双子が来たよ 腹違いの兄の家は違和感ありの飲み屋さん
幸せな毎日が始まるのかと思いきや、引っ越したら色々とありすぎる!
季節の名残のようにツクツクボウシが少しだけ声を上げた。それからは地面の鈴虫が歌を引き継ぐ。湿気を含んだ熱が清涼の風に払われた。季節が動く狭間だ。
西の朱色に漆黒が混ざり始めた。木々に覆われた岩山に最後の西日が落ちる。その麓にある三階建ての建物はもうすっかり影に覆われた。住宅街の中ではあるが、そこだけぽつりと離れて建っている。
一階は料理屋『いでみず』だ。夜の湿気を含んだ風にのれんが揺れる。準備中の札の向こうは、白木をメインにした内装で和風料理に似つかわしい。L字のカウンターは六席、テーブル席は四人がけが三つ。壁にはおすすめ料理の手書き札が貼ってある。最近サンマの塩焼きやキノコの蒸焼きが加わった。厨房の端には仕切り付きの四角い鍋。大根や卵などおでんだ。
「想いに色があるのなら、全てが溶け合って闇になる」
カウンターの奥で男性が呟いた。茶色がかった長い髪を一つに束ねている。色白でやや細い目が涼し気で、どこかけだるさを含んだ茶色だ。
別の男の声が尋ねる。
「世界、何を言ってんだ?」
出水世界はフフフ、と笑った。
「話したよね。弟たち...双子が来るのは明日だよ。忍さんが再婚するんだ。だから俺が引き取る」
父親が違う兄弟だ。世界は先妻の子で、双子は後妻の忍が産んだ。彼女は里帰りで出産後、まもなく離婚した。だから彼らと一緒に暮らした事はない。
「母親が子供を置いて行くのかい」
「事情があるさ。知っているくせに」
世界は手際よく魚をさばく。目をまな板から離さない。
「放置してただろう? もともと面倒見ていたの俺だしね」
ふう、とため息の後に男が言う。
「大丈夫なのか?」
「何とかなるよ。...がんもどき食べる?」
「ああ。冷ましてくれ」
店内に他の人間の気配はない。
小皿におでんを移してから、世界は店の外に出た。白字に黒で『いでみず』と書かれた提灯の電気を点ける。
「さあ開店だ」
夜が地上に降りた。闇が満ちる。
良く晴れた日曜日だ。最寄りの鉄道駅からバスで十分程度だ。陽が傾き始めた頃、今日から世界と同居の二人は、三十分かけて徒歩で来た。店の出入口とは別に居住部分のドアがある。『出水』の表札の前で緊張した面持ちだ。
「足が痛い」
肩を落としているのは兄の海渡白羽。世界とよく似た茶色の髪と瞳だ。肌も白い。歩いてきたせいで頬が赤らんでいる。
「節約だ、慣れりゃ平気だ」
そう言ってチャイムを押したのは、やや背の低い弟の海渡黒羽だ。名前の通り黒々とした短い髪と丸い瞳が印象的だ。
「世界~! 来たぞ!」
「静かにね」
二人とも季節外れの紺のジャージだ。手首と足首が露出しているうえ、毛玉だらけで裾や袖口がほつれている。足元は元が何色かよく分からないデッキシューズだ。丈夫なはずの帆布はあちこちがメッシュ状に擦り切れて、今にも穴が開きそうだった。二人ともかかとをつぶして履いている。どちらも一年ほど前に世界が買った。その間に成長して、もうサイズアウトだ。
とたとたとた、と中で足音が近づく。世界がドアを開けた。二人の頭は世界の胸辺りだ。
「やあいらっしゃい。よく来たね」
「はい兄さん。よろしくお願いします」
お辞儀をする白羽に対して、黒羽は満面の笑みで両手を広げた。
「世界! これから一緒だ!」
今にも抱き付いてきそうだ。世界は数歩下がった。
「そうだね。取り敢えず入って」
そしてちょっと困った顔になった。
「今更だけど、兄さんって呼んで欲しいな」
「俺はずっと世界って呼んでただろう。本当、今更だよ」
二人は靴を脱ぎ捨てた。それを世界がきちんと二人分ていねいに揃えた。白羽がばつの悪そうな顔をする。
「次からね」
兄の声に素直に頷いた。それから二人揃ってきょろきょろする。ここへ来るのは初めてだ。玄関からすぐに二階への階段がある。廊下沿いに台所と広めの和室。引き戸が開け放たれてリビングへ続く。片側の壁の向こうが店だろう。
ソファを勧められた二人はくっついて座った。縮こまっているあたり、一応黒羽も緊張はしているようだ。ひそひそ話している。
「広いな」
「そうだねえ。床が見える」
そしてテーブルに用意された麦茶とクッキーの小袋を、不思議な物のように見ている。
「どうぞ」
二人は顔を見合わせた。おずおずと手を出す。今までの生活環境を思うと、世界の胸がきゅんと痛む。二人の向かいに座った。
「少し見ないだけでも大きくなるね。もう高二か」
うん、と黒羽が頷いた。
「誕生日が六月だからな。十七になったぞ。世界は二十六だっけ。九歳差か」
「そうだね。ああ、学校が遠くなるね。でも転校しないで済んで良かった」
二人は揃って市立吟華高校の生徒だ。前の家から近かったのだが、この家からだと一時間半ほどかかる。
