第16話 伯爵家の衰退と、妹と元婚約者の失態
エミーリアがブライトン伯爵家を出てから、二カ月以上が経った。
屋敷の中は、相変わらず整っているように見える。
――表面だけは。
父の火は戻らない。
母の水も、以前のように滑らかに動かない。
リディアの光も、かつての眩しさを取り戻せないままだった。
それだけでは終わらなかった。
使用人たちの精霊魔法まで、少しずつ鈍くなっていった。
廊下で、風の精霊魔法を使って掃除をしていた女中が、箒を止める。
風が、いつもより細い。
埃を巻き上げて運ぶはずの流れが、途中で途切れる。
「……また、弱い」
女中が小さく呟く。
隣にいた若い使用人が、顔色を変えて周囲を見た。
「声が大きいわよ」
「だって……このままだったら、消えちゃうって……」
消える。
加護が薄れ、魔法が使えなくなる。
そんな話を、誰もが冗談として口にしていた頃があった。
今は違う、冗談にできない。
厨房では、火の精霊魔法で煮炊きをしていた料理人が、何度も指を鳴らしている。
ぱち、ぱち、と弱い火花が散るだけで、炎が安定しない。
「……勘弁してくれよ」
料理人は額に汗を浮かべ、薪を足す。
薪など本来いらなかった。
伯爵家の台所は精霊魔法で回っていた。
洗濯場でも同じだ。
水がまとまらない、風で乾かない。
小さな不具合が、積もっていく。
積もった末に、人が減った。
「――私、辞めます」
ある日、年嵩の侍女が頭を下げた。
伯爵夫人の前で、震える声で。
「加護が薄れていくのが、怖いんです。まだ……まだ、消えたくない」
伯爵夫人は扇子で口元を隠し、冷たく言った。
「勝手にしなさい」
けれど、その扇子の裏で目が揺れているのを、侍女は見た。
見てしまった。
辞めた者は一人ではない。
噂は使用人の間で広がる。
この屋敷に長くいれば、いずれ自分も――。
「くそっ!!」
伯爵は苛立ち、怒鳴り、机を叩いた。
だが、叩いたところで火は戻らない。
そして、焦りだけが増えていく。
――その頃、王都。
夜の社交界は相変わらず華やかだった。
音楽が流れ、香りが漂い、若い貴族たちの笑い声が高い天井へ吸い込まれていく。
その中心に、リディア・ブライトンはいた。
淡い色のドレスをまとい、髪を丁寧に結い上げている。
光の加護を持つ令嬢として――本来なら、そこに立つことが当然のはずだった。
隣には婚約者。
カーヴェル公爵家の次男、アルベルト。
彼は整った顔立ちで、周囲の視線を集めることにも慣れている。
「リディア、楽しんでいるか?」
アルベルトがそう問うと、リディアは頬を少し上げる。
「ええ。……当然ですわ」
当然、という言葉に嘘はないはずだが……。
今夜は魔法学園に通う生徒たちも多い。
同じ年頃の令嬢、令息が集まる場だ。
リディアは、アルベルトを婚約者として連れている。
それだけで目立つ。
それが、甘い快感だった。
(見て、私が誰と並んでいるか)
視線が集まるたび、胸が満たされる。
――それがなければ、保てない何かがある。
アルベルトも、リディアの気持ちに応えるように振る舞った。
少しだけ優しく、少しだけ誇らしげに、婚約者の肩書きを見せつけるように。
二人は今日の社交界の的だった。
――そこへ、同じ学年の令嬢たちが近づいてくる。
数人で、揃った笑みを浮かべて。
「リディア様、ごきげんよう」
「今夜は一段とお美しいですわね」
「カーヴェル公爵家次男のアルベルト様までご一緒だなんて……羨ましいですわ」
褒め言葉に見える。
だが、言葉の端が少しだけ尖っている。
妬みが入っている。
リディアはにこやかに返した。
「ありがとう。あなたたちも素敵よ」
笑って言う。
だが令嬢の一人が、唐突に話題を変えた。
「そういえば……最近、リディアさんを授業であまり見かけなくなって。心配でしたの」
リディアの背筋が、僅かに硬くなる。
アルベルトが眉を上げた。
「そうなのか? 体調でも崩していたのか?」
その問いかけに、リディアは一瞬言葉に詰まる。
「……はい、今は大丈夫です」
令嬢たちは、ふっと目を細めた。
「まあ……」
別の令嬢が、心配するような声を作った。
「リディア様、あの……失礼ですけれど。最近、少し噂があるのをご存じですか?」
噂――その単語が出た瞬間、リディアの心臓が一つ跳ねた。
「噂?」
「ええ……」
令嬢は扇子で口元を隠し、声を落とす。
けれど、周囲に聞こえる程度。
「リディア様は……精霊魔法が使えなくなっているのでは、と囁かれておりますの。本当なのでしょうか?」
薄ら笑い。
心配の仮面を被った、愉悦の目。
リディアは息を止めた。
隣のアルベルトも、僅かに肩を強張らせた。
(――やっぱり、広がってる)
リディアが気づかないふりをしてきた噂は、すでに社交界まで染み出している。
そしてアルベルト自身も、精霊魔法が上手く扱えなくなっている。
その事実が、アルベルトの胸を冷やした。
リディアは笑みを崩さず、少し強い声で言った。
「そ、そんなわけないでしょう?」
令嬢たちが顔を見合わせ、ひとりが首を傾げる。
「でしたら……今、少しやってみては?」
「え?」
「あなたは光の加護。癒しの光を出す程度なら、問題ないはずですもの」
周囲の空気が、ざわ、と変わった。
会話の輪が広がり、視線が集まる。
(っ、私を下に見ている目をして……!)
