第13話 二人の初めての夜と朝
部屋に戻って、しばらく。
私は椅子に座ったまま、落ち着かない指先を何度も重ねては離していた。
(……緊張、してる)
自覚した瞬間、余計に意識してしまう。
式と行列と挨拶と、ずっと張り詰めていた気が抜けたはずなのに、今度は別の種類の緊張が胸の奥に居座っている。
(初夜……)
言葉にしなくても、頭の中に浮かぶだけで心臓が忙しくなる。
侍女たちは念入りに身体を清めてくれた。
香りも、肌触りも、いつもと違う。
私は深呼吸をして、扉の方を見る。
――コンコン。
ノックの音がした瞬間、びくっと肩が跳ねた。
「っ……は、はい!」
返事が少し裏返った気がする。
扉が開き、ルシアン様が入ってきた。
昼間の正装ではなく、落ち着いた色の室内着。
それだけで距離が近づいた気がして、また心臓が跳ねる。
「……失礼する」
「い、いえ……どうぞ」
ぎこちない私の声に、ルシアン様は一瞬だけ目を細めた。
それから、部屋の中央にあるソファを指し示す。
「座ろうか」
「は、はい」
二人並んで腰を下ろす。
間隔は、決して狭くない。
でも、意識しすぎているせいで、妙に近く感じた。
……沈黙。
静かすぎて、時計の音がやけに大きい。
(なにか……話さなきゃ)
そう思うのに、言葉が出てこない。
喉が乾いて、視線が定まらない。
「……今日は、長い一日だったな」
ルシアン様が、先に口を開いた。
「は、はい……とても」
それだけで、また黙り込む。
我ながら、ひどい。
すると――。
「ふふっ」
小さな笑い声が聞こえた。
驚いて顔を上げると、ルシアン様が口元に手を当てて、ほんの少し笑っていた。
「すまないな」
「……え?」
「君が、こんなに緊張しているのを見るのは初めてでな。……少し、面白くて」
面白い、という言葉に反射的に恥ずかしさがこみ上げる。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、謝ることじゃない」
ルシアン様の声は、柔らかい。
昼間の、当主としての声とは違う。
「……それに、可愛い」
その一言で、顔が熱くなる。
前にも言われた言葉。
でも、夜の静かな部屋で言われると、破壊力が違う。
「今日は、緊張しているようだし……」
ルシアン様は、少し考えるように視線を落としてから言った。
「やめておくか?」
「……え」
一瞬、意味がわからなくて瞬きをする。
「無理はしなくていい、という意味だ」
「そ、それは……」
大丈夫です、と言おうとして、言葉が喉で止まる。
大丈夫じゃない。
それは、自分でもわかっている。
でも――。
「い、いえ……だ、大丈夫です!」
勢いで言った。
けれど、声も表情も、全然説得力がない。
ルシアン様は私を見て、少し困ったように息を吐いた。
「やはり、無理をしている」
「……」
「今日は、一緒のベッドで眠るだけにしよう」
その言葉に、胸の奥がふっと緩んだ。
(……ほっと、してる)
自分でも驚くほど、肩の力が抜けた。
「……わかりました」
それから、遅れて気づく。
(……それって)
一緒のベッド、という事実。
別の意味で、また緊張が戻ってくるけれど――それでも。
「お気遣い、ありがとうございます」
「気にするな」
短く返されて、二人で立ち上がる。
ベッドに並んで横になる。
距離は少し空けているのに、存在感ははっきりと感じる。
天井を見つめながら、私は胸の奥で小さく自分を責めた。
(貴族としての責務を果たさないといけないのに……)
情けない。
それに――。
(女性として、見られてない……?)
そんな不安が、じわりと浮かぶ。
私はそっと、ルシアン様の方を向いた。
すぐそこに、顔がある。
「……どうした?」
低い声。
近い、近すぎる。
心臓の音が、聞こえそうなくらい。
でも、ここで目を逸らしたら、ずっとこのままな気がした。
(……勇気を)
私は、ほんの少しだけ身体を寄せて――唇を重ねた。
ちゅ、と小さな音。
一瞬のこと。
すぐに離れて、私は勢いよく背を向けた。
「お、おやすみなさい!」
ほとんど叫びだった。
心臓が壊れそう。
恥ずかしさで、背中が熱い。
(……怒られたらどうしよう)
そう思った瞬間。
背後から、布越しに温かさが伝わってきた。
「……っ」
腕が、そっと回される。
抱きしめられている。
「え……?」
耳元で、低い声が囁いた。
「――そんな可愛いことをされたら、我慢できなくなりそうだ」
ぞくっと、背筋が震えた。
「す、すみません……」
「わかっている」
抱く腕に、力はこもらない。
ただ、包むように。
「今日は……おやすみなさい、エミーリア」
囁きは、優しかった。
私は、その温もりに身を委ねる。
(……安心、する)
緊張で眠れないと思っていたのに。
包まれて、守られている感覚に、意識がゆっくり沈んでいった。
『ねむる』
『あんしん』
『よる、しずか』
精霊たちの声を遠くに聞きながら、私は眠りに落ちた。
――翌朝。
目を開けた瞬間、視界いっぱいに灰色があった。
「……っ!」
声を上げそうになって、慌てて口を押さえる。
(……そうだ、一緒に……)
思い出して、胸がどくんと鳴る。
こんなに近くで顔を見るのは、初めてだった。
睫毛、長い。
唇、思ったより薄くて……柔らかそう。
じっと見つめていたら――。
ルシアン様の目が、ゆっくり開いた。
視線が合う。
お互い、一瞬固まる。
「……おはようございます、ルシアン様」
「ああ……おはよう」
小さな、優しい笑み。
朝の光の中で、それはとても穏やかだった。
(……優しい朝)
胸の奥が、静かに満たされていくのを感じていた。




