第12話 結婚式
一週間後、結婚式当日。
(今日、結婚式……?)
思った以上に早かった。
私が驚いたのは当然で、言葉にしたらレイは困ったように笑って言ったのだ。
『準備は、元々進めておりました。あとはタイミングだけでしたから』
(私が慣れてきたから、って……)
控えめなノックがした。
「エミーリア様。入ってもよろしいでしょうか?」
ベルタの声だ。
今日はいつもより少しだけ弾んで聞こえた。
ここはすでに教会の新婦控室だ。
「ええ、お願い」
扉が開き、ベルタが入ってくる。
淡い栗色の髪をまとめ、頬のそばかすが柔らかく見える。
その後ろに、他の侍女たちも続いて、布の箱や、小さな瓶や、髪飾りの箱が運び込まれてきた。
(……多い)
それだけで緊張する。
「本日は、長くなります。途中で気分が悪くなったらすぐ言ってくださいね」
ベルタがそう言いながら、私を鏡の前に座らせた。
「うん……ありがとう、ベルタ」
ベルタが小さく微笑んだ。
「いえ。今日のエミーリア様、きっとすごく綺麗になりますよ」
「……なる、かな」
「なります。断言します」
少し真面目な顔で言い切られて、私は思わず笑ってしまった。
髪が整えられる。
肌が整えられる。
軽い香りが纏わされる。
そして――箱が開く。
白いドレス。
光を吸って、光を返すみたいな、柔らかな白。
(……これが、私の)
生まれて初めて、という言葉が頭をよぎった。
こんな綺麗な服を着たことがない。
こんなふうに、たくさんの人が「私のために」動くこともない。
布が肌に触れた瞬間、私は小さく息を呑んだ。
冷たくない。
柔らかい。
そして、重いくらいに丁寧だ。
(……怖い)
良いものを受け取るのが、まだ怖い。
でも今日は、受け取らないといけない日だ。
何度も何度も、裾が整えられ、レースが重ねられ、髪飾りが留められる。
鏡の中の私は、私じゃないみたいだった。
「……エミーリア様」
ベルタが、最後にヴェールを整えながら言う。
「準備、終わりました」
昼前。
ようやく支度が終わった頃には、私は緊張と疲れで指先が少し冷えていた。
(結婚式……大丈夫かな)
笑えるだろうか。
歩けるだろうか。
声が震えないだろうか。
『だいじょうぶ』
『エミーリア、えらい』
『あるける、あるける』
「……うん」
私は小さく頷いた。
教会の準備室。
扉の向こうには聖堂がある。
その入り口へ向かう廊下を歩くたび、ドレスの裾が静かに揺れる。
扉が開いた。
聖堂へ続く入口の前。
そこに――ルシアン様がいた。
いつもの髪型ではない。
ぴっしりと整えられていて、いつも以上に鋭さが際立って見える。
軍装ではないのに、背筋はまっすぐで、どっしりと立っている。
(……かっこいい)
思った瞬間、視線が外せなくなった。
胸がきゅっと鳴る。
――見惚れてしまっている。
ルシアン様が、こちらに気づいて一歩近づいた。
足音が静かで、気配だけが近い。
「……大丈夫か」
問いはいつも通り短い。
でも、声はいつもより少し柔らかい気がした。
「……っ、はい」
私ははっとして、慌てて姿勢を正す。
でも、言葉が続かない。
ルシアン様の灰色の瞳が、私を捉える。
私は頬が熱くなるのを感じながら、正直に言った。
「その……大丈夫です。えっと……見惚れていただけなので……」
言った瞬間、恥ずかしさが一気に押し寄せて、耳まで熱くなった。
ルシアン様が、少しだけ目を見開く。
そして、視線を逸らして――頬をかいた。
(……その仕草)
最近気づいた。
ルシアン様は、照れると、こうする。
私は胸の奥がくすぐったくなって、でも顔はさらに熱くなる。
「……ありがとう」
ルシアン様は小さく言って、それから、もう一度私を見る。
「エミーリアも、綺麗だ」
短い言葉がまっすぐで、逃げられない。
「……っ」
私は息を呑んで、返事の代わりに小さく頷いた。
嬉しいのに、泣きそうになるのが困る。
ルシアン様が、私の手を取った。
「行こう」
その手は大きくて、硬い。
でも、温かい。
私はその温度に縋るように、ゆっくり頷いた。
聖堂の中へ。
簡素な教会だった。
王都の大神殿みたいな豪奢さはない。
装飾も少ない。
けれど――石の壁は清潔で、光の入り方が美しい。
祭壇の花も派手ではなく、白と淡い色で整えられている。
(……綺麗)
そして、私にだけ見えるものがある。
