第27話 元婚約者と元家族の破滅
社交会の一件から、数日が経っていた。
王都寄りの貴族の屋敷――大広間には燭台の火が揺れ、音楽が流れ、色とりどりの衣装が花のように散っている。
以前なら、カーヴェル公爵家次男のアルベルトが顔を出せば、自然と人だかりができた。
……けれど、今夜の空気は違った。
アルベルトが入口に姿を見せた瞬間、いくつかの視線がこちらへ向いた。
向いたのに、すぐ逸れた。
笑い声は続いているはずなのに、耳に入る音だけが薄くなる。
「……カーヴェル公爵家次男、アルベルト様でいらっしゃいます」
名乗りが上がっても、迎える声が遅れる。
拍手もない。
誰かが扇子の陰で小さく囁き、隣の者が頷く。
アルベルトはそれを「気のせい」と押し込めて歩いた。
押し込めないと、足が止まりそうだった。胸の奥がじりじりと熱い。
(俺は公爵家の人間だ。場の空気くらいに負けるか……!)
そう思い込むように、彼は笑みを作った。
「ご機嫌よう。今夜も華やかだな」
近くにいた侯爵家の令息が、遅れて一礼する。
「……ご機嫌よう、アルベルト殿」
声が薄い。笑みが固い。
アルベルトは肩を竦めたように見せ、自然に輪へ入ろうとした。
だが、会話の糸がすっと切れる。
「――それで、先日の北の交易路の件ですが」
「ええ、そちらは……」
話題は即座に別の方向へ流れ、アルベルトの入る隙間だけが不自然に空く。
まるで、そこだけ風が通らないように。
彼は舌打ちを飲み込んだ。
ビヨンド伯爵領での出来事が、ここまで回ってきたのだ。
だが――ここまであからさまに避けられるほどの話か?
アルベルトが別の輪へ向かうと、そこでも同じだった。
挨拶はされる。だが続かない。
口元は笑っていても、目は笑わない。距離を測るように一歩引く。
彼の背中を、視線だけが追ってくる。
――あの女さえいれば。
(エミーリア……)
名前を思い浮かべただけで、胸の奥が苛立ちに染まった。
そんなところへ。
ふいに、扇子を持った年長の侯爵夫人が近づいてきた。
逃げ道を塞ぐような位置に立ち、にこやかに言う。
「ごきげんよう、アルベルト殿。最近、お顔色が優れませんわね」
「ご心配には及びません、奥方。少々忙しくしていただけです」
「そう……それは何より」
夫人は一拍置き、扇子の陰でほんの少しだけ声を落とした。
「――そういえば、ビヨンド伯爵領で」
その言葉だけで、アルベルトの腹の底が冷えた。
「……何のことですか」
夫人はとても上品に微笑み、しかし逃がさない。
「女性に手を上げかけたとか。社交の場で、客人に」
周囲の会話が、すっと薄くなる。
誰もこちらを見ていないふりをしているのに、耳だけが集まってくる。
「誤解です」
アルベルトは即座に言った。声が少し大きかった。
「誤解だと仰るなら、よろしいのですけれど」
夫人は首を傾げる。
「けれど、ビヨンド伯爵自らが『招いていない客』だと仰ったと聞きましたわ。……あちらの伯爵は、嘘をつく方ではありませんものね」
「……」
言い返せない。言い返せば、さらに噂が燃える。
アルベルトの口元の笑みが、ひくりと痙攣した。
夫人は扇子を畳み、軽く一礼する。
「誤解なら結構ですわ。ねえ、皆様」
その一言で、周囲が一斉に取り繕う笑いを作った。
ああ、と頷く者、困った顔をする者、話題を変えようとする者。
誰もが、アルベルトを面倒なものとして扱っている。
アルベルトは、胸の奥の熱が爆ぜそうになるのを必死で押さえた。
そのときだった。
広間の中央寄りで、小さな演出が始まった。今夜の主催が、場を和ませるために用意したものだ。
若い令嬢が、指先で小さな光を灯し、別の者が風を呼び、燭台の炎を一瞬だけ揺らす。
精霊魔法による「ささやかな披露」だ。
社交の場でよくある、遊びのような行いだ。
「まあ、綺麗」
「可愛らしいこと」
笑い声が戻る。空気が少し軽くなる。
アルベルトも、ここで流れを変えようとした。
公爵家の次男として、格を示すのは容易い――本来なら。
アルベルトは杯を置き、指先を軽く鳴らした。
土の精霊に、ほんの小さな動きを。
床の端に置かれた花器の足元を安定させる程度でいい。
誰もが「さすが」と言う、些細な技。
……だが。
何も起きなかった。
花器はそのまま。精霊の気配が、薄い。
呼んでいるのに、反応が返らない。
まるで、手のひらが空を掴んでいるみたいに。
アルベルトの指先が、僅かに震えた。
(……もう、これほど弱くなって)
もう一度、呼ぶ。今度は強く。
けれど、返ってくるのは沈黙だけだった。
その沈黙が、周囲にも伝わるのは早い。
隣にいた令息が、目を瞬いた。
「……?」
別の者が、気づかないふりをするように視線を逸らす。
だが逸らし方が露骨だ。
そして、誰かがぽつりと言った。
「精霊が、応えていない?」
その言葉は小さいのに、妙に響いた。
夫人が扇子の陰で囁く。
「弱っている、という噂は……」
「噂、ではないのかもしれないわね」
アルベルトの背中を冷たい汗が伝う。
弱っている――ではない。
失われつつあるのでは?
