第17話 秘密を打ち明けて
城壁での出来事から、数日が経った。
日常は、すぐに戻ってくる。
それなのに――あの日だけは、頭の奥に残って離れなかった。
(デート、楽しかったのに)
城下町の空気、個室の料理。
私が嬉しそうに笑うたび、彼の口元がわずかに緩むのが、胸をくすぐった。
あれは確かに、楽しかった。
でも、その後。
城壁の外で見た魔物と、兵士たちの戦いが、どうしても強く残った。
狼の魔物が地を蹴って跳ぶたび、喉が冷えた。
一つ目の巨人が棍棒を振り上げた瞬間、思わず息を止めた。
ぶつかる金属音、叫び声、血の匂い。
(怖かった)
私は城壁の上で、ただ立っていただけだった。
足がすくんで動けなかったのも事実だ。
それでも、ルシアン様は前に出た。
精霊魔法が使えないのに。
盾も、癒しも、風で動きを止めることもできないのに。
ただ剣だけで、身体一つで。
前線に立ち、狼の群れを引き受けて――次々と倒していった。
(……かっこよかった)
軽率な言葉に聞こえるかもしれない。
でも、あれは本当に――美しかった。
命のやり取りの中で、無駄がなくて、ブレがなくて。
そして、兵士たちを守ろうとする背中が、逞しく大きかった。
私は見ていることしかできなかった。
……違う。
正確に言えば、見ていることしかできないと思い込んでいた。
巨人が逃げたとき。
負傷者のいる方向へ、棍棒を引きずりながら向かったとき。
ルシアン様がその前に飛び込み、剣で受け止めたとき。
私は祈った。
祈るように、精霊たちに頼んだ。
(お願い……助けて)
誰かの力になって、あの人たちを守って。
ルシアン様を――。
声には出さなかった。
胸の中で、必死に願っただけだ。
そうしたら。
兵士たちの精霊魔法が、急に強くなった。
治癒の傷が塞がった。
兵士たちは騒いでいた。
「さっきの、なんだ?」
「治癒の効きが……!」
「風が、いつもより速い!」
誰も、私の方なんて見ていなかった。
誰も、私が精霊に頼んだなんて思っていなかった。
(……バレていない)
だから――この話は、胸の奥にしまっておけばいい。
そう結論づけたはずだった。
けれど、数日経っても。
胸の中に残ったものは、消えなかった。
夜、寝室に戻り、一人でいる時間。
(本当に、これでいいの?)
あの日、精霊たちは確かに動いた。
私の願いに応えてくれた。
それは――辺境伯領に来てから初めて知ったことだった。
私はずっと、精霊が見える、話せる。友達だった。
そういう自分だけの事実を抱えて生きてきた。
でも、精霊に「誰かの力になって」と頼むことは、伯爵家にいる頃、一度もなかった。
(だって……)
父も、母も、リディアも。
私を使用人みたいに扱っていた人たちを、助けたいと思ったことはない。
私があの家で受け取ったものは、愛ではなく、蔑みと恐怖だった。
だから私は、精霊たちに頼んだことはなかった。
でも、そういえば……アルベルト様のことは少し、祈ったかもしれない。
小さい頃――まだ、私が家族の一員だった頃。
庭で、婚約者だったアルベルト様が、精霊魔法の練習をしていた。
同じ年頃で、背も小さくて、必死に手を伸ばしていた。
『うまくいかない……』
その声が、今でも少しだけ残っている。
(あの時)
私は思ったのだ、助けたいと。
せめて、笑われないようにしてあげたいと。
それからアルベルト様は精霊魔法が上手くいくようになったと、明るい顔で話していたのを覚えている。
もしかしたら、アルベルト様の魔法はそれで強くなっていたのだろうか。
そんなこと、今となってはわからない。
考えても、答えはでない。
今はそこに悩んでいるのではなく……今後についてだ。
私はこの家の夫人だ。
ヴァルター辺境伯領の中に、私の居場所がある。