「荷物はもう届いているよ。二階に運んだ。少なかったね」
布団はもはや使えそうになかった。持って来るなと言ったのは世界だ。それで荷物は衣装ケースが二つ、段ボールが四つ。二人分なのにそれで全てだ。引っ越し業者ではなく、宅配便で届いた。
黒羽がクッキーの袋を勢いよく開けた。
「これ食べていいんだよな。まぁ服なんか殆ど無ぇし。あとは教科書くらいか?」
「お茶碗とかは?」
「無ぇよ。コンビニ飯だもん」
箸など什器は部屋にあった。しかし彼らの食事はほぼコンビニかスーパーの弁当だった。茶碗や皿を使う機会が殆ど無かっただろうし、持って来るほど愛着がないのだろう。服にしても白羽の靴下は親指が覗いているし、黒羽は裸足だ。
「必要だよ。その靴下もなぁ...。次の休みに一緒に買い物に行こう」
二人の顔が明るくなった。しかし白羽がすっと視線を落とす。
「通学用の靴下は、四月に兄さんが買ってくれたじゃないですか。ただでさえ高校の学費まで出してもらった上に、これからお世話になるのに申し訳ないです」
「何を言ってるんだ。弟だもの、当たり前だよ。敬語も使わないで」
黒羽はふん、と顎を上げた。リビングのさらに奥のもう一つのドアに目を留める。
「あっちが風呂?」
「いいや。店への出入口。片付けが済んだらすぐに寝られるし、一階は俺が使ってる。二人は二階の手前の二つ。洋室と和室を一部屋ずつ使って。風呂は上にしか無いから俺と共有ね。三階はアパートだよ。人に貸してる」
「へええ。やっぱり広いな。店を見てもいい?」
黒羽が店へのドアを開けた。小さな手洗い場がある。さらに先の扉を開けるとカウンター内の厨房だ。店内はまだ無人である。常夜灯だけ灯る。うっすらと赤い光が店内を照らすだけだ。おでんの鍋から出汁の匂いがする。テーブルの上の白猫が顔を上げた。
後ろから白羽が覗く。その途端に悲鳴を上げた。
「うわあああ! 牛、牛がいる!」
猫が起き上がった。前足を踏ん張り、大きく伸びる。白い毛並みに黒いぶちがあり、確かにホルスタイン種の牛のような模様だ。
「ああ、牛っぽい猫だよな。でもそんな悲鳴上げるか? 大げさだよ」
「え、だって、ほら」
白羽がもごもご言っている間に、猫はまた伏せた。体を丸めて目をつぶる。
世界がリビングから声を掛けた。
「うちのモーモだよ。もう長いこと住んでいるんだ。モーモ、昨日話した白羽と黒羽だよ。...二人とも、そろそろ部屋を片付けておいで。晩御飯の時には声をかけるから」
白羽はまだ猫を見ている。しかし黒羽に促されて背を向けた。
二階はごく普通の造りだ。廊下の一番奥が風呂場とトイレ。廊下を挟んで二部屋ずつ扉がある。二人の荷物は廊下にあった。二人分の布団も買ったばかりなのだろう。取っ手付きのビニール袋に入ったままだ。同じ色の新品のカバーとシーツもある。
二人は戸惑ってしまった。
「すげえな。こんなにしてもらって」
「兄さんは当然っていうけど...何だか申し訳ないよね」
「ああ。食費くらいは何とかするか。バイト探さないとな」
引っ越しの為に、今までのバイト先には通えなくなった。母親は食事を用意してくれなかったので、高校生になってからバイトで食事代を賄っていたのだ。
最初に開けたのは岩山側の和室だった。ドアからいきなり畳敷きだ。押し入れがあり、箪笥が一つと机。目覚まし付きの時計もある。これらも新しく用意してくれたようだ。ブルーのカーテンと窓を開けた。急な傾斜の黒い岩肌が見える。ベランダがあったので裸足のままでそこに出てみる。頂上は二階から少し見上げるくらいだ。社らしい屋根が緑の枝葉の間から見える。小鳥のさえずりも聞こえるし風通しもいい。下を見下ろすと、建物と岩山の裾はとても近い。しめ縄を張った穴がある。
白羽は入口から中へ入らなかった。眉をひそめている。
「俺...ここは無理かも...」
「何で? いい感じじゃん」
「それ」
と窓の方を指す。
「山...それ、無理。よく分からないんだ。でも何だかとっても怖い」
「あ~虫が来るよな。白羽は苦手だっけ。ゴキブリが出る度に叫ぶもんな」
「叫ぶって。そっちの方が普通だよ! 退治できる黒羽が凄すぎる! ...でもそれじゃなくて」
「へいへい。いつものか」
黒羽は網戸を閉めた。
「何かが見えるってアレ。俺には気配のカケラも分からないんだけどなあ。まあいいや。それじゃ、ここは俺が使わせてもらうわ。すげえな。一人一部屋丸ごと使えるぞ」
浮かれている黒羽とは対照的だ。白羽はため息交じりで向かいの部屋を開けた。こちらは洋室だ。ベランダはない。通りに面した向かい側だ。電線が目の前なのだが、白羽はほっと息を吐いた。
「こっちなら何とか平気」
洋室でクローゼットがある。まだビニールをかぶったマット付きのベッドと、こちらにも机があった。
(兄さん...ここまでしてくれて...)
