第1話 加護なし令嬢の現状
私、エミーリアが目が覚めた時に感じるのは、冷えた石と古い木の匂いだった。
ブライトン伯爵家の屋敷の中で、ここだけ少し薄暗いのは、私の部屋が北向きだからだろう。
そういうことにしておく。
実際はたぶん、私の部屋に「良い場所」を割く価値がないだけだ。
天蓋もない、小さなベッド。擦れた毛布。机と椅子。
壁に掛けられた絵も、花瓶もない。
鏡にはひびが一本走っている。
伯爵家の次女の部屋なはずだけど、使用人の部屋と比べてもこちらのほうが下な気がする。
「……起きよう」
誰に言うでもなく呟いて、私は上体を起こした。
私は寝間着のまま洗面台へ向かい、水差しの水で顔を洗う。
冷たくて、目が覚める。
髪は銀がかった淡い金。
寝癖がついていて、指で梳かすくらいではどうにもならない。
でも侍女はいない。
朝の身支度を整えるのも、自分でやるしかない。
髪を指で分け、粗い櫛で梳く。
鏡に映る私は、薄い青の瞳だけがやけに澄んで見えた。
着替えを済ませ、私は机の上に置かれている小さな盆を見る。
そこにあるのは、硬めの黒パンがひと切れと、薄いスープが入った椀。
それと、水。
家族と食卓を囲むことはない。私の席は、とうに消えている。
だから私は部屋の中で、一人で食べる。
パンは噛むと固い。スープは塩気だけで、具はほとんどない。
それでも、きちんと食べる。
倒れたら、もっと面倒が増えるから。
椀を空にして、私は盆を抱えて廊下へ出る。
広い屋敷だ。絨毯が敷かれ、壁には肖像画が並ぶ。
足音を立てないように歩いていると、遠くから風の音が聞こえた。
「風の精霊よ、お願い――」
使用人の声と同時に、ふわ、と。
埃が舞い、同時に床がすっと綺麗になっていく。
角の先、吹き抜けの下で、使用人の一人が手を伸ばしていた。
指先を軽く払うだけで、風が巡り、棚の上の埃を払っていく。
――風の精霊の加護。
火、水、風、土、光、闇。
六精霊から加護を受けることで、人は魔法を使える。
大きな魔法だけじゃない。
こうして掃除をしたり、洗濯物を乾かしたり、井戸から水を運びやすくしたり。
生活は精霊魔法と共にある。
だからこそ――加護を持たない私は、異物だ。
使用人の視線が一瞬こちらに向いた。
私はすぐに目を伏せた。
(腫れもの扱い。……ううん、それよりもっと)
――怖がられている。
『エミーリアの近くにいると、加護が失われる』
そんな噂が、屋敷の中で根を張っている。
確かに――私の周りで、加護を失った人はいた。
私のせいじゃないと言いたい。
けれど、言ったところで誰も信じない。
だから、私はただ静かに、台所へ向かう。
盆を置いて、私は袖をまくった。
今日もやることは決まっている。
皿洗い。床拭き。洗濯物の仕分け。薪運び。あとは、雑用。
伯爵家の次女としてではなく――使用人の一人としての仕事だ。
台所の隅で、年配の女中が私を見た。
目が合った瞬間、彼女はほんの少しだけ肩を強張らせ、距離を取るように一歩退く。
「おはようございます」
私が挨拶すると、彼女は返事をするまで少し間があった。
「……おはよう、ございます。エミーリア様」
様、と呼ぶのがぎこちない。
でも呼ばないと叱られるのだろう。
私の父は「体裁だけは保て」と命じる人だから。
私は軽くお辞儀をしてから、黙って皿を洗い始めた。
水は冷たい。指先がじんじんする。
けれど、水の精霊の加護を持つ人なら、温水くらい簡単に出せるだろう。
それでも私にはできない。
皿を洗い、拭き、積み上げる。
窓の外では、洗濯場の方で風がまた唸っていた。
「風の精霊よ、熱風を――」
布がばさりと揺れ、干したばかりのシーツが一気に乾いていく。
風の精霊の加護を持つ若い使用人が、得意げに腕を振った。
その様子を見ていると、少しだけ――羨ましいと思ってしまう。
(私も、加護があれば。……普通に笑って、普通に食卓に座って、普通に――)
考えるのをやめた。意味がない。
午前の雑用を終えて廊下を歩いていると、玄関の方が騒がしくなった。
馬車の音。扉の開く音。靴音が増える。
帰ってきたのだ。
父と母と、妹のリディア。
私は思わず足を止めてしまった。
止めても、廊下は一本道で、避けようがない。
だから私はいつものように姿勢を正し、頭を下げる準備をした。
曲がり角から現れた父は、外套を着たまま堂々と歩いていた。
横には母。絹の手袋。香水の匂い。
そしてその後ろに、淡い緑の瞳をきらきらさせたリディアがいる。
