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第7話 ヴァルター辺境伯夫人になる覚悟を


 朝、目が覚めた瞬間――私は、自分がどこにいるのか、一拍遅れて思い出した。


 空気が澄んでいて、布が柔らかい。

 寝返りを打っても軋まないベッド。

 ふかふかの毛布。枕が沈む感覚。


 ここはヴァルター辺境伯家の屋敷だ。


(……現実なのね)


 私はそっと身を起こし、部屋を見回した。

 昨日、感動して固まった豪華な部屋が、朝の光に照らされている。

 こんなに穏やかな朝を、自分が受け取っていいのだろうか。


 その時、控えめなノックの音がした。


「エミーリア様。起きていらっしゃいますか?」


 侍女の声。

 昨日、身支度を手伝ってくれた二人だ。


「は、はい。起きています」


 慌てて返すと、扉が開いて、侍女が二人入ってくる。

 動きに無駄なく、けれど柔らかい。


「おはようございます。本日は朝食の前に、身支度を整えさせていただきますね」


「……はい、お願いします」


 頼む、というのが、まだ慣れない。

 伯爵家では、頼むのではなく、やるしかなかったから。


 侍女は私を鏡の前に座らせ、髪を梳いた。

 銀がかった淡い金の髪が、櫛の音に合わせて落ち着いていく。


「髪がとても綺麗ですね、エミーリア様」


「……そう、ですか」


 褒められるのに慣れていなくて、変な返事になる。

 侍女はくすりと笑って、編み込みを整えながら言った。


「ええ。光が柔らかく入ると、特に」


 その言葉が胸に落ちる。

 伯爵家の北向きの薄暗い部屋では、私の髪も肌も、ただ寒そうに見えただけだった。


『きれい』

『エミーリア、きれい』

『ほら、きれい』


「……ありがとう」


 小さく呟くと、侍女が聞き取ったのかどうか、微笑む。

 精霊たちは、嬉しそうに揺れた。


 着替えは、昨日ほど豪華ではない。

 けれど、上質な朝用のドレスだった。


(……私が、こんな服を)


 胸が落ち着かない。

 でも、侍女たちは当然のように扱ってくれる。

 私だけが、居場所のなさに揺れている。


「では、食堂へご案内いたします」


「はい」


 廊下を歩く。

 窓から差し込む光が明るく、足音が柔らかく響く。


 食堂の扉が開いた。

 そこに――ルシアン様がいた。


 昨日と同じ軍装。

 漆黒の髪を後ろで束ね、灰色の瞳がこちらを捉えた。


 私は反射的に背筋を伸ばし、礼をする。


「おはようございます、ルシアン様」


「……ああ、おはよう」


 短い。

 昨日と同じ、言葉の少なさ。

 それでも、私の挨拶に返してくれるだけで、少し安心してしまう自分がいた。


(緊張する……)


 席を勧められ、私は静かに腰を下ろした。

 向かいにルシアン様がいて、距離が近い。

 視線を上げるだけで、鋭い灰色の瞳が目に入る。


 ――怖いわけじゃないけど、慣れない。


 朝食が運ばれてくる。

 湯気の立つスープ。焼き立てのパン。卵料理と、野菜の煮込み。

 昨日の夕食より品数は控えめで、量も少ない。


(……あ)


 これ、私が食べられる量に調整されている。

 昨日、私は夕食を残してしまった。

 美味しかったのに、胃が驚いて、途中で手が止まった。


(小さなことなのに……嬉しい)


 ルシアン様は食事に手を伸ばしている。

 私は緊張して、喋れない。

 ルシアン様のほうからも、話しかけてくる素振りはない。


 食器の音と、侍女の足音だけが流れる。

 居心地が悪いのではなく、慣れていないだけ。

 たぶん。


 私はスープを口にして、パンを少しずつ噛んだ。

 味が優しい。熱が胃に落ちていく。

 何より――焦らなくていい空気がある。


 気づけば、全部食べ終えていた。


(食べられた)