精霊たち。
いつもより多い。
聖堂の梁のあたりや、窓辺の光の中で、ふわふわ浮かんでいる。
『ここ、いい』
『ひかり、きれい』
『おいわい、する』
居心地がいいのだろうか、精霊たちは落ち着いた光で揺れていた。
神父の前に立つ。
祭壇の近くは、空気が少し冷たい。
でも、手を握るルシアン様の温度がある。
神父が、穏やかな声で言った。
「それでは、新婦エミーリア・ブライトン。あなたはここに立つルシアン・ヴァルターを夫とし、喜びのときも、苦難のときも。健やかなるときも、病めるときも。順境にあっても、逆境にあっても。精霊の恵みが近くにあるときも、沈黙するときも。互いを尊び、信じ、支え合い、この先いかなる運命が訪れようとも、生涯にわたり共に歩むことを――」
神父が一息空けて、言う。
「精霊神の前で、誓いますか?」
精霊神。
本当にいるのかどうか、私は知らない。
精霊たちはいるけれど、それが神と繋がるのかはわからない。
でも、誓う相手は目の前にいる。
私は息を吸って、はっきり答えた。
「誓います」
ルシアン様も続いて同じように問われて、低い声で答える。
「誓う」
神父の言葉が続く。
そして、神父が言った。
「それでは、誓いのキスを」
(……き、キス)
私は一瞬、頭が真っ白になった。
知っていた。
流れとして知っていたのに、現実になると別だ。
ルシアン様が、私の方へ少しだけ身を屈める。
近い。
灰色の瞳が、ほんの少しだけ揺れている気がする。
私も、逃げないように、目を閉じた。
唇に、柔らかい感触。
(……柔らかい)
剣を握る手の硬さを知っているから、余計に驚いた。
短い、すぐに離れる。
でも、胸の奥が熱くなって、息がうまくできない。
目を開けると、ルシアン様はいつも通りの顔をしているのに、どこか耳が赤い気がした。
式は滞りなく進み、最後の祈りが終わる。
聖堂の扉が開いた。
教会を出て、馬車に乗る。
屋敷までの道は、馬車で移動する。
そして――屋根のない馬車だった。
思ったよりも視線が集まる。
でも、ルシアン様が隣に座り、堂々と前を向いている。
馬車がゆっくり動き出すと、町の人たちが大通りに出ていた。
「おめでとう!」
「辺境伯様万歳!」
「領主様万歳!」
「奥様、おめでとうございます!」
声が上がり、手が振られる。
花びらみたいなものが舞う。
私は驚きながらも、笑って手を振った。
こんなふうに祝われたことがない。
心が追いつかないのに、胸がじん、と熱くなる。
(……みんな、ルシアン様が好きなんだ)
それが嬉しくて、誇らしい。
でも――。
ところどころで、小さな声も混じる。
「……本当に大丈夫なのか?」
「領主も夫人も、加護無しなんだろ?」
「加護無しの夫婦なんて聞いたことねぇよ」
耳に刺さって、胸が少し痛んだ。
(……やっぱり、言われる)
加護無し。
その言葉は、私の過去を引きずり出す。
でも、隣のルシアン様が、何も言わずに私の手を握った。
ぎゅ、と。
強すぎない力。
でも、確かにそこにいて、心強い力で。
(……大丈夫)
私は前を向いて、もう一度手を振った。
民衆のために。
この領地のために。
そして――ルシアン様のために。
(精霊の加護がなくても、頑張る)
頑張る、という言葉は軽いかもしれない。
でも、私はもう逃げない。
『ともだち、けっこん』
『おいわいだぁ!』
『ひかる!』
『わー!』
精霊たちが大騒ぎだ。
私の髪の周りで、ヴェールの上で、光がくるくる踊っている。
誰にも見えないのに。
誰にも気づかれないのに。
それでも、私はそれが嬉しかった。
(精霊たちも、祝ってくれてる)
馬車はゆっくり屋敷へ向かう。
町の声が遠ざかっていく。
式と行列が終わり、夜。
部屋に戻った私は、椅子に座った瞬間、ふっと力が抜けた。
「……疲れた」
初めてだらけの一日だった。
ベルタたちが手早く支度を整え、最後に「おやすみなさいませ」と言って出ていった。
扉が閉まり、部屋に静けさが戻る。
私は自分の手を見つめた。
ルシアン様に握られた手。
誓いのキス。
「綺麗だ」と言われた言葉。
胸の奥が、まだ熱い。
そして――ふと思い出す。
(このあとは……初夜)
思っただけで、心臓が跳ねた。
さっきまでの疲れが、別の緊張に変わる。
私は胸の高鳴りを抱えたまま、静かに扉の音に耳を澄ませた。