――私の妹、珍しい光の精霊の加護を持っている。
栗色の巻き髪が揺れて、淡い緑の瞳。
私とは違う華やかな容姿だ。
「お帰りなさいませ。父上、母上、リディア」
私は頭を下げた。
その瞬間、父の声が落ちてくる。
「……お前か。近くに寄るな」
顔を上げると、父は眉をひそめて私を見ていた。
まるで、汚れたものを見るように。
母も同じ。扇子を口元に当てて、息を吸うのも嫌だと言わんばかりに距離を取る。
「そうよ」
母が冷たく言う。
「あなたが近くにいたら、また加護がなくなってしまうわ。困るのよ」
その一言が、胸に刺さる。
私は娘じゃなく、損失の原因。
そしてリディアは、ほんの少しだけ唇を尖らせて言った。
「お姉様、廊下で待ち伏せなんて……恥ずかしいわ。社交界ではね、そういうのは品がないの」
待ち伏せなんてしていない。
言い返す言葉は喉まで出た。
けれど出したところで、「言い訳」として切り捨てられるのがわかっている。
「……失礼いたしました」
そう言って、私は壁際に寄った。通り道を空ける。
父と母とリディアは、私を避けるようにして通り過ぎた。
廊下が静かになる。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
胸の中が、空っぽになったみたいだった。
――でも、不思議と泣きたくはならなかった。
それが自分でも変だと思う。
昔は、泣いていた。
部屋に戻って、枕を濡らして、声を殺して。けれどいつからか、涙は出なくなった。
代わりに、ため息ばかりが増えた。
昼も、夕方も、私は屋敷の隅で過ごした。
家事をし、言いつけをこなし、誰とも目を合わせないように歩く。
食事はまた部屋に運ばれた簡素なものを、同じように一人で食べた。
夜、灯りを落とし、私は自室の椅子に座った。
静かだ。
「……はぁ」
溜息が、薄い空気に溶けた。
小さい頃は、普通だった。
父は私を膝に乗せて本を読んでくれたし、母は髪を撫でてくれた。
リディアが生まれた時は、私も一緒に喜んだ。
妹の小さな手を握って、笑い合った。
あの頃は、家族だった。
――私が「加護なし」だとわかるまでは。
六歳の春だったと思う。
周りの子たちが小さな火を灯したり、水を浮かべたりする中で、私だけが何もできなかった。
先生が困った顔をし、父が眉をひそめ、母が言った。
『……この子、本当に加護がないの?』
それから、家の空気が変わった。
最初は「いつか授かる」と信じようとしてくれていた。
けれど、年を重ねても何も起きなかった。
代わりに――私の周りで、加護の力が弱くなる人が出た。
庭師が、土の精霊魔法が上手くいかず、植物が枯れた。
台所の女中が、火の精霊魔法ができず、火起こしに失敗した。
当時通っていた学園で同じ教室の女生徒の精霊魔法が出なくなった、など。
『エミーリアが不吉なのだ』
それが定着した瞬間、私は家から出られなくなった。
社交界にも行けない。お茶会にも行けない。
一応、婚約者はいる。
アルベルト・カーヴェル様、公爵家の嫡男だ。
でも最近は会っていないし、それに……。
いや、まだ確定した情報じゃないし、考えるのはやめておこう。
私は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
(でも……あまり寂しくはないわね)
口に出したら不謹慎だろうか。
家族に捨てられているのに、寂しくないなんて。
けれど、それは事実だった。
私は一人ではないから。
『エミーリア』
ふいに、声がした。
私は、窓の外ではなく、部屋の空気に視線を向けた。
そこに、ふわりと光が浮かんでいる。
小さな球。
手のひらくらいの大きさで、淡く光って、揺れている。
色は一つじゃない。薄い青、淡い緑、白に近い金。
ゆらゆらと混ざり合って、夜の闇にやさしい灯りを落としていた。
「大丈夫よ」
私は小さく答えた。
声に出さなくても、伝わるけれど――声に出したほうが、あの子たちは喜ぶ。
光の球が、嬉しそうに揺れた。
『ほんと? 泣いてない?』
「泣いてないわ」
『えらい」
『えらい、えらい』
――精霊。
この世界にいる、火、水、風、土、光、闇――そのどれかに属する存在。
みんなには見えない。聞こえない。
でも、私には見えるし、喋れる。
加護はないのに、精霊は見えて喋れる。
それが、私の秘密だった。
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