第19話 ルシアンの秘密も
「俺も話そうと思う」
ルシアンはそう言って、いったん息を吐いた。
隣のエミーリアは静かにこちらを見ている。
涙の跡はまだ薄く残っていて、けれど目は真っ直ぐだ。
その視線に、逃げる理由はない――と思うのに、喉が一瞬だけ詰まった。
(……言うなら、今だ)
言わなければならない。
彼女が秘密を差し出したのだ。
なら、自分も同じように差し出すべきだ。
「……俺も、小さい頃から加護がなかった」
エミーリアの肩が、ほんの僅かに揺れた。
驚きではなく、理解の揺れだ。
――辺境伯家の嫡男。
期待されるべき立場。
民を守るべき立場。
だが、加護がないとわかった瞬間、それは反転した。
期待は落胆に変わり、落胆は苛立ちに変わる。
次期当主として恥だという言葉が、屋敷の空気を支配した。
(あの目を、今でも覚えている)
憐れみとも蔑みともつかない視線。
期待と失望を混ぜた視線。
使用人たちでさえ、距離の取り方が変わった。
そして――父がいた。
ルシアンは一度、口を閉じた。
言葉を吐き出すのに、息が要る。
「……父は、俺を殴った」
エミーリアが息を呑む音が、わずかに聞こえた。
「加護無しで生まれやがって、と。……そういう言葉と一緒にだ」
土の精霊魔法で固められた掌が、頬を打つ感覚。
火ではなくてよかっただろう、熱で焼けることはなかったから。
残らなかったが――痛みの記憶は薄れない。
(火だったら、今でも傷跡が残っていたかもしれないな)
そんな仮定が、冷たく脳裏を掠めた。
「だが俺には味方が、一人だけいた」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ柔らかくなる。
母だ。
暴力のあと、母はいつも部屋に来た。
小さな身体で、震える息で、それでも強く抱きしめてくれた。
『ごめんなさい、ルシアン……ごめんなさいね』
『私が……加護ありで産んでさえあげれば……』
あの言葉は、幼いルシアンには意味が全部はわからなかった。
ただ、母が泣いているのが苦しかった。
「母は……俺に謝っていた。自分を責めていた」
ルシアンは笑うでもなく、淡々と続ける。
「だが、母は俺を愛していた。……それだけで、十分だった」
ルシアンは、そこで一度目を伏せた。
「……母は身体が弱かった。世継ぎも、俺しか産めなかった」
その事実が、屋敷の空気をさらに歪めた。
父の苛立ちは増した。
もう一人を求める声が、夜の廊下に落ちた。
ルシアンは言葉を選ばない。
選ぶほど綺麗な話ではない。
父は母に無体を働いた。
世継ぎが欲しいと願って。
「母の寿命は、それで縮んだ。……俺が十歳のとき、母は死んだ」
(あのとき、俺は父を殺したいと思った)
幼い憎しみ。
だが、それは形にならなかった。
ルシアンは、喉の奥を鳴らして続ける。
「父を恨んだ……今でも恨んでいる」
ただし――それ以上に、自分自身も恨みたかった。
加護がないことを恨めば、少し楽になる気がした。
だが、それをすれば母の謝罪を肯定してしまう。
(母の『加護無しで産んでごめん』を、正しいことにしたくなかった)
ルシアンは静かに言った。
「俺は……加護無しを恨まないことにした。恨めば、母の言葉を肯定することになるからだ」
エミーリアの瞳が、少し潤んだ。
彼女は唇を開きかけ、でも言葉にならない。
ルシアンはそのまま続けた。
「だから、加護無しでも誇れる人間になろうと思った」
十歳から先の記憶は、血の味がする。
鍛錬、鍛錬、鍛錬……。
寝る間際まで、頭を使い、身体を使った。
その途中で気づいた。
自分は、人より身体が動くし、覚えが早い。
骨格が、筋肉が、反応が――何かが違う。
(……最初は、嬉しかった。優秀だと言われることが多くなって)