役に立ちたいと思える場所がある。
守りたいと思える人がいる。
(この力があるなら)
使った方がいいんじゃないか。
隠しておくより、必要な時に役立てた方がいい。
そう思うのに――。
怖さが、足を止める。
(信じてもらえなかったら、どうしよう)
小さい頃。
精霊が見える、と言った。
精霊が話しかけてくる、と言った。
友達だ、と言った。
返ってきたのは、笑いだった。
ため息だった。
「そんな妄想を言うな」
「恥ずかしい子」
「不吉だ」
その記憶が、喉の奥に貼り付いている。
言葉にしようとすると、引っかかって出てこない。
この力は有用だ。
兵士も、作物も、治癒も――すべてに関わる。
もし本当に私のお願いで変わるなら、私はこの領地にとって――。
(でも……)
言えない、怖い。
あと一歩が、出ない。
そのとき。
――コンコン。
寝室の扉が、控えめに叩かれた。
私はびくっと肩を揺らし、思わず息を止めた。
(……もうこんな時間だ)
もう、当たり前になってきている。
結婚式のあとから、ルシアン様は毎晩、この部屋に来る。
一緒に寝るのが、普通になっている。
「……はい」
返事をすると、扉が開いた。
ルシアン様が入ってくる。
その姿を見るだけで、胸の奥が落ち着くのがわかる。
「エミーリア、軽くお茶でもしようか」
「はい」
彼はテーブルに小さな盆を置いた。
湯気の立つ茶と、薄い菓子。
いつもの、寝る前の時間。
ソファに並んで座る。
お茶を一口飲むと、香りが喉を通る。
私はようやく、肩の力が少し抜けた。
雑談をして、眠る前に軽くキスをする。
それがこの一週間の当たり前になっている。
今日は――私は雑談がうまくできない。
ルシアン様は少しだけ私を見てから、静かに言った。
「……何か、悩み事か」
その声は淡々としているのに、問いの形が優しい。
責めるでもなく、追い詰めるでもなく、ただ気づいている声だった。
私は喉を鳴らし、微かに首を振った。
「い、いえ……」
言いかけて、止まる。
今日の執務中も。
書類の束を前にしても、私はどこか上の空だった。
気づかれないと思っていたのに、気づかれていた。
「……申し訳ありません」
そう言うと、ルシアン様は眉を動かし、短く息を吐いた。
「謝る必要はない」
そして、続ける。
「大丈夫だ。……相談したいなら、言ってくれ。力になる」
頼ってもいい、と言ってくれているのがわかる。
短い言葉なのに、胸の奥が熱くなる。
(嬉しい)
信じてもらえるかもしれない、と思ってしまう。
でも同時に、怖くもなる。
(言う? 言わない?)
言えば、何かが変わる。
良い方向に変わるかもしれない。
でも、もし――。
そのとき、視界の端で光が揺れた。
精霊たち。
小さな光の球が、ふわふわと私の肩のあたりで踊っている。
『いって、いい』
『だいじょうぶ』
『このひと、やさしい』
『エミーリア、こわい?』
私は小さく瞬きをした。
(……優しいのは、知ってる)
ルシアン様は私を笑ったことがない。
私が怯えたとき、怒らなかった。
私が間違えたときも、否定しなかった。
それでも怖いのは、過去が根深いからだ。
『いま』
『いま、いう』
精霊たちの声が、背中を押す。
私は胸の奥に溜めていた息を、ゆっくり吐いた。
そして、顔を上げる。
ルシアン様の灰色の瞳が、こちらを見ている。
いつも通り静かで、綺麗な目。
私は唇を開いた。
「ルシアン様……お話があります」
声が少し震えた。
でも、止めない。
「信じられないことかもしれませんが――」
怖い。
それでも、言いたい。
この人にだけは、知ってほしい。
精霊たちが、ふわりと光った。
私は、はっきりと言った。
「私には、精霊が見えるんです」




