第3話 婚約破棄
「単刀直入に言いましょう――エミーリアとの婚約破棄にきました」
アルベルト様にそう言われても、私は特に驚かなかった。
(……やっぱりね)
ずっと、どこかでわかっていた。
会いに来ない、手紙も来ない。
それなのに婚約者という札だけが、私の首にぶら下がっているのが不自然だった。
私は背筋を伸ばしたまま、アルベルト様を見た。
金髪碧眼。整った顔。
小さい頃に見た面影は残っているのに、そこにあったはずの弱さが、きれいに削られている。
彼は私に視線を向けた。
その目は、冷たい。
昔、泣きそうな顔で私を見上げた目とは別物だ。
(……だから、驚かない)
私が何も言わないのを、父は苛立ちと勘違いしたらしい。
「エミーリア。返事は?」
「……はい。承知いたしました」
母が扇子の影で微笑む。
「まあ、素直でよろしいこと」
アルベルト様が、わずかに眉を動かした。
驚いたのだろうか。
泣いて縋るとでも思っていたのかもしれない。
(別に彼のことは好きじゃないけど、私が好きだと勘違いしているようね)
ふと、思い出が勝手に浮かび上がる。
あれは社交会の夜。
私は、まだ家の中で娘として扱われていた頃で。
ドレスも、今よりはまともだった。
明るい広間、揺れるシャンデリア、笑い声。
私は壁際にいて、あの場の眩しさに少し酔っていた。
そして、アルベルト様――当時はアルベルト少年が、ひとりで抜け出しているのを見つけたのだ。
私はなんだか気になってしまい、あとを追った。
彼は会場から抜けた先の庭で、膝を抱えて座っていた。
彼が顔を上げたとき、目が赤かった。
『見つけないでほしかった』
『どうして?』
『兄上は完璧だ。加護も強い。剣も強い。……俺は、何も』
あの時の彼は、公爵家の次男だった。
比べられる相手が、常に嫡男の兄だった。
『俺は、恥だ。次男のくせに、加護も弱い』
『……私も加護がないわ』
私が言うと、彼は少しだけ目を見開いた。
『……加護がない?』
『うん。だから、同じね』
あの夜、彼は私の言葉に救われた顔をした。
『……君は、怖くないのか?』
『何が?』
『加護がないってこと。周りは、みんな……』
『怖いときもある。でも、私には私のままでいるしかないもの』
彼は黙って、しばらく夜空を見上げた。
それから、私たちは話すようになった。
そして十歳の頃、彼のほうから言ったのだ。
『俺と、婚約してくれないか』
私は驚いた。
だって、私の家は伯爵家で、彼は公爵家だ。
しかも次男でも、公爵家の権威は大きい。
『……本気?』
『本気だ。俺には……味方がいない』
その目は必死だった。
まるで、私を掴まなければ溺れるとでも言うみたいに。
そして実際に、彼は公爵家の権威を使って婚約を通した。
あの時の私は、信じられなかった。
(まさか、そこまでするとは思わなかった)
両親も同じだった。
加護なしの娘が、公爵家の次男に望まれる。
棚から牡丹餅。
父は笑い、母は涙ぐみ、リディアは……私を睨んでいたわね。
――でも、それも長くは続かなかった。
学園や社交会。
彼はそこで、自分が人気者だと知った。
公爵家次男。
当主ではなくても、権威は十分。
そして何より――彼の精霊魔法は、いつの間にか強くなっていた。
最初は弱い、と嘆いていた加護。
それが、成長とともに、目を見張るほどになった。
その一方で私は、加護なしのまま。
人気など出るはずもない。
むしろ加護なしとして虐められてもいた。
普通、恋人や婚約者だったら守ってくれるのだが。
でも彼は――守らなかった。
私が蔑まれても、遠巻きに見ていた。
私の噂が広がっても、何も言わなかった。
自分とじゃ釣り合わない、と考え始めたのだろう。
だから、距離を取るようになった。
(……そして、今)
現実に引き戻される。
アルベルト様が、私を見下ろすように言った。
「君は……俺の足を引っ張る存在になった。そう理解してほしい」
足を引っ張る。
どこかで聞いた言葉だ。
父や母が私に向ける言葉と同じ。
父がすぐに頷く。
「ええ、ええ。申し訳ございません。本当に……」
母も続ける。
「こんな不出来な娘で。ご迷惑をおかけして」
守るどころか、頭を下げる。
アルベルト様は満足そうに息を吐いた。
「いいんです。代わりに、リディアさんがいる」
その言い方で、私は悟った。
今回の婚約破棄は、付け替えなのだと。
アルベルト様の視線が、私ではなくリディアに向く。
