第2話 精霊が見える
窓辺に浮かぶ小さな光――精霊たちが、ふわふわと揺れている。
『エミーリア、あしたも、だいじょうぶ』
『だいじょうぶ、だいじょうぶ』
『ねむい?』
「……眠いわ」
私がそう言うと、光は嬉しそうに揺れた。
まるで「じゃあ、ねよう」と言っているみたいに。
擦れた毛布の感触は頼りないのに、彼らの声があるだけで、胸の奥が温かくなる。
――六歳の頃。
私が「加護なし」だとわかったのも、それくらいの年だった。
けれど、あの頃の私にとって一番奇妙だったのは、加護がないことよりも先に――『光が見え始めた』ことだった。
最初は、何だかわからなかった。
ただ、部屋の隅に。庭の木陰に。台所の水桶の上に。
小さな光が浮かんで、ふよふよ動いている。
(ほこり? ……光?)
そんな、曖昧な感覚。
目をこすっても消えない。手を伸ばしても掴めない。
でも、逃げもしない。
くるくる回って、私を見ているみたいに揺れる。
学園の初等課程、精霊について教わった日だ。
先生が黒板に六つの紋を描き、火、水、風、土、光、闇――と順に説明した。
『精霊は、私たちに加護を授けます。加護を受けた者は魔法を使えます。生活の中の小さな魔法も、戦いの大きな魔法も、全て精霊の恩恵です』
その時、私は胸の奥がぞわりとした。
あの光は、これだ。
あれは――精霊だ。
そして、それに気づいてからの私は、ひどく子どもだった。
嬉しくて、嬉しくて仕方なかった。
家に帰るなり、私は父の袖を引っ張った。
「お父様、精霊がね、そこにいるの」
指をさした。父の隣、窓辺の空気。
そこには薄い青の光が、くるりと回って浮かんでいた。
父は、最初は笑った。
私の頭を撫でるようにして、いつもの調子で。
「そうか、エミーリア。想像力が豊かだな」
母も笑った。
笑ってはくれた。あの頃は。
「またおとぎ話? 可愛いことを言うのね」
妹のリディアは、私より小さかった。
母のドレスの裾を握って、私の指さす先をじっと見て――首を傾げる。
「なにもないよ?」
「いるの。ほら、光が……」
「ないよ。お姉さま、うそつき」
リディアの言葉に、私はむっとした。
だって本当に見えているのに。
「うそじゃない!」
「うそだもん」
その時、窓辺の光が、ぷるん、と震えた。
まるで「けんかしないで」と言うみたいに。
私は、そこに向かって小さく言った。
「ね、いるでしょう?」
――その瞬間。
父と母の笑いが、止まった。
彼らは、そのとき初めて気づいた。
自分が、ただの空想を話しているわけじゃないことを。
父は眉を寄せ、母は扇子で口元を隠した。
「……エミーリア?」
父の声が、少しだけ硬い。
「いま、誰に話しかけた?」
「精霊にだよ」
私が答えると、母の目が細くなる。
「……やめなさい。そんなこと」
「でも、本当に……」
「やめなさい」
母の声が、いつもより冷たかった。
その日から、私は何度も言った。
精霊がいる。ここにいる。喋れる。聞こえる。
子どもの私は、秘密にするということを知らなかったから。
けれど、言うほどに――家の空気は濁っていった。
「またそれ? 気持ち悪いわよ、お姉さま」
リディアはそう言って笑った。
そして、笑うだけでは済まなくなった。
「うそつき、うそつき」
子どもの悪意は、刃物みたいに鋭い。
妹のその言葉は、いつの間にか使用人たちにも伝わったようで。
「……お嬢様、また変なこと言って」
「加護もないのに、精霊が見えるなんて」
「嘘でしょう。そんなの」
父と母も、最初は「幼い空想」として扱っていたのだと思う。
けれど私がやめないから。
何度も何度も「いるの」と言うから。
やがて、母は私を見て眉をひそめるようになった。
