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第10話 一カ月が経ち、日常へ


 一カ月が経った。


 辺境伯家の屋敷で過ごす日々は、私の中でいつの間にか「特別」から「日常」へ変わっていた。

 それが嬉しいのに、たまに怖い。


 ――慣れる、というのは。


 この温かさが当たり前になる、というのは。


(でも、もう戻りたくない)


 そう思えるくらいには、毎日が充実していた。


 朝、薄い光がカーテンの隙間から差し込む。

 私はゆっくりと目を開けて、ベッドの柔らかさを一度だけ確かめるように指先を動かした。


 控えめなノックがした。


「エミーリア様。起きていらっしゃいますか?」

「ええ、起きているわ」


 扉が開いて入ってきた侍女の一人が、ふわりと頭を下げる。


 ベルタ。


 淡い栗色の髪を後ろでまとめていて、頬にそばかすが少しだけある。

 目元は優しく、声も柔らかいのに、動きはきびきびしている。


 年は私より少し上。

 背は高くないけれど、姿勢が良くて、いつも清潔な香りがする。


「本日も身支度をお手伝いしますね」

「うん、お願い」


 ――お願い。


 この言葉が、最初はどうしても喉につかえた。

 自分でやることが当たり前だったから。


 ベルタが鏡の前に私を座らせ、髪を梳いていく。

 櫛の音が、静かな部屋に心地よく響く。


「編み込みは、いつも通りでよろしいですか?」

「うん。……ありがとう、ベルタ」


 言った瞬間、ベルタが小さく瞬きをした。

 それから、すぐに柔らかく笑う。


「いえ……少しずつ、慣れてくださって嬉しいです」


 私は鏡の中の自分を見ながら、少しだけ息を吐いた。


(敬語、外すって決めたのに……まだ癖が残るわね)


 夫人なのだから、いつまでも侍女や使用人に敬語では示しがつかない、とレイに言われた。

 夫人は、屋敷の中で「守られる側」であると同時に「守る側」でもある。

 だから、優しさに甘え続けるだけではいけない。


「ベルタ。今日も、頼むわね」


 ベルタが、嬉しそうに頷いた。


「はい」


『ベルタ、やさしい』

『やさしい、すき』

『エミーリア、えらい』


 精霊たちが、私の肩の辺りでふわりと揺れた。

 私は小さく笑って、鏡の中の自分に頷く。


 着替えを終えて食堂へ向かう。

 廊下の光は明るく、足音は柔らかい。


 この屋敷は飾り気が少ないのに、整っているからこそ落ち着く。


 食堂の扉を開けると、ルシアン様がいた。

 彼の朝はいつも静かで、無駄がない。

 そこが――今の私には、心地いい。


「おはようございます、ルシアン様」

「おはよう」


 それだけ。

 でも、それで十分だと思えるようになってきた。


 朝食が運ばれ、席に着く。

 湯気の立つスープと、焼き立てのパン。


 卵料理、野菜、軽い肉。

 量は私が食べ切れるくらいに調整されている。


 この一カ月で、私は少しずつ食べられる量が増えたけれど、無理をさせるような出し方はされない。


(……小さな優しさが、当たり前みたいに置かれている)


 食べ始めると、しばらくは無言になる。

 でも気まずくはない。

 静かな時間が、ここにはある。


 途中、ルシアン様がパンに手を伸ばしながら、短く言った。


「昨日の報告書、村の水路の件……印をつけていたな」

「はい。二つの村で似た内容が重なっていたので、同じ問題の可能性があると思って」


 ルシアン様は一度だけ頷いた。


「確認する。……助かる」

「よかったです」


 それだけの会話。

 けれど、私たちは同じ方向を見ている。

 そう感じられるだけで、胸が落ち着く。


 朝食を終えると、そのまま執務室へ向かうのが日課になった。


 この一カ月で、書類の種類も流れも、だいぶ把握できるようになった。

 誰かが運んできた束を見れば、どの部署からで、何を確認すべきかがわかる。


(伯爵家で働くのとは違う)


 身体だけを動かしていた頃と違って、頭が動く。

 その感覚が、心地いい。


 ルシアン様の右斜め前の机。

 もう借り物ではなく、私の席になっている。

 書類を捌き、印をつけ、整理していく。


 途中で、どう処理すべきか迷うものが出てくる。


「ルシアン様、こちら……村からの報告なのですが、薬の在庫が不足していると。補給の優先を上げたほうがいいでしょうか」


 ルシアン様は視線を上げ、私の指先が示す箇所を見る。

 それから短く答える。


「上げようか。……討伐班の帰還が続いている。今月は消耗が多い」

「わかりました。補給担当へ回します」


 必要最低限の言葉。

 でも、意思疎通はきちんと取れている。

 無駄がないのに、冷たくない。


(これが、この人の距離なんだ)


 そう思えるようになってから、私の緊張は少しずつほぐれた。


 ――そして、鐘の音。

 昼を知らせる鐘が、屋敷のどこかで鳴る。

 からんからん、と澄んだ音。


 耳に届いた瞬間、私はペンを止めた。


 この鐘は、私とルシアン様が相談して決めたものだった。

 私が仕事を手伝い始めてから、妙に集中してしまって、気づけば昼を過ぎていることが何度もあった。


 ルシアン様も同じで、こちらが声をかけるまで時間に気づかないことがある。


(効率が上がった……と言っていいのかしら)