少ない荷物を運びこむ。クローゼットに制服を吊るした。中の棚に肌着を入れた。教科書を机の上に置いた。真新しいベッドに布団をセットしたら引っ越しは完了だ。他には何もない。普通の高校生なら持っているだろうゲーム機や携帯すらない。ベッドに寝転がる。布団がふわりと身を包む。
昨日までの部屋が悪夢のようだ。駅からバスで三十分。立ち並ぶ建物の一角のアパートだった。一階の一番奥。近所でも評判の部屋だった。何しろゴミが隣の建物の壁との間にみっちり押し込まれている。ベランダにも袋が山積みだ。近所付き合いはないし、子供二人はいつでも同じ服装だ。
母親の忍は毎日スーツを着て、化粧をして出勤していた。帰りは遅い。だいたい食事を済ませてくるようで、家では酒を飲むばかりだった。空き缶はその辺にポイ。白羽と黒羽に話しかける事もほぼない。時々は数日帰ってこなかった。まるで透明人間扱いだ。そんな日々は幼い頃からずっとだった。
最後に話しかけられたのは夏の始めだったか。
『結婚するんで出て行くから。後は好きにしな』
四十二歳。ぱっと目を引くバラのように華やかな美貌の人だ。良い縁があったのだろう。でも質問はなしだ。もはや決定事項なのだ。言葉通りに忍はすぐに出て行った。全てをそのまま置き去りにして。困った時に連絡するのは兄しかいない。アパートの契約解除はもちろん、片付けや引っ越しも全て世界が手配してくれたのだ。
顔の上に腕を乗せた。様々な感情がこみあげて収集が付かなかった。
一方の和室の黒羽。箪笥の中身はすかすかだ。制服は押し入れの鴨居にかけた。取り敢えず布団を敷いてしまう。やはり引っ越し前の生活や忍のことを考えていた。
(あんまり忍ばない人だよな)
ほったらかしの日々だった。そんな中で楽しみだったのは世界の来訪だった。来てくれるようになったのは十年ほど前だ。二人が小学校に入った後くらいか。電気もつけず昼間で薄い部屋で二人きり。とんとんとん、と軽いノックが三回鳴ったら世界が来る。外の光を背中に受けて真っ黒な人影だ。しかしまるで後光を背負うかのように全身の縁が白い光で彩られる。いつも買い物袋を軽く上に上げてにっこり笑うのだ。
すぐ食べられる弁当はもちろん、日持ちのするお菓子やレトルト食品を差し入れてくれる。困った時の為に、とお小遣いももらった。幼い頃はお風呂で洗ってもらったりした。歯磨きの習慣も世界のおかげだ。彼と会う時には少しでも綺麗にしておきたい。その一心で何とか身に付いたのだ。
時間があれば絵本を読んでくれたし、掃除や片付けも一緒にやった。中学の進路相談も世界が来た。高校の入学準備と学費の負担も全て世界だ。携帯も買ってくれると言ったが、白羽と相談の上で断った。維持費がかかるし、自分たちでバイトして買うから、と。食費が優先で後回しになってしまったが。
二人の世話について忍と世界は話し合った事があるのだろうか。それは分からない。
黒羽は畳に横たわった。耳を直に押し当てる。聞こえるはずもない音を、気配を感じたい。
(世界が下にいるんだ...。これからずっと一緒なんだ...)