「ねえ、あなた……本当に、やめてちょうだい。そんなこと、外で言ったら恥よ」
父も苛立ちを隠さなくなった。
「くだらない。精霊は感じるものだ。見えるだの喋れるだの、聞いたことがない」
それは、事実でもあった。
精霊魔法が強い人間が、時折「気配を感じる」と言うことはある。
けれど、それはたいてい比喩で、感覚で、曖昧なものだ。
見えるなんて、聞いたことがない。
喋れるなんて、聞いたことがない。
だから私の言葉は、嘘にしか聞こえなかったのだろう。
――ようやく、私はやめた。
精霊のことを、誰にも言わなくなった。
見えても、見えていないふり。
声が聞こえても、聞こえていないふり。
精霊たちは、最初は不思議そうに揺れていた。
『どうして、言わないの?』
『エミーリア、かなしい?』
「……秘密にするの。だって、みんな、嫌がるの」
私がそう言うと、光たちは少しだけ沈んだ。
でも、消えなかった。
『じゃあ、ぼくら、ここにいる』
『エミーリアの、となり』
『だいじょうぶ』
それから、私が成長するにつれて――見える精霊は、はっきりしていった。
輪郭が出て、色が濃くなって、揺れ方に癖があるのがわかった。
声も、最初は風鈴みたいにかすかだったのに、いつの間にか言葉として聞こえるようになった。
彼らは、優しい。
子どもみたいで、まっすぐで、嘘をつかない。
ある日, 私は訊ねたことがある。
「ねえ。どうして私には加護がないの?」
精霊たちは、いっせいに揺れた。
『エミーリア、いらない』
『エミーリアは、友達だから』
「友達……?」
その答えは、意味がわからなかった。
友達なら、加護をくれたらいいのに。
加護があれば、父や母も私を見下さないかもしれないのに。
「友達なら、加護をくれてもいいでしょう?」
そう言った私に、精霊は揺れて、揺れて――。
『うーん』
『ちがう』
『ちがう、ちがう』
『友達だから、いっしょ』
『あげる、じゃない』
あげる、じゃない。
その言い方に、胸がきゅっとした。
彼らにとって加護は『与えるもの』で、私は『与えられる側』ではないようだ。
でも、ひとつだけ、わかったことがある。
友達だからなのか――精霊たちは、私を虐める人がいると、怒る。
怒る、といっても、火花を散らすわけじゃない。
嵐を起こすわけでもない。
ただ、その人の加護を――弱める。
最初に気づいたのは、庭師だった。
彼は私に優しくはなかった。
私が通るとわざと肩をぶつけたり、花壇の水やりを押し付けたり。
「加護なしの癖に、伯爵家の娘面しやがって」
そう言った人だ。
その数日後、彼の土の精霊魔法がうまくいかなくなった。
土が固くならない。植物が根付かない。
彼は焦って、怒って――そして私を見た。
「お前のせいだろう!」
もちろん、私は何もしていない。
していないのに。
精霊たちは、私の肩のあたりでぷるぷる震えていた。
『やだった』
『いじわるした』
『やめて、って言ったのに』
次は、台所の女中。
私の皿をわざと割って、私に片付けさせた女だ。
私の手が切れて血が出ても「加護なしだから治癒もできないのね」と笑った女だ。
その女の火起こしが、突然できなくなった。
火の精霊魔法が出ない。
火種が湿っているわけでもないのに、火が灯らない。
「……どうして」
女が青い顔をしたとき、精霊は小さく弾んだ。
『いじわる、だめ』
『エミーリア、いたい』
『だから、やめる』
そして――学園の女生徒。
私は学園に通っていた。
私は社交界には出られなくても、最低限の学びだけは、と父が言ったから。
でも、学園にも居場所はなかった。
加護のある子たちは、魔法の授業で輝く。
私は何もできず、笑われる。
それでも、堪えていた。
耐えることには慣れていたから。