だが、すぐに言われる。
『これで精霊の加護があればな』
その言葉を、何度聞いたかわからない。
評価のようで、呪いだった。
ルシアンは苦く息を吐く。
「当主になってからも、同じだ。加護がないなら、戦場に出るしかないと思っている」
守るべき領地、守るべき民。
それを加護無しであることを理由に投げるわけにはいかなかった。
(剣術と軍略と知恵で、守り抜く。そう決めた)
――父は、ルシアンが二十歳のときに戦場で死んだ。
不意を突かれた、とだけ聞いた。
死体を確認したとき、胸は乱れなかった。
ルシアンは目を伏せ、静かに言う。
「父が死んでも、心は乱されなかった。……母に謝ってほしいとは思ったが」
そして当主になり、五年が経った。
婚姻の話は何度も持ち込まれたが――まともに進まなかった。
「加護無しの男に嫁ぎたい令嬢は、いない」
言い切ると、エミーリアが小さく息を呑む。
その反応が、痛い。
彼女も同じことを味わってきたのだろう。
ルシアンは続ける。
「そんなときに……ブライトン伯爵家から話が来た。『加護無しの令嬢が一人いるが、いらないか』というような話だ」
その言い方は、今でも胸の奥にひっかかっている。
人を物のように扱う言葉。
(だが、俺は――)
王都に近い場所で、加護無しとして生きる。
辺境よりも視線が濃い場所で。
どれだけ息が詰まるかは、自分も差別されてきたから想像できた。
(政略結婚だ。……だが、辺境伯家に来た以上は、守ろうと思った)
それは当時、義務に近かったはずだ。
けれど――今は違う。
ルシアンは、そこまで話してようやくエミーリアを見た。
彼女は静かに聞いていた。
手はまだ膝の上で握られているが、視線は逸れていない。
ルシアンの喉の奥に、ほんの僅かな不安が浮かぶ。
「……失望したか?」
思わず、問いが漏れた。
自分の過去。
父が死んでも心などまるで動かなかったこと。
ただ母親の言葉を否定するために、やってきたこと。
同情から始まった婚約。
そんなものを聞かされて、嫌悪されても不思議ではない――と、どこかで思っている。
だが、エミーリアは即座に首を振った。
「そんなこと、ないです!」
声が強い。
涙の跡の残る顔で、真っ直ぐに言う。
「ルシアン様は……とても優しいです」
エミーリアは息を吸い、言葉を繋いだ。
「お母様のために努力して、辺境伯領を守ってきたルシアン様を……失望するなんて、ありえないです」
彼女の瞳には、迷いがない。
「ルシアン様は、とても素晴らしい人です」
その言葉が胸に落ちた瞬間、ルシアンは――救われる感覚を覚えた。
今さら何を、と自分でも思う。
五年間、当主をやってきた。
賞賛も忠誠も受けてきた。
だが、今の言葉は質が違う。
(……否定されなかった)
加護無しであることも。
弱さも、歪な過去も。
ルシアンは、口元に小さく笑みを作った。
自分でも驚くほど自然に。
「……ありがとう」
短く言うと、エミーリアも小さく笑う。
「こちらこそ……私の話を信じてくれて、ありがとうございます」
その笑みが、柔らかい。
愛らしい。
胸の奥が、じん、と温かくなる。
(……最初は、同情だったかもしれない)
守るべきだと思った。
同じ加護無しとして、放っておけなかった。
けれど今は――。
(かけがえのない幸運だ)
彼女が隣にいて、精霊の話をして、泣いて笑って。
それが当たり前になっている。
それがどれほど異常で、どれほど大切か。
ルシアンは、息を整える。
言葉にするなら今だ。
「エミーリア」
名を呼ぶと、彼女の肩が僅かに揺れる。
目がこちらを向く。
ルシアンははっきり告げた。
「君が好きだ」
胸の奥が、静かに熱くなるのを感じながら。