その確信が、周囲の目に宿る。
さっきまで避けるだけだった視線が、今は「品定め」に変わっている。
価値が落ちたものを見る目、危ういものを見る目。
「……少し、調子が悪いだけだ」
言い訳が、自分の耳にも安っぽい。
誰かが言った。
「三日も前は元気だったとか聞きましたけど」
「精霊魔法は体調で左右されるものでは?」
アルベルトの胸の奥で、怒りがどす黒く膨らむ。
(くそ……っ)
誰のせいだ。
(――あいつだ)
あの女がいないから。あの女が、俺のものにならないから。
そうだ。全部、エミーリアのせいだ。俺を選ばないからだ。
そう思わないと、崩れる。
自分が劣っていると認めることになる。それだけは耐えられない。
アルベルトは杯を乱暴に掴み、喉へ流し込んだ。
酒の熱さが、焦りを消してくれない。むしろ焼けるだけだった。
――そして、同じ頃。
ブライトン伯爵家の屋敷では、別の沈黙が重く落ちていた。
書斎の机の上には書類の山。
封蝋の刻印が、見慣れないものに変わっている。
伯爵領の「管理補佐」を名目に派遣される監督官の通知。
穀物管理、財務、交易――領の要が、他領の手で「支える」形になるという文言が並んでいた。
伯爵は紙を握り潰しそうになり、机を叩いた。
「ふざけるな……! うちの領のことに、他所が口を出すだと!?」
夫人は扇子も持てず、指先を震わせていた。
「でも……でも、もう……滞っているのは事実ですもの……」
言い訳にすらならない言葉が、室内に落ちる。
穀物の保管は乱れ、火の管理は不安定で、冬支度の段取りが鈍った。
今までなら、精霊魔法で整えられていたものが、整わない。
人手を増やせば金が出る。金が出れば財務が傾く。
傾けば、さらに他所が介入してくる。
悪循環だった。
リディアは椅子の端に座り、爪を噛んでいた。
唇が乾く、胸の奥が空洞みたいだ。
「……やらないと、できないと……」
彼女は、かすれた声で言った。
光の精霊、灯せ。せめて……小さな光だけでも。
リディアは両手を組み、祈るように目を閉じた。
けれど――何も起きない。
指先は暗いまま。呼んでいるのに、返ってこない。
「……っ」
息が詰まる。焦ってもう一度。強く。もっと強く。
光よ、来い。来い――沈黙。
伯爵も、火を呼ぼうとした。
掌をかざす。暖炉の灰に、ほんの小さな火種を戻す。
昔は、目を閉じてもできた。
だが、灰は灰のままだった。
伯爵夫人も水を呼ぶ。
返事はない。
失敗が重なり、書斎に漂う空気が変わる。
――もう、精霊が応えない。
伯爵が、唇を震わせた。
「……まさか、本当に……」
夫人が首を振る。泣きそうな目で。
「違うわ……そんなはず……」
リディアはおかしくなり、笑おうとした。
けれど頬が引き攣るだけだった。
机の上の通知が、目に刺さる。
穀物管理、財務は共同管理。
つまり、実権を奪われる。
伯爵家は署名をするだけの存在になる。形だけの領主。中身のない椅子。
そして、それ以上に。
精霊魔法が沈黙した。
失ったのは、権威だけではなかった。
伯爵家が、音もなく崩れていく。
リディアは、喉の奥から絞り出すように呟いた。
「どうして、こんなことに……」
答えは返らない。
ただ、沈黙だけがそこにあった。
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