けれど、その女生徒は違った。
言葉だけじゃなく、手を出した。
「不吉な子がいると、空気が悪くなるのよ」
そう言って、私のノートを踏みつけた。
机を倒し、私の髪を引っ張った。
「精霊が見えるんでしょ? 嘘つきね、笑えるわ」
――その時からだった。
その子の魔法が、止まった。
授業で何ひとつ出せなくなった。
最初は「調子が悪い」と言っていた。
でも、翌日も、その翌日も、戻らない。
やがて、その子は完全に加護を失った。
精霊に見放されるのは、犯罪者や、人の道を踏み外した者だと教わった。
「どうして、私の加護が……!」
その子はショックを受けて、しばらくした後に退学した。
私の周りで、加護が弱くなる人がいる。
失う人がいる。
それは私のせいじゃない。
けれど――私が精霊と繋がっているせい、でもある。
遠回しには、私のせい。
(自業自得、なのかもしれない。でも……)
彼らが私を不吉と呼ぶのも、仕方がないのかもしれない。
――けれど。
精霊たちは、優しい。
『エミーリア、つらい?』
『いたい?』
『ここ、あたたかくする?』
「……大丈夫。ありがとう」
私は毛布に頬を埋めた。
精霊の光が、部屋を柔らかく照らす。
声が、子守歌みたいに重なる。
『ねむって』
『ねむって、ねむって』
『あした、いい』
私は息を吐き、目を閉じる。
冷えた石と古い木の匂いの中で、それでも心だけは温かいまま、眠りに落ちた。
翌日も、昨日と大きくは変わらなかった。
ただ、午後になって、屋敷の空気が少しだけ変わった。
玄関の方から、上品な馬車の音が聞こえたのだ。
なぜか胸が、嫌な予感でざわついた。
(来客? ……誰が?)
答えはすぐに出た。
台所から廊下に出たところで、女中長が私を呼び止めたからだ。
「エミーリア様。応接室へ。今すぐです」
「……私が?」
女中長は目を合わせない。
声だけが硬い。
「はい。伯爵様がお呼びです」
私は手を拭き、服の埃を払った。
鏡を見る時間なんてない。
髪は朝に編んだまま。指先は少し荒れている。
でも、呼ばれたのなら行くしかない。
応接室の前には、いつもより多くの使用人が立っていた。
扉の向こうから、父の声と、母の声、それから――リディアの弾んだ声が聞こえる。
「まあ、アルベルト様」
――アルベルト。
その名前を聞いた瞬間、心臓がひくりと跳ねた。
(……私の婚約者)
私は扉の前で一度息を吸って、ノックをした。
「エミーリアです。入ってもよろしいでしょうか」
「入れ」
父の声が短く響き、私は中に入る。
応接室の中央に座っていたのは――金髪碧眼の青年だった。
記憶より背が伸びている。肩幅もある。
整った顔立ち。きらきらした金の髪。青い瞳。
王都の貴族らしい華やかさを、そのまま形にしたみたいな人。
アルベルト・カーヴェル様。
纏う空気が、以前よりも冷たい。
そして、その隣で母が嬉しそうに微笑み、リディアが頬を染めているのが――嫌でも目に入る。
(……ああ)
何のために呼ばれたのか。
わかってしまう自分がいた。
私は礼をして、言葉を選んだ。
「お久しぶりでございます、アルベルト様」
彼は私を一瞥した。
瞳に映るのは、興味ではなく――確認。
「久しいな」
短い返事。
それだけで空気が冷える。
父が咳払いをし、母が扇子を揺らした。
「さて、エミーリア。座りなさい」
私は言われるまま、端の席に腰を下ろした。
テーブルの上の菓子は、私には遠い。
紅茶の湯気も、私の前にはない。
この部屋にいるのに、私は客ではない。
リディアが、私を見て小さく笑った。
勝ち誇った笑み。
アルベルト様は私ではなく、父と母に視線を向ける。
「単刀直入に言いましょう――エミーリアとの婚約破棄にきました」




