第25話 社交界と不穏な予感
父と母、リディアがやってきた日から数日後。
社交会当日の朝は、少しだけ空気が違って感じられた。
別邸の窓から差し込む光が柔らかくて、どこか落ち着かない。
(……今日は、社交会)
ベルタに身支度を整えてもらいながら、私は何度も鏡を見た。
淡い色のドレスは、城下町で選んだものだ。
派手すぎず、でも地味すぎない。
「とてもお似合いですよ、エミーリア様」
「……ありがとう」
そう返しながらも、胸の奥は少しだけそわそわしている。
社交会。
伯爵家にいた頃は、ほとんど縁のなかった場所。
(今は……違う)
扉をノックする音がして、振り返るとルシアン様が立っていた。
礼装に身を包んだ姿は、いつも以上に整って見える。
一瞬、言葉を失った。
「どうした?」
「い、いえ……」
見惚れていたなんて、言えるはずもない。
ルシアン様は小さく首を傾げ、それから静かに手を差し出した。
「行こう」
私はその手を取った。
指先が触れた瞬間、不思議と緊張が和らぐ。
馬車の中、会場が近づくにつれて心臓の音が早くなった。
それに気づいたのか、ルシアン様が低く言う。
「無理はしなくていい」
「はい」
「俺がいるから」
「……ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
社交会の会場は、想像以上に華やかだった。
天井の高い広間に、淡い光が満ちている。
磨かれた床、華やかな装い、交わされる笑顔。
久しぶりの空気に、胸の奥が少しだけ強張る。
けれど、隣を見ると、そこにルシアン様がいる。
「大丈夫か?」
「はい……思ったより、人が多いですね」
「この領は平和だからな。その分、集まりも賑やかだ」
静かな声に、自然と呼吸が整った。
私は、そっと腕に触れて歩調を合わせる。
会場を進むにつれて、いくつもの視線が向けられた。
好奇心、探るような目、そして――ほんの僅かな侮り。
(……加護なし、だから)
噂は、きっともう広まっている。
それでも、ルシアン様は気にした様子もなく、挨拶を受けていく。
「ヴァルター辺境伯閣下、ようこそお越しくださいました」
声をかけてきたのは、ビヨンド伯爵だった。
穏やかな顔立ちで、柔らかく微笑んでいる。
「招待に感謝する。こちらは妻のエミーリアだ」
「初めまして、エミーリア・ヴァルターです」
「まあ……お若いのに、落ち着いていらっしゃいますね」
伯爵夫人も、にこやかに言葉を添える。
その視線に、探る色はない。
「道中はいかがでした?」
「問題ありませんでした。領境を越えるあたりで、景色が随分変わりましたね」
「でしょう? この辺りは交易も盛んですから」
自然な会話が続く。
周囲の緊張が、少しずつ和らいでいくのがわかった。
「そういえば、最近よく耳にしますよ」
伯爵が、ふと思い出したように言った。
「辺境伯領の農作物、収穫量が増えたそうですね」
一瞬、周囲の視線が集まる。
試すような空気。
「ええ」
ルシアン様は、いつも通り淡々と答えた。
「昨年より安定しています」
「厳しい土地と聞いていましたが……不思議なこともあるものですな」
含みのある言い方だった。
それでも、ルシアン様は少しも表情を変えない。
「俺にも理由ははっきりとはわかりません」
そこで、ほんの一瞬だけ、私の方を見る。
「……強いて言えば」
そして、静かに続けた。
「愛する妻ができたお陰かもしれませんね」
「――っ」
思わず、足が止まりそうになった。
胸の奥が、熱くなる。
「まあ」
「素敵ですわ」
伯爵夫人がくすりと笑い、周囲からも柔らかな空気が広がる。
「辺境伯閣下、ずいぶん幸せそうだ」
「奥様もとても大切にされているのですね」
「……っ」
私は恥ずかしくて視線を落とした。
頬が熱い。
「ル、ルシアン様……」
「事実だろう」
短い言葉。
事実というのは、どのことだろう?
私が来たから、精霊の加護の力が領全体で強まって収穫量が上がったこと?
それとも、愛する妻ができたってこと?
『にこ』
『よかった』
『あいしてる』
精霊たちの気配が、ふわりと揺れた気がした。
恥ずかしいけど逃げるわけにはいかず、私は愛想笑いをしていた。
絶対に顔が赤いけど……。
その後も、何人かの貴族と会話を交わした。
最初は距離を測るようだった視線も、次第に柔らいでいく。
「辺境伯夫人、ご無理はなさらず」
「いえ。こういう場も、大切だとわかっていますから」
「頼もしいですな」
その言葉に、少しだけ背筋が伸びた。
しばらくして、少しだけ疲れを感じた。
それに気づいたのか、ビヨンド伯爵夫人が声をかけてくれる。
「少し外の空気を吸われては?」
「……ありがとうございます」
「付いていこう」
「いえ、私は大丈夫なので、ルシアン様はそのままで」
私は会場を抜け、回廊へ出た。
音楽が遠くなり、静けさが戻る。
(……ちゃんと、できた)
胸に、少しだけ誇らしさが芽生える。
しばらく休憩して、ルシアン様の隣へ戻ろう――そう思って歩き出した、そのとき。
手首を、掴まれた。
「……っ」
振り返る。
そこにいたのは――アルベルト様だった。
以前よりやつれている。
目には焦りが滲み、けれど作り笑いは貼り付いている。
「久しぶりだな、エミーリア」
低く、親しげな声。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
(……どうして、ここに)
その問いが浮かんだまま、言葉にならない。
――不穏な予感だけが、静かに広がっていった。