嬉しさと同時に、少し甘い暴力的な感覚がこみあげた。きゅっと奥歯を噛み締める。
とんとん、と軽くドアが叩かれた。白羽が顔を出す。
「黒羽、寝てたの?」
「まあな。どうした?」
「片付けが終わっちゃった。一人って落ち着かなくて。どうしよう?」
黒羽は勢いをつけて起き上がった。
「下に行くか。何か手伝えるかも」
二人で廊下に出た。他の部屋も一応開けてみた。どちらも洋室だ。こたつやストーブなど季節用品や、段ボールなど積んである。収納部屋らしい。
リビングに戻った。ここには大型テレビもある。
「見る?」
「いいや」
和室の壁に黒枠の写真が一つだけ飾ってある。忍よりも若そうな女性だ。丸い目が可愛らしい。黒羽が首を傾げる。
「誰?」
白羽も怪訝な表情だ。
「知らないなあ。最初の奥さんだったら兄さんの母さんだよね。父さんはどこにいるのかなあ」
「五十歳越えてるんだっけ? 生きてんのか?」
「元気だよ、きっと」
父の名前は出水無限という。三人の妻がいた。最初が世界の母だ。死別後、二人目の真理と結婚したが数年で離婚した。そして三番目が忍で、双子を出産後まもなく別れた。そして世界と二人で暮らしていた十年ほど前に失踪したままだ。
世界がまだ高校生の時だ。『いでみず』は休業せざるを得なかった。しかし世界は店にそのまま住んでいた。アパート賃料のおかげで生活費は何とかなったし、真理が世話をしに通ってくれたそうだ。高校卒業後に調理師免許を取って改めて『いでみず』を開店したのだ。
忍は妊娠中に実家に里帰りして、そのまま戻らず離婚した。実家も出てしまった。三人のアパート暮らしを経てめでたく再婚だ。
「ぐちゃぐちゃだな、ウチ。それにしても無限さんはモテるんだな。妻が三人。四番目と駆け落ちじゃね?」
「う~ん...でも忍とは離婚してるからね。逃げなくても再婚すればいいだけじゃない?」
「冗談だよ! 真面目か」
二人は無限に会った事もなく、顔も知らない。見知らぬ他人と同じ位置にいるようなものだ。どうしているだろうか、などとこの時点では何の感慨も湧かなかった。
白羽がそわそわしている。
「ねえ黒羽、何か手伝った方がいいのかな? でも俺さあ...店に行くのが怖くて。牛がいるじゃない」
「はあ? お前は猫が苦手だったか?」
「え」
お互い目をぱちくりさせた。どうも話がかみ合わない。
どかん!
突然、店から衝撃音が響いた。白羽が黒羽の腕を掴んだ。目が涙でうるうるし始めた。
「牛だよ~きっと牛が暴れてるんだよ~」
「何をほざいてんだ」
そんな動物など一度も黒羽には見えなかった。ガツン、ボコッと固い物同士がぶつかる音は続く。扉越しに怒鳴り声も聞こえた。白羽の肩をぽんぽん叩き、黒羽は店へ向かった。扉を開けるなり、音量は倍増した。
「ふざけんじゃねえ! 許さねえからな!」
男が叫んでいた。アロハのような派手な柄のシャツだ。テーブル上の調味料やはし箱を払い落し、椅子を足で蹴り倒す。
思わず黒羽は飛び出した。
「何しやがる!」
厨房にいた世界が抱き止めた。
「やめやめ。相手をしない」
「放っておいていいのかよ!」
黒羽は背中から世界に抱えられている。世界は両手で黒羽の握りしめた拳を包んだ。少し冷たい指だ。黒い髪に顎を乗せ、耳元で囁く。
「殴る手は痛くなるよ。やめて」
黒羽の頬が赤らんだ。唇を噛み締める。
「じゃあどうするんだよ!」
その合間にも男は暴れ続ける。
「収まるまで、ここで一緒に祈ろうか」
「あああ~?」
別の男が冷静に囁いた。
「そろそろ止めるか?」
暴漢の大声にかき消されそうだ。しかし世界の耳には届いた。
「そうだね」
こっそり扉からのぞいていた白羽が息を呑んだ。暴れる男ではなく、モーモを見つめる。世界が気が付いた。
「白羽、来ないで」