 胸の奥が、少しだけ軽い。

 伯爵家では、食事は最低限を詰め込む作業だった。


 食器が下げられ、私は立ち上がった。

 礼をして、退こうとする。


 その時。


「エミーリア、嬢」


 呼ばれて、足が止まった。

 心臓がひくりと跳ねる。


「はい」


 振り向くと、ルシアン様は表情を変えないまま言った。


「今日も仕事がある。付き合えないが……城下町へ行くといい。服や必要なものを買ってくるといい」


 最低限の会話だけど、思いやりがある言葉だ。


(私が、持っていないから……)


 ドレスも、宝飾品も、まともにない。

 荷物も少ない。

 そのことに気づいて、気を遣ってくれている。


 私は胸の奥が少し熱くなるのを抑えて、頭を下げた。


「わかりました。ありがとうございます」


「レイをつける。……無理はするな」


 それだけ言って、ルシアン様は席を立った。


(冷徹な人、じゃない)


 少なくとも、私には。


 私は侍女に案内され、改めて外出用の支度を整えた。


 馬車で城下町へ向かう。

 昨日見た街より、もう少し近くで見る城下町は、さらに生活が濃かった。


 石造りの建物。整った道。市場の声。

 伯爵領よりも質素。けれど、活気がないわけじゃない。


 人々が、安心して息をしている。


(……死地だなんて、到底思えない)


 隣の座席にはレイがいる。

 金髪で今日も眼鏡をかけている。


「城下町、思った以上に栄えていますね」


 私がそう言うと、レイは頷いた。


「はい。今はだいぶ落ち着きましたから」


 私は躊躇いながら、聞いてみる。


「ブライトン伯爵領では……ここは死地だと噂になっていました。魔物が相次いで、村が滅びてるって」


 レイの表情が、一瞬だけ真面目になった。


「噂も、完全な嘘ではありません。十年近く前は――確かに、そうでした」


「……そう、ですか」


「ですが、変わりました。旦那様と兵士たちが、少しずつ、少しずつ」


 レイの声は淡々としているのに、そこに誇りが滲む。


「魔物の出現域を押し返し、街道を整え、見回りを増やし、物流を守った。……その積み重ねです」


(すごい……)


 私は正直にそう思った。


 噂を覆すには、言葉じゃ足りない。

 積み重ねるしかない。


 それを――十年近く。


「……ルシアン様って、本当にすごい方なんですね」


「ええ。すごい方です」


 私の言葉に、レイは小さく笑った。


 馬車が止まり、私たちは店へ向かった。


 最初に入ったのは、ドレスの店だった。

 布の匂いがして、壁に色とりどりの布が掛かっている。


 鏡が並び、仕立て屋の針の音がする。


「いらっしゃいませ」


 店員が笑い、レイが手短に事情を伝える。

 私は周囲を見るだけで、頭がいっぱいになった。


(……どれがいいのかわからない)


 伯爵家でドレスを選ぶことなんて、ほとんどなかった。

 与えられたものを着る。

 それが私の選択だった。


 私は控えめな色のドレスを一つだけ指さした。

 目立たないやつで、無難だ。

 これだったら失敗しない。


「こ、これで」


 言った瞬間、レイがやんわりと首を振る。


「一着だけでは足りませんよ。最低でも数着は必要です」


「で、でも……」


「エミーリア様」


 レイは優しい声のまま、逃げ道を塞ぐように言った。


「旦那様が買ってこいと仰ったのは、必要なものを揃えてこい、ということです。遠慮して困るのは、エミーリア様です」


 その言葉が胸に刺さる。

 遠慮が癖になっている。

 遠慮しないことが、怖い。


「……そんなに、買ったことがなくて」


 小さく言うと、レイは笑った。


「では、今日が初めてですね」


 結局、レイと店員の勧めで、五着ほど選ぶことになった。

 淡い色。落ち着いた色。季節に合うもの。外出用。格式ある場用。

 一着ずつ試着して、鏡の中の自分に慣れないまま頷いた。


(……こんなに)


