第26話 元婚約者への言葉
「久しぶりだな、エミーリア」
低く、親しげな声。
その呼び方だけで、胸の奥が冷えた。
手首を掴まれたまま、私は息を呑む。
引きはがせばいいのに、身体が一瞬だけ固まって動かない。
(……どうして、ここに)
アルベルト様は以前よりやつれて見えた。
頬がこけ、目の下に影が落ちている。
けれど作り笑いだけは器用に貼りつけていた。
「アルベルト様、どうして……」
出た声は、情けないほど小さかった。
「驚くな。探せば居場所くらいわかる」
彼は私の手首を離さないまま、顔を近づける。
「ほら、こうして会えた。なら話は早いだろ」
「……話、ですか」
「決まってる。戻ってこい」
命令だった。
私の答えを待つ言い方ではなく、最初から「そうなる」というような決めている声。
「戻って……?」
私は一度、喉の奥で息を止めた。
ここはビヨンド伯爵領の社交会。
私はヴァルター辺境伯夫人として来ている。
なのにこの人は、まるでブライトン伯爵家の廊下で、私を呼びつけるみたいに言う。
「お前は俺のところに戻るべきだ。そうすれば全部元通りだ」
「……何が、元通り、ですか」
「お前もわかってるだろ」
アルベルト様は、独り言みたいに言葉を並べ始めた。
それがいちばん怖かった。
私の返事なんて要らないみたいに、勝手に形を作っていく。
「お前は俺のことが好きだった。そうだろう?」
「っ……」
笑っているのに、目が笑っていない。
私の沈黙を、勝手に肯定に変えていく目。
「戻りたいはずだ。辺境伯領なんて死地だぞ」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かがぱちんと弾けた。
(……死地?)
確かに厳しい場所だ。魔物もいる。
でも、あそこには秩序があって、誠実な人たちがいて、何より――私の居場所がある。
それを死地とひとまとめにして、見下す。
自分が優位でいられる言葉を選んで、私を引き戻そうとする。
怖さより、悔しさが湧いた。
「……そんなことはありません」
声が自分でも驚くほどはっきり出た。
アルベルト様が一瞬、瞬きをする。
「は?」
「ヴァルター辺境伯領は、とても住みやすい素敵な場所です」
言ってから、心臓がどくどく鳴った。
でも止めない。ここで引いたら、また昔の私に戻る。
「……お前、何を言って」
「私は、辺境伯領で暮らすのが嫌だと思ったことはありません」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
言い切ると、アルベルト様の口元が歪む。
「お前は、王都寄りの伯爵家にいた。安全で、豊かな土地で――」
「豊かでしたか?」
言葉が先に出た。
問い返した自分に少し驚く。でも、止まらない。
「私はあの家で、豊かだと思ったことはありません」
「……っ」
アルベルト様の眉が跳ねた。
面倒くさそうに、苛立ちを隠さない目になる。
「お前、俺に逆らうつもりか」
「逆らう、ではありません」
私は一度だけ息を吸って、まっすぐ言った。
「私は、あなたのもとへ戻りたいと思ったことは一度もありません」
回廊の空気が、さらに冷えた。
アルベルト様は、ほんの一拍だけ固まってから、声を荒げる。
「……なんでだ」
「……」
「なんで、そんなことが言える」
それは、彼の中ではありえないのだろう。
私が自分の意志で選ぶことが。
「お前は俺のことが好きだっただろ!」
叫ぶような声。
違う、と言ったのに聞いていない。
(……婚約を申し込んできたのは、そっちなのに)
私に拒否権なんて与えなかった。
アルベルト様が私を味方だと思い、勝手に申し込んできた。
それを両親が嬉しがって勝手に婚約したのだ。
私はただ、頷かされていただけだ。
「好きだったことは、ありません」
落ち着いた声で言えたのが、自分でも不思議だった。
「一度も、です」
アルベルト様の顔が、わずかに引きつる。
口が開いて、閉じる。
その沈黙のあとに来たのは――怒りだった。
「この……っ」
手首を掴む力が強くなる……痛い。
