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第14話 守りたい、隣にいたい人


 結婚式から、一週間が経った。

 大きな事件は何もなく、穏やかな日々が続いている。


 ルシアン・ヴァルターは、朝の執務室で書類に目を通していた。

 窓から差し込む光は柔らかく、城下町の音も遠い。


 エミーリアがこの屋敷に来てから、もう二カ月ほどになる。

 正確に数えたことはないが、体感としてはもっと長い気も、逆に驚くほど短い気もした。


(……こんなふうになるとはな)


 正直なところ、妻を迎えたからといって、ここまで生活が変わるとは思っていなかった。

 自分の時間は仕事に費やされ、私生活は必要最低限。

 それが当たり前だった。


 だが今は違う。


 朝、彼女がいる。

 昼から夜にかけて、同じ執務室で仕事をしている。

 それが、もう「当たり前」になってしまっている。


 結婚式を終えてからは、寝室も同じだ。


 最初の夜――初夜と呼ばれるものは、彼女を抱かなかった。

 彼女の緊張は、見ていて痛いほどだった。

 会ってから一カ月と少し。

 気持ちが追いついていないのは明らかで、無理に踏み込む理由はなかった。


(……判断は正しかったはずだ)


 そう思っている。


 だが。


(……正直に言えば)


 一週間が経ち、そろそろ限界が近い。

 これは事実だった。


 原因は単純だ。


 ――エミーリアが、可愛い。


(……本当に)


 責任転嫁するなら、完全に彼女のせいだ。


 ヴァルター辺境伯家に来たばかりの頃の彼女は、どこか影があった。

 暗く、不安そうで、常に周囲を気にしているような目をしていた。


 それが今ではどうだ。


 こちらの生活に慣れ、表情は明るくなった。

 銀がかった淡い金髪を緩く編み込み、肩に流すその姿は、飾らなくても目を引く。

 透明感のある薄い青の瞳は、儚げに見えるのに、笑うと柔らかな光を宿す。


 それが、可愛い。

 可愛すぎる。


 ルシアンは軽く喉を鳴らし、視線を上げた。

 向かいの机では、エミーリアが書類に印を付けている。


 そして、昼の鐘が鳴った。


 からん、と澄んだ音が、集中の糸を切る。


 ルシアンはそこでようやくペンを置いた。


「……もう、そんな時間か」


 いつもなら、昼を過ぎていることもある。

 だから鐘を鳴らすようにした。

 それが、ここ最近は特に役に立っている。


 向かいの机で、エミーリアもペンを止めた。


「はい。今日も、集中してしまいましたね」

「ああ、エミーリアが来てから、こういうことが増えた」


 ルシアンがぽつりと言うと、エミーリアは少し困ったように笑った。


「私、邪魔じゃないですか?」

「邪魔なら、ここに座らせない」


 短く答えると、彼女は頬を少しだけ赤くして視線を落とした。

 そういう反応が、また余計に困る。


 ルシアンは咳払いをして話題を変えた。


「昼は、城下町で取らないか」


 エミーリアが瞬きをする。


「城下町……ですか?」

「ああ。たまには外で食べてもいいだろう」


 本当は「たまには」ではない。

 二人で城下町へ行ったことがない、という指摘をされたのだ。


 それを言い出したのは、レイとベルタだった。


『一回もお二人で城下町に行ってないですよね?』

『デートしていないなんてありえないです!』


 レイは冷静な笑みで、でも怒っているような呆れているような笑みで。

 ベルタには普通に怒っている表情で言われた。


 言い方が大げさだ、とルシアンは思った。

 だが、確かに屋敷と執務室と討伐と――それだけで日々が埋まっている。


(……妻を取った意味がない、と言われても困る)


