第5話 噂の辺境伯領?
辺境伯領に入ってから、一日ほどが経った。
馬車に揺られている時間は、伯爵領にいた頃の一日よりも長く感じるのに、心は不思議と静かだった。
窓の外には、森と畑が交互に流れていく。
ときどき小川が光って、鳥の影が横切る。
――死地。魔物の出現が相次ぐ。村が滅びる。
そんな噂を聞いていたのに。
(……少なくとも、今見えるものは普通だわ)
道は整っていて、行き交う荷馬車もある。
すれ違う人々は顔色が悪いわけでもなく、険しい表情でもない。
それどころか、道端で手を振る子どもがいて、荷を下ろして笑う商人がいる。
護衛の兵士たちは外にいる。
こちらの馬車に乗り換えてから、彼らは必要以上に話しかけてこない。
けれど、無礼でも無関心でもない。
伯爵家の屋敷では、視線に棘があった。
避けられるか、怯えられるか、嘲られるか。
この領地では、まだそれを感じない。
しばらくして、御者の声が聞こえた。
「もうすぐ城下町に入ります」
「城下町……」
私は窓に身を寄せた。
見えてきたのは、石造りの門と、そこから続く街並みだった。
華やかさはない。尖った塔や派手な装飾もない。
けれど――暮らしが流れている。
(……栄えてる)
思った以上に、という言葉がぴったりだった。
質素だけれど、貧しくはない。
むしろ、足元がしっかりした町だ。
(噂が嘘みたいね)
死地、と呼ばれているなら、もっと荒んだ空気があるはずだ。
私が見てきた荒んだ場所は、屋敷の中だけど。
城下町の奥へ進むにつれて、建物は大きくなり、人の流れも増える。
市場の匂いが濃くなって、焼いた肉と香辛料の香りが混ざる。
私が乗っている馬車が通ると、人々が軽く頭を下げた。
敬意と、信頼の混じった仕草だ。
馬車には辺境伯家の紋章が描かれているし、兵士達が護衛しているから頭を下げたのだろう。
(ここでは、辺境伯家が守っているってことなのね)
やがて馬車が速度を落とした。
「到着します」
門が見えた。城下町の一番奥。
大きな屋敷――というより、城だった。
派手な装飾はない。
けれど石壁は厚く、門は重く、建物はどっしりと構えている。
余計なものがないからこそ、荘厳だ。
(ここが、ヴァルター辺境伯家の本邸)
胸の奥が、きゅ、と鳴った。
馬車が止まる。
私は一度息を吸って、降り立った。
背筋が伸びる。
迎えの兵士が扉を開け、礼をする。
「ようこそお越しくださいました。中へご案内いたします」
「……ありがとうございます」
私は裾を整え、門をくぐった。
屋敷の中は、外観と同じだった。
豪奢な彫刻も、過剰な絵画もない。
けれど床は磨かれていて、壁は傷ひとつなく、窓は透き通っている。
清潔で、静かで、整っている。
(……綺麗ね)
それだけで、心が落ち着いた。
伯爵家の屋敷は綺麗だった。
けれど、あそこは飾られていた。
そして私の部屋だけが薄暗く、寒く、みすぼらしかった。
案内されたのは応接室だった。
椅子は質が良く、座り心地がいい。
「こちらでお待ちください」
「はい」
扉が閉まり、私は一人になった。
精霊たちが、ふわりと浮かぶ。
『ここ、きれい』
『こわくない』
『エミーリア、どきどき』
「ふふっ、どきどきするわね」
私は手を重ね、静かに息を吐いた。
――どれくらい待っただろう。
ノックの音がして、扉が開いた。
入ってきたのは二人。
先頭に立つ男性を見た瞬間、私は思わず立ち上がった。
漆黒の髪を後ろで束ね、鋭い灰色の瞳。
体躯は引き締まり、軍装がよく似合う。
派手さはないのに、存在感がある。
冷たい刃のような空気――けれど、それは威圧ではなく、研ぎ澄まされた静けさだった。
(……この人が)
私は胸の中で名前を確かめる。
ルシアン・ヴァルター様。
その隣には、もう一人。
金髪で細身、青い瞳。眼鏡をかけている。
柔らかい笑みを浮かべていて、秘書のような雰囲気だった。
私は姿勢を正し、礼をした。
「エミーリア・ブライトンです。本日はお迎えいただき、ありがとうございます」
ルシアン様は、短く頷いた。
「ルシアン・ヴァルターだ」
それだけ。
言葉は少ない。けれど、無礼な感じはしない。
これが彼の普段通りなのだろう。
「座ってくれ」
促され、私は椅子に腰を下ろした。
ルシアン様も向かいに座り、隣の男性も控えるように座る。
「遠いところを来てもらった。感謝する」
それは、淡々とした言い方だった。
けれど、形式だけの言葉ではない気がした。
私は小さく頷く。
「こちらこそ……ありがとうございます。受け入れていただけるだけで、十分です」
すると隣の男性が、穏やかに微笑んだ。
「レイと申します。以後、諸々の手配を担当します」
「エミーリアです。よろしくお願いします、レイ様」
「様は不要ですよ。……ただ、慣れるまでは難しいですね」
冗談めかした口調に、私は少しだけ肩の力が抜けた。
ルシアン様は表情を変えないまま、私を見た。
「困ったことがあれば言ってくれ。できるだけ君が過ごしやすいようにしよう」
その一言が、胸の奥に落ちた。
(……過ごしやすいように)
そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。
伯爵家では、私が過ごしやすいかどうかなんて、誰も気にしなかった。
苦しいのが、当然だった。
「……ありがとうございます」
私は正直に言った。
言葉が震えないのが、自分でも不思議だった。
泣きそうになるほど嬉しい。
『やさしい』
『やさしい、ね』
『うれしい』
精霊たちが、小さく騒ぐ。
ルシアン様とレイも、精霊に気づいている様子はない。
ルシアン様は、レイへ視線を向けた。
「レイ。彼女を部屋へ案内しろ。休ませてやってくれ」
「承知しました」
私は立ち上がり、礼をする。
「本日はありがとうございました」
「……ゆっくり休め」
短い言葉。
それだけで、胸が少し温かくなる。
(冷徹、ね)
噂は、やっぱり噂だったのかもしれない。
少なくとも、私に向ける態度は冷徹ではなかった。
レイに案内され、廊下を進む。
窓から差し込む光が明るい。
空気が澄んでいて、埃の匂いがしない。
「こちらです」
扉が開き、私は足を止めた。
――部屋が、豪華だった。
大きなベッド。ふかふかの毛布。
ソファがあり、机があり、窓は広い。
カーテンの布も厚く、床は柔らかな絨毯。
花瓶には、飾り気のない野花が一輪。
(……本当に、ここを使っていいの?)