 理由はわからない。


 私が精霊の友達だからなのかもしれない、と思うけれど、確証はない。

 ただ、精霊たちは仕事中いつも楽しそうに揺れていて――ルシアン様の周りにも、時々光が集まる。


『ここ、しゅうちゅう』

『おひる、わすれがち』


 そんな声に、私は内心で頷く。


「お昼ですね」


 私が言うと、ルシアン様は一度だけ目を細める。


「ああ、軽食を取るか」


 パンとスープ、果物。

 重くしない程度に。午後に響かない程度に。


 それでも美味しくて、いつもありがとうと心の中で料理人に感謝を伝える。


 午後は休憩を二時間ほど取る。


 けれど、その間も私は蔵書室へ行ってしまうことが多い。

 蔵書室は広く、整えられていて、静かだ。


 伯爵家では触れられなかった本が、ここには山ほどある。


 領地の歴史、税の仕組み、魔物の生態、街道の管理、兵站。


(役に立ちたい)


 ただそれだけで、本を開く。

 知識を得ることは楽しい。

 それが仕事に生きるなら、もっと嬉しい。


 蔵書室の入り口で、ベルタがそっと声をかけてくる。


「エミーリア様。お仕事でお疲れなのに、さらに勉強しなくても……」


 私は本を閉じ、ベルタに向き直った。


「大丈夫。無理はしてないわよ」


 言いながら笑う。


「それに、本を読むのは好きなの。楽しいし」


 ベルタは困ったように眉を下げて、それでも小さく笑った。


「……エミーリア様らしいです」

「ヴァルター辺境伯家のために、少しでも力になりたいから」


 そう言うと、ベルタは一度だけ頷いた。


「はい……でも、本当に無理はなさらないでくださいね」

「うん、ありがとう」


 休憩の後は、また執務室に戻り、ルシアン様と一緒に仕事をする――それがいつもの流れ。

 けれど、今日は違った。


 執務室に戻る途中、廊下でレイに呼び止められた。


「エミーリア様。旦那様が、本日討伐へ向かわれます」

「……討伐」


 胸が、きゅっと鳴った。

 時々ある。


 魔物の出現情報が入ると、ルシアン様は前線に出る。

 当主が、自ら。


(やっぱり……すごい)


 でも、すごいと思うのと同じくらい、心配になる。

 私は迷わず、玄関へ向かった。


 玄関にはすでに兵士たちがいて、空気が引き締まっている。

 ルシアン様もいた。

 戦いの服。軍装よりも実用的で、動きやすそうで、刃物みたいに無駄がない。


(……かっこいい)


 そう思ってしまって、慌てて視線を逸らす。

 変な熱が頬に上がりそうになる。


 ルシアン様が私に気づき、足を止めた。


「エミーリア」

「お見送りに来ました」

「そうか」

「はい」


 短い会話。

 ルシアン様が外套を整え、剣の位置を確かめる。

 それから、淡々と言った。


「行ってくる」


 その言葉に、私は息を吸う。


「いってらっしゃいませ」


 普通なら、ここで言うのだろう。


 ――精霊のご加護があらんことを。

 戦いに行く人に向ける、定型の祈り。


 でも、それを言うのは……少し違う気がした。


 ルシアン様には精霊の加護がない。

 それを知った上で言えば、慰めにも見えるし、嫌味にもなり得る。

 私は、それが嫌だった。


 だから――私は一歩近づいた。

 そして、彼の手を握った。


 大きくて、硬い。

 指先に小さな傷がある。

 熱が、確かに生きている。


 ルシアン様の目が、わずかに揺れた。


「エミーリア」


 名前を呼ばれただけで、胸が高鳴る。

 私は握る指に力を込めて、祈るように言った。


「ご武運を」


 その言葉は、精霊の加護ではなく、ただの祈りだ。

 彼の力を信じて、帰りを願う言葉だ。


 ルシアン様は、私の手を振りほどかない。

 そのまま、少しだけ――本当に少しだけ、口角を上げた。


「……ありがとう」


 それは、ほとんど表情の変化と言えないくらい小さいのに、私の胸は跳ねた。


(……今、笑った)


 ルシアン様は手を離し、兵士たちに短く指示を出して、屋敷を出ていく。

 背中は迷いがなく、まっすぐで、頼りがいがある。


 私はその背中を見送って、胸の中でそっと祈る。


(どうか、無事で)


 不安はある。怖い。

 でも、私はただ立ち尽くしているだけにはなりたくなかった。


 だから、踵を返す。

 私がやるべきことをするために。

 彼が守っている領地を、内側から支えるために。


 私は執務室へ向かった。


 廊下の光の中で、精霊たちがふわりと揺れる。


『いって、らっしゃい』

『ぶじ、ぶじ』

『エミーリア、がんばる』


 私は小さく頷き、扉に手をかけた。


「……うん。私も、頑張る」


 静かな屋敷の中で、紙の匂いと、淡い光が揺れた。



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