第6話 辺境伯領の戦いと違和感
城下町の外れ、見晴らしのいい丘の向こう側に、黒い影が蠢いていた。
魔物の群れだ。
放っておけば畑に降り、柵を壊し、村へ流れる。
「前列、盾を上げろ! 間合いを詰めすぎるな!」
ルシアン・ヴァルターは馬上ではなく、地面に立っていた。
漆黒の髪を後ろで束ね、灰色の瞳で前線を切り取る。
兵士たちが声を返す。
「了解!」
「風班、準備!」
「土班、足止め行け!」
光が走った。
風の精霊魔法が渦を作り、土の精霊魔法が地面を盛り上げ、魔物の脚を絡め取る。
火の精霊魔法が火矢になり、空を切って突き刺さる。
水の精霊魔法が刃のように走り、硬い鱗の継ぎ目を裂く。
魔物は呻き、倒れ、また別の個体が咆哮した。
鳴き声だけで空気が揺れる。
――それでも、ルシアンは魔法を使わない。
使えないのだ。
精霊の加護がない。火も、水も、風も、土も、光も、闇も。
だから、手にあるのは剣だけ。
(……来る)
魔物が地を蹴った。
黒い身体が跳ねる。牙が白い。
ルシアンは半歩ずれる。
体の軸だけをずらし、剣を横に走らせた。
刃は確実に通り、魔物の首が傾ぐ。
血が噴いた。
「隊長、右!」
兵士の叫びが来るより先に、ルシアンは右へ踏み込んでいた。
斬る。返す。避ける。
余計な動きがない。呼吸は浅く、視線は冷たい。
冷徹だと言われる理由が、ここにある。
「土班、壁を上げろ。奥に回すな」
土の精霊魔法で低い壁が立ち、魔物の進路が狭まる。
狭まった先へ、火の一撃が落ちる。
――その火が、いつもより眩しかった。
空気が、一瞬で乾く。
「……なんだ、今の」
火班の兵士が目を見開いた。
自分で放ったはずの魔法に、自分が驚いている。
「おい、俺の火……こんなに伸びたこと、あったか?」
隣の兵士も、風の渦を見て眉をひそめる。
「風も……強い。いつもなら二回は唱えないといけないのに、今、一回で……」
「土もだ。固めるのが速い」
ざわめきが広がる。
ルシアンは剣を振るいながら、視線だけで兵を制した。
「余計なことを考えるな。今は倒せ」
声は低い。
けれど、そのざわめきは消えきらない。
確かに、強い。
魔法だけではない。
(……身体が、軽い)
ルシアン自身も、気づいていた。
脚がいつもより前に出る。
剣がいつもより速い。
反応が、半拍早い。
加護がない代わりに、身体能力で補ってきた。
それが、今日だけは――補うどころか、余る。
魔物の爪が頬の横を掠めた。
本来なら薄皮が切れてもおかしくない距離。
だが、避け切れている。
理由はわからないが、わからないままルシアンは剣を振る。
最後の一体が倒れたのは、日が西に傾き始めた頃だった。
魔物は地面を掻き、喉を鳴らし、動かなくなる。
「……終わりだ」
ルシアンが言うと、兵士たちは息を吐いた。
誰かが膝に手をつき、誰かが空を仰ぐ。
兵士たちが負傷者を確認し、魔物の死骸を処理し始める。
いつもの手順で、いつもの動き。
だが、空気に残る違和感だけが消えない。
「隊長……俺たちの魔法、どうなってるんですかね」
「知らん」
ルシアンは短く返した。
知らないことは、知らないと言うしかない。
剣を鞘に戻し、汗を拭う。
息は乱れていない。
それが余計に気味が悪いほどだ。
その時だった。
風が止まったわけでもないのに、耳の奥に、声が落ちてきた。
『あの子がきたから』
ひどく幼い声。
誰かの囁きにも似ている。
けれど周囲の兵士たちは、誰一人として反応しない。
(なんだ……?)
ルシアンは視線を動かす。
兵士は傷薬の袋を開け、鎧を外し、笑いながら疲れを吐いている。
声など聞こえていない。
『友達が、祈ったから』
また声がした。
今度は一つではない。
二つ、三つ、重なっている。
『えらい、えらい』
『けが、しない』
『だいじょうぶ』
敵の気配とは違う。
殺気でもない。
ただ、理解できない何かがそこにいる感覚。
(……誰だ)
彼は眉を寄せる。
周囲を見渡す。
空には鳥。草むらには血。土には足跡。
声は続いた。
『あの子、やさしい』
『こわがってない』
『ここ、いい』
――あの子。
何のことだ。
祈った? 誰が?