リディアは舐められるのが嫌いだった。
見下されるのが嫌いだった。
だから、引けない。
「……いいわ」
言ってしまった。
アルベルトが小さく囁く。
「リディア、無理をするな」
だが、リディアは聞こえないふりをした。
笑みを作り、掌を胸の前へ。
光の精霊魔法。
いつもなら指先に白い輝きが宿り、柔らかな光が溢れる。
――一瞬だけ、光った。
小さく、弱く。
そしてすぐに、途絶えた。
「……っ」
リディアは凍りつく。
もう一度、息を吸う。
呼び、集める。
光が揺れて灯るが、またすぐに消える。
「……どうして」
声が漏れた。
令嬢たちが、心配する声を出す。
「まあ、大丈夫ですか?」
「緊張なさっているのでは?」
その声の裏で、くすくすと笑い声が混じる。
薄い笑い、棘のある笑い。
リディアの頬が熱くなった。
怒りと羞恥で、視界が狭くなる。
「……っ、笑わないで!」
叫んだ瞬間、周囲が一斉にこちらを見る。
音楽さえ、一拍遅れたように感じた。
「……見たか?」
「光の使い手が……」
「力を失くしたのか?」
「ブライトン伯爵家の次女じゃないか。カーヴェル公爵家次男の婚約者だろう?」
「外れを引いたってことか?」
「公爵家次男も、長男と比べたら外れだって話だしな」
言葉が飛ぶ。
毒のように、甘く、広がる。
アルベルトの顔が僅かに歪んだ。
歯を食いしばる音が、リディアには聞こえた気がした。
(……やめて)
言われたくない。
聞きたくない。
アルベルトはリディアの手を取った。
「っ、行くぞ」
「アルベルト様……!」
「ここにいる必要はない」
彼の声は低く、怒りを抑えている。
リディアは引かれるまま、会場の隅へ、廊下へ、外へ。
背後ではまだ、くすくすと笑う声が残っていた。
リディアは息を荒くしながら、手を振りほどきたい衝動に耐えた。
そして、唇を噛み、吐き捨てるように呟いた。
「……どうして、こんなことに」
目が潤む。
でも泣けない、泣きたくない。
「全部……あいつのせいよ。エミーリア……!」
その名前を言った瞬間、胸の奥のざわつきが確信に変わりそうになる。
アルベルトは足を止めた。
リディアの言葉が、耳に残った。
(エミーリアのせい?)
馬鹿げている、と切り捨てたい。
切り捨てきれないのは――自分も同じだからだ。
最近、精霊魔法が上手く扱えなくなっている。
剣の補助に使う土が鈍い。
呼んでも応えが薄い。
それが、なぜか今日の出来事と重なった。
(……エミーリア)
婚約者だった女。
加護無しだと蔑まれていた女。
そういえば――昔。
彼女が何か言っていた気がする。
『精霊が見えるんです』
『友達だと、言ってくるんです』
周囲は笑っていた。妄想だと、狂言だと。
アルベルトも、その時は同じように思った。
だが今は――。
(もし、本当だったら?)
精霊が見える、精霊と話せる。
精霊の機嫌が、彼女に左右される。
そんな馬鹿な話。
そんなもの、あり得ない。
あり得ないはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さる。
まだわからない。
今はまだ、ただの疑念だ。
リディアは廊下で肩を震わせながら、唇を噛んでいた。
視線は床に落ちている。
アルベルトは彼女の手を離さず、静かに言った。
「……落ち着け。今は、戻る」
「……っ、戻っても、また笑われるわ」
声が掠れる。
悔しさと恐怖が混じる。
アルベルトは返せなかった。
自分も同じ恐怖を抱いているからだ。
(精霊に見放された?)
そんな噂が、次は自分にも向くだろう。
リディアだけでは終わらない。
(エミーリアのせいで……いや、エミーリアのお陰で、精霊魔法が強くなっていたのか?)
まだ確証はない。
だが、可能性だけが、不気味に形を持ち始めていた。
その答えに辿り着いた時には、もう手遅れだと知るのは――もう少し後のことだった。