リディアは、待ってましたとばかりに頬を染め、指先をそっと彼の袖に添えた。
「リディアさんはとても優秀だと聞いています。彼女と新たに婚約する。それで双方、丸く収まるでしょう」
……もう決まっている。
相談でも提案でもなく、決定事項。
父と母の顔が、ぱっと明るくなった。
「まあ……! それは……」
母は歓喜を隠しきれない声で言う。
「光の加護を持つリディアを、アルベルト様が……」
父は感極まったように頷く。
「公爵家とのご縁が、さらに強くなる。ありがたい……!」
(……そういうこと)
私はようやく理解した。
昨日までの父母の妙な機嫌の良さ。
私とアルベルト様が婚約破棄しても、公爵家との繋がりはなくならない。
だから、父も母も私を守らない。
リディアはアルベルト様の隣に立ち、肩を寄せた。
仲睦まじいふりではない。
本当に慣れた距離だ。
(……学園の頃から、隠れて逢っていた)
私は知っていた。
廊下の影で囁く声。
誰もいない温室で、指先が触れ合うのを。
私が家から出られないここ数年も、二人は自由に会っていた。
リディアが私を見た。
緑の瞳が、勝ち誇っている。
「お姉様、ごめんなさい。でも、ブライトン伯爵家としてはこれで安心ね」
「……そうね」
私がそう返すと、リディアは少しだけ口角を下げた。
私が泣かないのが不満なのだろう。
もっと取り乱してほしい。惨めに縋ってほしい。そういう顔だ。
アルベルト様は、こちらを見た。
今度は、蔑むように。
「君も、薄々わかっていただろう。私は早く君と破棄したいと思っていたよ。君と私じゃ釣り合わないからね」
たったそれだけ。
加護なしの令嬢と、公爵家の次男。
釣り合わない。
言われる前からわかっていた言葉なのに、口にされると、やはり少しだけ胸が冷える。
(……あなたが縋るように申し込んだのに)
言いかけて、やめた。
言っても、彼はもう振り向かない。
リディアは嬉しそうに彼の腕に寄り添い、甘い声で言った。
「アルベルト様……」
その仕草は、学園で磨いたのだろう。
可憐で、隙がなくて、男が守りたくなる角度を知っている。
そして彼女は私にだけ見えるように、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
私は、その視線を受け止めて、ただ静かに瞬きをした。
(勝ち負けの話だったのね、あなたの中では)
私にとっては、勝ちでも負けでもない。
ただ、終わるだけ。
終わるべくして終わる。
父が机の上に書類を置いた。
「では、手続きを」
母が、私を見た。
その目は冷たいのに、口元だけは形だけの慈愛を作っている。
「エミーリア。署名なさい。あなたも、これで楽になるでしょう」
ペンが差し出される。
私は受け取り、特に感情もなく流れるように書いた。
『エミーリア……』
『いや?』
『かくの?』
(書くわ)
心の中で答えると、精霊が小さく震えた。
怒っているのか、悲しんでいるのか。
でも、私が決めたことを止めはしない。
書き終えた瞬間、アルベルト様の目が細くなる。
彼は書類を受け取り、ざっと確認してから満足そうに口角を上げる。
「これでようやく、君と別れられたよ」
それほどまでに、彼は私との繋がりを嫌っていたのだろう。
アルベルト様が次の紙を取り出した。
新たな婚約書。
父が嬉しそうに言う。
「さあ、リディア。こちらへ」
リディアは、花が揺れるみたいに立ち上がり、アルベルト様の隣へ行った。
そして私が座っている側ではなく、父母の側へ――家族の席へと自然に寄る。
母が、私を見て言った。
「エミーリア、あなたにはもう用はないわ。出て行きなさい」
「……承知いたしました」
私は立ち上がり、きちんと礼をした。
扉が閉まる。
応接室の中の笑い声と、紙を擦る音が遠のく。
『エミーリア……』
『だいじょうぶ?』
『かなしい?』
精霊の声が、私の耳の奥に降りる。
私は一度、立ち止まった。
「大丈夫よ」
声に出して言った。
そうしたほうが、彼らは安心するから。
「……最初から、こうなると思っていたもの」
私はゆっくり歩き出す。
精霊たちは、私の周りでふわりと揺れた。
怒りの熱でも、悲しみの冷たさでもなく、いつもの優しい光で。
『エミーリア、えらい』
『えらい、えらい』
『つぎ、いこう』
私は小さく息を吐いて、頷いた。
「ええ。次、ね」
廊下の先から、風の精霊魔法の音が聞こえる。
使用人が掃除をしているのだろう。
その風が、私の髪を少しだけ揺らした。