「舐めやがって……!」
アルベルト様は私を睨みつけ、吐き捨てる。
「加護無しが!」
その言葉に、背中がぞくりとした。
昔なら、そこで縮こまっていた。
でも今は違う。
私は、手首の痛みに唇を噛みながら、それでも目を逸らさなかった。
「……私は、ヴァルター辺境伯夫人です」
「うるさい!」
アルベルト様が声を荒げ、腕を振り上げる。
殴るつもりだと、身体が理解した瞬間――。
ぱし、と乾いた音。
振り下ろされるはずだった手が、途中で止まった。
止められている。
「――俺の妻に触れるな」
低い声。
聞き慣れた、落ち着いた声。
ルシアン様が、そこにいた。
アルベルト様の手首を掴み、動きを完全に封じている。
「な……っ」
アルベルト様が顔を歪める。
ルシアン様の指が、ゆっくりと締まっていくのが見えた。
「ぐ……っ」
骨が軋むような音が鳴った。
折れる寸前のところで止めているのだろうか。
「は、離せ!」
ルシアン様が手を放すと、アルベルト様はよろけて一歩下がった。
痛みに耐えている顔のまま、こちらを睨みつける。
「ヴァルター辺境伯……!」
「アルベルト・カーヴェル。お前の勝手は通らない」
ルシアン様が言い切った、その直後。
「その通りです」
穏やかな、しかし硬い声が挟まった。
回廊の向こうから、ビヨンド伯爵が歩いてくる。
表情は温和なままなのに、視線だけが冷たい。
「あなたは招待しておりませんよ、アルベルト殿」
「……っ」
「社交会の場で、客人に手を上げようとするなど――ここでは許されません。お帰りください」
丁寧な言葉なのに、それは追放の宣告だった。
アルベルト様の肩が震える。
悔しさと恥が混じっているのがわかる。
「……覚えていろよ」
捨て台詞だけを落として、アルベルト様は踵を返した。
去り際まで、こちらを睨む。
でも、その足取りは逃げるように早かった。
足音が遠ざかり、回廊に静けさが戻る。
私は、息を吐いた。
気づかないうちに止めていたらしい、胸が痛い。
「……大丈夫か」
ルシアン様が私を見て言う。
その目が、いつもより心配そうに揺れている。
「はい、大丈夫です」
言いながら、手首をそっと撫でる。
掴まれた場所が、まだ熱い。
「助けてくださって……ありがとうございます」
「当然だ」
短く言ってから、ルシアン様は少しだけ目を伏せた。
「……だが」
それから私を見る。
「こちらこそ、ありがとう」
「……え?」
「辺境伯領を良い場所だと、はっきり言ってくれた」
胸の奥が、じん、と温かくなる。
さっきは必死で、ただ反射みたいに言い返しただけだったのに。
「俺は嬉しかったよ」
言葉が少ないのに、ちゃんと届く。
それが、ルシアン様の褒め言葉だ。
「私……怖かったです」
正直に言うと、喉が震えた。
「でも、言わなきゃって思いました。あの人に、勝手に決められるのが……嫌で」
ルシアン様が小さく頷く。
「ああ、立派だった」
たったそれだけで、胸がいっぱいになった。
私が、私の言葉で立てた。
夫人として、逃げなかった。
『えらい』
『つよい』
『にこにこ、して』
精霊たちの声が、ふわりと漂う。
泣きそうになって、私は慌てて瞬きをした。
ビヨンド伯爵が、咳払いをひとつして笑う。
「失礼。お二人とも、見事でしたよ」
「ご迷惑をおかけしました」
ルシアン様がそう言うと、伯爵は手を軽く振った。
「いいえ。むしろ、この場で止められてよかったです」
伯爵夫人も遅れて現れ、私を見る目を柔らかくする。
「エミーリア様、お顔が少し青いですわ。少しお水を?」
「……大丈夫です。ありがとうございます」
そう答えた私の手を、ルシアン様がそっと握った。
会場へ戻ろう、という合図みたいに。
私はその温もりに、もう一度息を整えた。
(……私は、ここにいる)
辺境伯夫人として。
ルシアン様の妻として。
握られた手に力を返すと、ルシアン様がほんの少しだけ口元を緩めた。
「戻ろう」
「はい」
回廊の先に、再び華やかな音楽が流れてくる。
けれど私はもう、さっきより怖くなかった。