腕の力が緩んだ。黒羽が飛び出す。ひっくり返っていた椅子の脚を両手で掴んだ。男に向かって投げつけた。彼の横すれすれを飛ぶ。壁に当たった。黄色の砂壁からばらばらと破片が散る。『禁煙』札の下半分が千切れて飛んだ。『禁』一文字の前で黒羽が叫ぶ。
「やめろ! ふざけんなこの野郎」
「何だこのクソガキ!」
男が黒羽に掴みかかった。襟首を掴む。殴ると見せかけて腹を蹴った。黒羽の体が飛ぶ。カウンターに激突した。
「いて...」
脇腹を抑えたものの、すぐに跳ね起きた。
「クソはそっちだろうが! 舐めんなコラア!」
テーブルに手をかけた。四人用の木製だ。それを勢いよくひっくり返す。男の足元で破壊音が弾けた。
「ああああ」
世界が片手で額を抑えた。被害が拡大している。もう一度、謎の声がした。
「やっぱり帰ってもらうか」
肩を落としたまま世界が答える。
「うん。ちょっと遅かったけどね」
男と黒羽がにらみ合いしている。足元には箸やつまようじが醤油にまみれて転がる。
ふと黒羽はわずかな風を感じた。まるで肌の内側を撫でていくようだ。全身にむずがゆさが走る。初めての感覚だ。
目の前の男から勢いがなくなった。目つきがぼうっとしている。首を振った。
「お、覚えてろ」
小さく呟く。すかさず黒羽は怒鳴り返した。
「帰れ! てめえなんざ三秒で忘れてやるわ!」
全身を撫でる風が強くなった。突風になって内側を吹き抜ける。
男はどこかぼんやりしたまま、くるりと背を向けた。ちゃり、と瀬戸物の破片を踏んで外に出て行った。
かちゃ、と店内で何かが落ちた。厨房にいたモーモがカウンターに飛び乗ったのだ。一、二、三秒過ぎた。黒羽が目を瞬いた。びくっと肩が震える。きょろきょろ店内に目をやった。
「何? どうした、コレ! 地震?」
世界がぼそっと呟いた。
「今日は休業だな...」
黒羽はまだ落ち着かずに目線をあちこちに動かす。
ドアの後ろから白羽が言った。
「黒羽も参加してたじゃん...冗談キツイよ...」
「俺? え?」
「そうだよ。何を言ってんのさ」
白羽は怯えた目付きでモーモを見た。目が合うと急いで視線を逸らした。そんな双子をモーモが見比べる。ふん、と鼻を鳴らした。
店内は竜巻が通り過ぎた後のようだ。椅子とテーブルは全て倒れ、幾つかは折れてしまった。壁は染みだらけだし、あちこちが陥没している。世界はとりあえず粗大ごみと化したテーブルや椅子を端に寄せ始めた。
モーモが世界のそばに行って口を開いた。人間の言葉を話す。ずっと聞こえていた謎の声の主は彼だった。
「託宣を使おうとしたんだが。あいつら」
と、まだ厨房で言い合っている双子を指した。
「白羽は封じきれてないぞ。それに背の低い方...黒羽か。あっちは違うはずだろう。託宣場を作れそうもないのに、御託が有効になりやがった」
世界は腰を伸ばした。ふんわりと風のように微笑む。
「白羽と...黒羽も俺の可愛い弟だよ」
双子もそばにやって来た。黒羽が言う。
「手伝うぞ」
本気で自分の行動を忘れているようだ。世界が少し頬を歪めて苦笑した。
(自分で自分に御託を決めちゃうなんてね)
掃除用具の箒やモップは厨房の奥にある。それらを出して、三人でせっせと片付けを始めた。そのせいで晩御飯はかなり遅い時間になった上、オカズはおでんだけだった。だが誰も文句を言うはずもない。
以前は三十分の登校時間が三倍に伸びた。朝だけではなく、帰りも前よりは遅くなる。白羽が『いでみず』の近くまで戻ったのは七時近かった。晩御飯用にコンビニに寄ったりしたせいだ。
(あれ? 買っちゃったけど、良かったかな? 兄さんが作ってくれる? でも食費くらいはって黒羽が言ってたよな)
食事といえばほぼスーパーかコンビニ弁当だった。もはや習慣である。それぞれ買い出し当番の日を決めていた。その流れから三人分を買ってしまってから、世界が料理をする人だったと思い出した。それで色々と思い悩む白羽だった。まだ日は長いとはいえ、そろそろ空が暗くなり始めた。