 手が震える。

 けれど、レイは平然としている。


「大丈夫です。必要経費です」


『ふく、いっぱい』

『いっぱい、すごい』

『エミーリア、どきどき』


「どきどきする……」


 呟いた私に、レイが聞き返す。


「何か仰いました?」


「いえ……なんでもないです」


 それから宝飾品の店にも寄った。

 光る石が並ぶ。きらきらして、目が痛い。


 私は小さなペンダントを一つ選んで、それで十分だと思った。

 けれどレイは、また同じように言う。


「最低限、日常用と、改まった席用は必要です」


(最低限の基準が違う……)


 ここで言われる最低限は、辺境伯家の婚約者としての最低限だ。

 私は深く息を吸って、頷いた。


「……わかりました」


 買い物が終わる頃には、少し疲れていた。

 緊張で肩が硬い。

 あんな金額初めて見たわ……。


 店を出て市場を歩いていると、男たちが話している声が耳に入った。


「最近は本当に安全になったよな」

「物流が止まらねえのがでけぇ。昔は魔物が出るってだけで荷が来なかったのに」

「領主様が道を守ってくれてるからな」


 別の店先でも、女たちが言う。


「この頃は夜でも怖くないもの」

「昔は夜でも魔物の襲撃の音が鳴り響いていたのにね」

「辺境伯様には感謝ね」


 その言葉を聞きながら、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


(……みんな、ルシアン様のことを尊敬しているのね)


 でも。

 最後の一言が、耳に刺さった。


「――加護があればなぁ」


 男が苦笑して言う。


「旦那様が強いのはわかるけど、加護があったらもっと土地が豊かになったかもしれねえ。領地全体に影響が出るって話だし」


「そうだな。領主の加護が強いと、作物が育つとか、水が澄むとか、そういうのもあるって……」


 胸が、きゅっと鳴った。


(……これだけやっても、加護がないと『残念』なんだ)


 わかっている。


 この世界で加護は、ただの魔法の力じゃない。

 だから、貴族は加護を重要視する。


 領主の加護が強ければ、領地全体に良い影響が出ることがある。

 それを理由に、加護がない者は軽んじられる。


 ――私も同じだった。


 伯爵家で、加護がないだけで、娘でなくなった。

 人でなくなった。


 私は足を止めかけて、すぐに歩き出した。

 沈みそうになる心を、言葉で支える。


(ルシアン様は、そんな声に負けずにここまで積み上げた)


 私は隣のレイを見上げた。


「……ルシアン様は、すごいですね」


 レイは目を細める。


「はい」


「加護がないと……残念がる声もあるのに。それでも、ここまで変えて……」


 言いながら、胸が少し苦しくなる。

 けれど、口にしたかった。


 レイは、穏やかに頷いた。


「旦那様は、そういう声に慣れておられます。……慣れてしまった、と言うべきかもしれませんが」


 私は唇を噛みそうになって、息を吐いた。


「慣れたから平気、ってことじゃないですよね」


「ええ」


 レイは短く答え、それから少しだけ笑った。


「だからこそ、エミーリア様の心配や祈りは、旦那様にとって嬉しいものだったでしょう」


 私は、昨日の夜を思い出す。

 無事を祈った。


『エミーリア、やさしい』

『やさしい、えらい』

『ささえる?』


 精霊の声が、胸の奥をくすぐる。


(支える)


 私は小さく頷いた。

 加護はない。

 私も、ルシアン様も。

 それでも――支えになれることは、あるはずだ。


(私も、頑張ろう)


 自分のためだけじゃなく。

 ここで新しく始めるために。


 帰りの馬車に乗ると、買い物袋が増えていて、少しだけ笑ってしまった。


 窓の外、城下町の屋根が夕陽に染まっていく。

 死地だと呼ばれた土地が、今は静かに息をしている。


 その中心に、加護のない当主がいる。


 そして、その隣に立つことになったのが――私だ。


 まだ怖い。

 でも、逃げたくはない。


 馬車に揺れながら、屋敷へ向かって進んでいった。



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