 そんなことは思わない。

 だが、周囲が妙にうるさいのも事実だった。


 結果、誘ってみれば。


「外出して食べるのなんて、久しぶりなので……楽しみです」


 エミーリアはそう言って、柔らかく笑った。

 その笑みに、ルシアンは「誘ってよかった」と素直に思ってしまう。


「そうか」


 口元が緩むのを、意識して抑えた。

 抑えなければ、顔に出る。


 昼時になり、二人で執務室を出て馬車に乗り込む。

 すでに店は予約されていて、馬車は城下町へ向かった。


 馬車の中、エミーリアは窓の外を見ながら、落ち着かない様子で座っている。

 その様子すら、微笑ましい。


 レストランに着くと、個室に案内された。

 店に着くと、予約を告げて個室へ案内される。


 エミーリアは扉が閉まった瞬間、少しだけ肩を上げた。


「個室、落ち着きますね」

「落ち着くのか」

「はい。見られていると、どうしても……」


 最後まで言わずに、彼女は小さく笑った。

 伯爵家での生活が影を落とす瞬間だ。

 まだ無意識に、人の目を気にする癖が残っているようだ。


 料理が運ばれ、食べ始める。

 エミーリアは一口食べるたびに、目を少しだけ輝かせる。

 大げさだが、嬉しさが隠せていない。


「……美味しいです」

「それは良かった」


 ルシアンはそう言いつつ、彼女の食べ方を見てしまう。

 丁寧で、小さく噛んで、味を確かめるように食べる。


 こちらに来た頃は、量を前にすると手が止まっていた。

 胃が驚いていたのだろう。


 今は違う。

 ちゃんと食べて、ちゃんと飲む。

 健康的な顔つきになった。


 夜、抱きしめて眠ると、それがよくわかる。

 腕の中にある体温が、前よりしっかりしている。


(……思い出すな)


 また変な方向へ思考が行きそうになり、ルシアンは話を振った。


「最近、蔵書室で何を読んでいる」

「税の仕組みと、兵站の本などを」

「相変わらず真面目だな」

「役に立ちたいので」


 その言葉が、まっすぐで。

 ルシアンは一瞬、何も返せなくなった。


 彼女はずっと「役に立てない」ことを気にしていた。

 だから仕事を任せた。

 今では任せて良かったと思っている。


 食事を終え、軽く町を歩こうかと考えた。

 だが、そこへ――レイが入ってきた。

 扉が開く音が慌ただしい。


「ルシアン様」


 レイの声は落ち着いているが、足取りが急いでいる。


「城壁近くで、小規模な魔物の群れが発生しました」


 ルシアンの表情が引き締まる。


「規模は大きくはありません。ただ、強い魔物が多いです。念のため早めに対処を」

「わかった」


 馬車しかない。

 ここから城壁へ向かうのが最短だ。

 だが、隣にエミーリアがいる。


(屋敷へ送ってから行くか)


 そう考えた瞬間。


「私も、行きます」


 エミーリアが言った。


 ルシアンは眉を動かす。


「駄目だ」


 即答だった。

 危険だから、ではない。

 危険は城壁の上なら避けられるかもしれない。


 だが――彼女に見せるべき場所ではない。


「城壁の上で見ているだけなら、危なくないだろうが……」


 ルシアンは言葉を選ぶ。


「魔物の死体が出て血も出る。兵が怪我をする。そういう場だ」


 エミーリアは一瞬だけ視線を落とした。

 怯んだようにも見える。


 だが、次の瞬間、顔を上げた。


「それでも」


 声は震えていない。


「私は辺境伯夫人です。兵士たちが戦っているところから、目を逸らすわけにはいきません」


 その言葉に、ルシアンは息を呑んだ。


(……強いな)


 守られるだけの人ではない。

 自分の立場を理解し、背負う覚悟を持っている。


 しかも、それを誰かに見せびらかすような言い方ではない。


 ただ、当たり前のように言う。


 ルシアンは、ふっと笑った。

 自分でも驚くほど自然に。


「わかった」


 そして、短く結論を出す。


「一緒に行こう、エミーリア」


 エミーリアはほっとしたように、しかし凛と頷いた。


「はい!」


 その返事が妙に明るくて、胸の奥が温かくなる。


 立ち上がり、店を出る。

 彼女は歩調を合わせてくる。


 その瞬間、どこかで――。


 ふわり、と空気が揺れた気がした。

 光が一瞬、視界の端を掠めたような。

 だが、振り向いても何もない。


(……気のせいか)


 そう思いながら、ルシアンは馬車へ向かう。

 エミーリアが隣にいる。

 それが当たり前になりつつあることが、意識するとまだ慣れない。


 けれど――悪い気はしない。


(守るべきものが増えた)


 その実感と共に、ルシアンは馬車の扉へ手を伸ばした。




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