私は立ち尽くしてしまった。
「どうかしましたか?」
レイが首を傾げる。
「すみません……お部屋に、感動してしまって」
声に出してから、少し恥ずかしくなった。
「こんな……私に」
レイは、にこりと笑った。
「もちろんです。ここは、エミーリア様のお部屋です」
その言葉だけで、喉の奥が熱くなる。
「夕食まで、こちらでお休みください。旅の疲れもあるでしょう」
「……はい。ありがとうございます」
レイが出ていき、扉が閉まる。
私はベッドへ近づき、そっと手を置いた。
柔らかい。
伯爵家の擦れた毛布とは比べものにならない。
(……怖い)
こんなに良い扱いを受けていいのか、という怖さ。
でも同時に――嬉しい。
私はためらいながらも、ベッドに身を投げた。
「……ふかふか」
体が沈む。
長旅の疲れが、どっと押し寄せる。
目を閉じた瞬間、意識がほどけた。
『ねむい』
『ねよ、ねよ』
『エミーリア、ねる』
「……うん……」
私はそのまま眠ってしまった。
――気づけば、部屋の光が少し傾いていた。
(……しまった)
私は跳ね起きる。
夕食まで休めと言われたのに、寝過ぎた気がする。
慌てて髪を触った、その時。
ノックの音がした。
「は、はい!」
扉が開き、侍女が二人入ってくる。
年は私より少し上だろうか。
身だしなみが整っていて、動きに無駄がない。
「エミーリア様。身支度をお手伝いに参りました」
「……え、私の?」
思わず、変な声が出た。
侍女の一人が、優しく笑う。
「もちろんでございます」
私はおそるおそる頭を下げた。
「……お願いします」
侍女の二人は手際が良かった。
髪を整えられ、肌を整えられ、そしてドレスが運ばれてくる。
(……これ、豪華すぎない?)
淡い色の布に、細かな刺繍。
私が伯爵家で見たこともないような質だ。
「本当に……こんなに良いものを、私が……」
侍女は当然のように言った。
「エミーリア様のために用意されたものですから」
私はその言葉に、また胸が熱くなった。
食堂に案内されると、夕食の準備が整っていた。
湯気の立つスープ。焼き立てのパン。
肉料理に、野菜の煮込み。
果物も、甘い香りがする。
(……豪華)
私は椅子に座り、手を組んだ。
侍女が給仕をし、私は口に運ぶ。
――美味しい。
思わず、息を吐いた。
「……美味しい」
侍女が嬉しそうに微笑む。
「よかったです」
私はスープを口にしながら、ふと気になって尋ねた。
「……ルシアン様は?」
侍女の表情が少し引き締まった。
「旦那様は、お仕事で魔物討伐に向かわれております」
私は食べる手を止めた。
「えっ、この時間に……ルシアン様が、自ら?」
「はい。領内で魔物の出現が増えておりますので」
(まさか……辺境伯当主が、自分で)
貴族なら、口だけ出して前線には立たない人も多い。
けれど、ここでは違うのだろう。
(責任感がすごいわね)
私は、食事を続けながら、胸の奥で小さく祈った。
「……どうか、ご無事で」
侍女が驚いたように私を見る。
私はすぐに視線を戻した。
祈るくらい、許されるだろう。
『いのる?』
『うん、いのる』
『あのひと、やさしい』
『やさしい、ね』
精霊たちが、ひそひそと騒ぐ。
(加護はないのに)
ルシアン様にも、私にも。
それなのに精霊は、彼を優しいと言った。
(……少しでも、届けばいい)
私はもう一度だけ、心の中で祈る。
この領地で、私は新しく始める。
噂がどうであれ、ここで見たものを信じたい。
そう思えるだけで、きっと――もう前と違う。
精霊たちの光が、食堂の空気に淡く揺れていた。