電柱のそばにたたずむ人影が動く。
「そこのコ。見た顔だな」
三十代前半くらいだろうか。白いジャケットにジーパンというどこかちぐはぐな組み合わせだ。肩幅は広く、世界よりも背が高そうだ。胸元をはだけたアロハっぽい派手な色合いのシャツといい、いわゆる堅気ではない雰囲気だった。昨日『いでみず』で暴れた男だ。しかし白羽はまともに彼を見ていない。
「俺が分かるか?」
白羽は無言で首を振った。すぐに顔を背ける。すぐに去ろうとしたが、男は数歩付いて来た。
「へえ? 俺は怪しい者じゃない。『いでみず』の常連だよ。佐藤義彦ってんだ。聞いた事ないか?」
「いつもありがとうございます」
世界の客なら丁寧に接しなくては、と咄嗟にお礼の言葉が出た。
「今日は休みの札がかかってたから、何かなあって思ってたんだが」
じろじろと白羽を見下ろす。
「昨日はちょっと騒ぎがあったんです。それでしばらく休業します」
「その話、もっと聞かせてくれる? 場所を替えようか」
佐藤は白羽の腕を掴んだ。
「え? じゃあ兄さんに遅くなるって言ってから」
「ふーん。世界の弟か。似ているなあ。いいんだよ。静かな場所に行こう。車があっちにあるから」
そのままぐいぐいと引いて行こうとする。
「ま、待って」
抵抗するが、カバンとビニール袋を下げている。体の自由がきかないうえに、体格差ではどうしても勝てない。見知らぬ大人が車に乗せようとしている。これはヤバい、とさすがに白羽も焦った。
「話ならここでいいじゃないですか!」
「まあまあ。ゆっくり時間をかけよう」
こじんまりした家が並ぶ場所だ。しかし通勤帰りにはまだ早く、人通りはない。角を曲がれば大きな通りだ。黒い車が停まっているのが見えた。
「は、放して」
「うるせえな」
両肩をがっちり羽交い絞めにされた。右手が白羽の口を塞ぐ。
「こらあああ! 何をしやがる?」
絶叫が近所に響き渡った。黒羽が数歩駆けた。そして体を横にして飛び上がった。両足が佐藤に命中する。見事な飛び蹴りだ。あおりを食った白羽も一緒になって倒れた。
「ちょ、ちょっと! 黒羽、どうして俺まで蹴るんだ!」
「避けろ!」
「蹴ってから言うなぁ!」
佐藤が起き上がる。凶悪な表情だ。黒羽は兄の前に出た。ごく普通の路地だ。武器になるような物はない。白羽の持つビニール袋を奪おうとした。慌てて白羽が止める。
「ダメ! 投げようとしてるだろう! 食べ物を無駄にしたらバチが当たるよ」
「そんなの言ってる場合かぁ!」
「黒羽の勢いで行動する所って、本当に良くないよ」
「てめえ助けてもらってどの口が抜かす!」
義彦を置き去りにして、二人が口喧嘩を始めた。
近くで犬が吠える。不穏な気配を察したのだろう。激しく咆哮する。つられて離れた場所からも声がし始めた。それは次から次へと広がる。家人がなだめる声もする。そのうち人が外に出て来るかもしれない。
「黒羽、逃げよう」
「はあ? やんねえのか」
「犬を巻き込んでケンカしないでよ!」
これには黒羽も同意だ。犬の大合唱が轟いている。二人は一気に駆けだした。『いでみず』はもうすぐそこだ。
店の入り口には手書きで休業のお知らせが貼ってあるし、真っ暗だ。居住区の方から入った。息を切らせて駆けこんで来た二人に、台所にいた世界が目を丸くして振り返る。
「おかえり。そんなに急いでどうした?」
双子はぴたっと止まった。顔を見合わせる。それからおずおずと言った。
「た、ただいま...」
二人揃ってじ~んとその言葉を噛み締めているようだ。
「聞いたか白羽。『おかえり』だって! 世界がお出迎えだぞ!」
「うんうん。帰るってこういう事なんだね。『ただいま』って言っちゃったよ~。電気も点いてるし...」
あ、と世界が固まった。ただの帰宅の声かけだ。それすらもこの二人には与えられなかったのだ。その初体験に喜ぶ姿が初々しくて愛おしい。
(か、可愛い...)
