。
私は、そっと手を重ね、心の中で願った。
(お願い。ルシアン様に、少しでも力を)
加護はない。
彼にも、私にも。
でも、精霊がここにいるなら。
精霊たちは、ぱっと明るく揺れた。
『うん』
『やさしい、あのひと』
『がんばってる』
『だから、する』
私は息を呑んだ。
嬉しいのに、泣きそうになる。
(……届くんだ)
祈りが、形になるのかもしれない。
ルシアン様が、私の表情の変化に気づいたのか、少しだけ眉を寄せた。
「どうした」
私は慌てて首を振る。
「いえ、なんでもありません」
言いながら、心臓がうるさい。
秘密を抱えている。
精霊が見えて、声が聞こえる。
それを、まだ言えない。
(でも)
私は、机の上の書類を見つめ直した。
(私はここで、支えになれる)
家事をして働くこととは違う。
夫人としての役目がある。
少なくとも、ルシアン様の負担を少しでも減らせるなら。
昼を過ぎた執務室に、紙の匂いと、淡い光が満ちる。
誰にも見えない場所で、精霊たちが笑っていた。