ルシアンは口を結んだまま、兵士へ指示を飛ばす。
「撤収する。負傷者を先に。討伐証はレイに渡せ」
「了解!」
ただ、背中に残る違和感を振り払うように、歩き出した。
屋敷へ戻った頃には、空が暗くなっていた。
門が開き、衛兵が敬礼する。
ルシアンが通ると、使用人たちが慌ただしく動く。
「お帰りなさいませ、ルシアン様」
出迎えたのは秘書のレイだった。
いつも通り、穏やかな笑みだ。
「遅くなった」
「存じております。討伐の報告は先ほど受けました。怪我は……」
「ない」
「それは何よりです」
ルシアンは外套を渡しながら、ふと、言葉が口をついた。
「……彼女は?」
レイが瞬きをした。
それからすぐに理解したように頷く。
「エミーリア様のことですね。お部屋でお休みになられています。夕食は召し上がりました」
「……そうか」
ルシアンは喉の奥で、小さく息を吐いた。
(悪いことをした)
今日が初日だった。
初めての顔合わせで、あの場に座らせ、言葉少なく終わらせた。
自分の無表情が、彼女を怖がらせただろうと思う。
昔からそうだ。
加護がないことを差し引いても、無愛想で冷たい人間だと評されることが多い。
だから、初対面でレイをつけた。
柔らかい空気を作れる男だ。
――それでも、不安は消えない。
「部屋に入った途端に眠った、か」
ルシアンが呟くと、レイは頷いた。
「はい。長旅の疲れもありますし、緊張もあったのでしょう。ベッドに触れた瞬間、糸が切れたように眠ってしまわれました」
ルシアンは一瞬、目を伏せた。
(当然だ)
伯爵家から辺境伯領まで。
距離だけではない。環境も、空気も変わる。
眠らない方がおかしい。
「夕食は……一緒に取れなかった。悪印象になっただろうな」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
初対面の女性からの印象を気にするような性格ではなかったはずだが。
だが彼女はこれから自分の妻になる女性だ。
礼儀正しく、声は震えず、けれど目の奥に、長く押し込められた疲れがあった。
受け入れてもらえるだけで十分です、と言ったときの、あの淡い諦め。
レイは首を横に振った。
「いいえ。エミーリア様は、むしろ心配しておられました」
「心配?」
「はい。『ルシアン様は?』と。お仕事で討伐へ向かわれたとお伝えしたら、心配そうに……それから」
レイは少しだけ声を柔らかくした。
「怪我をされませんように、と祈っておられました」
ルシアンは、瞬きの回数を一つ増やした。
祈った。
脳裏に、昼間聞こえた声が蘇る。
『祈ったから』
(……まさか)
だが、すぐに打ち消した。
あの声は説明がつかない。
説明がつかないものを、簡単に結びつけるべきではない。
それでも――胸の奥が、わずかに温かくなる。
「……そうか」
自分の妻になる者は、優しい人間らしい。
「他に、彼女の様子は」
ルシアンが尋ねると、レイは真面目な顔になった。
「荷物が、限りなく少ないです」
「少ない?」
「はい。箱がほとんどありません。ドレスも、ほぼ持っていない。装飾品も少ない。侍女も付いていないようでした」
ルシアンの眉間に、深い影が落ちた。
「……伯爵家の娘だろう」
「本来なら、あり得ませんね」
レイは言葉を選びながら続けた。
「食事は……とても美味しそうに召し上がっていました。ですが、量は多く取れないようでした。ドレスの上からでも不摂生に細いことが見受けられます」
ルシアンは、目を細めた。
(迫害か)
加護なしは、家族からも見放される可能性が高い。
それは、彼自身が誰より理解している。
血が繋がっていても、加護がないだけで異物になる。
家の名誉を傷つけるものになる。
「……やはりか」
声は低く、硬くなる。
わかっていたが、やはり怒りがわき出してしまう。
レイは静かに頷いた。
「可能性は高いと思います。あの方は……丁寧で、控えめで、必要以上に自分を小さくしている。そういう方は、長くそう扱われてきたことが多いです」
ルシアンは、少しだけ目を閉じた。
(ここでは、そんな思いはさせない)
決意というほど大げさなものではない。
当主として当然の責務だ。
自分の屋敷に迎えた者に、理不尽を与えない。
それだけ。
「……ここでは、普通に過ごさせる」
ルシアンが言うと、レイは即座に答えた。
「はい。私も、そのつもりです」
ルシアンは外套の重みを手放し、廊下の灯りを見る。
城下町は守られている。
屋敷も整っている。
守るべきものは、外だけではない。
「明日、彼女の必要なものを揃えろ。服も、靴も、侍女も。無理に増やすな。本人が息苦しくならない程度に」
「承知しました」
レイの返事は、柔らかいのに迷いがない。
ルシアンは一度だけ頷き、階段の方へ視線をやった。
二階の廊下。
彼女の部屋は、その先にある。
(……祈り、か)
答えは出ない。
出ないまま、夜が進む。
廊下の灯りが揺れ、静かな屋敷の空気に、見えない何かがふわりと浮かんでいた。
幼い声が、重なって、笑う。
『えらい』
『えらい、えらい』
『ここ、あたらしい』
誰にも見えないまま。
誰にも気づかれないまま。
精霊たちは、彼らを見ていた。