長く出迎えの家族が居なかったのは世界も一緒だ。改めてこちらもじーんとした。店を壊されたのはそれでチャラとしよう。
「それでどうしたんだい?」
着替えて来た二人にお茶をすすめる。まだ古いジャージのままだ。
「こいつがチビガキでもねえのに誘拐されそうになってんだ」
「黒羽、一言余計だよ。だってここの常連だから着いて来いって言うんだもん」
「名乗ってたかな?」
「サトウヨシヒコって。よくある苗字だから本名か分からないけど。白いジャケットに派手なシャツ」
「ああ」
世界はため息をついた。
「本名だよ。佐藤義彦。昨日も来た奴だよ。元カレでね。振ったばっかりなんだ。納得してくれなくて腹いせに暴れたみたいだ」
え、と双子の表情がシンクロする。顔は似ていない。でもこういう動作がかぶるのは、やはり生まれる前から一緒だったせいなのか。それはとにかく、二人はやはり驚くだろうと世界は気がついた。
「俺はバイなんだ。言ってなかったよね。びっくりさせてごめん」
赤くなって俯く白羽と対照的に、黒羽はばっと顔を上げた。
「そうなんだ? いや俺は大歓迎だけど。...うっ」
横っ腹に白羽の肘うちが入った。眉をひそめてぶんぶん、と首を振る。微妙な個人の話を広げるな、という合図だ。その辺りは黒羽にも節度はある。腹を撫でながら尋ねた。
「何だってあんな暴力的なヤツと付き合ってたんだよ?」
「最初は優しかったんだよ。そのうちにレジのお金を黙って持って行ったり、スマホを勝手に覗いて他の連絡先を消したりするようになって。注意したら怒鳴るわ殴りかかってくるわ」
「普通にDV野郎じゃねえか!」
「う~ん。でも好きだって言われたから...」
「はああ? 好きって言ったらナニをしてもいいのかよ。じゃあ俺も言っちゃうぞ」
白羽の肘がまた動きそうになった。
スマホが鳴った。台所の方だ。世界はすぐには立ったが、取らない。呼び出しが止まるのを待ってから手に取った。しばらく画面を見ている。何か考えているようだ。しかし二人に向けたのはいつもの穏やかな笑顔だった。
「そういえば買い忘れがあったんだ。ちょっと出て来る」
白羽が腰を浮かせた。
「お使いなら、僕が行って来ます」
「いいよ。タバコなんだ。未成年にはお使いさせられないよ。テレビでも見ていて」
そして外へ出て行った。
黒羽が首をかしげた。台所へ行った。そして戻っても何か探しているようだ。
「どうしたの?」
「灰皿が無えな。店も禁煙だ」
「外で吸ってるのかもよ?」
「世界はタバコ臭くない」
喫煙者は服だけでなく髪にもにおいが移る。さらに本人には気が付きにくいが、室内全体や小物にまで焚き染めたようになるのだ。だがここでは何も感じなかった。
そういえばモーモも見当たらない。
(何か気になるな)
とまどう白羽を置いて黒羽も部屋を後にした。
店を出た世界は、大通りに向けて歩き始めた。スマホに目を落とす。きょろきょろした。家と家の間の狭い隙間から腕が伸びた。白いジャケットだ。ぐいっと世界を引き込む。佐藤義彦だった。
「昨日は落ち着いて話をしたかっただけだぞ」
「あれで?」
「俺を怒らせるな。お前が悪い」
ぐいっと壁に世界の肩を押し付ける。百八十センチほどの世界よりも目線が高い。
「俺の言う通りにしておけばいいんだよ。さもなけりゃもっと悪い事が起きるかもしれないぜ」
世界は軽く首を振った。
「前も言った通りだよ。ちゃんと別れよう。義彦にも悪い事が起きるよ」
「どんなだ?」
「これから考える」
「素直になれよ。まだ好きなんだろう?」
押さえつける力が強くなった。佐藤が体ごと世界に伸し掛かる。顔が近づいた。世界は顔を背けた。だが顔が近くに迫る。
「なあ...楽しかっただろう? そうだ、お前に似たチビがいたな。どうしても嫌だってんなら弟でもいいぞ」
道路と反対側に塀がある。そこにすっと白い影が乗った。モーモだ。猫というよりは、もっと重量のある動物のようにのしり、のしりと脚を動かす。世界と佐藤の姿を認めて耳を後ろに倒した。しゃっと口を開く。だがそこから音が出る前に、もっとやかましい声が轟いた。
「何だと? ふざけんな!」
黒羽だ。成人二人が何とか入り込んでいるような隙間に向かって飛び蹴りだ。避けようがない。義彦の胴体にきれいにヒットした。世界の前から義彦が倒れて消えた。
「俺でもいいだと? 願い下げだぁ!」
義彦が起き上がった。脇腹をさすっている。
「そりゃこっちのセリフだ」
黒羽も跳ね起きる。
「弟でもって言ったじゃねえか」
「てめえじゃねえよ、くそ野郎!」
「何だとしょんべんオヤジ! これだけ可愛い俺のどこが不満だ?」
不毛な舌戦が始まった。
モーモがため息をついた。箱座りになる。世界に話しかけた。
「このオチのない漫才、いつまで聞けばいい? もう終わらせるぞ」
「任せるよ」
モーモの背中が丸くなった。しゅう、と息を吐く。それが青い光となって円を描いた。内部に五つの角を持つ五芒星が現れる。それぞれの角に形の違う印がある。そのうちの一つ『土』が白くなった。
『我、土の宇志の名において天地の間に託宣の場を作る』
円が義彦の頭上に浮いた。そこから放つ光が彼を包む。そこに黒羽も足を踏み入れた。二人とも託宣の場が見えていない。モーモが次の言葉を口にする前に黒羽が怒鳴った。
「とっとと帰れ! 二度と世界に近づくな。箪笥の角に足の小指をぶつけてろ!」
光の輪がしゅっと縮んだ。光線となって義彦の体を貫く。と同時に彼の表情から毒気が抜けた。焦点が今一つ合わない目だ。無言で世界と黒羽の前を通り過ぎた。まだ蹴られた所が痛いのか、体を少し傾けながら歩み去った。
「ありゃ? 素直に帰ったな。蹴りが効いたか」
黒羽は世界に声をかけた。
「俺たちも帰ろうぜ。あ、モーモもいたのか」
ふうん、とモーモは鼻を鳴らした。
(また俺の託宣場を使って御託を決めたな)
それから二人の後を追った。世界は居住部ではなく、店の引き戸を開いた。既に店内は元通りだ。しかし、この時には黒羽はまるで状況を見ていなかった。薄暗いし、さっきの出来事で頭がいっぱいだった。世界の背中だけを見つめていた。
「戻ったぞ」
黒羽がリビングに声を掛ける。いや昨日の野郎がさ...などと白羽に伝える声が聞こえた。
家との境の扉を閉めて、世界が店の電気を点けた。エプロンを付けて厨房に入る。
「あの程度の悪い事なんて可愛いもんだね」
定位置らしいカウンターの上に飛び乗ったモーモは、箱座りから顎を前足に乗せた。
「中身の話じゃねえよ。黒羽の御託が有効になったって方だ。お前の弟と違って現人だろう。何の力も無いはず」
世界はふわっと笑った。部屋に聞こえないように小声で答える。
「胎内で一緒だったからね。白羽は強いし、体の発生段階から影響を受けたんじゃない? どこまでできるのか未知数だけど、少なくとも場があれば託宣が使えるんだね。本人には教えるつもりはないよ。黒羽が居る場所では気を付けないと」
鍋からがんもどきを小皿によそった。おでんは季節問わずに煮込んである。
白羽が顔を出した。店の様子を窺って一瞬息を呑んだ。なるべく普通に声を掛けようとしたが、すこし語尾が震えた。
「兄さん、忙しい? ご飯を一緒にどうかな、と思って...。買ってきちゃったんです」
まだ気を使っている。敬語交じりの妙な言葉使いだ。
「ああ行くよ」
小皿を持って居住部に行った。モーモも着いて来る。
和室にちゃぶ台が出ていた。コンビニのお弁当とカップの味噌汁が三人分用意されている。
「あの...兄さんは料理をするんですよね。晩御飯も作るだろうけど、ついいつもの癖で」
「ああ、ありがとう。今日まで休業だからおでん以外は無かったんだ。それにコンビニのご飯って、時々とても食べたくなるよね」
そうそう、と世界は台所に立った。食器棚から二膳の箸を出す。白と黒だ。
「お茶碗や箸を用意したよ。名前にちなんだ色にしてみた。良ければ使って」
二人の動きが止まった。白羽の目がみるみる潤んだ。世界が焦る。
「勝手に選んで悪かったかな?」
「違う~」
ぽろっと涙がこぼれた。歯を食いしばり、腕で目をこする。小さな子供のようにしゃくりあげた。話ができそうもない。黒羽も唇を噛み締めていたが、にっこり笑った。
「ありがとう世界。家族でご飯つーか、団らんつーか、そういうのが始まったんだよな。本当に嬉しいんだ。な、白羽。泣くなよ」
うんうん、と声にならずに白羽が頷く。
「営業中はこうはいかないけどね~」
二人の感激ぶりに少々引いてしまった世界だった。がんもどきを頬張るモーモが呟いた。
「家族とやらができたんだ。もう変なヤツに引っかかるな。付き合う相手を選べよ」
泣いていた白羽の肩が震えた。目が丸くなる。
「しゃ、喋ったよ! 牛が!」
黒羽は弁当の蓋を開けていた。
「うん。何だかニャアニャアよく鳴くヤツだよな。じゃあいただきま~す」
食事を始めた他の面々とは違い、白羽はすぐに手を付けなかった。少し赤くなった目で店の方を気にしている。先ほど見た時、すぐにでも営業が始められそうな状態に戻っていた。テーブルや椅子は買えば何とかなるだろう。しかし汚れたり、穴が開いた壁まで元通りなのだ。破れた手書きメニューも以前の通りだ。修繕が速すぎる。釈然としない事がまた増えた。
「白羽、どうした?」
黒羽が顔を覗き込む。
「胸がいっぱいで腹も詰まったか?」
「違うよ」
無邪気な黒羽を見て、それから白い箸を取った。
その頃の佐藤義彦。家に戻ったものの、歩く度に家具に足の小指をぶつけていた。そして二度と『いでみず』に現れず、世界の元からも去った。
こんにちは!
設定が色々と面倒ですが(すみません)コミカルな感じを楽しんでいただければ嬉しいです!




